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第二章:ウィリアム邸での子育て 編
15:ウィリアム邸で行う庭作り
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庭師長ロイと交わした庭の話し合いから、数日が経ったある朝のこと。
ノアたちは裏庭の奥、陽が柔らかく射し込む静かな一角に立っていた。
かつて何もなかったその場所には、整然としたレンガの輪郭が描かれすっかり姿を変えている。
「ノア、この場所、凄くきれいになってる」
リュカは目をきらきらと輝かせ、歓声のような声を上げる。
びわの木が植えられる予定の中央部は茶色のレンガで円形に縁取られ、そこからまっすぐに伸びる小道には陽射しを閉じ込めたような温もりのある陽レンガが穏やかに続いていた。
「ここ、図面で見た時と印象が凄く違って見えます」
リュカと並んで庭に足を踏み入れたノアは、接続部分に目を留めそっとしゃがみ込む。
よく見ると陽レンガが円の内側へとわずかに差し込むように配置され、茶色と橙色の境界がなめらかに溶け合っていた。
「よく、気が付かれましたね」
ロイはその観察眼に、少し感心したような声を返す。
その円の外側にはさらに一回り大きな円が描かれ、そこには煤けたような灰色のレンガが淡く鈍く並び、畝との境界線も同じ素材で仕上げられている。
控えめな色味のグラデーションが連なり、庭全体に落ち着いた調和を生んでいた。
「凄いです」
ノアは、感嘆の声を抑えきれずに呟いた。
「そう言われると、我々で工夫を凝らした甲斐がありました」
目の前に広がる庭には、既にいくつもの木箱や素焼きの鉢が使い勝手や動線を考慮した上で整然と配置されていた。
そして、そこには何故か育苗用の札が差されたものもあり、そのひとつに"びわ"と書かれた札がある空の苗床がある。
それを見つけたノアは、ふと首を傾げた。
「あれ……?」
リュカは、びわの種が入った小さなガラスの小瓶を落とさないよう両手でしっかりと抱えている。
そのすぐ後ろには、付き人のハワードが控え様子を見守っていた。
「あの、なぜ、びわの苗床が用意されているのでしょうか?」
ノアは遠慮がちな声で問いかける。
ロイはその言葉を聞き、ごく自然に頷いて答えた。
「ああ、それは……」
ロイの言葉に、ノアとリュカは視線を向ける。
「びわの種は、直接庭に植えるのには不向きなのです」
「そうなんですか」
ノアとリュカは顔を見合わせ、揃って驚いたように声を漏らす。
「ですので、まずはあの苗床を使って発芽を促します。育苗室は、厨房棟の裏手にある南向きの温かな一角を使っています。そちらで管理をする予定です。お伝えが遅れて、申し訳ありません」
「いえ、そんな。詳しく教えてくださりありがとうございます」
ノアは少しだけ肩の力を抜くように息を整え素直に頭を下げた。
その隣で、リュカは手元の小瓶をそっとロイへと手渡す。
ロイは慎重にその蓋を開け、種を手のひらに移した。
艶やかな褐色のびわの種は、ひとつひとつが存在感を放っていたがロイはそれをゆっくりと見つめながら低く落ち着いた声で言葉を継いだ。
「恐らく三十日ほどで、びわの芽が出るでしょう」
「ロイさんの話を聞くまで、庭にそのまま植えられるものだと思っていました。発芽にも、そんなに時間が掛かるんですね」
ノアは苦笑まじりにそう言った。
「このような種の状態の時は、とても繊細なのです」
ロイの掌の上で、ころんと転がる種をノアとリュカは真剣な眼差しで見つめる。
一見しっかりとした見た目をしているびわの種が実はとてもデリケートであるとは、二人とも思いもしないことだった。
「ロイさんに、色々とお任せして良かったです。実を食べられるようになるのには、どれぐらい掛かるのでしょうか?」
ノアの問いかけにロイはわずかに眉を上げ、少し間をおいて答えた。
「早くて、八年ほどです」
その言葉を聞いた瞬間、リュカは小さく目を丸くする。
「まだまだなんだね、ノア」
思わずぽつりとこぼしたその言葉に、ロイは静かに微笑みながら応じた。
「ここに長く居られるのなら、びわの実がなるのを待つということは、この屋敷での楽しみのひとつとなるでしょう」
