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第一話:転生と絶望の日々
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銀の燭台が並ぶ長いテーブル。磨き上げられた食器が鈍い光を放つ夕食の席。アッシュ・フォン・ヴェルヘイムは、本日何度目か分からない無表情を顔に貼り付けていた。スープを掬う手はか細く、血の気の失せた白い肌は病弱さを際立たせている。目の前には、完璧な作法で食事を進める家族がいた。しかしそこに温かみは無い。いつものことだ。
ヴェルヘイム公爵家。帝国にその名を轟かせる武門の名家。その三男として生まれたアッシュは、しかし家族の中で存在しない者として扱われていた。
「アルフォンス。今度の王家主催の夜会だが、お前は第二王女殿下のエスコートを命じられた。くれぐれも粗相のないようにな」
重々しい声が響く。当主である父、グレイグ・フォン・ヴェルヘイム。厳格な顔には、長男アルフォンスへの期待が滲んでいる。
「はい父上。必ずや大役を果たし、ヴェルヘイム家の名誉を高めてみせます」
優雅な仕草でナプキンを口に当てるアルフォンス。金色の髪と青い瞳は王侯貴族の理想を体現したかのようだ。魔力、知力、カリスマ。その全てにおいて次代の公爵にふさわしいと誰もが認める男。彼の返答に、グレイグは満足げに頷いた。
「ベルナルド。お前も騎士団の模擬戦で目覚ましい活躍を見せたそうだな。それでこそ我が息子だ」
次に視線を向けられたのは次男のベルナルド。赤みがかった髪と鋭い目つきは、兄とは対照的に猛禽類を思わせる。彼は武勇において右に出る者がいないとされ、若くして帝国騎士団の副団長格の地位にあった。
「当然です父上。俺の剣に敵う者など、同年代にはおりません」
肉を切り分けながら、ベルナルドは不遜に笑う。その自信に満ちた態度を、グレイグはむしろ頼もしく感じているようだった。
会話はそこで途切れる。父の視線も、兄たちの意識も、テーブルの端に座るアッシュの上を通り過ぎていく。まるでそこに、誰もいないかのように。銀色の髪と赤い瞳。病弱な見た目。そのどれもが、この家の尚武の気風にはそぐわない。
魔力は凡人以下。剣の才能は皆무。ただ静かに本を読んでいるだけの陰気な三男。それが、アッシュ・フォン・ヴェルヘイムへの家族の評価だった。そしてその評価は、使用人たちにも浸透している。聞こえよがしに囁かれる「出来損ない」という言葉。向けられる憐憫と侮蔑の視線。
アッシュはただ、黙々と食事を口に運ぶ。感情を殺すことには慣れていた。なぜなら、彼の中にはもう一つの記憶があるからだ。
(……まただ。この空気は)
前世の記憶。蛍光灯が白々しく照らすオフィス。鳴りやまない電話と、積み上がる書類の山。彼は日本のブラック企業で働く中間管理職だった。上司からの無茶な要求と、部下からの突き上げ。成果は全て上司に奪われ、失敗の責任は全て押し付けられる。そんな日々に心身をすり減らし、最後は過労で命を落とした。三十代半ばの、あまりにもあっけない最期。
あの会社の会議室の空気と、今の食卓の空気はよく似ている。優秀な同期が評価され、無能な自分が責め立てられるあの場所。人格を否定され、ただの駒として消費される理不尽。だからアッシュは理解していた。自分がこの家でどういう存在なのかを。
優秀な兄たちの引き立て役。ヴェルヘイム家の汚点。そして、いずれ訪れるであろう権力争いにおいて、真っ先に切り捨てられる駒。
「アッシュ」
不意に、低い声で名前を呼ばれた。父グレイグの声だ。アッシュはゆっくりと顔を上げる。
「……はい、父上」
「お前ももうすぐ十五になる。成人の儀を終えれば、お前も貴族社会の一員となるのだ。これ以上、ヴェルヘイムの名を汚すような真似は許さん。分かっているな」
それは忠告ではない。ただの威圧だ。父の瞳には、息子への愛情など欠片もなかった。そこにあるのは、不良債権を見るような冷たい光だけだ。
「……肝に銘じます」
アッシュは静かに頭を下げた。反論も、弁明もしない。そんなことをすれば、さらに状況が悪化するだけだと、前世の経験が告げていた。
「ふん。口先だけは達者なことだ」
隣から、長兄アルフォンスの嘲笑が聞こえる。完璧な笑みの下に隠された、どす黒い侮蔑。
「兄上。出来損ないに期待するだけ無駄ですよ。こいつにできることなど、部屋の隅で埃を被ることくらいでしょう」
