成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第6話:クラスの嫌われ者

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 第3進路室の机は紙で埋まっていた。反省文の下書き、作業写真、時間記録のコピー。静はホチキスを止め、端を揃える。陸がスマホのタイマー履歴を見せながら、紙に鉛筆で数字を書き足した。

「ここ、昨日の分。二十三時四十七分で切れてる」
「切れた理由も書いとけ。途中で帰ったって言われたら終わる」

 内線が短く鳴る。静が取る前に、陸が目だけで「また?」と訊いた。静は受話器を上げた。

「桐生です」
『明日の報告書で決着だ。余計な揉め事を増やすなよ』

 黒川の声は、受話器越しでも冷たい。静は「はい」とだけ返して切った。机に戻ると、陸が唇を尖らせた。

「余計な揉め事って、こっちが増やしてるみたいに言う」
「学校はそういう言い方する。だから、こっちは言い返せる材料を揃える」

 ドアがノックもなく開いた。廊下のざわめきが一瞬だけ流れ込む。そこに立っていたのは女子生徒だった。髪は肩で跳ね、制服の襟元が少し乱れている。目が鋭い。けれど、教室で見たときの鋭さとは違う。刃の向きが定まっていない。

 陸が小声で言った。「……北条」

 北条ナツは、室内を一瞥してから言った。

「ここ、落ちこぼれの相談室?」
「進路室。第三だけどな」静は椅子を一つ指した。「座る? 立ったままでもいい」

 ナツは椅子に触れず、壁際に寄りかかった。

「進路とか、ないし」
「あるかないかは、話してから決める」

 ナツは鼻で笑った。

「話したら、また晒される」
「ここで話したことは、勝手に外に出さない。出すなら、本人に確認する」

「へえ。先生が保証?」
「保証できるのは、私の口と記録だけ。SNSは保証できない」

 その言い方に、ナツの目が少しだけ動いた。陸が机の端にスマホを伏せて置き、距離を取る。

 ナツは言った。

「私、炎上した」
「知ってる」
「早いね」
「廊下で聞こえる。教室も、職員室も」

 ナツは笑った。笑いは短く、乾いていた。

「じゃあ、先生も思ってんでしょ。『自業自得』って」
「自業自得で片付けたら、明日からの席が空くわけじゃない」

 ナツは壁から離れて、一歩だけ前に出た。

「席、空いてるよ。隣の子、机ずらしたし」
「それで、ここに来た」
「来るつもりなかった。担任が『第三行け』って。追い出し口」

 静は書類の山を一度だけ見た。反省文の束。期限の赤線。戻して、ナツを見る。

「担任の言い方は雑だな。でも、来たのは正解。今は教室の空気が、君の味方じゃない」
「味方にしなくていい。あいつら、薄っぺらい」

「薄っぺらいって言ったの、SNS?」
 ナツの口角が引きつった。

「……言った」
「誰に向けて」
「クラスに。っていうか、全体に」

 陸が喉を鳴らした。静は陸の方を見ずに言う。

「言葉は戻らない。消してもスクショが残る。ここまでが現実」

 ナツが睨む。

「説教?」
「整理だ。次の現実は、君が一人で抱えると、学校が『問題生徒』にまとめるってこと」
「まとめれば?」
「まとめられたら、進路で不利になる。推薦はまず落ちる。欠席が増えたら、就職も厳しい」

 ナツは肩をすくめた。

「別に。どうせ、頭良くないし」
「成績は?」
「中の下。提出は出してる」
「出せてるなら、落ちる理由は成績じゃなくなる。今のままだと『人間関係』で落ちる」

 ナツが言葉を詰まらせた。代わりに、強く吐き捨てる。

「人間関係って。こっちが合わせろってこと?」
「合わせろとは言わない。合わせないなら、別の土俵を作る」

 陸が思わず口を挟む。

「別の土俵って、何すか」
 静は陸に目を向けた。

「今、北条が教室で戦っても勝ち目が薄い。なら、教室以外に居場所と評価を作る。学校の中でも外でも」

 ナツが鼻で笑う。

「先生、都合いいこと言う。居場所なんて、簡単にできない」
「簡単じゃない。だから手順が要る」

 静は机の引き出しから、白い紙を一枚出した。メモ用紙ではなく、提出用の罫線入り。ペンを置く。

「北条。まず、今の火種を把握する。何を書いて、誰が拾って、どこで広がった」
「そんなの……」
「『そんなの』で済ませると、学校は『反省してない』って判断する。黒川教頭は特に、そこを見る」

 教頭の名前で、ナツの視線が一瞬泳いだ。

「教頭、私のこと知ってんの?」
「名前はもう上がってると思う。放っておくと、明日か明後日、担任経由で呼び出しが来る」
「最悪」

 静は紙を指で押さえた。

「最悪を、もっと悪くしない方法はある。『謝る』か『黙る』か、じゃない。状況を切り分ける」
「切り分け?」
「君が言いたかったことと、言い方と、受け取られ方。全部別物だ」

