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第8話:家計簿のプロ
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第3進路室の机の上は、紙の山だった。
写真。時間記録。反省文。壁画の復旧前後。ノギスで測った数値のメモ。本郷タクの三行説明。
陸がホチキスを止め、針が一度だけ噛んだ。
「……これ、明日出すんすよね」
「出す。黒川が“明日の報告書で決着”って言ったからな」
静はクリップの位置を揃えた。紙の端がそろうだけで、妙に「学校の勝ち」みたいに見えるのが腹立たしい。
扉がノックもなく開いた。
女子が一人、立っていた。制服のスカートの丈が少し短い。髪は雑に結ばれて、目は半分だけ開いている。
「……ここ、誰でも来ていいんすか」
「どうぞ。名前」
「竹内。サラ」
陸が椅子を引いた。
「座る?」
サラは椅子を見て、見なかったことにして、壁にもたれたまま言った。
「進路とか、別に。提出物も、もう無理だし」
静はペンを置く。
「無理の中身を聞く。提出物、ゼロだな」
「知ってんだ」
「担任から回ってくる。佐伯が数字にうるさい」
サラの口角が少しだけ動いた。笑いではない。
「じゃあ、私、終わりっすね」
「終わりにしたいのか」
「……したいっていうか。終わってるし」
静は棚から白紙の紙を一枚抜いて、机の上に置いた。
「今日、何時に学校来た」
「……八時半ぐらい」
「昨日の夜、何時に寝た」
「寝てない」
陸が口を挟みかけて、飲み込んだ。
静は淡々と書いた。
「寝てない理由は」
「弟が。熱出して。親いないから」
静のペン先が止まったが、すぐ動いた。
「親いないって、離婚か」
「知らない。どっちも夜まで帰んない。働いてんじゃないっすか」
「弟、いくつ」
「小三」
「今朝は誰が見てきた」
「近所の……おばさん。五百円払って」
「五百円」
静は数字をそのまま紙に落とした。サラの目がそこに吸い寄せられる。
「……何それ」
「現実。五百円が出る日と出ない日で、出席が変わる」
サラは肩をすくめた。
「だから、無理って言ってんの。プリントとか、レポートとか。やる時間ない」
「時間がないのは本当だ。だから“やらない”じゃなく、“減らす”」
「減らせるんすか。学校の提出物って」
「全部は無理。優先順位つける。赤点回避と、出欠の穴埋めと、進路の最低ライン」
サラが鼻で短く息を吐いた。
「最低ライン、ね」
「最低ラインがないと、選べる道が減る。黒川の好きな言い方で言うと“結果がすべて”だ」
陸が小さく舌打ちした。
「……あの人の言い方、ムカつくんだよな」
サラが陸をちらっと見た。
「その人、偉い人?」
「教頭。第3進路室を潰したい人」
「潰れんの?」
「潰れないように、明日報告書出す」
静は紙を指で叩いた。
「話を戻す。家のこと、担任は知ってるか」
「言ってない。言ったら、可哀想って顔されるじゃん」
「可哀想って顔、嫌いか」
「……嫌い。あと、なんか“頑張れ”って言われるのも」
静は頷きも否定もしない。
「頑張れは要らない。代わりに、手順を決める」
サラは壁から背中を離した。
「手順?」
「まず、サラの“今やってること”を数字にする。家のこと含めて」
「数字?」
陸が目を丸くする。
「家のことも?」
静は陸に視線を投げた。
「家計と時間は、才能が出る。サラ、家の買い物、誰が管理してる」
サラは一瞬だけ目を逸らした。
「……私。レシート、捨てると怒られるから。袋に入れてる」
「怒るのは誰だ」
「母。帰ってきたときに。『何に使った』って」
静は机の引き出しから電卓を出した。カチ、と机に置く音が小さく響く。
「家計簿つけてる?」
「つけてない。そんな暇ない」
「じゃあ、頭の中か」
「……だいたい。今週、米が切れるとか。電気代がやばいとか」
静が電卓のボタンを二回押して、ゼロを出した。
「今月、食費いくらまで」
サラが即答した。
「二万。弟と二人なら。母がいると増える」
「増えるのはなぜ」
「酒。つまみ。あと、弁当買う」
陸が思わず口を開ける。
「二万って……」
サラは陸を睨むでもなく、ただ言った。
「だから? 家ってそういうもんでしょ」
静が紙に「食費 20,000」と書く。
「水道光熱、いくら」
「電気八千ぐらい。夏は一万いく。ガスは五千。水道は……忘れた」
「忘れたのに、電気は言える」
サラの眉が動いた。
