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二章 潜入
八.人買いの市
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桜の蕾が綻び始める頃、総二郎とお志津は居酒屋、みの屋にいた。
八丁堀に近いことから、何かと繋ぎを取るのにも便利であり、総二郎には馴染みの店だ。
主人の美乃吉は四十近く、穏やかで気さくな男であり、妻のお妙は三十半ばの気が強い美女だ。
娘のお玉は十八になったばかりで、とても大人しく初心なことから、常連客にからかわれてばかりである。
お玉を困らせる客を、母のお妙が叱り飛ばしながら賑やかしているのが日常の店であった。
「いやぁ、美味かったっすー」
蕎麦を豪快にすすり、汁まで飲み干したお志津が、腹をぽんと叩いた。
そして、総二郎の食べている蕎麦の丼を、物言いたげな目で見つめる。
「ん? これか?」
蕎麦の上に載せられていた海苔を総二郎が箸で摘み上げると、お志津は大口を開けて飛びついた。
「んーっ! 美味えっ!」
じっくり味わうようにもぐもぐと頬を動かしながら、お志津は天真爛漫な笑顔になる。
みの屋では質の良い板海苔を使っており、何よりの大好物なのだ。
「みの屋さんの飯は何でも美味いなあ。はぁ……満腹満腹」
「まったく、仕方ないやつだな。ほれ、歯に海苔がついておるぞ」
「おっと……へへへっ」
総二郎が差し出した楊枝を受け取り、お志津はぽっと頬を染めた。
男装してはいても、こうして笑顔になっていれば、年頃の娘らしい顔をするのである。
「それにしても、お玉ちゃんのお品書き、また腕が上がってますね」
壁に貼られた紙を見回して、お志津が感心している。
みの屋は昼間に蕎麦、夜には酒の肴を出している店で、特徴的なのは全てのお品書きが絵で描かれている。
絵師に手習いへ通っているお玉が描いたものだ。
見ているだけで涎が出てきそうなほど活き活きと描かれており、みの屋の名物となっている。
可憐な看板娘のお玉と、そしてこのお品書きが評判となり、みの屋は繁盛していた。
「和田様……上に……」
丼を下げにきた美乃吉が、総二郎にそっと耳打ちをした。
総二郎は頷き、お志津を連れて二階に上がる。
そこには、町人に変装した津久根信兵衛が待っていた。
みの屋の二階には、一間の座敷がある。
ここは表口と裏口から上がれるようになっており、総二郎が繋ぎの連絡を受ける場所として使っていた。
信兵衛の前に総二郎が座り、その横にお志津が控える。
「信兵衛、首尾はいかがであったか」
「はっ、茶屋の娘を襲った黒幕については、杳として行方が知れませぬ。こちらは引き続き調べて参ります。ただ、以前お伝えした神隠しについて、『市』が開かれるという情報を掴みました」
「む……拐われた娘たちを売り買いする場……か」
「はい。最近はめっきり聞かなかったのですが、またぞろ動き出した者がいるようです」
江戸の世でも人身売買は、もちろんご法度である。
吉原や岡場所の遊女も、表向きは年季奉公という形をとっていた。
「江戸の好事家が集う、闇の市の模様です。開かれるのは明日の夜。本所の外れにある黒竜寺にて行われるとのことです。住職は嶽念といい、坊主の癖に飲む打つ買うばかりの破戒僧だとか。廃寺同然のあばら家のような寺とのことですが、普段は賭場も開かれる場所であると」」
「寺か、厄介だな。我らが出張るしかないようだ」
町奉行の管轄地は、江戸の町人地に限られる。
武家屋敷や、寺社には手を出すことができないのだ。
表の顔は奉行所の同心である総二郎だが、裏の顔は公儀隠密御庭番である。
このような事態にこそ、独自に動く権限を与えられていた。
「はい。つきましては、客を装って潜入するのが一番かと思い……」
信兵衛は懐から木札を二枚取り出した。
「こちらが、市に入るための手形となります」
どこから入手したのかは、特に語るべきところではない。
市井に溶け込んだ御庭番衆は、様々な伝手があるのである。
「市に入るには、女子を連れていかねばならぬそうです」
「女を……? 女を買うのに、女を連れていく理由などあるのか」
「はい。その市は、人買いの場であるだけでなく、客が連れてきた女子を自慢し合うという、一風変わったものになっておるそうで」
「ふむ……。そういうことであれば、葉月を連れていくか」
すると、横で聞いていたお志津が、総二郎のほうを向いた。
いつになく、真剣な眼差しである。
「旦那、そのお役目、あっしに是非とも」
「荒事になるやもしれぬ。何があるか分からんのだぞ」
「覚悟の上です。あっしは旦那の岡っ引です。こんなときにお役に立てなきゃ、死んだ親父に申し訳が立たねえ」
総二郎はしばらく考えたあと、深く頷いた。
「よし、分かった。お志津、お前の気持ちを汲んでやろう。ただし、どんなことがあっても動じたりせぬようにな」