 ナツは唇を噛んだ。

「言いたかったことは……あるよ。あるけど、言ったらまた『性格悪い』ってなる」
「もうなってる。だから、言い方を変える。言う相手を変える。場所を変える」

 陸が小さく言う。

「……逃げじゃないっすか」
 ナツがすぐ反応した。

「ほら。そういうこと。逃げって言われる」
 静は陸を見たまま言った。

「逃げじゃない。戦場を選ぶってこと」
「でも、負けたみたいじゃん」陸が食い下がる。
「勝つために引くのは、負けじゃない。引かずに全部失う方が、後で取り返せない」

 ナツが陸を見た。鋭い目が、少しだけ柔らぐ。けれどすぐにまた棘が戻る。

「……先生、そういうの、上手い」
「上手いのは、言葉だけにしないためだ」

 静は紙に線を引くように、指で三つ区切った。

「一つ目。今、学校側に出す“形”。反省文じゃない。説明文だ」
「説明文?」
「何が起きたか、何が問題だったか、今後どうするか。短く。感情語は入れない」

 ナツが眉をひそめる。

「感情語、入れないとか無理」
「入れたくなるのは分かる。でも入れると、相手はそこだけ拾って攻撃する。君の今の状況だと特に」

 ナツは黙った。机の上の写真や記録の束を見て、視線が止まる。

「……それ、何」
「別件。壁画の復旧の報告」
「先生、なんかやらかしたの?」
「やらかした生徒がいる。私は尻拭いじゃない。道筋を作ってる」

 ナツは鼻で笑ったが、さっきより音が低かった。

「二つ目」静は続ける。「SNS。今すぐやることは二つ。追加の投稿はしない。謝罪文を投げない」
「謝らないの?」
「今は、謝罪が燃料になることがある。謝るなら、相手と場所を選ぶ。クラス全体に投げるのは危険」

 ナツの指が制服の袖口を握った。

「じゃあ、どうすんの」
「担任と、私と、北条で話す場を作る。そこで『学校としての対応』を決める。君が勝手に動くと、学校は『管理できない』って判断する」

 ナツが吐き捨てる。

「管理。ほんと、学校ってそう」
「そうだよ。だから、利用する」

 陸が机を軽く叩いた。

「利用って……」
 静は陸を見る。

「学校の仕組みを使って、北条の首を守る。今はそれが先」

 ナツが小さく言った。

「首って……」
「退学とかじゃない。孤立で欠席が増えて、単位落として、選択肢が消える。そういう首」

 ナツは目を逸らした。窓の外にグラウンドが見える。部活の声が遠い。自分とは別の世界みたいに。

 静は最後の区切りを指した。

「三つ目。北条の“得意”を、教室以外で形にする。君、何が得意」
「……ない」
「ないは嘘。毒舌って言われるくらい、言葉が出る。観察もできる。じゃなきゃ刺さらない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてない。武器だと言ってる」

 ナツが笑いかけて、やめた。

「武器って言い方、嫌」
「嫌でも現実。武器があるなら、使い方を変える」

 陸がナツの顔を見て、少し探るように言った。

「北条、文章とか書くの、早いよな。国語の小テスト、いつも埋まってる」
 ナツが即座に返す。

「見てんの、キモ」
「見るだろ」陸がむっとする。「同じクラスだし」
「だから薄っぺらいって言ったの。そういうとこ」
「お前が棘出すからだろ!」

 空気が張った。静は二人の間に、紙を滑らせた。

「今の会話。北条の言い方は刺さる。陸の言い方は雑。これ、どっちも直せる」
「直す必要ある?」ナツが挑む。
「ある。直さないと、君が損する」
「損得で生きてないし」
「損得で生きてない人ほど、損する」

 ナツの喉が動く。言い返そうとして、言葉を探している。

 静はペンを取って、紙の上に短く書いた。

「『事実/意図/次から』。この三つで、明日の朝までに二百字。ここで書け」
「今?」
「今。家に帰ったら、スマホ触る。触ったら燃える。燃えたら明日、教頭の机の上に君の名前が乗る」

 ナツの目が細くなった。

「脅し」
「予告。現実はそう動く」

 ナツは椅子を引いた。座る動作は乱暴だったが、座ったこと自体が選択だった。ペンを握る手が震えているのを、本人は隠そうと肘で押さえた。

「二百字とか、余裕」
「余裕なら、丁寧に書け」

 陸が机の端から消しゴムを転がして差し出した。

「……これ」
 ナツは受け取らず、目だけで見た。

「いらない」
「いらないならいい」陸は引っ込めたが、机の上に置いたままにした。

 ナツが紙に一行目を書き始める。ペン先が止まる。消しゴムに手が伸びて、引っ込む。もう一度伸びて、今度は掴んだ。

 静はその手元を見ながら、机の端に置いてあった別の書類を一枚引き寄せた。壁画復旧の報告書の表紙。赤字で「明日提出」とある。

 陸が小声で言った。

「先生、これ、間に合う?」
「間に合わせる。間に合わせないと、こっちの部屋が消える」

 ナツがペンを止めた。

「部屋、消えるの?」
「消される可能性はある」
「……私のせい?」
「君のせいじゃない。学校の都合だ」

 ナツは紙に視線を戻し、二行目を書いた。さっきより字が整う。

 静は椅子を引いて立ち上がり、ドアの方へ行く。

「陸、保健室行って、岸の付箋と議事録の続き、今日分もらってきて。ついでに、担任に北条の件、放課後の時間押さえたいって伝えろ。場所はここ」
「今からっすか」
「今。明日が来る」

