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一章 発端
四.千春の想い
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お梅を送り届けたあと、総二郎はお志津に言い含めて、茶屋に護衛をつけることとした。
定廻り同心の小林源四郎と、岡っ引の仙吉ならば、喜んで役目を引き受けることだろう。
お志津を奉行所に走らせ、諸々の手配を済ませると、総二郎は八丁堀へと向かった。
稽古の約束もあったが、手首を痛めていた千春が心配になったのだ。
風森家には、同心たちが稽古をする道場がある。
千春は今頃、そこで木刀を振っているかもしれない。
無理をしていなければいいが、と思いながら、総二郎は風森家の門をくぐった。
「御免」
玄関で声をかけると、奥から女性が顔を出した。
風森多一郎の妻、藤である。
もう四十は超えているはずだが、見た目は若々しく、匂い立つような色気のある美女であった。
「まあ、和田様。ようこそいらっしゃいました」
「千春殿は戻られておりますか」
「はい、半刻ほど前に帰ってきておりますが」
「左様ですか。どこか痛むとか、そのようなことは申されておりませんでしたかな」
「いえ、特に何も。いつものように裏庭で木刀を振り回しているでしょうから、何か御用でしたら、どうぞ会っていってくださいませ」
藤は袖で口元を押さえながら笑い、道場の方を指差した。
総二郎は一礼して、庭先から道場へと向かう。
ぐるりと一周するように歩いていくと、裏庭のほうから水音が聞こえてきた。
「千春殿……」
そう言いかけた総二郎が、言葉に詰まった。
小袖を諸肌脱ぎにした千春が、背を向けて井戸水を汲み上げていたからだ。
千春は胸に巻いていた晒しを外し、美しい背中をあらわにする。
こちらには全く気づかない様子で、手拭いを絞って体を拭き始めた。
声をかける機会を逃した総二郎が、振り向いた千春と目を合わせたのは次の瞬間であった。
「そっ! 総二郎殿!」
「すまぬ、覗くつもりではなかったのだ」
慌てて小袖の襟をかき合わせる千春に、総二郎はくるりと背を向けた。
「先ほどの件で手首を痛めたようで心配になってな。藤殿が裏庭にいると仰せられたのだ」
「母上ったら……また……。もう……良いですよ、総二郎殿、こちらを向かれても」
頬をかきながら総二郎が振り向くと、千春は小袖をきちんと着込んでいた。
ただ、晒しを巻く余裕は無かったため、普段よりも胸元がふっくらと盛り上がっている。
「いや、誠に申し訳ないことをした」
「私のほうこそ、申し訳ありませぬ。母上が……いえ、何でもありません」
千春は晒しを丸めて袖に隠しながら言った。
肌を見られたことで、その頬は薄桃色に染まっている。
「千春殿、手の具合はどうかな」
「見抜かれておりましたか。少々痛みが……」
「ふむ、やはりな。こちらを使うといい。ここに来るついでに、山本周斎先生から頂いてきた膏薬だ。よく効くぞ」
総二郎は紙包みを千春に手渡した。
山本周斎は、八丁堀の近くに居を置く町医者で、荒事の多い奉行所の同心御用達である。
また、貧乏な長屋住まいの町人でも、分け隔てなく治療すると評判の名医であった。
「まあ、これはかたじけのうございます」
「力に力で対抗しようとしても、あのようなことになってしまう。千春殿は技が冴えておられるのだから、さらなる稽古が必要なようだ。手首が癒えたら、また稽古のお相手をいたそう」
「はい、ありがとうございます。しっかりと養生して、お声をかけさせていただきます」
千春は深々とお辞儀をした。
その拍子に胸元から白い肌が覗き、総二郎は内心で感嘆する。
千春自身は意識していないのかもしれないが、凛とした佇まいの中に溢れる色香はなかなかのものであった。
総二郎は一つ咳払いをし、千春に一礼をして、その場を立ち去る。
その背中を、千春は熱い吐息を漏らしながら見送っていた。
千春は総二郎と会うと、何かと張り合うことが多い。
強気に言い返したり、稽古では殺気を込めて打ちかかったりと、より一層負けず嫌いに拍車がかかる。
しかしそれは、内に秘めた恋心の裏返しでもあった。
総二郎に認められたい、総二郎に褒められたい。
武芸には秀でているが、色恋にはとんと疎い千春である。
不器用に突っかかっていくことしかできないのだ。
それを知っている母の藤が、わざと裏庭に行かせたのだとも察していた。
