成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第5話:部活を辞められない

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 第3進路室のドアは半分だけ開いていた。

 廊下の向こう、グラウンドから笛の音が細く届く。夕方の湿った風に、土の匂いが混じる。

 相沢陸がプリントの束を抱えたまま、窓際の机に置いた。

「……まだやってんだな、サッカー部」

 桐生静は反省文の清書を止めずに、ペン先だけで窓の外を指した。

「残るのは自由。残った分、明日の席も消える」

「言い方」

「事実」

 内線電話が一度鳴り、静は受話器を取らずに、線を目で追った。壁の時計が刻む音が、妙に大きい。

 陸が顔をしかめる。

「教頭?」

「たぶん」

 静は反省文の紙を揃え、消去作業の写真と時間記録のファイルに挟んだ。机の端には「復旧期限」「作業内容」「再発防止」の見出しが並ぶ。遅刻ポスター案のラフも、クリップで留めてある。

 ドアがノックされた。

「……失礼します」

 入ってきたのは、伊東ケンだった。ジャージのまま。膝に土が乾いて白く残り、髪は汗で束になっている。呼吸がまだ落ちていない。

 静は顔を上げる。

「補欠の伊東」

 ケンが一瞬だけ眉を動かし、すぐに視線を落とした。

「……はい」

「座れ。椅子、壊すなよ」

 陸が「壊さねえよ」と小声で突っ込み、ケンは椅子に腰を下ろした。座っても、背中が落ち着かない。足がつま先で床を叩く。

 静は成績表のコピーを一枚、机の上に滑らせた。

「最下位」

 ケンの指が紙の端をつまむ。指先に、テーピングの跡がある。

「……すいません」

「謝る相手は点数じゃない。自分の時間だ」

 ケンは口を開いて、閉じた。

 陸が椅子を少し引いて、ケンの横から覗き込む。

「伊東、今日も最後まで残ったの?」

「……はい」

「補欠なのに?」

 ケンの肩がわずかに上がる。

「補欠だから、残るんすよ」

 静がペンを置いた。

「誰に言われた」

「……別に。自分で」

「自分で、毎日?」

 ケンは黙った。黙り方が、答えだった。

 静は机の引き出しから、出欠と課題提出のチェック表を出した。そこに赤が散っている。

「遅刻、週に二回。提出、抜ける。テストは白紙が混じる」

 ケンの喉が動く。

「……部活が……」

「部活のせいにするな。部活を選んでるのはお前だ」

 ケンが顔を上げた。目が濡れる手前で止まっている。

「じゃあ、どうすりゃいいんすか」

 静は声を落とした。

「現実は厳しい。だから道を増やす」

 陸が、少しだけ背筋を伸ばした。

 静はケンのジャージの胸元を見た。校名の刺繍が、汗で濃くなっている。

「伊東。辞めたくないのか」

 ケンは息を吸って、吐いた。

「……辞めたら、何も残んない」

「残る」

「残んないっすよ。俺、勉強できないし。家、帰っても……」

 言いかけて、口を噤む。

 静が追わない代わりに、机の上の成績表を指先で軽く叩いた。

「家、何か言われたな」

 ケンは視線をそらした。窓の外の笛が一度鳴り、遠くで誰かの歓声が上がる。

「……親父が。『どうせ補欠なら辞めろ。働け』って」

 陸が「うわ」と声にならない声を漏らした。

 ケンは早口になった。

「俺、別にプロとか思ってないっす。でも……毎日行かないと、置いてかれるし。行かなきゃ、ほんとに終わるし」

 静は頷かない。否定もしない。

「置いてかれるのが怖い?」

 ケンが歯を食いしばった。

「……はい」

 静が机の端にあった別の紙を引き寄せた。学校の進路資料。就職、専門、推薦の条件。出席日数と評定。

「伊東。今のまま行くと、どれも厳しい」

 ケンの指が椅子の縁を掴む。

「やっぱ、辞めろってことっすか」

「違う」

 静は紙を二つに分けるように、資料を左右に置いた。

「選択肢は三つある」

 ケンが顔を上げる。

「一つ。部活を辞めて、勉強と出席を立て直す。現実的。親が喜ぶ」

 ケンの目が死ぬ。

「二つ。部活を続けて、勉強は諦める。就職一本。親と話を詰める必要がある。学校は応援しない」

 陸が口を挟む。

「学校、応援しないって……」

 静が横目で陸を制した。

「ここは企業だ。進学実績が商品。数字にならない努力は、切られる」

 内線電話がまた鳴った。静は今度も取らない。ベルが止むまで、誰も動かなかった。

 ケンが小さく言った。

「……教頭っすか」

「そういう圧があるってこと」

 静は三つ目の紙を中央に置いた。白紙。

「三つ。部活を続ける。だけど『残り方』を変える」

 ケンが眉を寄せる。

「残り方?」

「毎日最後まで残ってるのに、補欠。なら、残る目的がズレてる」

 ケンの口が開く。

「ズレてないっす。走れって言われたら走るし、片付けも……」

「それは便利な人間の仕事だ」

 ケンの肩が硬直した。

 陸が「先生……」と小さく言う。

 静は言葉を緩めない。

「チームに必要なのは便利さじゃない。勝つための役割だ。伊東、お前は何ができる」

 ケンが即答できない。唇が動いて、音が出ない。

 静は机の引き出しから、メモ帳を出してケンの前に置いた。

「今、答えなくていい。聞く。お前、試合の映像、見てるか」

「……見てます」

「誰の動きが好きだ」

「……サイドバックの、上がり」

「理由」

 ケンは少しだけ息を整えた。

「……行って戻る。誰かがミスっても、穴埋めする。目立たないけど、いないとヤバい」

 静が目を細めた。笑わない。確認する目だ。

「穴埋めが得意?」

 ケンは頷きかけて、止めた。

「……でも、俺は足遅いし」

「足は鍛えろ。問題は、頭だ」

「頭?」

 静はペンを持ち、白紙に簡単なグラウンドの図を描いた。右サイド、左サイド。矢印。

「今のチーム、失点の形は?」

 ケンが反射で答えた。

「……カウンター。右が上がったとき、戻り切れなくて」

 陸が目を丸くする。

「覚えてんだ」

 ケンは気まずそうに目を逸らした。

「……見てるんで」

 静が矢印を一本追加する。

「じゃあ伊東。お前が補欠でも、毎日残ってるならできることがある。『見てる』を仕事にする」

 ケンが首を傾げる。

