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五章
十一、ご武運を
しおりを挟む宛陵県の地は山に囲まれているが、北には大きく開けており、更にそこには"南湖"と称される広い湖があった。
また北西から南東に流れる河川が土地を縦断しており、その南東に下った流れの先に前線の要塞をいくつか築いて敵の動きを監視している。
その最前線の要塞がつい先日、陥落したと報告が入る。
敵の総兵力を見て戦線を下げる判断を諸葛恪らは既に下していたため、後退は迅速に完了していた。
しばらくそこに敵は拠点を置いて睨み合いが続くと思われたが、さほど休むことなく山越は再び侵略を開始。
次なる要塞が破られれば、次は宛陵県に敵が殺到する。
陳表はここで決戦の決断を降し、両軍は北と南に一本の河川沿いの通路だけが伸びる盆地に集結。
呉軍は要塞を背に西岸へ布陣、 山越の民は東岸に結集しつつ、渡河した者達が南方より呉軍の側面を突こうと機を伺っていた。
「ご主人様、あの人食いの怪異なんかが戦場に現れたりしないですかね…?」
「お前、こんな大勢の前で自分の首を外して目立ちたいと思うか?」
「え、いや、思わないです」
「だったらそこらの怪異も出てこない。戦いが終わった後、死骸を漁りに出てくることはあるだろうが」
もし戦場に堂々と現れるなら、そいつは単独で戦況を変えられるような、神話に出てくる類の化け物だ。
要塞より眼前に広がる布陣を見渡し、楊甜は確かにそうかもしれないと小さく頷いた。
城外に陣を敷き、陣頭指揮を執るのは新安都尉"陳表"。そして後方の要塞で戦況を見守るのが撫越将軍"諸葛恪"。
呉郡西部都尉"顧承"は本陣の位置する宛陵県の県城で守りを固め、前線の敗走に備えつつ増援の編成などを取り仕切ってもいた。
呉軍は、いや、諸葛恪が率いるこの軍勢は規律よく横陣を敷いて竹柵を即座に建築するなど、極めて組織的に動いていた。
対する山越軍には陣形も何もない。続々と膨らむ密集した人の群れが、対岸の呉軍に矛先を向けている。
「楊甜、お前の仕事はあの文奥(陳表のあざな)の部隊から赤い旗が振られた時、その鉦を鳴らすことだ」
「は、はい」
「それが全軍への撤退の合図。つまり敗走となる。お前は味方の全員が退避し終えるまで鉦を鳴らし続けないといけない」
「最後まで、って、つまり」
「それがこの諸葛恪の側に仕えるということだ。いいな」
自分は今、戦場に居るのだ。楊甜の鼓動が早くなる。
突如、戦場が怒号で揺れた。山越の民が決壊し、怨嗟の雪崩が始まったのだ。
曇天である。陳表も同時に号令を出し、太鼓が鳴り響き、両陣営へ一斉に矢の雨が降り注いだ。
河川が天然の濠となり、敵の足を止める。そこに矢の雨が降り注ぎ、下流は血で赤く染まる。
よく見れば山越の者は皆、痩せていた。だが飢えた狼が獰猛であるように、その殺意はあまりに激しい。
仲間の屍を足場として河川を渡り、ついに対岸に辿り着く。
すると今度は規律よく盾を構えた槍兵が山越の渡河を許さずに押し返し、戦場はいよいよ苛烈さを増していく。
「この狂気にも思える怨嗟は、怪異によるものではなかった。人間の成す怨嗟であった。絶対に、この光景は忘れるまい」
諸葛恪の見据える先。山越の一団が柵を押し潰し、岸辺に一つの塊を作り出す。
橋頭保を築くつもりだ。戦は数である。その物量の暴力を押し留めるのは難しく、陳表は最前線に躍り出て激励の声を張り上げ続けた。
今攻め時だと山越は見ている。戦場を見渡す諸葛恪が感じ取った僅かな異変。咄嗟に顔を南へ向けた。
「諸葛恪隊、出るぞ。南の戦線が押し込まれている」
「ご主人様!」
「楊甜、お前はここに居ろ。お前の務めを忘れるな。それは一人でも多くの味方の命を救う、重要な務めだ」
「はい!ご武運を!」
甲冑を被り、赤い戦袍を靡かせて諸葛恪の率いる騎馬部隊は要塞より飛び出した。
南東は谷間の隘路であり、その西岸には幾重もの防御柵を築いて堅い守りを敷いている。
ここが突破されればその南東の隘路より敵が殺到し、陳表の部隊は側背を突かれる恐れがあったのだ。
揺れる「呂」の旗。諸葛恪が以前、罪に問おうとした呂正の部隊である。
諸葛恪の裁決は孫登によって棄却されたものの、呂正が軍令を犯していたのも確かであり任を解かれていたのだ。
呂正にとってこの戦は汚名返上の戦いであり、その決意を見て陳表はこの隘路の防衛に彼の部隊を配するよう推挙していた。
「撫越将軍の部隊が応援に駆け付けたぞ!」
戦場に置いて諸葛恪の騎馬隊はとにかく派手で精悍であった。靡く「諸葛」の旗も白く輝かしい。
味方からすれば精鋭が助けに来てくれたと士気が沸き立つ。反面、敵からすれば絶好の大将首である。
「呂正!」
「ここに!!」
若き武人は血と泥に塗れ、掠れた声を張り上げた。
敵がもう目前まで迫っている。王磊が飲まれた、あの殺意の濁流だ。
「何が何でも死守せよ。我が部隊で援護する」
「撫越将軍直々の救援、感謝します!」
死が迫る戦場、いざこざなど忘れた方がいい。呂正は確かに気持ちがいいまでの武人であった。
再び前線に目をやる。
諸葛恪が感じていた違和感は確信に変わる。恐らく敵の本命は、この細道の突破である。
現にここに投入されている戦力は兵装も充実しており、精悍な大人の男ばかりであったからだ。
「──あれが敵の大将"諸葛恪"だ!アレを殺せ!アレを殺せば我らの勝ちだ!!」
敵の大将の掛け声と同時に攻勢はまた苛烈さを増す。
遠くに居て顔は見えない。しかしあの敵将、見覚えがあった。
「馬宗か!」
「諸葛恪を殺せえええ!!」
呂正は再び前線に駆け、槍を突き出す。
しかし敵の勢いは止まらない。そこに、諸葛恪は自ら剣を振るい、騎馬隊をぶっつけたのであった。
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