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八
ドキドキの温泉旅行
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「おかえり」とバスルームから飛び出し、ある期待の眼差しで彼を見上げる。
なのに彼は、
「十分後に出発だ」
と旅行に行くというより、法事に出かけるような深刻な表情で、私を素通りする。
私の髪型に気がつかなかった?
「旅行の手配してくれて、ありがとう。令月荘って老舗なのに、よく予約が取れたね」
私は慌ただしく、旅行鞄に自分の服を詰め始めた彼を振り向かせる。
何か違わない? と首を傾げてニッコリ微笑みながら。
「運よくキャンセルがあったんだ」
彼は気難しそうな表情を崩さない。すぐに荷造りに戻った。
アレッ? と私の顔から笑顔が消える。
ここは落ち着こう。
彼は仕事が忙しいにも関わらず、旅行の手配をして、早く帰ってきてくれたのだから。
髪型ごとき違うだけでは、イメチェンに気がつかなかったのだろう。
彼が荷造りを終える。予定通り五時には、アストンマーティンに乗り込んでいた。
旅館に向かう途中、彼は考えに耽るように、何も話さない。
「明日はここに行かない?」
スマートフォンで周辺の見どころをあちこち検索しまくる私に、彼の返事は「ああ」と最小限で、気もそぞろだ。
休暇を取ったのはいいけど、仕事が気になっているのかな、と気にしないようにしていた。
そのうち、武家屋敷のような塀に囲まれた令月荘に着く。
「その節はお世話になりました」
少し年配の正統派美人の女将が出迎える。
彼の仕事絡みの知り合いなのだろうか?
優美な物腰で女将が自ら、「こちらのお部屋になります」と私と彼を露天風呂付の和室に案内した。
「わぁ、すごく素敵」
露天岩風呂は、この客室専用の日本庭園に面している。
こんな豪華な旅館に泊まったことのない私は、無口な彼とは対照に、テンションが上がった。
「お食事をすぐお出し致しますね。花火を見に行くのでしたら、七時に出るのが丁度良いですよ。お車を手配致しますから」
彼が事前に、予定を言ってあったらしい。
時間が押しているからと、懐石で料理が一品ずつ出て来るところを、一度に出してくれた。
「順に子持ち鮎山椒煮、占地時雨煮、いちょう芋、鱧の子玉子寄背、結び鱚雲丹焼き……」
中居さんが次々と料理をテーブルに乗せる間、女将が一品一品、説明をする。
私に暖かい微笑みを向けて、女将さんが部屋から出て行った。
妙に部屋の中が、シーンとなる。
豪華なご馳走を前に、何も会話がないのが変に感じられた。
「実は浴衣を買ったの。花火大会に着て行こうと思って」
会話を盛り上げようと、彼にお酌をしながら言ってみた。
「着付けはできるのか?」
「浴衣なら、何とか。昔、母に習って」
「へえ」
それだけで、会話が終わってしまう。再び、静寂が訪れた。
何だろう? 今夜の彼はどこか張り詰めている?
仕事で何かあったとか?
原因はどうであれ、彼は私に話すつもりはないらしい。
彼との距離を感じ沈みそうになったけど、旅行なのに気まずくなりたくない。
私は気を取り直し、芸術品のような前菜に箸を伸ばしながら、次の話題を探す。
「……そう言えば、女将さんが言っていた、その節はお世話になりましたって、何のこと?」
「以前、この旅館が経営難に陥った時に、間宮に頼まれて相談に乗ったんだ。専門は海外事業だから、一度は断ったんだが――」
代々続いた旅館の伝統を守り抜きたいと言う女将さんの情熱に動かされ、無償で助言をしてあげたことを、彼が淡々と語る。
「大まかな方針しか言っていない。それを具体的な戦略にして、経営を持ち直したのは女将の力だ」
美談を取るに足りない話のように言い終わると、彼が口を閉ざす。
ドラマのような話に、私は感動していた。
尊敬の念で、黙々とご飯を食べる彼を眺める。
また新たな彼の凄い一面を知ってしまった。
彼を知れば知るほど、彼の深みにハマっていく。
「食べないのか?」
私の視線に気づき、彼が怪訝そうに聞く。
