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(26)火が灯った先
しおりを挟む「それにしても、シュトルツはどうしてここに?」
レオンハルトが珍しく眉を僅かに上げながら、目の前の男へと問いかけた。その声に驚きや動揺こそなかったが、微かに揺れる感情の波が、その穏やかな顔に滲む。いつになくはっきりと、それが見えた。
「ふふ、坊ちゃん。いきなりそんな顔をなさるとは、さすがに私も心が痛みますな」
シュトルツが肩をすくめ、どこか茶目っ気を含んだ声で笑う。その直後、鍛錬場の入り口から、乾いた足音が響いた。
「やあ。大きくなったね、レオ」
軽やかな声。風を思わせるような涼やかさを帯びたその響きに、リアは思わず振り返った。
そこに立っていたのは、水色の長髪を肩口まで伸ばし、風に靡かせる一人の青年。凛とした佇まいの中に、鋭さと包容力が同居している――まるで、レオンハルトと似ているようで、まったく異なる存在だった。
「ヴィルヘルム。なんでここにいる」
ギルフォードの声が空気を切るように響く。レオンハルトもまた、目を見開きかけて、けれどすぐに落ち着きを取り戻すと、胸の内から浮かんできた言葉を、短く紡いだ。
「……兄様」
「ふっ。ちゃんと元気そうで安心したよ」
「兄様って、レオの……?」
「うん。僕の兄だよ。ヴィルヘルム・アクアリス」
ヴィルヘルムは穏やかに笑みを浮かべ、その目に確かな温もりを宿す。レオンハルトと話しているリアへと視線を移すと、少し目を細め、興味深そうに口角を上げた。
その人懐こさとどこか飄々とした雰囲気に、エルマーがすかさず声を上げる。
「ヴィル、マジでなんで里にいるんだ?」
「ああ、目的はお前たちと同じさ。防衛戦略に使う模擬戦データを提供しに来たんだよ。ちょうどいい理由ができたから、ついでにレオの顔も見にね」
じゃれ合うような調子で言いながら、ヴィルヘルムの視線が、リアとギルフォードの方へと自然に流れていく。その眼差しは穏やかでいて鋭く、何かを見透かすようだった。
「さて。そちらのお嬢さんは?」
「あ……初めまして。リアと申します」
自然と背筋が伸びた。名乗る声が少しだけ震えてしまう。威圧感はないのに、気を抜けない空気――その存在感に、身体が無意識に緊張していた。彼がレオンハルトの兄だと知る前から、すでにその空気はあって、ただ者ではないと身体が察しているようだった。
「リアか。名前だけは聞いていたけど、会うのは初めてだね。ヴィルヘルム・アクアリス、レオの兄で……まあ、少々面倒な役回りを任されてる」
茶化すように言いながら差し出された手を、リアは両手でそっと受け取った。
「お会いできて光栄です。レオには、いつも本当にお世話になっていて……」
「こりゃまた丁寧すぎるな。くすぐったいくらいだ。よろしく、リア」
ヴィルヘルムはにこやかに笑って手を放す。会話を見守っていたギルフォードが、リアに説明するかのように、そこで口を開いた。
「こいつは今、狼族の里に住んでる。向こうの長の娘と、四年前に政略結婚したんだとよ」
「狼族の……娘さんと……」
リアの声が、そっと揺れるように漏れた。
ギルフォードと同じ、政略のための結婚。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
だが、ヴィルヘルムの顔には重さや後悔など微塵もなく、むしろ懐かしさを滲ませた優しい微笑みが浮かんでいた。
「その通り。向こうで暮らしてると、たまに里が恋しくなるんだ。だからこうして、理由をつけて戻ってきてるわけさ。……まあ、半分はレオに会いに来てるんだけどね」
ふと、ヴィルヘルムの目が、リアとギルフォードのあいだを見比べるように動いた。
「で、君は……確か、レオではなくて、ギルの嫁になるんだよね?」
「えっ」
リアの顔が一瞬で赤く染まる。
ギルフォードの肩がびくりと跳ね、次の瞬間、低く鋭い声が鍛錬場に響いた。
「てめぇ……余計なことばっか言ってんじゃねえ!!」
その怒気を含んだ一喝に、ヴィルヘルムは大きく笑いながら肩をすくめた。
「怒るな怒るな、ただの確認だろう? 照れ隠しか……可愛いところがあるね、ギルは」
「ガキ扱いすんじゃねぇ! てめぇはさっさとデータだけ残して帰りやがれ!!」
「それはそれで冷たすぎないか?」
「久々に会ったっつーのに、二人とも相変わらずだなぁ」
賑やかなやり取りに、エルマーも笑いながら加わる。鍛錬場に広がる雰囲気は、まるで柔らかな風が吹き抜けるように和らいでいた。
リアは思わず口元を緩める。
騒がしくて、でもどこか懐かしくて――家族の温もりって、きっとこういうものなのだと、胸の奥に静かに灯がともる。
「みんな、仲良いんだね」
ぽつりと呟いた声に、レオンハルトが目を細め、穏やかに頷いた。
「うん。兄様は、昔から僕のことをよく見てくれてたんだ。家を離れてからも、ずっと変わらずに」
静かな敬愛が、彼の言葉の奥にそっと滲んでいる。
リアはそっと胸に手を置いた。この人たちの間には、言葉では表しきれないつながりがある。それは“政略”や“役目”では測れない、大切なものなのだろう。
「ヴィルヘルム様の奥様って、どんな方なんですか?」
ふと浮かんだ疑問を、リアはそのまま口にする。ギルフォードやエルマーと話していたヴィルヘルムは、少しだけ目を丸くして、照れたように鼻の頭をかいた。
「うーん……まず、強いね。俺より背が高いし、槍を持たせたら誰にも負けない」
「わあ……かっこいいですね……!」
リアの素直な感嘆に、ヴィルヘルムは笑みを深くする。
