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第七話〜前夜〜
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「わあ、すごい!」
玲がホテルのロビーを見渡して目を輝かせた。派手さはないけれど、余計なものがなく洗練された空間。白を基調とした壁と、淡い色合いの木製の家具が、居心地の良さを感じさせる。私たちは、今まで見たことのあるどのホテルとも違う、その無駄のない空間に少しだけ気圧されていた。
「本当に、明日なんだね」
玲が少し緊張した面持ちで、私のほうを向いた。
一週間前に、ダンス審査があった三次審査の通過を知らせる郵送が届いた。
歌唱審査まではリモートだったため、玲と私が他の候補者たちと直接顔を合わせたのはダンス審査の会場が初めてだった。
玲は部活でもダンス経験があるから自信があったみたいだけど、私は他の候補者のビジュアルといかにもダンスのうまそうなオーラに圧倒されてただただ緊張していた。それでも、とにかく踊る楽しさを意識して踊ってみた。うまく笑えていたかは分からないけど、振りを間違えずに正確に踊ることに精一杯だった段階を乗り越えた自覚はあった。それが、私がダンス審査を通過できた決め手になったんだと思う。
審査は何組かに分かれて行なわれたから、私と玲は別の組だった。
だから、玲のダンス審査の様子を私は知らない。審査後に一緒に帰る時は、いつもと変わらない様子に見えた。玲は元から楽しそうに踊れていたから、きっと審査員の目にも止まったんだと思う。
いよいよ明日は、最終審査。
私たち2人は、万が一、当日に新幹線が止まった時のことを考えて、お互いの親の許しを得たうえで前日から東京に移動してホテルに泊まることにした。ついでに言うと、当日移動だと朝が早いので、お寝坊さんの玲にはキツいと思ったからだ。
「部屋は隣同士なんだね!なんか、修学旅行みたい!」
玲が嬉しそうに言う。
ホテルを予約する時には、玲から「同じ部屋にしようか?」と提案されていた。でも、玲と同室なんて、ドキドキして眠れそうにない。私は「お互い落ち着いて休めるように」と、本心を隠して言い訳をした。
「それもそうだね。ごめん、旅行気分ではしゃいじゃった」
玲はそう言って、納得してくれたようだ。
部屋に入ったあとの予定は決めてあった。まずお互いの部屋でお風呂に入る。その後、22時になったら私が玲の部屋へ行って少し話す。
私は決めていた通り、真っ先にお風呂に入って移動の疲れを流した。
ドライヤーで髪を乾かしながら、もうすぐ玲の部屋へ行く時間だなと時計を気にする。
その時、コンコンとノックの音がした。
「絢、いる?」
覗き窓から見ると、玲が立っていた。パジャマに着替えた私とは違い、玲はさっき部屋の前で別れたままの服を着ていた。どうやら、まだお風呂に入っていないらしい。
「なんだか落ち着かなくって。絢に連絡しようと思ったけど、まだお風呂だろうなと思って。待ってたの」
玲はそう言って、私の部屋に入ってきた。玲はベッドに座って枕を抱きしめると、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「やっぱり、絢と一緒の部屋にすればよかったな」
天井をぼんやりと見つめながらつぶやく。
「何言ってんの。せっかくお互い休めるように別々にしたんだから」
「いいじゃん。一緒に寝ようよ」
「……だから、何言ってんの……」
今日は、こういうことでドキドキしてる場合じゃない。明日に備えてちゃんと休まないと。
それに、玲の様子が普段と違う。明日が不安なのかもしれない。でも、玲から不安を口にしない限り、私もそれに触れないほうがいい気がした。
「そういえば、このホテルのシャンプー、すごく良い香りしたよ」