「あ、そうだね。食べないと」
私は彼と同じように、黙々と食べ始めた。
そんな彼の目に私はどう映っているのだろうかと、思いを巡らせながら……
食事が終わると、彼が「外で待つ」と言い残し部屋を出て行く。
私は浴衣に着替え始めた。
ちょっと苦労しながらも、帯を締め、かんざしを夜会巻きに挿し、メイクを直す。
「お待……」
玄関先で待っている彼の元に急いだ私は、目を見張った。
ダークグレイの着物に身を包んだ彼が、門の側に佇んでいた。
風情ある彼の着物姿が、一枚のポートレイトのように、夕暮れに物憂げに映る。
声を掛けるのも忘れて、私は見惚れていた。
「浴衣、可愛らしく着こなせていること」
女将さんの涼しげな声が、私を振り返させる。
大人のセクシーさを目指したのだけど、とは思ったけど、褒められるのは嬉しい。
「ありがとうございます」と素直に喜ぶと、まだ私と女将さんに気付かない彼に視線を戻した。
「息子に買った浴衣があったのを、私が説得して着てもらったんですよ。折角ですもの」
女将さんも彼に視線を移し、フフッと上品に笑う。
彼がようやく私と女将さんに気づいた。
「忙しい方だから、こんな機会、滅多にないのでしょう? 最初は渋ったのに、きっとあなたが喜ぶと言ったら――」
「タクシーを待たせている。行こう」
女将さんの話を遮り、彼が急かす。
「いってらっしゃいませ」と女将さんに見送られ、タクシーに乗り込んだ。
「浴衣、すごく似合ってる」
タクシーの中で、窓の外に顔を向ける彼に言ってみた。
「動きづらいな」
眉間に皺を寄せ、彼が感想を言う。
私の浴衣姿にも、何かコメントくれるかなと思っていたのだけど――
スルーするように、彼の顔が窓の外に戻る。
えっ? と私は凍りついた。
いくらなんでも、普通、何か言わない?
もしかして、似合ってなかったとか。
今日の彼はどこか気が散漫しているから、気が回らなかっただけじゃ……
そう言い聞かせていたのに、涙が滲み出てきて、自分にショックを受ける。
私の浴衣姿に何も言ってくれなかった、というたったそれだけのことで。
思えば、彼が愛の告白をしてくれたことは一度もない。
彼とデートも数える程しかしたことが……
もしかすると、私への彼の想いって、浴衣姿にも関心がない程浅いものなのでは……?
ほんの小さな引っ掛かりが、大きな不安へと膨らんでいく。
そんなネガティブ思考真っ最中でいると、
「渋滞ですね。ここからは歩いた方が早いですよ。お客さん?」
と、運転手の声が頭の中に飛び込んで来た。
「お客さん?」
彼も考えにふけっていたようで、タクシーのおじさんが後部席を振り返る。
タクシーのドアを開けて、足を一歩踏み出した私は、前方に構える巨大な物体に、目が釘付けになった。
なのに彼は、
「十分後に出発だ」
と旅行に行くというより、法事に出かけるような深刻な表情で、私を素通りする。
私の髪型に気がつかなかった?
「旅行の手配してくれて、ありがとう。令月荘って老舗なのに、よく予約が取れたね」
私は慌ただしく、旅行鞄に自分の服を詰め始めた彼を振り向かせる。
何か違わない? と首を傾げてニッコリ微笑みながら。
「運よくキャンセルがあったんだ」
彼は気難しそうな表情を崩さない。すぐに荷造りに戻った。
アレッ? と私の顔から笑顔が消える。
ここは落ち着こう。
彼は仕事が忙しいにも関わらず、旅行の手配をして、早く帰ってきてくれたのだから。
髪型ごとき違うだけでは、イメチェンに気がつかなかったのだろう。
彼が荷造りを終える。予定通り五時には、アストンマーティンに乗り込んでいた。
旅館に向かう途中、彼は考えに耽るように、何も話さない。
「明日はここに行かない?」
スマートフォンで周辺の見どころをあちこち検索しまくる私に、彼の返事は「ああ」と最小限で、気もそぞろだ。
休暇を取ったのはいいけど、仕事が気になっているのかな、と気にしないようにしていた。
そのうち、武家屋敷のような塀に囲まれた令月荘に着く。
「その節はお世話になりました」
少し年配の正統派美人の女将が出迎える。
彼の仕事絡みの知り合いなのだろうか?