「どうやって」

「練習の終わりに、今日の失点と、良かった守備の場面を三つ。メモにして顧問かキャプテンに渡す。短く。具体的に」

「そんなの、うざくないっすか」

「うざいかどうかは、渡し方だ」

 静はメモ帳をケンの指の下に押し込んだ。

「『俺、補欠なんで、外から見えたことだけ書きました』って言え。上から目線にしない。感情じゃなく事実にする」

 ケンの指がメモ帳をぎゅっと掴む。

「……それで、試合出れるんすか」

 静は首を横に振る。

「保証はない」

 ケンの目が揺れる。

 静は続けた。

「でも、役割を作れ。残る理由を、自分で持て。そうすれば、部活が勉強を壊すんじゃなくて、部活が進路の材料になる」

 陸が口を開けたまま、静を見る。

「材料……?」

 静は陸に向けて言った。

「観察。記録。改善提案。チームの穴埋め。数字にならないけど、社会で使う」

 ケンが小さく笑った。笑ったというより、息が漏れた。

「……社会とか、急に」

「急だな。でも卒業は待ってくれない」

 静は成績表を指で弾く。

「現実として、評定を上げないと推薦は厳しい。一般も厳しい。だから、部活を続けるなら、最低限のラインを作る」

 ケンが身を乗り出した。

「最低限って」

 静は指を二本立てた。

「出席。提出。これだけは落とすな。テストの点は今すぐ跳ねない。でも白紙はやめろ。名前と、解けるとこだけでも埋めろ」

 ケンが頷く。早い。

 陸が横から言う。

「でもさ、練習終わりって遅いじゃん。提出とか、間に合う?」

 静は即答する。

「間に合わせるために、残り方を変える」

 ケンが「え」と言う。

 静は椅子から立ち、窓の外を指した。グラウンドの端、片付けの列ができている。

「最後まで残るのをやめろ。補欠の意地で残ってるなら、今すぐ捨てろ」

 ケンの顔が赤くなる。

「意地じゃ……」

「意地だ。誰にも評価されない残り方は、自己満足だ」

 ケンが立ち上がりかけて、拳を握ったまま止まる。

「……じゃあ、俺はどう見ればいいんすか。早く帰ったら、見れない」

 静は机の上の時計を指した。

「見る時間を決める。週に二回は最後まで。残りは途中で切り上げて、提出と睡眠に回す」

 ケンが噛みしめるように言う。

「週二……」

「毎日は続かない。続かないものは、武器にならない」

 内線がまた鳴った。今度は長い。静は受話器を取った。

「桐生です」

 受話器の向こうの声は聞こえないが、静の目が細くなる。

「……明日の報告書は、予定通り提出します。はい。ええ。復旧は期限内に」

 一拍。

「第3進路室の案件は、私の責任で処理します」

 静は受話器を置いた。ベルの余韻が、部屋に残る。

 陸が息を吐く。

「……怖」

 静はケンを見る。

「伊東。学校は待ってくれない。親も、部活も。どれか一つに全部賭けると、外したとき終わる」

 ケンが唇を噛む。視線がメモ帳に落ちる。

「……親父、話せって言われても、無理っす。どうせ『言い訳』って」

 静は机の引き出しから、面談申込書の用紙を出して、ケンの前に置いた。

「じゃあ、ここに親の電話番号。放課後に、学校から呼ぶ。お前の前で」

 ケンが目を見開く。

「え、やめてくださいよ」

「逃げるなら、道は増えない」

「だって……」

 静はペンをケンに渡した。

「言い合いになったら止める。条件を出す。『部活は週二で最後まで。提出は全部。欠席ゼロ。三週間』。それで様子を見る」

 ケンの手が震えたまま、ペン先が紙の上に止まる。

 陸が小さく言った。

「伊東、書けよ。……やるって言ったじゃん」

 ケンが陸を見た。目が泳いで、でも逸らさない。

「……お前、なんでそんな偉そうなんだよ」

「偉そうじゃねえよ。こっちも、いろいろ……」

 陸は言い切らずに口を閉じた。静の机の端にある、付箋だらけの議事録フォーマットが視界に入る。岸ユウの名前が小さく書かれている。

 ケンはそれを一瞬見て、また申込書に戻った。

「……先生。俺、ほんとに変われますか」

 静は答えを急がない。椅子に座り直し、反省文の束を整えた。

「変わるかどうかは知らない」

 ケンの肩が落ちる。

 静は続けた。

「でも、変わった証拠は残せる。記録と提出と出席。部活のメモ。三週間で、数字になる部分を作る」

 ケンのペンが、ゆっくり動き出した。電話番号を書き込む。途中で一度止まり、深く息を吸って、最後まで書いた。

 静が紙を受け取る。

「よし。今日は途中で帰れ。メモは明日から。まず寝ろ」

 ケンが立ち上がり、ドアの方へ行きかけて振り返った。

「……俺、最後まで残らないと、サボってるって言われません?」

 静は反射で言い返す。

「言われる」

 ケンの顔が強張る。

「でも、提出して、出席して、三週間続けたら、言う側が黙る。黙らないなら、次の手を考える」

 ケンは小さく頷き、ドアノブに手をかけた。

 廊下の向こうで、また笛が鳴る。片付けの声が近づいてくる。

 ケンが外に出る直前、陸が呼び止めた。

「伊東」

「何」

「……メモ、見せろよ。俺、そういうの、ちょっと興味ある」

 ケンは一瞬だけ口元を緩めた。

「……うぜ」

「うぜえでいい」

 ドアが閉まる。

 静は面談申込書をファイルに挟み、机の隅に置いた。明日の報告書の束の上に、重ねる。

 陸が静を見た。

「親、来ますかね」

 静は反省文の一枚を持ち上げ、文字の滲みを確かめた。

「来ないなら、電話でやる。逃げたら、伊東の道が一つ減る」

 陸が唇を噛んだ。

 内線が、また短く鳴った。

 静はペンを取り直し、清書の続きを始める。窓の外の夕焼けが、グラウンドの白線を薄く染めていく。

「陸」

「はい」

「明日、伊東の親に電話する時間、空けとけ。ついでに、消去作業の写真、もう一回並べ替える。教頭は細かい」

 陸が顔をしかめながらも、椅子を引いた。

「……はいはい。企業だもんな、この学校」

 静のペン先が紙を走る音が、部屋の中で淡々と続いた。


 ケンが帰っていった廊下に、片付け終わりの足音が流れていく。

 相沢陸は窓際で写真フォルダを開き、消去作業の画像を日付順に並べ替えていた。桐生静は反省文の清書を続ける。ペン先が止まるたび、内線の受話器が視界の端で光った気がした。

