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第8話:醤油と味噌、うま味の衝撃
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石鹸の導入によって、屋敷内の衛生環境は劇的に改善された。手を洗うという新しい習慣は、目に見える清潔さだけでなく、人々の心にもある種の安心感をもたらしたようだ。リリアナもすっかり元気になり、その笑顔が屋敷の雰囲気を明るくしている。農業改革も農夫たちの協力で順調に進み、領地の未来には確かに一筋の光が差し始めていた。
だが、俺の日常には依然として、耐えがたい苦痛が存在していた。
食事だ。
毎日のように食卓に並ぶ、石のように硬い黒パンと、具がほとんど入っていない味のないスープ。味付けは、貴重な塩をほんの少し使うだけ。栄養を摂取するための、ただの作業。それがこの世界の食事だった。
前世では「食」を人生の大きな楽しみの一つとしていた俺にとって、これは拷問に等しい。コンビニの弁当やカップラーメンですら、この世界の貴族の食事に比べれば、神々の饗宴に思えるほどだ。
特に、病み上がりで栄養が必要なリリアナや、畑仕事で体力を消耗する農夫たちに、もっと美味しくて滋養のあるものを食べさせてやりたい。その思いは日増しに強くなっていた。
「食」は、ただ腹を満たすだけのものではない。心を豊かにし、明日への活力を生み出す源泉だ。
衛生革命の次は、食文化の革命を起こす。
俺は新たな決意を固めた。
鍵となるのは「うま味」。
甘味、塩味、酸味、苦味。この世界の料理には、基本的な四つの味覚しか存在しない。だが、料理の味を飛躍的に奥深くする第五の味覚、うま味。それを知る者はいない。
ならば、俺がこの世界にそれを生み出すまでだ。
俺の脳裏に、日本の食卓を支える二つの万能調味料が浮かび上がった。
醤油と、味噌。
大豆を発酵させて作る、うま味の塊。これさえあれば、肉は香ばしく、スープは滋味深くなり、あらゆる料理が劇的に変わるはずだ。
計画を立てた俺は、まず材料の調達から始めた。
醤油と味噌の基本的な材料は、大豆、小麦、そして塩。アシュフォード領では、痩せた土地でも育つ豆類が貴重なタンパク源として栽培されていた。小麦も主要作物だ。塩は行商人から買うしかない貴重品だが、石鹸開発のために父が融通してくれた資金を使えば、ある程度の量は確保できる。
問題は、最も重要な要素だった。
「麹菌」。
学名はアスペルギルス・オリゼー。日本の国菌にも指定されている、発酵文化の立役者。この目に見えない微生物なくして、醤油も味噌も作ることはできない。
幸いなことに、麹菌は自然界に広く存在する常在菌だ。特に稲藁には多く付着していると言われている。
俺はゴードンに頼み、収穫が終わった後の畑から、質の良い稲藁を大量に集めてもらった。農夫たちは、貴族の坊ちゃんが家畜の餌や寝床にしかならない藁を大事そうに集める姿を、また何か始まったと不思議そうに眺めていた。
材料を揃えた俺は、三度(みたび)厨房の隅を間借りした。
料理長のバルドは、俺の顔を見るなり大きなため息をついた。
「リオ様、今度は何をお始めになるんで。石鹸作りで厨房が大変なことになったのを、もうお忘れではありますまいな」
その声には、疲労と呆れが色濃く滲んでいる。
「安心しろ、バルド。今度作るのは、皆を幸せにする食べ物だ」
「食べ物、でございますか」
バルドは俺が集めた豆と麦、そして大量の藁を見て、ますます怪訝な顔になった。どう見ても、美味しい料理の材料には見えないのだろう。
俺は彼の視線を気にすることなく、作業を開始した。
まずは麹作りだ。これが一番の難関だった。