無理やり話を逸らすと、玲は「え、ホント?」と、少しだけ表情を明るくした。ベッドから起き上がってまだ濡れている私の髪に鼻を近づけてくる。
「ホントだ、甘い匂い。なんの香りだろう」
玲はしばらく考えてから、無邪気な笑顔で「何かのお花?いや、フルーツかな?」と尋ねてくる。
「正解はねぇ……私も覚えてない」
「なにそれ!クイズになってないじゃん!」
「あはは、別にクイズ出したわけじゃないし」
私たちはそんな他愛のない会話を続けていた。
明日の最終審査で、これからの人生が大きく変わるかもしれない。それでも、この瞬間だけはいつもの日常に戻っていた。
しかし、到着が遅かったせいもあってすぐに夜が更けてきた。私もそろそろ眠る準備をしたいし、なにより、どこか疲れていそうな玲に早く休んでほしかった。
「玲、もう自分の部屋に戻ったほうがいいんじゃない?」
私がそう言うと、玲はしょんぼりとした顔で頷いた。
「そうだよね。ごめんね」
ベッドから立ち上がると、その場で伸びをする。
「ねえ、絢。明日、もし絢だけ合格したらさ…」
玲が目線を伏せながらつぶやく。
「……え…?」
「……私、地元から絢のことめっちゃ推すから!私の部屋、絢のポスターとかうちわとかマフラータオルとか飾っててもドン引きしないでね!あと、私が握手会に行っても無視しないでね!!」
しんみりした空気から一転して、玲が冗談っぽくまくし立ててくる。
「握手会来てくれるの?嬉しい。無視なんかしないから大丈夫だよ。塩対応はするかもだけど」
「なんで?!そこは親友限定の神対応でしょ!」
いつもの玲の調子に安心した私は、いつもの調子で返す。すると玲もいつものように返してくれた。
~~~
玲が部屋を出ていった後、私は一人、静かになった部屋で、今日の玲の様子を思い返した。
(玲、やっぱり…不安なのかな)
いつもならはしゃいでいるはずの玲が、今日は少し様子が違った。
もしかしたら、私に話したいことがあったのかな。
でも、どこか遠慮してる。そんな風に見えた。
私はドアノブに手をかけて、廊下へ出ようとした。しかし、あと一歩のところで、その手を下ろす。
(私にできることなんて、ないかな)
私の役割は、玲が私を頼ってくれたら、それに応えること。それ以上でも、それ以下でもない。
玲ならきっと大丈夫。最終審査の前にちょっと緊張してるだけ。
それより、自分の最終審査のことを考えよう。
そう自分に言い聞かせて、ベッドへ戻った。
部屋の照明を消して、目を閉じる。でも、玲のことが気になって、なかなか眠ることができない。
玲はもう眠ってしまっただろうか。ベッドの上で寝転んで、玲が泊まっている部屋へ体を向ける。
この白い壁の向こうでは、玲が寝ているのかな。それとも、私みたいに眠れないでいるのかな。
ああ、こんなに玲のことが気になるんだったら、玲の提案通りに同じ部屋にすればよかった。
この壁は、私が作った壁だ。玲との間に、私が自分で引いてしまった境界線。
それが、すごくもどかしい。
「……玲」
壁を指でそっと触れて、つぶやいてみる。いくら壁が薄かったとしても、この声量で隣室に届くはずはない。
それでも、名前を呼んでみたくなった。
すると、壁の向こうから、微かに声が聞こえた気がした。
気のせい?壁のほうに寄って、耳を澄ませる。すると、確かに玲の部屋から、声が聞こえてくる。でもこれは、声というより……
私は、反射的に体を起こした。ベッドから降りて、部屋のスリッパを履きかけたままドアへと向かう。
私は、なんて馬鹿なんだ。
玲はサインを出していたのに。とても分かりにくくて弱々しいサインだったけど、玲は助けを求めていたんだ。私に。いま、玲の隣にいれるのは、この世界で私しかいない。なのに私は、何を躊躇していたんだろう。