次兄ベルナルドは、隠そうともせず吐き捨てる。彼にとって、アッシュは同じ人間ですらなかった。
家族からの容赦ない言葉の刃。それはアッシュの心を深く抉るはずだった。しかし、彼の心は不思議なほど凪いでいた。前世で、もっと酷い言葉を浴びせられ続けたからだろうか。それとも、この世界の貴族社会というものが、会社という組織の縮図にしか見えないからだろうか。
食事が終わると、アッシュは誰に挨拶することもなく自室に戻った。公爵家の三男に与えられた部屋としては、あまりにも質素な部屋。豪華な調度品は何もなく、ただ壁一面に本棚が並んでいるだけだ。
窓の外に広がるのは、月明かりに照らされた美しい庭園。だが、アッシュの目には映らない。彼の思考は、冷徹な分析に支配されていた。
(このままでは、俺は殺される)
その確信に、疑いの余地はなかった。ヴェルヘイム公爵家は、次期皇帝の座を巡る争いにおいて、第一王子派と第二王子派のどちらにつくか、その態度を決めかねている。長兄アルフォンスは第一王子と親しく、次兄ベルナルドは第二王子の学友だ。父グレイグは、両天秤にかけたまま、最も有利な方につこうと画策している。
いずれ、どちらかの派閥が優勢になる。その時、ヴェルヘイム家は敗者となる派閥との関係を清算する必要に迫られるだろう。そのための「生贄」として、これほど都合の良い存在がいるだろうか。
第二王子と繋がりがあったベルナルドを切り捨てるのは惜しい。ならば、無能な三男に「第二王子派であった」という罪を着せて処刑すればいい。あるいは、第一王子と親しいアルフォンスが邪魔になった時、アッシュに暗殺者の濡れ衣を着せて、アルフォンスもろとも始末するかもしれない。
権力闘争とはそういうものだ。前世の会社でもそうだった。派閥争いに敗れた部長は、子飼いの部下もろとも子会社へ飛ばされた。責任者は、些細なミスを理由に懲戒解雇された。弱い者から切り捨てられる。それが世界の法則だ。
(冗談じゃない)
アッシュは唇を噛んだ。前世では、なすすべもなく理不尽に命を奪われた。会社のために身を粉にして働き、得られたのは過労死という結末だけ。もう二度と、あんな思いをするのはごめんだ。
誰かに利用され、使い潰されるだけの人生など、もうたくさんだ。
(生き延びてやる。どんな手を使っても)
この世界で、俺は俺のために生きる。誰にも邪魔されず、誰にも脅かされない。安全が保証された上で、ただ安楽に生きていきたい。前世では決して手に入らなかった、ささやかな平穏。それがアッシュの唯一の願いだった。
だが、今の彼には何もない。魔力も、剣の腕も、後ろ盾となる味方も。あるのは、前世の記憶からくる冷めた分析眼と、このままでは終われないという強い執着だけだ。
(武器が要る。誰もがひれ伏すような、絶対的な力が)
窓に映る自分の姿は、あまりにも頼りなかった。細い身体、色の白い顔。こんな少年が、魑魅魍魎の巣食う貴族社会で生き残れるはずがない。
焦燥感が胸を焼く。何か、何か打開策はないのか。思考を巡らせるが、答えは見つからない。八方塞がりの状況に、思わず深いため息が漏れた。
ふと、カレンダーが目に入る。そこには、赤い印がつけられていた。
来週に迫った、十五歳の誕生日。それは同時に、帝国の全ての子供が神殿に赴き、神からスキルを授かる「成人の儀」の日でもあった。
スキル。この世界に生きる者が、神から与えられる特別な力。戦闘系のスキル、生産系のスキル、あるいはごく稀に、人の運命さえ左右するユニークスキル。
(スキル、か)
僅かな希望が、闇の中に差し込む一条の光のように見えた。もし、そこで強力なスキルを授かることができれば。この絶望的な状況を覆せるかもしれない。
しかし、その期待はすぐに自己否定の波に掻き消された。
(あり得ない。俺のような出来損ないに、大したスキルが与えられるはずがない)
神は、才能ある者にこそ相応しい力を与えるという。魔力も才能もない自分に与えられるのは、きっと「鑑定」や「収納」のようなありふれた、しかし戦闘や権力闘争には何の役にも立たないスキルだろう。あるいは、何の役にも立たない外れスキルかもしれない。
結局、何も変わらないのか。
アッシュはゆっくりとベッドに横たわった。天井の木目が、まるで自分を閉じ込める檻の格子のように見える。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。それでも、彼は諦めてはいなかった。心の奥底で、小さな炎が燻っている。