「俺も毎日鍛錬しないと、あっという間に置いてかれるよ」
笑い声が鍛錬場に響く。その音は、柔らかく、どこまでも心地よい。
「リア」
「はい……?」
唐突に名を呼ばれて、リアが少し緊張しながら返事をすると、ヴィルヘルムの視線がまっすぐに重なった。
「君は、幸せになれるといいね。政略結婚というのは、大変なこともあると思うけど……きっとギルは、君を守れるはずだ」
「……はい」
「うん。きっと、一緒に過ごすうちに……打ち解けていけるよ」
その言葉を、リアは胸の奥にそっと仕舞い込んだ。
風が、やさしく吹き抜ける。空は昼の色に染まり、遠くに流れる雲が、まるで竜の翼のようにゆったりと広がっていた。
賑やかな笑い声が一段落し、場に一瞬だけ、柔らかな沈黙が流れた。
その間を縫うようにして、控えていたシュトルツが一歩前に出る。柔らかな物腰で、けれど凛とした礼儀を忘れずに、リアへと向き直った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。リア様、以前より一度お目にかかりたいと願っておりました」
丁寧な所作に、リアは思わず瞬きをする。何かを見透かすような視線ではなく、穏やかでまっすぐな敬意がそこにあった。
「こちらこそ、丁寧にありがとうございます。……レオには、いつも助けられてばかりで」
そう笑って返すと、シュトルツの顔に小さな安堵が浮かんだ。
「ふふ、お優しい方ですね。……あの方がどれほど特別な想いを抱いているか、我々にも伝わってきておりますゆえ」
その意味を計りかねて、リアが小さく首を傾げた、その時だった。
「っていうかさ」
エルマーがぽりぽりと後頭部を掻きながら、思いついたように口を開いた。
「ヴィルもだけど、なんでリアのこと知ってんだ? 顔合わせとかしてなかったろ?」
一瞬、場の空気が止まる。
リア以外の誰もが、そこに触れるのかという表情を浮かべたが、ギルフォードだけは至極あっさりとした顔で答えた。
「俺がいなきゃ、こいつと結婚するのはレオンハルトだったからだ」
「……は?」
「えっ…!?」
呆けたようなエルマーの声が場に響く。リアもまた、目を丸くして、思わずレオンハルトの方を振り向いた。レオンハルトは特に驚いた様子もなく、ただ少しだけ視線を下に落としただけだった。
リアは、視線が音もなく自分に集まって来るのが分かった。耳の奥で血の音が脈打っていた。
「それ、マジで言ってんのか?」
「こんな嘘付く必要ねえだろ。むしろ、お前は何で知らねぇんだよ」
エルマーが言葉を探すように問いかけるが、ギルフォードはやはりあっさりと言葉を返す。
リアの中では、混乱が渦を巻いていた。もしギルフォードがいなかったら、もし知らないまま話が進んでいたら――そんな“あり得た未来”が、頭の中でいくつも浮かんでは消えていく。
騒然とする空気の中、ギルフォードは気怠そうに説明を続ける。
「アクアリス家は、里で二番目の上級貴族だ。ヴィルヘルムが婿入りしてるとなりゃ、当然レオンハルトが嫁を取る流れになる。で、候補がこいつだった。それだけの話だ」
「……そ、そうだったんですか…」
リアの声が掠れる。自分の知らないところで、人生が他人の手によって決められそうになっていた事実に、今さらながら胸が騒つく。きっとギルフォードは、こうした騒めきの中にずっと身を置いているのだろうと思った。
だが、そんな中でもシュトルツは静かに頷きながら言葉を継いだ。
「王命ではありませんでしたが、一時期、実際に話が進んでいたのは事実です。ですが、殿下の意向で――」
「――破談になった、ってことですか?」
リアの言葉に、ギルフォードが軽く肩をすくめた。
「あぁ。俺の希望だった」
「へっ……」
あっけらかんとしたその言葉に、リアは思わずギルフォードの横顔を見つめる。何も気にしていない風な態度に、こちらの複雑さが逆に浮き彫りになるようだった。
そのやり取りを聞いていたヴィルヘルムが、唇に笑みを浮かべながら軽口を叩く。
「まあ、何かあれば、その時はレオの元に戻ってくればいいさ」
「おい、縁起でもねえこと言うなよ!?」
すかさずエルマーがツッコんだ。ヴィルヘルムは「はは、冗談だよ」と肩を揺らして笑う。だが、冗談と本音の境目が掴みにくいその軽妙な調子が、妙に現実味を帯びて響いた。
リアは、ほんの少しだけ息を吐くように目を伏せた。
気づけば、心の奥に重たいものが沈んでいる。怒りではない。哀しみでもない。ただ――知らなかった、という事実そのものが、自分を取り残していくようだった。
そしてもう一つ。今さらながら気づく。彼らの“名字”さえ、自分は知らないのだ。
ヴィルヘルム・アクアリス、と名乗ったあの人のように、レオンハルトの名に、ギルフォードの名に、正式なファミリーネームがあるはずなのに――自分はそれすら知らない。
――私は、この人たちのことを……何も知らない。
政略結婚だとか役割だとか、そういった枠に自分が組み込まれていたことに対して、今さら動揺するのではなく、むしろ理解しきれていなかったこと自体に静かに胸が痛んだ。
「これから、ちゃんと知っていかなきゃいけないなぁ」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
その瞬間、ふとレオンハルトが視線を上げる。彼は、リアのその小さな呟きを聞いていたかのように、優しく目を細めて微笑んだ。
――見てくれてる人がいる。
それだけで、少しだけ心が救われた気がした。
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