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一章
五、馬鹿と酒
しおりを挟む首から「私は馬鹿です」という大きな木札を下げ、しょぼしょぼの表情で秣をほぐす楊甜。
長く続いた説教から解放されたのち、掃除と食事を済ませ、勉強までしていたらほとんど眠れなかった。
それでもやることは変わらない。早朝に起きてからやるべきことをやっていかなければならない。
今日は馬に蹴飛ばされないよう秣と水替えだけを素直に行い、なるべく近づかないように掃除をする。
その後は手短に食事を済ませ、次は忘れないように宿舎全体の掃除に手を付けていく。
諸葛恪は常よりああいう性格なので、よく使用人を解雇する。これが慢性的な人手不測の原因であり、その皺寄せを楊甜が請け負っている状態であった。
「あ、おはようございます」
「よく似合ってるな、首のそれ」
意地悪そうに笑いながら、髪をくしで解く諸葛恪が寝所から現れる。
楊甜は箒で庭の木の葉を掃きつつ、泣きたい気持ちをぐっとこらえた。
「そうだ、お前も支度をしろ。今日は外に出るぞ」
「え、僕もですか?」
「昨日言っただろ。あ、いや、言ってなかったか」
そういえば説教の前、楊甜は「聞きたいことがある」と諸葛恪に言われていた。
結局、延々と続く説教でその話も立ち消えていたことをなんとなく思い出す。
「どうやら朱桓将軍の屋敷で働いていた女の使用人が解雇されたらしい。噂によればその女もまたお前と同じ落頭民なんだとか。それを探すぞ」
楊甜はそれを聞くなり、持っていた箒を手放し目を丸くしていた。
集めていた木の葉が再びぶわっと巻き上がり、諸葛恪は不快そうに眉を顰める。
「どうした」
「あ、いや、もしかしたら、僕の姉さん、かもです」
「はぁ!?なんでそれを早くに言わなかったこの馬鹿!」
「だって聞かれてないじゃないですか!」
そもそも楊甜が危険を冒してまで山を下りて濡須口を訪れたのは姉に会うためだったらしい。
楊甜の姉は落頭民であることを隠し、朱桓将軍の屋敷で長く働いていたのだとか。
「姉さんはよく頭を飛ばして僕の様子を見に来たり、金銭を渡したりしてくれていました。でもここ最近、ぱったりと会いに来てくれなくなって」
「それで心配してここまで来たのか」
「唯一の家族なんです」
だが山を下りるなり狍鴞に頭を嚙まれ、濡須口に入るなり暴漢に絡まれ。
とことんドジというかなんというか。そりゃあその姉とやらも弟を心配するだろう。
そんな心配になる弟の様子を見に来られないとなると、確かに何かあったと見てもいい。
「だったら話が早い。俺は朱将軍に会うためにも将軍の情報が欲しい。それをよく知るヤツから話を聞きたい」
「姉さんは朱桓将軍の屋敷で料理番を務めていました。それ以外に、詳しい話は特に」
「とりあえず街に出て聞き込みをするぞ。お前もついてこい」
「あ、ありがとうございます!」
料理番を長く勤めていたとなると、朱桓から相当信頼を得ていたのであろうと推察できる。
容易く毒物を潜ませることができる立場なだけに、料理関係の役職は信頼できる人間を置くものだ。
そして弟の楊甜がこの美貌である。姉も似ていることを考えると、目立つ風貌なのは間違いない。
「身元定かでない女が付ける仕事というと限られている。まずはそこをあたる」
「えっと、それってどんな仕事なんですか?」
馬に跨って歩く諸葛恪の後ろを早足でパタパタと楊甜は追いかけてくる。
身なりを整えた楊甜は流石に目を見張った。
束ねられた髪を腰に巻いてるのは奇抜だが、そういうお洒落なのだと言っても納得できるものがあった。
「健康な男なら兵役や労役に志願すれば食い扶持は稼げる。だが女となると低級の妓楼になって体を売るか、あとは酒造所だな」
「酒、うぅ」
「…妓楼より酒造の方に嫌な顔をするんだな」
「よくわからないんですけど、お酒って気持ち悪くなるんですよね。臭いが駄目というか、受け付けないんですよ」
落頭民もやはり怪異ということか。酒は怪異や瘴気を遠ざける効果がある、というのは昔から言われてきた。
遠征をおこなう際も、それが長期になる場合は水ではなく酒を持ち歩いたりする。
酒は腐りにくく、そして病にかかりにくい。怪異が酒を嫌うのもこの辺りが関係あるのやもしれない。
「だが妓楼も基本的には酒場に居る。あとは城門近くや橋の下で物乞いをするしかないぞ」
「もしかして僕も、ご主人様が拾ってくれなかったら」
「感謝するんだな」
「も、もちろんです!ご主人様は命の恩人です!」
そこから色んな酒場や酒造所を巡ったりしたものの、手掛かりは一つも手に入らなかった。
楊甜が言うにはその姉は非常に可愛らしい風貌をしていて、性格は気丈で朗らか。顔もよく似ているとか。
あと特徴らしい特徴は耳が広いとかそれくらい。楊甜は姉を褒める言葉を伝えるばかりでどうにも詳しい風貌などは掴めなかった。
「馬鹿と話すのはだから疲れるんだ」
ただ、聞き込みは非常に手早く済ませられた。これは楊甜の人当たりの良さが幸いしたといえる。
諸葛恪だけではだれもかれもが委縮したり避けたりするためこうはいかない。
しかしニコニコと美形の青年が聞き込みをすると、妓楼も商人も兵士も喜んであれこれ話をしてくれるのだ。
また背後には小難しそうな顔をした諸葛恪が控えているため、楊甜が下手に舐められることもない。
「お役に立てず申し訳ないです…」
「フン」
意外にうまくいっていた、と言うのは癪だから諸葛恪は嫌味たらしく鼻を鳴らす。
しかし夕暮れまで聞き込みを続けても一つも詳しい話は出てこない。
「だがここまでわからないとなると噂がそもそも嘘か、あとは城の外に出たか攫われたか、だな」
「ひぃっ、そんなぁっ!?」
「明日は裏家業の奴らにも話を聞くか。だが、侠客(ヤクザ)とは出来れば関わりたくないんだよな」
こうして二人は宿舎に戻ろうとしていると、門戸の前に一人の女性が佇んでいた。
身長は小さく、そしてずいぶんとふっくらとしている。どこかの肉の卸問屋か、諸葛恪がそう訝しんだ時だった。
「──お姉ちゃん!!」
楊甜は滂沱の涙を流して駆け出したのである。
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