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(33)雨止み
しおりを挟む洞窟内で、なんとか二人を連れ戻した。外の風は未だやや強く、雨も降り続いていたが、雲の切れ間がわずかに広がり始めていた。
ギルフォードがランタンを岩壁の窪みに吊り下げると、仄かな橙色の光が、一帯の闇をやわらかく押し返す。壁の陰影が揺らぎ、小さく濡れた空間に、ようやくひと息つける静けさが戻った。
「火、焚くぞ。レオ、薪を集めろ」
「うん、任せて」
レオンハルトはすぐに立ち上がり、火が点きやすそうな枝を探して周囲を歩き始める。エルマーも黙って続き、湿気の少ない木を拾い集めていた。
「……触るぞ」
ギルフォードは、リアをそっと抱きかかえるようにして毛布に包み込み、岩壁に優しくもたれさせる。冷えきった体が少しでも温まるように、毛布の隙間を丁寧に整えた。
レオンハルトもすぐに戻り、リーゼロッテの身体を静かに横たえる。濡れた髪が額に張り付き、彼女の眉間にはまだ痛みの名残が残っていたが、その呼吸は落ち着いていた。上から毛布を掛け直し、その間にエルマーが火打石で火を起こす。何度か火花が散った後、ようやく小さな炎が生まれた。
ぱち、ぱち、と木が焼ける音が響く。炎はやがて息を吹き返したように、静かな温もりを辺りに広げていった。
「お前ら、一体何があった? それに、さっきの……あの竜は何だ」
ギルフォードの声は低く抑えられていたが、責める響きはなかった。問いかけというより、確かめるような調子だった。
リアの瞼がかすかに動き、焦点の定まらない瞳が、ゆっくりとギルフォードの方を向く。彼女は瞬きを一つして、意識を浮上させるように小さく息を吸い込んだ。
「すみません、私……足元を、見ていなくて。崖から……落ちてしまって……」
か細い声だったが、震えてはいなかった。どこか受け入れるような、静かな口調だった。
ギルフォードはリアの額にそっと手を当てると、傍らに置いていた小さな包からガーゼと消毒薬を取り出した。火の光を頼りに手元を確認し、ガーゼに薬を沁み込ませる。
「傷、少し沁みるぞ」
「……はい」
リアは目を閉じて、小さく頷いた。次の瞬間、ひやりとした刺激が額の傷に触れるが、彼女は微動だにせず、それをじっと受け入れた。
「それで……あの竜は?」
再び問うと、リアは少しだけ視線を落とし、言葉を探すように口を開いた。
「私たちを、温めてくれて……助けてくれたんです。名前も、正体も分かりません。でも、確かに……守ってくれていました」
その言葉に嘘はなかった。リアの声には、奇跡のような出来事を前にした、恐れと感謝が入り混じっていた。
ギルフォードはしばし黙り、考え込むように彼女を見つめた。熱のある額、濡れた髪、腫れた足首、まだ寒さを残した指先。けれど、その目だけは、しっかりと前を向いていた。
「……そうか」
短く呟いた彼の視線が、リアの肩に掛けられていた布に向かう。
裂かれていた。端が不規則に破れ、明らかに意図的に破いたものだった。ギルフォードは布の端を軽く指でつまみ、視線をリーゼロッテの翼へと移す。包帯代わりに巻かれているのは、間違いなくリアの肩布だった。
いつもリアが丁寧に畳み、荷の奥に仕舞っていたもの。色褪せてはいたが、彼女にとって大切な何かを象徴していることは、そばで見ていれば嫌でも分かる。
それが迷いもなく引き裂かれていた。何の躊躇もなく、誰かのために使われている。
――どうして、そんなにあっさりと壊せるんだよ。
ギルフォードは、考え込んでいた。
直接聞いたわけではない。けれど、きっと大事なものだった。忘れたくないものだった。なのに、それを迷いなく引き裂ける心――それは優しさだと分かっているのに、胸の奥にじわりとした感情が広がる。
気づけばリアの意識はしっかりと戻りつつあり、頬にもわずかに色が戻ってきていた。リーゼロッテの顔にも、かすかな血色が浮かび始めている。
「……寒いか」
「はい、まだちょっと……」
「来い」
「えっ……」
ギルフォードは、震えているリアをそっと引き寄せた。岩壁にもたれたまま、その体温でじわじわとリアを包んでいく。
レオンハルトは、ただの人命救助だとばかりに何の反応も示さず薪を組み直していたが、エルマーは分かりやすく口元を引きつらせ、薪をくべる手がぎこちなくなっている。
「ギ、ギルフォード様、あの……」
「なんだよ」
「いや、あの……! 近いです……!」
「寒ぃっつったから、温めてやってんだろうが」
「あ、そ……そうですよね……!?」
リアは目を丸くしていたが、やがて頬がじわじわと赤らんでいき、その指先が震えながらもギルフォードの服をぎゅっと握る。焚き火の光が、その手元を淡く照らしていた。
