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本編
(43)伯爵家の事情
しおりを挟む廊下を歩きながら、私はそっと横を見ました。
王国軍の制服を着たグロイン侯爵様が、私に合わせてゆっくりと歩いてくれています。
お仕事があるのだから、急いだ方がいいのだろうとは思います。
でも、侯爵様を追い越して歩くわけにもいきません。
心持ち歩幅を広げてみたり、歩調を上げてみたりしましたが、侯爵様は全く歩き方を変えないので元に戻すしかありませんでした。
……お見送りなんて、言い出すべきではなかった。
そう後悔してしまいます。
でも、この無言で歩くだけの時間も貴重なのです。侯爵様とこんなに長い距離を一緒に歩いた事はなかったのですから。
それに、二日連続でお会いできています。
顔を引き締めなければと思うのに、隣を歩く侯爵様を見上げていると、つい頬が緩んでしまいました。
「どうかしたか?」
顔を上げると、侯爵様が私を見ていました。
……あ。
もしかして、一人で笑っている顔を見られてしまいましたか?
まさか見られているとは思っていたかったので、恥ずかしくて両手で頬を押さえました。
でも、侯爵様はまだ私を見ています。
「笑っていたようだが、何かあっただろうか」
「あの、それは……」
「……ああ、姉君のことか。昨日もそうだったが、ずっと気が張っていただろうからな」
侯爵様は得心がいったように頷いて前を向きました。
「俺には何もできないが、ハーシェルたちが後はうまくやってくれる。まさかローヴィル公爵夫人が出てくるとは思わなかったが、より円滑に進んだと思う」
「……侯爵様がいなかったら、あの方たちも助けてはくれなかったと思います。知り合う機会だってありませんから。何より、侯爵様が昨日、私の味方になってくれました。だからあの方たちが動いてくれたのだと思います」
お父様の話が本当なら、今回のことで国王陛下まで巻き込んでしまったのですから、うまくいったのは侯爵様のおかげです。
「本当に感謝しています」
「役に立てたのならよかった。俺と結婚してくれたあなたには不幸になってほしくないから」
前を向いたまま、侯爵様は微笑んだようでした。
私はその横顔を見上げていましたが、足を速めて侯爵様の前に立ちました。
「侯爵様。私は不幸ではありませんよ? 侯爵様と結婚してから世界が広がりましたし、アルチーナ姉様とも少しだけよく話をするようになりました。ドレスも、今は本当に好きな色のものだけを着ていますし、新しいものも作っていいただきました。……あのままだったら、お母様が気まぐれに選んだものを、そのまま受け入れるだけだったと思います」
侯爵様は足を止めました。
ちらりと周囲に目を配って他に誰もいないことを確認し、わずかに身を屈めました。
「失礼だが、伯爵夫人は……あなたには冷たかったのか?」
「どうでしょうか。お母様はたまに目を向けてくれましたが、私にはいつも無関心でした。でも、それはそれで運が良かったのかもしれません。お姉様の方が気に入られていると思っていたのに、そうではなかったようなので」
私を見つめる目が真剣だったので、私は正直に言ってしまいました。
侯爵様は黙って聞いていました。
そして何かを決意したように目を閉じ、それから私の肩に手を置き、軽く押して歩き始めました。
戸惑いながら、私も歩きます。
しばらく無言で歩いている間も、侯爵様の大きな手は肩から離れませんでした。
体がすっぽりと侯爵様のマントの中に包み込まれるような、侯爵様の体の体温まで感じる距離です。
近すぎるとか、誰かに見られているのではないかとか気になっていたら、侯爵様が前を見たままつぶやきました。
「伯爵夫人とアルチーナ嬢の関係をご存じか?」
「え?」
驚いて歩きながら見上げますが、侯爵様は前を向いたまま、独り言のように言葉を続けました。
「結婚の話が来たときにハーシェルが調べた。……アルチーナ嬢は、伯爵夫人が産んだ子ではないそうだ。母親は伯爵夫人が用意した女性で、今も使用人として近くにいると聞いている。高位の貴族には稀にあることらしい」
……驚きました。
でも、私は不思議と落ち着いて受け止めている気がします。知ってしまえば特に意外とも思いませんでした。
結婚した翌日、アルチーナ姉様が教えてくれました。お母様は、そう言うことに長けている、と。
では、お母様には絶対に逆らえないであろうお姉様の生母は……。
そこまで考えて、ふと気付きました。
お母様は、私に対しては完全に無関心でした。
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