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第35話:空き部屋のドアポストに届く、差出人不明の“遺書”
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その部屋は、もう十年以上も空いているはずだった。
駅から徒歩五分。
古びた団地の三階、302号室。
住人が夜逃げ同然に姿を消して以来、誰も住んでいないと聞く。
けれど、なぜか管理会社はその部屋だけを「募集停止」にしたままだ。
掲示板にも名前が載らず、郵便受けはいつも空で、窓は閉ざされている。
それでも――毎月決まった日に、何かが届く。
それに気づいたのは、偶然だった。
俺は同じ団地の別棟に住んでいるが、ゴミ出しの帰りにたまたま302号室の前を通った。
ドアポストから、白い封筒が、半分だけ飛び出していた。
表には、宛名も住所も記されていない。
ただ、封の部分に小さな文字でこう書かれていた。
「読んでくれる、誰かへ」
迷った末、俺はその封筒を手に取った。
中には、一枚の便箋。
走り書きのような文字で、こう綴られていた。
「わたしは、もうだめです。
ここに書くことで、誰かがわたしを見てくれるのなら、
せめてそれで、最後にしたい。
消えていくとき、何も残さないのは、やっぱりこわいから」
それは、いわゆる“遺書”のようだった。
けれど、日付は五年前。
投函されたばかりのような綺麗な紙だった。
気味が悪くなった俺は、封筒ごとポストに戻した。
だが、それから毎月――
同じような便箋が、ポストに差し込まれるようになった。
文章は少しずつ変わっていた。
「まだ消えていないのかもしれない。
でも、ここにいても、誰にも見られない。
どうして、名乗ることが怖いのだろう。
わたしは、わたしの名前さえ忘れてしまった」
何度も読むうちに、俺は奇妙なことに気づいた。
便箋の筆跡が、少しずつ“変化”していた。
最初は女の子のような、丸みのある文字だった。
だが、ある時期から、急に大人びた筆致になり、
さらに、乱れた走り書きになっていった。
あたかも、何年もの間に書かれたように。
だがそれらは、毎月届いているのだ。
まるで、“その人”がこの部屋で、
時間の感覚を持たず、手紙だけを書き続けているように。
その後、俺は管理人に302号室のことを尋ねた。
返ってきたのは、短く、固い返事だった。
「……あそこは、鍵が開かないんですよ。
ずっと、開けようとしてるんですけどね。中に誰かいるわけじゃないのに」
俺はそれ以上、聞くことができなかった。
だが、気になって夜に再び部屋の前を訪れたとき、
ドアポストの下に、一通の封筒が落ちていた。
拾い上げると、封筒は濡れていた。
中の便箋には、たった一行だけ。
「あなたが、わたしの“読者”になってくれたから、やっと、終われる」
その翌月から、ポストに手紙は届かなくなった。
302号室は今も空室のままだ。
だが、ドアの覗き窓にうっすらと、何かが映っている気がする。
気のせいだと、思いたい。
けれど、ときおり耳元で聞こえる声がある。
「読んでくれて、ありがとう」
―――――――――――――――――――――――
あとがき
第35話『空き部屋のドアポストに届く、差出人不明の“遺書”』をお読みいただきありがとうございました。
“誰にも届かない言葉”というのは、
誰かに“読まれる”ことで、ようやく意味を持つのかもしれません。
それが、たとえ死者の手紙だったとしても――。
次回は『第36話:壊された時計の針が、毎年命日だけ動き出す』を予定しています。
―――――――――――――――――――――――
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住人が夜逃げ同然に姿を消して以来、誰も住んでいないと聞く。
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掲示板にも名前が載らず、郵便受けはいつも空で、窓は閉ざされている。
それでも――毎月決まった日に、何かが届く。
それに気づいたのは、偶然だった。
俺は同じ団地の別棟に住んでいるが、ゴミ出しの帰りにたまたま302号室の前を通った。
ドアポストから、白い封筒が、半分だけ飛び出していた。
表には、宛名も住所も記されていない。
ただ、封の部分に小さな文字でこう書かれていた。
「読んでくれる、誰かへ」
迷った末、俺はその封筒を手に取った。
中には、一枚の便箋。
走り書きのような文字で、こう綴られていた。
「わたしは、もうだめです。
ここに書くことで、誰かがわたしを見てくれるのなら、
せめてそれで、最後にしたい。
消えていくとき、何も残さないのは、やっぱりこわいから」
それは、いわゆる“遺書”のようだった。
けれど、日付は五年前。
投函されたばかりのような綺麗な紙だった。
気味が悪くなった俺は、封筒ごとポストに戻した。
だが、それから毎月――
同じような便箋が、ポストに差し込まれるようになった。
文章は少しずつ変わっていた。
「まだ消えていないのかもしれない。
でも、ここにいても、誰にも見られない。
どうして、名乗ることが怖いのだろう。
わたしは、わたしの名前さえ忘れてしまった」
何度も読むうちに、俺は奇妙なことに気づいた。
便箋の筆跡が、少しずつ“変化”していた。
最初は女の子のような、丸みのある文字だった。
だが、ある時期から、急に大人びた筆致になり、
さらに、乱れた走り書きになっていった。
あたかも、何年もの間に書かれたように。
だがそれらは、毎月届いているのだ。
まるで、“その人”がこの部屋で、
時間の感覚を持たず、手紙だけを書き続けているように。
その後、俺は管理人に302号室のことを尋ねた。
返ってきたのは、短く、固い返事だった。
「……あそこは、鍵が開かないんですよ。
ずっと、開けようとしてるんですけどね。中に誰かいるわけじゃないのに」
俺はそれ以上、聞くことができなかった。
だが、気になって夜に再び部屋の前を訪れたとき、
ドアポストの下に、一通の封筒が落ちていた。
拾い上げると、封筒は濡れていた。
中の便箋には、たった一行だけ。
「あなたが、わたしの“読者”になってくれたから、やっと、終われる」
その翌月から、ポストに手紙は届かなくなった。
302号室は今も空室のままだ。
だが、ドアの覗き窓にうっすらと、何かが映っている気がする。
気のせいだと、思いたい。
けれど、ときおり耳元で聞こえる声がある。
「読んでくれて、ありがとう」
―――――――――――――――――――――――
あとがき
第35話『空き部屋のドアポストに届く、差出人不明の“遺書”』をお読みいただきありがとうございました。
“誰にも届かない言葉”というのは、
誰かに“読まれる”ことで、ようやく意味を持つのかもしれません。
それが、たとえ死者の手紙だったとしても――。
次回は『第36話:壊された時計の針が、毎年命日だけ動き出す』を予定しています。
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