その言葉にふたりは自然と顔を見合わせて、微笑みを交わした。
そして、視線はゆっくりと苗床の木箱へと向けられる。
木箱の中には黒土と腐葉土を混ぜたふかふかとした土が、ロイの手により均一に敷き詰められていく。
深さも手のひらほどに整えられ、触れればしっとりとした温もりが伝わってくる。
ノアは膝をついてしゃがみ、小さな木べらでその土の上へと慎重に三つの窪みをつけた。
「はい、ノア、びわの種」
リュカが差し出した小さな掌の上には、ロイから手渡された三つの種が収まっていた。
褐色の表面は陽に当たり、わずかにぬくもりを持っている。
ノアはそっと受け取り、窪みに慎重にひと粒ずつ置いていく。
上から土をかぶせ、手のひらで軽く押さえると作業は終わりを迎えた。
最後にリュカが小ぶりな水差しを慎重に傾け、ぽとり、ぽとりと雫を落とす。
小さな手が運ぶ水は静かに土へと沁み込んでいく。
その光景は、年の離れた兄弟が肩を並べて作業をしているようにも見え、ロイは自然と微笑みを浮かべた。
「これで大丈夫です。あとは、少しずつ様子を見ながらになるでしょう」
ロイの落ち着いた声に二人は真剣な面持ちでうなずいた。
まだ見ぬ芽に向かって"がんばれ"と心の中で声をかけるように二人の視線は木箱に注がれたままである。
この木箱は、のちほどノアが責任を持って庭師用の手押し車に乗せ育苗室まで運ぶことになった。
背後に立つロイはそっと目を細めた。
かつて、庭のどこを歩いても心から笑うことがなかったあの幼子が、今ではこうして誰かと並び庭で声を弾ませている。
その変化は、長くこの場所と向き合ってきたロイの胸にも、うっすらと染み入るものがあった。
──この屋敷に、このような青年がやってくるとは。
ロイは、無言のまま二人の背を見つめ、その目に静かな笑みを滲ませた。
そうして、びわの種植えが終わった頃には、いつの間にかノアたちの傍に新たな気配があった。
「作業は、順調だろうか」
静かに歩み寄るその声に、ノアの顔がぱっと綻ぶ。
まさか執務の合間に顔を見せてくれるとは思っておらず、驚きと嬉しさが入り混じった表情が自然と浮かぶ。
ユリウスの装いは、いつもの重厚な礼装ではなく軽やかで動きやすさを意識したものだった。
腕まくりされたシャツの袖からのぞく素肌に、ノアの視線が自然と引かれる。
「はい、ですが、びわの種は直接庭に植えない方が良いということを、今日、ロイさんから教えられて初めて知りました」
種に込めた想いを思い出しながら、ノアは少し照れくさそうにそう伝える。
ユリウスは目を細め、穏やかな微笑を浮かべた。
「私も、植物のことでは知らないことがまだある。ロイの助言を聞きながら苗植えを行うつもりだ」
「ユリウス様も、行うのですか?」
意外そうな声で尋ねたノアに、ユリウスは目元に笑みを残したまま、ややとぼけたように肩をすくめる。
「お前たち二人が共同で作業をするのに、私だけ除け者にするつもりか」
その言葉には冗談めいた軽やかさとほんの少しだけ混ざる本音があった。
ノアは自然とユリウスと並んで立ち上がった。
二人は肩を並べて、木製の柵沿いへと向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、リュカはハワードと目を合わせ小さくうなずいた。ノアと事前に話し合って決めた"新しい仕事"に取りかかるため、小道の入口へと足を運びはじめる。
リュカはハワードに付き添われながら、ローズマリーの苗植えと庭全体の水やりを担当することとなっていた。
目的の場所へとついたノアはユリウスと並び、これから白薔薇の苗を植える予定の一角をそっと見下ろした。
「この子たちも、いつか立派に咲いてくれるといいですね」
花々の苗はどれもが、柵沿いの陽当たりと風通しに恵まれた場所に静かに根を下ろす準備をされている。
土の色に映える純白の花たちは、まだ咲いていなくともその姿がそこにあるように思えた。
ユリウスは袖を軽く捲り、ノアと並んでしゃがみ込む。
ノアが苗の角度や深さを見ながら調整を加えていき、ユリウスがその手に合わせて静かに土をかぶせる。
ふたりの動きは、言葉を交わさずとも自然と噛み合っていた。
