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第八十八話 伝説の始まり
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俺の知らないところで、俺の伝説は凄まじい勢いで独り歩きを始めていた。
王都の広場には巨大な石碑が建てられた。『沈黙の英雄、国父レイジ・ノノマドを讃える碑』と刻まれ、そこには吟遊詩人が歌う叙事詩の一節が金文字で彫り込まれている。子供たちはその石碑の前で、俺を模したとされる木彫りの人形(フードを深く被り、なぜか杖を持っている)で遊んでいた。
商業都市『レイジ・シティ』では、俺の誕生日(もちろん誰も知らないので、適当に『道が生まれた日』とされている)が祝日となり、盛大な祭りが行われるようになった。商人たちは売り上げの一部を『国父様への感謝税』として自主的に納め、その金はアリアが管理する復興基金へと回された。
『賢者の恵み』シリーズは、もはやただの高級品ではなかった。そのラベルに描かれた俺の(とされる)シルエットは品質と信頼の証となり、遠い異国との間でも高値で取引されるようになった。
俺は、ただ寝ていただけなのだが。
この国家規模の熱狂は、当然俺の生活にも間接的な影響を及ぼし始めていた。
一番の変化は、供物の質と量だった。
国王からの贈り物は、もはや日常茶飯事となった。王国最高の職人が作った家具、異国から取り寄せられた珍しい食材、肌触りの良い極上の寝間着。俺の家は俺が何もしなくても、世界最高の品々で勝手に満たされていった。
アリアは、俺の『聖域』の管理者としてその辣腕を振るっていた。彼女は俺の家の周囲に美しい庭園を造営し始めたのだ。「国父様が、その深遠なる思索の合間に心を休めていただくため」という、彼女なりの配慮らしい。もちろん庭の手入れは、彼女が率いる聖騎士団が日々の鍛錬の一環として行っている。俺の手間は一切ない。
リノは、俺の(自称)一番弟子として、俺が生み出した技術の解析とその一部を民間に還元するという『研究』に没頭していた。
彼女は、俺の【全自動農園】のシステムの一部を解析・簡略化し、村人たちが使える『魔法の肥料』を開発した。それを撒くだけで、どんな痩せた土地でも収穫量が三倍になるという代物だ。アルテア王国の食糧生産量は飛躍的に増大した。
もちろん、彼女は俺に許可など取っていない。「マスターの偉業を、愚かな民にも理解できる形に翻訳して差し上げるのが私の役目です」と勝手に解釈して、勝手にやっているだけだ。
俺の怠惰な生活は、もはや俺一人のものではなくなっていた。
俺の個人的な快適さの追求の副産物が、俺の知らぬ間にこの国の形を豊かに、そして力強く作り変えていたのだ。
そして、その全ての勘違いと伝説の集大成とも言える日が、ついにやってきた。
国王オルデウスからの二度目の、そして最大限の敬意を払った『謁見の願い』だった。
もちろん、俺を王都へ召喚するのではない。王自らがこの東の聖地へ巡幸するというのだ。
その報せをアリアが、緊張と興奮の入り混じった表情で俺に伝えに来た。
「国父様! 我が父、国王陛下がこの度の勝利の感謝を直々に申し上げたいと! 数日のうちに、この村へお越しになります!」
俺は、ベッドの上で開発したてのメロンソーダを飲みながら、その報せを聞いた。
(……はぁ。王様が来るのか。面倒くさいな)
それが俺の正直な感想だった。
会いたくない。絶対に会いたくない。
またあの勅使の時みたいに、家の前で大声を出されたらたまったものではない。
俺は、即座に居留守を使うことを決めた。
アリアは、そんな俺の心の内など知る由もなく、目を輝かせながら続けていた。
「もちろん、国父様のお手を煩わせるようなことは一切いたしません! 父上はただ、この聖地の空気を吸い、遠くからあの方の住まう館に一礼を捧げるだけで満足なのだと! ですが、もし万が一、国父様がほんの一瞬でもお姿をお見せくだされば……」
