竜族への生贄かと思ったら、王子の愛妻になったのですが。

高城

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(22)全部見せて、全部見たい

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 屋敷の扉を静かに閉めると、朝日がすでに薄らと昇っていた。人が起きている際に灯っているはずの明かりも消えていて、全員再び眠りの中に沈んでいるらしかった。
 ギルフォードは誰にも気づかれないまま、自室のドアを開け、ため息混じりにベッドへ身を預けた。背中が柔らかな寝具に沈む感覚が、遠くの出来事のようにぼやけている。

 胸の奥に、微かな鈍痛があった。
 幼い頃から刷り込まれた厳格な規律。誰よりも早く覚えなければならなかった礼儀や剣術。血に刻まれた王の系譜と、それを当然とする周囲の期待――。
 そのすべてが、今朝はなぜかやけに鮮明に蘇る。

 ずっと誰かと心を交わす暇もなく、未来は定められたものとして頭上に掲げられたまま、生きてきた。今更、悔しいわけでも悲しいわけでもない。ただ、心の奥が擦れるように痛むのが煩わしかった。

「……書類、忘れた」

 喉の奥で転がすように漏らした呟きは、闇の中に静かに消えた。
 目を閉じて脳裏に浮かぶのは、先ほどまでいた王宮の景色と、未処理の書類の山。どうせなら取って戻ってくるつもりだったのに――と考える間もなく、意識がゆるやかに沈んでいった。

 その眠りは、久しぶりに訪れた無防備な静けさを伴っていた。



 その日の朝、ギルフォードが食事の席に現れなかったことに気づいたのは、準備をしていたエルマーだった。
 書斎にも姿は見えず、足取りを静かに自室の方へ向ける。

「部屋か……。珍しいな」

 呟きながら扉の前に立ち、ひとまずノックをしてみる。けれど、返事はなかった。
 しばらく耳を澄ませてみても変化はなく、ほんの少しだけ逡巡してから、エルマーはそっと取っ手に手をかけた。

 静かに軋む音と共に開かれた扉の奥――。

 カーテンを締め切り、一筋だけ陽に照らされたベッドの上で、ギルフォードが静かに寝息を立てていた。
 掛け布団に潜り込んでいないのを見る限り、本気で眠るつもりではなかったのだろうと察しがつく。しかし、その顔からは、いつもの険しさや張り詰めた気配がすっかり消えている。

「……マジで珍しいじゃん」

 漏れた小さな呟きは、安堵にも似ていた。
 エルマーが思わず近づいて見ると、普段は彼の眉間にあるはずの深い皺はなく、まるで年相応の――いや、それよりもずっと幼く見える顔立ちが、そこにはあった。

 いつも、こうして眠れていたらいいのに。
 もっと仕事を任せてくれたら。
 もっと弱さを見せてくれたら――。

 言葉にはしなかったけれど、胸の奥で何度も繰り返されたその願いが、今日もまたそっと積もっていく。
 エルマーは立ち尽くしたまま、静かに目を細めた。眠るギルフォードに手を伸ばしかけて、けれど触れないまま、ゆっくりと引っ込める。

 従者として。そして、たった一人の親しい友人として。
 ただ、彼が少しでも深く眠れることを願って、そっと扉を閉じた。

 そのまま食堂へ戻り、扉を開けた瞬間、温かな空気がふわりとエルマーを包み込んだ。
 食卓ではリアとレオンハルトが並んで座り、料理には手付けずにエルマーとギルフォードを待っていたようだった。エルマーの姿に気づくと、二人は揃って顔を上げた。

「ギルいた?」
「おう」

 短く返しながらも、エルマーの頬にはにやけた笑みが浮かんでいた。
 そのまま椅子へ腰を下ろし、どこか誇らしげに目を細める。

「部屋で寝てた」

 その声には、言葉以上のものが込められていた。
 心からの安堵と、静かな喜び。大切な誰かが無事でいてくれたことを確かめた時のような、穏やかな響きがあった。

 リアはその言葉を聞いた瞬間、自然と表情をほころばせた。
 以前、キッチンの片隅でギルフォードがひとり黙々と夜の作業をしていた姿を思い出す。疲れの色が滲んでいたあの横顔を思えば、今日の報せはご褒美のようだった。

