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第七十五話 垂直展開① 情報戦
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ガルニア帝国軍は、アルテア王国の東部辺境に広がる広大な平野を進んでいた。
総司令官ドルガンは、先日の不可解な敗走の記憶を振り払うかのように、馬上から鋭い視線を前方に送っていた。皇帝直々に再出撃を命じられ、彼のプライドはもはや後退を許さなかった。
(……おかしい)
だが、彼の第六感が再び警鐘を鳴らしていた。
進軍があまりにも順調すぎるのだ。アルテア軍の抵抗は皆無。まるで無人の荒野を進んでいるかのようだ。
そして何より奇妙なのは、天候だった。
空は晴れている。だが、自分たちの頭上にだけ、まるで巨大な傘を広げたかのように薄暗く湿った霧がまとわりついて離れない。視界は悪く、兵士たちの士気はじわじわと削られていた。
「斥候からの報告は!」
ドルガンが苛立たしげに叫ぶ。
「はっ! 前方、異常なし! ただ、進めば進むほど霧が濃くなっているとのことです!」
その報告を聞いていた軍属の魔術師が、顔を青くして進言した。
「将軍閣下! これは自然の霧ではございません! 極めて広範囲にわたる大規模な天候操作魔法の可能性があります!」
「馬鹿な! 十万の軍勢を覆うほどの魔法など、神でもなければ不可能だ!」
ドルガンは一蹴した。だが、彼の心の奥底ではあの『蝿の王』の悪夢が蘇っていた。
その頃。
俺の脳内には、神の視点(ゴッドビュー)が広がっていた。
成層圏に浮かぶ【テンペストアイ】の群れが捉えた、帝国軍の完璧な鳥瞰映像。それはもはやただの映像ではなかった。
『部隊A(重装歩兵)、士気レベル72%に低下。脱水症状の兆候あり』
『部隊B(騎馬隊)、進路前方の地面、含水率85%超。ぬかるみによる行軍速度低下を予測』
『指揮官ドルガン、心拍数上昇。ストレスレベル、危険域に接近中』
兵士一人一人の生体情報までがリアルタイムで解析され、データ化されていく。
彼らは、自分たちが巨大な実験室の中を歩くモルモットになっていることに全く気づいていない。
これが、俺の仕掛ける情報戦の第一段階だった。
敵の全てを一方的に『視る』。
そして、こちらの意図は一切『視せない』。
「……ふむ。そろそろ次の段階に進むか」
俺は、ベッドの上で寝返りを打ちながら思考した。
霧で視界を奪い、湿地帯で体力を奪う。それだけではまだ生ぬるい。彼らの『統制』そのものを破壊する必要がある。
俺は、かつてゼクスや『囁き』を撃退した【絶対安寧空間創造システム】の一部機能を、この平野全体に超広域で展開させた。
オプションB、【不協和音響】。
ただし、今回は個人を狙うピンポイント攻撃ではない。
十万の軍勢全体に、ランダムに、そして断続的に不快な音波を浴びせかける。
平野のあちこちで、帝国兵が突如として耳を塞ぎ、苦悶の表情を浮かべ始めた。
「ぐっ……! まただ!」
「なんだ、この耳鳴りは!」
それはほんの数秒で消える。そして、忘れた頃にまた別の場所で発生する。
原因不明の不快な現象は、兵士たちの間にじわじわと疑心暗鬼と恐怖を植え付けていった。
さらに、俺は【幻覚投影】システムも応用的に使用した。
兵士の誰かが、ふと遠くの森に目をやる。
すると、そこにはいるはずのないアルテア王国の騎士団の幻が、一瞬だけ映って消える。
「て、敵襲! 森の中に敵影!」
その声に周囲の部隊が緊張し、臨戦態勢に入る。だが、そこには風に揺れる木々があるだけ。
「見間違いか……?」
そんなことが、平野の各所で同時に、しかしランダムに発生し始めた。
存在しない敵影。聞こえるはずのない喊声。
