53 / 59
第53話
しおりを挟む
雪山でのキャンディの狂乱は記憶の中で薄れ、王都には穏やかな春が訪れていた。雪解け水がせせらぎ、街路樹の蕾が次々とほころび始め、やがて空は澄み渡り陽光が夢のように優しく降り注ぐ。私とアンドレ、私の唯一の恋人との関係もこの春の陽気に包まれ、穏やかで甘美なものに感じられた。
「ニーナ、見て。あの雲、うさぎの形をしているよ」
「本当だわ。可愛らしいですわね」
二人で出かけた湖畔のピクニックでは、アンドレが焼いてくれた少し焦げたサンドイッチを頬張り、他愛もないことで笑い合う。彼の隣に座りながら、私は心の底から信じていた。人は変われるものだと、愛はすべてを乗り越える力を持っているのだと。
この時、私の中に浮かぶのは、初めての舞踏会での光景。まだ騎士になる前のアンドレが、緊張した面持ちで私をダンスに誘ってくれたその時のこと。ぎこちないステップを踏みながら、汗ばんだ手が私の手を優しく包み、あの時の彼が今でも愛おしくてたまらない。
けれども、完璧な幸福というものは、ガラス細工のように脆いものだと私は後に気づくことになる。春風が心地よくなり、街が色づき始めたある日のこと、私はふとした違和感に気づいた。
アンドレの返事が、時々ほんの少しだけ遅れることがあった。彼の瞳が、なんとなくおかしい。私の目の前を通り過ぎる何かを、ぼんやりと見つめているような気がしたのだ。
「騎士団の、緊急の用事ができてしまった。すまない、今夜の観劇はまた今度に」
こんな言葉が少しずつ増えていった。最初は小さな違和感だったが、次第にその積み重ねが私の心を締めつけるようになった。
「私の、勘違いよね……」
夜、一人ベッドに横たわりながら、私は自分にそう言い聞かせた。彼が何度も私を裏切って、凍えるような寒さの中、彼が震えながら私の部屋を訪れ、ひれ伏して涙を流しながら必死に謝り続けたこともあった。
あれだけの地獄を見た後で、ようやく手に入れた平穏を疑うなんて馬鹿げている。ただし、その言葉が心の中で響く度に、疑念という名の小さな種が、春の雨に育まれるように確実に根を伸ばしていくのだった。
その日、私はついに決断した。これ以上、彼の言葉を鵜呑みにして、一人で悩んで傷つくのはもうごめんだ。
「真実は、私の手で掴み取るしかない!」
私は王家御用達の魔道具師を密かに訪ね、金に糸目をつけず最新鋭の極小盗聴魔道具を手に入れた。それは、小指の爪ほどの大きさで、一度起動すれば半径一キロ以内の音を水晶玉にクリアに転送するという恐ろしい代物だった。
私はそれを、先日アンドレに贈ったばかりの獅子の紋章入りのカフスボタンの裏に、寸分の狂いもなく仕掛けた。私の勘違いだったとしたら、それで何もかも納得できる。でも、どこかで彼と幼馴染の会話が聞こえてくるかもしれない。その瞬間を私は静かに待っていた。
「ニーナ、見て。あの雲、うさぎの形をしているよ」
「本当だわ。可愛らしいですわね」
二人で出かけた湖畔のピクニックでは、アンドレが焼いてくれた少し焦げたサンドイッチを頬張り、他愛もないことで笑い合う。彼の隣に座りながら、私は心の底から信じていた。人は変われるものだと、愛はすべてを乗り越える力を持っているのだと。
この時、私の中に浮かぶのは、初めての舞踏会での光景。まだ騎士になる前のアンドレが、緊張した面持ちで私をダンスに誘ってくれたその時のこと。ぎこちないステップを踏みながら、汗ばんだ手が私の手を優しく包み、あの時の彼が今でも愛おしくてたまらない。
けれども、完璧な幸福というものは、ガラス細工のように脆いものだと私は後に気づくことになる。春風が心地よくなり、街が色づき始めたある日のこと、私はふとした違和感に気づいた。
アンドレの返事が、時々ほんの少しだけ遅れることがあった。彼の瞳が、なんとなくおかしい。私の目の前を通り過ぎる何かを、ぼんやりと見つめているような気がしたのだ。
「騎士団の、緊急の用事ができてしまった。すまない、今夜の観劇はまた今度に」
こんな言葉が少しずつ増えていった。最初は小さな違和感だったが、次第にその積み重ねが私の心を締めつけるようになった。
「私の、勘違いよね……」