大豆を洗い、一晩水に浸してから、大きな釜で柔らかくなるまで蒸し上げる。次に、小麦を香ばしい匂いがするまで炒り、粗く砕く。そして、蒸しあがった熱々の大豆と砕いた小麦を木の台の上で手早く混ぜ合わせ、人肌くらいの温度まで冷ます。
ここからが本番だ。
混ぜ合わせた豆と麦に、種菌となる藁をまぶしつけ、全体に菌が行き渡るように丁寧に混ぜ込む。そして、それを麻布を敷いた浅い木箱に薄く広げ、温度と湿度を保てるように、使われていない小さな倉庫に運び込んだ。
前世ならば、温度計と湿度計を使い、麹室(こうじむろ)と呼ばれる専門の部屋で厳密に管理する工程だ。だが、この世界にそんな便利な道具はない。全ては俺の五感と、曖昧な記憶だけが頼りだった。
温度が高すぎれば納豆菌や雑菌が繁殖して腐敗する。低すぎれば麹菌が活動しない。湿度が高すぎればカビが生え、低すぎれば乾燥して死んでしまう。
案の定、最初の挑戦は無惨な失敗に終わった。
二日後、倉庫の扉を開けると、ツンと鼻を突くアンモニア臭が俺を出迎えた。木箱の中の豆はネバネバの糸を引き、明らかに腐敗していた。納豆菌に負けたのだ。
「うへえ、何だこの臭いは!」
手伝わされた若い料理人が、鼻をつまんで顔をしかめる。
俺は無言で失敗作を廃棄し、二度目の挑戦を始めた。今度は温度が上がりすぎないように、倉庫の窓を少しだけ開けて風通しを良くした。
だが、それも失敗だった。今度は青や黒の気味の悪いカビが点々と生えていた。
食べ物を立て続けに無駄にしたことで、厨房内の風当たりは急速に強まっていった。
「リオ様は、我々の貴重な食料で遊んでおられるのか」
「あの藁を混ぜた豆なんぞ、どう考えても毒にしかならんだろうに」
バルドも、苦虫を噛み潰したような顔で俺に忠告してきた。
「リオ様、飢えている領民もいるのです。これ以上の無駄は、料理人として看過できかねます」
「分かっている。次で必ず成功させる」
俺は奥歯を噛み締めた。諦めるわけにはいかない。
三度目の挑戦。俺はこれまでの失敗を徹底的に分析した。温度管理の精度を上げるため、倉庫の中に水の入った桶をいくつか置くことで、急激な温度変化を抑える。湿度を保つため、木箱には濡らした麻布を被せた。そして、雑菌の繁殖を抑えるため、作業に使う道具は全て熱湯で消毒することを徹底した。
そして、運命の二日後。
俺は祈るような気持ちで、倉庫の扉を開けた。
腐敗臭も、カビ臭さもしない。代わりに、ふわりと甘く、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。まるで、焼きたての栗のような香りだ。
木箱を覗き込むと、そこには奇跡のような光景が広がっていた。
豆と麦の表面が、まるでビロードのように、美しい白い菌糸でびっしりと覆われている。手で触れると、ほろりと崩れるほど柔らかい。
「成功だ……!」
俺は思わずガッツポーズをした。これぞまさしく、米麹ならぬ麦大豆麹。発酵の母だ。
麹さえできてしまえば、あとは時間がおいしくしてくれる。
俺はこの麦大豆麹を使い、醤油と味噌、二つの仕込みにかかった。
醤油用には、麹に濃い塩水を加え、大きな樽の中に入れる。これを「もろみ」という。あとは毎日、櫂(かい)と呼ばれる長い棒でゆっくりとかき混ぜ、発酵と熟成を促すだけだ。
味噌用には、別に蒸して潰しておいた大豆と麹、そして塩をよく混ぜ合わせる。それを空気が入らないように樽に隙間なく詰め込み、表面を平らにならして重石を乗せる。
仕込みを終えた二つの樽を、俺は倉庫の隅に静かに安置した。
「リオ様、これは……本当に食べ物になるので?」
手伝ってくれたバルドが、不思議そうに樽を眺めている。彼の目には、ただの豆の塩漬けにしか見えないだろう。
「ああ。数ヶ月後にはな」
俺はニヤリと笑った。
「バルド、楽しみにしておけ。お前の料理人人生が、根底からひっくり返るような、魔法の調味料が生まれるぞ」
