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3章
26話「記憶の檻、試練の迷宮」
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――闇。
いや、これはただの暗闇ではない。
感覚も思考も、まるで分厚い霧のなかで窒息しかけているような、そんな重い静寂だった。
カイラス・ヴァルドレンは、ひとりきりで立ち尽くしていた。
自分が何者で、なぜここにいるのか。
ほんのわずかな光も、音も、遠ざかっていく。
(これは……忘却の神の“試練”か)
それでも、カイラスの胸には確かな熱が残っていた。
胸の奥に、忘れてはならないものがある。
そう信じて、彼は足を一歩踏み出した。
* * *
靄に包まれた世界。
足元には、どこか見覚えのある石畳が続いている。
遠い昔、辺境の村で――幼い自分がよろよろと歩いた路地裏。
時折、霧の向こうから子どもたちの笑い声や、家々の明かりがちらついた。
カイラスは立ち止まり、しばし周囲を見渡す。
(……こんなに、あたたかかっただろうか)
子どもの自分が、古ぼけた木剣を振り回しながら走ってくる。
「見てて、お父さんみたいな騎士になるから!」
屈託なく叫ぶ、その幼い声。
けれど、父の姿は霞み、やがて霧に消えていく。
「……父さん……」
カイラスは、知らず知らず拳を握っていた。
突然、目の前の世界が大きく揺らぎ、景色が切り替わる。
* * *
そこは、戦場だった。
血の匂い、火薬の焦げる臭い、鋼と鋼がぶつかりあう音。
砦が襲撃され、仲間たちが倒れていく。
「団長、こっちです!」
若い兵士が叫び、カイラスはその手を引いた。
「俺に、任せろ!」
剣を抜き、敵に立ち向かう。しかし、目の前で兵士のひとりが胸を槍で貫かれる。
「団長……どうして……助けてくれなかったんですか……」
兵士の声が、血にまみれた手のひらのように、カイラスの心を強く握りつぶす。
(俺が、もっと早く……もっと強ければ……)
戦場の景色はやがて赤黒い靄へと溶け、声だけが残る。
「――俺は、お前たちの痛みを、絶対に忘れたりしない。たとえ、俺ひとりになっても……」
自分に言い聞かせるように、カイラスは何度も繰り返した。
* * *
場面がまた変わる。
そこはグランツ砦の訓練場。
エイミーが笑顔で大鍋をかき混ぜている。
兵士たちが冗談を飛ばしあい、ノクティアが書類を広げて困ったような顔をしていた。
(こんな、ささいな日常が……どれほど大切だったのか)
けれど、ふいに訓練場にいた兵士たちがひとり、またひとりと煙のように消えていく。
「……あれ? みんな、どこに行ったんだ?」
カイラスの声に、誰も応じない。
気づけば、エイミーも、レオナートも、ノクティアさえも霧の中に溶けて消えそうになっている。
「ノクティア……! みんな……! どこだ……!」
叫び、駆け寄ろうとするが、足元が泥のように重くなり、一歩も進めない。
(全部、消えてしまう……それでも……)
「絶対に、思い出す。何度だって、俺はみんなを呼ぶ!」
* * *
そのとき、頭の奥にノクティアの声が響いた。
『カイラス、私はここにいるわ。私たちの記憶を信じて』
ハッと顔を上げる。
霧の向こうに、ノクティアが立っていた。
手には魔導書、髪には砦の春の風。
ただ、瞳だけが不安に揺れている。
カイラスは、全身の力を振り絞って手を伸ばした。
「ノクティア――!」
けれど、彼女の姿は蜃気楼のように滲んで、届きそうで届かない。
「絶対に、消させやしない。お前がどれほど遠くへ行こうとも、俺は――」
叫びと共に、靄がほんの少し薄れた。
* * *
今度は砦の広場。
レオナートが立っている。
いつもの誠実そうな眼差しで、カイラスをじっと見つめていた。
「団長、僕は本当にここにいますか? それともあなたの記憶の幻ですか?」
「お前は俺の仲間だ。何度消えかけても、必ず呼び戻す。それが、俺たちの“絆”だろう」
レオナートは微笑んだ。
「……団長のそういうところ、尊敬しています」
言葉が終わると、レオナートも霧の奥に溶けていった。
(全員……消えてしまうのか……?)