夜、一人ベッドに横たわりながら、私は自分にそう言い聞かせた。彼が何度も私を裏切って、凍えるような寒さの中、彼が震えながら私の部屋を訪れ、ひれ伏して涙を流しながら必死に謝り続けたこともあった。
あれだけの地獄を見た後で、ようやく手に入れた平穏を疑うなんて馬鹿げている。ただし、その言葉が心の中で響く度に、疑念という名の小さな種が、春の雨に育まれるように確実に根を伸ばしていくのだった。
その日、私はついに決断した。これ以上、彼の言葉を鵜呑みにして、一人で悩んで傷つくのはもうごめんだ。
「真実は、私の手で掴み取るしかない!」
私は王家御用達の魔道具師を密かに訪ね、金に糸目をつけず最新鋭の極小盗聴魔道具を手に入れた。それは、小指の爪ほどの大きさで、一度起動すれば半径一キロ以内の音を水晶玉にクリアに転送するという恐ろしい代物だった。
私はそれを、先日アンドレに贈ったばかりの獅子の紋章入りのカフスボタンの裏に、寸分の狂いもなく仕掛けた。私の勘違いだったとしたら、それで何もかも納得できる。でも、どこかで彼と幼馴染の会話が聞こえてくるかもしれない。その瞬間を私は静かに待っていた。
417
あなたにおすすめの小説
幼馴染と仲良くし過ぎている婚約者とは婚約破棄したい!
ルイス
恋愛
ダイダロス王国の侯爵令嬢であるエレナは、リグリット公爵令息と婚約をしていた。
同じ18歳ということで話も合い、仲睦まじいカップルだったが……。
そこに現れたリグリットの幼馴染の伯爵令嬢の存在。リグリットは幼馴染を優先し始める。
あまりにも度が過ぎるので、エレナは不満を口にするが……リグリットは今までの優しい彼からは豹変し、権力にものを言わせ、エレナを束縛し始めた。
「婚約破棄なんてしたら、どうなるか分かっているな?」
その時、エレナは分かってしまったのだ。リグリットは自分の侯爵令嬢の地位だけにしか興味がないことを……。
そんな彼女の前に現れたのは、幼馴染のヨハン王子殿下だった。エレナの状況を理解し、ヨハンは動いてくれることを約束してくれる。
正式な婚約破棄の申し出をするエレナに対し、激怒するリグリットだったが……。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
最近彼氏の様子がおかしい!私を溺愛し大切にしてくれる幼馴染の彼氏が急に冷たくなった衝撃の理由。
佐藤 美奈
恋愛
ソフィア・フランチェスカ男爵令嬢はロナウド・オスバッカス子爵令息に結婚を申し込まれた。
幼馴染で恋人の二人は学園を卒業したら夫婦になる永遠の愛を誓う。超名門校のフォージャー学園に入学し恋愛と楽しい学園生活を送っていたが、学年が上がると愛する彼女の様子がおかしい事に気がつきました。
一緒に下校している時ロナウドにはソフィアが不安そうな顔をしているように見えて、心配そうな視線を向けて話しかけた。
ソフィアは彼を心配させないように無理に笑顔を作って、何でもないと答えますが本当は学園の経営者である理事長の娘アイリーン・クロフォード公爵令嬢に精神的に追い詰められていた。
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない
ぜらちん黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。
ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。
ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。
ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。
【完結】前世の恋人達〜貴方は私を選ばない〜
乙
恋愛
前世の記憶を持つマリア
愛し合い生涯を共にしたロバート
生まれ変わってもお互いを愛すと誓った二人
それなのに貴方が選んだのは彼女だった...
▶︎2話完結◀︎
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる