竜族への生贄かと思ったら、王子の愛妻になったのですが。

高城

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(30)かなわない

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 リアが自分の足元に目を落とせば、くっきりと赤く腫れ上がった足首が痛みを訴えかけてきていた。
 触れるたびに息が漏れたが、布の端を使ってなんとか固定し、簡単な包帯のように巻き終えた頃だった。

「う……」

 小さな吐息のような音が耳に届く。

 急いで顔を上げると、リーゼロッテが目を開いていた。
 まだ焦点が定まらないまま、ゆっくりと瞬きをする。次の瞬間、彼女の眉がぴくりと動いたかと思うと、薄く唇が開かれる。

「……ここは……」
「動かないでください!」

 反射的に声を上げていたリアは、慌てて彼女の傍に駆け寄る。傷の具合を考えれば、無理に体を動かすことは危険すぎた。
 顔を顰めて起き上がろうとしたリーゼロッテに、リアは静かに、けれどもはっきりと声を重ねた。

「酷い怪我をしてるんですから……お願いです、安静にしてください」

 リーゼロッテはその言葉に反応するように、再び目を閉じた。
 けれど、それは抵抗や我儘ではなかった。彼女の唇からこぼれたのは力の抜けた、少し苦笑の混じった一言。

「……あなたの方が、ボロボロじゃない」

 リアは思わず目を伏せた。
 じんと鈍く痛む自分の足首、掠った額。裂いた布で手当てした、彼女の美しいはずの翼。そのどちらも、触れれば悲鳴をあげるような状態だとわかっている。

「お互い様、ですね」

 薄く、けれど優しい笑みを浮かべてそう言うと、リーゼロッテの瞼がふるりと揺れた。
 しばらく無言のまま、彼女は崖の上を見上げる。

「……見つけてくれるかしら」

 その声には、焦りも怒りもなかった。ただ、微かな不安が滲んでいた。

「ギル……いえ、誰でも。助けが来れば……」

 リーゼロッテは視線を宙に彷徨わせながら、言葉を継ぐ。

「竜族は、人間よりも鼻が利くけれど……こうして薬草の多い場所では、香りが複雑に混じりあってしまって、個人の匂いを嗅ぎ分けるのは難しいの」

 花のように微かに香る彼女の声が、雨の気配に似た静けさを纏っていた。
 リアはその横顔を見つめ、静かに口を開いた。

「それなら見つけてもらえるまで、二人でなんとかしましょう」

 強くも、無理に前を向くような励ましではなかった。
 けれど確かにそれは、今の彼女にとって、もっとも現実的で心を温める言葉だった。

 そして、その言葉に応えるように、ぽつりと雨粒が頬に落ちた。続いて、葉を叩く音。空を見上げると、灰色の雲が緩やかに広がっていく。

「嘘……」

 リアは慌てて立ち上がり、目を細めながら林の奥を見つめた。
 濡れて冷えてしまえば、リーゼロッテの傷も自分の足も、悪化するのは目に見えている。

 どうしよう――。

 そう思ったとき、小さな影が枝の上から首を傾げてこちらを見ていた。

「……こんにちは。ちょっと聞いてもいいかな?」

 リアは声を潜めて、小さな影――小鳥にそっと問いかける。

『うん! どうしたの?』
「この辺りで、雨宿りできるところはないかな?」

 鮮やかな黄色の羽を持つその鳥は、首を左右に揺らしながら、一声鳴いた。

『ちょっと歩くけど、あっちの方に洞窟があるよ!』
「洞窟? 誰か……他の動物が使ってたりする?」
『いるかもしれないけど、空いてるときもあるし、こうやって話せるなら多分なんとかなると思う!』

 リアは頷き、小さく笑った。

「ありがとう。じゃあ、案内してもらってもいい?」
『うん! こっちだよ!』

 鳥がぱっと羽ばたくのを目で追いながら、リアはリーゼロッテのもとへ駆け戻る。

「リーゼさん、近くに洞窟があるみたいです。……そこまで、歩けますか?」

 声をかけながら、手を差し出す。
 リーゼロッテは一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと、そして小さく頷いた。彼女の手はまだ冷たくて体もふらついていたけれど、確かに力を込めようとしていた。

「……ええ」
「良かった。さ、行きましょう」

 リアはそっと肩を貸し、二人で木々の間を進み始める。
 雨脚は次第に強くなり、背を濡らしたけれど、鳥が導くその先に雨を凌げる場所があると信じて歩いた。

 小鳥に導かれて辿り着いた洞窟は想像していたよりも広く、外の雨音が遠く霞むほどに奥行きがあった。岩肌は冷たく湿っていたが、風が吹き込まないぶん、森の中よりも幾分かはましだった。

 二人は、入り口から少し奥まった岩壁のくぼみに腰を下ろす。ほんのり苔が広がる場所で、地面も柔らかく感じられた。

「ふぅ……」

 リアは小さく息を吐くと、振り返って小鳥に微笑みかけた。

「ありがとう。あなたのおかげで助かったよ」

 小鳥はくるくると楽しげに旋回しながら、誇らしげに胸を張る。

『また呼んでくれたら、来てあげる! 次はもっと晴れてるといいね!』

 ぱたりと羽ばたき、外の雨へと飛び立っていくその姿を、リアとリーゼロッテは黙って見送った。

 雨は変わらず強く降りしきり、洞窟の入り口ではその水しぶきが小さな水音を奏でている。
 二人は、それぞれ腕を摩りながら、しばし言葉もなく時間を過ごした。濡れた髪から滴る水が肌を冷やし、手足の指先がじんと痺れている。それでも互いに寄り添うには、まだ距離が残っていた。

