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第36話 沼の主ヒュドラ
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紫色の沼から姿を現したヒュドラは、九つの蛇の首を鎌首もたげ、威嚇するように嘶いた。その巨体は小山のごとく、ぬらぬらと光る鱗は並大抵の剣を受け付けないであろう頑強さを示している。Aランク級の魔物。その圧倒的な存在感は、ゴブリンキングなどとは比較にもならなかった。
「……おいおい、聞いてた話と違うじゃねえか。調査依頼だったはずが、いつの間にか討伐依頼に変わってるぞ」
ソフィ-アが、長剣を抜き放ちながら軽口を叩いた。だが、その顔に浮かぶ笑みは引きつっている。目の前の敵が、自分たちの実力を遥かに超えた強敵であることは、嫌でも理解できた。
「ギルドマスターめ、分かってて俺たちを送り込んだな」
アレンも、厳しい表情でヒュドラを見据えていた。瘴気の原因が、このヒュドラであることは間違いない。強力な毒と再生能力を持つこの魔物こそが、沼全体を汚染していたのだ。
ヒュドラの九つの首が一斉に動き、口から紫色の毒液を弾丸のように吐き出した。
「散れ!」
アレンの鋭い指示が飛ぶ。
三人は同時に左右へと飛び退き、毒液を回避した。毒液が着弾した地面は、ジュッと音を立てて溶け、白煙を上げている。まともに食らえば、鎧ごと体を溶かされかねない。
「カイ!動きを止められるか!」
「……やってみる!」
カイは短く答えると、その姿を掻き消した。彼はアレンが作り出した聖域の縁を、高速で駆け抜ける。ヒュドラの巨体は、その動きを目で追うことができない。
カイはヒュドラの死角に回り込むと、両手に持った短剣を、その太い尾の付け根に深々と突き立てた。
「ギシャアアア!」
ヒュドラが、苦痛と怒りの咆哮を上げた。しかし、カイの狙いはダメージを与えることではない。突き立てた短剣には、強力な麻痺毒が塗られていた。
だが、ヒュドラの巨体には、その程度の毒は気休めにしかならなかった。ヒュドラの一つの首が、鞭のようにしなり、カイがいた場所を薙ぎ払う。カイは紙一重でそれを回避したが、その衝撃で体勢を崩した。
「そこだ!」
ソフィアが、その隙を見逃さずに突進した。彼女の体は、アレンの《オーバーヒール・ブースト》によって蒼い光を纏っている。
「奥義!《クリムゾン・ファング》!」
渾身の一撃が、ヒュドラの胴体に最も近い首の根元に叩き込まれた。
ザンッ、と重い手応え。
ソフィアの剣は、見事にヒュドラの首の一本を斬り落とした。切断された首が宙を舞い、紫色の血飛沫を撒き散らしながら沼へと落ちる。
「やったか!?」
ソフィ-アが、荒い息をつきながら叫んだ。
だが、アレンの顔は険しいままだった。
「違う!傷口を見ろ!」
ソフィアが言われてヒュドラの首の断面を見ると、そこでは信じられない光景が繰り広げられていた。
傷口から、肉がぶくぶくと泡立つように盛り上がり、瞬く間に新しい首が二本、再生してきたのだ。一本斬ったはずが、今や十本の首が、より激しい怒りを込めて彼らを睨みつけている。
「なっ……!これが、ヒュドラの再生能力……!」
ソフィアは愕然とした。これでは、いくら攻撃してもキリがない。どころか、攻撃すればするほど、敵は強くなっていく。
「アレン!どうする!何か手は無いのか!」
ソフィアが、焦りの声を上げる。
アレンは、冷静だった。彼は、ヒュドラの傷口で起きている現象を、ヒーラーとしての目で注意深く観察していた。
細胞が、異常な速度で増殖し、再生していく。その原理は、彼が使う《ヒール》とよく似ていた。傷を『治す』のではなく、新しい肉体で『補う』力。
(……待てよ。治す力。再生する力。もし、それを逆手に取るとしたら……)
アレンの脳裏に、一つの途方もない仮説が閃いた。
回復魔法を、反転させる。
治癒ではなく、破壊のために使う。
もし、敵の再生能力そのものを暴走させることができたなら……?
