成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第7話:数学0点の設計図

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 第3進路室の机の上は、紙の山だった。反省文の下書き、印刷した写真、作業時間のメモ、提出用の報告書の骨子。ペン立ての隙間に、乾きかけののりと、消しゴムのカス。

 相沢陸がホチキスを握ったまま、時計を見る。

「……明日、ですよね」

 桐生静はクリップを留め直しながら頷いた。

「明日。黒川に渡す。渡さないと、向こうが好きに“決着”つける」

「“第三が火種”ってやつ」

「そう」

 静は言い切って、プリントの角を揃えた。手つきは淡々としているのに、机の上の空気だけが硬い。

 廊下側の扉が、コンコンと軽く鳴った。

「開いてる」

 扉が少しだけ開き、男子が顔を出した。背が高いのに猫背で、制服の袖口が妙に汚れている。視線が落ち着かない。足元の上履きのかかとが潰れていた。

「……本郷。タク」

 陸が小さく名前を言う。静は顔を上げた。

「入って。座って」

 本郷タクは椅子の端に腰をかけた。鞄を抱えたまま、机に置かない。

 静が出席簿のメモを見ずに言う。

「数学、今日も?」

 本郷が喉の奥で息を詰めた。唇が動く。

「……ゼロっす」

 陸が思わず「また?」と言いかけて、口を閉じた。

 静は「そっか」とだけ返し、机の端に置いてあった赤ペンをキャップごと指で転がした。

「で、何しに来た」

 本郷は鞄の取っ手を握り直す。指の関節が白い。

「……佐伯に、行けって。ここ」

「担任に追い出された、ね」

「追い出されてないっす」

「じゃあ押し込まれた」

 本郷は反論の言葉を探して、諦めたみたいに視線を逸らした。

 陸が机の上の書類を脇に寄せ、スペースを作る。静はそれを見て、少しだけ顎を引いた。

「数学ゼロは、別に珍しくない。ここには。けど、佐伯が“今”ここに投げたのは理由があるはず」

 本郷が小さく笑う。笑いというより、空気が漏れた音だった。

「……進路、やばいって」

「やばいね」

 即答に、本郷の目が一瞬だけ上がる。

 静は言葉を足さない。沈黙が居座る。廊下の遠くでチャイムの残響が消えた。

 本郷が鞄を膝からずらし、ようやく机に置いた。ファスナーを開ける手が、妙に器用だった。中から、折り目のついたノートを出す。表紙は擦れている。

「これ、見せろって」

 ノートが机に置かれる。静が手を伸ばす前に、陸が覗き込んだ。

「……なにこれ」

 ノートの端。授業の板書の隙間に、細い線がびっしり走っていた。歯車みたいな円、寸法の矢印、部品の番号。立体が頭の中に立ち上がるような描き方。

 静はノートを開いたまま、ページをめくる。別のページにも、別の機械。チェーン。軸。バネ。視点が変わっても破綻しない。

「これ、誰かの写し?」

 本郷が首を振る。

「俺が……暇なときに」

「暇なとき、って授業中?」

「……っす」

 陸が「怒られるやつ」と呟いた。

 静はノートの角を指で押さえ、線の重なりを追った。赤ペンの跡が、図面の上に少しだけついている。数学の採点の残骸。

「この歯車、噛み合う?」

 本郷が一瞬で答える。

「噛み合います。モジュール合わせてるから」

 陸が眉を上げた。

「も、じゅーる?」

 本郷は言ってから、しまったという顔をした。普段、言葉を出すのに慣れていないのか、急に口数が減る。

 静はペン立てからシャープペンを抜き、紙を一枚引っ張った。

「じゃあ、ここ。軸の太さ、何ミリ想定」

 本郷の指が、紙の上に迷いなく落ちる。

「ここは……六。こっちは八」

 静は数字を書き留める。陸がその横で、黙って見ている。

「六にした理由」

「軽くしたい。回転数上げたいから」

「材料は」

「アルミだと削りやすいけど、ここは負ける。だから……鉄。できれば焼き入れ」

 静がペンを止めた。

「焼き入れ、どこで知った」

 本郷は肩をすくめる。

「動画。工場の。あと、親父の工具箱に……昔、なんか」

 言いかけて止まる。工具箱、という言葉のあとに、何かを飲み込んだ。

 陸が視線を落とす。本郷の袖口の汚れを見た。

 静は問い詰めない。代わりに、ノートを閉じずに言う。

「これ、提出物にできないの、分かってる?」

 本郷の顔が強張る。

「……っす」

「成績表に書けない。内申に乗らない。数学ゼロは数学ゼロのまま」

 本郷の指がノートの端を擦った。紙が少し毛羽立つ。

「だから、意味ないって、佐伯が」