前世では、何もかも諦めて死んだ。だが今は違う。
この手で、運命を掴み取ってやる。
たとえ神に見放されようとも。
アッシュは静かに目を閉じた。彼の本当の戦いは、まだ始まってもいない。
ヴェルヘイム公爵家。帝国にその名を轟かせる武門の名家。その三男として生まれたアッシュは、しかし家族の中で存在しない者として扱われていた。
「アルフォンス。今度の王家主催の夜会だが、お前は第二王女殿下のエスコートを命じられた。くれぐれも粗相のないようにな」
重々しい声が響く。当主である父、グレイグ・フォン・ヴェルヘイム。厳格な顔には、長男アルフォンスへの期待が滲んでいる。
「はい父上。必ずや大役を果たし、ヴェルヘイム家の名誉を高めてみせます」
優雅な仕草でナプキンを口に当てるアルフォンス。金色の髪と青い瞳は王侯貴族の理想を体現したかのようだ。魔力、知力、カリスマ。その全てにおいて次代の公爵にふさわしいと誰もが認める男。彼の返答に、グレイグは満足げに頷いた。
「ベルナルド。お前も騎士団の模擬戦で目覚ましい活躍を見せたそうだな。それでこそ我が息子だ」
次に視線を向けられたのは次男のベルナルド。赤みがかった髪と鋭い目つきは、兄とは対照的に猛禽類を思わせる。彼は武勇において右に出る者がいないとされ、若くして帝国騎士団の副団長格の地位にあった。
「当然です父上。俺の剣に敵う者など、同年代にはおりません」
肉を切り分けながら、ベルナルドは不遜に笑う。その自信に満ちた態度を、グレイグはむしろ頼もしく感じているようだった。
会話はそこで途切れる。父の視線も、兄たちの意識も、テーブルの端に座るアッシュの上を通り過ぎていく。まるでそこに、誰もいないかのように。銀色の髪と赤い瞳。病弱な見た目。そのどれもが、この家の尚武の気風にはそぐわない。
魔力は凡人以下。剣の才能は皆무。ただ静かに本を読んでいるだけの陰気な三男。それが、アッシュ・フォン・ヴェルヘイムへの家族の評価だった。そしてその評価は、使用人たちにも浸透している。聞こえよがしに囁かれる「出来損ない」という言葉。向けられる憐憫と侮蔑の視線。
アッシュはただ、黙々と食事を口に運ぶ。感情を殺すことには慣れていた。なぜなら、彼の中にはもう一つの記憶があるからだ。
(……まただ。この空気は)
前世の記憶。蛍光灯が白々しく照らすオフィス。鳴りやまない電話と、積み上がる書類の山。彼は日本のブラック企業で働く中間管理職だった。上司からの無茶な要求と、部下からの突き上げ。成果は全て上司に奪われ、失敗の責任は全て押し付けられる。そんな日々に心身をすり減らし、最後は過労で命を落とした。三十代半ばの、あまりにもあっけない最期。
あの会社の会議室の空気と、今の食卓の空気はよく似ている。優秀な同期が評価され、無能な自分が責め立てられるあの場所。人格を否定され、ただの駒として消費される理不尽。だからアッシュは理解していた。自分がこの家でどういう存在なのかを。
優秀な兄たちの引き立て役。ヴェルヘイム家の汚点。そして、いずれ訪れるであろう権力争いにおいて、真っ先に切り捨てられる駒。
「アッシュ」
不意に、低い声で名前を呼ばれた。父グレイグの声だ。アッシュはゆっくりと顔を上げる。
「……はい、父上」
「お前ももうすぐ十五になる。成人の儀を終えれば、お前も貴族社会の一員となるのだ。これ以上、ヴェルヘイムの名を汚すような真似は許さん。分かっているな」
それは忠告ではない。ただの威圧だ。父の瞳には、息子への愛情など欠片もなかった。そこにあるのは、不良債権を見るような冷たい光だけだ。
「……肝に銘じます」
アッシュは静かに頭を下げた。反論も、弁明もしない。そんなことをすれば、さらに状況が悪化するだけだと、前世の経験が告げていた。
「ふん。口先だけは達者なことだ」
隣から、長兄アルフォンスの嘲笑が聞こえる。完璧な笑みの下に隠された、どす黒い侮蔑。
「兄上。出来損ないに期待するだけ無駄ですよ。こいつにできることなど、部屋の隅で埃を被ることくらいでしょう」
次兄ベルナルドは、隠そうともせず吐き捨てる。彼にとって、アッシュは同じ人間ですらなかった。
家族からの容赦ない言葉の刃。それはアッシュの心を深く抉るはずだった。しかし、彼の心は不思議なほど凪いでいた。前世で、もっと酷い言葉を浴びせられ続けたからだろうか。それとも、この世界の貴族社会というものが、会社という組織の縮図にしか見えないからだろうか。