それは、あまりにも常識外れな発想だった。回復魔法は、生命力を与え、秩序をもたらすためのもの。それを破壊に使うなど、神への冒涜にも等しい行為だ。
だが、今の彼には、その禁忌を犯すだけの覚悟と、それを可能にするだけの力が備わっていた。
「ソフィア、カイ!もう一度、首を斬れ!できるだけ大きな傷口を作ってくれ!」
アレンが、決意を込めて叫んだ。
「正気か!?また首が増えるだけだぞ!」
「いいからやれ!俺を信じろ!」
その有無を言わせぬ力強い声に、ソフィアとカイは一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた。
「……分かった!あんたがそこまで言うなら、乗ってやる!」
「……任せろ」
二人は再びヒュドラへと突撃した。カイが陽動で注意を引きつけ、その隙にソフィアが渾身の一撃を叩き込む。
再び、ヒュドラの首が一本、斬り落とされた。
巨大な傷口が、空気に晒される。
「今だ!」
アレンは、その傷口に全ての意識を集中させた。そして、彼が持つ回復魔法の概念を、根底から覆す。
通常の《ヒール》は、対象の細胞に働きかけ、その治癒活動を『促進』させる。
だが、アレンが今から放つのは、それとは全く異なる魔法だった。
彼は、自身の莫大な魔力を、純粋な『生命エネルギーの塊』として練り上げた。そして、それをヒュドラの傷口へと叩きつける。
それは、治癒ではない。無秩序なエネルギーの、一方的な注入だ。
「喰らえ……!《オーバーヒール・ペイン》!」
アレンの掌から、緑色でありながら、どこか禍々しさを帯びた光の奔流が放たれた。
光は、矢のように飛翔し、寸分の狂いもなくヒュドラの傷口へと吸い込まれていく。
「ギ……ギギ……?」
ヒュドラは、何が起きたのか分からないといった様子で、自分の傷口を見た。
そこでは、先程と同じように、肉が盛り上がり、再生が始まっていた。
しかし、その様子は明らかにおかしかった。
再生の速度が、異常なのだ。
肉は、首の形を成すことなく、ただ無秩序に、爆発的に増殖していく。ぶくぶくと、醜悪な肉腫が傷口から溢れ出し、見る間に巨大化していく。
「ギシャアアアアア!?ギギギギ……!」
ヒュドラは、自らの体内で起きている異変に、苦痛と混乱の絶叫を上げた。
再生能力が、アレンによって暴走させられたのだ。
体の治癒システムが、制御不能に陥り、自らの体を内側から食い破り始めた。
肉腫は、ヒュドラ本体から養分を吸い上げて、さらに巨大化していく。それはもはや、再生ではなく、悪性の腫瘍、つまり『癌』そのものだった。
やがて、肉腫はヒュドラの胴体よりも大きく膨れ上がり、その重さに耐えきれなくなったヒュドラの巨体は、ぐらりと傾いた。
そして、醜悪な肉の塊は、自らの重みで派手な音を立てて破裂した。
沼の主は、敵の攻撃ではなく、自らの再生能力によって、自滅したのだ。
後に残ったのは、元のヒュドラの半分ほどの大きさになった亡骸と、飛び散った肉片だけだった。
「…………」
ソフィアも、カイも、そのあまりにも異様で、そして残酷な光景に、言葉を失っていた。
あれほどの強敵を、傷一つ負うことなく倒した。だが、その勝ち方に、爽快感はなかった。ただ、アレンという男の力の底知れなさに、改めて戦慄するだけだった。
アレンは、荒い息をつきながら、その場に膝をついた。今の魔法は、精神的な消耗が尋常ではなかった。
彼は、自分の掌を見つめた。
生命を育むはずの回復魔法で、生命を最も醜い形で破壊してしまった。その事実に、彼の心は重く沈んでいた。
だが、彼は顔を上げた。
これで、沼の呪いは解ける。村に平穏が戻る。
そのために、この手は汚さなければならなかったのだ。
「……帰ろう」
アレンは、二人の仲間に向かって、静かに言った。
