竜族への生贄かと思ったら、王子の愛妻になったのですが。

高城

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(31)萌芽

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 森に入ってすぐ、ぽつ、と雨粒が肩を打つのを感じた瞬間、ギルフォードはぴたりと足を止めた。

「ギル?」

 すぐ背後にいたエルマーが立ち止まり、不安そうに彼を見上げる。
 その問いに応じることなく、ギルフォードは僅かに眉をひそめながら空を仰いだ。曇天は灰色の雲に覆われ、雨は細く、しかし確かに降り出していた。

「……戻るぞ」
「えっ、いま戻るって……?」

 雨脚が徐々に強まる中、レオンハルトが戸惑いの声を上げた。

「なんで……!? 雨が降ってきてる。このままじゃ、大雨に――」
「だからだろ」

 ギルフォードの声は静かだったが、低く鋭く、空気を切った。

「この雨じゃ、鼻が利かねぇし足跡も消えちまう。それにこんだけ広きゃ、無闇矢鱈に探しても見つからねえだろうが」

 言い切ったギルフォードの横顔を見て、エルマーもレオンハルトも言葉を失う。悔しそうに唇を噛んだレオンハルトの背中に、エルマーが静かに手を置いた。

 確かに、ギルフォードの言う通りだった。
 雨が降れば、草の上に残った痕跡も、空気に漂う気配も、すべてが水に流される。それでも――焦るなというほうが無理な話だった。

「つっても、時間があるわけじゃねえ。さっさとしろ」

 ギルフォードがそう言って踵を返す。
 躊躇う暇もないとばかりに、彼はすでに森の外れへと歩き出していた。レオンハルトとエルマーも、雨に濡れる木々を抜けてその背を追う。

 戻った先は、ギルフォードの屋敷だった。
 外はすでに本格的な降りに変わり、空には暗い雲が低く垂れ込めていた。時折吹く風が木々を鳴らし、どこか遠くで雷鳴が鈍く響いている。

「広間で待ってろ」

 屋敷に入ると、ギルフォードは濡れた髪の毛を乱暴に掻き、真っ直ぐに書斎へ向かった。
 しばらくして広間に現れると、大判の地図を手にしていた。

「これが周辺の地形図だ。……見失ったのはどの辺だ」

 床に広げた地図の上を指でなぞりながら、ギルフォードは視線をレオンハルトへ向けた。

「えっと……この辺。リーゼロッテ様が、いつも薬草を取りに行くって言ってた場所」
「リーゼロッテが……」

 小さく呟きながら、ギルフォードはその辺りをしばらく見つめる。
 その間に、レオンハルトが持ってきたタオルを手に取ると、無造作に髪をがしがしと拭った。

「その時、お前は何してたんだ」

 その問いに責めるような響きはない。ただの事実確認。なのに、レオンハルトはぐっと喉を詰まらせた。

「……リーゼロッテ様に言われて、集めた薬草をまとめてたんだ。終わって顔を上げたら……二人がいなくて。何回呼んでも、反応もなくて」

 声が小さくなる。自分の迂闊さが招いた結果だという思いが、言葉の端々に滲んでいた。

 ギルフォードは、それ以上何も言わずに地図へ視線を戻す。

「この辺は斜面が多い。そのせいで水の流れが強えから、崖がそこら中にある。……落ちたと仮定すりゃ、あいつら二人とも、その場から動けなくなってる可能性が高い」

 手元の地図に指を滑らせながら、ギルフォードの声が少しだけ低くなる。感情を押し殺すように見えて、その指先に込められた力が、彼の内に渦巻く焦りを物語っていた。

 エルマーが地図上の線を指でなぞりながら、重たい沈黙の中でそっと口を開いた。

「なら……この地図上にある水の流れの向きから、落ちた可能性のある場所をいくつか絞れるよな?」
「そうだ。夜が更ければ、この雨で地形が変わっちまう。今のうちに、できる限りのルートを洗う」

 ギルフォードの声が落ち着いていたのは、怒りや焦りではなく、的確に行動を選ぶためだった。だがその目は、獲物を捉えた猛獣のように鋭く研ぎ澄まされている。

 地図を前に、三人は黙々と地形を洗い直していく。
 ようやく捜索の目星をつけ、三人が再び屋敷を出ようとしていたそのとき――

 ――コン、コン。

 広間の扉を叩く音が静かな空気に響いた。

「誰だ?」

 こんな大雨の中、と訝しげに眉を寄せたギルフォードが扉を開けると、そこに立っていたのは二人の男――ヴィルヘルムと、シュトルツだった。
 ヴィルヘルムは雨に濡れた外套を軽く払うと、穏やかな微笑を浮かべながら一歩踏み込んでくる。

