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第八章 3日前
78 コンイェンのお手柄
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「あら? タオ? タオじゃないの!
なんでこんなところに寝ているの? 」
ラジオの放送が聴こえて来てうつらうつらしていたら、聞き覚えのある優しい声で目を覚ました。
楽器を収める箱の中に緞帳を敷いて寝袋に入っていた。寝ぼけ眼を擦りながら身を起して見上げたマーサさんは相変わらずキレイで美しく、まるで女神様のように見えた。
「ああ、マーサさん。おはよう・・・」
― こちらは、ラジオ・バカロレアです。
続きまして、催し物のご案内です。
来る26日10時より、フォルム街ユピテル・フォルムで、
第一回市民オーケストラコンサートが開かれます。
演目はモーツァルト、ベートーヴェン、ワグナーの交響曲の他、
ピアノ協奏曲、ピアノソナタなどで夜半過ぎまで行われるそうです。
出演は、ブランケンハイム室内楽団。
そしてピアノソリストはクィリナリス小学校6年生のタオ・ヴァインライヒ君・・・―
「なるほど。そういうことね」
ショールを巻きなおして長い金髪を掻き上げたマーサさんは親し気な微笑みを浮かべた。
「どうしても音の広がりを確認したかったので、早めにピアノを運んでもらったんです。でも、どうしてもピアノが心配になっちゃったので・・・」
「でも、毎朝こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうわ。
わたしのオフィスに来なさい。あったかいショコラとミルクをあげるわ」
「でも、誰かが番をしないと。ピアノになにかあったらタイヘンだし・・・」
「・・・わかったわ。ちょっと待ってなさい」
「え、ちょ・・・、マーサさんっ! 」
長いブーツの踵を鳴らして元老院広場の方に駆け去ったかと思うと、すぐに一人の屈強な兵士を連れて、彼女は戻ってきた。
「タオ。帝国軍で一番マジメで頼りになる兵隊さんを連れて来たわ。
あなたが朝ごはん食べてる間、彼がこのピアノを守ってくれる。
絶対よ! 」
思わず、幼い敬礼を捧げたタオに、その憲兵隊の隊長はニヤ、と笑って完璧な答礼をした。
「さ、ボーズ。早くいけ。お前が朝メシ食ってる間、オレが責任もってお前の大事なピアノを守ってやる」
同じラジオ放送は、バカロレアのすぐ隣、第三リセの体育用品置き場にもかすかに聞こえた。
体育マットの上に身を起こしたミハイルは高い窓から流れて来る声に荒い息を潜めた。
「タオ、やるなあ・・・。
26日か。行きたいな、コンサート」
すると、隣にいたヒルダも、髪を撫で服を直し身づくろいをしながら身を起こした。
千年前も、今も。
体育倉庫というのはマットがあり、平均台やVaulting跳馬運動の台などが保管されていた。校庭の隅にあり、普段は誰も来ず、若く、時間がなく、おカネもない学生の男女が密かに愛を営むにはうってつけの場所らしい。
「ねえん、ミーシャ! もう一回! いいでしょ? 」
「な、もうマズいって。次の授業には出なくちゃ。ぼくはいいけどさ、キミはバカロレアに進学するんだろ? 」
「だって、午後はミーシャがサッカーに行っちゃうじゃないの! 今しかないでしょ? 」
「でもさ・・・」
「ねえ、もう一回だけ。そしたら、校舎に帰ればいいわ」
「も、参ったなあ・・・」
そうして再び首っ玉に抱き着かれたミハイルは、ヒルダの甘い罠の中に落ちていった。