壁の向こうの玲は、きっと泣いていた。私は、その声を聞いてしまった。ここでじっとしていたら、私は一生後悔すると思った。
自分の部屋のドアを勢いよく開け、廊下へ飛び出す。玲の部屋の前に立ち、一呼吸だけすると、ノックをした。
「玲、開けて」
気付くのが遅かった私を、玲は入れてくれるだろうか。不安に思いながら少し待っていると、ドアの向こうに気配を感じた。ガチャリ、と遠慮がちにドアが開く。
玲は俯いていて顔はよく見えなかったけど、涙で濡れた頬だけはハッキリと見えた。
私はドアを強引に開けると、そのまま部屋に押し入る。
ドアが閉まり切るより早く、私は玲を抱き締めた。
普段あんなにエネルギッシュな玲の身体が、ひどく華奢で、弱々しく感じた。身体が震えているのが手に伝わってくる。
静まりかえった部屋で聞こえるのは、不規則で浅い玲の呼吸音だけだった。
「玲…」
「ごめん、ごめんね……」
私の声に反応するように返ってきたのは、消え入りそうな玲の声。
「どうして、玲が謝るの…?」
「絢には話そうって思ってたの。絢なら、絶対に聞いてくれるって思ってるから。でも、それでも怖かったの。ごめん……」
玲は泣きながら、それでも一生懸命に言葉を絞り出そうとしている。その様子を見て、私の胸は締め付けられた。
「私、玲が出してるサインに気付けなかった。ううん、気付いてたけど、気付かないフリをしてたのかもしれない。だから、ごめんは私のほう」
~~~
玲に寄り添いながら部屋の中へ進み、ベッドに2人並んで座った。
玲は、声を出して泣き続けていた。私はただ、その背中をさすり、彼女の手をぎゅっと握り続けた。
まだ少し濡れている玲の髪からは、シャンプーの香りがする。私も同じシャンプーを使ったはずなのに、玲の髪から香ってくるだけで私にとっては特別な香りになる。
やがて玲の肩の震えが小さくなり、ようやくすすり泣く声だけになった頃、玲がポツリポツリと話し始めた。
「ダンス審査の時からなんだ。あの時から、ちょっとずつ不安になってきて」
「それって…何か、厳しいこと言われたりしたの?」
「ううん、全然、そういうんじゃないの。ただ、当たり前だけどさ、三次審査にもなるとすごい子ばっかりで。たぶん中学生、もしかしたら小6くらいの子なのに、ダンスがキレッキレな子とか。私と同い年くらいに見えるのに、すごく色っぽく踊る子とか。とにかく、周りのみんながすごくて。私、ダンスならちょっと自信あったんだけど、全然だった」
その言葉に、胸が痛くなった。私は玲と別の組で審査を受けていた。だから、玲がそこまで挫折感を味わっていたなんて全然気付かなかった。
「でも……でも、玲はここまで来れたじゃん。三次審査も通過して、こうやって最終審査まで残ったんだし。自信、持っていいと思う」
きっと、玲よりダンスが上手い子も実際にいたんだろう。日本全国からアイドルになりたい女の子が集まってきてるんだから、どんなすごい子がいてもおかしくない。
それでも、玲は通過できた。審査で、玲に何か光るものを見つけてもらえたからだ。
冷静に考えて、これは間違ってないはず。
でも、私の言葉に玲は少しだけ顔を歪めた。
「そう……そうなんだけどさ。もしあのすごい子たちが落ちてて、私が通過したんだとしたら……私は一体何を持ってるんだろうって。あの子たちよりすごいところなんて、あるのかなって」
玲の自信なさげな声に、私はいてもたってもいられなくなった。
「何言ってるの?玲は…玲はすごいんだから。私、知ってるもん」
玲は少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。絢にそう言ってもらえると、少し元気が出る」
玲はそこで言葉を区切った。何かを言いかけるように口を開け、また閉じる。しばらく考え込んでから、話し続けた。
