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第二十五話 老英雄の願い
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【ノアの箱舟】の日常は、穏やかに、そして着実に回り続けていた。
「お客様のその肩の凝りは、長時間のデスクワークだけが原因ではないようです」
アンナが、店を訪れた恰幅のいい商人に向かって、柔らかな声で語りかける。彼女はカウンターの椅子に座り、客と目線を合わせるのが常だった。
「心の奥に、誰にも譲れないという強い責任感が見えます。それが、体を無意識に強張らせているのかもしれません」
「なっ……。嬢ちゃん、すごいな。まるで心の中を見透かされているようだ」
図星を指された商人は、驚きで目を見開いた。
「そんなことはありません。ただ、お客様のお心が、少しだけ伝わってくるだけです」
アンナがはにかむように微笑む。そのタイミングで、ノアが工房から姿を現した。
「『安らぎの香油』です。これを一滴肩に塗れば、体の緊張が和らぎます。代償として、少しだけ眠くなりますが、お仕事の後にはちょうどいいかもしれません」
ノアが差し出した小さな小瓶を、商人はありがたそうに受け取った。この一連の接客が、店の評判を確固たるものにしていた。
その日の午後。店のドアベルが、カランと乾いた音を立てた。入ってきたのは、腰の曲がった一人の老人だった。簡素だが清潔な旅人の服をまとい、その手には杖代わりに古びた大剣を突いている。
一見すると、どこにでもいる好々爺だ。だが、店にいた者たちは、彼のただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
彼の足運びには、一切の無駄がない。その穏やかな表情の奥には、鋼のように鋭い眼光が宿っている。用心棒として入り口近くに立っていたクロエは、無意識のうちに背筋を伸ばした。帳簿にペンを走らせていたルナも、顔を上げてその老人を鋭く観察する。
「いらっしゃいませ」
アンナが、いつもと変わらぬ笑顔で老人を迎えた。老人は店内をゆっくりと見渡し、やがてカウンターの奥にいるノアの姿を認めると、静かに頷いた。
「あんたが、この店の主のノア殿か。噂はかねがね聞いている」
「はい、そうですが。どのようなご用件でしょうか」
ノアが前に出ると、老人はにこりと人の良い笑みを浮かべた。
「わしはダリウス。ただのジジイさ」
その言葉とは裏腹に、ルナがノアの背後から小声で囁いた。
「ノア、気をつけろ。その男はただ者じゃない。『不動のダリウス』。三十年も前に魔王軍の将軍を三体同時に討ち取った、伝説の元Sランク冒険者だ」
その名を聞いて、ノアは息を呑んだ。英雄譚に必ず登場する、生ける伝説。そんな人物が、なぜこの店に。
ダリウスは、ルナの囁きが聞こえたかのように、小さく肩をすくめた。
「昔の話さ。見ての通り、もうただの老いぼれだよ」
彼は、杖代わりにしていた大剣を床にこつんと突き、深いため息をついた。
「今じゃ、この愛剣を持ち上げることすら億劫だ。だが、孫がいてな。わしが昔どんな冒.険者だったかを知りたがる。今のこの姿では、ただのホラ吹きジジイだ。情けなくてな」
彼の目に、寂しげな色が浮かぶ。それは、英雄の顔ではなく、一人の祖父の顔だった。
「もう一度だけでいい。たった一度でいいんだ。あの頃のように、この剣を振るってみたい。孫に、じいさんは嘘つきじゃなかったと、見せてやりたいんだ」
その願いは、あまりにも切実で、人間的だった。ノアは、どう答えるべきか迷った。人の老いという、自然の摂理。それに介入することは、果たして正しいことなのだろうか。
「ですが、ダリウス様。老いは、誰にでも訪れるものです。それに逆らうことは……」
「分かっているさ」
ダリウスは、ノアの葛藤を見透かしたように言った。
「若返りたいなどという、大それた願いじゃない。ただ、一瞬の輝きでいい。わしの最後の我儘だと思って、聞いてはくれんか」
彼の瞳は、真剣だった。そこにあるのは、孫を想う純粋な愛情だけだった。ノアは、その願いを無下にはできなかった。
「……分かりました」
ノアは、覚悟を決めて頷いた。
「あなたの願い、この【ノアの箱舟】がお預かりします」
その言葉に、老英雄の顔が、少年のような喜びに輝いた。
ノアは、ダリウスの愛剣にそっと触れる。長年使い込まれた剣には、ダリウスの魂とも呼べる、全盛期の無数の剣の軌跡が、記憶として深く刻み込まれていた。
「この剣の記憶を、呼び覚まします」
ノアは、ダリウスに告げた。作るべきものは、もう彼の頭の中にあった。肉体を無理やり若返らせるのではない。剣に眠る記憶と共鳴し、ダリウスの体に全盛期の動きを「思い出させる」ための呪いの籠手(ガントレット)。
「ただし、使えるのは一度きりです。そして、その代償として、使った後は数日間、寝込むほどの激しい疲労に襲われるでしょう。それでも、やりますか?」
ノアの問いに、ダリウスは心から満足そうに笑った。
「望むところだ。最高の舞台を用意せねばならんな」
伝説の英雄の、たった一度きりの復活。ノアの錬成は、過去の栄光さえも現在に呼び覚ます、新たな領域へと踏み込もうとしていた。
「お客様のその肩の凝りは、長時間のデスクワークだけが原因ではないようです」
アンナが、店を訪れた恰幅のいい商人に向かって、柔らかな声で語りかける。彼女はカウンターの椅子に座り、客と目線を合わせるのが常だった。
「心の奥に、誰にも譲れないという強い責任感が見えます。それが、体を無意識に強張らせているのかもしれません」
「なっ……。嬢ちゃん、すごいな。まるで心の中を見透かされているようだ」
図星を指された商人は、驚きで目を見開いた。
「そんなことはありません。ただ、お客様のお心が、少しだけ伝わってくるだけです」
アンナがはにかむように微笑む。そのタイミングで、ノアが工房から姿を現した。
「『安らぎの香油』です。これを一滴肩に塗れば、体の緊張が和らぎます。代償として、少しだけ眠くなりますが、お仕事の後にはちょうどいいかもしれません」
ノアが差し出した小さな小瓶を、商人はありがたそうに受け取った。この一連の接客が、店の評判を確固たるものにしていた。
その日の午後。店のドアベルが、カランと乾いた音を立てた。入ってきたのは、腰の曲がった一人の老人だった。簡素だが清潔な旅人の服をまとい、その手には杖代わりに古びた大剣を突いている。
一見すると、どこにでもいる好々爺だ。だが、店にいた者たちは、彼のただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
彼の足運びには、一切の無駄がない。その穏やかな表情の奥には、鋼のように鋭い眼光が宿っている。用心棒として入り口近くに立っていたクロエは、無意識のうちに背筋を伸ばした。帳簿にペンを走らせていたルナも、顔を上げてその老人を鋭く観察する。
「いらっしゃいませ」
アンナが、いつもと変わらぬ笑顔で老人を迎えた。老人は店内をゆっくりと見渡し、やがてカウンターの奥にいるノアの姿を認めると、静かに頷いた。
「あんたが、この店の主のノア殿か。噂はかねがね聞いている」
「はい、そうですが。どのようなご用件でしょうか」
ノアが前に出ると、老人はにこりと人の良い笑みを浮かべた。
「わしはダリウス。ただのジジイさ」
その言葉とは裏腹に、ルナがノアの背後から小声で囁いた。
「ノア、気をつけろ。その男はただ者じゃない。『不動のダリウス』。三十年も前に魔王軍の将軍を三体同時に討ち取った、伝説の元Sランク冒険者だ」
その名を聞いて、ノアは息を呑んだ。英雄譚に必ず登場する、生ける伝説。そんな人物が、なぜこの店に。
ダリウスは、ルナの囁きが聞こえたかのように、小さく肩をすくめた。
「昔の話さ。見ての通り、もうただの老いぼれだよ」
彼は、杖代わりにしていた大剣を床にこつんと突き、深いため息をついた。
「今じゃ、この愛剣を持ち上げることすら億劫だ。だが、孫がいてな。わしが昔どんな冒.険者だったかを知りたがる。今のこの姿では、ただのホラ吹きジジイだ。情けなくてな」
彼の目に、寂しげな色が浮かぶ。それは、英雄の顔ではなく、一人の祖父の顔だった。
「もう一度だけでいい。たった一度でいいんだ。あの頃のように、この剣を振るってみたい。孫に、じいさんは嘘つきじゃなかったと、見せてやりたいんだ」
その願いは、あまりにも切実で、人間的だった。ノアは、どう答えるべきか迷った。人の老いという、自然の摂理。それに介入することは、果たして正しいことなのだろうか。
「ですが、ダリウス様。老いは、誰にでも訪れるものです。それに逆らうことは……」
「分かっているさ」
ダリウスは、ノアの葛藤を見透かしたように言った。
「若返りたいなどという、大それた願いじゃない。ただ、一瞬の輝きでいい。わしの最後の我儘だと思って、聞いてはくれんか」
彼の瞳は、真剣だった。そこにあるのは、孫を想う純粋な愛情だけだった。ノアは、その願いを無下にはできなかった。
「……分かりました」
ノアは、覚悟を決めて頷いた。
「あなたの願い、この【ノアの箱舟】がお預かりします」
その言葉に、老英雄の顔が、少年のような喜びに輝いた。
ノアは、ダリウスの愛剣にそっと触れる。長年使い込まれた剣には、ダリウスの魂とも呼べる、全盛期の無数の剣の軌跡が、記憶として深く刻み込まれていた。
「この剣の記憶を、呼び覚まします」
ノアは、ダリウスに告げた。作るべきものは、もう彼の頭の中にあった。肉体を無理やり若返らせるのではない。剣に眠る記憶と共鳴し、ダリウスの体に全盛期の動きを「思い出させる」ための呪いの籠手(ガントレット)。
「ただし、使えるのは一度きりです。そして、その代償として、使った後は数日間、寝込むほどの激しい疲労に襲われるでしょう。それでも、やりますか?」
ノアの問いに、ダリウスは心から満足そうに笑った。
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