今夜で忘れる。

豆狸

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前編 忘れたくない

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「……今夜で忘れます」

 そう言って、私はジョアキン殿下を見つめました。
 黄金の髪に緑色の瞳、鼻筋の通った端正な顔を持つ、我がソアレス王国の第二王子。大陸最大の図書館がそびえる学術都市として名高いソアレスの王都にある大学を卒業するまでは、侯爵令嬢の私の婚約者だった方です。
 今はお互いに別の方と婚約しています。

「忘れると誓います。ですから、幼いころからの想いに決着をつけるため、どうか私にジョアキン殿下との一夜をくださいませ」

 ここは王都近くにあるジョアキン殿下の別荘です。
 婚約してから十数年の間に、何度も遊びに来た懐かしい場所です。
 大学に隣国の留学生が来てからは、不思議と招かれなくなりましたけれど。

「……ダニエラ。お前との婚約を解消したことは悪かったと「いいえ!」」

 私はジョアキン殿下の言葉を遮りました。
 いつもは内向的で本を読んでばかりの私の大声に、殿下は戸惑っているようです。
 私は言葉を続けました。

「それは殿下のせいではありません。私とて侯爵令嬢です。王族である殿下がソアレス王国のために生きなくてはならないことはわかっています。拡大するアゼヴェード帝国の脅威に対抗するためには、隣国エアネスとのつながりは必要なことでした」

 殿下の新しい婚約者はエアネスの王女リーショ様です。
 彼女はソアレスの大学の留学生でした。ソアレスの王太子殿下と王太子妃殿下はもう大学を卒業なさっていたので、留学してきたリーショ様のお世話は第二王子であるジョアキン殿下と彼の婚約者の私が任されていました。
 表向きは女同士である私のほうが彼女と仲が良いと思われていたでしょうが、実際は殿下のほうが仲良しだったようです。……休暇ごとにこっそりとこの別荘にリーショ様をお招きするくらいには。

 私は幼いころから読書が好きで、人と話すのが苦手でした。
 侯爵令嬢ということでジョアキン殿下の婚約者に選ばれたものの、彼を支えるどころか支えられていました。
 殿下が明るく活発なリーショ様を好きになるのは当然のことだったのかもしれません。

「おふたりのお幸せを邪魔するつもりはありません。後ひと月もすれば、私はアゼヴェード帝国の第三皇子ティアゴ殿下の元へ嫁ぎます。ですから一夜だけ、一夜だけで良いのです。十数年間の私の想いに決着をつけるために、どうかお情けを……」

 演技ではない涙がこぼれ落ちました。
 そもそも私は、大学時代私に隠れて睦み合っていたジョアキン殿下とリーショ様と違って、嘘などついていません。
 本当に、殿下との一夜を望んでいるのです。この別荘で夜を明かしたいのです。

「……ダニエラ。帝国は大陸の神殿を統べる大聖殿のある国だ。我が国や隣国よりも貞節を重んじる。いくらつい最近まで俺と婚約していたと言っても、お前が処女でないと知れたら」
「私はもう清くはありません」
「ダニエラ?」
「ティアゴ殿下との婚約が結ばれたときに……」

 ジョアキン殿下の瞳が見開かれました。

「なんて男だ。確かにアイツは大学に留学してきたときからお前のことを狙っていたものな」

 そう……だったのでしょうか。思い当たる節がありません。
 大学時代の私は、ジョアキン殿下に夢中でした。
 だからすぐに気づいたのですよ? 殿下がリーショ様を見るときの熱い瞳に、リーショ様が殿下へ返す微笑みに。

 でも気づかない振りをしました。ソアレスの侯爵令嬢ですもの。
 ジョアキン殿下には私が、リーショ様には従兄である大公令息の婚約者がいることを存じておりましたもの。

 図々しく国境線をはみ出してアゼヴェード帝国の怒りを買った隣国エアネスの王家が、仲介に入って事を収めてくださった大公家を裏切れるはずがないと知っておりました。
 エアネスの王弟でもある大公殿下は、リーショ様の婚約者の病弱なご長男を寵愛なさっていらっしゃいましたしね。
 ティアゴ殿下の兄君に当たる帝国皇帝の親友でもあったあの方さえご健勝なら──

「そうか、そういうことだったのか。……可哀相にダニエラ」

 私は微笑みました。
 ずっと愛し続けていた婚約者と親友だと思っていた女性に裏切られたのですから、可哀相にもほどがありますよね。
 ふたりは私を笑っていたのでしょうか。この別荘で、このソファに座って、なにも気付いていない(振りをしていた)莫迦な侯爵令嬢を嘲笑っていたのでしょうか。それともお互いに夢中で、私のことなど思い出しもしなかったのでしょうか。

「……天気が悪くなってきた」

 ジョアキン殿下はふたりがいる応接室の窓から外を見ておっしゃいました。
 お言葉の通り、今夜は雨が降りそうです。
 私の心の中のように澱んで渦巻く雲が空を覆っています。

「夜道を急いで王都に帰るのは危険だ。ダニエラの侍女のエヴァは元近衛騎士で護衛の任も受けている、王家と侯爵家の信頼篤い人物だ。俺達になにもなかったと証言してくれるだろう」
「私どもがついているのですから、おふたりが過ちを犯すはずがありません」

 私の後ろに立つエヴァが頷きました。
 殿下の背後で彼の護衛騎士も首肯しています。

「……ダニエラ……」

 立ち上がったジョアキン殿下の差し出す手に、私は自分の手を預けました。
 ああ、忘れると誓ったのは嘘です。これから彼の寝室で過ごす一夜を忘れることは出来ません。
 私はもう清くはありません。アゼヴェード帝国のティアゴ殿下との婚約が決まったときに心を穢してしまったのです。……ジョアキン殿下とリーショ様に復讐することを心に誓って。

 ティアゴ殿下が大学時代から私を狙っていたというのは、ジョアキン殿下の妄想でしょう。ご自分が浮気をしているから、周囲も浮気したがっていると思い込んでいたのに違いありません。
 ……確かに、読書好きだとおっしゃるティアゴ殿下とお話するのは楽しかったですが、それだけです。

 帝国は国境を侵したエアネス王国を許してはいません。仲介の立役者であった大公家のご長男が亡くなった今は、なおさらに。
 現役の帝国将軍でもあるティアゴ殿下はご自分の手を汚さずにエアネスと、中立を謳いながら隣国エアネスに与したソアレスを始末するつもりなのでしょう。
 もっとも私が復讐したいのはジョアキン殿下とリーショ様のおふたりだけなので、ティアゴ殿下の思う通りにもさせないつもりですけれど。
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