ギルフォードは、そっとリアの額に再び手を当て、熱が少し引いてきていることを確認する。その手をゆっくりと下ろし、火のそばに腰を下ろすと、唇を微かに噛んで呟いた。
「お前ってやつは……」
その先の言葉は、出てこなかった。
リアは何も聞き返さず、ただギルフォードの温もりと炎の揺らめきを感じながら、静かに目を伏せていた。
◇
火の揺らめきは、いつしか呼吸のように穏やかになっていた。
パチ、という薪の割れる音が時折響くほかは、洞窟の中を静寂が満たしている。雨音は遠のき、風もようやく凪いできたらしい。荒れていた天候が落ち着くにつれ、空気には安堵の色が滲んでいた。
「朝一番には晴れそうだな」
「ああ」
「二人も顔色戻って来たし、一旦安心って感じだわ」
変わらず火の管理をするエルマーと話しながら、ギルフォードは、リアを膝に乗せたまま毛布で包み込み、岩壁を背もたれにして腰掛けていた。火の熱と体温の重なりが、ようやくリアの指先に少しずつ色を取り戻させている。
そのリアは――知らぬ間に、静かに眠っていた。
不安と緊張、寒さと痛み、すべてを乗り越えて訪れた眠りは深い。息をするたびに肩が僅かに上下しているだけで、羽根のように軽やかだった。
「………」
ギルフォードはそれに気づいたが、リアを下ろすことはしなかった。代わりに、ごく自然な動作で自らの頬を、リアの湿った髪にそっと寄せる。
やわらかな感触が、触れた皮膚に残る。濡れているのに、なぜかぬくもりを感じた。
その様子を、少し離れた場所から見ていたエルマーが、ためらいがちに声をかける。
「なあ、ギル……」
「なんだ」
答える声に棘はない。だが、その奥に触れてはいけないものがあるような気配も微かに漂っていた。
「その……あー……なんつったらいいんだ……?」
エルマーは焚き火の薪を直すふりをしながら、視線をギルフォードに合わせようとはしなかった。頭を掻くようにして口ごもり、それでも空気に背中を押されるようにして続ける。
「リアのこと……好きに、なったのか?」
静けさの中に落とされたその言葉に、レオンハルトがちらりと視線を上げた。ギルフォードは一瞬の間すら置かず、低く短く答えた。
「知らねえ」
その声音には、濁しや偽りの気配はなかった。
ただ本当に分かっていないとでも言うように、実直で乾いた答えだったが、エルマーは目を丸くした。ギルフォードが『好きじゃない』ではなく、『知らない』と答えたことが、彼にとっては予想外だったのだ。
「……あ、そ」
その反応に気まずさを感じたのか、エルマーはまた火に薪を足すふりをして視線を逸らす。
だがその横で、レオンハルトはにこりと小さく笑いながら、まるで何の含みもなく口を開いた。
「僕は好き。リアのこと」
それは恋慕ではなかった。どこまでも純粋な親愛と、見つけ出せたことへの安堵が込められた言葉だった。
ギルフォードも、それをすぐに理解していた。だが、それでもどこか喉の奥がつかえたような感覚を覚え、言葉が先に出てしまった。
「お前のもんじゃねえぞ」
その言いようにレオンハルトは驚くことなく、むしろ満足げに目を細めた。
「うん。リアには、ギルじゃなきゃ嫌だ」
「それを言うなら、俺も。リアのこと好きだけど、ギルの嫁にならねえと嫌だ」
口角を上げながらそう言うレオンハルトの声には、何の裏もない。次いで頬杖を付くエルマーの声も、ただ静かで温かな確信だけが宿っていた。
ギルフォードはそれに返す言葉もなく、代わりに一つ息を吐いて、視線を焚き火へ落とした。揺れる火の中に、リアの濡れた髪の先がちらちらと照らされている。
――知らねえ、か。
自分で言った言葉が、胸の内側で静かに響く。
その後、会話は自然と途切れた。皆、すでに限界で、体は疲れきり緊張も解けた。火を囲んで、それぞれの位置で目を閉じていく。
レオンハルトは背中を壁に預け、肩をすくめるようにして眠りに入り、エルマーも目を擦りながら、ギルフォードたちの方に視線を向けたまま、やがて静かな寝息を立てた。
そして洞窟の中に、本当の静寂が訪れる。
――そのとき。
パチ、と薪が割れる音に重なるように、リーゼロッテが目を覚ました。
「……ん、…リア……?」
一瞬、ここがどこか分からず瞳が泳ぐ。けれど火のぬくもりと、濡れた身体に掛けられた毛布の存在に、ようやく状況を理解した。助かったのだと、胸の奥から安堵が溢れ出す。
目を動かすと、少し離れた岩壁にもたれ、毛布にくるまったリアを抱き寄せているギルフォードの姿が見えた。彼は目を閉じていたが、その腕の中にあるリアの頬は、火の光を浴びてほんのりと色づいていた。
「………っ」
リーゼロッテは、それをしばらく見つめた。