季節は春から夏へと移ろいでいた。
畑の麦は青々と育ち、屋敷では石鹸の香りがする。そして、倉庫の薄暗い片隅では、二つの樽の中で、目に見えない小さな巨人たちが、静かに、しかし確実に、うま味という名の衝撃を生み出すための長い旅を始めていた。
だが、俺の日常には依然として、耐えがたい苦痛が存在していた。
食事だ。
毎日のように食卓に並ぶ、石のように硬い黒パンと、具がほとんど入っていない味のないスープ。味付けは、貴重な塩をほんの少し使うだけ。栄養を摂取するための、ただの作業。それがこの世界の食事だった。
前世では「食」を人生の大きな楽しみの一つとしていた俺にとって、これは拷問に等しい。コンビニの弁当やカップラーメンですら、この世界の貴族の食事に比べれば、神々の饗宴に思えるほどだ。
特に、病み上がりで栄養が必要なリリアナや、畑仕事で体力を消耗する農夫たちに、もっと美味しくて滋養のあるものを食べさせてやりたい。その思いは日増しに強くなっていた。
「食」は、ただ腹を満たすだけのものではない。心を豊かにし、明日への活力を生み出す源泉だ。
衛生革命の次は、食文化の革命を起こす。
俺は新たな決意を固めた。
鍵となるのは「うま味」。
甘味、塩味、酸味、苦味。この世界の料理には、基本的な四つの味覚しか存在しない。だが、料理の味を飛躍的に奥深くする第五の味覚、うま味。それを知る者はいない。
ならば、俺がこの世界にそれを生み出すまでだ。
俺の脳裏に、日本の食卓を支える二つの万能調味料が浮かび上がった。
醤油と、味噌。
大豆を発酵させて作る、うま味の塊。これさえあれば、肉は香ばしく、スープは滋味深くなり、あらゆる料理が劇的に変わるはずだ。
計画を立てた俺は、まず材料の調達から始めた。
醤油と味噌の基本的な材料は、大豆、小麦、そして塩。アシュフォード領では、痩せた土地でも育つ豆類が貴重なタンパク源として栽培されていた。小麦も主要作物だ。塩は行商人から買うしかない貴重品だが、石鹸開発のために父が融通してくれた資金を使えば、ある程度の量は確保できる。
問題は、最も重要な要素だった。
「麹菌」。
学名はアスペルギルス・オリゼー。日本の国菌にも指定されている、発酵文化の立役者。この目に見えない微生物なくして、醤油も味噌も作ることはできない。
幸いなことに、麹菌は自然界に広く存在する常在菌だ。特に稲藁には多く付着していると言われている。
俺はゴードンに頼み、収穫が終わった後の畑から、質の良い稲藁を大量に集めてもらった。農夫たちは、貴族の坊ちゃんが家畜の餌や寝床にしかならない藁を大事そうに集める姿を、また何か始まったと不思議そうに眺めていた。
材料を揃えた俺は、三度(みたび)厨房の隅を間借りした。
料理長のバルドは、俺の顔を見るなり大きなため息をついた。
「リオ様、今度は何をお始めになるんで。石鹸作りで厨房が大変なことになったのを、もうお忘れではありますまいな」
その声には、疲労と呆れが色濃く滲んでいる。
「安心しろ、バルド。今度作るのは、皆を幸せにする食べ物だ」
「食べ物、でございますか」
バルドは俺が集めた豆と麦、そして大量の藁を見て、ますます怪訝な顔になった。どう見ても、美味しい料理の材料には見えないのだろう。
俺は彼の視線を気にすることなく、作業を開始した。
まずは麹作りだ。これが一番の難関だった。
大豆を洗い、一晩水に浸してから、大きな釜で柔らかくなるまで蒸し上げる。次に、小麦を香ばしい匂いがするまで炒り、粗く砕く。そして、蒸しあがった熱々の大豆と砕いた小麦を木の台の上で手早く混ぜ合わせ、人肌くらいの温度まで冷ます。
ここからが本番だ。
混ぜ合わせた豆と麦に、種菌となる藁をまぶしつけ、全体に菌が行き渡るように丁寧に混ぜ込む。そして、それを麻布を敷いた浅い木箱に薄く広げ、温度と湿度を保てるように、使われていない小さな倉庫に運び込んだ。