「変なこと言うけどさ、ここまで来ちゃうと、逆に怖いんだ。もし書類審査で落ちてたとしたら、きれいさっぱり諦めも付いたと思うんだよね。あぁ、アイドルってやっぱり私には手の届かないすごい存在なんだなって。これからもただのファンとして楽しもう、それで満足しようって。でも、最終審査まで来ちゃったらさ……もしダメだった時に、何が足りなかったんだろうとか、最終審査で何を間違えたんだろうとか、考えちゃう気がする。ずっと、後悔しそうな気がする。今はそれが、すごく怖い」
怖い。
玲はハッキリとそう言った。それは、私の中の玲からは遠いところにある言葉だった。
でも、こうして玲の口から聞かされると、妙に納得できる。
玲は幼い頃からアイドルに憧れていた。いつからかだったか正確には覚えていないけど、とにかくこれまでの人生の大半はアイドルに夢中になってきたはずで、アイドルになることを夢見てきた。その夢に、あと一歩で手が届きそう。だからこそ、届かなかった時のことをリアルに想像できてしまうんだろう。アイドルを夢見て積み重ねてきたこれまでが全て崩れてしまうような絶望を想像してしまうのかもしれない。
でも、もしそんな結果になったとして、それは玲に何かが足りなかったせいなのか。足りないことが、間違いなのか。
それだけは、絶対に違う。
玲の震える肩を抱き寄せ、優しくハグをする。私の体温が、玲に届くといいなと思った。
「玲はさ、完璧に見えても、たくさん悩んでるんだね。私は、玲は昔からずっと明るくて、どんな時も不安なんてないんだって、勝手にそう思ってた」
玲は静かに泣いている。
「ねぇ、玲。みんな、何かが足りてないんだよ。私も玲も。歌がうまい子だって、ダンスがすごい子だって、現役のアイドルだって、多分そうなんだよ。完璧に見えても、きっと苦手なこともあって。でも、それでいいんだよ。足りてないところがあるから、他の部分が輝いて見えたり、足りてないところを埋めたくて頑張ったり。それが、魅力になるんじゃないかな」
私の言葉に、玲はまだ顔を上げてくれない。俯いたまま、静かに私の言葉を待っている。
「ほんと?私も、足りてないところがあっていいの?」
玲の声はまだ震えていたけれど、さっきよりも少しだけ、その声に力が戻っていた。
「いいんだよ。玲は、応募書類の文章だってなかなか考えられないし、二次審査の案内もちゃんと読まなくて早とちりしちゃうし、ダンス審査の振り付けの覚え方も大雑把で感覚で踊っちゃうし…」
私が玲の足りないところを指摘するたびに、玲は少しずつ顔を上げていく。そして、その度に苦笑いを浮かべていた。
「うぅぅ…全部当たってる…」
玲はそう言って、私に顔を向けた。その潤んだ瞳は、恥ずかしさで揺れていた。
「それとね……幼馴染にも弱いところを見せられなくて強がっちゃうし」
私の言葉に、玲は返さなかった。ただ、涙が再び溢れ出した。
「……そう、だね……」
玲の返事は、小さな小さな声だった。
「でもね、玲に足りないところがあって、足りてないからデコボコしてて、それでもそれが玲の形だから。玲の足りてないところは、全部私の好きなところだよ」
玲は、信じられない、といった表情で私を見つめていた。私は、玲自身が「足りていない」と思っている部分が、私にとってはどれほど大切で、愛おしいかを伝えるように、玲の体を優しく抱きしめ直した。
「だから…明日どんな結果になっても、玲は大丈夫。後悔なんてすることないんだよ。玲は、玲のままで、玲の本心のままで審査を受ければいいんだよ。本心のままに行動したことに、間違いなんてないんだから」
私の言葉が、玲の心に届いた。玲は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私に微笑み返した。そして、もう一度私の体に顔を埋めて、強く抱きしめ返してくれた。そのハグは、これまでのどんなハグよりも、ずっと温かく、力強かった。