 陸が立ち上がり、ドアを開ける。廊下のざわめきがまた入ってくる。誰かが「北条、どこ行った?」と笑い混じりに言う声がする。陸の肩が一瞬固まる。

 静が低く言った。

「聞こえた?」
 陸は頷いた。

「聞こえたなら、急げ。聞こえないふりをする時間は、今はない」

 陸が廊下へ出て、ドアが閉まる。

 部屋に残ったのは、紙の擦れる音と、ナツの呼吸だけだった。ナツは二百字の半分もいかないところで、ペンを置いた。

「先生」
「なに」
「……これ、出したら、クラスのやつら、また笑うよ」
「笑う。たぶんな」
「じゃあ意味ない」
「意味はある。学校が『対応した』って記録が残る。君が『放置された問題』にならない」

 ナツの指が紙の端をつまむ。破り捨てるには、弱すぎる力だった。

 静は机の上の写真の束を整え直した。

「北条。君がクラスに好かれる必要はない。でも、卒業までは同じ箱にいる。箱の中で窒息しない工夫をする」
「工夫って、惨め」
「惨めでも、息ができる方がいい」

 ナツはペンを取り直した。三つ目の区切りに、ぎこちなく言葉を書き足していく。

 廊下の向こうで、また内線が鳴る音がした。別の職員室の電話だ。黒川の影が、壁越しに伸びてくるみたいに、静の背中を押した。

 静は時計を見た。放課後まで、あと四十分。

「書けたら、私が読んで、担任に見せる用に整える」
「勝手に直すなよ」
「直す。君が損しないように直す」
「……ムカつく」
「ムカついたまま、字を丁寧に」

 ナツのペン先が、紙の上を走り出した。まだ途切れ途切れだが、消しゴムを使う回数が増えた。

 静はドアの外に耳を澄ませた。陸の足音が遠ざかる。次に戻ってくるとき、担任の反応も一緒に連れてくるだろう。

 その瞬間に備えて、静は机の上の空いたスペースを作り始めた。北条の二百字が置かれる場所を、先に確保しておくために。


 ナツの二百字は、最後の一行だけ妙に小さかった。

 静が紙を受け取ると、インクの匂いがまだ新しい。机の端に置き、指で行を追う。ナツは椅子に浅く腰掛け、足先で床を擦っていた。

「読むなよ、って言っても読むんでしょ」
「読む。担任に出すなら、なおさら」

 静は声に出さずに読み切り、紙を裏返さずにそのまま置いた。

「事実は書けてる。意図も薄く入ってる。『次から』が弱い」
「弱くていい。次とか、知らないし」
「知らないで済むなら、炎上してない」

 ナツが鼻で笑う。

「炎上って言うな」
「呼び方変えても、状況は変わらない」

 静はペンを取り、余白に小さく線を引いた。

「これ、どこで誰が怒った」
「知らない」
「知らないなら、推測する」
「推測で謝れって? 適当じゃん」
「適当じゃない。相手が何に刺さったかを当てるのは、君の得意だ」

 ナツの視線が一瞬、静のペン先に落ちた。

「得意とか言うな」
「じゃあ、事実。君、クラスの人間をよく見てる」

「見てない」
「見てる」

 静は紙を軽く叩いた。

「ここ。『昼休み、机を囲んで笑ってるけど、話題が誰かの悪口に切り替わるのが早い』。これ、観察してないと出ない」
「普通じゃん」
「普通じゃない。気づかない奴は気づかない」