花の苗植えが終わる頃、少し離れた場所ではロイが作物の苗をひとつずつ、丁寧な手つきで土に下ろしていた。
びわの木を囲むように設けられた円形の区画。
その灰色のレンガで几帳面に仕切られた畝には、とうもろこし、ズッキーニ、トマト、茄子と次々に苗が並んでいった。
ロイはその配置を確かめるように目を静かに走らせ、黙々と作業を進めていた。
暫くするとノアは立ち上がり、少し離れた場所にいるロイに向かって声をかける。
「ロイさん、花植えが終わったので、そちらも手伝いますね」
ロイが軽く頷くとノアたちは新たな苗の元へと向かい、それぞれ手袋を直しながら作業に加わった。
一方その頃、小道沿いと入口の近くでは、リュカが小さな水差しを手に静かに歩いていた。
傍らにはハワードが付き添い、時折しゃがんでその手を支えたり革巻きの小瓶を手渡したりしている。
「少し休みましょうか、リュカ様」
「うん、でもあとちょっと……カラントにも、お水あげたい」
ぽとん、ぽとんと水差しからこぼれる雫が、小さな葉に触れるたび陽光を受けて淡くきらめいた。
それぞれの手が動くたびに、庭は少しずつその姿を変えていく。
果樹の苗植えも終わり、最後にノアが手をつけたのは月下草の種まきだった。
一息をつくノアにユアンが静かに歩み寄り、小さな硝子の小瓶を差し出す。
中には銀灰色の種が数粒、月光の欠片のように揺れている。
「……どうぞ、お受け取り下さい」
ノアは両手で受け取り、丁寧に蓋を外すとロイに教えられた通りに軽く土を掘って整え、指先でそっと種を置きやさしく土をかぶせた。
水差しでぽとぽとと水を注ぐと、水が染みこむたびに土がほんのり色を変える。
その様子を傍で見守っていたユアンが、作業の終わりに穏やかな声を出す。
「ノア様、お疲れさまです」
そして、静かに言葉を続けた。
「月下草は、月下の雫の魔石が採れる、ユリウス様ご所有の鉱山近くで育つものが特に質が良いとされています。これを提案するとは、流石、庭師長ですね」
感心を込めてそう告げると、今度は種を育てるための"もうひとつの手段"について言及した。
「魔具に魔力を注ぐのと同じく、月下草もまた魔力を受けて育ちます。ただ、こちらは押し込むのではなく、穏やかに広げるように意識してください」
ユアンは手を軽くかざして、空気の中にふわりと広がるような動作をして見せる。
「この植物は、葉先から微細な魔力を吸い上げる性質があります。ですので、葉の先にそっと触れるように、そこへ向けて“注ぎ込む”というより“染み渡らせる”という感覚です」
ユアンはさらにひと言、優雅な口調で続ける。
「月下草の花は、夜にしか咲きません。月光の下で静かに開くその姿が、この名前の由来です」
視線の先では月下草の小さな葉が静かに揺れていた。
ノアは腰を落とし、ゆっくりと庭を見渡す。
区画ごとに植えられた苗や整えられた花壇の縁を、静かになぞった。
「リュカ様も、お疲れ様です」
「ノアも、お疲れ様。父さまも……」
リュカは水差しを手にしたまま少し照れくさそうに笑った。
すぐ傍ににはハワードが控えており、リュカへと革巻きの小瓶を手渡す。
リュカは一口だけ水を飲むとロイのほうを向いてぺこりと頭を下げる。
それに応じて、ロイも深く頷いた。
「この屋敷で、果樹ではない作物を育てるというのは初めてのことです。私もその成長を楽しみにしております」
語調は落ち着いていたが、その表情には静かな意欲がにじんでいた。
今までは木々や果樹、花などが主だったこの庭に新たな一角が加わろうとしている。
ロイは、この庭のこれからを頭の中でそっと思い描く。
陽を受けたレンガの曲線が、植え終えた苗の間をやさしく縁取っていた。
ふと風が抜け、小さな葉が穏やかに揺れる。
「ユリウス様、お待たせしました」
ノアはびわの種を植えた木箱を手押し車に乗せ、育苗室へと運ぶ準備を整えた。
その隣には自然とユリウスが並ぶ。
軽装で腕まくりをした姿は、書斎にいるときとは少し違う普段にはない柔らかさを帯びていた。
二人は言葉を交わさずに、ゆっくりと歩き出す。
小さな車輪が石畳を転がる音だけが、静かに後ろへと残っていく。
やがてその背中は、庭先から少しずつ遠ざかっていった。