「俺たちの、勝ちだ」
彼の声は、少しだけ震えていた。
Cランクへの昇格試験は、誰も予想しなかった形で、完璧な勝利で幕を閉じた。
しかし、この勝利は、アレンの心に、新たな葛藤と、力の代償という重い十字架を刻み込むことになった。
「……おいおい、聞いてた話と違うじゃねえか。調査依頼だったはずが、いつの間にか討伐依頼に変わってるぞ」
ソフィ-アが、長剣を抜き放ちながら軽口を叩いた。だが、その顔に浮かぶ笑みは引きつっている。目の前の敵が、自分たちの実力を遥かに超えた強敵であることは、嫌でも理解できた。
「ギルドマスターめ、分かってて俺たちを送り込んだな」
アレンも、厳しい表情でヒュドラを見据えていた。瘴気の原因が、このヒュドラであることは間違いない。強力な毒と再生能力を持つこの魔物こそが、沼全体を汚染していたのだ。
ヒュドラの九つの首が一斉に動き、口から紫色の毒液を弾丸のように吐き出した。
「散れ!」
アレンの鋭い指示が飛ぶ。
三人は同時に左右へと飛び退き、毒液を回避した。毒液が着弾した地面は、ジュッと音を立てて溶け、白煙を上げている。まともに食らえば、鎧ごと体を溶かされかねない。
「カイ!動きを止められるか!」
「……やってみる!」
カイは短く答えると、その姿を掻き消した。彼はアレンが作り出した聖域の縁を、高速で駆け抜ける。ヒュドラの巨体は、その動きを目で追うことができない。
カイはヒュドラの死角に回り込むと、両手に持った短剣を、その太い尾の付け根に深々と突き立てた。
「ギシャアアア!」
ヒュドラが、苦痛と怒りの咆哮を上げた。しかし、カイの狙いはダメージを与えることではない。突き立てた短剣には、強力な麻痺毒が塗られていた。
だが、ヒュドラの巨体には、その程度の毒は気休めにしかならなかった。ヒュドラの一つの首が、鞭のようにしなり、カイがいた場所を薙ぎ払う。カイは紙一重でそれを回避したが、その衝撃で体勢を崩した。
「そこだ!」
ソフィアが、その隙を見逃さずに突進した。彼女の体は、アレンの《オーバーヒール・ブースト》によって蒼い光を纏っている。
「奥義!《クリムゾン・ファング》!」
渾身の一撃が、ヒュドラの胴体に最も近い首の根元に叩き込まれた。
ザンッ、と重い手応え。
ソフィアの剣は、見事にヒュドラの首の一本を斬り落とした。切断された首が宙を舞い、紫色の血飛沫を撒き散らしながら沼へと落ちる。
「やったか!?」
ソフィ-アが、荒い息をつきながら叫んだ。
だが、アレンの顔は険しいままだった。
「違う!傷口を見ろ!」
ソフィアが言われてヒュドラの首の断面を見ると、そこでは信じられない光景が繰り広げられていた。
傷口から、肉がぶくぶくと泡立つように盛り上がり、瞬く間に新しい首が二本、再生してきたのだ。一本斬ったはずが、今や十本の首が、より激しい怒りを込めて彼らを睨みつけている。
「なっ……!これが、ヒュドラの再生能力……!」
ソフィアは愕然とした。これでは、いくら攻撃してもキリがない。どころか、攻撃すればするほど、敵は強くなっていく。
「アレン!どうする!何か手は無いのか!」
ソフィアが、焦りの声を上げる。
アレンは、冷静だった。彼は、ヒュドラの傷口で起きている現象を、ヒーラーとしての目で注意深く観察していた。
細胞が、異常な速度で増殖し、再生していく。その原理は、彼が使う《ヒール》とよく似ていた。傷を『治す』のではなく、新しい肉体で『補う』力。
(……待てよ。治す力。再生する力。もし、それを逆手に取るとしたら……)
アレンの脳裏に、一つの途方もない仮説が閃いた。
回復魔法を、反転させる。
治癒ではなく、破壊のために使う。
もし、敵の再生能力そのものを暴走させることができたなら……?