 ナツは口を尖らせた。

「だから何。気づいたからって偉くないし」
「偉いかどうかはどうでもいい。君の言葉が当たる理由だ」

 ナツの肩が僅かに上がった。すぐに落ちる。

「当たるって、ただの悪口」
「悪口で当てるやつは、的を見てる。見てるから当たる」

 ナツが笑う。短く、刺すように。

「先生、褒めてんの? キモい」
「褒めてない。危険だって言ってる」

 静は椅子を引き寄せ、ナツと同じ目線に落とした。

「君の言葉は、ナイフみたいに切れる。切れるのは才能。でも、人に向けたら血が出る」
「血が出るとか、大げさ」
「大げさじゃない。言われた側は、忘れない」

 ナツが足を止めた。目だけで静を睨む。

「忘れないのは、あいつらが弱いからでしょ」
「弱いからじゃない。人は、自分が大事にしてるところを刺されると痛い」

「大事にしてるなら、守れよ」
「守れるなら、最初から傷つかない」

 静の言葉に、ナツの目がほんの少し揺れた。すぐに固めるように瞬きをする。

「……私、別に誰かを傷つけたくて言ったわけじゃない」
「じゃあ、何で言った」
「うるさいから」
「うるさいって、何が」

 ナツが舌打ちしそうになって、飲み込んだ。

「綺麗事。『みんな仲良く』とか。『空気読め』とか。読んだ結果がこれじゃん」
「君は空気を読んだ。読んだ上で、殴った」
「殴ってない」
「言葉で殴った」

 ナツが立ち上がりかけ、椅子が床を鳴らした。静は動かなかった。目だけで追う。

 ナツは座り直す。指が制服のボタンを触り、外しかけて戻す。

「殴ったって言うなら、向こうも殴ってきた」
「殴り返しは分かる。でも、殴り方を選ばないと、勝てない」

「勝つとか興味ない」
「興味ないなら、今ここにいない」

 ナツが黙る。沈黙が長くなりそうなところで、ドアがノックされた。

「失礼します」

 陸が顔を出した。片手に封筒、もう片手に数枚のプリント。息が少し上がっている。

「岸の付箋と議事録、今日の分もらってきた。あと、担任……今、職員室でピリピリしてる」
「黒川?」
 陸が頷く。

「教頭が『第三の案件は明日までに整理』って。壁画の件、回ってる。担任も、今それで捕まってて」
 静は机の上の反省文の束を見た。赤字の「明日提出」が目に刺さる。

「北条の件、放課後の時間は押さえられた?」
「押さえた。……けど、担任、言い方きつい。『北条は被害者面してる』って」

 ナツの頬が引きつった。視線が床に落ちる。

 静は陸からプリントを受け取り、封筒は机の端に置いた。

「岸のはあとで。今は北条」

 陸がナツを見て、言いにくそうに言った。

「……担任、第三でやるの嫌がってた。『また第3が甘やかす』って」
 ナツが顔を上げる。

「甘やかす? どこが」
 陸は言葉に詰まり、静を見る。

 静が代わりに言った。

「甘やかしじゃない。火消しの手順を踏むだけ」
「火消しって、私が火つけたって言いたい?」
「火はついた。つけたかどうかの議論は、あとでもできる」

 ナツが拳を握った。指先が白くなる。

「私は……正しいこと言っただけ」
「正しいかどうかと、傷つけたかどうかは別」

「別じゃない。正しいなら、傷ついても仕方ない」
「その理屈だと、君が今傷ついてるのも仕方ないことになる」

 ナツの口が開き、閉じる。言い返す言葉が見つからない。代わりに、椅子の背を強く掴んだ。

 静は紙を指で押さえ、余白に短い文言を二つ書いた。

「『相手を特定しない』と、『今後は担任を通して伝える』。これ入れる」
「……嫌」
「嫌でも入れる。学校に出す文だ。君の感情の発散じゃない」

「私の言葉、奪うの?」
「奪わない。使い分ける。学校に出す言葉と、君が考える言葉は別」

 ナツが睨む。

「じゃあ、考える言葉って何」
 静はペンを置き、ナツの目を外さない。

「観察と分析。君の毒は、それが混ざってる。混ざると強いけど、刺さる」
「混ざってない」
「混ざってる。例えばさっきの『話題の切り替えが早い』。分析だ」

 ナツが唇を噛む。

「……そんなの、誰でもできる」
「できない。できるのは、見てる人間だけ」

 陸が小さく言った。

「北条、教科書の余白に、先生の口癖とかメモってるだろ」
「してない!」
「してるって。前に国語で、先生が『主語がない』って言った瞬間、笑ってたじゃん。あれ、分かってないと笑えない」

 ナツの耳が赤くなる。怒りなのか別のものなのか、判別がつかない色だった。

「覗いたの?」
「覗いてない。見えた」

 ナツが陸を睨み、次に静を見る。

「……だから何。観察できたら、何なの」
「道が増える」

 静は机の引き出しから、学校の進路資料の薄い冊子を出した。大学案内ではない。専門学校、職業訓練、地域のインターン、文章系のコンテスト募集が挟まったファイル。

「文章、編集、広報。人の癖を見つけて、言葉にできるやつが向いてる仕事がある。成績表の点じゃ測りにくい」
 ナツが鼻で笑う。

「どうせ、そんなの上手い人いっぱいいる」
「いっぱいいる。でも、君の武器は“当てる”ことだ。問題は、当て方」

 ナツが冊子に手を伸ばしかけて、引っ込めた。

「当て方って、優しくしろって?」
「優しくしろじゃない。相手を殺さない角度で刺せ」

「結局、刺すんじゃん」
「刺さないと伝わらない相手もいる。だから、刃を研ぐ」

 ナツが目を細めた。

「先生、怖い」
「怖いのは現実。君の言葉が、君自身を追い詰めてる」

 静はさっきの二百字をナツの方へ押し出した。

「これ、担任に渡す前に、一つだけ書き足す。『傷つけた可能性がある』って一文」
「……言わない。傷つけたって認めたら、負け」
「負けじゃない。責任を取るってこと」

「責任? 私だけ?」
「君だけじゃない。でも、君の言葉は君のものだ」

 ナツの指が紙の端を掴む。紙が少しだけしわになる。破らない。破れない。

「……『可能性』なら、ずるい」
「ずるくていい。今は生き残るのが先」

 ナツは小さく息を吐き、ペンを取った。震えはさっきより少ない。書き足す一文は短く、硬い字だった。

 書き終えると、ペンを机に置き、ナツは言った。

「これで、許されると思わないで」
「許されないかもしれない。でも、学校の処理は進む。君の選択肢も残る」

 陸が時計を見て、焦った声を出す。

「放課後まで、あと二十分。担任、来る?」
「来させる」静は立ち上がる。「北条、次は口頭だ。担任の前で、同じことを言える?」
「言える」
「言えるなら、言い方を練習する。短く。主語を自分にする」