そして、そのすぐそばにあるバカロレア理学部電気学科の特設スタジオでは。
「ではこれで、朝のニュースの時間を終わります。
ここで音楽です。
穏やかに明けた朝に相応しい名曲をお届けします。
旧文明20世紀のルイ・アームストロングが歌う、『What a Wonderful World』この素晴らしき世界・・・」
カフをオフにしたアンは、隣のブースで蓄音機を回す後輩にキューを出した。
奇跡的に発見されたレコードから音を取って録音し直した、雑音はあるものの緩やかなストリングスとギターのアルペジオに乗せて、シブい声が味のある歌を歌い出した。
「ふう・・・」
赤いフワフワの髪からレシーバーを外したアンは、肩と首をグルグル回してコリをほぐした。
「なんとか、軌道に乗ったわね」
次のアナウンスを担当するためブースに着いた電波工学科の後輩。くすんだブロンドの4年生に声を掛けた。
「でも、アナウンスするのは別にデンパの学生じゃなくてもいいかもね。来月になったら学部長に相談して文系の子を選抜してみましょう」
「それもそうですね。でも・・・、」
くすんだブロンドを後ろで縛った後輩女子は、レシーバーを掛けながら大先輩を顧みた。
「自分の声が帝国中に流れるって、なんだかワクワクしますね! 」
「いいえ。マルセイユにアンプリファーと送受信システムを置いたから、チナ、じゃなかったドン辺りにも十分届くはずよ。将来的にはこのキー局の出力をもっと上げれば・・・」
「あ、そう言えば、先輩。もうすぐターラントにお戻りになるんですよね」
「そうなの。ミカサに乗艦してる夫が帰って来るから。26日にはここを出るわ」
「いいですね! 新婚さんて! 」
「ま、帰ってきたらきたで、いろいろとメンドウなんだけどね」
「とかいっちゃって、うふふ。
いつもダンナサマのことお話してるクセに。ごちそうさまです! 」
以前のアンなら、年下にこんな軽口を叩かれたらすぐに血がのぼっていた。
でも今は、ヨユーで聞き流せるし、むしろくすぐったくもある。
後輩女子は、大先輩の「人妻のヨユー」に感じ入りつつ、次のコーナーの原稿をチェックし始めた。
I see trees of green
Red roses too
I see them bloom
For me and you
And I think to myself
What a wonderful world
緑の木々が見える
赤い薔薇の花々も咲いている
ボクとキミのために
そして、ひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだろうか
アンが指摘したように。
「ラジオ・バカロレア」は、帝都からはるか2000キロ西のナイグンまで十分に届いていた。
旧ミンの本拠地だった里は、時差で約一時間帝都に遅れていた。
帝都ならば日の出と共に人々が活動を始めるが、ここ旧チナ地方ではまだ旧来の伝統に従ったゆったりとした時のながれるままにあった。
久しぶりに郷里に戻ったレイは、昨年のチナ戦役で焼け残った、館の風呂に浸かり、朝風呂と洒落ていた。
つい先日取り寄せたラジオ受信機。北の山に帝国軍が敷設した小さな発電用水車のお陰でわずかながら電力も供給されていた。
そのラジオから流れて来る、ゆったりとした優しくも麗しい歌に聴き惚れていた。
それは、レイには馴染みのない言葉で歌われていた。ドイツ語を母体とする帝国語はある程度話せる彼女だったが、これは? もしかして、これは、英語か?
