無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第八十話:最初の接触と自爆

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イザベラ侯爵夫人。彼女こそが帝都に潜む『奈落の蛇』の幹部の一人。その確信を得たアッシュは、しかし決して焦らなかった。蛇を狩る時は、決して音を立ててはならない。気づかれぬように、じわじわと、しかし確実に追い詰めていく必要があった。

オークションの夜から、アッシュはイザベラに対する二十四時間体制の監視を開始した。
『北風商会』の情報網が彼女の全ての行動を追跡する。どこへ行き、誰と会い、何を話したか。その情報は刻一刻とアッシュの元へと集約されていった。

だが、イザベラは恐ろしく用心深かった。
彼女の行動に不審な点は何も見当たらない。日中は文化庁で公務をこなし、夜は貴族たちのサロンで詩や音楽について語り合う。その姿はどこからどう見ても、芸術を愛する穏やかな貴婦人そのものだった。
彼女が他の結社の人間と接触する気配は全くなかった。

「……まるで嵐の前の静けさね」
宰相執務室で、セレスティアが焦燥感を滲ませた声で言った。
「儀式の日は明後日に迫っているわ。本当に彼女が幹部なの? あなたの見間違いという可能性は……」

「間違いない」
アッシュはきっぱりと断言した。
「彼女の感情のノイズは日に日に強くなっている。儀式が近づき、彼女の体内に溜め込まれた負のエネルギーが高まっている証拠だ。彼女は嵐の中心そのものだ」

アッシュのスキルは、イザベラの平坦な仮面の下で、おぞましいほどの負の力がマグマのように渦巻いているのを捉えていた。

「彼女は我々が監視していることに気づいている」
アッシュは続けた。
「だからこそ動かない。我々が痺れを切らして先に動くのを待っているんだ。だが、儀式を成功させるためには彼女もまた、必ずどこかで動かなければならないはずだ。我々がすべきことはただ一つ。待ち、そして、その一瞬の隙を見逃さないことだ」

そして、儀式の前日。ついにその時は来た。
アッシュの情報網から緊急の報せが届いた。
「報告! イザベラ侯爵夫人が、お忍びで帝都の西地区にある寂れた劇場へと向かいました!」

西地区の寂れた劇場。そこはかつては賑わっていたが、今はもう使われていない廃墟のはずだった。
「……そこだ」
アッシュは即座に決断した。そこがイザベラが他の仲間と接触するための秘密の会合場所に違いない。

「全戦力をその劇場へ集結させろ」
アッシュの命令で、サイモン率いる精鋭騎士団とセレスティアの配下の魔導師たちが秘密裏に劇場を包囲し始めた。アッシュ自身もリリアとガイウスを伴い、現場へと急行した。

廃墟と化した劇場は不気味な静寂に包まれていた。だが、アッシュのスキルは、その内部で複数の強い感情のノイズが交錯しているのを捉えていた。イザベラだけではない。他にも少なくとも五人の結社の人間が中にいる。

「……突入する」
アッシュは集結した部隊に最終的な指示を与えた。
「目標はイザベラ侯爵夫人の生け捕り。他の者は抵抗すれば無力化して構わん。だが、決して殺すな。情報を聞き出す」

サイモンの号令で、騎士たちが劇場の全ての出入り口を同時に破った。
「突入せよ!」

薄暗い劇場ホールの中央。そこにはアッシュの予測通り、イザベラと黒いローブを纏った五人の男たちがいた。彼らは突入してきた騎士たちを見ても、少しも慌てる様子を見せなかった。

「……お待ちしておりましたわ、アッシュ公」
イザベラは優雅に微笑んだ。その顔にはもはや穏やかな貴婦人の仮面はなかった。蛇のように冷たい侮蔑と嘲笑が浮かんでいる。
「あなたがこの罠に気づくことなど、お見通しでしたわ」