 ドアがもう一度ノックされた。

「失礼しまーす……」

 今度はサッカー部のジャージが二人分、影になって入ってきた。ひとりはケン。もうひとりは松葉杖だった。足首に固定具。顔は笑っているのに、肩の位置がぎこちない。

「桐生先生、でしたっけ」

 静が手を止める。

「そう。どっちが用」

 ケンが先に口を開く。

「……こいつ、河野。クラスは違うっす」

 松葉杖の河野が手を上げた。

「河野シンです。すみません、急に」

 陸が椅子を引いて、空いた場所を作った。

「座る? あ、松葉杖か」

「立ってる方が楽っす」

 河野は壁に背を預けた。ケンはその横で、いつもより黙っている。

 静は二人の足元を見る。河野の固定具の擦れ、ケンの靴紐の結び直した跡。

「何の話」

 河野が笑いを作った。

「伊東が、親に電話するとか言い出して。ビビってるんで、止めに来た」

 ケンが即座に言い返す。

「止めに来たんじゃねえよ」

「じゃあ何だよ」

「……確認」

 静が机の上の面談申込書を指で押さえたまま言う。

「確認って何を」

 ケンの目が泳いで、河野の固定具に落ちる。

「……俺が、部活、残り方変えるって言ったじゃないっすか」

「言った」

「それ、こいつに……迷惑かかる」

 河野が目を丸くする。

「は? 迷惑って何」

 静の視線がケンに刺さる。

「説明」

 ケンは口を開けて、閉じた。陸が黙ったまま、フォルダを閉じる音だけがした。

 河野が先に吐き出した。

「先生、伊東、変なんすよ。補欠のくせに毎日残るし、俺がケガしてから余計に」

 ケンが河野の袖を掴みかけて、やめた。

 静は言う。

「ケガ、いつ」

「夏の終わりっす。靭帯。全治、まだ……」

 河野は言葉を探して、視線を逸らした。松葉杖の先が床を小さく鳴らす。

 静はケンに戻る。

「伊東。お前の『辞めない理由』、それか」

 ケンの喉が動く。

「……俺、別に、いいんす」

「いいかどうかは聞いてない」

 静は椅子の背に手を置き、少しだけ身を乗り出した。

「補欠なのに毎日残る。家で揉める。成績が落ちる。そこまでして何してる」

 ケンの目が細くなる。怒りじゃない。何かを守るときの、固さだった。

「……河野のリハビリ、付き合ってる」

 河野が「言うなよ」と小さく笑った。

 ケンは止まらない。

「走れないから、メニュー一人だとサボるし。顧問も、ちゃんと見てないし」

「見てない、は言い過ぎだろ」

 河野が言うが、反論が弱い。

 ケンが続ける。

「放課後、グラウンドの端で、ラダーとか、チューブとか。俺、数える。フォーム見て、動画撮って。痛いとこ聞いて、メニュー変えるの、ネットで調べて」

 陸が思わず口を挟む。

「それ、部活の仕事じゃなくね?」

「……だからだよ」

 ケンが陸を睨む。

「誰もやんないから、俺がやるしかない」

 河野が口を尖らせる。

「俺、頼んでねーし」

 ケンが即座に返す。

「頼まれてねえのはわかってる」

 静はそこで一度、息を置いた。ケンの言葉の端に、責任の形が見える。自分で拾ったものを、落とせない目だ。

 静は河野に向けた。

「伊東に頼んだ?」

 河野が首を振る。

「頼んでないっす。最初、鬱陶しかったし。『補欠が偉そうに』って」

 ケンが鼻で笑う。

「言ってた」

 河野が照れ隠しに言い返す。

「でも、あいつ、毎日来るんすよ。俺、家帰ったら寝るだけで。リハビリ、マジでやめそうだった」

 静が短く言う。

「やめたら、どうなる」

 河野の視線が床に落ちる。

「……戻れないっす。多分」

 ケンが小さく言った。

「戻ってほしいんすよ」

 静はケンを見る。

「それが、辞められない理由」

 ケンは頷く。頷き方が、怖いほど真っ直ぐだった。

「俺が辞めたら、こいつ、やめる」

 河野が反射で否定する。

「やめねーよ」

「やめる」

「やめねーって」

 短い応酬が、息切れみたいに続いた。

 静が割って入る。

「河野。お前は、伊東が辞めたらやめる?」

 河野は答えない。答えない代わりに、松葉杖のグリップを強く握った。指が白くなる。

 静はそれを見て、机の上の面談申込書を裏返した。

「伊東。お前のやってること、部活の『残り方』としては正しい」

 ケンが目を上げる。

「……正しい?」

「ただし、続け方が間違ってる」

 河野が口を挟む。

「また説教っすか」

 静は河野を見て言う。

「説教なら簡単。これは調整」

 静は机の引き出しから学校の用紙を一枚出した。印字された「活動記録」のフォーマット。余白が多い。判子欄がある。

 陸が眉をひそめる。

「そんなの、あったっけ」

「ない。今作った」

 静は淡々と、ペンで項目を書き足す。「日時」「内容」「本人の目標」「指導者確認」。

 ケンが覗き込む。

「何すか、それ」

「お前のやってるリハビリ支援、部活の中で『仕事』にする」

 河野が目を見開く。

「仕事って……サッカー部で?」

「サッカー部で。顧問に判子を押させる」

