お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸

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第七話 お嬢様は目覚めません。

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「おはよう、ザハール」
「おはようございます、奥様」

 ヴェロニカの部屋には先客がいた。
 いや、先客どころではない。彼女は一日の大半をこの部屋で娘と過ごしている。
 ベッドの横で椅子に座っていたレオンチェフ公爵夫人はザハールに微笑んだ。夫人の隣には彼女付きのメイドと娘付きのメイドが立っている。

「お嬢様のお加減はいかがでしょうか?」
「……相変わらずよ。瞼は閉じたままで、口元に水を含ませた布を持っていっても唇を開けてくれない。お腹も動いていないわ。でもかすかに呼吸をしているし、心臓も脈打っているの」

 あの日、階段の下に転がっていたヴェロニカは呼吸をしていなかった。
 外傷はなかったが心臓の動悸は止まっていて、体は冷え切り固くなっていた。
 それが変わったのは葬儀の日、この公爵邸での密葬に招かれた神殿の最高権力者である聖王が、天界の神に彼女の受け入れを願ったときだった。ヴェロニカの体は、生前の彼女の魔力と同じ黄金色の煌めきに包まれ、呼吸を始めたのだ。

「まだ天界に上がられるときではない──聖王猊下はそうおっしゃられましたね」
「ええ、きっとヴェロニカにはなにか神様に与えられた使命があるのだわ。それを果たせるよう見守るのも私達家族の……ザハール、あなた今日は休みではなかった?」
「も、申し訳ございません。私服ではお嬢様に挨拶させていただけないかと思いまして」

 ヴェロニカが生き返らなかったら、ザハールは後を追うつもりだった。
 どんなに公爵家の面々に事故だったから仕方がないと言われても自分で自分が許せない。
 学園の決まりなど無視して一緒に校舎へ入っていたら、こんなことにはならなかった。しかし彼女が生き返った今、完全に目覚めるか天界へ上がるまで見届けるのが自分の役目だと思っている。

「ふふ、そうね。王太子殿下との婚約が解消されたとはいえ、年ごろの娘の寝室に忠臣以外の男を入れるわけにはいかないわね」

 微笑んで、レオンチェフ公爵夫人は体を動かした。
 ふたりのメイドも避けてくれたので、ベッドに横たわるヴェロニカの顔がザハールにも見えた。
 彼女は生きている。呼吸もしているし鼓動もある。だがなにも食べずなにも飲まない彼女は日に日に衰弱していっている。愛らしい顔立ちは痩せこけ、肌は水気を失っている。

「……おはようございます、お嬢様……」

 目を閉じたままのヴェロニカに見えないことはわかっていたけれど、ザハールは精いっぱいの笑顔を彼女に向けた。
 こんな状態で生かし続けている神を憎む心と、こんな状態でも生かし続けてくれていることに感謝する気持ちが、ザハールの胸の中でせめぎ合っている。
 ヴェロニカに神が与えた使命があるのなら、それは一体なんなのだろう。

(使命を果たしたら完全に生き返らせてもらえるのだろうか。それとも、天界に招かれてしまうのか……)

 自分が身代わりになることでヴェロニカが生き返って幸せになれるのなら、ザハールはいつでも命を投げ出すつもりだった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ヴェロニカの寝室を出たザハールは、自室へ戻るために公爵邸の中庭を横切っていた。

(神殿へ祈りを捧げにでも行ってみるか)

 あまり神殿に良い印象のないザハールなのだが、今の聖王のことは信頼していた。
 彼が自分の地位と名誉しか考えない俗物なら、ヴェロニカが光り輝いた時点で自分の手柄だと触れ回り奇跡を喧伝しただろう。しかし聖王はその場ではなにも言わず、黄金色の光に騒ぐ参列者に神がヴェロニカを歓迎しているのだと告げて黙らせてくれた。
 そして、葬儀の後で公爵家の面々にだけ生き返っていることを教えてくれたのだ。

「ザハール!」

 中庭に植えられた林檎の樹下を通り抜けようとしたとき、頭上から幼い声が降り注いできた。
 見上げるとヴェロニカの弟、六歳のニコライが樹上にいる。
 木の陰にいたメイドが泣きそうな顔で口を開く。

「す、すいません、ザハールさん。お止めしたのですが……」
「仕方がありませんよ。男の子は木登りが好きなものです。ニコライ様、私が抱き上げて差し上げなくても、おひとりで登れるようになられたのですね」
「……んふふ……」

 ニコライは自慢げな笑みを浮かべた。
 彼の周りには黄金色の木漏れ日が煌めいている。
 幼いヴェロニカが魔術の練習をしていたとき、よく見た光だ。彼女は魔力量が多く、回復魔術と浄化魔術に優れた才能を見せた。視界に踊る黄金色の光は、なんだか彼女の気配を感じさせる。

(だが……あの光はただの陽光だ。お嬢様の魔術でも、風に揺れるお嬢様の髪の輝きでもない)

 半月前の卒業パーティ会場でもザハールはヴェロニカの気配を感じていた。
 自身の母校というよりも、彼女の護衛のために通った学園という意識だったからだろう。
 助けられもしなかったくせに彼女ヴェロニカのことばかり考えてしまう自分を自嘲しながら、ザハールはニコライに両手を伸ばした。

「ご自分で降りられますか? メイドが案じておりますし、よろしければ私が抱いて降ろして差し上げますよ」
「大丈夫です。だって、あ……」

 自信満々で枝の上に立ち上がったニコライが体勢を崩した。
 落ちてきたニコライを抱き留めて、ザハールは溜息をついた。

「ニコライ様。木の上は足元が凸凹しているし、表面に樹液が滲んでいるからお気を付けくださいと……」
『そうよ、ニコライ。私がついているからといって……』
「ごめんなさい、姉上。……ザハール?」

 主家の令息への説教の途中で、ザハールは言葉を失ってしまった。
 自分の腕の中のニコライを見つめるヴェロニカの姿に気づいたからだ。
 黄金色の煌めきを纏った彼女は透き通っていて実体がない。

 伝説や怪談に出てくる体を失った死者──幽霊のようだ。
 幽霊や悪霊は血縁者や聖職者以外には見えないと聞くが、なぜかザハールには見えている。見えているということは幽霊ではないのだろうか。
 音の無い声でニコライを注意していた彼女は、ザハールの視線に気づいて見つめ返してきた。

「もしかしてザハールにも姉上が見えているのですか? 僕、母上がお忙しい間、姉上に遊んでいただいていたのです」
『見えているの、ザハール?』
「え、あ、ヴェ、ヴェロニカお嬢様?」
「ザハールさん?」

 メイドだけが不思議そうな顔をしていた。
 彼女にはヴェロニカが見えていないらしい。
 声も聞こえていないようだった。
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