それは、あまりにも常識外れな発想だった。回復魔法は、生命力を与え、秩序をもたらすためのもの。それを破壊に使うなど、神への冒涜にも等しい行為だ。
だが、今の彼には、その禁忌を犯すだけの覚悟と、それを可能にするだけの力が備わっていた。
「ソフィア、カイ!もう一度、首を斬れ!できるだけ大きな傷口を作ってくれ!」
アレンが、決意を込めて叫んだ。
「正気か!?また首が増えるだけだぞ!」
「いいからやれ!俺を信じろ!」
その有無を言わせぬ力強い声に、ソフィアとカイは一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた。
「……分かった!あんたがそこまで言うなら、乗ってやる!」
「……任せろ」
二人は再びヒュドラへと突撃した。カイが陽動で注意を引きつけ、その隙にソフィアが渾身の一撃を叩き込む。
再び、ヒュドラの首が一本、斬り落とされた。
巨大な傷口が、空気に晒される。
「今だ!」
アレンは、その傷口に全ての意識を集中させた。そして、彼が持つ回復魔法の概念を、根底から覆す。
通常の《ヒール》は、対象の細胞に働きかけ、その治癒活動を『促進』させる。
だが、アレンが今から放つのは、それとは全く異なる魔法だった。
彼は、自身の莫大な魔力を、純粋な『生命エネルギーの塊』として練り上げた。そして、それをヒュドラの傷口へと叩きつける。
それは、治癒ではない。無秩序なエネルギーの、一方的な注入だ。
「喰らえ……!《オーバーヒール・ペイン》!」
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光は、矢のように飛翔し、寸分の狂いもなくヒュドラの傷口へと吸い込まれていく。
「ギ……ギギ……?」
ヒュドラは、何が起きたのか分からないといった様子で、自分の傷口を見た。
そこでは、先程と同じように、肉が盛り上がり、再生が始まっていた。
しかし、その様子は明らかにおかしかった。
再生の速度が、異常なのだ。
肉は、首の形を成すことなく、ただ無秩序に、爆発的に増殖していく。ぶくぶくと、醜悪な肉腫が傷口から溢れ出し、見る間に巨大化していく。
「ギシャアアアアア!?ギギギギ……!」
ヒュドラは、自らの体内で起きている異変に、苦痛と混乱の絶叫を上げた。
再生能力が、アレンによって暴走させられたのだ。
体の治癒システムが、制御不能に陥り、自らの体を内側から食い破り始めた。
肉腫は、ヒュドラ本体から養分を吸い上げて、さらに巨大化していく。それはもはや、再生ではなく、悪性の腫瘍、つまり『癌』そのものだった。
やがて、肉腫はヒュドラの胴体よりも大きく膨れ上がり、その重さに耐えきれなくなったヒュドラの巨体は、ぐらりと傾いた。
そして、醜悪な肉の塊は、自らの重みで派手な音を立てて破裂した。
沼の主は、敵の攻撃ではなく、自らの再生能力によって、自滅したのだ。
後に残ったのは、元のヒュドラの半分ほどの大きさになった亡骸と、飛び散った肉片だけだった。
「…………」
ソフィアも、カイも、そのあまりにも異様で、そして残酷な光景に、言葉を失っていた。
あれほどの強敵を、傷一つ負うことなく倒した。だが、その勝ち方に、爽快感はなかった。ただ、アレンという男の力の底知れなさに、改めて戦慄するだけだった。
アレンは、荒い息をつきながら、その場に膝をついた。今の魔法は、精神的な消耗が尋常ではなかった。
彼は、自分の掌を見つめた。
生命を育むはずの回復魔法で、生命を最も醜い形で破壊してしまった。その事実に、彼の心は重く沈んでいた。
だが、彼は顔を上げた。
これで、沼の呪いは解ける。村に平穏が戻る。
そのために、この手は汚さなければならなかったのだ。
「……帰ろう」
アレンは、二人の仲間に向かって、静かに言った。
「俺たちの、勝ちだ」
彼の声は、少しだけ震えていた。
Cランクへの昇格試験は、誰も予想しなかった形で、完璧な勝利で幕を閉じた。
しかし、この勝利は、アレンの心に、新たな葛藤と、力の代償という重い十字架を刻み込むことになった。
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