「佐伯は数字で仕事してる。黒川はもっと数字で仕事してる」

 静の声が少し低くなる。机の上の報告書の束が視界に入る。明日提出。第三が火種。そんな言葉が、部屋の隅に残っている。

 陸が小さく息を吐いた。

「でも、これ、すごいじゃん」

 本郷が陸を見る。笑われると思ったみたいに、警戒が混じる。

 陸は慌てて言い直す。

「……いや、すごいっていうか。俺、こういうの、描けない」

 本郷は視線を戻す。ノートに視線を落としたまま、ぽつり。

「描いても、なんも変わんないっす」

 静が椅子に背を預けた。

「変わらないなら、変える手順を作る。現実は厳しい。だから道を増やす」

 本郷が眉を寄せる。

「道って……就職とか、無理っすよ。俺、テスト……」

「“無理”は便利な言葉だね。今ここで終わる」

 静はノートを軽く叩いた。

「これは武器になる。ただし、武器の形にしないと殴れない」

 陸が「武器」と繰り返す。

 本郷は唇を噛む。静が続けた。

「聞く。これ、何の設計」

 本郷の目が一瞬だけ光る。言わないつもりだったのが、口から出る。

「……自転車の、変速。壊れたやつ、直したくて」

「家の?」

「友達の。……いや、俺の。拾ったやつ」

「拾った」

「捨ててあった。直したら、乗れると思って」

 静は頷く。

「じゃあ、明日までに一個、現物を持って来れる?」

 本郷が固まる。

「え」

「持って来れないなら、写真。分解前、分解後、壊れてる箇所。スマホでいい。図面とセットにする」

 陸が「それ、報告書みたい」と言う。

 静は陸に目をやる。

「報告書だよ。成果が見える形にする。黒川は“見える”しか信じない」

 本郷が小さく首を振った。

「でも、学校に……自転車とか、持ち込み……」

「“持ち込み禁止”の規則はある。だから正面からやらない。先生として、校内に持ち込ませる気はない」

 本郷が少しだけ息を吐く。

 静は言葉を切り替える。

「放課後、校門の外。写真撮って、記録する。陸、手伝える?」

 陸が反射で頷きかけて、机の書類を見て止まる。

「……明日の報告書、やばいっすよ」

 静は報告書の束に指を置いた。

「こっちは私がやる。陸は十五分だけ、外。時間記録も取る。短く、確実に」

 本郷が「なんでそこまで」と言いかけて、言葉が喉で詰まった。

 静は本郷を見たまま言う。

「第三は、明日で消えるかもしれない。今、成果になりそうな芽を放置したら、私が負ける」

 本郷が目を伏せる。自分のノートを抱え直す。

「俺のせいで……」

「違う」

 静は被せた。強くない声なのに、逃げ道がない。

「“せい”にしたら、またゼロに戻る。やるか、やらないか」

 本郷の喉が動く。

「……やる」

 陸が小さく「よし」と言ってしまい、慌てて咳払いした。

 静はノートを本郷に返し、紙をもう一枚出した。

「今ここで、三つだけ決める。今日の放課後の時間。集合場所。写真を撮る順番」

 本郷が椅子を少し前に引いた。身体が、逃げる形から、机に向かう形に変わる。

「……時間、四時半」

「場所」

「校門出たとこの、コンビニの横」

 陸が「人目、あるけど大丈夫?」と聞く。

 本郷が肩をすくめる。

「見られても、別に。どうせ、俺……」

「どうせ、って言うな」

 静が切った。

 本郷が口を閉じる。

 静は紙に書きながら、淡々と続ける。

「順番。全体。壊れてる箇所のアップ。寸法が分かるように定規当てる。最後に、手元。分解してるところ。動画も短く」

 陸が「定規、ある」と言って引き出しを探り始めた。

 本郷がノートの端を指で押さえたまま、静を見た。

「……これ、進路に……繋がります?」

 静はすぐに「繋がる」とは言わなかった。机の上の報告書の束を一度見てから、本郷に視線を戻す。

「繋げる。繋がるかは、相手次第。会社も専門も、見る人がいる。いないところに出したら、ゼロのまま」

 本郷の目が揺れる。

「どこに……出すんすか」

 静はペン先で紙をトントンと叩いた。

「まずは校内。佐伯に“数字以外”を見せる。次に校外。職業訓練校、工業系の専門、企業の見学。現実的に、学費と成績と家の事情を並べて選ぶ」

 本郷が「家」と聞いて、肩がわずかに硬くなる。

 静はそこに踏み込まない。代わりに、短く言った。

「明日じゃない。今日の十五分が、最初の一歩」

 陸が定規を見つけて机に置いた。

「本郷、これ持ってく?」

 本郷が定規を手に取る。プラスチックが指に馴染むまで、少し時間がかかった。

「……ありがとう」

 その声が小さすぎて、陸は聞こえたふりをして頷いた。