前世ならば、温度計と湿度計を使い、麹室(こうじむろ)と呼ばれる専門の部屋で厳密に管理する工程だ。だが、この世界にそんな便利な道具はない。全ては俺の五感と、曖昧な記憶だけが頼りだった。
温度が高すぎれば納豆菌や雑菌が繁殖して腐敗する。低すぎれば麹菌が活動しない。湿度が高すぎればカビが生え、低すぎれば乾燥して死んでしまう。
案の定、最初の挑戦は無惨な失敗に終わった。
二日後、倉庫の扉を開けると、ツンと鼻を突くアンモニア臭が俺を出迎えた。木箱の中の豆はネバネバの糸を引き、明らかに腐敗していた。納豆菌に負けたのだ。
「うへえ、何だこの臭いは!」
手伝わされた若い料理人が、鼻をつまんで顔をしかめる。
俺は無言で失敗作を廃棄し、二度目の挑戦を始めた。今度は温度が上がりすぎないように、倉庫の窓を少しだけ開けて風通しを良くした。
だが、それも失敗だった。今度は青や黒の気味の悪いカビが点々と生えていた。
食べ物を立て続けに無駄にしたことで、厨房内の風当たりは急速に強まっていった。
「リオ様は、我々の貴重な食料で遊んでおられるのか」
「あの藁を混ぜた豆なんぞ、どう考えても毒にしかならんだろうに」
バルドも、苦虫を噛み潰したような顔で俺に忠告してきた。
「リオ様、飢えている領民もいるのです。これ以上の無駄は、料理人として看過できかねます」
「分かっている。次で必ず成功させる」
俺は奥歯を噛み締めた。諦めるわけにはいかない。
三度目の挑戦。俺はこれまでの失敗を徹底的に分析した。温度管理の精度を上げるため、倉庫の中に水の入った桶をいくつか置くことで、急激な温度変化を抑える。湿度を保つため、木箱には濡らした麻布を被せた。そして、雑菌の繁殖を抑えるため、作業に使う道具は全て熱湯で消毒することを徹底した。
そして、運命の二日後。
俺は祈るような気持ちで、倉庫の扉を開けた。
腐敗臭も、カビ臭さもしない。代わりに、ふわりと甘く、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。まるで、焼きたての栗のような香りだ。
木箱を覗き込むと、そこには奇跡のような光景が広がっていた。
豆と麦の表面が、まるでビロードのように、美しい白い菌糸でびっしりと覆われている。手で触れると、ほろりと崩れるほど柔らかい。
「成功だ……!」
俺は思わずガッツポーズをした。これぞまさしく、米麹ならぬ麦大豆麹。発酵の母だ。
麹さえできてしまえば、あとは時間がおいしくしてくれる。
俺はこの麦大豆麹を使い、醤油と味噌、二つの仕込みにかかった。
醤油用には、麹に濃い塩水を加え、大きな樽の中に入れる。これを「もろみ」という。あとは毎日、櫂(かい)と呼ばれる長い棒でゆっくりとかき混ぜ、発酵と熟成を促すだけだ。
味噌用には、別に蒸して潰しておいた大豆と麹、そして塩をよく混ぜ合わせる。それを空気が入らないように樽に隙間なく詰め込み、表面を平らにならして重石を乗せる。
仕込みを終えた二つの樽を、俺は倉庫の隅に静かに安置した。
「リオ様、これは……本当に食べ物になるので?」
手伝ってくれたバルドが、不思議そうに樽を眺めている。彼の目には、ただの豆の塩漬けにしか見えないだろう。
「ああ。数ヶ月後にはな」
俺はニヤリと笑った。
「バルド、楽しみにしておけ。お前の料理人人生が、根底からひっくり返るような、魔法の調味料が生まれるぞ」
季節は春から夏へと移ろいでいた。
畑の麦は青々と育ち、屋敷では石鹸の香りがする。そして、倉庫の薄暗い片隅では、二つの樽の中で、目に見えない小さな巨人たちが、静かに、しかし確実に、うま味という名の衝撃を生み出すための長い旅を始めていた。
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