「罠だと?」
アッシュは眉をひそめた。

「ええ」
イザベラはくすくすと笑った。
「あなたをここにおびき出すための、ね。あなたさえいなければ、儀式は誰にも邪魔されずに成功しますから」

彼女がそう言った瞬間、黒ローブの男たちが一斉に懐から不気味な紋様が描かれた呪符を取り出し、自らの胸に突き立てた。
「なっ!?」

次の瞬間、男たちの体からおびただしい量の負のエネルギーが黒い霧となって噴き出した。彼らの肉体は急速に萎んでいき、まるでミイラのように変貌していく。

「彼らは自らの命を触媒として、この空間に強力な結界を張ったのよ」
イザベラが楽しそうに説明する。
「この劇場は今や外界から完全に隔離された。助けは来ないわ。そして、この結界は人の精神を蝕む。あなたのような感情に敏感な人間にとっては地獄となるでしょうね」

彼女の言う通りだった。アッシュの脳裏に、増幅された負の感情の奔流が直接叩きつけられてくる。憎悪、絶望、恐怖。それはこれまでに経験したことのない強烈な精神攻撃だった。
アッシュは激しい頭痛に膝をつきそうになった。

「アッシュ様!」
リリアが彼の体を支える。

「さあ、お遊びは終わりよ」
イザベラは、その手に黒い霧が集まってできた一振りの鞭を構えた。
「ここであなたには死んでもらいますわ。帝国の未来の礎としてね」

イザベラが鞭をしならせアッシュへと襲いかかろうとした、その瞬間。
彼女の前に一体の巨漢が立ちはだかった。ガイウスだった。
「……貴様の相手はこの俺だ」
隻腕の将軍は長剣を構え、イザベラを睨みつけた。

「面白いわ。では、まずはあなたから絶望の味を教えて差し上げましょう」
イザベラは嘲笑うと、その鞭をガイウスへと叩きつけた。

激しい戦闘の火蓋が切って落とされた。
ガイウスはイザベラの変幻自在の鞭の攻撃を、老練な剣技で捌いていく。だが、相手はただの人間ではない。負のエネルギーを操る魔人だ。

その隙にアッシュは必死で精神攻撃に耐えながら、状況を分析していた。
(これは陽動だ……!)
イザベラは本気で自分を殺す気ではない。彼女の目的は時間稼ぎ。儀式が始まるまでのほんの数時間を稼ぐためだけに、この大掛かりな罠を仕掛けたのだ。
本物の儀式は、今まさに別の場所で始まろうとしている。

「セレスティア!」
アッシュは通信用の魔道具で叫んだ。
「地下遺跡だ! 敵の本隊はそっちへ向かっている! すぐに全戦力を地下へ!」

そして、アッシュは自らの精神を蝕む結界を破るための最後の手段に出た。
彼は自らのスキルを逆流させた。外部からの負の感情を受け流すのではなく、自らの内なる感情――怒り、憎悪、そして復讐心――を意図的に増幅させたのだ。

「ぐ……おおおおおおっ!」
アッシュの体から赤いオーラが噴き出した。彼の赤い瞳が血のように輝く。
それは自らの精神を破壊しかねない危険な賭けだった。

だが、その狂気の力はイザベラの張った結界に大きな亀裂を入れた。
「な……!? 正気ではないわ!」
イザベラが驚愕に目を見開く。

その一瞬の隙をガイウスは見逃さなかった。
彼の長剣が雷光のように走り、イザベラの肩を深く切り裂いた。
「きゃあああっ!」

イザベラは悲鳴を上げて後退した。
作戦は失敗した。彼女はそう悟った。
だが、彼女は決して情報を渡すつもりはなかった。

「……残念ですわ。ですが、蛇は決して滅びません」
彼女は血を流しながらも妖艶に微笑んだ。
そして、自らの懐から最後の呪符を取り出し、それを自らの心臓へと突き立てた。

「――我が魂を、奈落の主へ」

それは自らの精神を完全に破壊するための自爆の呪法だった。
彼女の体から最後の光が消え失せ、その瞳は虚ろなガラス玉へと変わる。彼女は情報を守るため、自ら廃人となる道を選んだのだ。

アッシュはその壮絶な最期をただ見つめていた。
敵の異常なまでの忠誠心。
それは彼がこれまで対峙してきたどんな敵とも違う、狂気の証だった。
最初の接触は敵幹部の一人を無力化するという成果を上げた。だが、その代償として、アッシュは自らが戦っている相手の本当の恐ろしさを骨の髄まで思い知らされたのだった。
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