彼女の期待に満ちた視線が俺に突き刺さる。
俺は、メロンソーダの最後の一口を飲み干すと、静かに、そしてきっぱりと言った。
「……断る」
そのあまりにも素っ気ない返答に、アリアの表情がわずかに曇った。
だが、彼女はもはや以前のアリアではなかった。
彼女はすぐに何かを悟ったように、深く、そして敬虔に頷いた。
(……そうか。そうだった。あの方は王ですら特別扱いされない。あの方の前では王も民も等しく、ただの『人』に過ぎないのだ。なんと、なんと公平無私な御心。父上がこの地に来られても、あの方はきっといつも通り、この場所で世界の未来を思索されるだけなのだ)
彼女の脳内で、俺のただの面倒くさがりは絶対的な公平性の象徴へと見事に変換された。
「……承知いたしました。父上にも、国父様のお考えをありのままお伝えいたします」
彼女はそう言うと、静かに部屋を退出していった。
数日後。
国王オルデウスの行列が村に到着した。
村人たちは道の両脇にひれ伏し、王の巡幸を出迎えた。
王はアリアの案内で、俺の家の聖騎士団が警備する境界線の前までやってきた。
そして古びた、しかし今や神殿のようにも見える我が家を遠くからじっと見つめた。
家の中からは何の物音もしない。
主人が自分に会う気など全くないことを、王は悟った。
だが、彼の顔に怒りや失望の色はなかった。
むしろ、安堵したような穏やかな表情をしていた。
(……それでいいのだ)
彼は心の中で呟いた。
(神は気まぐれで、そして人の思惑の通りには動かぬもの。それでこそ神なのだ)
彼はその場で馬から降りた。
そして王冠を脱ぎ、一人の人間として泥のついた地面に深く、深く膝をついた。
「国父レイジ・ノノマドよ」
王の静かだが国中に響き渡るかのような声が、響いた。
「この度の救国の御業、アルテア王国国王オルデウスの名において、心より感謝を申し上げる。貴殿の静寂を、我らは永久に守護することをここに誓おう」
彼は長い時間、頭を下げ続けた。
その姿は、王国の全ての民の感謝の気持ちを代弁しているかのようだった。
その歴史的な瞬間に。
全ての感謝と信仰を捧げられていた男は。
『天使の寝床』の中で、完璧な防音対策を施した寝室で、外の騒ぎなど全く気づかずにいびきをかいて寝ていた。
伝説は、こうして始まる。
英雄の不在の中で、人々の想いだけがその物語をより大きく、より神々しく紡いでいく。
俺の最も偉大な伝説の一つ、『国王の謁見を、寝過ごしてすっぽかした男』の物語は、この日、静かに、そして壮大にその幕を開けたのだった。
王都の広場には巨大な石碑が建てられた。『沈黙の英雄、国父レイジ・ノノマドを讃える碑』と刻まれ、そこには吟遊詩人が歌う叙事詩の一節が金文字で彫り込まれている。子供たちはその石碑の前で、俺を模したとされる木彫りの人形(フードを深く被り、なぜか杖を持っている)で遊んでいた。
商業都市『レイジ・シティ』では、俺の誕生日(もちろん誰も知らないので、適当に『道が生まれた日』とされている)が祝日となり、盛大な祭りが行われるようになった。商人たちは売り上げの一部を『国父様への感謝税』として自主的に納め、その金はアリアが管理する復興基金へと回された。
『賢者の恵み』シリーズは、もはやただの高級品ではなかった。そのラベルに描かれた俺の(とされる)シルエットは品質と信頼の証となり、遠い異国との間でも高値で取引されるようになった。
俺は、ただ寝ていただけなのだが。
この国家規模の熱狂は、当然俺の生活にも間接的な影響を及ぼし始めていた。
一番の変化は、供物の質と量だった。
国王からの贈り物は、もはや日常茶飯事となった。王国最高の職人が作った家具、異国から取り寄せられた珍しい食材、肌触りの良い極上の寝間着。俺の家は俺が何もしなくても、世界最高の品々で勝手に満たされていった。
