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第九話 邪なる者
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レオンチェフ公爵家に仕える従者ザハールの父はクソ野郎だった。
イードルという名のその男は神殿の神官で、祈りに来る女性達に麻薬を飲ませて下僕にし、売り払っていた。
ザハールの母は庭師の夫を持つ哀れな犠牲者だった。彼女の夫は舅の勤めるレオンチェフ公爵家を離れて、とある男爵家で働いていた。──イリュージアの実家だ。
前妻を殺して入り込んだイリュージアの母親、つまり夫の勤め先の奥方に誘われて、ザハールの母は神殿へ祈りを捧げに行った。
そして、これまでのメイドや女性使用人達と同じくイードルに麻薬を飲まされて、意識が朦朧としている間に玩具にされた。
麻薬は行為の途中で効果が切れるように調整されていて、自分の状況を見せつけられた女性達はイードルの下僕になるしかなかった。
金を持つ者は金を要求され、ない者は脅されて、イードルにとって都合の良い相手に売り払われた。
彼の出世や利益のために。
ザハールの母はイードルに気に入られて、そのまま彼の愛人になるよう命じられた。
夫を愛していた彼女にとって、それは到底受け入れられるものではなかった。麻薬を飲まされて玩具にされたことも許せるわけがなかった。
彼女はすべてを夫に打ち明け、怒り狂った夫はイードルを殺しに行って逆に殺されてしまった。怒りに我を忘れて冷静な判断が出来なかったのだろう。
イードルは正当防衛を主張したが、これは以前から彼を疑っていたレオンチェフ公爵や王配にとって格好の糸口となった。
まだ神官だったころの今の聖王の協力も得た彼らはイードルを捕らえ、神殿内の腐敗していた層を一掃した。
だが残念なことにイードルの犠牲者の中には、美しい彼を愛し自分だけは彼に愛されているのだと信じる女性がいた。五年前、王宮内で王配を殺したのはそのうちのひとりである。
その犯人や男爵夫人が野放しになっていたのは、この事件に関わっていた女性はみな犠牲者であると判断されたからだ。
実際は、男爵夫人のようにイードルのためにほかの女性を用意する共犯者とでもいうべき存在もいたのだけれど、あまりにも大きな捕り物でそこまでは調べきれなかった。
それに今の王国の長は女王だ。同じ女性には同情的であった。
もっとも五年前の事件がきっかけとなって、自主的に犯罪に加担していた女性はきちんと裁かれることとなった。
時間が経った今なら、共犯者達を公表しても傷つけられただけの女性達を二次被害に遭わせずに済みそうだからでもある。
王配の事件に関してはまだ日が浅いので、事故として発表するに止められた。
のらりくらりと逃げていた男爵夫人も、今回の娘の件で引きずり出すことが出来るだろう。
証明出来なかった魅了魔術はともかく高位貴族への侮辱罪で家族を連座させることが可能だ。同じ王に忠誠を誓っていても貴族家はそれぞれが独立した小さな国のようなもの、事実無根で貶めようとすれば戦争になってもおかしくはない。
王子との結婚を条件に罪から逃れられるのはイリュージアだけだ。
前妻の突然の死で呆けていた隙に、夫人と血のつながらない娘に入り込まれた男爵の罪は多少軽くなるかもしれない。
正気に戻ってからの彼はレオンチェフ公爵達の協力者でもあった。
夫人とはかなり前から別居しているが、子どもに罪はないとイリュージアのことを案じてしまったが故に、ふたりを捨てられなかったのだ。
夫亡き後ザハールの母は、舅であるレオンチェフ公爵家の庭師のもとで暮らしていた。
彼女は妊娠していたのだ。
乱暴されたからといってイードルの子どもとは限らない。愛する夫の子どもかもしれない。それだけを心の支えにして生き延び出産した彼女は、生まれたばかりでもわかったイードル譲りのザハールの赤い髪に絶望して自害した。
イードルが処刑されたのは、彼女の死から半年後のことだ。
神殿内の腐敗層があまりにも広かったため、捜査に時間がかかってしまったのである。神殿外にも違法奴隷商などの仲間がいた。