心が深い孤独に沈む。
だが、そのときふいに、自分の胸の奥からあたたかいものが湧き上がってきた。
(いや、俺は一人じゃない。みんなが俺の中にいる――)
自分にそう言い聞かせ、再び歩き始める。
* * *
歩き続けるうちに、霧の奥に重厚な扉が現れた。
その前に、銀髪の女性――アムネリスが立っていた。
砦で初めて出会った時よりも、どこか哀しみを湛えた瞳で、静かにカイラスを見つめる。
「カイラス。君の意志は確かだ。だが、本当に全ての痛みと悲しみを背負い、なお進む覚悟はあるか?」
カイラスは、過去の自分や消えていった仲間たちの面影を思い出す。
幾度も背を向けそうになった痛み、忘れてしまいたかった後悔――
それでも、胸の奥にある確かな灯を、今だけは絶対に消したくなかった。
「……俺は、逃げない。どんなに辛くても、誰かが忘れても、俺は思い出し続ける。それが俺の戦いだ」
アムネリスは目を細め、少しだけ微笑む。
「君の選択を、忘却の神に示しなさい。世界が“消える”のを望むか、それとも君自身の記憶と絆で抗うのか――」
カイラスは深呼吸をし、扉に手をかける。
その瞬間、扉の奥から無数の声――かつて交わした約束や、悔しさや、温かい思い出が、奔流のようにあふれてきた。
(そうだ、全部が俺の一部なんだ。守りたかったもの、支えてくれた声。俺は絶対に手放さない)
カイラスは力強く一歩を踏み出す。
* * *
目を開けると、砦の広場に立っていた。
辺りはすでに黄昏時、空は茜色に染まり、見慣れた仲間たちが彼を囲んでいる。
ノクティアが駆け寄る。「カイラス、戻ってきたのね!」
エイミーも涙ぐみながら彼に抱きついた。
「団長、おかえりなさい!」
レオナートが敬礼し、誇らしげに微笑んでいる。
「皆が“カイラス団長”を信じていたから、僕たちも踏みとどまれたんです」
カイラスは全員の顔をゆっくりと見渡す。
「……ありがとう。俺がここにいられるのは、みんなのおかげだ。俺は、これからもお前たちを絶対に忘れない。守り続ける」
その言葉に、砦中の人々が拍手を送る。
小さな子どもたちも、母親たちも、エイミーもレオナートも、みな確かな存在感を取り戻したように輝いていた。
カイラスはゆっくりと空を見上げた。
そこには、消えかけていたはずの星が、ひとつ、またひとつと光を取り戻し始めていた。
(これが、俺たちの“抗い”なんだ。世界は、まだ終わっていない――)
彼の心には、確かな決意が灯っていた。
いや、これはただの暗闇ではない。
感覚も思考も、まるで分厚い霧のなかで窒息しかけているような、そんな重い静寂だった。
カイラス・ヴァルドレンは、ひとりきりで立ち尽くしていた。
自分が何者で、なぜここにいるのか。
ほんのわずかな光も、音も、遠ざかっていく。
(これは……忘却の神の“試練”か)
それでも、カイラスの胸には確かな熱が残っていた。
胸の奥に、忘れてはならないものがある。
そう信じて、彼は足を一歩踏み出した。
* * *
靄に包まれた世界。
足元には、どこか見覚えのある石畳が続いている。
遠い昔、辺境の村で――幼い自分がよろよろと歩いた路地裏。
時折、霧の向こうから子どもたちの笑い声や、家々の明かりがちらついた。
カイラスは立ち止まり、しばし周囲を見渡す。
(……こんなに、あたたかかっただろうか)
子どもの自分が、古ぼけた木剣を振り回しながら走ってくる。
「見てて、お父さんみたいな騎士になるから!」
屈託なく叫ぶ、その幼い声。
けれど、父の姿は霞み、やがて霧に消えていく。
「……父さん……」
カイラスは、知らず知らず拳を握っていた。
突然、目の前の世界が大きく揺らぎ、景色が切り替わる。
* * *
そこは、戦場だった。
血の匂い、火薬の焦げる臭い、鋼と鋼がぶつかりあう音。
砦が襲撃され、仲間たちが倒れていく。
「団長、こっちです!」
若い兵士が叫び、カイラスはその手を引いた。
「俺に、任せろ!」
剣を抜き、敵に立ち向かう。しかし、目の前で兵士のひとりが胸を槍で貫かれる。
「団長……どうして……助けてくれなかったんですか……」
兵士の声が、血にまみれた手のひらのように、カイラスの心を強く握りつぶす。
(俺が、もっと早く……もっと強ければ……)
戦場の景色はやがて赤黒い靄へと溶け、声だけが残る。
「――俺は、お前たちの痛みを、絶対に忘れたりしない。たとえ、俺ひとりになっても……」
自分に言い聞かせるように、カイラスは何度も繰り返した。
* * *