「バラ」、「咲く」、そして「素晴らしい世界」
辛うじて帝国語に似た言葉、それにゆったりと優しく流れるメロディーのお陰で、意味は解らないながらも、なにやら心に沁みいる。
暖かい湯に身を浸していることも相まって、レイはいつになく寛いだひとときの中にいた。
ナイグンの街も変わった。
終戦当時こそ、激戦地となった橋周辺は辺り一面の焼野原だったが、鉄道が引かれ、駅の周辺に簡易ながらも種々の品物を鬻ぐ店が建ち並び、ミンの領民たちにも笑顔がもどっているのを感じた。
帝国軍は、何も奪わなかった。
それどころか、捕虜となった者のほとんどが帰って来て今はみな安堵して日々を暮らしている。
税も、チナの覇権下にあるころよりずっと安いし、いくさで働き手を喪った家は徴収を免除されてもいた。
しかも、所帯を持った者には家の建設費用の半分をほとんど無利子、10年据え置きの融資までしてくれた。
明らかに、以前よりずっと、民人たちは幸せに暮らしているのが見て取れた。
ミンの再興を断念したわけではない。
しかし、再び血を流してまでそれを強行する原理を失いつつあるのは、レイも感じていたのだ。
「誰かいるか? もう少し沸かしてくれ」
はい、と下男の返事が聴こえ、湯を掬って顔を洗った。
湯から漂い出て明るい窓の外に流れる湯気の行方を眺めながら、レイは独り言ちた。
「今しばらく。今しばらくは、様子を見ようか・・・」
And I think to myself
What a wonderful world
この、素晴らしき世界・・・。
レイは、目を閉じた。
すると・・・。
そこへ、若い男の声がした。
「レイ様。社長様の、ガン様の使いで参りました」
と。
「誰だ」
「コンです! 」
ああ。
帝都新聞にいる、ナイグンの生まれだという小僧じゃないか。
「どうしたのだ」
「ガン様より、火急のお手紙を届けろ、と」
「構わぬから入ってこい」
「え、でも、・・・マジですか? 」
まだ男になりきらぬ小僧であり、レイが女であることに気後れしているのだ。
ふふ。可愛いもんだ。
ザっと湯から上がり、湯屋の戸を開けた。
歳は若いがガタイの大きな小僧が視線を外して恥ずかしそうにそこにいた。
「ご苦労だった、コン。見せてみろ」
恐る恐るさしだされたそれの封を切り、ざっと目を通した。
そこには、驚くべき事態が記されていた。
帝国軍人の、反乱?
ああ。
おそらくは、あのバカロレアを追い出された教授の係わりだろう。
しかも、帝都で、だ。
しかも、なんと28日だと?!
火照った体が一気に冷めるのを感じた。
「コン。しばし、待て」
レイは今一度、湯に漬かった。
たった今、今しばらくは様子見と決心したばかり。
その決心を覆すに足る材料となるかこれが?
これはよくよく思案せねば・・・。
だが、決起の日はもう間近。決断は、今この時しかあり得ぬ。
ゆるやかに流れる時と湯に弛緩した頭脳をフル回転させ、レイは、まず物理面で可能か否かを判断した。
そこはやはり、武闘派ミンの娘であった。
そしてすぐに、まず物理面では不可能と断じた。
だいたい、時間が無さ過ぎる。
事前にその反乱部隊に合流しようにも今から帝都に帰っても間に合わぬ。ガンやシャオピンに任せるわけにも行かぬ。それから人を集めてもまず、無理だ。
そして、あまりにも先の見通しに乏しい。
うっかりこの蹶起につられて行動した場合のリスクが大きすぎる!
それに、今まで感じていたこともある。
民心は、平和を欲している。
このミンの里だけではない、ガンやシャオピンの言もある。
なによりも、レイ自身が、乗り気になれないでいる。
帝国をひっくり返す話に、高揚ではなく寒気を感じた自分がいるではないか。
レイは腹を決めた。
「コン、まだいるか? 」
はい!
戸板の向こうで声がした。
「遠慮は要らぬ。入ってこい。大きな声が出せぬのだ。入ってこい、コン! 」
女の風呂場に入れと言う。
物心ついてすでに母はなく、しかしコンイェンも年頃で、今まで2、3の小娘は抱いたが、大人の成熟したカラダには免疫がなく、しかも、レイは二重の意味で鬼門だった。
コンイェンは、スパイとして旧ミン一族のなかに潜入している立場なのである。
だが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
ここは目を瞑って、えい! とばかりに戸を開けた。
「そこでは遠い! もっと近くに! 」
やむなく、レイの浸かる風呂桶の縁に手を着かんばかりに寄った。
思ったよりも大きな乳房が、湯の中で揺れていた。
「コン。お前に重大な役目を与える。心して聞け」
レイはコンイェンのアタマを掴み、グッと引き寄せて耳に口を近づけ声音を落とした。
「は、はひ! 」
「これからすぐに駅に向かい、電信室に行け」
「電信室に? 」
「そうだ。そこから、『帝都新聞』あてに電報を打て」
「電報を。・・・なんと送りますか? 」
「いいか? こう打つのだ。 『手紙の件、当局に通報せよ』、と。それだけ打てば、社長には、ガンにはわかる」
「当局、ですか」
「そうだ」
湯船の中で、レイはザっと立ち上がった。
まだ青年になりきっていない少年にはいささか目に毒な、グラマラスな姿態がすぐ手の届くところにあった。
「事は一刻を争う! すぐに走るのだ、コン! 」
「わ、わかりました! 」
「そして、電報を打ったらここに戻るに及ばぬ。そのまま帝都に戻れ。我も今日の最終で帝都に帰る。わかったな?