 廊下の向こうで、誰かが「教頭が呼んでるぞ」と言う声がして、職員室側がざわついた。第3進路室の扉のガラスが、わずかに震える。

 静の指が止まる。報告書の束を押さえ、視線だけを扉に向けた。

「……黒川、動いてる」

 陸が唇を噛む。

 本郷はその空気を感じ取ったのか、鞄を抱え直して立ち上がった。

「俺、邪魔っすよね」

「邪魔じゃない」

 静は立たないまま言った。

「でも、時間は無い。四時半。遅れたら、今日は無し。次は作らない」

 本郷が頷く。強く。

「行きます」

 扉に手をかけて、止まる。振り返って、ノートを胸に押し当てた。

「……先生。これ、笑わないっすか」

 静はノートの端の歯車を見た。線の重なり。消し跡。赤ペンの点。

「笑わない。使う」

 本郷が一度だけ目を伏せ、扉を静かに閉めた。

 残った静と陸の間に、書類の山が戻ってくる。

 陸が小さく言う。

「十五分で、何が変わるんすかね」

 静はホチキスの位置を直し、報告書の一枚目に手を置いた。

「変わらないなら、変える材料にする。黒川の机に置ける形に」

 陸が頷き、ペンを取る。

 静は時計を見た。四時半まで、あと少し。報告書の提出まで、さらに少し。

 扉の外の足音が近づいて、また遠ざかっていく。

 静は紙に目を落としながら、低く言った。

「陸。外に出る前に、これの写真、スマホで撮っとけ。提出用に」

「え、今?」

「今。消される前に残す」

 陸が息を飲んでスマホを取り出す。机の上の図面と報告書が、同じ画角に収まった。シャッター音が小さく響く。

 静は次のページをめくった。明日の“決着”のために。四時半の十五分のために。


 四時半の空は、冬に向かう匂いがした。校門の外、コンビニ横の植え込みに寄りかかって、本郷タクはスマホをいじっているふりをしていた。

 耳の奥で、昼間の教頭の声がまだ鳴っている気がする。「明日の報告書で決着」。第3進路室が火種。火は、いつだって弱いところから燃える。

「本郷!」

 相沢陸が小走りで来た。息が少し上がっている。手には定規と小さなメモ帳。

「遅れるかと思った」

「遅れてないっす」

「ギリ」

 本郷は舌打ちしそうになって飲み込んだ。陸の後ろから、桐生静が歩いてくる。コートの前を留めず、手にはペンケースとクリップボード。

「現物は?」

 静が聞くと、本郷は顎で少し先を示した。

「そこ。裏」

 コンビニの横を抜けた先、細い路地の入口に、古い自転車が立てかけてあった。フレームに傷、チェーンは黒く、変速機のあたりが歪んでいる。

 陸が目を丸くする。

「これ、拾ったやつ?」

「拾ったやつ」

 静は自転車の周りを一周して、しゃがんだ。変速機のネジを指先で触る。

「ここ、曲がってる」

 本郷が頷く。

「ぶつけた。たぶん」

「たぶん、って言うな。見る」

 静がスマホを出す。

「陸。全体」

 陸が慌ててカメラを構え、フレーム全体を撮る。

「次、壊れてる箇所。アップ。定規当てる」

 本郷が定規を出す。手が迷わない。陸がシャッターを切る。

 静が言う。

「動画、十秒。手元」

 本郷が変速機のあたりを軽く揺らすと、金属が嫌な音で鳴った。

 陸が顔をしかめる。

「うわ、これ、走ったら怖い」

「走ってないっす」

「え」

「まだ」

 静が立ち上がり、クリップボードにメモした。

「よし。これで“現実”は撮れた。次は“言葉”」

 本郷が眉を寄せる。

「言葉?」

「家」

 静が短く言う。逃げ道を塞ぐ言い方だった。本郷の視線が一瞬だけ泳いで、路地の奥に落ちた。

 陸が本郷の袖口の汚れを見て、言いかけて止める。

 静は続けた。

「この設計図、家で描いてる? それとも学校だけ?」

 本郷は答えるまでに時間がかかった。

「……家っす」

「工場?」

 本郷の喉が動く。

「……うち、町工場」

 静が頷く。

「親は何て言う」

 本郷は笑う。昨日の自分を思い出したみたいな、乾いた笑い。

「“継がせない”。“勉強しろ”」

 陸が思わず「え」と声を漏らす。

「え、工場なのに? 継げって言わないの?」

 本郷が肩をすくめる。

「継いだら終わりだって。親父、言う。『俺みたいになるな』って」

 静が「なるほど」とだけ言った。

 本郷は、言葉が止まらないのが怖いみたいに、口を閉じる。スマホを握り直す。指先が白い。

 陸が恐る恐る聞く。

「本郷は、継ぎたいの?」

 本郷は即答しない。目が自転車のギアに落ちる。歯が欠けているところ。そこだけがやけに目立つ。

「……別に」

「別に、って」

 陸が詰めると、本郷は強く言った。

