無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第七十三話:帝国最大の手術

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帝国宰相の執務室は広大で、そして静かだった。壁には帝国の歴史を描いた巨大なタペストリーが飾られ、窓の外には帝都の壮麗な景色が広がっている。だが、アッシュの目に映っていたのは、その華やかな外見とは裏腹の、帝国の腐敗しきった内臓だった。

彼の目の前の机には、前任者が何年も放置してきたであろう膨大な量の書類が山と積まれていた。それは帝国という病んだ巨人の、おぞましいカルテそのものだった。
地方からの陳情書は、貴族による不当な重税と搾取を訴える血の叫びで満ちている。
軍部からの報告書は、装備の老朽化と家柄だけで地位を得た無能な指揮官による無意味な損害の記録で埋め尽くされている。
財務省の予算案は、名目だけの事業に巨額の金が流れ、そのほとんどが特定の貴族の懐へと消えていることを暗に示していた。

「……なるほど。想像以上の末期症状だな」
アッシュは冷めた声で呟いた。彼のスキルが、書類の文字の奥に潜む民の「絶望」と貴族の「強欲」を、生々しい数値として映し出していた。

宰相就任から三日後。皇帝臨席のもと最初の閣議が招集された。集まったのは、帝国の中枢を担う十数名の大臣たち。そのほとんどが既得権益を守ろうとする保守派の古狸だった。彼らは若すぎる新宰相を値踏みするような、侮蔑と警戒の視線を隠そうともしなかった。

会議は型通りの議題がいくつか続いた後、アッシュが発言を求めたことで空気が一変した。
「諸君。本日、私がここへ来たのは退屈な報告を聞くためではない。この国に巣食う病巣を、根こそぎ切除するための手術を執刀するためだ」

そのあまりにも挑発的な言葉に、大臣たちの間にどよめきが走った。
「手術だと? 若造が何を言うか!」
軍務卿である老侯爵が、不快げに声を上げた。

アッシュはその反応を意にも介さず、用意していた三つの大きな改革案を提示した。

「第一に、税制改革。現行の複雑な税制を廃止し、全ての領地と身分に対し公平な税率を適用する。貴族や神殿が持つ不当な免税特権も、これを撤廃する」

「第二に、軍制改革。兵士の装備はヴァイスラントで産出される高品質な鉄を用いて全て刷新する。また、指揮官の任命は家柄ではなく、実力と功績のみを基準とする評価制度を導入する」

「そして第三に、貴族特権の制限。名目だけで機能していない役職は全て廃止し、全ての貴族領に対し監察府による定期的な監査を義務付ける」

アッシュが言い終わる頃には、議場は怒号の渦に包まれていた。
「気でも狂ったのか!」
「帝国の伝統を根底から覆す気か!」
「我ら貴族への反逆だ!」

大臣たちの感情が、「怒り:99」「保身:95」「恐怖:80」といった数値で爆発する。彼らにとってアッシュの提案は、自らの地位と富を根こそぎ奪い去る死刑宣告にも等しかった。

軍務卿が再び声を荒らげた。
「馬鹿馬鹿しい! 軍の装備を刷新だと? それだけの鉄をどこから調達するというのだ! 予算はどうする!」

「鉄は、私が当主を務めるヴェルヘイム公爵家が独占的に供給します」
アッシュは静かに答えた。
「予算に関してはご心配なく。軍務卿、あなたが管轄する東方方面軍のここ三年間の『用途不明金』。その額だけで全軍の剣と鎧を新調しても、お釣りが来ますぞ」

アッシュはキルヒアイスがまとめた財務省の資料をテーブルの上に滑らせた。そこには軍務卿の息のかかった商会に、不自然な額の金が流れている記録が生々しく記されていた。
軍務卿の顔がみるみるうちに青ざめていく。

次に保守派の重鎮である法務大臣が、震える声で反論した。
「貴族の特権は神から与えられた神聖な権利だ! それを平民上がりの官僚どもに監査させるなど、断じて認められん!」

「神聖な権利、ですか」
アッシュは冷ややかに笑った。
「では法務大臣。あなたが自らの領民に法外な人頭税を課し、その税を払えぬ者を奴隷として売り飛ばしていることも、神聖な権利の一部だと?」

アッシュは今度はセレスティアが貴族社会の裏から集めた奴隷売買の証言記録を提示した。法務大臣は言葉を失い、その場に崩れ落ちそうになった。

アッシュは立ち上がった。その赤い瞳が、恐怖に震える大臣たちを一人一人射抜いていく。
「諸君らの反対は、帝国の未来を思ってのことか? それとも自らの腐敗した懐が寂しくなるのを恐れてのことか?」

彼の情報網は、この場にいるほとんどの大臣の何らかの不正を掴んでいた。彼らはアッシュの前に、もはや裸同然だった。
「この改革案に反対するということは、即ち自らが帝国の敵であると認めることと同義だ。それでもなお、反対する者はいるか?」

議場は水を打ったように静まり返った。誰も口を開くことができない。彼らの心は、アッシュという名の絶対的な恐怖によって完全に支配されていた。

玉座でその光景を静観していた皇帝は、内心で戦慄していた。
(……怪物め。奴はたった一人で帝国の全てを敵に回し、そしてそれをねじ伏せようとしている)
皇帝は自分が帝国宰相に任命した男が、自らの想像を遥かに超える劇薬であったことをこの時改めて思い知らされた。

会議はアッシュの独壇場で終わった。三つの改革案は反対ゼロという、あり得ない形で可決された。
執務室に戻ったアッシュを待っていたのは、複雑な表情を浮かべたセレスティアだった。

「……あなたのやり方、やはり好きにはなれないわ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「あなたは正論と恐怖で全てを支配する。そこには対話も協調も一切ない」

「時間がないからだ」
アッシュは窓の外を見ながら答えた。
「この帝国は末期癌の患者だ。悠長に対話療法などしている暇はない。今すぐ大掛かりな外科手術をしなければ、手遅れになる」

彼の声には疲労の色が滲んでいた。
「この手術は多くの出血を伴うだろう。俺は帝国中の貴族から憎まれ恨まれることになる。いずれ、俺の命を狙う者も次から次へと現れるだろう」

彼はセレスティアに向き直った。その瞳にはこれまで見せたことのない深い覚悟と、そして微かな孤独の色が浮かんでいた。
「だが、それでもやるしかない。俺が築いたヴァイスラントを、俺の仲間たちが安心して暮らせる場所を守るためには。この帝国そのものを立て直すしかないんだ」

その言葉はセレスティアの心を強く打った。
彼女はアッシュが背負っているものの重さを、初めて垣間見た気がした。
彼はただの権力亡者ではない。彼なりのやり方で、彼が守りたいと願うもののために孤独な戦いを続けているのだ。

「……手伝うわ」
セレスティアは静かに言った。
「あなたのやり方は認めない。でも、あなたの覚悟は信じてあげる」

それは二人の間に結ばれた、新たな絆の始まりだった。
帝国最大の手術は始まったばかり。これから帝国は大きな混乱の時代を迎えるだろう。
だが、その手術の先に新たな夜明けが待っていることを、アッシュは、そしてセレスティアもまた信じて疑わなかった。
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