 ナツが眉をひそめる。

「主語?」
「『私はこう感じた』『私はこうする』。『あいつらが』で始めない」

 ナツは舌で上唇を舐め、視線を逸らした。

「……分かった、っぽく言えばいいんでしょ」
「分かったふりでもいい。ふりが形になる」

 ドアの外で足音が止まり、誰かが近づく気配がした。静がドアノブに手をかけた瞬間、内線の呼び出し音が廊下から聞こえた。職員室の誰かが走る足音も混じる。

 静は一度だけ、机の上の壁画の報告書を見た。明日の締切が、ここにも、あそこにもぶら下がっている。

「来るぞ」

 静がドアを開けると、廊下の向こうから担任の声が尖って飛んできた。

「桐生先生、北条の件――今すぐいいですか」

 ナツの背筋が、椅子の上で固くなった。静はドアを大きく開け、廊下の空気を部屋に招き入れた。逃げ道は閉じないまま。代わりに、話す場所だけを作った。


 担任の佐伯は、ドアの前に立ったまま入ってこなかった。視線はナツを避け、静の机の上の書類の山に落ちる。

「……また書類。今、そんなことやってる場合ですか」
「やってる場合しかない」静は椅子を指した。「入って。座って」

 佐伯は一歩だけ中へ入り、椅子には座らず立ったまま言った。

「北条、今の状況分かってる?」
 ナツは椅子の背にもたれ、顎を上げた。

「分かってるよ。私が悪者」
「悪者かどうかじゃない。クラスの空気が荒れてる。風紀が乱れてる」

 その言葉に、静の眉がわずかに動いた。

「風紀って言葉、誰の」
 佐伯は一瞬目を逸らした。

「……教頭から。さっき職員室で。『第三が火種を抱え込んでる』って」

 陸が小さく息を吸った。ナツは笑った。

「第三が悪いんだ。便利だね」
「そういう言い方やめなさい」佐伯の声が強くなる。「今、あなたが煽ったせいで、クラスの子が泣いてるって話も来てるの」

「泣く? 誰が」
「言えない。特定につながる」
「言えないなら嘘じゃん」

 佐伯の頬が引きつった。

「北条、あなたはいつもそう。相手を追い詰める」
「追い詰められてんのは私だけど」

 静が間に入る。

「佐伯先生。今日は処分の話じゃない。学校としての対応を整える。北条が書いた説明文がある」
「説明文?」

 静が紙を差し出す。佐伯は受け取るが、目を通す前に眉を寄せた。

「……『傷つけた可能性がある』?」
「入れた。状況整理のために」

 佐伯は紙を見下ろしながら、口だけで言った。

「可能性って、逃げじゃないですか」
 ナツがすぐ噛みつく。

「逃げじゃない。認めたら負けだから」
「北条」佐伯が声を荒げる。「それが問題なの」

 静が佐伯を見る。

「負けとか勝ちとか、本人はそういう言葉でしか踏ん張れない。そこを折りにいくと、もっと荒れる」
「でも、クラスが持ちません」佐伯は静を見返した。「正直、私も持ちません」

 陸が口を挟む。

「担任が持たないって言ったら、誰が持つんすか」
 佐伯が陸に目を向け、冷たく言った。

「あなたは関係ない」
「関係ありますよ。クラスの空気、巻き込まれてるし」
「今は北条の話」

 ナツが鼻で笑い、腕を組んだ。

「ほら。そうやって切る。薄っぺらい」
「だから、その言い方をやめなさい!」佐伯が机を叩きそうになって、手を握り込んだ。「あなたがクラスで孤立してるのは、そういうところ」