邪悪な者が処分されていたら、彼女は父のいない子を哀れに思って寄り添ってくれていたかもしれない。
ザハールは、母を責めるつもりはない。
彼女の受けた苦痛を考えれば、産んでくれただけありがたいと感謝をしている。血のつながりもない自分を育ててくれたレオンチェフ公爵家の庭師にも。
レオンチェフ公爵家の庭師のことは祖父として庭師の師匠として、尊敬するとともに慕ってもいた。
祖父だと思っていた相手と血のつながりがなかったことと、自分の出生に纏わる忌まわしい事実を知ったとき、ザハールはすべてに絶望した。
鏡を見るたび、顔も知らない父のことを思い出して死にたくなった。
赤い髪も真紅の瞳も大嫌いになった。どちらも母を苦しめ、大好きな祖父の息子を奪った男から受け継いだものだから。
──私はザハールの髪が好きよ。夕日に染まった空の色だもの。
死ぬのではなく生きようと、せっかく産んでもらった命を育ててもらったこれまでの人生を大切にしようと決意したのは、ヴェロニカのそんな一言がきっかけだった。
レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは婚約者のパーヴェル王子を愛していた。
それは知っているし、いずれ王太子妃となる彼女を応援していた。
けれどそれでもザハールは、ヴェロニカを愛さずにはいられなかった。
黄金色の髪の公爵令嬢は、ザハールの生きる理由だった。
なのに、その大切な令嬢を婚約者の王子は踏みにじった。
それもザハールと同じ血を引くと思われるピンクの髪の男爵令嬢イリュージアのために。
邪なる者は死してなお人々を苦しめる。
ヴェロニカが温和で心優しい少女でなかったら、ザハールは彼女のためにパーヴェル王子と男爵令嬢を殺していただろう。
庭師から従者に転身して、ザハールは多くのことを学んだ。事務的なことはもちろん、主人家族を守るための戦闘術も身に着けている。密かにレオンチェフ公爵家で伝えられている暗殺術も修めていた。
ふたりを殺さなかったのは、彼女がそんなことを望む少女ではないと知っていたからだ。
ザハールの愛しいヴェロニカは、邪悪とはほど遠い場所にいる。
イードルという名のその男は神殿の神官で、祈りに来る女性達に麻薬を飲ませて下僕にし、売り払っていた。
ザハールの母は庭師の夫を持つ哀れな犠牲者だった。彼女の夫は舅の勤めるレオンチェフ公爵家を離れて、とある男爵家で働いていた。──イリュージアの実家だ。
前妻を殺して入り込んだイリュージアの母親、つまり夫の勤め先の奥方に誘われて、ザハールの母は神殿へ祈りを捧げに行った。
そして、これまでのメイドや女性使用人達と同じくイードルに麻薬を飲まされて、意識が朦朧としている間に玩具にされた。
麻薬は行為の途中で効果が切れるように調整されていて、自分の状況を見せつけられた女性達はイードルの下僕になるしかなかった。
金を持つ者は金を要求され、ない者は脅されて、イードルにとって都合の良い相手に売り払われた。
彼の出世や利益のために。
ザハールの母はイードルに気に入られて、そのまま彼の愛人になるよう命じられた。
夫を愛していた彼女にとって、それは到底受け入れられるものではなかった。麻薬を飲まされて玩具にされたことも許せるわけがなかった。
彼女はすべてを夫に打ち明け、怒り狂った夫はイードルを殺しに行って逆に殺されてしまった。怒りに我を忘れて冷静な判断が出来なかったのだろう。
イードルは正当防衛を主張したが、これは以前から彼を疑っていたレオンチェフ公爵や王配にとって格好の糸口となった。
まだ神官だったころの今の聖王の協力も得た彼らはイードルを捕らえ、神殿内の腐敗していた層を一掃した。
だが残念なことにイードルの犠牲者の中には、美しい彼を愛し自分だけは彼に愛されているのだと信じる女性がいた。五年前、王宮内で王配を殺したのはそのうちのひとりである。
その犯人や男爵夫人が野放しになっていたのは、この事件に関わっていた女性はみな犠牲者であると判断されたからだ。
実際は、男爵夫人のようにイードルのためにほかの女性を用意する共犯者とでもいうべき存在もいたのだけれど、あまりにも大きな捕り物でそこまでは調べきれなかった。