わかったら、行け! 」
そうしてミンの里を後にしたコンイェンだったが、もちろん、彼の本当のボスのために動いた。
すなわち、駅には直行せず、かつての激戦地だった市内の橋のたもとに設けられた第六軍団のナイグン駐在事務所に向かったのだ。
軍団の部隊の兵営ではない。
第六軍団の支配に関わる地元民との連絡事務所である。最も多いのは、地元民の陳情を受ける仕事で、要は雑用係だ。
ほとんど休まずに2時間近く走りに走ったコンイェンは、その事務所のドアを叩いた。
「緊急事態なの! 開けて! 」
一般陳情の受付は午後からだったが、事務所の第六軍団の下士官は、聴こえて来たのがチナ語ではなく帝国語だったので怪訝に思いながらもドアを開けた。
「なんだ、小僧! 」
小僧というにはいささか大柄すぎる少年を見上げて、第六軍団の伍長はため息を吐いた。
「悪いけど、電話貸して」
「あのなあ、ボウズ。どこの誰かは知らんが、そんな奴に電話貸してと言われて、ハイそうですかと許すバカはここにはいない。帰れ、小僧! 」
「あ、オレにそういうこと言っていいのかい? 後からあんたの首が飛んでも知らないよ? 帝国の一大事なんだ。おとなしく言うとおりにした方が、身のためだぜ? 」
なにをこのクソ生意気な小僧め!
そんな言葉がノドまで出かかった伍長だったが、思うところあってその汚くてデカい小僧を事務所に入れた。
ちょうど昼時で、事務所には彼一人しかいなかった。
「じゃ、悪いけどあんた外出てて」
「あのなあ、大人しくしてりゃあつけあがりやがって!
いったい何なんだおまえわっ! 」
「わかったよ。んじゃあさ、今から言うところにあんたが電話して。
クィリナリスの特務部隊事務所へ。それでいいだろ? 」
「はあ? なんだって? 」
「ん、もう! バカなの? 死ぬの?
オレはコンイェン!
皇帝陛下直属、クィリナリスにある特務部隊オフィスの『マーキュリー』のとこに電話してって言ってるの! 早くしろよ! クビになりたいのか、ゴルァ! 」
イキナリやってきた汚いチナ人風の小僧にバカにされアタマに来たのと、皇帝陛下という単語にビビりがはいったのとで心が千々に乱れたが、よくよく考えた伍長は、電話を取り上げて言われた通りに交換に言った。
すると、果たして。
「あ、あの、こちら、第六軍団所属ナイグン連絡事務所の者ですが、今ここにコン、・・・なんだっけ? 」
「コンイェン! 」
「コンイェンという子供が来ましてそちらに、『マーキュリー』に電話しろと・・・。はい、はい、・・・はい、います。は? 」
伍長は、キツネにつままれた思いで、コンイェンに受話器を差し出した。
「・・・お前に代われ、と」
「ホラあ! だから言ったじゃん!