「電気止まると困るから。弟、暑がりだし」
静はそのまま書く。
「止まると困るものは、覚えてる。サラ、金の優先順位つけてるな」
「……当たり前じゃん」
「当たり前ができない大人もいる」
サラが静を見る。言い返す言葉を探して、見つからない顔をした。
陸が小声で言った。
「それ、すげーことじゃね」
サラは肩をすくめたが、さっきより力が入っていない。
「すげーとか、言われても。学校の点数にならないし」
静は椅子を指差した。
「座れ。家計簿の形にする。学校の点数じゃなく、進路の材料にする」
「進路って、就職? 私、バイトもしてるし」
「何のバイト」
「スーパー。レジと品出し。週三」
「シフト、どうやって組んでる」
「店長が入れてくる。私、弟のことあるから、無理な日は前もって言う」
「前もって、って何日前」
「一週間前。急だと迷惑かかるし」
静はその「一週間前」を丸で囲んだ。
「段取りができる。家計が読める。時間の穴を埋められる。サラ、提出物ゼロでも、社会で必要なことはやってる」
サラの喉が動いた。何か言いそうで、言わない。
陸が机の端を指で叩いた。
「でもさ、学校は提出物とかテストとかでしか見ないじゃん」
静は陸を見た。
「だから“見える形”に変える。黒川は数字しか信じない。なら数字を出す」
サラが笑った。
「教頭、家計簿見て納得すんの?」
「納得させるのは“教頭の心”じゃない。“制度の穴”だ。欠席が多いなら、生活困難の事情を担任と共有して、支援につなぐ。提出物は、量を減らして期限をずらす交渉をする。進路は、家計管理が活きる職種を探す」
サラの笑いが消える。
「支援って……何それ。お金くれるの?」
「学校は金を出せない。ただ、繋げる窓口はある。市の相談、生活の手続き、母親の就労のこと、弟の学童のこと。やるのは簡単じゃないし、すぐ助かる保証もない」
サラの目が細くなる。
「じゃあ、意味ない」
「意味はある。でも“今夜の五百円”は、支援じゃ埋まらない日もある」
静は言い切ってから、紙をサラの方へ滑らせた。
「その日を減らすために、手を増やす。サラが一人で抱えない形にする」
サラは紙を見た。そこに並ぶ数字を指でなぞる。
「……私、これ、誰に見せんの」
「まず、担任。佐伯は数字が好きだ。数字で話せば動く」
陸が眉をひそめる。
「佐伯、動くかな……」
静は答えず、サラに言った。
「次に、家。母親と話せるか」
サラの口が固く閉じる。しばらくして、吐き出すように言った。
「話しても、怒るだけ。『学校行け』って。行ってるし」
「怒るのは、余裕がないからだ」
「余裕なんか、ないよ」
静は頷く代わりに、別の紙を出した。
「じゃあ、手紙にする。短く。責めない。数字だけ」
サラが顔をしかめる。
「手紙とか、気持ち悪」
「気持ち悪くても、残る。口喧嘩は消える」
陸が小さくうなずいた。前日、本郷に渡した一行手紙のことを思い出したように。
静はペンを渡す。
「書けるか。『今月の家計』と『学校の提出物の現実』。お願いは一つだけ」
サラはペンを受け取ったが、すぐには書かない。
「お願いって、何」
「弟の預け先を一つ増やす。週一でもいい。学童か、親戚か、地域の見守りか。サラが学校で“二十分快適に”座れる日を作る」
「二十分って、しょぼ」
「しょぼい積み重ねが、赤点を回避する。本郷も今、毎日二十分やってる」
「誰」
「別の生徒。欠席常習。だけど、やり始めた」
サラはペン先を紙に落とし、かすれた文字で書き出した。
「……『今月、食費二万』……」
静はその横で、別の紙に「提出物リスト」を簡単に書いた。
「数学、未提出三つ。国語、読書感想文。保健、レポート。全部は無理だ。国語は二百字に縮める交渉する。保健は形式だけ整えて最低点を狙う。数学は……」
サラが顔を上げる。
「数学、無理。欠席してるし」
「無理でも、赤点は避ける。明日から二十分。ここで。時間記録つける」
「また数字」
「数字は武器だ。サラはもう持ってる。使い方を変えるだけ」
サラは手紙を書き終えて、紙を机に置いた。字は荒いが、要点だけが並んでいる。
『食費2万 電気8千 ガス5千 今週弟発熱で夜見てた 学校提出物遅れてる 弟の預け先相談したい』
最後の一行が、少しだけ小さかった。
静はその一行を指で押さえた。
「これでいい。明日、担任と話す。サラも来る」
サラが即座に首を振る。
「無理。大人同士でやって」
「本人がいないと、“怠け”で片付けられる。佐伯はそういう処理をする」
陸が口を挟む。
「サラ、俺も同席する。変なこと言わせない」
サラが陸を見た。じっと。視線の圧に陸が少し背筋を伸ばす。
「……なんでそこまで」
陸は目を逸らし、机の上の報告書の束を見た。
「第3が火種って言われてんだよ。火種でも、燃え方、選べるだろ」
静が短く言う。
「明日、黒川に報告書を出す。その前に、担任と一回交渉する。サラの事情も数字も、今なら間に合う」
サラは唇を噛んだ。噛んだ跡が白くなる。
「……私が行ったら、迷惑じゃない?」
「迷惑かどうかは学校が決める。でも、サラの人生は学校が決めるもんじゃない」
静は立ち上がり、壁の時計を見た。
「今日、あと十五分ある。数学のプリント、一枚だけやる。できるところだけでいい」
サラが目を細める。
「……できなかったら」
「できない箇所が“交渉材料”になる。ここまで理解してる、ここから先が詰まってる、って言える」
陸がプリントを探して棚を漁り、静に差し出した。
「これ、基礎のやつ。解説付き」
サラはプリントを受け取り、椅子に座った。机に肘をついて、鉛筆を転がす。
静はサラの前に、時間記録の紙を置いた。
「開始、今。十五分。終わったら、今日の家の予定も書け」
サラが小さく言った。
「……弟、迎え行かなきゃ」
「それも書け。迎えは何時、どこ。移動に何分。数字にする」
サラは鉛筆を握り直し、プリントの一行目に線を引いた。
廊下の向こうで、誰かが「教頭が職員室に戻った」と囁く声がした。紙の山が、急に重く見える。
静は報告書の束に目を落とし、サラの鉛筆の音を聞きながら、次に佐伯へ持っていく言葉を頭の中で削った。明日の前に、今日の十五分を落とさないために。
サラの鉛筆が止まった。
プリントの余白に、小さく「19:10 弟迎え」と書いてある。数字の書き方だけが妙に揃っていた。
静が時計を見る。
「十五分。ここまででいい」
サラはプリントを裏返して、鞄に突っ込もうとした。
「持って帰る。家でやる」
「家でやるは、やらないと同義になりやすい」
サラの手が止まる。
「……うるさい」
陸が椅子から半分だけ立ち上がった。
「サラ、怒ってるとこ悪いけど、帰り急ぐなら、これだけ。今日の予定、書いて」
静が時間記録の紙を指で押さえた。
「迎え、何時」
「……七時十分」
「場所」
「学童。弟、熱下がったら学童行ける」
「行けない日は」
サラは一瞬だけ目を泳がせた。
「……近所の人。五百円」
静が昨日書いた「五百円」をもう一度丸で囲んだ。
「毎日じゃないな。週に何回」
「……二回とか。月末は無理」
「月末って、何が来る」
サラが舌で唇を湿らせる。
「家賃。電気。スマホ。あと、給食費の封筒」
陸が小さく息を吸った。
「給食費って……弟の?」
「そう。学校から催促くると、弟が泣くから」
「泣く?」
「先生が言うんだよ。『まだです』って。みんなの前で」
静のペン先が紙に触れたまま止まった。インクが少し滲む。
「サラが払ってるのか」
「……私が出す。母に言うと、キレる」
「母親の給料日、分かるか」
「だいたい。十五日と月末。入るときと入らないときある」
静は黙って、机の端のクリアファイルを開けた。中から、レシートの束が出てくる。サラがさっき「袋に入れてる」と言ったものと同じような、角の丸まった紙。
サラの鞄の口から、同じ色の紙が覗いていた。
静が目だけで示す。
「それ、今日も持ってるな」
サラが反射的に鞄の口を押さえる。
「見ないで」
「見ない。サラが見せると決めたら見る」
陸が視線を逸らしたまま言う。
「……俺、こういうの、適当に捨てるタイプだった」
サラが小さく笑って、すぐ消えた。
「捨てたら終わるから。支払い、忘れたら終わる」
静が椅子を引いた。
「座れ。五分でいい。サラの“終わる”を整理する」
サラは渋々座った。椅子がきしんだ。
静が机の上に白紙を置く。
「家の支払い、誰が何をやってる」
「母は……現金置いてく。たまに。私が振り込む」
「振り込み、どこで」
「コンビニ。バーコード。あと、郵便局」
「口座は」
「母の。キャッシュカードは……ない。暗証番号は知ってる」
陸が顔を上げる。
「え、暗証番号……」
サラが睨む。
「仕方ないじゃん。母いないんだもん」
静が紙に「振込:コンビニ/郵便局」と書いた。
「家計簿は」
「ノート。家にある。書く時間ないから、レシート貼って、金額だけ丸つける」
「丸つけるだけで、何が分かる」
サラは即答した。
「今週、残りいくらか。どれ削れるか」
