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(29)陰に沈む
しおりを挟むぼんやりと揺れる視界の中、リアはようやく自分の身体がかすかに動かせることに気づいた。
隣でぐったりと横たわるリーゼロッテの顔色は蒼白で、唇にはいつもの赤みもなかった。額にかかる髪をそっと払うと、僅かに息をしていることに気がつく。
――生きてる。よかった……。
安堵から息をつくと、すぐに冷静な判断力が戻ってくる。
まずは怪我の確認。上体を起こし、リーゼロッテの崩れた衣服を慎重にめくると、竜族の象徴でもある背中の翼が無残に裂け、あちこちに血が滲んでいた。鋭い小枝や岩の角にぶつかったのだろう。擦り傷も切り傷も酷く、ひと目でまともに飛べないことが分かった。
「……ごめんなさい」
小さく呟いたその言葉は、自分に向けたものか、彼女に向けたものか判然としない。
リアは自分の肩から掛けていた、赤い布を手に取った。
旅立ちの朝、母が持たせてくれた大切な一枚。けれど、いま迷う余裕はなかった。
歯を食いしばって裂く。織り目の細かい布地が、音を立てて引き裂かれていく。その一部を手に、リアはそっとリーゼロッテの翼に巻きつけた。
「少し、痛いかもしれません。でも、ちゃんと包むから……」
応える声はない。だが、細く震える呼吸に合わせるように、リアは布をきゅっと結ぶ。その手は震えていたけれど、それでも一つずつ確かに、結び目を作っていく。
――ここじゃ、助けも呼べない。けど、私が諦めたら終わりだ。
深く呼吸を整えながら、周囲を見渡す。
高くそびえる崖。滑落の衝撃で枝が折れ、落ち葉が散っているが、登れるような岩肌も木も見当たらない。ただ、林の奥へと続く獣道のような道が、わずかに見えていた。
助けが来るまで、なんとか持ちこたえなければ――。
リアは布の残りを自分の腕に巻きつけ、血を拭いながら、リーゼロッテの手をそっと握った。
◇
一方、崖の上。
「――リア?」
何かを感じ取ったレオンハルトが何度呼んでも、目当ての声からの返事はなかった。
草を踏み分けてすぐ戻ってきたはずの場所に、リアはいなかった。リーゼロッテも、いなかった。まるで最初から誰もいなかったかのように、ただ風が木の葉を揺らしていた。
「……おかしい」
言葉に出した瞬間、喉の奥に冷たいものが滑り落ちていくのを感じた。
焦りが、胸の奥を爪でかきむしるようにして広がっていく。
「リーゼロッテ様!」
リアと共にいたはずの、もう一人の名を呼ぶ。けれど、やはり返事はない。鳥の囀りすら届かない気がした。
レオンハルトは、その場から一目散に走り出した。
振り返ることなく木々をかき分け、石段を飛び越え、小道をひたすらに駆ける。息は荒く、喉が焼けるように乾いていくのも構わず、ただひたすらに一つの場所を目指す。
屋敷。まず、エルマーのところへ。
――ギルフォードの屋敷の裏手、洗濯場。
「レオ? どうし――」
干しかけの布を手にしていたエルマーは、息を切らして駆けてきたレオンハルトの顔を見て、その言葉を飲み込んだ。先ほど別れた時と、目の色が違っていたからだ。
「リアがいない! 僕、一緒にいたのに……」
その一言で、エルマーの全身から音が消えた。ぶっきらぼうな幼馴染が甲斐甲斐しく世話をしていた光景と、先ほど笑顔で別れた時のリアの笑顔が脳裏に浮かんだ。
沈黙。その中で、彼の手から洗濯物が落ち、すぐに籠へと放り込まれる。
「……何があった?」
「分からない。気づいたら、リアも、リーゼロッテ様もいなくて……!」
「くそっ……!」
舌打ちと同時に、エルマーは足を踏み鳴らした。
そのまま作業台を蹴るようにして飛び出す。レオンハルトの腕を掴み、すでに目は鋭く周囲を見据えている。
「まずはギル探すぞ。全員で動くしかねぇ」
「うん……!」
焦りも不安も、後悔も全部抱えたまま、進むしかない。
誰よりもあの場所で、リアの近くにいたはずの自分が、守れなかったことの責任を――何かの形で果たすしかない。そう思いながら、レオンハルトは、唇を噛んだ。
屋敷を飛び出したエルマーとレオンハルトは、一直線に鍛錬場へ向かって走った。けれど、そこにギルフォードの姿はなかった。
「いねぇ……! あいつ、どこにいるんだ…!?」
エルマーが息を荒げながら周囲を睨みつける。
レオンハルトも肩で呼吸をしながら、首を振るように辺りを見回した。午後の陽射しが木々の隙間から降り注いでいるというのに、その眩しさすら煩わしい。
「旧里か、王宮か……入れ違いで、鍛錬が終わって書斎に戻ってるかもしれない」
「行くぞ」
二人はすぐに踵を返して再び走り出した。屋敷の裏手を抜けて回廊を渡り、王宮と書斎へ――だがどちらにも、ギルフォードの姿はない。焦りが、次第に胸を焼くような痛みに変わっていく。
そして、里の中心部へと再び向かう途中だった。
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「どうしたんだい? エルマー、レオンハルト……そんな顔して」
「……リアが、いなくなったんだ。山で最後に見たっきり、まだ戻ってねぇ」
咄嗟に隠しておけるような事態ではなかった。エルマーが苦しげにそう漏らすと、周囲の空気が変わった。井戸端で談笑していた老婆が、針仕事をしていた娘が、皆が一斉に顔を上げ、わずかに騒然とした気配が広がる。
その波は、先ほどエルマーとレオンハルトが気が付かなかった鍛錬場の裏の一角――石造りの壁の向こう側で、模擬戦データを閲覧していたギルフォードの耳にも届いていた。
「……騒がしいな」
薄く目を細めて扉を開けると、石畳の向こうに見覚えのある二人が見えた。
ただし、そこにあるはずのもの――リアの姿だけが、なかった。
ギルフォードの瞳が、鋭く細くなる。
「おい。あいつはどこにいる」
静かな一言だった。
だが、その声音は間違いなく、胸の奥を凍らせるほどの緊張を孕んでいた。
駆け寄ってきたレオンハルトが、唇を震わせながら言葉を絞り出す。
「……リアが、山で……いなくなった。僕、ちゃんと見てたはずなのに……気づいたら……」
ギルフォードの瞳が、すっと細められたまま薄く見開かれる。一瞬だけ、確かに驚きの色が宿った。だが、それはすぐに鋼のように冷えた静けさへと変わる。
エルマーが言葉を続けようとしたが、その必要はなかった。
ギルフォードはほんの僅か顎を動かすと、低い声で問うた。
「で、最後に見たのはどこだ」
その言葉のあまりの静けさに、二人は一瞬息を呑んだ。
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レオンハルトがようやく言葉を絞り出した。
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その一言に、目の奥が熱くなる。
「……うん」
少し潤むレオンハルトの目に、迷いはなかった。
そしてギルフォードは、踵を返してすぐに歩き出す。その足は迷うこともなく、まっすぐに山を目指していた。
「レオ、行くぞ!」
エルマーも再び走り出す。
空が僅かに翳りはじめた午後。里全体が、その足音を追うように騒めきはじめていた。
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