も、席外して。グズグズしない! とっとと出て行って! 」
アサシン・ヤヨイシリーズ ひとくちメモ
86 この素晴らしき世界
“What a Wonderful World”(この素晴らしき世界) 1967
作詞・作曲:Bob Thiele, George David Weiss
歌: Louis Armstrong
Louis Armstrong - What A Wonderful World (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=rBrd_3VMC3c&list=RDrBrd_3VMC3c&start_radio=1
なんでこんなところに寝ているの? 」
ラジオの放送が聴こえて来てうつらうつらしていたら、聞き覚えのある優しい声で目を覚ました。
楽器を収める箱の中に緞帳を敷いて寝袋に入っていた。寝ぼけ眼を擦りながら身を起して見上げたマーサさんは相変わらずキレイで美しく、まるで女神様のように見えた。
「ああ、マーサさん。おはよう・・・」
― こちらは、ラジオ・バカロレアです。
続きまして、催し物のご案内です。
来る26日10時より、フォルム街ユピテル・フォルムで、
第一回市民オーケストラコンサートが開かれます。
演目はモーツァルト、ベートーヴェン、ワグナーの交響曲の他、
ピアノ協奏曲、ピアノソナタなどで夜半過ぎまで行われるそうです。
出演は、ブランケンハイム室内楽団。
そしてピアノソリストはクィリナリス小学校6年生のタオ・ヴァインライヒ君・・・―
「なるほど。そういうことね」
ショールを巻きなおして長い金髪を掻き上げたマーサさんは親し気な微笑みを浮かべた。
「どうしても音の広がりを確認したかったので、早めにピアノを運んでもらったんです。でも、どうしてもピアノが心配になっちゃったので・・・」
「でも、毎朝こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうわ。
わたしのオフィスに来なさい。あったかいショコラとミルクをあげるわ」
「でも、誰かが番をしないと。ピアノになにかあったらタイヘンだし・・・」
「・・・わかったわ。ちょっと待ってなさい」
「え、ちょ・・・、マーサさんっ! 」
長いブーツの踵を鳴らして元老院広場の方に駆け去ったかと思うと、すぐに一人の屈強な兵士を連れて、彼女は戻ってきた。
「タオ。帝国軍で一番マジメで頼りになる兵隊さんを連れて来たわ。
あなたが朝ごはん食べてる間、彼がこのピアノを守ってくれる。
絶対よ! 」
思わず、幼い敬礼を捧げたタオに、その憲兵隊の隊長はニヤ、と笑って完璧な答礼をした。
「さ、ボーズ。早くいけ。お前が朝メシ食ってる間、オレが責任もってお前の大事なピアノを守ってやる」
同じラジオ放送は、バカロレアのすぐ隣、第三リセの体育用品置き場にもかすかに聞こえた。
体育マットの上に身を起こしたミハイルは高い窓から流れて来る声に荒い息を潜めた。
「タオ、やるなあ・・・。
26日か。行きたいな、コンサート」
すると、隣にいたヒルダも、髪を撫で服を直し身づくろいをしながら身を起こした。
千年前も、今も。
体育倉庫というのはマットがあり、平均台やVaulting跳馬運動の台などが保管されていた。校庭の隅にあり、普段は誰も来ず、若く、時間がなく、おカネもない学生の男女が密かに愛を営むにはうってつけの場所らしい。
「ねえん、ミーシャ! もう一回! いいでしょ? 」
「な、もうマズいって。次の授業には出なくちゃ。ぼくはいいけどさ、キミはバカロレアに進学するんだろ? 」
「だって、午後はミーシャがサッカーに行っちゃうじゃないの! 今しかないでしょ? 」