食事が終わると、アッシュは誰に挨拶することもなく自室に戻った。公爵家の三男に与えられた部屋としては、あまりにも質素な部屋。豪華な調度品は何もなく、ただ壁一面に本棚が並んでいるだけだ。
窓の外に広がるのは、月明かりに照らされた美しい庭園。だが、アッシュの目には映らない。彼の思考は、冷徹な分析に支配されていた。
(このままでは、俺は殺される)
その確信に、疑いの余地はなかった。ヴェルヘイム公爵家は、次期皇帝の座を巡る争いにおいて、第一王子派と第二王子派のどちらにつくか、その態度を決めかねている。長兄アルフォンスは第一王子と親しく、次兄ベルナルドは第二王子の学友だ。父グレイグは、両天秤にかけたまま、最も有利な方につこうと画策している。
いずれ、どちらかの派閥が優勢になる。その時、ヴェルヘイム家は敗者となる派閥との関係を清算する必要に迫られるだろう。そのための「生贄」として、これほど都合の良い存在がいるだろうか。
第二王子と繋がりがあったベルナルドを切り捨てるのは惜しい。ならば、無能な三男に「第二王子派であった」という罪を着せて処刑すればいい。あるいは、第一王子と親しいアルフォンスが邪魔になった時、アッシュに暗殺者の濡れ衣を着せて、アルフォンスもろとも始末するかもしれない。
権力闘争とはそういうものだ。前世の会社でもそうだった。派閥争いに敗れた部長は、子飼いの部下もろとも子会社へ飛ばされた。責任者は、些細なミスを理由に懲戒解雇された。弱い者から切り捨てられる。それが世界の法則だ。
(冗談じゃない)
アッシュは唇を噛んだ。前世では、なすすべもなく理不尽に命を奪われた。会社のために身を粉にして働き、得られたのは過労死という結末だけ。もう二度と、あんな思いをするのはごめんだ。
誰かに利用され、使い潰されるだけの人生など、もうたくさんだ。
(生き延びてやる。どんな手を使っても)
この世界で、俺は俺のために生きる。誰にも邪魔されず、誰にも脅かされない。安全が保証された上で、ただ安楽に生きていきたい。前世では決して手に入らなかった、ささやかな平穏。それがアッシュの唯一の願いだった。
だが、今の彼には何もない。魔力も、剣の腕も、後ろ盾となる味方も。あるのは、前世の記憶からくる冷めた分析眼と、このままでは終われないという強い執着だけだ。
(武器が要る。誰もがひれ伏すような、絶対的な力が)
窓に映る自分の姿は、あまりにも頼りなかった。細い身体、色の白い顔。こんな少年が、魑魅魍魎の巣食う貴族社会で生き残れるはずがない。
焦燥感が胸を焼く。何か、何か打開策はないのか。思考を巡らせるが、答えは見つからない。八方塞がりの状況に、思わず深いため息が漏れた。
ふと、カレンダーが目に入る。そこには、赤い印がつけられていた。
来週に迫った、十五歳の誕生日。それは同時に、帝国の全ての子供が神殿に赴き、神からスキルを授かる「成人の儀」の日でもあった。
スキル。この世界に生きる者が、神から与えられる特別な力。戦闘系のスキル、生産系のスキル、あるいはごく稀に、人の運命さえ左右するユニークスキル。
(スキル、か)
僅かな希望が、闇の中に差し込む一条の光のように見えた。もし、そこで強力なスキルを授かることができれば。この絶望的な状況を覆せるかもしれない。
しかし、その期待はすぐに自己否定の波に掻き消された。
(あり得ない。俺のような出来損ないに、大したスキルが与えられるはずがない)
神は、才能ある者にこそ相応しい力を与えるという。魔力も才能もない自分に与えられるのは、きっと「鑑定」や「収納」のようなありふれた、しかし戦闘や権力闘争には何の役にも立たないスキルだろう。あるいは、何の役にも立たない外れスキルかもしれない。
結局、何も変わらないのか。
アッシュはゆっくりとベッドに横たわった。天井の木目が、まるで自分を閉じ込める檻の格子のように見える。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。それでも、彼は諦めてはいなかった。心の奥底で、小さな炎が燻っている。
前世では、何もかも諦めて死んだ。だが今は違う。
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( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
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