 静が静かに言った。

「孤立は指導で解決しない。手順で減らす」
「手順?」佐伯が苛立ちを隠さない。「今、教頭が動いてるんですよ。『風紀を乱す生徒は、学校の評価を下げる』って」

 その瞬間、廊下から内線のベルが聞こえた。誰かが走り、受話器を取る声が遠くに響く。黒川の影が、廊下の空気を固くする。

 佐伯が続ける。

「『謝罪させろ』って。『クラスの前で』って」
 ナツの目が細くなった。

「公開処刑じゃん」
「言い方」佐伯が反射的に言い、すぐに言い直す。「……必要なけじめです」

 静が首を横に振る。

「クラスの前は燃える。今は火がついてる状態だ。風に煽るだけ」
「でも教頭が——」
「教頭は数字で見てる。『収束した』って報告が欲しいだけ。方法は一つじゃない」

 佐伯が紙を握りしめた。

「桐生先生、あなたはいつもそうやって……現場の負担を増やす」
「現場の負担を減らすために、今ここで決めるんだ」

 静は机の上の反省文の束を軽く指で叩いた。

「明日までに報告書を出す。壁画の件もある。第三が『揉め事製造』扱いされたら、北条の件も、他の子の件も、全部握り潰される」
 陸が小さく言う。

「部屋ごと消える、ってやつ……」
 佐伯が驚いた顔をして、静を見る。

「そんな話までしてるんですか」
「現実だから」

 ナツが椅子を鳴らして立ち上がった。

「じゃあ私、謝ればいいんでしょ。クラスの前で。『ごめんなさーい』って言えば満足?」
 佐伯が即座に言う。

「そういう態度が——」
「態度? じゃあどうすればいいの。泣けばいい? 土下座?」
「極端な言い方で誤魔化さない」

 静がナツに目を向ける。

「北条。強がりはいい。でも、今その強がりで、選択肢が減る」
「減ってもいい。どうせ友達いないし」
「友達の話じゃない。単位と進路の話」

 ナツが静を睨む。

「進路進路って。先生、結局そこ?」
「結局そこ。卒業しないと、何も始まらない」

 佐伯が言った。

「北条、あなたは反省してるの?」
 ナツは一拍置いて、肩をすくめた。

「反省って言えば楽になるなら、する」
「楽になるためにする反省は反省じゃない」
「じゃあ何。痛い目見ろって?」

 静が紙を一枚抜き、佐伯に見せた。北条の説明文のコピー用の白紙だ。

「佐伯先生。クラスの前での謝罪はしない。その代わり、やることを増やす」
「増やす?」
「個別に、担任立ち会いで、三人に会う。本人が傷つけた可能性が高い相手。特定は担任がする。今日、候補を出す」
 ナツが反発する。

「なんで私が会いに行くの」
「クラス全体よりダメージが小さい。燃えにくい。逃げ道もある」
「逃げ道って言うな」
「逃げ道は必要だ。潰れたら終わる」

 佐伯が渋い顔をした。

「教頭が納得しません」
「納得させる材料を作る。『対応記録』を残す。面談記録、日時、立ち会い、本人の一言。第三で管理する」
 佐伯が苦く笑った。

「また記録。あなたは書類で学校を動かすつもり?」
「動かす。動かないなら、北条が動かされる」

 陸が机の端の封筒を指で押さえた。壁画の報告書の束が崩れかけている。

 佐伯が紙を見下ろし、声を落とした。

「……北条、あなた、クラスでこれ以上問題起こしたら、私、守れないよ」
 ナツが目を逸らす。笑いが喉で引っかかったまま出てこない。

「守ってとか言ってないし」
「言ってなくても、担任は責任がある」
「責任って便利だね。責任って言えば、私を切れる」

 佐伯が言い返せず、口を閉じた。

 静がその沈黙に言葉を差し込む。

「佐伯先生。切るか守るかの二択にしない。担任が全部背負う必要もない。第三が一部持つ。だから、立ち会いと記録に協力して」
「……協力しないと?」
「教頭に『担任が動いてない』って報告が上がる。そうなったら、担任の評価も落ちる」

 佐伯の眉が動いた。痛いところを突かれた顔だった。

「脅しですか」
「予告。学校はそう動く」

 ナツが小さく笑った。

「先生、怖」
「怖いのは、黙って流されることだ」

 佐伯が息を吐き、ようやく椅子に座った。肩が少し落ちる。

「……分かりました。候補は、三人。私が名前を出します。ただし、北条が途中で暴れたら終わりです」
 ナツが即座に言う。

「暴れないし」
「その『し』が信用ないの」佐伯が言いかけて、言葉を飲み込んだ。「……頼むから、普通に話して」

 静がナツを見る。

「普通は無理でもいい。短くでいい。『私はこう言った』『こう受け取られた』『次はこうする』。それだけ」
 ナツが唇を尖らせる。

「機械みたい」
「機械でいい場面がある」

 佐伯が小声で言った。

「今日の放課後、まず一人目……いけますか」
 ナツは即答しなかった。指先が制服の縫い目をなぞり、止まる。

「……いける」
「じゃあ、今から作戦を決める」静が机の上を片づけ、空いたスペースにメモ用紙を置く。「相手に言う一文、先に作る。余計な形容詞は禁止」

 陸が時計を見る。

「あと十分っす」
 静は頷き、佐伯に視線を投げた。

「佐伯先生、教頭には私から『個別対応で収束させる』って報告する。クラス前はしない。その代わり、記録を出す」
 佐伯が苦い顔で頷く。

「……教頭、怒りますよ」
「怒らせる。怒っても、形があれば止まる」

 ナツがぽつりと言った。

「止まらなかったら?」
 静は一拍置いて答えた。

「そのときは、別の箱に移す。教室だけが学校じゃない」

 ナツが静を見た。強がりの顔のまま、目だけが探っている。

 廊下でまた足音が増えた。放課後の空気が近づいてくる。静は壁画の報告書を端に寄せ、北条のメモ用紙の前にペンを置いた。

「一文、書け。今ここで。次の五分で」


 メモ用紙の白が、ナツの前で妙に眩しかった。

 静が置いたペンを、ナツはすぐには掴まない。指先が宙で迷い、制服の袖を引っ張って戻す。佐伯は椅子に座ったまま、腕時計を何度も見ていた。陸はドアの近くで立ち、廊下の気配に耳を澄ませている。