ノアたちは裏庭の奥、陽が柔らかく射し込む静かな一角に立っていた。
かつて何もなかったその場所には、整然としたレンガの輪郭が描かれすっかり姿を変えている。
「ノア、この場所、凄くきれいになってる」
リュカは目をきらきらと輝かせ、歓声のような声を上げる。
びわの木が植えられる予定の中央部は茶色のレンガで円形に縁取られ、そこからまっすぐに伸びる小道には陽射しを閉じ込めたような温もりのある陽レンガが穏やかに続いていた。
「ここ、図面で見た時と印象が凄く違って見えます」
リュカと並んで庭に足を踏み入れたノアは、接続部分に目を留めそっとしゃがみ込む。
よく見ると陽レンガが円の内側へとわずかに差し込むように配置され、茶色と橙色の境界がなめらかに溶け合っていた。
「よく、気が付かれましたね」
ロイはその観察眼に、少し感心したような声を返す。
その円の外側にはさらに一回り大きな円が描かれ、そこには煤けたような灰色のレンガが淡く鈍く並び、畝との境界線も同じ素材で仕上げられている。
控えめな色味のグラデーションが連なり、庭全体に落ち着いた調和を生んでいた。
「凄いです」
ノアは、感嘆の声を抑えきれずに呟いた。
「そう言われると、我々で工夫を凝らした甲斐がありました」
目の前に広がる庭には、既にいくつもの木箱や素焼きの鉢が使い勝手や動線を考慮した上で整然と配置されていた。
そして、そこには何故か育苗用の札が差されたものもあり、そのひとつに"びわ"と書かれた札がある空の苗床がある。
それを見つけたノアは、ふと首を傾げた。
「あれ……?」
リュカは、びわの種が入った小さなガラスの小瓶を落とさないよう両手でしっかりと抱えている。
そのすぐ後ろには、付き人のハワードが控え様子を見守っていた。
「あの、なぜ、びわの苗床が用意されているのでしょうか?」
ノアは遠慮がちな声で問いかける。
ロイはその言葉を聞き、ごく自然に頷いて答えた。
「ああ、それは……」
ロイの言葉に、ノアとリュカは視線を向ける。
「びわの種は、直接庭に植えるのには不向きなのです」
「そうなんですか」
ノアとリュカは顔を見合わせ、揃って驚いたように声を漏らす。
「ですので、まずはあの苗床を使って発芽を促します。育苗室は、厨房棟の裏手にある南向きの温かな一角を使っています。そちらで管理をする予定です。お伝えが遅れて、申し訳ありません」
「いえ、そんな。詳しく教えてくださりありがとうございます」
ノアは少しだけ肩の力を抜くように息を整え素直に頭を下げた。
その隣で、リュカは手元の小瓶をそっとロイへと手渡す。
ロイは慎重にその蓋を開け、種を手のひらに移した。
艶やかな褐色のびわの種は、ひとつひとつが存在感を放っていたがロイはそれをゆっくりと見つめながら低く落ち着いた声で言葉を継いだ。
「恐らく三十日ほどで、びわの芽が出るでしょう」
「ロイさんの話を聞くまで、庭にそのまま植えられるものだと思っていました。発芽にも、そんなに時間が掛かるんですね」
ノアは苦笑まじりにそう言った。
「このような種の状態の時は、とても繊細なのです」
ロイの掌の上で、ころんと転がる種をノアとリュカは真剣な眼差しで見つめる。
一見しっかりとした見た目をしているびわの種が実はとてもデリケートであるとは、二人とも思いもしないことだった。
「ロイさんに、色々とお任せして良かったです。実を食べられるようになるのには、どれぐらい掛かるのでしょうか?」
ノアの問いかけにロイはわずかに眉を上げ、少し間をおいて答えた。
「早くて、八年ほどです」
その言葉を聞いた瞬間、リュカは小さく目を丸くする。
「まだまだなんだね、ノア」
思わずぽつりとこぼしたその言葉に、ロイは静かに微笑みながら応じた。
「ここに長く居られるのなら、びわの実がなるのを待つということは、この屋敷での楽しみのひとつとなるでしょう」
その言葉にふたりは自然と顔を見合わせて、微笑みを交わした。
そして、視線はゆっくりと苗床の木箱へと向けられる。
木箱の中には黒土と腐葉土を混ぜたふかふかとした土が、ロイの手により均一に敷き詰められていく。
深さも手のひらほどに整えられ、触れればしっとりとした温もりが伝わってくる。