それに今の王国の長は女王だ。同じ女性には同情的であった。
もっとも五年前の事件がきっかけとなって、自主的に犯罪に加担していた女性はきちんと裁かれることとなった。
時間が経った今なら、共犯者達を公表しても傷つけられただけの女性達を二次被害に遭わせずに済みそうだからでもある。
王配の事件に関してはまだ日が浅いので、事故として発表するに止められた。
のらりくらりと逃げていた男爵夫人も、今回の娘の件で引きずり出すことが出来るだろう。
証明出来なかった魅了魔術はともかく高位貴族への侮辱罪で家族を連座させることが可能だ。同じ王に忠誠を誓っていても貴族家はそれぞれが独立した小さな国のようなもの、事実無根で貶めようとすれば戦争になってもおかしくはない。
王子との結婚を条件に罪から逃れられるのはイリュージアだけだ。
前妻の突然の死で呆けていた隙に、夫人と血のつながらない娘に入り込まれた男爵の罪は多少軽くなるかもしれない。
正気に戻ってからの彼はレオンチェフ公爵達の協力者でもあった。
夫人とはかなり前から別居しているが、子どもに罪はないとイリュージアのことを案じてしまったが故に、ふたりを捨てられなかったのだ。
夫亡き後ザハールの母は、舅であるレオンチェフ公爵家の庭師のもとで暮らしていた。
彼女は妊娠していたのだ。
乱暴されたからといってイードルの子どもとは限らない。愛する夫の子どもかもしれない。それだけを心の支えにして生き延び出産した彼女は、生まれたばかりでもわかったイードル譲りのザハールの赤い髪に絶望して自害した。
イードルが処刑されたのは、彼女の死から半年後のことだ。
神殿内の腐敗層があまりにも広かったため、捜査に時間がかかってしまったのである。神殿外にも違法奴隷商などの仲間がいた。
邪悪な者が処分されていたら、彼女は父のいない子を哀れに思って寄り添ってくれていたかもしれない。
ザハールは、母を責めるつもりはない。
彼女の受けた苦痛を考えれば、産んでくれただけありがたいと感謝をしている。血のつながりもない自分を育ててくれたレオンチェフ公爵家の庭師にも。
レオンチェフ公爵家の庭師のことは祖父として庭師の師匠として、尊敬するとともに慕ってもいた。
祖父だと思っていた相手と血のつながりがなかったことと、自分の出生に纏わる忌まわしい事実を知ったとき、ザハールはすべてに絶望した。
鏡を見るたび、顔も知らない父のことを思い出して死にたくなった。
赤い髪も真紅の瞳も大嫌いになった。どちらも母を苦しめ、大好きな祖父の息子を奪った男から受け継いだものだから。
──私はザハールの髪が好きよ。夕日に染まった空の色だもの。
死ぬのではなく生きようと、せっかく産んでもらった命を育ててもらったこれまでの人生を大切にしようと決意したのは、ヴェロニカのそんな一言がきっかけだった。
レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは婚約者のパーヴェル王子を愛していた。
それは知っているし、いずれ王太子妃となる彼女を応援していた。
けれどそれでもザハールは、ヴェロニカを愛さずにはいられなかった。
黄金色の髪の公爵令嬢は、ザハールの生きる理由だった。
なのに、その大切な令嬢を婚約者の王子は踏みにじった。
それもザハールと同じ血を引くと思われるピンクの髪の男爵令嬢イリュージアのために。
邪なる者は死してなお人々を苦しめる。
ヴェロニカが温和で心優しい少女でなかったら、ザハールは彼女のためにパーヴェル王子と男爵令嬢を殺していただろう。
庭師から従者に転身して、ザハールは多くのことを学んだ。事務的なことはもちろん、主人家族を守るための戦闘術も身に着けている。密かにレオンチェフ公爵家で伝えられている暗殺術も修めていた。
ふたりを殺さなかったのは、彼女がそんなことを望む少女ではないと知っていたからだ。
ザハールの愛しいヴェロニカは、邪悪とはほど遠い場所にいる。
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