母のお節介に頭を悩ませながらも、千春は膏薬の紙包みを胸にかき抱き、想いを募らせるのであった。
定廻り同心の小林源四郎と、岡っ引の仙吉ならば、喜んで役目を引き受けることだろう。
お志津を奉行所に走らせ、諸々の手配を済ませると、総二郎は八丁堀へと向かった。
稽古の約束もあったが、手首を痛めていた千春が心配になったのだ。
風森家には、同心たちが稽古をする道場がある。
千春は今頃、そこで木刀を振っているかもしれない。
無理をしていなければいいが、と思いながら、総二郎は風森家の門をくぐった。
「御免」
玄関で声をかけると、奥から女性が顔を出した。
風森多一郎の妻、藤である。
もう四十は超えているはずだが、見た目は若々しく、匂い立つような色気のある美女であった。
「まあ、和田様。ようこそいらっしゃいました」
「千春殿は戻られておりますか」
「はい、半刻ほど前に帰ってきておりますが」
「左様ですか。どこか痛むとか、そのようなことは申されておりませんでしたかな」
「いえ、特に何も。いつものように裏庭で木刀を振り回しているでしょうから、何か御用でしたら、どうぞ会っていってくださいませ」
藤は袖で口元を押さえながら笑い、道場の方を指差した。
総二郎は一礼して、庭先から道場へと向かう。
ぐるりと一周するように歩いていくと、裏庭のほうから水音が聞こえてきた。
「千春殿……」
そう言いかけた総二郎が、言葉に詰まった。
小袖を諸肌脱ぎにした千春が、背を向けて井戸水を汲み上げていたからだ。
千春は胸に巻いていた晒しを外し、美しい背中をあらわにする。
こちらには全く気づかない様子で、手拭いを絞って体を拭き始めた。
声をかける機会を逃した総二郎が、振り向いた千春と目を合わせたのは次の瞬間であった。
「そっ! 総二郎殿!」
「すまぬ、覗くつもりではなかったのだ」
慌てて小袖の襟をかき合わせる千春に、総二郎はくるりと背を向けた。
「先ほどの件で手首を痛めたようで心配になってな。藤殿が裏庭にいると仰せられたのだ」
「母上ったら……また……。もう……良いですよ、総二郎殿、こちらを向かれても」
頬をかきながら総二郎が振り向くと、千春は小袖をきちんと着込んでいた。
ただ、晒しを巻く余裕は無かったため、普段よりも胸元がふっくらと盛り上がっている。
「いや、誠に申し訳ないことをした」
「私のほうこそ、申し訳ありませぬ。母上が……いえ、何でもありません」
千春は晒しを丸めて袖に隠しながら言った。
肌を見られたことで、その頬は薄桃色に染まっている。
「千春殿、手の具合はどうかな」
「見抜かれておりましたか。少々痛みが……」
「ふむ、やはりな。こちらを使うといい。ここに来るついでに、山本周斎先生から頂いてきた膏薬だ。よく効くぞ」
総二郎は紙包みを千春に手渡した。
山本周斎は、八丁堀の近くに居を置く町医者で、荒事の多い奉行所の同心御用達である。
また、貧乏な長屋住まいの町人でも、分け隔てなく治療すると評判の名医であった。
「まあ、これはかたじけのうございます」
「力に力で対抗しようとしても、あのようなことになってしまう。千春殿は技が冴えておられるのだから、さらなる稽古が必要なようだ。手首が癒えたら、また稽古のお相手をいたそう」
「はい、ありがとうございます。しっかりと養生して、お声をかけさせていただきます」
千春は深々とお辞儀をした。
その拍子に胸元から白い肌が覗き、総二郎は内心で感嘆する。
千春自身は意識していないのかもしれないが、凛とした佇まいの中に溢れる色香はなかなかのものであった。
総二郎は一つ咳払いをし、千春に一礼をして、その場を立ち去る。
その背中を、千春は熱い吐息を漏らしながら見送っていた。
千春は総二郎と会うと、何かと張り合うことが多い。
強気に言い返したり、稽古では殺気を込めて打ちかかったりと、より一層負けず嫌いに拍車がかかる。
しかしそれは、内に秘めた恋心の裏返しでもあった。
総二郎に認められたい、総二郎に褒められたい。
武芸には秀でているが、色恋にはとんと疎い千春である。
不器用に突っかかっていくことしかできないのだ。
それを知っている母の藤が、わざと裏庭に行かせたのだとも察していた。
母のお節介に頭を悩ませながらも、千春は膏薬の紙包みを胸にかき抱き、想いを募らせるのであった。
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