「別に! 俺が継いだって、どうせ……」

 言い切る前に、言葉が折れた。口の中に戻してしまう。

 静が視線を外さずに言う。

「“どうせ”の続き、言うと楽になる?」

 本郷は唇を噛んだ。喉の奥で何かが鳴る。

「……言ったら、殴られる」

 陸が固まる。

 静は眉ひとつ動かさない。

「誰に」

「親父に、じゃないっす。……俺が、俺に」

 静が一拍置いて、クリップボードにペン先を当てた。

「じゃあ、殴られない言い方にする。事実だけ」

 本郷が静を見る。

 静は淡々と問う。

「親が“継がせない”と言う理由。ひとつ」

 本郷は顔を背けたまま、短く吐いた。

「儲からない」

「もうひとつ」

「休みない」

「もうひとつ」

 本郷の肩が上がる。

「……腰、悪い」

 静がメモを取る音だけが、路地に落ちた。

 陸が小さく言う。

「……それ、しんどいっすね」

 本郷が陸を睨む。

「同情すんな」

 陸が口を閉じる。

 静が代わりに言う。

「同情じゃない。条件整理。進路は条件で決まる。気持ちだけだと負ける」

 本郷の指が定規を折りそうなほど握る。

「でも、勉強しろって言われても……俺、ゼロっすよ」

「ゼロは事実。で?」

 静は言葉を切らない。本郷が逃げる前に、道を出す。

「“勉強しろ”の中身を分ける。大学に行け、なのか。高卒でいいから資格取れ、なのか。家を出ろ、なのか」

 本郷が首を振る。

「知らねぇよ。親父、そんな細かく言わない」

 静が本郷のスマホに目をやった。

「電話できる?」

 本郷が一歩引く。

「無理っす。今、電話したら……」

「じゃあ、手紙」

 本郷が鼻で笑う。

「手紙って、昭和っすか」

「昭和でも、届く」

 静はクリップボードから一枚のメモ用紙を抜き、ペンを差し出した。

「今日、ここで一行。親に渡す用。内容は“進路の話をしたい。時間をください”だけ。理由は書かない」

 本郷の目が細くなる。

「そんなの、無視される」

「無視される可能性は高い」

 静はすぐに認めた。

「でも、渡さないと確定でゼロ。渡したら、ゼロじゃなくなる可能性が一ミリ生まれる」

 陸が息を飲む。

 本郷はペンを受け取らない。手が動かない。指先が冷えている。

 静はペンを引っ込めずに言った。

「親が“継がせない”と言うのは、工場を嫌ってるんじゃない。工場の現実を知ってる。だから、子どもに同じ傷をつけたくない」

 本郷が顔を上げる。反発の目だ。

「分かったふりすんな」

「分かったふりはしない。確認するだけ」

 静は言い切った。

「本郷。お前は“工場が好き”なのか。“機械が好き”なのか。“親父に勝ちたい”のか」

 本郷の喉が鳴る。

「……好きとか、分かんねぇ」

「分かんないなら、作業で確かめる」

 静は自転車の変速機を指で弾いた。

「この“直したい”は本物だ。今の手、迷ってない」

 本郷が、ほんの少しだけ視線を落とした。自分の指を見る。

 陸が勇気を出したみたいに言う。

「本郷、工場で何してんの?」

 本郷が「してない」と言いかけて、口を閉じる。静の目が動かないからだ。

「……たまに、掃除。あと、材料運ぶ。邪魔だからって言われる」

 陸が眉をひそめる。

「邪魔って……」

「邪魔なんだよ。ミスったら危ねぇし」

 静が言う。

「危ないのは事実。だからこそ、教える側がいる。いないなら、外に出る」

 本郷が鼻で息を吐く。

「外って、どこ」

「職業訓練校。工業系の専門。企業の見学。あと、工場でも“設計”と“現場”は違う」

 本郷が眉を寄せる。

「設計って、大学のやつでしょ」

「大学だけじゃない。CADを教える専門もある。高卒採用でもCADオペはある。ただし、数学ゼロだと足切りのところもある」

 本郷の肩が落ちる。静は畳みかけない。代わりに、別の道を置く。

「だから、数学を“満点”にする話はしない。“足切りを超える”話をする。必要な範囲だけ、最短でやる」

 陸が「最短」と繰り返す。

 本郷が静を睨む。

「そんな都合よく……」

「都合よくない。だから、やるか、諦めるか」

 静はペンをもう一度差し出した。

「一行書け。親に“話す時間が欲しい”って」

 本郷の指が動いた。ペンを受け取る。握り方が、工具を持つみたいに固い。

 紙にペン先が触れた瞬間、少しだけ震えた。文字は乱れたが、読めた。

『進路の話がしたい。時間ください。』

 本郷は書き終えると、紙をぐしゃっとしそうになって、堪えた。折り目をつけて、制服の胸ポケットに押し込む。

 陸が息を吐く。

「渡すの?」

 本郷は答えない。目が自転車から離れない。

