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3 貴公子
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エルザはどんどん湖の深みへと進んでいった。知らず知らずのうちにエルザは好きだった初恋の歌を口ずさんでいた。
胸の位置まで水が迫ってきていた時、エルザの歌声に気づいた者がいた。
「セイレーンの歌声か?」
白く美しい馬に乗った一人の貴公子が湖の方に目を向けた。貴公子は弓矢を携えており狩の途中のようだった。
貴公子は湖の前まで来るとエルザの妖精のような美しい歌声にしばし聴き入っていた。だがすぐに歌いながら水に沈もうとしているエルザに気づいた。
「危ないっ!!」
エルザの頭がとぷんと水に沈み右手だけがむなしく空を彷徨っていた。貴公子は水に飛び込みエルザを引っ張り上げた。そして抱きかかえるように泳ぎながら岸辺へと連れ戻した。
「おいっ大丈夫か!?」
何度か咳をしたがエルザは大して水を飲んでいないようだった。頬を腫らしたエルザがまだほんの少女で貴公子は驚き痛ましく思った。
「何か辛いことがあったんだろう。でも神様に頂いた命を粗末にしてはいけないよ」
「……」
エルザは応えなかった。グレイから浴びせられた酷い言葉がエルザから正気を奪ったままだった。
「さあ。よかったらこれを食べて」
貴公子は美しい紙に包まれたバタークッキーをエルザに渡した。ほんのり甘いバターの香りがエルザの鼻をくすぐった。バタークッキーは幼い頃からエルザの好物だった。久しく食べていない思い出の味を思い出しエルザは夢から醒めたように正気に戻った。
顔を上げると目の前にすらりと背の高い貴公子が微笑んだ。
「ありがとうございました」
エルザは無意識に令嬢時代のカーテシーを行った。貴公子が驚いてエルザをまじまじと見た。粗末な衣服を着ているのに、しなやかで優雅なカーテシーは育ちの良さと教養を感じるものだった。
「君は……ただの平民ではないのか?」
自分がカーテシーをしてしまったことに気付いたエルザはぎょっとした。
「あ、いえっ、私はただの、ただの平民です」
もし身分を明かせば実家の恥になってしまう。そう思ったエルザはしどろもどろになりながらそうごまかした。
この子には何か事情がありそうだ。
貴公子は事情を察しここでエルザに会ったことは胸にしまうことにした。
「もう変な気を起こすのではないぞ」
エルザの意識がしっかりしたことを確認した貴公子は颯爽と白馬にまたがり去っていった。
エルザは貴公子の緑と青を混ぜたようなこの国では見たこともないピーコックブルーの瞳を今更ながらぼんやりと思い返していた。
湖から離れ馬で進んでいると従者が貴公子に追いついて立ち止まった。
「殿下、ここにいらしたのですか!探しましたよ」
「すまなかった。ユザールが速すぎるのだ」
貴公子は愛馬の名前を言って馬の首をなでた。
「殿下、ずぶ濡れではありませんか」
従者が怪訝そうに貴公子を眺めた。
「ああ。セイレーンを助けていた。大丈夫だ。初夏の陽気ですぐに乾くだろう」
「セイレーン?海ではなく湖にいたのですか?またご冗談を」
従者は冗談を言っているのだと思い、貴公子に笑いかけた。
「さあ、参りましょう。向こうで鹿の群れを見つけました」
二人は馬で森の向こうへ走っていった。馬で去りながら貴公子は後ろを振り返り「本当に妖精のように儚げだったな」とエルザがいた湖の方を名残惜しそうに見ながら呟いた。
胸の位置まで水が迫ってきていた時、エルザの歌声に気づいた者がいた。
「セイレーンの歌声か?」
白く美しい馬に乗った一人の貴公子が湖の方に目を向けた。貴公子は弓矢を携えており狩の途中のようだった。
貴公子は湖の前まで来るとエルザの妖精のような美しい歌声にしばし聴き入っていた。だがすぐに歌いながら水に沈もうとしているエルザに気づいた。
「危ないっ!!」
エルザの頭がとぷんと水に沈み右手だけがむなしく空を彷徨っていた。貴公子は水に飛び込みエルザを引っ張り上げた。そして抱きかかえるように泳ぎながら岸辺へと連れ戻した。
「おいっ大丈夫か!?」
何度か咳をしたがエルザは大して水を飲んでいないようだった。頬を腫らしたエルザがまだほんの少女で貴公子は驚き痛ましく思った。
「何か辛いことがあったんだろう。でも神様に頂いた命を粗末にしてはいけないよ」
「……」
エルザは応えなかった。グレイから浴びせられた酷い言葉がエルザから正気を奪ったままだった。
「さあ。よかったらこれを食べて」
貴公子は美しい紙に包まれたバタークッキーをエルザに渡した。ほんのり甘いバターの香りがエルザの鼻をくすぐった。バタークッキーは幼い頃からエルザの好物だった。久しく食べていない思い出の味を思い出しエルザは夢から醒めたように正気に戻った。
顔を上げると目の前にすらりと背の高い貴公子が微笑んだ。
「ありがとうございました」
エルザは無意識に令嬢時代のカーテシーを行った。貴公子が驚いてエルザをまじまじと見た。粗末な衣服を着ているのに、しなやかで優雅なカーテシーは育ちの良さと教養を感じるものだった。
「君は……ただの平民ではないのか?」
自分がカーテシーをしてしまったことに気付いたエルザはぎょっとした。
「あ、いえっ、私はただの、ただの平民です」
もし身分を明かせば実家の恥になってしまう。そう思ったエルザはしどろもどろになりながらそうごまかした。
この子には何か事情がありそうだ。
貴公子は事情を察しここでエルザに会ったことは胸にしまうことにした。
「もう変な気を起こすのではないぞ」
エルザの意識がしっかりしたことを確認した貴公子は颯爽と白馬にまたがり去っていった。
エルザは貴公子の緑と青を混ぜたようなこの国では見たこともないピーコックブルーの瞳を今更ながらぼんやりと思い返していた。
湖から離れ馬で進んでいると従者が貴公子に追いついて立ち止まった。
「殿下、ここにいらしたのですか!探しましたよ」
「すまなかった。ユザールが速すぎるのだ」
貴公子は愛馬の名前を言って馬の首をなでた。
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「ああ。セイレーンを助けていた。大丈夫だ。初夏の陽気ですぐに乾くだろう」
「セイレーン?海ではなく湖にいたのですか?またご冗談を」
従者は冗談を言っているのだと思い、貴公子に笑いかけた。
「さあ、参りましょう。向こうで鹿の群れを見つけました」
二人は馬で森の向こうへ走っていった。馬で去りながら貴公子は後ろを振り返り「本当に妖精のように儚げだったな」とエルザがいた湖の方を名残惜しそうに見ながら呟いた。
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