静はそこで初めて、サラの手元を見た。爪の先が少し欠けている。指の腹に、紙で切ったような細い傷。
「削れるの、何」
「肉。お菓子。あと、私の昼」
陸が思わず言った。
「昼抜いてんの?」
「うるさい。別に。慣れてるし」
静が陸を手で制した。
「慣れてるは、危険のサインだ。サラ、昼抜くと、何が起きる」
サラは少し考えてから言った。
「眠い。イライラする。授業、頭入んない」
「それで欠席増える」
「……そう」
静が紙に線を引いた。
「サラが“生活を回してる”。母親の代わりに、だ」
サラの肩がわずかに跳ねた。
「代わりって言わないで」
「言う。役割が重いって意味だ」
サラは口を開けて、閉じた。言い返す言葉が喉で止まったまま、視線だけが机の上を彷徨う。
陸が小さく言う。
「サラ、すげーよ」
「すごくない。普通」
「普通なら、もっとみんな提出物出してる」
サラが陸を睨む。
「それ言うな」
静が割って入る。
「サラの普通は、学校の普通と違う。そのズレを埋めないと、学校はサラを“怠け”で処理する」
サラが鼻で笑う。
「処理、ね。ゴミみたい」
「ゴミじゃない。けど、学校は忙しい。黒川は特に、“火種”を切り捨てたい」
サラが静を見る。
「……私、火種なの」
「今のままだと、そう見える」
陸が拳を握った。
「見えるだけで切るの、最悪だろ」
静は淡々と言った。
「最悪でも、起きる。だから先に“説明できる形”にする」
サラが机の上の紙を指で叩いた。
「説明って、何を」
「サラが生活を回してる事実。支払いの種類。頻度。金額。時間。具体的に」
「言ったって、どうせ変わんない」
「変わる部分と変わらない部分がある。変わらないのは、母親が急に理想の親になること。変わるのは、学校の対応と、サラの負担の分け方」
サラが眉をひそめる。
「分け方?」
静がペンで紙の端に小さく「外に出す」と書いた。
「支払いを全部サラが抱えるのは危ない。少なくとも、弟の給食費と学童の手続きは、相談窓口に乗せる」
「窓口って、どこ」
「市の子育て支援。学校ならスクールソーシャルワーカー。うちの学校、週一で来てる」
サラが顔をしかめる。
「知らない」
「知らされてない生徒が多い。知らないまま倒れる」
陸が静を見た。
「それ、明日までに動けるんすか」
「動ける。今日、電話を一本入れる。明日の昼休みに面談枠を取る」
サラが慌てて言った。
「待って。勝手にやんないで。母にバレたら……」
静はサラの言葉を遮らず、最後まで聞いた。
「バレたら、何が起きる」
サラは唇を噛んでから、絞るように言った。
「怒鳴る。物投げる。『余計なことすんな』って」
陸が椅子の背を握りしめた。静は表情を変えないまま、机の上のレシートの束を見た。
「物が飛ぶ家で、サラが金を管理してる。リスクが高い」
サラが低く言う。
「だから、黙ってればいいじゃん。私がやるから」
「サラが倒れたら、弟が困る」
サラの目が一瞬揺れた。
静はそこを追わず、別の紙を差し出した。
「手順を決める。母親にバレないように動く部分と、バレてもいいように整える部分を分ける」
「……そんなの、できるの」
「できる範囲で。例えば、学校への説明は“家庭事情で提出が遅れている”まで。具体の金額は、サラが許可した分だけ。支援窓口には、母親の同意が必要なものもある。そこは急がない」
サラが小さく息を吐いた。
「同意とか、無理」
「無理なら別ルート。弟の学校の相談、児童の方から入る場合もある。サラの安全が最優先」
サラが顔を上げた。
「安全って、何。私、殴られてないし」
静は少しだけ声を落とした。
「殴られてなくても、物が飛ぶ家は安全じゃない。危険が“いつ来るか分からない”のが一番削る」
サラの指が、紙の端をぎゅっと掴んだ。破れそうで、破れない。
陸が小さく言う。
「……サラ、ここで話したこと、外に漏れないから」
静が頷く。
「必要な人に、必要な分だけ。これは約束する」
サラはしばらく黙っていた。廊下の足音が遠ざかり、職員室の方で電話の呼び出し音が鳴った気がした。
静の机の上の報告書の束が視界の端に入る。明日。黒川。決着。形式変更。
サラがぽつりと言った。
「私、家計簿のノート、持ってきたら……何かになる?」
「なる。進路の材料にも、学校との交渉にもなる。ただし、見せ方を選ぶ」
「見せ方?」
「コピーして、必要なページだけ。個人情報は隠す。金額の推移と支払い種類だけ抜く」
陸が頷く。
「数字だけ出す、ってやつだ」