 リアは赤い布の切れ端で自分の膝を覆いながら、時折リーゼロッテの様子を盗み見る。リーゼロッテは視線を彷徨わせるようにして、濡れた銀髪を指でかき上げていた。

「……ごめんなさい」

 ぽつりと零れた言葉に、リアは思わず顔を向けた。
 その声音は、今まで彼女が聞かせてきたどんな言葉とも違っていた。

 リーゼロッテは膝を抱え、顔を伏せたまま微かに震えている。

「あなたに怪我をさせるつもりなんて……本当になかったの。ただ、二人きりで……少し話したかった。それだけだったのに……」

 湿気を帯びた空気に、吐き出された言葉が静かに溶けていく。

 リアはしばし何も言わず、彼女の表情を見つめた。白銀のまつげが濡れた頬に貼りつき、頑なに見えた横顔が、今は壊れそうなほど繊細に見えた。

「リーゼさんが、わざとこんなことする人じゃないって分かってますよ。それに今、こうして謝ってくれましたし……私は、それだけで充分です」

 そう言って、リアはふっと微笑んだ。
 笑みは優しく、どこまでも穏やかだった。湿った洞窟の空気の中、言葉だけがやけに澄んで響く。

 リーゼロッテは肩を揺らし、視線をリアに向けた。その紫の瞳は、深い水面のように揺れていた。

「私、ギルのことが、ずっと好きなの」
「……はい」

 呟くように告げられたその言葉は、長い時間を経てようやく口にできたリーゼロッテの本心だった。

「昔から側にいて、ちゃんと隣にいたはずなのに……一度も気づいてもらえなかったわ。結婚だって、政略でも……私はギルとだったらしたかったの」

 吐き出された思いは、まるで胸の奥底から溢れ出した泉のようだった。
 リーゼロッテは、膝に置いた指先をぎゅっと握りしめる。

「リアのこと、正直認めたくなかった。あなたが来てからギルが変わったのは、すぐに分かったけれど……それがすごく嫌だった」
「………」

 リアは黙って岩壁に背を預けると、天井のしずくを見上げた。ぽとりと雫が落ち、近くの石に小さな音を立てる。

「でも、あなたとギルが一緒にいるのを見てるとね……不思議と、しっくりくるって思う自分もいるの。それが、たまらなく悔しい」

 白銀の睫毛が震えている。頑なに見えていた横顔が、今は壊れそうなほど繊細に見えた。

「――前にリーゼさんは、私に聞きましたよね。ギルフォード様のことが好きじゃないんでしょうって」
「……ええ」

 リアは、リーゼロッテに語りかけるような、自分の中の気持ちを整理するような――そんな気持ちで口を開く。

「ギルフォード様のことを好きかどうかは……今もまだ、正直分かりません。でも優しくて真っ直ぐで、怖いくらいに責任感のある人だなって思ってます」
「……ふふ。そうね。ギルって、そういう人よね」

 少しだけ、二人の声に重なるようにして笑みが漏れた。
 リアはゆっくりと、リーゼロッテの方へ視線を戻す。

「結婚も、まだ実感が湧かなくて。でも、いただいた場所を受け止めたいって……逃げたくないって思ってるんです。……だから、変化が不安なリーゼさんの気持ちも、すごく分かります」

 その言葉に、リーゼロッテは静かに目を伏せた。そして、小さく、かすれるように笑った。

「あなたのこと、最初はただ邪魔な存在だと思ってた。でも……今は違うの。あなたが隣にいるギルを見てると、私が見たことない顔をしていて……だから、怖かったのかもしれない」

 リーゼロッテの声が、少し湿り気を帯びたのが分かった。リアは変に慰めることなく、あくまで本音を吐露する。

「リーゼさんは綺麗で優しくて、これから先も誰かにちゃんと想われる人です。私は……初めて会った時から、仲良くなりたいって思ってましたよ」

 真っ直ぐに目が合う。
 嘘をついていないと分かる真摯な瞳と言葉に、リーゼロッテはそっと息をついた。

「……本当に、あなたって人は……」

 ほんのわずか、肩の力を抜いて、微笑む。

「――私、かなわないわね」

 敵わない。叶わない。どちらの意味なのか、はたまた両方の意味なのかは、リーゼロッテには分かっていた。
 言葉に込められたのは、敗北の悔しさではない。どこか救われたような、ようやく自分を許せたような、そんな安堵に似た温かさだった。

 洞窟の奥で、雨の音が遠く響いている。
 水の気配、石の匂い、静かな空気。それらが二人をそっと包み込むようだった。

 リアはそっとリーゼロッテへ身を寄せると、赤い布の端を少し広げ、隣の彼女の肩にもそっと掛けた。

「……寒くないですか?」

 その声に、リーゼロッテは黙って首を縦に振る。表情はどこか緩んでいた。
 二人の肩に同じ布が掛かる。たとえそれが僅かな温もりでも――今はそれで、十分だった。

 ひとつの想いが叶わぬまま、ひとつの絆へと変わっていく。

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