 陸が思わず言う。

「顧問、押すかな」

 静は即答しない。代わりに、内線の受話器を見た。黒川の声が、まだ耳の奥に残っているようだった。

「学校は数字が好きだ。判子も好きだ」

 静は紙をケンの前に置く。

「伊東。毎日残るなら、これを残せ。『何をやったか』を残して、他人に渡せ」

 ケンが紙を指で押さえる。

「……これ、進路に使えるんすか」

「使える。就職でも専門でも。『チームのために自分の役割を作った』は強い」

 河野が口を尖らせる。

「じゃあ俺は、伊東の実績作りの道具?」

 空気が一段冷える。ケンが河野を見て、言い返そうとして止まる。

 静が言う。

「道具にしたくないなら、河野も書け」

 河野が「え」と声を漏らす。

「自分のリハビリ計画。今日できたこと。できなかったこと。伊東のメモと合わせて、顧問に出せ。二人の記録にする」

 陸が小さく言った。

「交換日記みたい」

 静が陸を見て言う。

「日記じゃない。証拠」

 河野が眉を寄せる。

「顧問、そんなの見ます?」

 静は肩をすくめる。

「見ないなら、次。キャプテン。マネージャー。保健室の先生。判子を押せる人は複数いる」

 ケンが唾を飲む。

「……先生、そこまでしてくれるんすか」

 静はケンの目を見て、言葉を短くする。

「お前が潰れるのは、こっちの都合が悪い。潰れたら、道が減る」

 ケンの口元が少しだけ動いた。笑いかけて、やめた。

 河野がぼそっと言う。

「伊東、寝てねーし。家でも揉めてるし。俺も、それ、知ってた」

 ケンが睨む。

「言うな」

 河野が言い返す。

「言うよ。先生に言わないと、お前、勝手に倒れる」

 静は二人の間に紙を差し出した。

「倒れる前に、役割を分ける」

 静は指を折る。

「伊東は週二回だけ、河野のリハビリに最後まで付き合う。残りは途中で切り上げて帰る」

 ケンが反射で言う。

「無理っす。河野、週二じゃ足りない」

 河野が即座に返す。

「足りる。てか、俺がやれよ」

「お前、サボる」

「サボんねーよ」

 また短い応酬。陸が「お前らさ」と言いかけて飲み込む。

 静が言う。

「河野。サボるかどうかじゃない。『サボれない仕組み』を作る」

 河野が黙る。

 静は活動記録の下に、さらに一行書いた。「自宅メニュー実施確認:本人署名」。

「家でやった分も書け。スマホで動画を撮って、伊東に送る。伊東は見るだけ。付き添いは週二」

 ケンが首を振る。

「見るだけじゃ……」

「見るだけで十分だ。『見る』を仕事にするって言ったのは、お前だろ」

 ケンは言葉を失って、紙を見つめた。

 河野が小さく笑った。

「先生、怖いっすね」

 静は笑わない。

「怖くしないと、お前らは続けない」

 内線が鳴った。短い一回。陸が肩をすくめ、静は受話器を取らずに立ち上がった。

「伊東。親への電話は予定通りやる。理由は変わらない。お前が家で潰れたら、河野のリハビリも止まる」

 ケンの顔が歪む。

「……親父、絶対、『他人の世話してる場合か』って」

 静が頷く。

「言うだろうな」

 ケンが拳を握る。

 静は机の上の活動記録を指で叩いた。

「だから、『他人の世話』じゃなくて、『部活の役割』にする。顧問の判子。学校の紙。数字の世界の言葉に翻訳する」

 陸が小さく言った。

「教頭、好きそうだもんな……判子」

 静は陸を見た。

「好きだ。だから使う」

 河野が一歩、松葉杖で前に出た。

「先生。俺、伊東が辞めたら……多分、やめます」

 言い終わって、河野は自分で驚いた顔をした。ケンが河野を見る。怒らない。目だけが揺れる。

 河野が続ける。

「情けないっすけど。……でも、やめたくない」

 静は短く言う。

「なら、伊東を縛るな。自分で続けろ」

 河野が頷く。

 ケンが息を吐き、活動記録を掴んだ。

「……これ、顧問に出します。明日」

 静は頷いた。

「出せ。顧問が渋ったら、ここに来い。判子の押せる大人を探す」

 ケンがドアに向かい、河野が後ろにつく。出ていく直前、ケンが振り返った。

「先生。俺、補欠でも……いていいっすか」

 静はペンを取り直し、反省文の束の一番上に戻した。

「いていいかどうかは、グラウンドが決める」

 一拍置いて、静は続けた。

「学校は、記録が決める」

 ケンが小さく頷いて出ていった。

 ドアが閉まり、部屋に静けさが戻る。陸がぽつりと言う。

「……あいつ、いいやつじゃん」

 静は反省文の見出しを指でなぞり、紙を揃えた。

「いいやつは潰れる。潰れない形にする」

 内線が、今度は長く鳴った。

 陸が顔をしかめる。

「出ないの?」

 静は反省文の束をファイルに挟み、写真と時間記録を重ねた。

「出る。明日まで待たせると、報告書が余計に面倒になる」

 静は受話器に手を伸ばしながら、陸に言った。

「陸。河野の担任、誰だ」

「……二年の、宮田先生?」

「呼べるなら呼べ。保健室も。判子のルートを増やす」

 陸が立ち上がる。

「マジで企業だな」

 静は受話器を取った。

「桐生です」

 受話器の向こうの声に、静の目が細くなる。反省文のファイルの角が、手の中で少しだけ軋んだ。


 翌日の放課後、グラウンドの土は乾いて白い粉を上げていた。

 桐生静は校舎裏の通路から、サッカー部の練習を眺めていた。隣に相沢陸。二人とも第3進路室のファイルを抱えたまま来ている。反省文と写真記録の束が重い。

 笛が鳴る。声が飛ぶ。

「切り替えろ! 次、次!」

 顧問の声はよく通った。結果を急かす声だ。

 陸が小さく言った。

「先生、来たのバレたら面倒じゃない?」

「バレてもいい。見に来ただけだ」

 静は視線を動かす。走ってるメンバーの中に、ケンはいない。外周の端でボールの空気を見ている。バッグからポンプを出し、針を刺し、黙々と回す。

 陸が眉をひそめる。

「……またそれ」

 静は言葉を挟まず、顧問の動きを見る。タイムを測り、メモを取り、声を荒げる。勝ちに行く顔だ。

 河野シンはグラウンドの端、ベンチ脇でチューブを引いている。ケンが時々目だけで確認する。近づかない。昨日決めた「見るだけ」の距離だ。

 練習が一段落し、水を飲む時間になる。

 顧問がベンチへ歩いてきた。顎に汗が光っている。視線が静と陸に一瞬だけ寄り、すぐに戻る。

「伊東!」

 ケンが即座に反応する。

「はい!」

 顧問がボトルをあおってから、空のクーラーボックスを足で軽く蹴った。

「氷、もうない。購買行って追加。あと、テーピングも。早く」

 ケンが頷く。

「わかりました」

 陸が思わず前に出そうになり、静が袖を掴んで止めた。

 顧問は続ける。

「ついでに河野の相手もな。あいつのリハビリ、適当になると困る。戻らないと戦力落ちる」

 河野がチューブを引く手を止めた。

「先生、俺、自分で——」

「口動かすな、足動かせ」

 顧問は河野を見ずに言い切った。

 河野の唇が閉じる。チューブがきしむ音だけが残る。

 ケンが「すぐ行きます」と言って走り出す。走り方が、用事をこなす走り方だった。

 陸が静の袖を振りほどく。

「何それ」

 静は低く言う。

「見ろ。今のが現場」

 陸が吐き捨てるように言った。

「雑用じゃん。部活ってそうなの?」

「そうのとこもある」

 陸が顧問の背中を睨む。

「河野のことも、『戦力』って。人だろ」

 静は陸を見ない。

「顧問は勝たないといけない。部活も数字だ。勝率、県大会、推薦。学校の看板になる」

 陸の顔が歪む。

「教頭みたい」

 静が一瞬だけ目を細める。

「似てる。学校はそういう構造で回ってる」

 顧問が今度は声を張った。

「一年! ボール拾い遅い! 伊東、見本見せろ!」

 ケンが戻ってくる途中で呼ばれ、方向を変えてボールの散らばる方へ走る。拾っては投げ、拾っては投げる。息が上がっても、返事は崩れない。

「はい!」

 陸が堪えきれず、通路から一歩出た。

「伊東!」

 ケンが振り返る。遠い。汗で目が細くなっている。

「……何?」

 陸が叫びたいのを飲み込んで、口を小さく動かす。

「それ、違うだろ」

 ケンは一瞬だけ目を逸らした。顧問の視線がこちらに飛ぶ前に、またボールへ向き直る。

 静が陸の肩を押して通路に戻した。

「今、喧嘩するな。伊東が損する」

 陸が食ってかかる。

「でもさ! あいつ、何も言わないじゃん!」

 静は短く返す。

「言ったら終わる場面もある」

 陸が唇を噛む。

「怒れないの、ズルい」

 静が陸を見た。

「怒れないのは、ズルじゃない。立場が弱い」

 顧問が笛を鳴らし直す。

「よし、次。紅白! 伊東、ボール補充。河野、チューブ終わったら裏でジョグ。伊東、付き添えよ」

 ケンが「はい」と答える。返事だけが立派だ。

 陸の手が震えている。拳を握って、開いて、また握る。

 静が言う。

「昨日の紙、出したかどうかが鍵だ」

「活動記録?」

「それ。顧問の判子がないと、伊東の役割は『ただの雑用』で終わる」

 陸が顧問の方を見る。

「判子、押すわけないじゃん。今の感じ」

 静は淡々と言った。

「押させる。押さないなら、別ルート」

 陸が眉を寄せる。

「別ルートって……保健室?」

「保健室、担任、キャプテン。河野のリハビリなら保健室が一番強い」

 陸が息を吐く。

「でも顧問、キレるよ。『勝つために余計なことするな』って」

 静は顧問の声を聞きながら言った。

「キレさせない言い方にする。『河野の復帰を早めたいので、記録を付けます。先生の指導が適切だった証拠になります』」

 陸が顔をしかめる。

「ずる」

「現実的」

 静は一歩、前に出た。通路の影からグラウンドの端へ。顧問に近づく距離ではない。だが、見える位置。

 顧問がちらりと静を見た。目が「何の用だ」と言っている。

 静は会釈だけして、止まった。

 顧問は視線を戻し、声を強めた。

「セットプレー! 集中! 点取れないと意味ないぞ!」

 陸が静の背中越しに、小声で言う。

「先生、今行くの?」

「今は行かない」

「じゃあいつ」

 静はグラウンドの端で走るケンを見る。河野の横を通り、チューブの位置を目で確認して、すぐ戻る。近づかない。昨日の約束を守っているのに、顧問の指示は増える。

 静が言った。

「練習が終わった瞬間。顧問が勝ち負けの話をしたがってるときに、勝ちの材料として出す」

 陸が「勝ちの材料」と繰り返す。

「伊東のやってることを、『勝ちに直結』って言える形にする。河野の復帰日数、メニューの継続率。数字にする」

 陸が黙る。納得じゃない顔のまま、でも考え始める顔になる。

 そのとき、グラウンドの反対側で小さなどよめきが起きた。紅白戦の接触。誰かが倒れた。

「うわ……」

 陸が身を乗り出す。

 倒れたのは一年だった。足を押さえている。顧問が駆け寄り、すぐに怒鳴った。

「立てるか! 立てないなら外! 次!」

 倒れた一年が首を振る。顧問が舌打ちして周りを見回す。

「誰か、保健室呼べ!」

 ケンが反射で走った。

「俺行きます!」

 顧問が手を振る。

「伊東、早く!」

 ケンは校舎へ向かって全力で走る。走りながら、河野の方を一瞬だけ見る。河野は動けない。松葉杖がある。

 陸が吐き捨てる。

「結局、便利に使われてる」

 静は顧問の方を見据えたまま言う。

「便利を、価値に変えろ。伊東本人が怒れないなら、仕組みで守る」

 陸が静を見た。

「仕組みって、また紙?」

「紙。記録。判子。あと、人」

 陸が眉を上げる。

「人?」

 静はグラウンドの外周に目を向けた。部活のマネージャーが救急セットを抱えて右往左往している。誰に聞けばいいかわからない顔だ。

「マネージャー。保健室。河野の担任。味方を増やす。顧問一人の機嫌に、伊東の一年を預けない」

 笛が鳴り、練習が再開する。倒れた一年はベンチに座らされ、顧問の声だけが飛ぶ。

 陸が唇を噛んで言った。

「……伊東、怒っていいのに」

 静は短く返した。

「怒るのは最後だ。先に、逃げ道を作る」

 校舎の方からケンが戻ってくる。保健室の先生を連れている。ケンは息を切らしながらも、顧問に何かを伝えた。顧問が頷き、保健室の先生が一年を見始める。

 静の視線が、ケンのポケットに移る。紙の角が少しだけ覗いている。昨日渡した活動記録だ。

 陸も気づいた。

「……持ってる」

 静が言う。

「出す気はある。出せる場を作る」

 陸が小さく頷いた、そのとき。

 静のスマホが震えた。画面に学校の番号。内線転送。

 陸が顔をしかめる。

「また?」

 静は画面を見て、息を一つ吐いた。黒川の影が、指先に絡む。

「第3進路室に戻る」

「今、いいとこじゃん」

「だから戻る。呼ばれてる」

 静はグラウンドから目を離さずに言った。

「陸。練習終わり、伊東をここに連れてこい。顧問に紙を出す前に、一回、文言を整える」

 陸が頷く。

「わかった。……言い方、ね」

 静は踵を返した。校舎へ向かう途中、笛の音が背中を押す。勝つための声が、負けそうなものを踏む音に聞こえた。


 第3進路室に戻ると、空気が硬かった。

 内線のランプが点滅している。机の上には天野ソラの反省文ファイル。写真と時間記録、遅刻ポスター案。岸ユウ用の付箋と議事録フォーマットも積まれたまま。

 桐生静が受話器を取る前に、ノックもなくドアが開いた。

 担任の佐伯が顔だけ出す。

「桐生先生、今いい?」

 静は受話器を置いた。

「短く」

 佐伯は室内の紙の山を見て鼻で笑う。

「相変わらず、帳簿作りが好きだね」

「好きじゃない。必要」

 佐伯は腕を組んだ。

「教頭、さっき職員室で言ってたよ。『第3進路室は問題の温床』って。明日の報告書、ミスるなってさ」

 静はファイルの角を揃えた。

「ミスらない」

 佐伯が続ける。

「で、伊東。あれ、どうするの。成績最下位、部活に逃げ。典型」

 静が顔を上げる。

「逃げてない。支えてる」

 佐伯が眉を上げる。

「支える? 雑用のこと?」

 静は言い返さず、ドアの方を見た。

「本人に聞け」

 佐伯が肩をすくめた。

「はいはい。私は授業の提出だけは落とすなって言っとく。……甘やかすと、後で潰れるからね」

 静が短く返す。

「甘やかさない」

 佐伯は去り際に言った。

「君の合理性、教頭には通じないよ」

 ドアが閉まり、内線の点滅だけが残った。

 静は受話器を取る。

「桐生です」

 向こうの声は聞こえない。静の返事だけが部屋に落ちる。

「……はい。明日、提出します。はい。ええ、規定通りに」

 一拍。

「第3進路室の判断は、私が持ちます」

 静は通話を切った。受話器を置く音が、少しだけ強くなった。

 相沢陸が顔をしかめる。

「絶対、圧だよな」

「圧はいつもある」

 静は机の端を叩いた。

「伊東を待つ。練習終わりだ」

 陸が時計を見る。

「あと十分くらい」

 静は天野ソラのファイルを閉じ、横に寄せた。代わりに白紙の進路メモを一枚出す。そこに「伊東ケン」とだけ書いた。

 ノック。

「……失礼します」

 ケンが入ってきた。ジャージのまま。汗は乾きかけているが、土はそのまま。ポケットから活動記録の紙が少し覗いている。

 陸が先に言った。

「お前、さっきも走らされてたじゃん」

 ケンは肩をすくめる。

「呼ばれたら行くっす」

 陸が苛立った声を抑えきれない。

「それがムカつくんだよ。言えよ」

 ケンが目を細める。

「言ったら、終わる」

 静が割って入る。

「座れ」

 ケンは椅子に座った。背もたれを使わない。いつでも立てる姿勢。

 静が活動記録を指した。

「出した?」

 ケンが首を振る。

「まだ。タイミングなくて」

 陸が言う。

「タイミング作れよ。あれじゃ一生雑用だぞ」

 ケンが陸を見て、言い返す。

「雑用でも、必要ならやる」

 陸が机を叩きそうになって止めた。

 静はケンの言葉を拾う。

「必要ならやる。そこが、お前の強みだ」

 ケンが一瞬、戸惑う。

「強み……?」

 静はペンを持ち、進路メモに短く書き足す。「観察」「記録」「継続」「支援」。

「お前は、支える側に回れる。しかも、黙って続けられる」

 ケンが目を伏せる。

「黙ってるのは……怖いだけっす」

 静は頷かない。否定もしない。

「怖くても動ける。そこが仕事になる」

 陸が眉を寄せる。

「仕事って、また進路の話?」

 静が言う。

「そう。部活を辞めないなら、部活を進路に使う」

 ケンが小さく言う。

「俺、サッカーで食うとか、無理っす」

「サッカー選手の話じゃない」

 静は机の引き出しから進路資料を出した。専門学校のパンフレット、求人票の控え、職業ガイド。表紙に「スポーツ」「医療」「福祉」の文字がある。

 ケンの視線が動く。

「……何すか、それ」

 静は一冊目を開いた。

「スポーツトレーナー。資格が必要なものもある。国家資格も民間もある。現実として、学費がかかる」

 ケンが顔を上げる。

「学費……」

 静は続ける。

「二つ目。介護。ここは人手不足で求人が多い。ただし、楽じゃない。体力も要るし、夜勤もある」

 ケンの指がパンフの端をつまむ。

「俺、介護とか……できるんすか」

 静は言い切らない。

「向き不向きはある。でも、お前は『相手が続けられる形』を考えた。河野のメニューを調べた。痛い場所を聞いた。無理させないように距離を変えた」

 ケンの喉が動く。

「……あれ、勝手に」

「勝手にできるなら、仕事で伸びる」

 陸が口を挟む。

「でもさ、トレーナーってかっこいいけど、どうやってなるの。ケン、勉強苦手だぞ」

 ケンが反射で言う。

「言うな」

 静が陸を止めない。

「陸の言う通り。簡単じゃない」

 静は三冊目を出した。部活動支援、運営スタッフ、スポーツ施設の求人例。

「三つ目。チーム運営。マネージャー業務、施設スタッフ、指導補助。資格がなくても入れる入口がある。正社員じゃなくても、まず現場に入る道がある」

 ケンが目を細める。

「……運営って、俺みたいな雑用?」

 陸が「ほら」と言いかけて、静に睨まれて黙る。

 静は言った。

「雑用で終わるか、運営になるかは、記録と説明で変わる」

 静は活動記録の紙を取り上げ、項目を指でなぞった。

「これ。伊東がやってるのは『作業』じゃなくて『支援の設計』だ。誰が、どこまで、何をやったか。続けられる形にしたか。事故を防いだか」

 ケンが小さく言う。

「事故……」

 静は頷く。

「今日、ケガ人出た。保健室呼んだの、お前だな」

 ケンが頷く。

「はい」

 静は続ける。

「そのとき、お前は『何が起きたか』を見て、動いた。これは現場で評価される」

 陸が歯噛みする。

「顧問は評価しないけどな」

 静は即答した。

「顧問が評価しなくてもいい。評価する場所を増やす」

 ケンが静を見た。

「増やす……」

 静は机の上の紙を二枚に分けた。一枚は活動記録。もう一枚は「保健室提出用」のメモ。

「明日、保健室に行け。今日の一年のケガの経過も含めて、『部活内のケガ対応の流れ』を確認する。保健室の先生に、この活動記録にサインをもらう」

 ケンが目を見開く。

「保健室に?」

「顧問が判子を渋るなら、保健室のサインで外堀を埋める。顧問が『勝ちたい』なら、ケガ人を減らす仕組みは無視できない」

 陸が小さく息を吐く。

「……うわ、強い」

 ケンが不安そうに言う。

「でも、顧問、怒るっす。『余計なことすんな』って」

 静は淡々と言う。

「怒る。だから言い方を用意する」

 静はペンを走らせ、短い文を紙に書いた。

「『河野の復帰を早めたいので、先生の指導内容を整理して記録します。ケガ人が出たときの対応も、共有したいです』」

 ケンがそれを読む。何度か口の中でなぞる。

 陸が言う。

「それなら、顧問の手柄になるもんな」

 静が頷く。

「顧問の価値観に合わせる。勝ちのため。学校のため。数字のため。そう言えば通る確率が上がる」

 ケンが小さく笑う。笑いというより、諦めに近い息。

「……大人って」