「五分」静が言った。「一文。相手に言うやつ」

 ナツが口を尖らせる。

「一文で済むなら、こんなことになってない」
「済ませるために削る。余計な毒は今いらない」

 佐伯が小さく咳払いした。

「北条、相手は……保護者からも連絡が来てる。今日中に何か形が欲しい」
「保護者って」ナツが笑う。「親まで出てくんの。大げさ」

 静が淡々と言う。

「大げさにしてるのはSNS。学校は保護者に説明が要る。説明がなきゃ、教頭が動く」
 佐伯が頷く。

「『風紀』って言葉、また出される。もう一回出されたら、私、学年会議で吊るされる」

 ナツが佐伯を見て、唇を歪めた。

「自分の心配じゃん」
 佐伯が言い返しかけて、黙る。黙ったまま、目だけが疲れている。

 静がナツに視線を戻す。

「北条。相手のためでも、担任のためでもない。君のためだ。ここで形を残すと、次の一手が打てる」

 ナツは渋々ペンを握った。握り方が強すぎて、指が白い。

「……誰に言うの」
 佐伯が紙を一枚出し、名前は書かずに机の端を指で押さえた。

「一人目は、あなたが『薄っぺらい』って書いた投稿を、名指しされたと受け取った子。本人がそう言ってる」
「名指ししてない」
「してなくても、刺さってる」静が言った。「だから、主語は自分」

 ナツがメモに書き始める。「ごめん」の二文字で止まった。ペン先が紙に点を作る。

「……無理」
「無理でも書け」静は言った。「『ごめん』が嫌なら、別の言い方でもいい。謝罪の形は一つじゃない」

 ナツが顔をしかめる。

「謝罪とか、負け」
「負けでいい」静が即答した。「今勝っても、君は一人で立つ場所がなくなる」

 陸が小さく言った。

「北条、勝ってないよ。今のは…囲まれてる」
「うるさい」

 静は机の引き出しから、薄いクリアファイルを出した。中にはプリントが数枚。赤ペンの添削跡がある。

「北条。君、国語の小論文、返却されたやつ持ってる?」
 ナツが眉をひそめる。

「捨てた」
「捨ててないだろ。机の中にあるタイプだ」
「……あるけど」

 静はファイルを開き、陸に目で合図する。陸がナツの机へ行くのではなく、教室の方を指差す仕草をして首を振った。

「今取りに行ったら、廊下で見られる」
「じゃあ後でいい」静が言った。「今は話だけする」

 静はファイルの一枚を佐伯に見せた。新聞部の募集要項だった。活動は週一、原稿は短文でも可。だが、そこには小さく「顧問承認」「活動記録提出」の文字がある。

「言葉の刃を、別の刃に変える。編集と批評の刃に」
 ナツが鼻で笑う。

「編集? 新聞部とか地味」
「地味でいい。地味は燃えない。学校が数字にしやすい形にもなる」

 佐伯が眉を寄せる。

「北条を新聞部に? 部内の人間関係、余計に…」
「人間関係の練習にする」静が遮る。「新聞部は締切がある。言葉が形になる。『誰かを刺す』じゃなく『文章として通す』を覚える」

 ナツがメモ用紙を指で叩いた。

「文章として通すって、検閲じゃん」
「検閲じゃない。編集だ」静は言った。「読者が読める形に整える。鋭さを残して、血を減らす」

 ナツが目を細める。

「血を減らすって、言い方」
「現実の言い方だ。君の言葉は当たる。だから危ない。危ないなら、扱い方を学べばいい」

 陸が口を挟む。

「新聞部って、今、人足りないって聞いた。写真とかもやってる」
「陸は黙ってて」ナツが即座に言う。
「黙るけど」陸が肩をすくめる。「でも、北条向いてると思う。人の変なとこ見つけるの得意だし」
「褒めてんの? けなしてんの?」
「褒めてるつもり」

 静がメモ用紙をナツの前に戻す。

「で、謝罪文。これも編集の一つだ。『謝る文章』は技術だよ」

 ナツが顔をしかめる。

「技術とか言うな。軽くなる」
「軽くしないと書けないだろ」

 佐伯が静を見て、低い声で言った。

「教頭が求めてるのは、反省の態度です。技術とか言ったら、余計反発されます」
「反発されても、記録があれば止まる」静は譲らない。「態度は演技でもいい。文章は証拠になる」

 ナツがペンを握り直した。

「……証拠って。私が悪い証拠?」
「君が『対応した』証拠」静は言った。「悪いかどうかの裁判じゃない。卒業までの生活を繋ぐ手続き」

 ナツはメモに視線を落とし、もう一度「ごめん」と書きかけ、消した。消しゴムのカスが小さく丸まる。

「……『傷つけた』って書いたら、負けた気がする」
 静が頷く。

「負けた気がする。でも、勝ち負けにすると、相手も勝ち負けで返す。永遠に終わらない」
「終わらせたくないわけじゃない」
「なら、終わらせ方を選べ」

 静はナツのメモ用紙に指で三つの枠を作るように示した。

「一行目、事実。二行目、意図。三行目、次。短く」
「またそれ」
「またそれ。使える型は使う」

 ナツが唇を尖らせながらも書き始めた。

「『あの投稿で、クラスのことを…』」

 そこで止まる。ペンが紙の上で小さく震える。ナツは顔を上げずに言った。

「……クラスのことって書いたら、また燃える」
「相手一人に向ける」静が言った。「『あなたが』も危ない。『見ていた人が』くらいにする」
「ぼかすの?」
「ぼかす。ぼかして伝える。編集だ」

