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第四話 彼の隣に彼女はいない。
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私の言葉を聞いて、ベネデットは自分の右側を見た。
お茶を飲むときも顔を覆うときも彼は左手を使う。
左利きではないのに、だ。
その理由は右手にある。
ベネデットの右手はある存在を掴み続けているのである。
なにがあろうとも、彼が右手を離すことはない。
自分の右手が掴むものを見て、ベネデットの青い瞳が見開かれる。
「おおおぉぉお。おおおおおおおっ!」
地獄の底から響いてくるような低い唸り声が彼の唇から漏れた。
研究員が記録を鞄に片付け、逞しい男性達が顔に緊張を走らせる。
プニツィオーネはソファの横で頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「お姉様っ! お願い、助けてっ!」
ベネデットの右手に捕まれたインチテンデが叫ぶ。
その声はもう小鳥のようではない。
その姿もすでに妖精のようではない。
声はしゃがれ、美しかった銀の髪は水気を失ってボサボサで滑らかだった肌は土気色でカサカサだ。
生きてはいる。
生きてはいるが──それだけだ。
幻想に生きているときのベネデットは、絶対にインチテンデの存在を認めない。
食事をふたり分用意されても、自分ひとりしかいないと言って机から落としてしまうのだ。貴族のすることではないから、心の奥底では彼女への憎悪が渦巻いているのかもしれない。
まあ、彼はもう貴族ではないのだけれど。
存在はないものとしながらも右手は絶対に離さないので、インチテンデは水さえ満足に飲むことは出来ない。
排泄もだ。
プニツィオーネはその辺りの世話をさせるために雇われているのだろう。
私はすっかり変わってしまったインチテンデに首を横に振って見せた。
「私の母は亡くなり、父とは絶縁しました。婚約者との婚約も破棄されたので、今の私の身寄りは祖父だけです」
右手だけは握り締めたまま、ベネデットがインチテンデに殴りかかる。
もちろん彼は私の言葉など聞いてはいない。
「それでもっ! 君が嘘つきでカルロタを貶めたのだとしても、僕を騙したのだとしても、それでも結婚した以上僕は君を愛し続けるつもりだった。精神魔術研究所に泊まり込みをしていたのは君と君の両親を養うためだ! なのに君はっ! なのに君はあっ!」
インチテンデはベネデットの留守中に、ほかの男性を引き込んでいた。
ベネデットより金持ちの男性だ。彼女の両親も承知の上だった。
彼はインチテンデと男性を庇う伯爵夫妻を殺してしまった。
伯爵と愛人は私がいなくなった後で再婚していたのだ。
この醜聞で伯爵家は滅びた。
当主夫妻は亡くなり、跡取り娘もその婿も社会に出られる状態でないのだから仕方がない。
伯爵夫妻を殺したベネデットは、右手でインチテンデを掴みながらも彼女の存在を感知しなくなった。
自分はまだカルロタと婚約している侯爵家の次男だという幻想の中で彼は生きている。
精神が魔術に及ぼす影響について研究している精神魔術研究所は、ベネデットは自分自身にインチテンデが感知出来なくなる魔術を無意識にかけているのではないかと考えて、研究材料にしている。研究材料として世話されていなければふたりとも生きてはいけなかっただろう。
研究を理由に面倒を見ているのは罪悪感のせいもあるのかもしれない。
ベネデットの背後で記録を取っていた研究員は研究所の所長で、彼の親友だった男性だ。
私に関する噂を鵜呑みにしていて、ベネデットと婚約していたときは会うたびに毒虫を見るような目で睨まれた。私に聞こえているとわかった上で、ベネデットに婚約を解消したほうが良いのではないかと忠告していたこともある。
ベネデットがこんな状態になって、絶縁していても次男の醜聞から逃れられなかった侯爵家が爵位を返上して行方不明になって、私の祖父の商会が精神魔術研究所への支援を取り止めた今、所長の彼はなにを考えているのだろうか。
婚約者の異母妹に熱を上げるのはおかしいと、嫡子の持ち家に愛人親子が押しかけて住み着くのは異常だと、ベネデットに忠告しておけば良かったと悔やんでいるのかもしれない。
……もう遅いけれど。
お茶を飲むときも顔を覆うときも彼は左手を使う。
左利きではないのに、だ。
その理由は右手にある。
ベネデットの右手はある存在を掴み続けているのである。
なにがあろうとも、彼が右手を離すことはない。
自分の右手が掴むものを見て、ベネデットの青い瞳が見開かれる。
「おおおぉぉお。おおおおおおおっ!」
地獄の底から響いてくるような低い唸り声が彼の唇から漏れた。
研究員が記録を鞄に片付け、逞しい男性達が顔に緊張を走らせる。
プニツィオーネはソファの横で頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「お姉様っ! お願い、助けてっ!」
ベネデットの右手に捕まれたインチテンデが叫ぶ。
その声はもう小鳥のようではない。
その姿もすでに妖精のようではない。
声はしゃがれ、美しかった銀の髪は水気を失ってボサボサで滑らかだった肌は土気色でカサカサだ。
生きてはいる。
生きてはいるが──それだけだ。
幻想に生きているときのベネデットは、絶対にインチテンデの存在を認めない。
食事をふたり分用意されても、自分ひとりしかいないと言って机から落としてしまうのだ。貴族のすることではないから、心の奥底では彼女への憎悪が渦巻いているのかもしれない。
まあ、彼はもう貴族ではないのだけれど。
存在はないものとしながらも右手は絶対に離さないので、インチテンデは水さえ満足に飲むことは出来ない。
排泄もだ。
プニツィオーネはその辺りの世話をさせるために雇われているのだろう。
私はすっかり変わってしまったインチテンデに首を横に振って見せた。
「私の母は亡くなり、父とは絶縁しました。婚約者との婚約も破棄されたので、今の私の身寄りは祖父だけです」
右手だけは握り締めたまま、ベネデットがインチテンデに殴りかかる。
もちろん彼は私の言葉など聞いてはいない。
「それでもっ! 君が嘘つきでカルロタを貶めたのだとしても、僕を騙したのだとしても、それでも結婚した以上僕は君を愛し続けるつもりだった。精神魔術研究所に泊まり込みをしていたのは君と君の両親を養うためだ! なのに君はっ! なのに君はあっ!」
インチテンデはベネデットの留守中に、ほかの男性を引き込んでいた。
ベネデットより金持ちの男性だ。彼女の両親も承知の上だった。
彼はインチテンデと男性を庇う伯爵夫妻を殺してしまった。
伯爵と愛人は私がいなくなった後で再婚していたのだ。
この醜聞で伯爵家は滅びた。
当主夫妻は亡くなり、跡取り娘もその婿も社会に出られる状態でないのだから仕方がない。
伯爵夫妻を殺したベネデットは、右手でインチテンデを掴みながらも彼女の存在を感知しなくなった。
自分はまだカルロタと婚約している侯爵家の次男だという幻想の中で彼は生きている。
精神が魔術に及ぼす影響について研究している精神魔術研究所は、ベネデットは自分自身にインチテンデが感知出来なくなる魔術を無意識にかけているのではないかと考えて、研究材料にしている。研究材料として世話されていなければふたりとも生きてはいけなかっただろう。
研究を理由に面倒を見ているのは罪悪感のせいもあるのかもしれない。
ベネデットの背後で記録を取っていた研究員は研究所の所長で、彼の親友だった男性だ。
私に関する噂を鵜呑みにしていて、ベネデットと婚約していたときは会うたびに毒虫を見るような目で睨まれた。私に聞こえているとわかった上で、ベネデットに婚約を解消したほうが良いのではないかと忠告していたこともある。
ベネデットがこんな状態になって、絶縁していても次男の醜聞から逃れられなかった侯爵家が爵位を返上して行方不明になって、私の祖父の商会が精神魔術研究所への支援を取り止めた今、所長の彼はなにを考えているのだろうか。
婚約者の異母妹に熱を上げるのはおかしいと、嫡子の持ち家に愛人親子が押しかけて住み着くのは異常だと、ベネデットに忠告しておけば良かったと悔やんでいるのかもしれない。
……もう遅いけれど。
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