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第9話:食卓の革命
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季節は巡り、夏が過ぎて実りの秋が訪れた。
アシュフォード領の西の端にある実験農地は、領民たちの度肝を抜く結果をもたらした。俺が導入した新農法で育てられた小麦の穂は、既存の畑のものより明らかに太く、その黄金色の輝きは密集して畑を埋め尽くしていた。
収穫の日、ゴードンたちが叩き出した数字は、誰もが予想だにしなかったものだった。
収穫量は、従来の畑の三倍近くに達していた。
「うおおお!」
「本当かよ……信じられねえ!」
農夫たちの歓声が、秋空に高く響き渡った。彼らは黄金色の麦の山を前に、抱き合って喜びを分かち合う。飢えの恐怖から解放されるという、何物にも代えがたい安堵と興奮が、そこにはあった。
約束通り、増えた分の収穫は全て彼らのものとなった。初めは俺を侮っていた農夫たちは、今や俺のことを「若き賢者様」と呼び、絶対の信頼を寄せるようになっていた。
領地の食料問題は、解決に向けて大きな一歩を踏み出した。
そして、もう一つの革命の時も、すぐそこまで迫っていた。
倉庫の片隅で、数ヶ月の眠りについていた二つの樽。醤油と味噌の熟成が終わる頃合いだった。
俺は料理長のバルドを連れて、薄暗い倉庫へ向かった。
「リオ様、本当にあの豆の塩漬けが食べ物になるんで?」
バルドは未だに半信半疑のようだ。彼の常識からすれば、樽の中身は腐っているか、ただの塩辛い豆の塊になっているはずなのだ。
「百聞は一見に如かずだ。まあ見てろ」
俺はまず、醤油用の樽の蓋を開けた。
その瞬間、ふわりと複雑で芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。塩のしょっぱさ、大豆のコク、そして小麦の甘さが渾然一体となった、これまでこの世界には存在しなかった香り。
バルドが「おお……」と驚きの声を漏らす。腐敗臭とは似ても似つかない、食欲をそそる香りだったからだ。
樽の中には、黒に近い茶褐色の液体と、その中に沈む「もろみ」があった。俺は長い柄杓でもろみを掬い上げ、用意した麻布でゆっくりと濾していく。
ぽたり、ぽたりと、漆黒の雫が下の桶に落ちていく。
やがて集まったのは、澄んだ黒い液体。醤油もどきの、産声だった。指先に少しつけて舐めてみる。塩辛さの奥に、舌に絡みつくような深いコクと、鼻に抜ける香ばしさ。
うま味。間違いない。
「よし、上出来だ」
次に俺は、味噌用の樽の蓋を開けた。こちらは醤油とはまた違う、よりまろやかで、食欲をそそる香りがした。
表面には産膜酵母が薄く張っていたが、それを取り除くと、下からは美しい赤茶色のペーストが現れた。これも少しだけ口に含む。塩気と、大豆の風味が凝縮された、力強いうま味の塊。味噌もまた、完璧な出来栄えだった。
その日の夕食。俺はバルドに頼み込み、厨房で自ら腕を振るった。
いや、腕を振るったのは主にバルドで、俺はその横で指示を出しただけだが。
メニューは二品。
一つは、領地で手に入った鹿肉を使った照り焼き。俺が作った醤油に、果物を煮詰めて作った簡易的なみりん風調味料を混ぜたタレを絡め、鉄板の上で焼いていく。
ジュウウウという音と共に、醤油が焦げる香ばしい匂いが厨房中に立ち込めた。その匂いは屋敷の廊下を抜け、食堂にまで届いていた。
「な、なんだこの匂いは……」
食堂で待っていた家族が、ざわめく気配がした。
もう一品は、具沢山の味噌汁。干し肉と野菜で丁寧に出汁を取り、そこに俺が作った味噌を溶き入れる。それだけで、ただの野菜スープが、信じられないほど深く、滋味豊かな汁物へと姿を変えた。
二つの料理が、いつもの食卓に並ぶ。
食卓を囲む家族は、目の前の料理を信じられないものを見る目で眺めていた。
黒く艶やかに輝く肉。湯気と共に豊かな香りを放つ汁物。それは、彼らが知る「食事」とは全くの別物だった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
俺の言葉に促され、父がおそるおそる肉を口に運んだ。
次の瞬間、父の目が大きく見開かれた。
「こ、これは……!」
しっかりとした歯ごたえの肉から、甘辛く、そして香ばしい肉汁がじゅわりと溢れ出す。その味の奥から、これまで経験したことのない、深く豊かな味わいが舌を包み込む。
