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(35)千変万化
しおりを挟むギルフォードが選んだ布を手に、二人はレジカウンターのような奥の台へと向かった。そこには年季の入ったドレスをまとった老婆が立っていて、店の主であることは一目で分かった。しわの刻まれた指先で布を受け取ると、軽く撫でながら、リアに優しく笑いかける。
「良い目をしてるねぇ。こちらはどう仕立てましょうか?」
「ああ。……このくらいのサイズで頼む」
ギルフォードは指でざっくりと幅を示しながら、迷いなく指示を出していく。その様子はどこか手馴れていて、リアは思わず小さく首を傾げた。
「えっと……それだと、私には少し大きいかもしれません」
遠慮がちにそう口を挟むと、ギルフォードはこちらを見て、すぐに言葉を返す。
「こんくらいで良い。前のは短すぎんだよ」
「う……確かに、ちょっとギリギリだったかも……」
「肩布で使うなら、こんくらい必要だわ」
あっさりと言われてしまい、リアは苦笑いを浮かべた。反論しても仕方がないと思えたし、ここまで言うからには、ギルフォードなりの理由があるのだろう。
「……じゃあ、お任せします」
「そうしろ」
ギルフォードは顔を逸らしながら、どこか照れを誤魔化すようにそっけなく言い放つ。
そのやり取りを見ていた老婆が、針を手にしたまま、ふふっと笑った。
「ふふ。お二人、仲睦まじいこと」
「え!? ち、違っ……」
「放っとけ」
慌てて否定しかけたリアと、それを遮るように言い放ったギルフォードの声が同時に響く。老婆はそれを聞いて目を細め、「はいはい」とすべてお見通しとばかりに頷いた。
「明日の夕方には出来上がりますよ」
そう穏やかに言われると、ギルフォードは短く頷く。
「誰か取りに来させる」
会計を済ませると、二人は再び夕暮れの街へと戻った。
帰り道。
石畳を踏みしめながら並んで歩くギルフォードの横顔を、リアはちらりと見上げた。彼の足取りはどこか軽やかで、自然とテンポが合う。不思議なことに、言葉を交わさなくても以前よりも気まずさはなかった。
「今日は……何から何まで、ありがとうございます」
勇気を出してそう伝えると、ギルフォードは眉ひとつ動かさずに返す。
「あんなに立派な布で……きっと、高かったですよね?」
「大したもんじゃねぇよ」
それだけを短く言って、また前を向く。実はそこそこ良い値段ではあるのだが、きっとリアは大事に使うのだろうと思えば、ギルフォードからすれば大したことではなかった。
「大事にしますね」
「……もう破るんじゃねぇぞ」
「なっ……緊急事態じゃなきゃ、あんなことしません!」
「じゃじゃ馬」
リアはその後ろ姿を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。あの布が持つ意味も、赤を選んだ理由も、ギルフォードは何も言わずに受け止めてくれたのだと、そう思った。
◇
屋敷に戻ると、すでに明かりが灯り、夕餉の香りがふんわりと漂っていた。扉を開けて廊下を進むと、ぱちぱちとオーブンの音が聞こえてくる。
「……あ、おかえり」
「お! 思ってたよりも早かったな!」
キッチンに立っていたのは、エルマーとレオンハルトだった。エルマーはソムリエエプロン姿でフライパンを振り、レオンハルトは今日も果物を切っている――のだが、やはり形はどこか歪だった。
「お前ら、メインがねぇじゃねぇか」
ギルフォードがぼそりと呟きながら冷蔵庫を開け、大ぶりの魚を取り出す。慣れた手付きで鱗を処理しているが、こうして丁寧に魚の下処理をするようになったのは、人間であるリアが来てからだった。
「いま作ってる最中! 帰ってくるの、もっと遅いと思ってたんだよ」
「それにしても間に合ってねーわ」
「厳しっ!」
エルマーは豪快に笑いながら、リアが書き残していた料理ノートを開いていた。そこには誰でも分かりやすいように記された手順と、四人それぞれの好みが丁寧に添えられている。