 静が言う。

「渡すかどうかは、お前が決める。でも、決めたなら、実行する。第三は“決めたふり”を許さない」

 本郷が小さく頷いた。

 そのとき、静のスマホが短く震えた。画面に表示された名前を見て、静の指が止まる。

 陸が覗き込んで、顔が強張る。

「……佐伯先生?」

 静は通話に出ない。画面を伏せて、二人を見た。

「戻る。職員室が動いてる」

 陸が口を開く。

「黒川、ですか」

「たぶん」

 静は本郷に視線を合わせた。

「本郷。今日撮った写真と動画、今ここで送れ。私の番号に」

 本郷が慌てて操作する。送信音が続けて鳴る。

 静は受信を確認し、クリップボードを抱え直した。

「次。明日までに、ノートの設計図を“説明文”にする。三行でいい。“何を”“どこが問題で”“どう直すか”」

 本郷が息を飲む。

「三行……」

「三行なら、ゼロじゃない」

 静は言い切って、踵を返した。

 陸が本郷に向かって言う。

「俺、あとでLINEする。三行、一緒に考える」

 本郷は「別に」と言いかけて、言わなかった。胸ポケットを押さえたまま、頷いた。

 静と陸が校門の方へ急ぐ背中を見送りながら、本郷は自転車の変速機に指を当てる。金属は冷たい。けれど、指先の中に、さっき書いた一行がまだ熱を持っていた。


 第3進路室に戻ると、空気が薄くなっていた。職員室から流れてきたざわめきが、扉の隙間に引っかかっている。

 静は受信した写真をノートPCに移し、プリントアウトの設定をいじった。陸はホチキスを置いて、扉のガラス越しに廊下を見た。

「佐伯先生、何て?」

 静はスマホを机に伏せたまま言う。

「“黒川が明日の報告書の形式を変えるかも”だって」

 陸が顔をしかめる。

「え、今さら?」

「今さらだから効く。向こうは時間を奪えば勝てる」

 プリンターが唸り、紙が吐き出される。自転車の写真。変速機のアップ。定規を当てた画像。短い動画の切り出し。

 静はそれをクリップボードに重ねた。

「本郷、来たらすぐやる。陸、机空けて」

「はい」

 陸が書類の山を寄せると、扉がノックされた。

「入って」

 本郷タクが入ってきた。制服の胸ポケットが少し膨らんでいる。さっきの一行がまだ入っているのだろう。視線は床と机の間を行ったり来たりする。

 静は挨拶を省いた。

「三行、できた?」

 本郷が鞄の中を探り、ノートを出す。昨日の設計図のページに、鉛筆で短い文が書かれていた。字は大きくて、ところどころ擦れている。

 本郷が読み上げる。

「『自転車の変速が噛まない。変速機の曲がりでチェーンが外れる。変速機を交換して、チェーンの長さを合わせる』」

 陸が「ちゃんと書けてる」と小声で言う。

 本郷が「別に」と返しかけて、黙った。

 静はノートを指で押さえた。

「いい。これが“言語化”の最低ライン。次は、これを数字にする」

 本郷の眉が寄e寄る。

「数字……」

「数学のテストじゃない。現場の数学」

 静はプリントした写真を本郷の前に並べた。定規が写っているアップ写真を指差す。

「ここ。定規当てた。何ミリずれてる」

 本郷が覗き込み、指で画面の目盛りを追う。

「……三、くらい」

「“くらい”は使うな。三ミリか、二・五か。どっち」

 本郷の目が細くなる。写真を近づけ、目盛りを読む。

「……二・八」

 静がすぐに書く。

「二・八ミリ。じゃあ、許容は?」

 本郷が固まる。

「許容って……」

「どこまでなら噛むか。噛まなきゃ事故る。事故るなら許容はゼロ。けど現実はゼロにできない」

 陸が「現実は…」と呟く。

 本郷がノートの端を掻いた。

「……一ミリ以内、じゃないっすか」

 静は頷く。

「根拠」

 本郷が口を開けて閉じる。言葉が出ない。

 静は助け舟を出さない。代わりに、別の質問で道を作る。

「チェーンの幅、知ってる?」

 本郷の目が動く。

「……何ミリか、種類ある」

「その“種類”を言える?」

 本郷が唇を噛む。

「……分かんない。調べる」

 静がすぐに言う。

「それ。調べる。数字は調べて持ってくる。覚えてる必要はない。必要なときに引けるのが仕事」

 陸が頷きながらメモを取る。

 静は次の写真を出した。曲がった変速機の金具。

「次。材料。これ、何でできてる?」

 本郷が答える。

「鉄かアルミ」

「判別する方法」

 本郷が指を立てかけて止まる。

「磁石……」

「そう。磁石で付けば鉄系。付かなきゃアルミかステンレス。で、材料が違うと何が違う」

 本郷が早口になる。

「曲がりやすさ。戻しやすさ。割れるかどうか」

 静がペンを走らせる。

「曲がりやすさ=弾性。割れる=靭性。言葉が出たら、面接で武器になる」

 本郷が「面接…」と小さく繰り返した。

 静は紙をもう一枚出して、線を引いた。

「じゃあ数学。寸法と誤差。今の二・八ミリ。これを一ミリ以内にするには、何をする」

 本郷が即答する。

「曲がり直すか、交換」

「曲がり直す場合。力をかける。戻したら、戻り過ぎるかもしれない」

 静が本郷の顔を見る。

「戻り過ぎる、って何」

 本郷は少し考えて言う。

「……目標より反対側に行く」

「それを数字で言う」

 本郷の喉が動く。

「……マイナス?」

「そう。プラス二・八を、ゼロに近づける。やり過ぎたらマイナスになる。で、許容は±一ミリ」

 静は紙に「-1~+1」と書いた。

 陸が「うわ、数学っぽい」と言う。

 本郷が眉をしかめる。

「数学、嫌いなんすよ」

 静が言った。

「嫌いでも使う。使わないと怪我する」

 本郷の口が閉じる。

 静は続ける。

「今、二・八。許容は一。差は?」

 本郷が反射で答える。

「一・八」

 静が頷く。

「一・八ミリ分、直す必要がある。じゃあ、直す作業で“測る”のは何回」

 本郷が目を逸らす。

「……一回?」

「危ない。最低三回。曲げる前、途中、最後。途中で止める勇気が必要」

 本郷が黙る。陸が本郷の手元を見る。指先が、さっきより落ち着いている。

 静は机の引き出しから小さなノギスを出した。学校の備品の古いものだ。

「これ、見たことある?」

 本郷の目が吸い寄せられる。

「……ノギス」

 静がそれを本郷の前に置く。

「読める?」

 本郷が手に取る。触り方が自然だった。スライドさせ、目盛りを見る。

「……〇・一まで」

 静は短く笑った。

「そう。これが現場の数学。テストの“x”じゃない。寸法」

 陸が身を乗り出す。

「先生、それ、どこにあったんすか」

「理科準備室。借りてきた。返す」

 静は本郷に言った。

「今から練習。適当なもの測る」

 本郷が周囲を見て、ペンケースの金属定規を取った。

「これ、測る」

「いい。幅」

 本郷がノギスを当てる。

「……二十六・二」

 静が紙に書く。

「二十六・二ミリ。誤差は?」

 本郷が少し詰まる。

「……読めるのが〇・一だから、±〇・一?」

 静が頷いた。

「その通り。じゃあ、さっきの写真の“二・八”は、定規の読み。定規は一ミリ単位。誤差は?」

 本郷が口を開く。

「……±〇・五?」

 静が「よし」と言った。

 陸が「え、なんで〇・五?」と聞く。

 本郷が陸を見る。言うか迷って、でも言った。

「目盛りの間は、だいたい半分までは読めるから……」

 陸が「なるほど」と頷く。

 静がそのやり取りを見て、机を軽く叩いた。

「今の。説明できた。これが言語化。数字と一緒に言えると、相手が納得する」

 本郷がノートを握る。

「でも、俺……テストだと……」

 静が遮る。

「テストは捨てない。けど、全部は追わない。現場で使う範囲に絞る」

 静は紙に「優先」と書いた。

「寸法。比。単位換算。簡単な一次式。これだけで、職業訓練校の入所試験の基礎は戦える場合がある」

 本郷の目が動く。「戦える」という言葉に引っかかった。

 陸が小声で言う。

「“場合がある”って言うの、先生っぽい」

 静が陸を見ずに言う。

「保証はしない。けど、ゼロよりマシ」

 そこへ、扉の外で足音が止まった。会話が途切れる。誰かが廊下で立ち止まっている気配。

 静は声量を落とした。

「……黒川の見回り、増えてる」

 陸が息を飲み、ノートPCの画面を閉じかける。

 本郷が小さく言う。

「見られたら、まずいんすか」

「まずい。“第三が火種”って言われてる。火種が勝手に燃える前に、水をかける」

 静はプリントした写真と、本郷の三行メモ、ノギスで測った数値を書いた紙を一つにまとめ、クリップで留めた。

「これ、明日の報告書に挟む。“数字にならない努力”を、数字にする」

 本郷がその束を見て、喉が鳴った。

「……俺の、入るんすか」

「入れる。入れないと、消される」

 静は束を本郷に一度持たせた。紙の重さを手に渡すみたいに。

「本郷。明日、朝。もう一回ここに来い。チェーン幅と変速機の規格、調べて持ってくる。スマホでもメモでもいい。出典も書け」

 本郷が頷く。

「……はい」

 陸が言った。

「俺も来る。途中で分かんなくなったら、LINEして」

 本郷は「分かった」とは言わず、短く「おう」と返した。

 静は椅子から立ち、扉の方へ視線を向けた。足音は去ったが、廊下の空気はまだ硬い。