「やあ。お邪魔しているよ」

 レオンハルトは思わず前に出て、慌てたように言った。

「兄様、悪いんだけど、話してる時間はないんだ。今――」

 思わず前に出たレオンハルトに、ヴィルヘルムは微笑みを崩さず、しかしその奥に確かな意志を宿して言った。

「いや、だから来たんだよ、レオ。何か力になれるんじゃないかと思ってね」

 そう言って懐から取り出したのは、鈍く光を帯びたペンダントだった。革紐に通されたそれは、古代ルーン文字が刻まれた、狼族の爪の加工品。

「これには、狼族の加護が宿っている。索敵能力、嗅覚、そして血縁の存在を直感的に察知する力が強化される。これがあれば、雨の中でもリアとリーゼを探せるだろう」

 竜族の鱗が危険察知や精神連動の加護を持つように、狼族の血と本能が込められた爪も、加護の力を持つ。狼族と結婚したヴィルヘルムだからこそ持つ、貴重なものだ。

 手渡されたそれを、ギルフォードは無言で受け取った。頼りになる援軍――それ以上の言葉はいらなかった。

「……すごい。確かに、辿ることさえ出来れば――」

 レオンハルトが思わず呟いた声をよそに、ヴィルヘルムはすっと表情を改めて問うた。

「ただ、探すなら匂いの記憶が必要だ。何か、リアの匂いが濃く分かるものはあるか?」

 その言葉に、エルマーははっとした顔をして叫んだ。

「リアの部屋の物……くそ、洗濯しちまった!」
「そんな……」

 焦り混じりの声に、レオンハルトも顔を曇らせる。ちょうど今日の昼間、エルマーは屋敷の寝具をすべて洗濯したのだった。

 けれどギルフォードは眉を僅かに寄せ、何かを思い出したようにぽつりと呟いた。

「……ある」
「え?」

 誰よりも先に立ち上がり、そのまま早足で屋敷奥の書斎へと向かっていく。
 部屋の中の棚の隅に、昨日リアが塔に登った際に羽織らせていた、淡い色のブランケットが畳まれて置かれている。返すと言って手渡したのに、そのまま手元に残したままにしていたもの。

 ギルフォードはそれを手に取り、広間へ戻る。

「それに……?」

 エルマーが首を傾げると、ギルフォードは短く答えた。

「昨日、あいつが使ってた」
「はっ? 昨日、リアと一緒にいたっつーことか?」
「ああ」
「えぇ……?」

 ギルフォードは端的にそう答えると、ためらいもなくブランケットを顔に近づけ、スンっと匂いを嗅ぐ。

 エルマーがぽかんとし、レオンハルトが思わずじっと視線を集中させる中――ペンダントのルーンが、淡い光を帯びた。

「……発動したか?」

 見守っていたヴィルヘルムが、ほっとしたように目を細める。

「よし。これなら、必ず見つけ出せるだろう」
「ありがとう、兄様」
「もしかしたら、レオの嫁になるかもしれないからね。そうしたら、俺にとっても家族だろう?」
「その話は、もうとっくに――」

 ヴィルヘルムは微笑みながらも、軽く肩を竦めた。
 場を和ませようとした、冗談めいた口ぶりだったが――それを遮ったのは、ギルフォードの低い声だった。

「俺のだ」

 その一言に、全員が同時に目を見開く。
 レオンハルトは意外なものでも見るように目を瞬かせて、エルマーは勢いよく振り向いた拍子に体制を崩しそうになりながらも、顔を真っ赤にして言葉を紡いだ。

「ギ、ギル……今、なんて――」

 視線が彼に集中する中、ギルフォードは顔色一つ変えずに、静かにペンダントを握りしめる。
 ブランケットを片手に抱え、ペンダントを懐に入れると、迷いなく屋敷の玄関へと向かった。

「お前らも準備出来たら、すぐに出るぞ」

 そのとき、無言で後ろに控えていたシュトルツが静かに歩み寄り、厚手の防水袋をギルフォードに差し出した。

「火打石、包帯、簡易マントと乾燥食が入っております。万が一に備えて。……ご武運を」

 ギルフォードはそれを受け取り、ほんの僅かに頷いた。

 誰かを想うことを知るというのは、強さではなく、脆さを手に入れるということ。それでも彼は、すべて理解した上で進もうとしている。

 これは、きっと始まりの夜だった。
 たしかに、ギルフォードの気持ちは動き出していた。

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