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第二話 みんな地獄へ落ちますように
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私は本物のメリルを知りませんでした。
一度も会ったことがなかったのです。
メリルの父親は私の母の弟でした。彼は婚約者を裏切って、下町で作った恋人と駆け落ちしました。駆け落ちといっても、結局広い王都にいくつかある下町と呼ばれる場所の前とは違う地区で暮らしていたのですが。
母の実家は、嫁ぎ先である私の生家と同じで男爵家でした。
祖父母は次男の不始末を償うために必死で働いて、最後は体を壊して亡くなりました。
長男だった伯父が跡を継いで、しばらくは頑張っていたのですけれど、駆け落ちした弟の婚約者の家との取り引きを失った穴は大き過ぎました。
やがて伯父は莫大な借金を背負い込み、それを返済するために爵位を返上しました。
奇しくも弟と同じように平民となって下町で暮らすようになったのです。
母に累が及ばないようにと絶縁して去った伯父は、下町でも妻子のために必死で働いていらしたそうです。でもあるとき仕事先での事故に巻き込まれて怪我を負い、それがきっかけでお酒に溺れるようになって――
絶縁したのに私が事情を知っているのは、伯母が我が家にお金の無心に来ていたからです。
浅ましい、と嘲ることなどできません。
伯母はなにも悪くないし、離縁しても良かったのに伯父と人生をともにしてくれたのですもの。それに、無心は自分のためではありませんでした。伯母はフレディを、私の従兄を育てるために必死だったのです。
幼い私は、伯母が無心に来ているなんて知りませんでした。
母はそういうことを子どもに言わない女性だったのです。
伯母が来るのはお茶会の日で、従兄のフレディと会える楽しい日でもありました。実家の件で社交界から距離を置いた母が整えた庭をフレディに自慢して、即席で作った物語を聞かせてもらっていたのです。
父の男爵家と母の男爵家は領地が隣り合っていました。
ふたつの男爵家のある辺りには、同じおとぎ話が伝えられていたのです。
優しくて美しい妖精の姫と、いつも姫を守っている竜の騎士の物語です。庭の花に、花に集まる虫に、フレディは姫と騎士の物語を重ねて聞かせてくれました。
ときどき現実と物語の区別がつかなくなったものです。
私は妖精の姫なのではないかしら? フレディ従兄様は竜の騎士なのではないかしら?
今は人間になった夢を見ているだけで、目が覚めたらずっとフレディ従兄様と一緒にいられるのではないかしら?
もちろんそんなことはありませんでした。
いつしか伯母とフレディは訪れなくなりました。
母が亡くなって、メリルを名乗る彼女が現れました。ああ、実際はテネシティという名前だったのでしたっけ。
私は優しくて美しい妖精の姫ではありませんでした。
優しいと思われていたら、テネシティに装飾品を換金した分け前をもらっていた侍女が私に脅されて悪事を働いていたと言っても、だれも信じはしなかったでしょう。
そもそも美しくもありません。テネシティのほうが美しかったから、元婚約者も父も、夫も彼女を選んだのです。
竜の騎士もいなくなりました。
伯母が亡くなったという手紙を最後に、フレディからの連絡はありません。
だけどそれは仕方がないことです。跡取りとはいえ男爵令嬢でしかない私に彼を支える力はありませんでしたし、婚約者を差し置いて従兄のことばかり考えてはいられません。
今日、私は王都の男爵邸へ来ていました。
来たくなんかありませんでした。
ここにはもう嫌な思い出しかないのです。テネシティの香草茶で私が子どもを喪った庭からは、妖精の姫も竜の騎士も消えてしまっています。
「……伯爵様との離縁、そして男爵家からの絶縁の手続きをお願いいたします」
「メイジー、本気なのか?」
夫の言葉に思い出します。
そうです、私の名前はメイジーでした。
伯母と同じ名前です。母は私に親友だった伯母の名前をつけたのです。
ちなみにメリルというのは母の名前です。
駆け落ちした叔父は、なにを思って娘に姉の名前をつけたのでしょう。
次男とはいえ貴族令息として生まれ育ち、婚約者の家へ婿入りして不自由のない一生を送る予定だった叔父は、下町での暮らしに馴染めず病気になって、娘の命名だけして亡くなったのです。
「……メイジー」
「メイジー、この家の正しい跡取りは君だ。絶縁だなんて、そんな……」
父と元婚約者に何年ぶりかで名前を呼ばれて、思い出しました。
元婚約者の名前はジャックでした。彼は子爵家の令息で、父の遠縁に当たります。
テネシティと一緒にいるときの彼に呼びかけると不機嫌そうな顔をされたので、いつしか名前を呼ぶのをやめていました。