玲がホテルのロビーを見渡して目を輝かせた。派手さはないけれど、余計なものがなく洗練された空間。白を基調とした壁と、淡い色合いの木製の家具が、居心地の良さを感じさせる。私たちは、今まで見たことのあるどのホテルとも違う、その無駄のない空間に少しだけ気圧されていた。
「本当に、明日なんだね」
玲が少し緊張した面持ちで、私のほうを向いた。
一週間前に、ダンス審査があった三次審査の通過を知らせる郵送が届いた。
歌唱審査まではリモートだったため、玲と私が他の候補者たちと直接顔を合わせたのはダンス審査の会場が初めてだった。
玲は部活でもダンス経験があるから自信があったみたいだけど、私は他の候補者のビジュアルといかにもダンスのうまそうなオーラに圧倒されてただただ緊張していた。それでも、とにかく踊る楽しさを意識して踊ってみた。うまく笑えていたかは分からないけど、振りを間違えずに正確に踊ることに精一杯だった段階を乗り越えた自覚はあった。それが、私がダンス審査を通過できた決め手になったんだと思う。
審査は何組かに分かれて行なわれたから、私と玲は別の組だった。
だから、玲のダンス審査の様子を私は知らない。審査後に一緒に帰る時は、いつもと変わらない様子に見えた。玲は元から楽しそうに踊れていたから、きっと審査員の目にも止まったんだと思う。
いよいよ明日は、最終審査。
私たち2人は、万が一、当日に新幹線が止まった時のことを考えて、お互いの親の許しを得たうえで前日から東京に移動してホテルに泊まることにした。ついでに言うと、当日移動だと朝が早いので、お寝坊さんの玲にはキツいと思ったからだ。
「部屋は隣同士なんだね!なんか、修学旅行みたい!」
玲が嬉しそうに言う。
ホテルを予約する時には、玲から「同じ部屋にしようか?」と提案されていた。でも、玲と同室なんて、ドキドキして眠れそうにない。私は「お互い落ち着いて休めるように」と、本心を隠して言い訳をした。
「それもそうだね。ごめん、旅行気分ではしゃいじゃった」
玲はそう言って、納得してくれたようだ。
部屋に入ったあとの予定は決めてあった。まずお互いの部屋でお風呂に入る。その後、22時になったら私が玲の部屋へ行って少し話す。
私は決めていた通り、真っ先にお風呂に入って移動の疲れを流した。
ドライヤーで髪を乾かしながら、もうすぐ玲の部屋へ行く時間だなと時計を気にする。
その時、コンコンとノックの音がした。
「絢、いる?」
覗き窓から見ると、玲が立っていた。パジャマに着替えた私とは違い、玲はさっき部屋の前で別れたままの服を着ていた。どうやら、まだお風呂に入っていないらしい。
「なんだか落ち着かなくって。絢に連絡しようと思ったけど、まだお風呂だろうなと思って。待ってたの」
玲はそう言って、私の部屋に入ってきた。玲はベッドに座って枕を抱きしめると、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「やっぱり、絢と一緒の部屋にすればよかったな」
天井をぼんやりと見つめながらつぶやく。
「何言ってんの。せっかくお互い休めるように別々にしたんだから」
「いいじゃん。一緒に寝ようよ」
「……だから、何言ってんの……」
今日は、こういうことでドキドキしてる場合じゃない。明日に備えてちゃんと休まないと。
それに、玲の様子が普段と違う。明日が不安なのかもしれない。でも、玲から不安を口にしない限り、私もそれに触れないほうがいい気がした。
「そういえば、このホテルのシャンプー、すごく良い香りしたよ」
無理やり話を逸らすと、玲は「え、ホント?」と、少しだけ表情を明るくした。ベッドから起き上がってまだ濡れている私の髪に鼻を近づけてくる。
「ホントだ、甘い匂い。なんの香りだろう」