 佐伯が口を挟む。

「でも、相手は『私のことだ』って思ってるんですよ」
「だから、相手に渡すときは担任が補足する」静が言った。「文章は刃を丸める。補足で意味を通す」

 佐伯が渋々頷く。

「……分かりました」

 ナツが三行を書き切った。字は硬いが、途中で投げていない。最後に一度、紙を見つめてから、静に差し出した。

 静は受け取り、声に出して読まない。目だけで追い、赤ペンではなく鉛筆で二箇所だけ小さく丸を付けた。

「ここ、『うるさい』は削る。ここ、『どうせ』も削る」
 ナツが即座に言う。

「『うるさい』は本音」
「本音は残す場所を選べ。相手に渡す文じゃない」
「じゃあどこに残すの」
「君のノート。新聞部の下書き。批評の欄。そこに残せ」

 ナツが鼻で笑った。

「新聞部、まだ入るって言ってない」
「入らなくてもいい」静は言った。「でも、入った方が道が増える。学校の中で、君の言葉を『仕事』にできる」

 佐伯が小さく言う。

「仕事って…学校で」
「学校は企業だって、教頭がよく言う」静がちらりと佐伯を見る。「なら、言葉を仕事にする部署があっていい」

 佐伯が苦い顔をしたまま黙る。

 静はメモ用紙をナツに戻した。

「清書する。便箋に。宛名は書かない。担任が渡す」
 ナツが目を丸くする。

「便箋とか、持ってない」
「進路室の備品。使え」
「先生、そういうとこだけ用意いい」
「用意しないと詰む場面が多いからな」

 静が棚から無地の便箋と封筒を出し、机に置いた。陸がペン立てから黒のボールペンを差し出す。

「……これ、書きやすい」
 ナツが受け取る手が一瞬止まる。受け取って、目を逸らした。

「借りるだけ」
「返せよ」陸が言う。
「返すし」

 ナツが便箋に向かう。書き出しで止まり、深く息を吸ってから、ゆっくり書いた。

 静は黙って見守り、佐伯は椅子の上で落ち着かずに足を組み替える。廊下の向こうで、誰かが「教頭が呼んでる」と言う声がして、佐伯の肩が跳ねた。

「……私、職員室戻らないと」佐伯が立ち上がる。
「戻っていい」静が言った。「でも、これを持って行くな。北条の文は私が預かる」
「教頭に何て」
「『個別対応で進めてます。記録出します』でいい。余計な感情は言わない」

 佐伯が頷き、ドアに向かう。出る直前に振り返り、ナツを見た。

「北条。……今日、逃げるなよ」
 ナツは便箋から目を上げずに言った。

「逃げない。たぶん」
「『たぶん』をやめなさい」
「……努力する」

 佐伯が出ていくと、部屋の空気が少しだけ軽くなった。軽くなった分、静の机の端の「明日提出」が重く見える。

 ナツは最後の一行を書き終え、封筒に入れるところで手が止まった。

「これ、渡したら……終わる?」
 静は首を横に振る。

「終わらない。終わらせるための一歩。相手が許すかは別」
「許さなくていいし」
「そう言えるなら、渡せる」

 ナツは封筒の口を折り、指でしっかり押さえた。手が少し震えているのに、口だけは強がっている。

「……はい」
 静は封筒を受け取り、机の引き出しに入れた。鍵はかけない。代わりに、引き出しの前に壁画の報告書の束を置いて塞ぐ。

 陸が小声で言った。

「次、会いに行くの?」
「行く」静が言った。「陸、廊下の様子見て。北条が出た瞬間、誰が何言うか拾え」
「それ、嫌な役」
「嫌な役ほど、役に立つ」

 陸が頷き、ドアを少し開けて外を覗いた。

 ナツが立ち上がり、制服の裾を直す。視線が静の机の報告書に落ちる。

「先生、明日までにそれ出すんでしょ」
「出す」
「間に合うの?」
「間に合わせる。間に合わせないと、ここがなくなる」

 ナツが一瞬だけ黙り、言った。

「……じゃあ、私、燃料増やさない」
「増やすな。増やしたら、君も私も焼ける」

 ナツはドアの前で立ち止まり、背中越しに言った。

「新聞部、見学だけなら……行ってもいい」
 静は答えを急がない。

「見学はタダだ。嫌なら帰れ」
「うん」

 陸が廊下から戻ってきて、囁いた。

「今、クラスの前に三人いる。スマホ持ってる」
 静が頷く。

「なら、裏階段使う」

 静は引き出しの封筒の位置を指で確かめ、ナツに目線で促した。ナツは顎を上げ、強がる顔を貼り付けたまま一歩を踏み出す。

 廊下へ出る直前、内線がまた鳴った。職員室からの短い呼び出し音が、追い立てるみたいに背中を押す。

 静はドアを静かに閉め、ナツの横に並んだ。

「行くぞ。言葉は、持っていく分だけ持て」
 ナツが小さく返す。

「……軽くしてきた」


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