サラが陸を見て、少しだけ口元を緩めた。
「……あんた、さっきからうるさい」
「うるさいのが仕事になりつつある」
静が立ち上がった。
「サラ。明日、昼休み。ここに来い。家計簿ノート、持ってこれるなら持ってくる。無理なら、レシートの袋だけでもいい」
サラが鞄の口を押さえたまま言う。
「明日、弟の迎え早い日」
「じゃあ朝。五分でいい」
「朝も……」
静が遮らずに待つ。サラは言い淀んで、結局、頷いた。
「……五分なら」
静は机の電話に手を伸ばした。受話器を持ち上げる前に、サラを見た。
「今から一本、外に電話する。名前は出さない。いいな」
サラは少しだけ間を置いて、顎を引いた。
「……うん。でも、絶対、母に直接電話しないで」
「しない。勝手な正義はやらない」
陸が報告書の束を抱え直した。紙がずしりと鳴る。
扉の外で、また誰かが小声で言う。「明日、教頭が第三の報告書を見るって」
静は受話器を耳に当て、ダイヤルを押した。サラはその手元を見つめたまま、鞄の中のレシートを指で確かめるように押さえていた。
受話器の向こうで呼び出し音が二回鳴って、切れた。
静はもう一度かけ直さない。机の上のメモに「明日昼 SSW」とだけ書く。
サラが立ち上がった。
「……帰る。弟迎え」
「行け。遅れるな」
サラは鞄を肩にかけたまま、扉に手をかける前に振り返った。
「先生さ、さっき進路とか言ってたけど。私、夢とか言ってる場合じゃないから」
笑った。声だけ。目は笑っていない。
陸が口を開きかけて、閉じた。
静はペンを置いた。
「夢は要らない」
サラの眉が動く。
「え」
「要るのは選択肢。夢は叶うかどうか分からない。選択肢は増やせる」
サラが扉から離れて、机に一歩戻った。
「選択肢って、何。就職? 高卒で働けって?」
「高卒で働くも選択肢。進学も選択肢。専門も、職訓も。サラの家計管理は、どこでも使える」
サラが鼻で笑った。
「家計簿なんて、ただの貧乏スキルじゃん」
静は首を振らない。否定もしない。
「貧乏スキルって言い方、嫌いじゃない。現実に役立ってるからな。ただ、それで終わらせるか、武器にするかは別だ」
サラが腕を組んだ。
「武器って、どうやって」
静が机の引き出しから、薄いパンフレットを二つ出した。端が折れている。
「一つは、商業系の専門。簿記。経理。医療事務。資格は就職に直結しやすい」
サラがパンフレットに目を落とす。
「資格って、金かかるでしょ」
「かかる。学費も交通費も。奨学金を使う手がある。ただし借金だ。返す前提で選ぶ」
陸が顔をしかめる。
「借金って言い方、重いっすね」
「重いから言う。軽く扱うと後で潰れる」
サラがパンフレットを指で弾いた。
「返せる保証ないじゃん」
「保証はない。だから、返しやすい条件を探す。給付型があるか、授業料免除があるか、通える距離か、働きながらか」
サラが小さく言った。
「そんなの、調べる時間ない」
「調べるのはこっちがやる。サラは“条件”を出す」
「条件?」
静は紙に線を引いた。
「家に入れる金はいくら必要」
サラが即答した。
「最低、三万。できれば五万」
「月に」
「うん」
「じゃあ、在学中に月三万稼ぐ必要がある。バイト継続。通学時間は片道何分まで」
「……四十分。弟の迎えあるし」
「夜は何時まで家を空けられる」
「八時半。弟寝かせる」
静が淡々と書く。数字が並ぶ。
サラがその紙を見て、さっきより声が低くなる。
「……こうやって書くと、無理じゃん」
「無理に見えるのは、条件が見えたからだ。見えないまま突っ込む方が無理だ」
陸が紙を覗き込んだ。
「これ、パズルみたいだな」
静が二つ目のパンフレットを出す。
「もう一つは公共職業訓練。条件次第で授業料が抑えられる。年齢や状況で使える制度が変わる。高校卒業後になる場合が多い」
サラが首を傾げた。
「訓練って、ハロワのやつ?」
「そう。すぐ就職するだけじゃなくて、技能をつけてから就職する道もある」
サラが笑った。
「それ、夢じゃん。余裕ある人の」
静は笑わない。
「余裕がない人ほど、遠回りの方が安定する場合がある。すぐの月五万のために、ずっと不安定なバイトを続けるのか。半年~一年かけて、月十五万~二十万の土台を作るのか」
サラの笑いが止まる。
「……半年も一年も、家が持たない」
「なら、持たせる手を探す。母親の収入の波、弟の預け先、支払いの整理。サラ一人で全部は無理だ。だから外に出す」
