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第7話:「魔法の石」と手洗いの習慣
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俺は勝利の余韻に浸るのもそこそこに、完成した「石鹸もどき」の塊を持って父の書斎へ急いだ。
農業改革の時と同じように、父アルフォンスは山積みの羊皮紙と格闘していた。俺の姿を認めると、疲れた顔を上げる。
「リオか。畑の方は順調だと聞いているが、今度は何だ。また書斎に籠もるのか」
その声には、以前のような訝しげな響きはない。むしろ、次は何を見せてくれるのかという、かすかな期待すら感じられた。
「父上、見ていただきたいものがあります」
俺は持参した二枚の布をテーブルに広げた。どちらも豚の脂をたっぷりと塗りつけた、汚れた布だ。そして、盥(たらい)に汲んだ水と、例の石鹸を置く。
「まず、こちらの布を水だけで洗ってみます」
俺は一枚の布を盥の水に浸し、ごしごしと擦った。だが脂汚れは水を弾くだけで、汚れはほとんど落ちない。布は濡れて重くなっただけで、汚れたままだ。
「これが、今の我々の限界です」
次に俺は、もう一枚の布を水に浸す前に、石鹸の塊を念入りに擦り付けた。そして水の中で揉むように洗う。
すると、驚くべきことが起きた。
水の中で、脂汚れがみるみるうちに乳化し、白い濁りとなって布から剥がれていく。数分後、俺が水から引き上げた布は、脂のシミが嘘のように消え去っていた。
「な……」
父は椅子から身を乗り出し、信じられないものを見る目で二枚の布を交互に見比べた。その差は歴然だった。
「リオ、これは一体何なのだ。どんな魔法を使った」
「魔法ではありません、父上。化学です。脂と灰から作った、汚れを落とすための石です」
俺が差し出した石鹸の塊を、父は恐る恐る手に取った。不格好で粗末な塊。だが、これがもたらす価値を、彼は即座に理解したようだった。その顔には、驚愕と興奮が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「これを……量産できるのか」
「ええ。材料さえあれば、いくらでも」
父の目が、ギラリと光った。領主としての、商売人としての光だ。
「素晴らしい。これは高く売れるぞ。我が領地の新たな特産品になるやもしれん」
「その考えも悪くありません。ですが父上、その前にやることがあります」
俺は父の目をまっすぐに見据えた。
「この石の本当の価値は、金儲けの道具となることではありません。人々の命を、病から守ることにあるのです」
翌日、俺は屋敷の中庭に使用人たち全員を集めていた。
もちろん、父と母、そして二人の兄とリリアナもその場にいる。
俺の前に置かれたテーブルには、昨日と同じように盥と石鹸、そして様々な汚れたものが並べられていた。鍋、皿、布、そして俺自身の泥だらけの手。
使用人たちは、何が始まるのかと不安げに囁き合っている。
俺はまず、厨房の料理長バルドを呼び寄せた。彼は厨房での俺の奇行をずっと見ていた張本人だ。
「バルド、この鍋を見てくれ。お前が一番よく知っているはずだ。長年使い込んだせいで、底には黒い焦げ付きと油汚れがこびりついている」
「はあ……まあ、そうでございますな」
「これを、この石で洗ってみてほしい」
バルドは半信半疑の顔で、石鹸を受け取った。そして、濡らした布にそれを擦り付け、鍋を磨き始める。
最初は何も変わらなかった。だが、根気よく磨き続けるうちに、頑固な焦げ付きが少しずつ浮き上がり、剥がれ落ちていく。これまで砂でいくら磨いてもびくともしなかった汚れが、明らかに落ち始めている。
「おお……」
誰からともなく、感嘆の声が漏れた。
バルド自身の驚きが、一番大きかった。彼は夢中になって鍋を磨き続け、やがて鍋の底から鈍い銀色の地金が顔を覗かせた。
「な、なんということだ……」
バルドは自分の目を疑うように、綺麗になった鍋と石鹸を何度も見比べた。
次に俺は、自分の泥だらけの手を洗って見せた。水だけでは決して落ちない畑の泥と土の油が、石鹸の力で泡と共に流れ落ち、清潔な手のひらが現れる。その様子に、使用人たちのどよめきはさらに大きくなった。
「す、すごい……」
「まるで魔法じゃないか」
「あの汚い石ころに、そんな力が……」
「そうだ、魔法の石だ!」
誰かが叫んだその言葉は、まるで感染するように広まっていった。
『魔法の石』。
俺が作った不格好な石鹸もどきは、その日、この世界で最も分かりやすく、最も偉大な名前を授かった。
兄のダリウスとゲオルグも、初めは小馬鹿にしたように眺めていたが、そのありえない洗浄力を目の当たりにして言葉を失っていた。彼らも試しに手を使ってみると、その驚きは隠せないものに変わる。
「なんだこれは……手が、ツルツルするぞ」
妹のリリアナも興味津々で、小さな手で石鹸を泡立てて遊んでいる。その楽しそうな笑顔を見て、俺の心は温かいもので満たされた。