「今日はここまで。帰れ。寄り道すんな」

 本郷が鞄を持ち、胸ポケットを一度押さえてから、扉に手をかけた。

 振り返って、言いにくそうに口を開く。

「……先生。あの紙、渡したら……親父、怒ると思う」

 静は頷いた。

「怒る。たぶん。怒らない親は少ない」

 本郷の肩が落ちる。

 静は続けた。

「でも、“怒られないため”に黙ってたら、明日も同じ。怒られるか、何も変わらないか。選ぶのはお前」

 本郷は扉を開け、廊下に出た。歩き出す前に、胸ポケットの紙を指で確かめる。折り目が増えている。

 陸が静に小さく言った。

「先生、明日の報告書……間に合います?」

 静は机の上の束を見た。壁画の写真、反省文、時間記録、その上に今の“数字”。

「間に合わせる。間に合わなかったら、第三が終わる」

 陸が唾を飲む。

 静はペンを取って、報告書の空欄に書き始めた。文字の音が、部屋の中で速くなっていく。

 扉の向こうから、遠くで職員室の呼び出しが聞こえた。明日までの時間が、また一段、削れていく。


 翌朝の第3進路室は、暖房が効く前の冷たさだった。静は机に突っ伏したまま、報告書の控えを赤で直している。隣で陸がコピー用紙を揃え、クリアファイルに入れていく。

「先生、これ、提出用と控え、分けました」

「助かる」

 静の声は掠れていた。徹夜の匂いがする。

 扉がノックされる。

「入って」

 本郷タクが入ってきた。昨日より顔色が悪い。目の下が濃い。胸ポケットの膨らみは消えている。

 陸が気づいて、目だけで聞く。本郷は答えず、鞄から紙を出した。

「……これ」

 A4のコピー用紙に、スマホで調べたらしいスクショの印刷が貼ってある。チェーン幅、変速の段数、型番の見分け方。URLが手書きで添えてある。

 静が受け取って目を走らせる。

「出典、書いた。えらい」

 本郷が「別に」と言いそうになって、黙った。代わりに、短く聞く。

「……先生。俺、あの紙……渡した」

 静のペン先が止まる。

「反応は」

 本郷は椅子に座らず、立ったまま言った。

「怒った。最初、破いた」

 陸が息を呑む。

 本郷は続ける。声が揺れるのに、言葉は切れない。

「でも、拾って……テープで貼ってた。貼ってから、何も言わない」

 静が頷く。

「“何も言わない”は、話が終わったんじゃない。頭の中で続いてる」

 本郷が唇を噛む。

「……で、俺、昨日、ノギスのやつ……楽しかったんすよ」

 陸が目を丸くする。

「本郷が“楽しい”って言った」

「うるせ」

 本郷は陸を一瞬睨んで、すぐ視線を落とした。

「……数学、ああいうのなら、敵じゃないって思った」

 静はそこで「よかったな」とは言わない。代わりに、机の端に置いてあるテスト範囲表を指で弾いた。昨日、陸が職員室からもらってきたものだ。

「で、敵が来る。定期テスト」

 本郷の肩が跳ねる。

「……やばいっす。来週。数学、範囲……意味わかんねぇ」

 陸が範囲表を覗き込み、顔をしかめる。

「一次関数、連立方程式……うわ」

 本郷が吐き捨てる。

「ほら。現場の数学とか言っても、テストはテストじゃん。ゼロ取ったら、また“はい終了”でしょ」

 静が本郷の調べ物の紙を机に置き、指でトントンと叩いた。

「“はい終了”を言うのは誰だ」

 本郷が即答する。

「佐伯。黒川。あと……親父」

「じゃあ、その三人が見てるのは何」

 本郷が黙る。

 静が言う。

「数字。点数。提出物。期限。だから、こっちも数字を出す。テストで満点は狙わない。足切り回避」

 本郷が眉を寄せる。

「足切り……」

「赤点回避。平均点じゃない。赤点回避」

 陸が「現実的」と呟く。

 本郷は苛立ったように言う。

「でも、俺、赤点回避すら無理なんすよ。何やっても間違う」

 静は引き出しから、昨日書いた紙を出した。「-1~+1」「誤差」「単位換算」と走り書きがある。

「間違うのは、途中が見えてないから。数学が敵なんじゃない。“手順が敵”」

 本郷が鼻で笑う。

「言葉遊びっすか」

「遊びじゃない。手順を固定する」

 静は新しい紙を置き、ペンで四角を描いた。

「本郷。連立方程式、何が嫌い」

 本郷がすぐ返す。

「どこから手つけていいか分かんねぇ」

「じゃあ、手をつける場所を一個にする」

 静は四角の中に「①式をそろえる」と書いた。

「次」

「……移項とか、符号とか、ぐちゃぐちゃになる」

 静は「②符号チェック」と書く。

「次」

 本郷がぼそっと言う。

「……答え、出ても、合ってるか分かんねぇ」

 静は「③代入して確認」と書いた。