サラは視線を落として、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「外に出すって、結局、大人に頼るってことじゃん」
「そうだ。頼るのも技術だ。サラは今、頼らずに回してる。それは尊いけど、続けると壊れる」
陸が小さく言う。
「壊れたら、マジで終わる」
サラが陸を睨む。
「終わるとか言うな」
陸は一瞬言い返しそうになって、飲み込んだ。
「……ごめん。でも、俺、サラがいなくなるの、嫌だ」
サラの目が少しだけ揺れて、すぐに逸れた。
静が机の端を指で叩いた。
「サラ。進路の話は、夢の話じゃない。卒業後の“月いくら”“何時まで働ける”“弟をどうする”の設計だ。そこに学校を使う」
サラが顔を上げる。
「学校、使えるの?」
「使わせる。黒川は“成果”が欲しい。なら、サラの成果を形にして出す。家計簿、時間記録、バイトのシフト、支払いのリスト。全部、数字だ」
サラが鼻で笑った。
「教頭に見せるの?」
「見せない。教頭には“欠席と提出遅れの合理的理由”と“改善計画”だけ。細かい生活は守る」
陸が言う。
「守れるんすか」
「守るために、紙を作る」
静は引き出しから、また白紙を一枚出した。上に大きく「学校用」と書く。
「学校用は、こう。『家事・育児負担により学習時間が確保困難。支援窓口と連携し、提出物は優先順位をつけて段階的に提出。数学は毎日二十分の補習で赤点回避』」
サラがその文字を見て、口を尖らせた。
「……なんか、私がダメな人みたい」
「学校の言葉はそうなる。だから、別紙で“サラの強み”を書く」
静はもう一枚に「本人用」と書いた。
「『支払い管理』『予算設計』『優先順位づけ』『期限管理』『対人調整(店長とシフト交渉)』。これは就職でも進学でも使う」
サラが小さく言った。
「……そんなの、当たり前」
「当たり前を言語化できるやつが少ない」
扉の向こうで、廊下を歩く靴音が近づいて、遠ざかった。「第三、明日どうするんだってさ」という声が混じる。
サラが肩をすくめて、また笑った。今度は少しだけ、照れ隠しみたいな速さで。
「先生、めんどくさい」
「めんどくさいのが仕事」
陸が手を挙げるみたいに言った。
「俺も、めんどくさい側に回っていい?」
静が陸を見る。
「明日、報告書提出が終わったらな。今はホチキスの続き」
陸が「うぇー」と小さく言いながらも、束を抱えた。
サラが扉に手をかける。
「……明日、朝五分ね。家計簿、持ってこれたら持ってくる」
「持ってこれないなら、写真でもいい。スマホで必要なページだけ撮れ」
サラが頷きかけて、ふと止まった。
「……それ、母に見られたら終わる」
「撮るなら、学校で。今は無理するな」
サラは短く「わかった」と言って、廊下に出た。
静は扉が閉まる音を聞いてから、机の上の「学校用」と「本人用」を重ねた。上に報告書の束を置く。
明日、黒川に見せるのは、この山の一部だ。
静は受話器に手を伸ばし、今度は番号を確かめてから押した。明日の五分を、選択肢に変えるために。
翌朝。第3進路室の扉が、控えめに二回ノックされた。
静が顔を上げると、サラが立っていた。髪は昨日より整っているが、目の下が薄く影になっている。手にはノートではなく、折りたたんだチラシみたいな紙が一枚。
「五分、って言ったから。五分だけ」
「入れ」
サラは椅子に座らず、机の端に立ったまま紙を差し出した。
「これ。昨日、家で探した。母が置いてたやつ」
静が受け取ると、封筒の控えだった。電気料金の支払い票。サラの指が、金額欄の横をトントン叩く。
「ここ、払ったか払ってないかで、家の空気変わる」
「払うのは誰だ」
サラは答えず、視線だけを落とした。
静は控えを机に置き、昨日の「本人用」の紙をサラの前に滑らせた。
「今日は、現実ルートを三つ出す。サラが選ぶための」
サラが眉をひそめる。
「また増やすの」
「増やす。減らすのは、黒川がやる」
その名前でサラの口が少し歪んだ。
「……教頭、ほんと嫌いなんだ」
「嫌いでいい。味方にしなくていい。避ければいい」
静はパンフレットの束から三枚だけ抜き、机に並べた。
「一つ。奨学金」
サラが身を乗り出す。
「借金のやつ?」
「借金のやつ。だから条件を見る。給付型もある。成績だけじゃない枠もあるが、狭い。現実は“借りる”が多い」
サラの顔が曇る。
「返せない」
「返せないなら借りない。返す見込みを作れる道とセットで考える」
静は二枚目を指した。
「二つ。夜間」
「夜間って、高校?」