「でもさ・・・」
「ねえ、もう一回だけ。そしたら、校舎に帰ればいいわ」
「も、参ったなあ・・・」
そうして再び首っ玉に抱き着かれたミハイルは、ヒルダの甘い罠の中に落ちていった。
そして、そのすぐそばにあるバカロレア理学部電気学科の特設スタジオでは。
「ではこれで、朝のニュースの時間を終わります。
ここで音楽です。
穏やかに明けた朝に相応しい名曲をお届けします。
旧文明20世紀のルイ・アームストロングが歌う、『What a Wonderful World』この素晴らしき世界・・・」
カフをオフにしたアンは、隣のブースで蓄音機を回す後輩にキューを出した。
奇跡的に発見されたレコードから音を取って録音し直した、雑音はあるものの緩やかなストリングスとギターのアルペジオに乗せて、シブい声が味のある歌を歌い出した。
「ふう・・・」
赤いフワフワの髪からレシーバーを外したアンは、肩と首をグルグル回してコリをほぐした。
「なんとか、軌道に乗ったわね」
次のアナウンスを担当するためブースに着いた電波工学科の後輩。くすんだブロンドの4年生に声を掛けた。
「でも、アナウンスするのは別にデンパの学生じゃなくてもいいかもね。来月になったら学部長に相談して文系の子を選抜してみましょう」
「それもそうですね。でも・・・、」
くすんだブロンドを後ろで縛った後輩女子は、レシーバーを掛けながら大先輩を顧みた。
「自分の声が帝国中に流れるって、なんだかワクワクしますね! 」
「いいえ。マルセイユにアンプリファーと送受信システムを置いたから、チナ、じゃなかったドン辺りにも十分届くはずよ。将来的にはこのキー局の出力をもっと上げれば・・・」
「あ、そう言えば、先輩。もうすぐターラントにお戻りになるんですよね」
「そうなの。ミカサに乗艦してる夫が帰って来るから。26日にはここを出るわ」
「いいですね! 新婚さんて! 」
「ま、帰ってきたらきたで、いろいろとメンドウなんだけどね」
「とかいっちゃって、うふふ。
いつもダンナサマのことお話してるクセに。ごちそうさまです! 」
以前のアンなら、年下にこんな軽口を叩かれたらすぐに血がのぼっていた。
でも今は、ヨユーで聞き流せるし、むしろくすぐったくもある。
後輩女子は、大先輩の「人妻のヨユー」に感じ入りつつ、次のコーナーの原稿をチェックし始めた。
I see trees of green
Red roses too
I see them bloom
For me and you
And I think to myself
What a wonderful world
緑の木々が見える
赤い薔薇の花々も咲いている
ボクとキミのために
そして、ひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだろうか
アンが指摘したように。
「ラジオ・バカロレア」は、帝都からはるか2000キロ西のナイグンまで十分に届いていた。
旧ミンの本拠地だった里は、時差で約一時間帝都に遅れていた。
帝都ならば日の出と共に人々が活動を始めるが、ここ旧チナ地方ではまだ旧来の伝統に従ったゆったりとした時のながれるままにあった。
久しぶりに郷里に戻ったレイは、昨年のチナ戦役で焼け残った、館の風呂に浸かり、朝風呂と洒落ていた。
つい先日取り寄せたラジオ受信機。北の山に帝国軍が敷設した小さな発電用水車のお陰でわずかながら電力も供給されていた。
そのラジオから流れて来る、ゆったりとした優しくも麗しい歌に聴き惚れていた。
それは、レイには馴染みのない言葉で歌われていた。ドイツ語を母体とする帝国語はある程度話せる彼女だったが、これは? もしかして、これは、英語か?