「ジャック様は父の遠縁です。どなたかと再婚なさって、このまま男爵家をお継ぎになればよろしいのではないでしょうか。……子爵家にはお戻りにはなれないでしょう?」
美しいテネシティは受け入れた子爵家も、ニセモノを利用して男爵家を乗っ取ろうとしていたという悪評は拒みました。
ええ、そんな噂が流れているのです。
仕方がありません。ジャック様が実家に絶縁されたのも仕方がないことなのです。
「再婚? ならメイジー、君と……」
ジャック様の提案に、私は首を横に振りました。
もしかしたら彼は、それが私への償いになるとでも思ったのかもしれませんね。
そんなわけがありません。すべては終わったのです。
「私はもう二度と身籠ることができません。あの女に香草茶を飲まされて子どもを喪ったとき、診断してくれた医師に言われたのです。今回が初めてではないと。これまでは形にもならないうちに喪っていて、月のものの乱れだと思っていたのだろうと」
「……」
人殺しで泥棒で嘘つきだった女性を愛していた男性達が無言で俯きます。
悪意の籠った香草茶を飲まされなかったとしても、自分の婚約者を奪ったような相手とのお茶会は嫌でした。ニヤニヤと嘲笑を向けてくる侍女も。
でもそうしなければ、貴方達は私に微笑んでくださらなかったのです。
「……メ、メイジー。それでもお前は私の娘だ。伯爵と別れて、ジャックと再婚もせずにこれからどうやって生きていく気なのかくらいは教えてくれ」
侍女は男爵家を首になり、捕縛されて罰を受けました。
香草茶を受け取りに行くのは侍女で、そのときに妊婦には良くないものだから気をつけるようにと聞かされていたのです。
ええ、わかっていておこなったのですから罰を受けるのは当たり前です。もう、そこまで酷いことをされるようななにかを自分がしたのだろうかと考える気にもなれません。
「神殿に入って願います」
「願う?」
「……ええ。貴方が、貴方が、貴方が!」
私は立ち上がり、父を元婚約者を夫を指差しました。
「みんな地獄へ落ちますようにって……」
微笑む私の心には醜い憎悪が渦巻いています。
彼らが騙されていたとしても、あの女がもう死んでいたとしても、消え去るものではないのです。
この国で崇められている愛と契約を尊ぶ女神様なら、私が彼らの破滅を願うことくらい許してくださるのではないかと思います。女神様に手を下してくれとまで願う気はないのですから。
一度も会ったことがなかったのです。
メリルの父親は私の母の弟でした。彼は婚約者を裏切って、下町で作った恋人と駆け落ちしました。駆け落ちといっても、結局広い王都にいくつかある下町と呼ばれる場所の前とは違う地区で暮らしていたのですが。
母の実家は、嫁ぎ先である私の生家と同じで男爵家でした。
祖父母は次男の不始末を償うために必死で働いて、最後は体を壊して亡くなりました。
長男だった伯父が跡を継いで、しばらくは頑張っていたのですけれど、駆け落ちした弟の婚約者の家との取り引きを失った穴は大き過ぎました。
やがて伯父は莫大な借金を背負い込み、それを返済するために爵位を返上しました。
奇しくも弟と同じように平民となって下町で暮らすようになったのです。
母に累が及ばないようにと絶縁して去った伯父は、下町でも妻子のために必死で働いていらしたそうです。でもあるとき仕事先での事故に巻き込まれて怪我を負い、それがきっかけでお酒に溺れるようになって――
絶縁したのに私が事情を知っているのは、伯母が我が家にお金の無心に来ていたからです。
浅ましい、と嘲ることなどできません。
伯母はなにも悪くないし、離縁しても良かったのに伯父と人生をともにしてくれたのですもの。それに、無心は自分のためではありませんでした。伯母はフレディを、私の従兄を育てるために必死だったのです。
幼い私は、伯母が無心に来ているなんて知りませんでした。
母はそういうことを子どもに言わない女性だったのです。
伯母が来るのはお茶会の日で、従兄のフレディと会える楽しい日でもありました。実家の件で社交界から距離を置いた母が整えた庭をフレディに自慢して、即席で作った物語を聞かせてもらっていたのです。
父の男爵家と母の男爵家は領地が隣り合っていました。
ふたつの男爵家のある辺りには、同じおとぎ話が伝えられていたのです。
優しくて美しい妖精の姫と、いつも姫を守っている竜の騎士の物語です。庭の花に、花に集まる虫に、フレディは姫と騎士の物語を重ねて聞かせてくれました。
ときどき現実と物語の区別がつかなくなったものです。
私は妖精の姫なのではないかしら? フレディ従兄様は竜の騎士なのではないかしら?
今は人間になった夢を見ているだけで、目が覚めたらずっとフレディ従兄様と一緒にいられるのではないかしら?