「夜間の専門もある。昼は働いて、夜学ぶ。体力は削れる。けど、収入を途切れさせない」
サラが小さく笑った。
「体力、もうない」
「今のままは、体力が削られるだけで増えない。夜間は削れるけど、増える可能性がある」
サラは黙った。反論が出ない代わりに、指がスカートの端を握りしめる。
静は三枚目を指した。
「三つ。職業訓練。公的なやつだ」
サラが首を傾げた。
「高校出たあと?」
「基本はそう。ただ、サラの状況次第で、利用の順番や支援の組み合わせが変わる。生活の相談とセットで動かす」
「金、かかる?」
「授業料が抑えられるコースが多い。教材費はかかることがある。通う交通費もかかる。ゼロじゃない」
サラが息を吐く。
「結局、金じゃん」
「金だ。だから金の話を避けない」
静は机の上に電卓を置いた。
「サラ。月に家に入れる最低三万、って言ったな」
「……うん」
「夜間で学ぶなら、昼の収入は確保できる。職業訓練なら、期間中の生活をどう繋ぐかが課題になる。奨学金なら、卒業後の収入で返済が課題になる」
サラが目を細める。
「全部、課題しかない」
「課題が見えたら、手が打てる」
陸が扉を少しだけ開けて顔を出した。手に分厚いファイル。目が合うと、すぐ入ってきた。
「すいません、これ、報告書の最終……」
机の上の三枚を見て、口を閉じる。
静が顎で示す。
「そこに置け。サラの話、続ける」
陸はファイルをそっと置き、サラに小声で言った。
「おはよ」
「……おはよ」
その返事は、昨日より角が取れていた。
廊下の向こうで、誰かが言った。「教頭、もう来てるらしい」
陸の肩が一瞬固まる。静は動かない。
サラがその空気を感じ取ったみたいに、声を落とした。
「今日、やばい日?」
「やばい日だ。だから早めに話してる」
サラは紙の端を指でいじりながら言った。
「私さ、進路って、二択だと思ってた。就職か、無理して進学か」
「学校が見せるのはその二択が多い。実績にしやすいからな」
陸がぼそっと言う。
「数字にしやすい」
静が頷く。
「でも、道は他にもある。サラが“今の生活を崩さずに”って条件を持ってるなら、それに合う順番にする」
サラが静を見る。
「順番?」
「例えば、高卒で就職して家計を安定させてから、夜間で資格を取る。逆に、今のバイトを続けながら夜間で学んで、就職を一段上げる。職業訓練は、卒業後に使うカードとして準備しておく」
サラの目が、机の上の三枚を行き来する。
「……準備って、何すんの」
「情報を集める。条件を満たすか確認する。相談窓口の予約を取る。書類を揃える。サラの得意分野だ」
サラが自分の指を見た。爪の欠けた先。
「書類、嫌い」
「嫌いでも、やってる。支払い票、期限、管理。家計簿。全部書類だ」
サラが小さく鼻を鳴らした。
「……たしかに」
静は「本人用」の紙の端に、新しく二行だけ書いた。
『奨学金:借りる/返す』
『夜間:働く/学ぶ』
それから、三行目。
『職訓:学ぶ/就職に繋ぐ』
サラがその文字を見て、肩がふっと落ちた。力が抜けたみたいに。
「……なんかさ」
静は待つ。
サラは、笑いそうで笑わない顔のまま、息を吸って吐いた。
「やっと、息できる」
陸が目を丸くした。
「……息」
サラは視線を逸らし、早口で続けた。
「だって、私、ずっと“今月どうする”しか考えられなかった。来月とか、卒業後とか、考えると怖いだけだったし。考えたら負けみたいで」
静は頷かない。代わりに言う。
「考えないと、誰かに決められる。黒川みたいにな」
サラが短く笑った。
「最悪」
「最悪を避けるために、今日やることを決める」
静は机の上の報告書ファイルを指で叩いた。
「今から黒川に提出する。陸、持っていけるか」
陸が喉を鳴らした。
「行きます。……怖いけど」
静はサラを見る。
「サラは、今日の放課後、五分。家計簿ノート、持ってこれるなら持ってこい。無理なら、支払い票とレシートの写真。学校で撮る」
サラが頷く。
「放課後なら……弟、学童ある日」
「じゃあその間に、奨学金の種類だけ一緒に確認する。借りるかどうかは決めなくていい。知るだけ」
サラが小さく言った。
「知るだけなら、できる」
陸がファイルを抱え直し、扉に向かった。出る直前、振り返る。
「サラ、俺、戻ってきたらホチキスの続きするから。逃げんなよ」
「逃げないし」
サラはそう言って、でも足先は出口の方に向けたままだった。
静が扉の前の陸に言う。
「黒川が形式を変えるって話、出てる。余計な紙は渡すな。必要なものだけ」