実演会は大成功だった。
だが、本当の目的はここからだ。
俺は集まった人々に向かって、声を張り上げた。
「皆、この石の力は分かってくれたと思う。だが、これはただ汚れを落とすだけの石じゃない」
俺はリリアナの方を指し示した。
「先日、リリアナがなぜ病に倒れたか、考えたことはあるか。栄養が足りなかったこと、体が弱っていたこと。それも原因の一つだろう。だが、もう一つ大きな原因がある」
皆が、固唾を飲んで俺の言葉に耳を傾ける。
「それは、目に見えない汚れだ。俺たちの手や、食べ物、水の中にいる、とても小さな悪い虫のようなもの。それが体の中に入り込み、病を引き起こすんだ」
菌やウイルスという概念がないこの世界の人々に、俺は必死で説明した。
「この魔法の石は、その目に見えない汚れさえ洗い流す力を持っている。だから、これからは皆に徹底してほしいことがある」
俺は三つのルールを提示した。
一つ、便所を使った後は、必ずこの石で手を洗うこと。
二つ、食事の前には、必ずこの石で手を洗うこと。
三つ、厨房で働く者は、調理の前に必ずこのこ石で手を洗うこと。
「たったこれだけだ。たったこれだけのことで、病にかかる危険は大きく減る。皆が、そして皆の家族が、健やかに生きるための、一番簡単で確実な方法なんだ」
俺の言葉は、静かに、だが深く、彼らの心に染み渡っていった。
リリアナが苦しんでいた姿を、誰もが知っている。あの苦しみを、自分の子供や家族に味わわせたい者など、一人もいない。
その日から、アシュフォードの屋敷では奇妙な光景が見られるようになった。
使用人たちが、ことあるごとに水場で手を洗っているのだ。初めは義務感からだったかもしれない。だが、汚れが驚くほど落ちる爽快感と、手が清潔になる心地よさは、すぐに彼らの習慣を変えていった。
俺はバルドに製造方法の全てを教え、厨房での石鹸の量産体制を整えさせた。需要に供給が追いつかないほどだった。まだ特産品として売り出すほどの余裕はない。まずは、この屋敷から、そして領地全体から、病の種を一つずつ取り除いていくことが先決だ。
農業改革に続く、第二の革命。
その歯車は、確かに回り始めた。
俺は清潔になった自分の手を見つめ、静かに息を吐く。この小さな変化が、やがてこの領地の死亡率を劇的に下げることになるだろう。
だが、まだ満足はできない。
衛生問題と並行して、もう一つの根本的な問題。すなわち、食の問題。
飢えから人々を解放し、豊かな食卓を実現させる。それが、俺の次なる目標だった。
味気ないスープと硬いパンだけの食卓に、本当の「うま味」という革命を起こすために。俺の視線は、すでに厨房のその先にある、発酵という未知の領域へと向けられていた。
農業改革の時と同じように、父アルフォンスは山積みの羊皮紙と格闘していた。俺の姿を認めると、疲れた顔を上げる。
「リオか。畑の方は順調だと聞いているが、今度は何だ。また書斎に籠もるのか」
その声には、以前のような訝しげな響きはない。むしろ、次は何を見せてくれるのかという、かすかな期待すら感じられた。
「父上、見ていただきたいものがあります」
俺は持参した二枚の布をテーブルに広げた。どちらも豚の脂をたっぷりと塗りつけた、汚れた布だ。そして、盥(たらい)に汲んだ水と、例の石鹸を置く。
「まず、こちらの布を水だけで洗ってみます」
俺は一枚の布を盥の水に浸し、ごしごしと擦った。だが脂汚れは水を弾くだけで、汚れはほとんど落ちない。布は濡れて重くなっただけで、汚れたままだ。
「これが、今の我々の限界です」
次に俺は、もう一枚の布を水に浸す前に、石鹸の塊を念入りに擦り付けた。そして水の中で揉むように洗う。
すると、驚くべきことが起きた。
水の中で、脂汚れがみるみるうちに乳化し、白い濁りとなって布から剥がれていく。数分後、俺が水から引き上げた布は、脂のシミが嘘のように消え去っていた。
「な……」
父は椅子から身を乗り出し、信じられないものを見る目で二枚の布を交互に見比べた。その差は歴然だった。
「リオ、これは一体何なのだ。どんな魔法を使った」
「魔法ではありません、父上。化学です。脂と灰から作った、汚れを落とすための石です」
俺が差し出した石鹸の塊を、父は恐る恐る手に取った。不格好で粗末な塊。だが、これがもたらす価値を、彼は即座に理解したようだった。その顔には、驚愕と興奮が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「これを……量産できるのか」
「ええ。材料さえあれば、いくらでも」
父の目が、ギラリと光った。領主としての、商売人としての光だ。
「素晴らしい。これは高く売れるぞ。我が領地の新たな特産品になるやもしれん」
「その考えも悪くありません。ですが父上、その前にやることがあります」
俺は父の目をまっすぐに見据えた。
「この石の本当の価値は、金儲けの道具となることではありません。人々の命を、病から守ることにあるのです」
翌日、俺は屋敷の中庭に使用人たち全員を集めていた。