玲はしばらく考えてから、無邪気な笑顔で「何かのお花?いや、フルーツかな?」と尋ねてくる。
「正解はねぇ……私も覚えてない」
「なにそれ!クイズになってないじゃん!」
「あはは、別にクイズ出したわけじゃないし」
私たちはそんな他愛のない会話を続けていた。
明日の最終審査で、これからの人生が大きく変わるかもしれない。それでも、この瞬間だけはいつもの日常に戻っていた。
しかし、到着が遅かったせいもあってすぐに夜が更けてきた。私もそろそろ眠る準備をしたいし、なにより、どこか疲れていそうな玲に早く休んでほしかった。
「玲、もう自分の部屋に戻ったほうがいいんじゃない?」
私がそう言うと、玲はしょんぼりとした顔で頷いた。
「そうだよね。ごめんね」
ベッドから立ち上がると、その場で伸びをする。
「ねえ、絢。明日、もし絢だけ合格したらさ…」
玲が目線を伏せながらつぶやく。
「……え…?」
「……私、地元から絢のことめっちゃ推すから!私の部屋、絢のポスターとかうちわとかマフラータオルとか飾っててもドン引きしないでね!あと、私が握手会に行っても無視しないでね!!」
しんみりした空気から一転して、玲が冗談っぽくまくし立ててくる。
「握手会来てくれるの?嬉しい。無視なんかしないから大丈夫だよ。塩対応はするかもだけど」
「なんで?!そこは親友限定の神対応でしょ!」
いつもの玲の調子に安心した私は、いつもの調子で返す。すると玲もいつものように返してくれた。
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玲が部屋を出ていった後、私は一人、静かになった部屋で、今日の玲の様子を思い返した。
(玲、やっぱり…不安なのかな)
いつもならはしゃいでいるはずの玲が、今日は少し様子が違った。
もしかしたら、私に話したいことがあったのかな。
でも、どこか遠慮してる。そんな風に見えた。
私はドアノブに手をかけて、廊下へ出ようとした。しかし、あと一歩のところで、その手を下ろす。
(私にできることなんて、ないかな)
私の役割は、玲が私を頼ってくれたら、それに応えること。それ以上でも、それ以下でもない。
玲ならきっと大丈夫。最終審査の前にちょっと緊張してるだけ。
それより、自分の最終審査のことを考えよう。
そう自分に言い聞かせて、ベッドへ戻った。
部屋の照明を消して、目を閉じる。でも、玲のことが気になって、なかなか眠ることができない。
玲はもう眠ってしまっただろうか。ベッドの上で寝転んで、玲が泊まっている部屋へ体を向ける。
この白い壁の向こうでは、玲が寝ているのかな。それとも、私みたいに眠れないでいるのかな。
ああ、こんなに玲のことが気になるんだったら、玲の提案通りに同じ部屋にすればよかった。
この壁は、私が作った壁だ。玲との間に、私が自分で引いてしまった境界線。
それが、すごくもどかしい。
「……玲」
壁を指でそっと触れて、つぶやいてみる。いくら壁が薄かったとしても、この声量で隣室に届くはずはない。
それでも、名前を呼んでみたくなった。
すると、壁の向こうから、微かに声が聞こえた気がした。
気のせい?壁のほうに寄って、耳を澄ませる。すると、確かに玲の部屋から、声が聞こえてくる。でもこれは、声というより……
私は、反射的に体を起こした。ベッドから降りて、部屋のスリッパを履きかけたままドアへと向かう。
私は、なんて馬鹿なんだ。
玲はサインを出していたのに。とても分かりにくくて弱々しいサインだったけど、玲は助けを求めていたんだ。私に。いま、玲の隣にいれるのは、この世界で私しかいない。なのに私は、何を躊躇していたんだろう。
壁の向こうの玲は、きっと泣いていた。私は、その声を聞いてしまった。ここでじっとしていたら、私は一生後悔すると思った。