「バラ」、「咲く」、そして「素晴らしい世界」
辛うじて帝国語に似た言葉、それにゆったりと優しく流れるメロディーのお陰で、意味は解らないながらも、なにやら心に沁みいる。
暖かい湯に身を浸していることも相まって、レイはいつになく寛いだひとときの中にいた。
ナイグンの街も変わった。
終戦当時こそ、激戦地となった橋周辺は辺り一面の焼野原だったが、鉄道が引かれ、駅の周辺に簡易ながらも種々の品物を鬻ぐ店が建ち並び、ミンの領民たちにも笑顔がもどっているのを感じた。
帝国軍は、何も奪わなかった。
それどころか、捕虜となった者のほとんどが帰って来て今はみな安堵して日々を暮らしている。
税も、チナの覇権下にあるころよりずっと安いし、いくさで働き手を喪った家は徴収を免除されてもいた。
しかも、所帯を持った者には家の建設費用の半分をほとんど無利子、10年据え置きの融資までしてくれた。
明らかに、以前よりずっと、民人たちは幸せに暮らしているのが見て取れた。
ミンの再興を断念したわけではない。
しかし、再び血を流してまでそれを強行する原理を失いつつあるのは、レイも感じていたのだ。
「誰かいるか? もう少し沸かしてくれ」
はい、と下男の返事が聴こえ、湯を掬って顔を洗った。
湯から漂い出て明るい窓の外に流れる湯気の行方を眺めながら、レイは独り言ちた。
「今しばらく。今しばらくは、様子を見ようか・・・」
And I think to myself
What a wonderful world
この、素晴らしき世界・・・。
レイは、目を閉じた。
すると・・・。
そこへ、若い男の声がした。
「レイ様。社長様の、ガン様の使いで参りました」
と。
「誰だ」
「コンです! 」
ああ。
帝都新聞にいる、ナイグンの生まれだという小僧じゃないか。
「どうしたのだ」
「ガン様より、火急のお手紙を届けろ、と」
「構わぬから入ってこい」
「え、でも、・・・マジですか? 」
まだ男になりきらぬ小僧であり、レイが女であることに気後れしているのだ。
ふふ。可愛いもんだ。
ザっと湯から上がり、湯屋の戸を開けた。
歳は若いがガタイの大きな小僧が視線を外して恥ずかしそうにそこにいた。
「ご苦労だった、コン。見せてみろ」
恐る恐るさしだされたそれの封を切り、ざっと目を通した。
そこには、驚くべき事態が記されていた。
帝国軍人の、反乱?
ああ。
おそらくは、あのバカロレアを追い出された教授の係わりだろう。
しかも、帝都で、だ。
しかも、なんと28日だと?!
火照った体が一気に冷めるのを感じた。
「コン。しばし、待て」
レイは今一度、湯に漬かった。
たった今、今しばらくは様子見と決心したばかり。
その決心を覆すに足る材料となるかこれが?
これはよくよく思案せねば・・・。
だが、決起の日はもう間近。決断は、今この時しかあり得ぬ。
ゆるやかに流れる時と湯に弛緩した頭脳をフル回転させ、レイは、まず物理面で可能か否かを判断した。
そこはやはり、武闘派ミンの娘であった。
そしてすぐに、まず物理面では不可能と断じた。
だいたい、時間が無さ過ぎる。
事前にその反乱部隊に合流しようにも今から帝都に帰っても間に合わぬ。ガンやシャオピンに任せるわけにも行かぬ。それから人を集めてもまず、無理だ。
そして、あまりにも先の見通しに乏しい。
うっかりこの蹶起につられて行動した場合のリスクが大きすぎる!
それに、今まで感じていたこともある。
民心は、平和を欲している。
このミンの里だけではない、ガンやシャオピンの言もある。
なによりも、レイ自身が、乗り気になれないでいる。
帝国をひっくり返す話に、高揚ではなく寒気を感じた自分がいるではないか。
レイは腹を決めた。
「コン、まだいるか? 」
はい!
戸板の向こうで声がした。
「遠慮は要らぬ。入ってこい。大きな声が出せぬのだ。入ってこい、コン! 」
女の風呂場に入れと言う。
物心ついてすでに母はなく、しかしコンイェンも年頃で、今まで2、3の小娘は抱いたが、大人の成熟したカラダには免疫がなく、しかも、レイは二重の意味で鬼門だった。
コンイェンは、スパイとして旧ミン一族のなかに潜入している立場なのである。
だが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
ここは目を瞑って、えい! とばかりに戸を開けた。
「そこでは遠い! もっと近くに! 」
やむなく、レイの浸かる風呂桶の縁に手を着かんばかりに寄った。
思ったよりも大きな乳房が、湯の中で揺れていた。
「コン。お前に重大な役目を与える。心して聞け」
レイはコンイェンのアタマを掴み、グッと引き寄せて耳に口を近づけ声音を落とした。
「は、はひ! 」
「これからすぐに駅に向かい、電信室に行け」
「電信室に? 」
「そうだ。そこから、『帝都新聞』あてに電報を打て」
「電報を。・・・なんと送りますか? 」
「いいか? こう打つのだ。 『手紙の件、当局に通報せよ』、と。それだけ打てば、社長には、ガンにはわかる」
「当局、ですか」
「そうだ」
湯船の中で、レイはザっと立ち上がった。
まだ青年になりきっていない少年にはいささか目に毒な、グラマラスな姿態がすぐ手の届くところにあった。
「事は一刻を争う! すぐに走るのだ、コン! 」
「わ、わかりました! 」
「そして、電報を打ったらここに戻るに及ばぬ。そのまま帝都に戻れ。我も今日の最終で帝都に帰る。わかったな?