もちろん、父と母、そして二人の兄とリリアナもその場にいる。
俺の前に置かれたテーブルには、昨日と同じように盥と石鹸、そして様々な汚れたものが並べられていた。鍋、皿、布、そして俺自身の泥だらけの手。
使用人たちは、何が始まるのかと不安げに囁き合っている。
俺はまず、厨房の料理長バルドを呼び寄せた。彼は厨房での俺の奇行をずっと見ていた張本人だ。
「バルド、この鍋を見てくれ。お前が一番よく知っているはずだ。長年使い込んだせいで、底には黒い焦げ付きと油汚れがこびりついている」
「はあ……まあ、そうでございますな」
「これを、この石で洗ってみてほしい」
バルドは半信半疑の顔で、石鹸を受け取った。そして、濡らした布にそれを擦り付け、鍋を磨き始める。
最初は何も変わらなかった。だが、根気よく磨き続けるうちに、頑固な焦げ付きが少しずつ浮き上がり、剥がれ落ちていく。これまで砂でいくら磨いてもびくともしなかった汚れが、明らかに落ち始めている。
「おお……」
誰からともなく、感嘆の声が漏れた。
バルド自身の驚きが、一番大きかった。彼は夢中になって鍋を磨き続け、やがて鍋の底から鈍い銀色の地金が顔を覗かせた。
「な、なんということだ……」
バルドは自分の目を疑うように、綺麗になった鍋と石鹸を何度も見比べた。
次に俺は、自分の泥だらけの手を洗って見せた。水だけでは決して落ちない畑の泥と土の油が、石鹸の力で泡と共に流れ落ち、清潔な手のひらが現れる。その様子に、使用人たちのどよめきはさらに大きくなった。
「す、すごい……」
「まるで魔法じゃないか」
「あの汚い石ころに、そんな力が……」
「そうだ、魔法の石だ!」
誰かが叫んだその言葉は、まるで感染するように広まっていった。
『魔法の石』。
俺が作った不格好な石鹸もどきは、その日、この世界で最も分かりやすく、最も偉大な名前を授かった。
兄のダリウスとゲオルグも、初めは小馬鹿にしたように眺めていたが、そのありえない洗浄力を目の当たりにして言葉を失っていた。彼らも試しに手を使ってみると、その驚きは隠せないものに変わる。
「なんだこれは……手が、ツルツルするぞ」
妹のリリアナも興味津々で、小さな手で石鹸を泡立てて遊んでいる。その楽しそうな笑顔を見て、俺の心は温かいもので満たされた。
実演会は大成功だった。
だが、本当の目的はここからだ。
俺は集まった人々に向かって、声を張り上げた。
「皆、この石の力は分かってくれたと思う。だが、これはただ汚れを落とすだけの石じゃない」
俺はリリアナの方を指し示した。
「先日、リリアナがなぜ病に倒れたか、考えたことはあるか。栄養が足りなかったこと、体が弱っていたこと。それも原因の一つだろう。だが、もう一つ大きな原因がある」
皆が、固唾を飲んで俺の言葉に耳を傾ける。
「それは、目に見えない汚れだ。俺たちの手や、食べ物、水の中にいる、とても小さな悪い虫のようなもの。それが体の中に入り込み、病を引き起こすんだ」
菌やウイルスという概念がないこの世界の人々に、俺は必死で説明した。
「この魔法の石は、その目に見えない汚れさえ洗い流す力を持っている。だから、これからは皆に徹底してほしいことがある」
俺は三つのルールを提示した。
一つ、便所を使った後は、必ずこの石で手を洗うこと。
二つ、食事の前には、必ずこの石で手を洗うこと。
三つ、厨房で働く者は、調理の前に必ずこのこ石で手を洗うこと。
「たったこれだけだ。たったこれだけのことで、病にかかる危険は大きく減る。皆が、そして皆の家族が、健やかに生きるための、一番簡単で確実な方法なんだ」
俺の言葉は、静かに、だが深く、彼らの心に染み渡っていった。
リリアナが苦しんでいた姿を、誰もが知っている。あの苦しみを、自分の子供や家族に味わわせたい者など、一人もいない。
その日から、アシュフォードの屋敷では奇妙な光景が見られるようになった。
使用人たちが、ことあるごとに水場で手を洗っているのだ。初めは義務感からだったかもしれない。だが、汚れが驚くほど落ちる爽快感と、手が清潔になる心地よさは、すぐに彼らの習慣を変えていった。
俺はバルドに製造方法の全てを教え、厨房での石鹸の量産体制を整えさせた。需要に供給が追いつかないほどだった。まだ特産品として売り出すほどの余裕はない。まずは、この屋敷から、そして領地全体から、病の種を一つずつ取り除いていくことが先決だ。
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その歯車は、確かに回り始めた。
俺は清潔になった自分の手を見つめ、静かに息を吐く。この小さな変化が、やがてこの領地の死亡率を劇的に下げることになるだろう。
だが、まだ満足はできない。
衛生問題と並行して、もう一つの根本的な問題。すなわち、食の問題。
飢えから人々を解放し、豊かな食卓を実現させる。それが、俺の次なる目標だった。
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