そして今、開かれている頁には、リアの好きな味付けのスープとパンの作り方が記されていた。
「……もしかして、それって」
リアはノートの中身をのぞき込みながら、そっと問いかける。目視で分かるだけでも、すべてリアの好きなものだった。
「そ、リアの快気祝い? いや、無事に帰還祝いか?」
エルマーは肩越しに笑った。
「ねぇ。僕、前より切るの上手くなったでしょ?」
横からそう言いながら、レオンハルトが皿に乗せて見せてきたのは、不揃いだけれど気持ちのこもったリンゴの薄切りだった。
「うん、すごく……上手になってるね」
リアは思わず笑みをこぼす。
ここに生きて戻ってこられて良かった。
誰かが待っていてくれて、迎えてくれて、笑いかけてくれる。そのことだけで、心が静かに満たされていくのを感じていた。
「リア、どう? 僕が作ったサラダ」
「ふふ。美味しいよ、ありがとう」
「お前、野菜千切っただけじゃねえか」
「えっ……そしたら、ギルは魚焼いただけだね?」
「一緒にすんな! 俺は下処理して味付けもしてんだよ!」
こうして準備された食卓には、ふわりと立ち上る湯気の向こうに笑顔がいくつもあった。
バターが染み込んだパンとクリーミーなミルクスープ、香ばしく焼かれた魚料理に彩りのサラダまで、リアの好きなものばかりが並んでいる。
「わ、スープもすごい美味しい…! 初めて作ったとは思えないよ」
「だろ? つっても、リアのレシピ通りなんだけどな」
熱々のスープを口に運びながら、リアは幸せそうに目を細めた。味がというより、その場の空気ごと優しく染み込んでくるようだった。
「リアがここに来て、一ヶ月ちょいか。早えような、短えような……なんか変な感じだわ」
ふいに、エルマーがパンをちぎりながら言った。気取らずふっとこぼしたような声だったけれど、その言葉にリアは驚いて思わず手を止める。
「えっ……あ、そっか……」
日付を数えたことなんてなかった。けれど言われてみれば確かに、山を越えてこの地へ辿り着いた日から、一ヶ月と少し。そんなにも経っていたのかと、驚くより先に不思議な気持ちになる。
「まだそれしか経ってないんだって思うと、なんか信じられないかも」
レオンハルトが頷きながら微笑む。彼も、初めて会った時よりもだいぶ表情が豊かになった。
「な。毎日が濃すぎたわ。朝起きて、何か起きて、夜まであっという間で……何なら次の日もまた何か起きてるし」
「確かに……!」
リアはスープを飲みながら笑った。ここでの日々は目まぐるしく、それでも振り返れば、全部が色濃く鮮やかに記憶に刻まれている。
その時だった。テーブルの向こうから、ギルフォードの低く落ち着いた声が聞こえる。
「一ヶ月なんて、充分すぎる期間だろ」
唐突なようでいて、どこか噛みしめるような口ぶりだった。
何が充分なのか、彼はそれ以上は言わなかった。けれど、誰よりもその言葉の重さを理解しているのは、そこにいる者たちだった。
例えば、リアという人間の本質を知るのに。この地に馴染み、誰かを助け、助けられ、居場所を作るのに。
あるいは、ギルフォード自身の中で、何かが変わっていくのに――一ヶ月は、あまりに充分だったのかもしれない。
「……」
リアはそっと視線を落とし、言葉を探しかけて、結局何も言わなかった。何も言えなかったというのが正しいのかもしれない。それほどその言葉があまりにも大きくて、あたたかいものだと感じたからだった。
ただ一人、エルマーだけが、何も言わずににやにやしながらパンにかじりついた。
心の中では、ギルフォードにしては素直な物言いだなんて思いながらもそれを声に出すことはせず、口いっぱいにパンを詰めて笑っていた。
ひとつひとつの会話と食事の味、そして笑顔が、胸の奥にやわらかく降り積もっていく。
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