わかったら、行け! 」
そうしてミンの里を後にしたコンイェンだったが、もちろん、彼の本当のボスのために動いた。
すなわち、駅には直行せず、かつての激戦地だった市内の橋のたもとに設けられた第六軍団のナイグン駐在事務所に向かったのだ。
軍団の部隊の兵営ではない。
第六軍団の支配に関わる地元民との連絡事務所である。最も多いのは、地元民の陳情を受ける仕事で、要は雑用係だ。
ほとんど休まずに2時間近く走りに走ったコンイェンは、その事務所のドアを叩いた。
「緊急事態なの! 開けて! 」
一般陳情の受付は午後からだったが、事務所の第六軍団の下士官は、聴こえて来たのがチナ語ではなく帝国語だったので怪訝に思いながらもドアを開けた。
「なんだ、小僧! 」
小僧というにはいささか大柄すぎる少年を見上げて、第六軍団の伍長はため息を吐いた。
「悪いけど、電話貸して」
「あのなあ、ボウズ。どこの誰かは知らんが、そんな奴に電話貸してと言われて、ハイそうですかと許すバカはここにはいない。帰れ、小僧! 」
「あ、オレにそういうこと言っていいのかい? 後からあんたの首が飛んでも知らないよ? 帝国の一大事なんだ。おとなしく言うとおりにした方が、身のためだぜ? 」
なにをこのクソ生意気な小僧め!
そんな言葉がノドまで出かかった伍長だったが、思うところあってその汚くてデカい小僧を事務所に入れた。
ちょうど昼時で、事務所には彼一人しかいなかった。
「じゃ、悪いけどあんた外出てて」
「あのなあ、大人しくしてりゃあつけあがりやがって!
いったい何なんだおまえわっ! 」
「わかったよ。んじゃあさ、今から言うところにあんたが電話して。
クィリナリスの特務部隊事務所へ。それでいいだろ? 」
「はあ? なんだって? 」
「ん、もう! バカなの? 死ぬの?
オレはコンイェン!
皇帝陛下直属、クィリナリスにある特務部隊オフィスの『マーキュリー』のとこに電話してって言ってるの! 早くしろよ! クビになりたいのか、ゴルァ! 」
イキナリやってきた汚いチナ人風の小僧にバカにされアタマに来たのと、皇帝陛下という単語にビビりがはいったのとで心が千々に乱れたが、よくよく考えた伍長は、電話を取り上げて言われた通りに交換に言った。
すると、果たして。
「あ、あの、こちら、第六軍団所属ナイグン連絡事務所の者ですが、今ここにコン、・・・なんだっけ? 」
「コンイェン! 」
「コンイェンという子供が来ましてそちらに、『マーキュリー』に電話しろと・・・。はい、はい、・・・はい、います。は? 」
伍長は、キツネにつままれた思いで、コンイェンに受話器を差し出した。
「・・・お前に代われ、と」
「ホラあ! だから言ったじゃん!
も、席外して。グズグズしない! とっとと出て行って! 」
アサシン・ヤヨイシリーズ ひとくちメモ
86 この素晴らしき世界
“What a Wonderful World”(この素晴らしき世界) 1967
作詞・作曲:Bob Thiele, George David Weiss
歌: Louis Armstrong
Louis Armstrong - What A Wonderful World (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=rBrd_3VMC3c&list=RDrBrd_3VMC3c&start_radio=1
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