好きでした、さようなら

豆狸

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最終話 私はまた恋をするのです。

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 ──ガタン、と馬車が揺れて目を覚まします。

「あの……」

 同じ乗合馬車に乗っている少年が、立ち上がって近づいてきます。

「大丈夫、ですか?」
「はい?」

 ふと頬に触れた手が濡れて、自分が眠りながら泣いていたことに気づきました。

「心配してくださってありがとうございます。ちょっと嫌な夢を見ていただけです」
「そうですか。あの……良かったらこのパン食べますか? 俺が焼いたんです」
「まあ、ありがとうございます!」

 少年が差し出したパンを受け取ると、彼は複雑そうな顔で私を見つめてきました。

「どうしましたか?」
「自分が渡しておいて言うのも変だけど、知らない人間から気軽に食べ物をもらっちゃダメだと思いますよ? あんた世間知らずっぽいし」
「あなたは良い人だから大丈夫です」
「そんなことわからないでしょうが。もー!」

 溜息をついて、彼は同行者の少女のところへ戻っていきました。
 どうやらふたりは姉弟のようです。父親が亡くなって家業のパン屋を継ぎ、今日は乗合馬車で材料の小麦を仕入れに行ったという話をしていました。
 この馬車が向かっている海辺の町では、潮風のせいで麦が育たないのです。

 乗合馬車の中には、私と彼らふたりしかいません。
 彼らも、御者も、乗り込む前に精霊が悪い人ではないと教えてくれていました。
 頭の中で声がします。

(……アンリエット、パンだね)
(……ええ、パンです。馬車から降りたら、海を見ながら食べましょう)
(……わーい!)

 実体を持った後も、姿を消しているときは頭の中に話しかけてくる精霊です。
 アピスと名付けました。
 私の願いを叶えるかどうかは、そのときどきでアピスが決めますが、とりあえず同行してくれるのだそうです。人の心は読みません。でも善人か悪人かは感じ取れるので教えてくれると言います。

 もらったパンを大切に荷物袋の中に仕舞い、私は涙を拭いてもう一度瞼を閉じました。
 昔のことを思い出しながら、眠りへと落ちていきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「アンリエット、本当にいいのかい?」

 デクストラ王国の夏祭りが終わり、帰路に就いた馬車の中でヘイゼル陛下は言いました。

「君はラインハルト王子を愛しているのではないのか?」
「……ラインハルト殿下を愛していた私は、あの日湖水の中で死んでしまったのです」
「私は、君に酷いことばかりしてきた。だが君が一緒にいてくれるのなら、一生をかけて償おうと思う」

 私は首を横に振りました。償いなど求めてはいません。

「ヘイゼル陛下、初夜に約束してくださったではありませんか。陛下の愛する人を見つけられたら、私を自由にしてくださると」
「自由? それは離縁するということではなかったのかい?」
「違います。ご迷惑をおかけしますが、私を旅立たせてください。辺境伯令嬢でも第二王子の婚約者でもシニストラ王国の王妃でもない、ただのアンリエットになりたいのです」
「なんの後ろ盾もない女性がひとりで生きていけるほど、世界は甘くはないよ」
「大丈夫です。……冷たい湖水から助け出していただいたとき、私はヘイゼル陛下に恋をしました。結婚を申し込んでくださって、顔合わせでお会いしたときの喜びは忘れられません」
「アンリエット? 君は私を愛していたのか?」

 不思議なことに、陛下は喜んでいるように見えました。

「愛していました。ですが、陛下を愛していた私はあの初夜に死にました。死んでしまった亡骸なのですから、自由になってなにがあっても大丈夫です」
「……」
「お願いです。約束を果たしてください。陛下の愛する人を見つけられたのですから、私に自由をください」
「彼女は……あんなことになってしまった。見つかったけれど、私のものにはなっていない」
「私が約束したのは見つけることだけです。……本当は、おふたりが幸せになられることを望んでいました」
「アンリエット!」

 ヘイゼル陛下は向かいの席から立ち上がり、倒れ込むようにして私にのしかかります。
 唇が重なりました。
 陛下とキスをしたことなどないのに、なぜか知っている感触に思えます。

「私は君を愛している。なにを都合のいいことを、と思われるだろうが、シニストラの王宮でともに過ごす間に惹かれていった。……あの恥知らずな提案をしたとき、ネビルに言われたよ。私は君を愛しているから、離縁という形で失いたくないのだと」

 言い終わった陛下が酷く傷ついたような顔をなさったのは、私が無意識に唇を拭ってしまったからでしょうか。

「……私もシニストラ王国での生活の中で、もう一度陛下に恋をしました。ネビル様にあの話を聞いて死んだ心も、時間が経てば蘇って陛下に恋していたでしょう」

 私はそこで、息を吐きました。

「けれどそれは、陛下の愛する人が見つかっていなければの話です。これからどんなに陛下を愛しても陛下に愛されても、私は名前を呼ばれるたびにあの瞬間を思い出すのです。私の名前をほかの女性に対して呼びかけていた陛下の声を。最初から……最初お会いしたときから陛下にとっての私は偽物のアンリエットだったのです。あなたにとっての本物は彼女のほうなのです」

 まだ私に覆いかぶさったままだった陛下が、真っすぐに見つめてきます。

「私達は夫婦だ。君がデクストラ王国の王太子の申し出を蹴って、それを望んだ。私が力尽くで君を抱いても、だれも咎められない」
「そうですね。ですが……陛下は約束を果たしてくださると信じています」
「……っ」

 ヘイゼル陛下は向かいの席にお戻りになりました。
 馬車が揺れます。
 悲しそうな陛下の顔を見ていると辛くなります。壊れて死んだ心の片隅に、彼への想いが残っているのでしょうか。

  私は眠りたくなりました。眠ってすべてを忘れられたら良いのに。
 もしまた精霊に会えたなら、あの瞬間を忘れさせてほしいと願いましょうか。
 あの瞬間さえ忘れられたなら──

(……ダメだよ)
(……精霊さん? いたのですか)
(……その願いは叶えない。ほかの精霊にだって叶えられないと思うよ。アンリエットは彼を愛していたから心が死んでいったんだ。あの瞬間を忘れたら、きっと恋したことまで消えてしまうよ。それは生きていないのと同じだよ)

 正直なところ、生きたり死んだりややこしいですね、と思いました。
 思って、口の端に笑みが浮かぶのがわかりました。
 私ははしたない娘なのです。ラインハルト殿下への恋心を失ってすぐ、ヘイゼル陛下に恋をしました。今度もきっと、だれかと巡り会って恋に落ちます。

 陛下はきっと約束を果たしてくださることでしょう。
 病気で療養中ということにして、ほど良い時期に亡くなったと発表するのではないでしょうか。
 ガートルード様にだけは真実を伝えなくてはなりませんね。そうでなくても、たくさん心配させてしまったのですから謝らなければなりません。父と兄にもです。

 向かいの席で目を閉じているヘイゼル陛下を見つめます。
 胸に温かい気持ちが満ちました。私は彼に恋をしました。辛いことばかりだった気もしますが、それも私の人生の大切なかけらだったのです。
 心の中で呟きます。

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