ノアは膝をついてしゃがみ、小さな木べらでその土の上へと慎重に三つの窪みをつけた。
「はい、ノア、びわの種」
リュカが差し出した小さな掌の上には、ロイから手渡された三つの種が収まっていた。
褐色の表面は陽に当たり、わずかにぬくもりを持っている。
ノアはそっと受け取り、窪みに慎重にひと粒ずつ置いていく。
上から土をかぶせ、手のひらで軽く押さえると作業は終わりを迎えた。
最後にリュカが小ぶりな水差しを慎重に傾け、ぽとり、ぽとりと雫を落とす。
小さな手が運ぶ水は静かに土へと沁み込んでいく。
その光景は、年の離れた兄弟が肩を並べて作業をしているようにも見え、ロイは自然と微笑みを浮かべた。
「これで大丈夫です。あとは、少しずつ様子を見ながらになるでしょう」
ロイの落ち着いた声に二人は真剣な面持ちでうなずいた。
まだ見ぬ芽に向かって"がんばれ"と心の中で声をかけるように二人の視線は木箱に注がれたままである。
この木箱は、のちほどノアが責任を持って庭師用の手押し車に乗せ育苗室まで運ぶことになった。
背後に立つロイはそっと目を細めた。
かつて、庭のどこを歩いても心から笑うことがなかったあの幼子が、今ではこうして誰かと並び庭で声を弾ませている。
その変化は、長くこの場所と向き合ってきたロイの胸にも、うっすらと染み入るものがあった。
──この屋敷に、このような青年がやってくるとは。
ロイは、無言のまま二人の背を見つめ、その目に静かな笑みを滲ませた。
そうして、びわの種植えが終わった頃には、いつの間にかノアたちの傍に新たな気配があった。
「作業は、順調だろうか」
静かに歩み寄るその声に、ノアの顔がぱっと綻ぶ。
まさか執務の合間に顔を見せてくれるとは思っておらず、驚きと嬉しさが入り混じった表情が自然と浮かぶ。
ユリウスの装いは、いつもの重厚な礼装ではなく軽やかで動きやすさを意識したものだった。
腕まくりされたシャツの袖からのぞく素肌に、ノアの視線が自然と引かれる。
「はい、ですが、びわの種は直接庭に植えない方が良いということを、今日、ロイさんから教えられて初めて知りました」
種に込めた想いを思い出しながら、ノアは少し照れくさそうにそう伝える。
ユリウスは目を細め、穏やかな微笑を浮かべた。
「私も、植物のことでは知らないことがまだある。ロイの助言を聞きながら苗植えを行うつもりだ」
「ユリウス様も、行うのですか?」
意外そうな声で尋ねたノアに、ユリウスは目元に笑みを残したまま、ややとぼけたように肩をすくめる。
「お前たち二人が共同で作業をするのに、私だけ除け者にするつもりか」
その言葉には冗談めいた軽やかさとほんの少しだけ混ざる本音があった。
ノアは自然とユリウスと並んで立ち上がった。
二人は肩を並べて、木製の柵沿いへと向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、リュカはハワードと目を合わせ小さくうなずいた。ノアと事前に話し合って決めた"新しい仕事"に取りかかるため、小道の入口へと足を運びはじめる。
リュカはハワードに付き添われながら、ローズマリーの苗植えと庭全体の水やりを担当することとなっていた。
目的の場所へとついたノアはユリウスと並び、これから白薔薇の苗を植える予定の一角をそっと見下ろした。
「この子たちも、いつか立派に咲いてくれるといいですね」
花々の苗はどれもが、柵沿いの陽当たりと風通しに恵まれた場所に静かに根を下ろす準備をされている。
土の色に映える純白の花たちは、まだ咲いていなくともその姿がそこにあるように思えた。
ユリウスは袖を軽く捲り、ノアと並んでしゃがみ込む。
ノアが苗の角度や深さを見ながら調整を加えていき、ユリウスがその手に合わせて静かに土をかぶせる。
ふたりの動きは、言葉を交わさずとも自然と噛み合っていた。
花の苗植えが終わる頃、少し離れた場所ではロイが作物の苗をひとつずつ、丁寧な手つきで土に下ろしていた。
びわの木を囲むように設けられた円形の区画。
その灰色のレンガで几帳面に仕切られた畝には、とうもろこし、ズッキーニ、トマト、茄子と次々に苗が並んでいった。
ロイはその配置を確かめるように目を静かに走らせ、黙々と作業を進めていた。