兵士たちの神経はすり減っていく。誰もが、何かに見られているような、監視されているような、悪意に満ちた視線を感じ始めていた。
「落ち着け! うろたえるな! 全て敵の幻術だ!」
ドルガンは必死に軍の統制を保とうと叫ぶ。
だが、彼のその声すらも兵士たちの耳にはどこか遠く、頼りなく響いていた。
軍という組織は、情報伝達の正確さと指揮系統への信頼によって成り立っている。
俺は、その両方を内側から静かに破壊し始めていた。
視覚と聴覚。
人間が外界を認識するための最も基本的な感覚。
その両方を、俺は完全に掌握していた。
「……面白い」
俺は、脳内に広がる混乱していく帝国軍の様子を、まるで箱庭のシミュレーションゲームを眺めるかのように冷静に観察していた。
その神の遊びのような光景を、リノはラボの中で畏怖と興奮に打ち震えながら見つめていた。
水晶玉に映し出される無数のデータ。それは、十万の人間心理が一つの巨大な意志によって完璧にコントロールされていく様を、克明に記録していた。
「……すごい。マスターは、軍隊と戦っているのではない。情報そのものと戦っておられるのだ。いや、戦いですらない。これは指揮。オーケストラの指揮者が楽器を奏でるように、十万の兵士の『心』を奏でておられる」
彼女は、羊皮紙に震える字で書き記した。
『神は、まず言葉(ロゴス)を以て敵を支配した』
その頃、アリアは村の城壁と化した【オートウォール】の上から、遠くの平野を睨みつけていた。
彼女の目には濃い霧しか見えない。
だが、彼女の研ぎ澄まされた騎士の感覚は、その霧の向こうで帝国の巨大な力がじわじわと、しかし確実に蝕まれていくのを感じ取っていた。
「……国父様の静かなる戦いが始まっている」
彼女は静かに剣を抜き、祈りを捧げた。
俺は、ベッドの上で一つ大きな欠伸をした。
そろそろ昼寝の時間だ。
(……まあ、あとはこのまま放置しておけば、勝手に自滅してくれるだろう。楽でいいな)
俺の究極に怠惰な情報戦。
それは、血も硝煙も剣戟の音もない、あまりにも静かな、しかしどんな殲滅よりも残酷な一方的蹂躙劇の始まりだった。
総司令官ドルガンは、先日の不可解な敗走の記憶を振り払うかのように、馬上から鋭い視線を前方に送っていた。皇帝直々に再出撃を命じられ、彼のプライドはもはや後退を許さなかった。
(……おかしい)
だが、彼の第六感が再び警鐘を鳴らしていた。
進軍があまりにも順調すぎるのだ。アルテア軍の抵抗は皆無。まるで無人の荒野を進んでいるかのようだ。
そして何より奇妙なのは、天候だった。
空は晴れている。だが、自分たちの頭上にだけ、まるで巨大な傘を広げたかのように薄暗く湿った霧がまとわりついて離れない。視界は悪く、兵士たちの士気はじわじわと削られていた。
「斥候からの報告は!」
ドルガンが苛立たしげに叫ぶ。
「はっ! 前方、異常なし! ただ、進めば進むほど霧が濃くなっているとのことです!」
その報告を聞いていた軍属の魔術師が、顔を青くして進言した。
「将軍閣下! これは自然の霧ではございません! 極めて広範囲にわたる大規模な天候操作魔法の可能性があります!」
「馬鹿な! 十万の軍勢を覆うほどの魔法など、神でもなければ不可能だ!」
ドルガンは一蹴した。だが、彼の心の奥底ではあの『蝿の王』の悪夢が蘇っていた。
その頃。
俺の脳内には、神の視点(ゴッドビュー)が広がっていた。
成層圏に浮かぶ【テンペストアイ】の群れが捉えた、帝国軍の完璧な鳥瞰映像。それはもはやただの映像ではなかった。
『部隊A(重装歩兵)、士気レベル72%に低下。脱水症状の兆候あり』
『部隊B(騎馬隊)、進路前方の地面、含水率85%超。ぬかるみによる行軍速度低下を予測』
『指揮官ドルガン、心拍数上昇。ストレスレベル、危険域に接近中』