 静は答えない。代わりに、別の紙を引き寄せた。面談申込書。

「それと、親への電話。今日、やる」

 ケンの背中が固くなる。

「今……?」

「今。逃げる時間を与えると、逃げる」

 陸がケンを見て言った。

「俺、外出る?」

 ケンが首を振る。

「……いて」

 陸が黙って頷いた。

 静は電話機を引き寄せ、番号を押す。コール音。ケンの膝が小刻みに揺れる。陸がそれを見て、視線を逸らした。

「はい、伊東です」

 男の声。低い。短い。

 静は名乗る。

「桐生です。担任ではなく、進路の桐生。お時間よろしいですか」

「……用件は」

 静は間を取らない。

「伊東ケンさんの放課後の過ごし方と、今後の進路の話です。ご本人も同席しています」

 ケンが唇を噛む。

 受話器の向こうが少し黙り、息が混じった。

「……部活の話なら、もう言った。補欠なら辞めろ。家の金は無限じゃない」

 静は一枚の紙を机に置き、指で押さえた。活動記録の空欄。

「辞めるか続けるか、二択にしない話をします」

「二択でいい。続けても結果が出ないなら無駄だ」

 静の声は変わらない。

「結果を、試合出場だけにしない。ケンさんは今、ケガした部員のリハビリに伴走して、練習の記録も取っています。今日もケガ人対応で保健室を呼びました」

「……それが何の得になる」

 静が言う。

「進路の得になります。スポーツトレーナー、介護、チーム運営。『支える力』は仕事になる。ただし、条件があります」

 父親の声が少し強くなる。

「条件?」

 静は淡々と、机のチェック表を指で叩く。

「出席と提出。三週間、崩さない。白紙答案をやめる。部活は週二回だけ最後まで。残りは切り上げて睡眠と課題に回す」

「そんな都合よくできるのか」

 静は答える。

「できなければ、辞める選択肢も残します。私は保証しません。記録を残して、判断材料を増やします」

 受話器の向こうが黙る。

 その沈黙の間、ケンは身じろぎもできない。手が膝の上で握られたまま、ほどけない。

 父親が言った。

「……金の話はどうする」

 静はすぐ返す。

「学費がかかる進路は、奨学金や給付型、分納も含めて調べます。ただし成績や出席が条件になる場合が多い。だから最低限を作る」

 父親の声が少し低くなる。

「本人は、何がしたい」

 静はケンに受話器を差し出した。

 ケンの指が受話器に触れ、引っ込めて、もう一度触れる。最後にしっかり掴んだ。

「……俺、辞めたくない。サッカーじゃなくて……チーム」

 父親がすぐ返す。

「意味がわからん」

 ケンが喉を鳴らす。

「河野が、戻りたいって。俺がいないと、やめる。俺も、やめたら……何も残んない」

 陸が机の端を見つめたまま、息を止めている。

 父親が吐き捨てるように言う。

「他人の人生背負うな。自分の責任も取れないくせに」

 ケンの顔が一瞬で硬くなる。言い返す言葉が喉で詰まる。

 静が受話器を戻して言った。

「背負わせません。役割を分けます。河野さん本人にも記録を付けさせます。伊東さんが潰れない形にします」

 父親の声が少しだけ弱まる。

「……三週間で、何が変わる」

 静は言う。

「変わるかどうかは分かりません。でも、変わらなかった証拠も残る。次の判断が早くなる」

「……わかった。三週間だけだ」

 静は短く返す。

「ありがとうございます。三週間後、もう一度お電話します。途中経過は、こちらから連絡します」

 電話が切れる。

 受話器を置いた瞬間、ケンの息が一気に漏れた。肩が落ちる。陸がやっと呼吸をしたみたいに、鼻で息を吐いた。

 ケンが小さく言う。

「……三週間だけ、って」

 静は机の上の活動記録をケンに返す。

「三週間で、道を増やせ」

 ケンが紙を握る。指先に力が戻る。

 陸が言った。

「で、ケン。明日、保健室行くんだろ」

「……行く」

 静が言う。

「その前に、顧問に出す文言をもう一回練る。顧問は結果しか見ない。結果に繋がる言葉で、支える仕事を通す」

 ケンが頷く。

 ドアの外で足音が止まり、誰かが通り過ぎた。職員室の方向。黒川の影が、紙の山の上をもう一度なぞる。

 静は天野ソラのファイルに手を伸ばし、ケンの活動記録の横に並べた。

「今夜は帰って寝ろ。明日、勝負が二つある。報告書と、顧問の判子」

 陸が苦い顔で笑う。

「どっちも判子かよ」

 静は笑わない。

「この学校では、それが現実だ」

 ケンが立ち上がり、活動記録を胸の内側にしまった。ドアノブに手をかけて振り返る。

「先生。俺、……支えるの、仕事にできるんすか」

 静は反省文の束を揃えながら、視線だけで答えた。

「できる形にする。できないなら、別の形にする」

 ケンは頷いて出ていった。

 陸が静に言う。

「次、顧問と当たるんだよな」

 静はファイルを抱え直す。

「当たる。負けるかもしれない。でも、当てに行く」

 内線のランプが、また点滅し始めた。


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