アリアは、俺の『聖域』の管理者としてその辣腕を振るっていた。彼女は俺の家の周囲に美しい庭園を造営し始めたのだ。「国父様が、その深遠なる思索の合間に心を休めていただくため」という、彼女なりの配慮らしい。もちろん庭の手入れは、彼女が率いる聖騎士団が日々の鍛錬の一環として行っている。俺の手間は一切ない。
リノは、俺の(自称)一番弟子として、俺が生み出した技術の解析とその一部を民間に還元するという『研究』に没頭していた。
彼女は、俺の【全自動農園】のシステムの一部を解析・簡略化し、村人たちが使える『魔法の肥料』を開発した。それを撒くだけで、どんな痩せた土地でも収穫量が三倍になるという代物だ。アルテア王国の食糧生産量は飛躍的に増大した。
もちろん、彼女は俺に許可など取っていない。「マスターの偉業を、愚かな民にも理解できる形に翻訳して差し上げるのが私の役目です」と勝手に解釈して、勝手にやっているだけだ。
俺の怠惰な生活は、もはや俺一人のものではなくなっていた。
俺の個人的な快適さの追求の副産物が、俺の知らぬ間にこの国の形を豊かに、そして力強く作り変えていたのだ。
そして、その全ての勘違いと伝説の集大成とも言える日が、ついにやってきた。
国王オルデウスからの二度目の、そして最大限の敬意を払った『謁見の願い』だった。
もちろん、俺を王都へ召喚するのではない。王自らがこの東の聖地へ巡幸するというのだ。
その報せをアリアが、緊張と興奮の入り混じった表情で俺に伝えに来た。
「国父様! 我が父、国王陛下がこの度の勝利の感謝を直々に申し上げたいと! 数日のうちに、この村へお越しになります!」
俺は、ベッドの上で開発したてのメロンソーダを飲みながら、その報せを聞いた。
(……はぁ。王様が来るのか。面倒くさいな)
それが俺の正直な感想だった。
会いたくない。絶対に会いたくない。
またあの勅使の時みたいに、家の前で大声を出されたらたまったものではない。
俺は、即座に居留守を使うことを決めた。
アリアは、そんな俺の心の内など知る由もなく、目を輝かせながら続けていた。
「もちろん、国父様のお手を煩わせるようなことは一切いたしません! 父上はただ、この聖地の空気を吸い、遠くからあの方の住まう館に一礼を捧げるだけで満足なのだと! ですが、もし万が一、国父様がほんの一瞬でもお姿をお見せくだされば……」
彼女の期待に満ちた視線が俺に突き刺さる。
俺は、メロンソーダの最後の一口を飲み干すと、静かに、そしてきっぱりと言った。
「……断る」
そのあまりにも素っ気ない返答に、アリアの表情がわずかに曇った。
だが、彼女はもはや以前のアリアではなかった。
彼女はすぐに何かを悟ったように、深く、そして敬虔に頷いた。
(……そうか。そうだった。あの方は王ですら特別扱いされない。あの方の前では王も民も等しく、ただの『人』に過ぎないのだ。なんと、なんと公平無私な御心。父上がこの地に来られても、あの方はきっといつも通り、この場所で世界の未来を思索されるだけなのだ)
彼女の脳内で、俺のただの面倒くさがりは絶対的な公平性の象徴へと見事に変換された。
「……承知いたしました。父上にも、国父様のお考えをありのままお伝えいたします」
彼女はそう言うと、静かに部屋を退出していった。
数日後。
国王オルデウスの行列が村に到着した。
村人たちは道の両脇にひれ伏し、王の巡幸を出迎えた。
王はアリアの案内で、俺の家の聖騎士団が警備する境界線の前までやってきた。
そして古びた、しかし今や神殿のようにも見える我が家を遠くからじっと見つめた。
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そして王冠を脱ぎ、一人の人間として泥のついた地面に深く、深く膝をついた。
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彼は長い時間、頭を下げ続けた。
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