自分の部屋のドアを勢いよく開け、廊下へ飛び出す。玲の部屋の前に立ち、一呼吸だけすると、ノックをした。
「玲、開けて」
気付くのが遅かった私を、玲は入れてくれるだろうか。不安に思いながら少し待っていると、ドアの向こうに気配を感じた。ガチャリ、と遠慮がちにドアが開く。
玲は俯いていて顔はよく見えなかったけど、涙で濡れた頬だけはハッキリと見えた。
私はドアを強引に開けると、そのまま部屋に押し入る。
ドアが閉まり切るより早く、私は玲を抱き締めた。
普段あんなにエネルギッシュな玲の身体が、ひどく華奢で、弱々しく感じた。身体が震えているのが手に伝わってくる。
静まりかえった部屋で聞こえるのは、不規則で浅い玲の呼吸音だけだった。
「玲…」
「ごめん、ごめんね……」
私の声に反応するように返ってきたのは、消え入りそうな玲の声。
「どうして、玲が謝るの…?」
「絢には話そうって思ってたの。絢なら、絶対に聞いてくれるって思ってるから。でも、それでも怖かったの。ごめん……」
玲は泣きながら、それでも一生懸命に言葉を絞り出そうとしている。その様子を見て、私の胸は締め付けられた。
「私、玲が出してるサインに気付けなかった。ううん、気付いてたけど、気付かないフリをしてたのかもしれない。だから、ごめんは私のほう」
~~~
玲に寄り添いながら部屋の中へ進み、ベッドに2人並んで座った。
玲は、声を出して泣き続けていた。私はただ、その背中をさすり、彼女の手をぎゅっと握り続けた。
まだ少し濡れている玲の髪からは、シャンプーの香りがする。私も同じシャンプーを使ったはずなのに、玲の髪から香ってくるだけで私にとっては特別な香りになる。
やがて玲の肩の震えが小さくなり、ようやくすすり泣く声だけになった頃、玲がポツリポツリと話し始めた。
「ダンス審査の時からなんだ。あの時から、ちょっとずつ不安になってきて」
「それって…何か、厳しいこと言われたりしたの?」
「ううん、全然、そういうんじゃないの。ただ、当たり前だけどさ、三次審査にもなるとすごい子ばっかりで。たぶん中学生、もしかしたら小6くらいの子なのに、ダンスがキレッキレな子とか。私と同い年くらいに見えるのに、すごく色っぽく踊る子とか。とにかく、周りのみんながすごくて。私、ダンスならちょっと自信あったんだけど、全然だった」
その言葉に、胸が痛くなった。私は玲と別の組で審査を受けていた。だから、玲がそこまで挫折感を味わっていたなんて全然気付かなかった。
「でも……でも、玲はここまで来れたじゃん。三次審査も通過して、こうやって最終審査まで残ったんだし。自信、持っていいと思う」
きっと、玲よりダンスが上手い子も実際にいたんだろう。日本全国からアイドルになりたい女の子が集まってきてるんだから、どんなすごい子がいてもおかしくない。
それでも、玲は通過できた。審査で、玲に何か光るものを見つけてもらえたからだ。
冷静に考えて、これは間違ってないはず。
でも、私の言葉に玲は少しだけ顔を歪めた。
「そう……そうなんだけどさ。もしあのすごい子たちが落ちてて、私が通過したんだとしたら……私は一体何を持ってるんだろうって。あの子たちよりすごいところなんて、あるのかなって」
玲の自信なさげな声に、私はいてもたってもいられなくなった。
「何言ってるの?玲は…玲はすごいんだから。私、知ってるもん」
玲は少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。絢にそう言ってもらえると、少し元気が出る」
玲はそこで言葉を区切った。何かを言いかけるように口を開け、また閉じる。しばらく考え込んでから、話し続けた。