兵士一人一人の生体情報までがリアルタイムで解析され、データ化されていく。
彼らは、自分たちが巨大な実験室の中を歩くモルモットになっていることに全く気づいていない。
これが、俺の仕掛ける情報戦の第一段階だった。
敵の全てを一方的に『視る』。
そして、こちらの意図は一切『視せない』。
「……ふむ。そろそろ次の段階に進むか」
俺は、ベッドの上で寝返りを打ちながら思考した。
霧で視界を奪い、湿地帯で体力を奪う。それだけではまだ生ぬるい。彼らの『統制』そのものを破壊する必要がある。
俺は、かつてゼクスや『囁き』を撃退した【絶対安寧空間創造システム】の一部機能を、この平野全体に超広域で展開させた。
オプションB、【不協和音響】。
ただし、今回は個人を狙うピンポイント攻撃ではない。
十万の軍勢全体に、ランダムに、そして断続的に不快な音波を浴びせかける。
平野のあちこちで、帝国兵が突如として耳を塞ぎ、苦悶の表情を浮かべ始めた。
「ぐっ……! まただ!」
「なんだ、この耳鳴りは!」
それはほんの数秒で消える。そして、忘れた頃にまた別の場所で発生する。
原因不明の不快な現象は、兵士たちの間にじわじわと疑心暗鬼と恐怖を植え付けていった。
さらに、俺は【幻覚投影】システムも応用的に使用した。
兵士の誰かが、ふと遠くの森に目をやる。
すると、そこにはいるはずのないアルテア王国の騎士団の幻が、一瞬だけ映って消える。
「て、敵襲! 森の中に敵影!」
その声に周囲の部隊が緊張し、臨戦態勢に入る。だが、そこには風に揺れる木々があるだけ。
「見間違いか……?」
そんなことが、平野の各所で同時に、しかしランダムに発生し始めた。
存在しない敵影。聞こえるはずのない喊声。
兵士たちの神経はすり減っていく。誰もが、何かに見られているような、監視されているような、悪意に満ちた視線を感じ始めていた。
「落ち着け! うろたえるな! 全て敵の幻術だ!」
ドルガンは必死に軍の統制を保とうと叫ぶ。
だが、彼のその声すらも兵士たちの耳にはどこか遠く、頼りなく響いていた。
軍という組織は、情報伝達の正確さと指揮系統への信頼によって成り立っている。
俺は、その両方を内側から静かに破壊し始めていた。
視覚と聴覚。
人間が外界を認識するための最も基本的な感覚。
その両方を、俺は完全に掌握していた。
「……面白い」
俺は、脳内に広がる混乱していく帝国軍の様子を、まるで箱庭のシミュレーションゲームを眺めるかのように冷静に観察していた。
その神の遊びのような光景を、リノはラボの中で畏怖と興奮に打ち震えながら見つめていた。
水晶玉に映し出される無数のデータ。それは、十万の人間心理が一つの巨大な意志によって完璧にコントロールされていく様を、克明に記録していた。
「……すごい。マスターは、軍隊と戦っているのではない。情報そのものと戦っておられるのだ。いや、戦いですらない。これは指揮。オーケストラの指揮者が楽器を奏でるように、十万の兵士の『心』を奏でておられる」
彼女は、羊皮紙に震える字で書き記した。
『神は、まず言葉(ロゴス)を以て敵を支配した』
その頃、アリアは村の城壁と化した【オートウォール】の上から、遠くの平野を睨みつけていた。
彼女の目には濃い霧しか見えない。
だが、彼女の研ぎ澄まされた騎士の感覚は、その霧の向こうで帝国の巨大な力がじわじわと、しかし確実に蝕まれていくのを感じ取っていた。
「……国父様の静かなる戦いが始まっている」
彼女は静かに剣を抜き、祈りを捧げた。
俺は、ベッドの上で一つ大きな欠伸をした。
そろそろ昼寝の時間だ。
(……まあ、あとはこのまま放置しておけば、勝手に自滅してくれるだろう。楽でいいな)
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