暫くするとノアは立ち上がり、少し離れた場所にいるロイに向かって声をかける。
「ロイさん、花植えが終わったので、そちらも手伝いますね」
ロイが軽く頷くとノアたちは新たな苗の元へと向かい、それぞれ手袋を直しながら作業に加わった。
一方その頃、小道沿いと入口の近くでは、リュカが小さな水差しを手に静かに歩いていた。
傍らにはハワードが付き添い、時折しゃがんでその手を支えたり革巻きの小瓶を手渡したりしている。
「少し休みましょうか、リュカ様」
「うん、でもあとちょっと……カラントにも、お水あげたい」
ぽとん、ぽとんと水差しからこぼれる雫が、小さな葉に触れるたび陽光を受けて淡くきらめいた。
それぞれの手が動くたびに、庭は少しずつその姿を変えていく。
果樹の苗植えも終わり、最後にノアが手をつけたのは月下草の種まきだった。
一息をつくノアにユアンが静かに歩み寄り、小さな硝子の小瓶を差し出す。
中には銀灰色の種が数粒、月光の欠片のように揺れている。
「……どうぞ、お受け取り下さい」
ノアは両手で受け取り、丁寧に蓋を外すとロイに教えられた通りに軽く土を掘って整え、指先でそっと種を置きやさしく土をかぶせた。
水差しでぽとぽとと水を注ぐと、水が染みこむたびに土がほんのり色を変える。
その様子を傍で見守っていたユアンが、作業の終わりに穏やかな声を出す。
「ノア様、お疲れさまです」
そして、静かに言葉を続けた。
「月下草は、月下の雫の魔石が採れる、ユリウス様ご所有の鉱山近くで育つものが特に質が良いとされています。これを提案するとは、流石、庭師長ですね」
感心を込めてそう告げると、今度は種を育てるための"もうひとつの手段"について言及した。
「魔具に魔力を注ぐのと同じく、月下草もまた魔力を受けて育ちます。ただ、こちらは押し込むのではなく、穏やかに広げるように意識してください」
ユアンは手を軽くかざして、空気の中にふわりと広がるような動作をして見せる。
「この植物は、葉先から微細な魔力を吸い上げる性質があります。ですので、葉の先にそっと触れるように、そこへ向けて“注ぎ込む”というより“染み渡らせる”という感覚です」
ユアンはさらにひと言、優雅な口調で続ける。
「月下草の花は、夜にしか咲きません。月光の下で静かに開くその姿が、この名前の由来です」
視線の先では月下草の小さな葉が静かに揺れていた。
ノアは腰を落とし、ゆっくりと庭を見渡す。
区画ごとに植えられた苗や整えられた花壇の縁を、静かになぞった。
「リュカ様も、お疲れ様です」
「ノアも、お疲れ様。父さまも……」
リュカは水差しを手にしたまま少し照れくさそうに笑った。
すぐ傍ににはハワードが控えており、リュカへと革巻きの小瓶を手渡す。
リュカは一口だけ水を飲むとロイのほうを向いてぺこりと頭を下げる。
それに応じて、ロイも深く頷いた。
「この屋敷で、果樹ではない作物を育てるというのは初めてのことです。私もその成長を楽しみにしております」
語調は落ち着いていたが、その表情には静かな意欲がにじんでいた。
今までは木々や果樹、花などが主だったこの庭に新たな一角が加わろうとしている。
ロイは、この庭のこれからを頭の中でそっと思い描く。
陽を受けたレンガの曲線が、植え終えた苗の間をやさしく縁取っていた。
ふと風が抜け、小さな葉が穏やかに揺れる。
「ユリウス様、お待たせしました」
ノアはびわの種を植えた木箱を手押し車に乗せ、育苗室へと運ぶ準備を整えた。
その隣には自然とユリウスが並ぶ。
軽装で腕まくりをした姿は、書斎にいるときとは少し違う普段にはない柔らかさを帯びていた。
二人は言葉を交わさずに、ゆっくりと歩き出す。
小さな車輪が石畳を転がる音だけが、静かに後ろへと残っていく。
やがてその背中は、庭先から少しずつ遠ざかっていった。
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出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
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