「変なこと言うけどさ、ここまで来ちゃうと、逆に怖いんだ。もし書類審査で落ちてたとしたら、きれいさっぱり諦めも付いたと思うんだよね。あぁ、アイドルってやっぱり私には手の届かないすごい存在なんだなって。これからもただのファンとして楽しもう、それで満足しようって。でも、最終審査まで来ちゃったらさ……もしダメだった時に、何が足りなかったんだろうとか、最終審査で何を間違えたんだろうとか、考えちゃう気がする。ずっと、後悔しそうな気がする。今はそれが、すごく怖い」
怖い。
玲はハッキリとそう言った。それは、私の中の玲からは遠いところにある言葉だった。
でも、こうして玲の口から聞かされると、妙に納得できる。
玲は幼い頃からアイドルに憧れていた。いつからかだったか正確には覚えていないけど、とにかくこれまでの人生の大半はアイドルに夢中になってきたはずで、アイドルになることを夢見てきた。その夢に、あと一歩で手が届きそう。だからこそ、届かなかった時のことをリアルに想像できてしまうんだろう。アイドルを夢見て積み重ねてきたこれまでが全て崩れてしまうような絶望を想像してしまうのかもしれない。
でも、もしそんな結果になったとして、それは玲に何かが足りなかったせいなのか。足りないことが、間違いなのか。
それだけは、絶対に違う。
玲の震える肩を抱き寄せ、優しくハグをする。私の体温が、玲に届くといいなと思った。
「玲はさ、完璧に見えても、たくさん悩んでるんだね。私は、玲は昔からずっと明るくて、どんな時も不安なんてないんだって、勝手にそう思ってた」
玲は静かに泣いている。
「ねぇ、玲。みんな、何かが足りてないんだよ。私も玲も。歌がうまい子だって、ダンスがすごい子だって、現役のアイドルだって、多分そうなんだよ。完璧に見えても、きっと苦手なこともあって。でも、それでいいんだよ。足りてないところがあるから、他の部分が輝いて見えたり、足りてないところを埋めたくて頑張ったり。それが、魅力になるんじゃないかな」
私の言葉に、玲はまだ顔を上げてくれない。俯いたまま、静かに私の言葉を待っている。
「ほんと?私も、足りてないところがあっていいの?」
玲の声はまだ震えていたけれど、さっきよりも少しだけ、その声に力が戻っていた。
「いいんだよ。玲は、応募書類の文章だってなかなか考えられないし、二次審査の案内もちゃんと読まなくて早とちりしちゃうし、ダンス審査の振り付けの覚え方も大雑把で感覚で踊っちゃうし…」
私が玲の足りないところを指摘するたびに、玲は少しずつ顔を上げていく。そして、その度に苦笑いを浮かべていた。
「うぅぅ…全部当たってる…」
玲はそう言って、私に顔を向けた。その潤んだ瞳は、恥ずかしさで揺れていた。
「それとね……幼馴染にも弱いところを見せられなくて強がっちゃうし」
私の言葉に、玲は返さなかった。ただ、涙が再び溢れ出した。
「……そう、だね……」
玲の返事は、小さな小さな声だった。
「でもね、玲に足りないところがあって、足りてないからデコボコしてて、それでもそれが玲の形だから。玲の足りてないところは、全部私の好きなところだよ」
玲は、信じられない、といった表情で私を見つめていた。私は、玲自身が「足りていない」と思っている部分が、私にとってはどれほど大切で、愛おしいかを伝えるように、玲の体を優しく抱きしめ直した。
「だから…明日どんな結果になっても、玲は大丈夫。後悔なんてすることないんだよ。玲は、玲のままで、玲の本心のままで審査を受ければいいんだよ。本心のままに行動したことに、間違いなんてないんだから」
私の言葉が、玲の心に届いた。玲は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私に微笑み返した。そして、もう一度私の体に顔を埋めて、強く抱きしめ返してくれた。そのハグは、これまでのどんなハグよりも、ずっと温かく、力強かった。
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