場面がまた変わる。
そこはグランツ砦の訓練場。
エイミーが笑顔で大鍋をかき混ぜている。
兵士たちが冗談を飛ばしあい、ノクティアが書類を広げて困ったような顔をしていた。
(こんな、ささいな日常が……どれほど大切だったのか)
けれど、ふいに訓練場にいた兵士たちがひとり、またひとりと煙のように消えていく。
「……あれ? みんな、どこに行ったんだ?」
カイラスの声に、誰も応じない。
気づけば、エイミーも、レオナートも、ノクティアさえも霧の中に溶けて消えそうになっている。
「ノクティア……! みんな……! どこだ……!」
叫び、駆け寄ろうとするが、足元が泥のように重くなり、一歩も進めない。
(全部、消えてしまう……それでも……)
「絶対に、思い出す。何度だって、俺はみんなを呼ぶ!」
* * *
そのとき、頭の奥にノクティアの声が響いた。
『カイラス、私はここにいるわ。私たちの記憶を信じて』
ハッと顔を上げる。
霧の向こうに、ノクティアが立っていた。
手には魔導書、髪には砦の春の風。
ただ、瞳だけが不安に揺れている。
カイラスは、全身の力を振り絞って手を伸ばした。
「ノクティア――!」
けれど、彼女の姿は蜃気楼のように滲んで、届きそうで届かない。
「絶対に、消させやしない。お前がどれほど遠くへ行こうとも、俺は――」
叫びと共に、靄がほんの少し薄れた。
* * *
今度は砦の広場。
レオナートが立っている。
いつもの誠実そうな眼差しで、カイラスをじっと見つめていた。
「団長、僕は本当にここにいますか? それともあなたの記憶の幻ですか?」
「お前は俺の仲間だ。何度消えかけても、必ず呼び戻す。それが、俺たちの“絆”だろう」
レオナートは微笑んだ。
「……団長のそういうところ、尊敬しています」
言葉が終わると、レオナートも霧の奥に溶けていった。
(全員……消えてしまうのか……?)
心が深い孤独に沈む。
だが、そのときふいに、自分の胸の奥からあたたかいものが湧き上がってきた。
(いや、俺は一人じゃない。みんなが俺の中にいる――)
自分にそう言い聞かせ、再び歩き始める。
* * *
歩き続けるうちに、霧の奥に重厚な扉が現れた。
その前に、銀髪の女性――アムネリスが立っていた。
砦で初めて出会った時よりも、どこか哀しみを湛えた瞳で、静かにカイラスを見つめる。
「カイラス。君の意志は確かだ。だが、本当に全ての痛みと悲しみを背負い、なお進む覚悟はあるか?」
カイラスは、過去の自分や消えていった仲間たちの面影を思い出す。
幾度も背を向けそうになった痛み、忘れてしまいたかった後悔――
それでも、胸の奥にある確かな灯を、今だけは絶対に消したくなかった。
「……俺は、逃げない。どんなに辛くても、誰かが忘れても、俺は思い出し続ける。それが俺の戦いだ」
アムネリスは目を細め、少しだけ微笑む。
「君の選択を、忘却の神に示しなさい。世界が“消える”のを望むか、それとも君自身の記憶と絆で抗うのか――」
カイラスは深呼吸をし、扉に手をかける。
その瞬間、扉の奥から無数の声――かつて交わした約束や、悔しさや、温かい思い出が、奔流のようにあふれてきた。
(そうだ、全部が俺の一部なんだ。守りたかったもの、支えてくれた声。俺は絶対に手放さない)
カイラスは力強く一歩を踏み出す。
* * *
目を開けると、砦の広場に立っていた。
辺りはすでに黄昏時、空は茜色に染まり、見慣れた仲間たちが彼を囲んでいる。
ノクティアが駆け寄る。「カイラス、戻ってきたのね!」
エイミーも涙ぐみながら彼に抱きついた。
「団長、おかえりなさい!」
レオナートが敬礼し、誇らしげに微笑んでいる。
「皆が“カイラス団長”を信じていたから、僕たちも踏みとどまれたんです」
カイラスは全員の顔をゆっくりと見渡す。
「……ありがとう。俺がここにいられるのは、みんなのおかげだ。俺は、これからもお前たちを絶対に忘れない。守り続ける」
その言葉に、砦中の人々が拍手を送る。
小さな子どもたちも、母親たちも、エイミーもレオナートも、みな確かな存在感を取り戻したように輝いていた。
カイラスはゆっくりと空を見上げた。
そこには、消えかけていたはずの星が、ひとつ、またひとつと光を取り戻し始めていた。
(これが、俺たちの“抗い”なんだ。世界は、まだ終わっていない――)
彼の心には、確かな決意が灯っていた。
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