「分かっております。しかと覚悟を決めて参ります」
「うむ。お前にとっては初めての大仕事だな」
「へいっ!」
意気揚々と頷くお志津を交えて、潜入の段取りについての話し合いが持たれた。
八丁堀に近いことから、何かと繋ぎを取るのにも便利であり、総二郎には馴染みの店だ。
主人の美乃吉は四十近く、穏やかで気さくな男であり、妻のお妙は三十半ばの気が強い美女だ。
娘のお玉は十八になったばかりで、とても大人しく初心なことから、常連客にからかわれてばかりである。
お玉を困らせる客を、母のお妙が叱り飛ばしながら賑やかしているのが日常の店であった。
「いやぁ、美味かったっすー」
蕎麦を豪快にすすり、汁まで飲み干したお志津が、腹をぽんと叩いた。
そして、総二郎の食べている蕎麦の丼を、物言いたげな目で見つめる。
「ん? これか?」
蕎麦の上に載せられていた海苔を総二郎が箸で摘み上げると、お志津は大口を開けて飛びついた。
「んーっ! 美味えっ!」
じっくり味わうようにもぐもぐと頬を動かしながら、お志津は天真爛漫な笑顔になる。
みの屋では質の良い板海苔を使っており、何よりの大好物なのだ。
「みの屋さんの飯は何でも美味いなあ。はぁ……満腹満腹」
「まったく、仕方ないやつだな。ほれ、歯に海苔がついておるぞ」
「おっと……へへへっ」
総二郎が差し出した楊枝を受け取り、お志津はぽっと頬を染めた。
男装してはいても、こうして笑顔になっていれば、年頃の娘らしい顔をするのである。
「それにしても、お玉ちゃんのお品書き、また腕が上がってますね」
壁に貼られた紙を見回して、お志津が感心している。
みの屋は昼間に蕎麦、夜には酒の肴を出している店で、特徴的なのは全てのお品書きが絵で描かれている。
絵師に手習いへ通っているお玉が描いたものだ。
見ているだけで涎が出てきそうなほど活き活きと描かれており、みの屋の名物となっている。
可憐な看板娘のお玉と、そしてこのお品書きが評判となり、みの屋は繁盛していた。
「和田様……上に……」
丼を下げにきた美乃吉が、総二郎にそっと耳打ちをした。
総二郎は頷き、お志津を連れて二階に上がる。
そこには、町人に変装した津久根信兵衛が待っていた。
みの屋の二階には、一間の座敷がある。
ここは表口と裏口から上がれるようになっており、総二郎が繋ぎの連絡を受ける場所として使っていた。
信兵衛の前に総二郎が座り、その横にお志津が控える。
「信兵衛、首尾はいかがであったか」
「はっ、茶屋の娘を襲った黒幕については、杳として行方が知れませぬ。こちらは引き続き調べて参ります。ただ、以前お伝えした神隠しについて、『市』が開かれるという情報を掴みました」
「む……拐われた娘たちを売り買いする場……か」
「はい。最近はめっきり聞かなかったのですが、またぞろ動き出した者がいるようです」
江戸の世でも人身売買は、もちろんご法度である。
吉原や岡場所の遊女も、表向きは年季奉公という形をとっていた。
「江戸の好事家が集う、闇の市の模様です。開かれるのは明日の夜。本所の外れにある黒竜寺にて行われるとのことです。住職は嶽念といい、坊主の癖に飲む打つ買うばかりの破戒僧だとか。廃寺同然のあばら家のような寺とのことですが、普段は賭場も開かれる場所であると」」
「寺か、厄介だな。我らが出張るしかないようだ」
町奉行の管轄地は、江戸の町人地に限られる。
武家屋敷や、寺社には手を出すことができないのだ。
表の顔は奉行所の同心である総二郎だが、裏の顔は公儀隠密御庭番である。
このような事態にこそ、独自に動く権限を与えられていた。
「はい。つきましては、客を装って潜入するのが一番かと思い……」
信兵衛は懐から木札を二枚取り出した。
「こちらが、市に入るための手形となります」
どこから入手したのかは、特に語るべきところではない。
市井に溶け込んだ御庭番衆は、様々な伝手があるのである。
「市に入るには、女子を連れていかねばならぬそうです」
「女を……? 女を買うのに、女を連れていく理由などあるのか」
「はい。その市は、人買いの場であるだけでなく、客が連れてきた女子を自慢し合うという、一風変わったものになっておるそうで」
「ふむ……。そういうことであれば、葉月を連れていくか」
すると、横で聞いていたお志津が、総二郎のほうを向いた。
いつになく、真剣な眼差しである。
「旦那、そのお役目、あっしに是非とも」
「荒事になるやもしれぬ。何があるか分からんのだぞ」
「覚悟の上です。あっしは旦那の岡っ引です。こんなときにお役に立てなきゃ、死んだ親父に申し訳が立たねえ」
総二郎はしばらく考えたあと、深く頷いた。
「よし、分かった。お志津、お前の気持ちを汲んでやろう。ただし、どんなことがあっても動じたりせぬようにな」
「分かっております。しかと覚悟を決めて参ります」
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