もちろんそんなことはありませんでした。
いつしか伯母とフレディは訪れなくなりました。
母が亡くなって、メリルを名乗る彼女が現れました。ああ、実際はテネシティという名前だったのでしたっけ。
私は優しくて美しい妖精の姫ではありませんでした。
優しいと思われていたら、テネシティに装飾品を換金した分け前をもらっていた侍女が私に脅されて悪事を働いていたと言っても、だれも信じはしなかったでしょう。
そもそも美しくもありません。テネシティのほうが美しかったから、元婚約者も父も、夫も彼女を選んだのです。
竜の騎士もいなくなりました。
伯母が亡くなったという手紙を最後に、フレディからの連絡はありません。
だけどそれは仕方がないことです。跡取りとはいえ男爵令嬢でしかない私に彼を支える力はありませんでしたし、婚約者を差し置いて従兄のことばかり考えてはいられません。
今日、私は王都の男爵邸へ来ていました。
来たくなんかありませんでした。
ここにはもう嫌な思い出しかないのです。テネシティの香草茶で私が子どもを喪った庭からは、妖精の姫も竜の騎士も消えてしまっています。
「……伯爵様との離縁、そして男爵家からの絶縁の手続きをお願いいたします」
「メイジー、本気なのか?」
夫の言葉に思い出します。
そうです、私の名前はメイジーでした。
伯母と同じ名前です。母は私に親友だった伯母の名前をつけたのです。
ちなみにメリルというのは母の名前です。
駆け落ちした叔父は、なにを思って娘に姉の名前をつけたのでしょう。
次男とはいえ貴族令息として生まれ育ち、婚約者の家へ婿入りして不自由のない一生を送る予定だった叔父は、下町での暮らしに馴染めず病気になって、娘の命名だけして亡くなったのです。
「……メイジー」
「メイジー、この家の正しい跡取りは君だ。絶縁だなんて、そんな……」
父と元婚約者に何年ぶりかで名前を呼ばれて、思い出しました。
元婚約者の名前はジャックでした。彼は子爵家の令息で、父の遠縁に当たります。
テネシティと一緒にいるときの彼に呼びかけると不機嫌そうな顔をされたので、いつしか名前を呼ぶのをやめていました。
「ジャック様は父の遠縁です。どなたかと再婚なさって、このまま男爵家をお継ぎになればよろしいのではないでしょうか。……子爵家にはお戻りにはなれないでしょう?」
美しいテネシティは受け入れた子爵家も、ニセモノを利用して男爵家を乗っ取ろうとしていたという悪評は拒みました。
ええ、そんな噂が流れているのです。
仕方がありません。ジャック様が実家に絶縁されたのも仕方がないことなのです。
「再婚? ならメイジー、君と……」
ジャック様の提案に、私は首を横に振りました。
もしかしたら彼は、それが私への償いになるとでも思ったのかもしれませんね。
そんなわけがありません。すべては終わったのです。
「私はもう二度と身籠ることができません。あの女に香草茶を飲まされて子どもを喪ったとき、診断してくれた医師に言われたのです。今回が初めてではないと。これまでは形にもならないうちに喪っていて、月のものの乱れだと思っていたのだろうと」
「……」
人殺しで泥棒で嘘つきだった女性を愛していた男性達が無言で俯きます。
悪意の籠った香草茶を飲まされなかったとしても、自分の婚約者を奪ったような相手とのお茶会は嫌でした。ニヤニヤと嘲笑を向けてくる侍女も。
でもそうしなければ、貴方達は私に微笑んでくださらなかったのです。
「……メ、メイジー。それでもお前は私の娘だ。伯爵と別れて、ジャックと再婚もせずにこれからどうやって生きていく気なのかくらいは教えてくれ」
侍女は男爵家を首になり、捕縛されて罰を受けました。
香草茶を受け取りに行くのは侍女で、そのときに妊婦には良くないものだから気をつけるようにと聞かされていたのです。
ええ、わかっていておこなったのですから罰を受けるのは当たり前です。もう、そこまで酷いことをされるようななにかを自分がしたのだろうかと考える気にもなれません。
「神殿に入って願います」
「願う?」
「……ええ。貴方が、貴方が、貴方が!」
私は立ち上がり、父を元婚約者を夫を指差しました。
「みんな地獄へ落ちますようにって……」
微笑む私の心には醜い憎悪が渦巻いています。
彼らが騙されていたとしても、あの女がもう死んでいたとしても、消え去るものではないのです。
この国で崇められている愛と契約を尊ぶ女神様なら、私が彼らの破滅を願うことくらい許してくださるのではないかと思います。女神様に手を下してくれとまで願う気はないのですから。
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