母も、兄たちも、そしてリリアナも、次々と肉に手を伸ばし、その誰もが同じように驚愕の表情を浮かべた。
「うまい……なんだこれは、うますぎるぞ!」
いつもは俺を馬鹿にしている長兄のダリウスが、子供のようにはしゃいで肉を頬張っている。
「肉が、こんなに美味しくなるなんて……」
母は感動したように呟き、目元をハンカチで押さえた。
リリアナは小さな口をいっぱいに開けて、幸せそうに頬張っていた。その口の周りは、甘辛いタレでベトベトだ。
次に、皆が汁物の椀を手に取った。
一口すすると、再び沈黙が訪れる。そして、誰からともなく、はぁーっと長いため息が漏れた。
野菜の甘みと、干し肉の出汁。それらが味噌という一つの調和によってまとめ上げられ、五臓六腑にじんわりと染み渡っていくような、優しい味わい。
誰もが、無言で椀を空にした。
そして、父がおかわりを求めた。この家の主が、食事のおかわりを要求するなど、前代未聞のことだった。
その日の食事は、もはや作業ではなかった。それは、喜びであり、発見であり、家族の笑顔が絶えない、温かい時間だった。
硬い黒パンは、いつの間にか皿の隅に追いやられていた。
食事の後、父は満足げな顔で俺に向き直った。
「リオよ」
その声には、深い感嘆が込められていた。
「お前は、畑に革命を起こしただけではなかったのだな。このアシュフォードの食卓にまで、革命を起こしてしまった」
「ただ、少し味付けを変えただけですよ」
俺がそう言うと、厨房の入り口で様子を窺っていたバルドが、首を横に振った。
「いいえ、リオ様。これは、ただ味付けを変えたなどというものではございません。料理というものの、概念そのものを変えてしまわれたのです」
彼の目は、料理人としての探究心と興奮で、爛々と輝いていた。
「リオ様! ぜひ、私にあの魔法の調味料の使い方を、もっと教えてください!」
その日から、アシュフォード家の食卓は一変した。
食事の時間は、苦痛から待ち遠しい楽しみへと変わった。家族の会話が増え、食卓にはいつも笑顔が溢れるようになった。
俺はリリアナの幸せそうな顔を見ながら、改めて食文化の重要性を噛み締めていた。
人を幸せにするのは、難しい理論や大掛かりな改革だけではない。
日々の食卓に並ぶ、温かい一皿。それこそが、何よりも人の心を豊かにするのだと。
アシュフォード領の革命は、また一つ、新たなステージへと進んだのだった。
アシュフォード領の西の端にある実験農地は、領民たちの度肝を抜く結果をもたらした。俺が導入した新農法で育てられた小麦の穂は、既存の畑のものより明らかに太く、その黄金色の輝きは密集して畑を埋め尽くしていた。
収穫の日、ゴードンたちが叩き出した数字は、誰もが予想だにしなかったものだった。
収穫量は、従来の畑の三倍近くに達していた。
「うおおお!」
「本当かよ……信じられねえ!」
農夫たちの歓声が、秋空に高く響き渡った。彼らは黄金色の麦の山を前に、抱き合って喜びを分かち合う。飢えの恐怖から解放されるという、何物にも代えがたい安堵と興奮が、そこにはあった。
約束通り、増えた分の収穫は全て彼らのものとなった。初めは俺を侮っていた農夫たちは、今や俺のことを「若き賢者様」と呼び、絶対の信頼を寄せるようになっていた。
領地の食料問題は、解決に向けて大きな一歩を踏み出した。
そして、もう一つの革命の時も、すぐそこまで迫っていた。
倉庫の片隅で、数ヶ月の眠りについていた二つの樽。醤油と味噌の熟成が終わる頃合いだった。
俺は料理長のバルドを連れて、薄暗い倉庫へ向かった。
「リオ様、本当にあの豆の塩漬けが食べ物になるんで?」
バルドは未だに半信半疑のようだ。彼の常識からすれば、樽の中身は腐っているか、ただの塩辛い豆の塊になっているはずなのだ。
「百聞は一見に如かずだ。まあ見てろ」
俺はまず、醤油用の樽の蓋を開けた。
その瞬間、ふわりと複雑で芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。塩のしょっぱさ、大豆のコク、そして小麦の甘さが渾然一体となった、これまでこの世界には存在しなかった香り。
バルドが「おお……」と驚きの声を漏らす。腐敗臭とは似ても似つかない、食欲をそそる香りだったからだ。
樽の中には、黒に近い茶褐色の液体と、その中に沈む「もろみ」があった。俺は長い柄杓でもろみを掬い上げ、用意した麻布でゆっくりと濾していく。
ぽたり、ぽたりと、漆黒の雫が下の桶に落ちていく。