「そっか。今朝も、早くからいろいろしてくれたし……ギルフォード様は、普段からもっと休まないとね」

 穏やかに、けれど確かに想いを込めて口にしたその言葉に、レオンハルトもそっと頷いた。

「だね。……ねぇ、僕も見たい。ギルの寝顔。見たことない」

 少し悪戯っぽい声音で言われて、エルマーは吹き出しそうになる。

「いやー。いつも顰めっ面だから忘れてたけど、あいつやっぱ綺麗な顔してたわ」

 笑いながら冗談めかして返したその言葉にも、どこか確かな敬意と親しみが込められていた。
 静かな朝の空気の中で、三人の声が軽やかに重なっていく。

 やがて料理に手を付けると、湯気と香りが食堂を満たし、自然と話は日常の細やかな話題へと移っていった。ギルフォードの眠る姿を思い浮かべながら、朝食は静かに、温かく始まる。

 何気ない時間が、今日に限っては少しだけ、特別に感じられる――そんな空気が、そこには確かに流れていた。



 目を覚ました瞬間、部屋の中がひどく静まり返っていることに気づいた。
 薄暗い天井を見上げながら、ギルフォードはゆっくりとまばたきを繰り返す。

「……は?」

 不意に口をついた声と同時に、飛び起きて時計へと視線を向ける。
 時刻は、もうすっかり夜。深夜とまではいかないが、辺りはすでに暗く、家全体がしんと落ち着いていた。

 重たい瞼を擦るように、ギルフォードはガシガシと頭を掻いた。これほどまでに眠ったのは、いったいいつ以来だろうか。記憶をたどってみても、似たような時間がなかなか見つからない。

 妙な罪悪感を振り払うようにして、ベッドを降りる。

「――書類終わらせっか」

 小さく呟き、冷たい水でも飲もうとキッチンへ向かった。

 足音を忍ばせながら廊下を歩き、キッチンの扉へと手をかける。
 が、その指先が扉に触れる直前、中から楽しげな声が漏れてきて、ギルフォードの動きがふと止まった。

「あいつ、絶対こっちのが好きだって」
「でも、これも美味しいよ? 村ではよく作ってたけど、好評だったの」
「カツレツよりも美味いのか? それ、何入ってんだ?」
「玉子とローストチキンと、あとはマリネにした野菜たくさん」
「へぇー! うまそっ」
「ふふ、でしょ?」

 少し離れていても、声の主はすぐに分かった。リアとエルマーだ。
 言葉の端々には、相手を気遣うような優しさと、心から場を楽しんでいる空気が滲んでいる。

 ギルフォードは扉の前で立ち尽くしたまま、どうしたものかと考える。妙に入るタイミングを失ってしまい、気づけばそのまま壁に寄りかかっていた。

「ギルフォード様、これならいつ起きてもすぐに食べられるよね」

 リアの声がそう言って、軽やかに笑う。

「だな。あいつ、一人だったら飯抜いてただろうし、リアが料理美味くて助かった」

 エルマーの声が続き、サンドイッチを包む気配がする。
 どうやら、夜食を作っているらしい。それも、ギルフォードのためだけにだ。
 この提案をしたのはリアで、聞く限りレオンハルトも手伝いたがっていたが、当番のバスルーム掃除で泣く泣く抜けたらしい。

 二人は、ギルフォードが扉の向こうにいることなど知る由もないまま、せっせと料理を仕上げていた。パンの香ばしい匂いと、焼いたチキンの香りが、ふわりと廊下まで漂ってくる。夢中で作っているのか、一人では両手で抱えきれないほどの量になっている。

 ギルフォードはしばらくその様子を静かに見つめていたが、やがてそっと踵を返した。
 書斎へ向かう足取りは、どこか軽くて穏やかだった。廊下を歩く途中、堪えきれずに小さく吹き出す。

「つーか、あれ何人前だよ」

 その声には、呆れと、少しだけの照れくささ。そして、不思議と満ち足りた心の水面が含まれていた。

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