優美な物腰で女将が自ら、「こちらのお部屋になります」と私と彼を露天風呂付の和室に案内した。
「わぁ、すごく素敵」
露天岩風呂は、この客室専用の日本庭園に面している。
こんな豪華な旅館に泊まったことのない私は、無口な彼とは対照に、テンションが上がった。
「お食事をすぐお出し致しますね。花火を見に行くのでしたら、七時に出るのが丁度良いですよ。お車を手配致しますから」
彼が事前に、予定を言ってあったらしい。
時間が押しているからと、懐石で料理が一品ずつ出て来るところを、一度に出してくれた。
「順に子持ち鮎山椒煮、占地時雨煮、いちょう芋、鱧の子玉子寄背、結び鱚雲丹焼き……」
中居さんが次々と料理をテーブルに乗せる間、女将が一品一品、説明をする。
私に暖かい微笑みを向けて、女将さんが部屋から出て行った。
妙に部屋の中が、シーンとなる。
豪華なご馳走を前に、何も会話がないのが変に感じられた。
「実は浴衣を買ったの。花火大会に着て行こうと思って」
会話を盛り上げようと、彼にお酌をしながら言ってみた。
「着付けはできるのか?」
「浴衣なら、何とか。昔、母に習って」
「へえ」
それだけで、会話が終わってしまう。再び、静寂が訪れた。
何だろう? 今夜の彼はどこか張り詰めている?
仕事で何かあったとか?
原因はどうであれ、彼は私に話すつもりはないらしい。
彼との距離を感じ沈みそうになったけど、旅行なのに気まずくなりたくない。
私は気を取り直し、芸術品のような前菜に箸を伸ばしながら、次の話題を探す。
「……そう言えば、女将さんが言っていた、その節はお世話になりましたって、何のこと?」
「以前、この旅館が経営難に陥った時に、間宮に頼まれて相談に乗ったんだ。専門は海外事業だから、一度は断ったんだが――」
代々続いた旅館の伝統を守り抜きたいと言う女将さんの情熱に動かされ、無償で助言をしてあげたことを、彼が淡々と語る。
「大まかな方針しか言っていない。それを具体的な戦略にして、経営を持ち直したのは女将の力だ」
美談を取るに足りない話のように言い終わると、彼が口を閉ざす。
ドラマのような話に、私は感動していた。
尊敬の念で、黙々とご飯を食べる彼を眺める。
また新たな彼の凄い一面を知ってしまった。
彼を知れば知るほど、彼の深みにハマっていく。
「食べないのか?」
私の視線に気づき、彼が怪訝そうに聞く。
「あ、そうだね。食べないと」
私は彼と同じように、黙々と食べ始めた。
そんな彼の目に私はどう映っているのだろうかと、思いを巡らせながら……
食事が終わると、彼が「外で待つ」と言い残し部屋を出て行く。
私は浴衣に着替え始めた。
ちょっと苦労しながらも、帯を締め、かんざしを夜会巻きに挿し、メイクを直す。
「お待……」
玄関先で待っている彼の元に急いだ私は、目を見張った。
ダークグレイの着物に身を包んだ彼が、門の側に佇んでいた。
風情ある彼の着物姿が、一枚のポートレイトのように、夕暮れに物憂げに映る。
声を掛けるのも忘れて、私は見惚れていた。
「浴衣、可愛らしく着こなせていること」
女将さんの涼しげな声が、私を振り返させる。
大人のセクシーさを目指したのだけど、とは思ったけど、褒められるのは嬉しい。
「ありがとうございます」と素直に喜ぶと、まだ私と女将さんに気付かない彼に視線を戻した。
「息子に買った浴衣があったのを、私が説得して着てもらったんですよ。折角ですもの」
女将さんも彼に視線を移し、フフッと上品に笑う。
彼がようやく私と女将さんに気づいた。
「忙しい方だから、こんな機会、滅多にないのでしょう? 最初は渋ったのに、きっとあなたが喜ぶと言ったら――」
「タクシーを待たせている。行こう」
女将さんの話を遮り、彼が急かす。
「いってらっしゃいませ」と女将さんに見送られ、タクシーに乗り込んだ。
「浴衣、すごく似合ってる」
タクシーの中で、窓の外に顔を向ける彼に言ってみた。
「動きづらいな」
眉間に皺を寄せ、彼が感想を言う。
私の浴衣姿にも、何かコメントくれるかなと思っていたのだけど――
スルーするように、彼の顔が窓の外に戻る。
えっ? と私は凍りついた。
いくらなんでも、普通、何か言わない?
もしかして、似合ってなかったとか。
今日の彼はどこか気が散漫しているから、気が回らなかっただけじゃ……
そう言い聞かせていたのに、涙が滲み出てきて、自分にショックを受ける。
私の浴衣姿に何も言ってくれなかった、というたったそれだけのことで。
思えば、彼が愛の告白をしてくれたことは一度もない。
彼とデートも数える程しかしたことが……
もしかすると、私への彼の想いって、浴衣姿にも関心がない程浅いものなのでは……?
ほんの小さな引っ掛かりが、大きな不安へと膨らんでいく。
そんなネガティブ思考真っ最中でいると、
「渋滞ですね。ここからは歩いた方が早いですよ。お客さん?」
と、運転手の声が頭の中に飛び込んで来た。
「お客さん?」
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