言葉にはならない感情が胸にこみ上げる。目を閉じているはずのギルフォードの、何気ない手の動き。リアの肩にかけられた布。呼吸を合わせるように眠る二人の姿を、彼女は目に焼きつけるように、静かに見ていた。
やがて一筋だけ、涙が頬を伝った。
熱ではなく、痛みでもなく――ただ、心の底から湧きあがった何かが、目に滲んだ。
そっと目を閉じる。
誰にも気づかれぬまま、夜は深く流れていった。
◇
微かに肌を撫でる風に、ひと筋のやわらかな光が混じっていた。
「ん……、朝?」
リアがゆっくりと瞼を開けると、薄明かりが洞窟の入り口から差し込んでいて、朝がすでに訪れていることを知らせていた。昨日までの暴風雨がまるで幻だったかのように空気は静かで、湿った地面もどこか落ち着きを取り戻しているように見える。
焚き火の残り香が微かに漂う中、リアは身じろぎした。
「――リア!」
それに真っ先に気づいたのは、すぐ近くにいたレオンハルトだった。
ぱっと立ち上がり、跳ねるように駆け寄ってきた彼は、膝をついてリアの顔を覗き込むようにする。
「大丈夫? 痛いところはない? 手当が足りてないところは……喉、乾いてない? 寒くない?」
「え、ええと、大丈夫……。むしろ、すごく体調が良くなってる気がするよ……?」
珍しく勢い良く詰め寄ってくるレオンハルトに、少し戸惑いながらも、リアは自分の腕や足をゆっくりと動かして確かめた。鈍っていた感覚はもうなく、身体の芯に温もりが戻っている。
それを聞いたレオンハルトは、心底ほっとしたように薄く笑った。
「竜族の止血剤や薬は、人間には少し強いくらいだから効き目が抜群なんだ。むしろ効きすぎて起き上がれなくならないか心配だったけれど……元気そうでよかった」
「そうなんだ。通りで……」
安堵と安らぎが入り混じった表情で、レオンハルトはそっとリアの額や腕に目を走らせ、傷の状態を確認している。真剣な眼差しの中に、まだ残る申し訳なさが滲んでいた。
「……リア、ごめん。僕が、すぐそばにいたのに……こんなことになって」
リアは思わず、ふるふると首を横に振った。
「レオのせいじゃないよ…! 本当に、私の不注意だったから」
「でも……」
「本当に、謝らないで。それに……助けてくれてありがとう」
言葉を丁寧に選びながらもはっきりとそう伝えると、レオンハルトは、ふっと表情を明るくした。
「……うん。ありがとう」
穏やかに笑い合うその空気の中で、リアは自然と手を差し伸べていた。レオンハルトはその手を優しく握り、立ち上がるように引いてくれる。
「外、出られそう?」
「うん」
二人はそっと洞窟の出口へ向かう。
湿った地面を慎重に踏みしめながら外へ出ると、そこには一変した朝の景色が広がっていた。重たく垂れ込めていた雲は裂け、空にはやわらかな光が差し込み始めている。山の木々は雨露に濡れ、静かにきらきらと光っていた。
洞窟のすぐ側では、荷物の整理がほとんど終わった様子だった。ギルフォードが黙々と袋の留め具を締めていて、エルマーはその横で折れた枝を払いながら最後の点検をしている。
そして、その隣――毛布を肩からかけたままのリーゼロッテが、一人で座っていた。
「……リーゼさんっ」
リアは自然と口をついて出た声に、我ながら少し驚いたように目を瞬かせる。
その声にリーゼロッテはすぐ反応した。目を大きく見開き、次の瞬間には駆け寄ってきていた。
「リア……! 良かった、本当に……生きてて良かった……!!」
泣きそうな顔をぐしゃぐしゃにしながら、リーゼロッテはリアをぎゅっと抱きしめた。まだ完全ではないはずの体なのに、そんなことはお構いなしだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、私が……私のせいで……!」
「違います、そんな……! リーゼさんのせいじゃないです。元はと言えば私が……」
「違う! 私が悪かったじゃない……!」
二人はどちらが先か分からないほどに言葉を重ねながら、けれど互いを包むようにして確かに抱きしめ合っていた。ぎゅっと繋がれた腕も押し殺した涙も、あたたかかった。
少し離れた場所で、それを見ていた三人――ギルフォード、レオンハルト、エルマー――は、思わず顔を見合わせた。
「ははっ……なんか、こういうの良いよな」
エルマーがやや呆れたように笑い、レオンハルトはそれに大きく頷く。
「うん。よかった」
二人が微笑ましく見守る中、ただ一人――ギルフォードだけが、やや気まずそうに、ぎこちなく顔を背けていた。
かつての婚約者と、今の婚約者。
その二人の距離感の近さを、変に意識してしまう自分自身にもどかしさを覚えながら、ギルフォードはあえて黙ったまま袋の紐を引き締めた。
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