やがて集まったのは、澄んだ黒い液体。醤油もどきの、産声だった。指先に少しつけて舐めてみる。塩辛さの奥に、舌に絡みつくような深いコクと、鼻に抜ける香ばしさ。
うま味。間違いない。
「よし、上出来だ」
次に俺は、味噌用の樽の蓋を開けた。こちらは醤油とはまた違う、よりまろやかで、食欲をそそる香りがした。
表面には産膜酵母が薄く張っていたが、それを取り除くと、下からは美しい赤茶色のペーストが現れた。これも少しだけ口に含む。塩気と、大豆の風味が凝縮された、力強いうま味の塊。味噌もまた、完璧な出来栄えだった。
その日の夕食。俺はバルドに頼み込み、厨房で自ら腕を振るった。
いや、腕を振るったのは主にバルドで、俺はその横で指示を出しただけだが。
メニューは二品。
一つは、領地で手に入った鹿肉を使った照り焼き。俺が作った醤油に、果物を煮詰めて作った簡易的なみりん風調味料を混ぜたタレを絡め、鉄板の上で焼いていく。
ジュウウウという音と共に、醤油が焦げる香ばしい匂いが厨房中に立ち込めた。その匂いは屋敷の廊下を抜け、食堂にまで届いていた。
「な、なんだこの匂いは……」
食堂で待っていた家族が、ざわめく気配がした。
もう一品は、具沢山の味噌汁。干し肉と野菜で丁寧に出汁を取り、そこに俺が作った味噌を溶き入れる。それだけで、ただの野菜スープが、信じられないほど深く、滋味豊かな汁物へと姿を変えた。
二つの料理が、いつもの食卓に並ぶ。
食卓を囲む家族は、目の前の料理を信じられないものを見る目で眺めていた。
黒く艶やかに輝く肉。湯気と共に豊かな香りを放つ汁物。それは、彼らが知る「食事」とは全くの別物だった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
俺の言葉に促され、父がおそるおそる肉を口に運んだ。
次の瞬間、父の目が大きく見開かれた。
「こ、これは……!」
しっかりとした歯ごたえの肉から、甘辛く、そして香ばしい肉汁がじゅわりと溢れ出す。その味の奥から、これまで経験したことのない、深く豊かな味わいが舌を包み込む。
母も、兄たちも、そしてリリアナも、次々と肉に手を伸ばし、その誰もが同じように驚愕の表情を浮かべた。
「うまい……なんだこれは、うますぎるぞ!」
いつもは俺を馬鹿にしている長兄のダリウスが、子供のようにはしゃいで肉を頬張っている。
「肉が、こんなに美味しくなるなんて……」
母は感動したように呟き、目元をハンカチで押さえた。
リリアナは小さな口をいっぱいに開けて、幸せそうに頬張っていた。その口の周りは、甘辛いタレでベトベトだ。
次に、皆が汁物の椀を手に取った。
一口すすると、再び沈黙が訪れる。そして、誰からともなく、はぁーっと長いため息が漏れた。
野菜の甘みと、干し肉の出汁。それらが味噌という一つの調和によってまとめ上げられ、五臓六腑にじんわりと染み渡っていくような、優しい味わい。
誰もが、無言で椀を空にした。
そして、父がおかわりを求めた。この家の主が、食事のおかわりを要求するなど、前代未聞のことだった。
その日の食事は、もはや作業ではなかった。それは、喜びであり、発見であり、家族の笑顔が絶えない、温かい時間だった。
硬い黒パンは、いつの間にか皿の隅に追いやられていた。
食事の後、父は満足げな顔で俺に向き直った。
「リオよ」
その声には、深い感嘆が込められていた。
「お前は、畑に革命を起こしただけではなかったのだな。このアシュフォードの食卓にまで、革命を起こしてしまった」
「ただ、少し味付けを変えただけですよ」
俺がそう言うと、厨房の入り口で様子を窺っていたバルドが、首を横に振った。
「いいえ、リオ様。これは、ただ味付けを変えたなどというものではございません。料理というものの、概念そのものを変えてしまわれたのです」
彼の目は、料理人としての探究心と興奮で、爛々と輝いていた。
「リオ様! ぜひ、私にあの魔法の調味料の使い方を、もっと教えてください!」
その日から、アシュフォード家の食卓は一変した。
食事の時間は、苦痛から待ち遠しい楽しみへと変わった。家族の会話が増え、食卓にはいつも笑顔が溢れるようになった。
俺はリリアナの幸せそうな顔を見ながら、改めて食文化の重要性を噛み締めていた。
人を幸せにするのは、難しい理論や大掛かりな改革だけではない。
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