 陸が「え、確認ってできるんだ」と言う。

 静が頷く。

「できる。現場で測り直すのと同じ」

 本郷の目が、紙の三つの枠を追う。昨日のノギスの目盛りを読むときの目だ。

 静は言う。

「数学は“当てもの”じゃない。“確認できる作業”」

 本郷が小さく息を吐く。

「……確認できるなら、ちょっとマシ」

 陸が笑いそうになって堪える。

「ちょっとマシ、出た」

 本郷が「うるせ」と返すが、声が昨日より軽い。

 静はそこで釘を刺す。

「ただし。時間がない。今日から一週間で、赤点回避の確率を上げる。やることは絞る」

 本郷が食いつく。

「何やるんすか」

 静はペン先で紙を叩いた。

「範囲の全部は捨てる。一次関数、全部やると溺れる。連立と計算だけ、最低ラインを固める。点が取りやすい問題を拾う」

 本郷が反発する。

「捨てていいんすか」

「捨てないと落ちる。現実は厳しい。だから道を増やす」

 静は本郷の調べ物の紙を持ち上げた。

「お前は“調べて、出典をつけて、まとめる”ができた。これ、数学の勉強にも使える。分からない問題を“分からないまま”にしない」

 本郷が唇を噛む。

「でも、家帰ったら……工場の手伝いとか」

 静が遮る。

「何時から何時まで」

 本郷が反射で答える。

「……七時から九時」

「毎日?」

「ほぼ」

 静が頷く。

「じゃあ、勉強は二十分でいい。毎日。ゼロから二十分。二十分を守る」

 本郷が目を見開く。

「二十分で変わるわけ……」

 静が言い切った。

「変わらないなら、変える材料にする。黒川は“やった時間”も見ないけど、佐伯は見る。親はもっと見る。机に座ってるかどうか」

 陸が小さく言う。

「二十分なら、俺もできるかも」

 静は陸を見た。

「陸もやる? じゃあ一緒に“時間記録”つける。こっちは証拠になる」

 本郷が「証拠」と繰り返す。

 静は机の端から、壁画復旧の作業時間記録の紙を一枚抜いて見せた。

「これと同じ。やった日、やった分、チェック。数字は嘘つかない。嘘つくのは人間」

 陸が苦い顔をする。

「教頭とか」

 静は返事をしない。代わりに、提出用のファイルを閉じた。クリップが乾いた音を立てる。

「……本郷」

 本郷が顔を上げる。

 静は低く言った。

「今日の昼、黒川に報告書を出す。第三が残るかどうか、揺れる。だから、お前の“数字”も今日ここで形にする」

 本郷が固まる。

「俺の数字?」

 静はノギスを指差した。

「誤差。±0.1。昨日できた。これを“できたこと”として書く。数学ゼロでも、現場の数学は読めるって」

 本郷の喉が動く。

「……それ、通るんすか」

「通らせる。通らなかったら、次の出し方を考える」

 静は紙に短い文章を書いた。三行。昨日の三行より硬い言葉。

「“測定器を用い、寸法を0.1mm単位で読み取れる。誤差を理解し、許容範囲を設定できる。調査結果に出典を付し、要点をまとめられる”」

 陸が「かっこいい」と言いかけて、口をつぐむ。

 本郷はその文を見て、目を逸らした。照れを隠すみたいに。

「……俺、そんな言い方、できねぇ」

「だから私が言語化する。お前は事実を作る」

 静はペンを置き、本郷に紙を押し出した。

「これ、持って帰れ。親に見せる必要はない。けど、自分で見ろ。お前ができたことのメモだ」

 本郷が紙を受け取る。指が少し震えたが、握り潰さなかった。

 廊下から、硬い靴音が近づいてきた。職員の足音とは違う。踵を鳴らす癖。

 陸が顔色を変える。

「……教頭、来る?」

 静はファイルを机の上に揃え、背筋を伸ばした。

「来てもいい。こっちは提出するだけ」

 本郷が立ち上がる。

「俺、いたら……まずい?」

「まずくない。ただ、お前がここにいる理由を説明できるようにしとけ」

 静は短く言った。

「“進路相談”。それだけ」

 本郷が頷き、鞄を肩にかける。扉の方へ行きかけて、立ち止まった。

「……先生。二十分、やる。今日」

 静は頷いた。

「やれ。できたらチェックつけろ。できなかったら、できなかったって書け。嘘は次を潰す」

 本郷が小さく「はい」と返し、廊下に出た。

 扉が閉まる寸前、靴音がすぐそこまで来ているのが分かった。

 陸が息を呑む。

 静は提出用ファイルを抱え、扉の前に立った。ノックが来る前に、自分から開けるような間合いで。

「行くよ、陸」

「……はい」

 廊下の冷気が、隙間から入り込む。決着の時間が、もう曲がれない角まで来ていた。


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