陸が頷いて出ていく。廊下の空気が一段冷たくなる。
サラは小さく息を吐いて、もう一度だけ「本人用」の紙を見た。
静が言う。
「息ができたなら、次は一歩だ。五分でいい」
サラは鞄の肩紐を握り直した。
「……五分、守る。約束」
静は報告書の控えを手に取り、机の角を揃える。扉の外から、靴音が近づいてくる。教頭の靴音かどうかは分からない。
ただ、今日は確実に、誰かがこの部屋のやり方を測りに来る。静は紙を離さなかった。
写真。時間記録。反省文。壁画の復旧前後。ノギスで測った数値のメモ。本郷タクの三行説明。
陸がホチキスを止め、針が一度だけ噛んだ。
「……これ、明日出すんすよね」
「出す。黒川が“明日の報告書で決着”って言ったからな」
静はクリップの位置を揃えた。紙の端がそろうだけで、妙に「学校の勝ち」みたいに見えるのが腹立たしい。
扉がノックもなく開いた。
女子が一人、立っていた。制服のスカートの丈が少し短い。髪は雑に結ばれて、目は半分だけ開いている。
「……ここ、誰でも来ていいんすか」
「どうぞ。名前」
「竹内。サラ」
陸が椅子を引いた。
「座る?」
サラは椅子を見て、見なかったことにして、壁にもたれたまま言った。
「進路とか、別に。提出物も、もう無理だし」
静はペンを置く。
「無理の中身を聞く。提出物、ゼロだな」
「知ってんだ」
「担任から回ってくる。佐伯が数字にうるさい」
サラの口角が少しだけ動いた。笑いではない。
「じゃあ、私、終わりっすね」
「終わりにしたいのか」
「……したいっていうか。終わってるし」
静は棚から白紙の紙を一枚抜いて、机の上に置いた。
「今日、何時に学校来た」
「……八時半ぐらい」
「昨日の夜、何時に寝た」
「寝てない」
陸が口を挟みかけて、飲み込んだ。
静は淡々と書いた。
「寝てない理由は」
「弟が。熱出して。親いないから」
静のペン先が止まったが、すぐ動いた。
「親いないって、離婚か」
「知らない。どっちも夜まで帰んない。働いてんじゃないっすか」
「弟、いくつ」
「小三」
「今朝は誰が見てきた」
「近所の……おばさん。五百円払って」
「五百円」
静は数字をそのまま紙に落とした。サラの目がそこに吸い寄せられる。
「……何それ」
「現実。五百円が出る日と出ない日で、出席が変わる」
サラは肩をすくめた。
「だから、無理って言ってんの。プリントとか、レポートとか。やる時間ない」
「時間がないのは本当だ。だから“やらない”じゃなく、“減らす”」
「減らせるんすか。学校の提出物って」
「全部は無理。優先順位つける。赤点回避と、出欠の穴埋めと、進路の最低ライン」
サラが鼻で短く息を吐いた。
「最低ライン、ね」
「最低ラインがないと、選べる道が減る。黒川の好きな言い方で言うと“結果がすべて”だ」
陸が小さく舌打ちした。
「……あの人の言い方、ムカつくんだよな」
サラが陸をちらっと見た。
「その人、偉い人?」
「教頭。第3進路室を潰したい人」
「潰れんの?」
「潰れないように、明日報告書出す」
静は紙を指で叩いた。
「話を戻す。家のこと、担任は知ってるか」
「言ってない。言ったら、可哀想って顔されるじゃん」
「可哀想って顔、嫌いか」
「……嫌い。あと、なんか“頑張れ”って言われるのも」
静は頷きも否定もしない。
「頑張れは要らない。代わりに、手順を決める」
サラは壁から背中を離した。
「手順?」
「まず、サラの“今やってること”を数字にする。家のこと含めて」
「数字?」
陸が目を丸くする。
「家のことも?」
静は陸に視線を投げた。
「家計と時間は、才能が出る。サラ、家の買い物、誰が管理してる」
サラは一瞬だけ目を逸らした。
「……私。レシート、捨てると怒られるから。袋に入れてる」
「怒るのは誰だ」
「母。帰ってきたときに。『何に使った』って」
静は机の引き出しから電卓を出した。カチ、と机に置く音が小さく響く。
「家計簿つけてる?」
「つけてない。そんな暇ない」
「じゃあ、頭の中か」
「……だいたい。今週、米が切れるとか。電気代がやばいとか」
静が電卓のボタンを二回押して、ゼロを出した。
「今月、食費いくらまで」
サラが即答した。
「二万。弟と二人なら。母がいると増える」
「増えるのはなぜ」
「酒。つまみ。あと、弁当買う」
陸が思わず口を開ける。
「二万って……」
サラは陸を睨むでもなく、ただ言った。
「だから? 家ってそういうもんでしょ」
静が紙に「食費 20,000」と書く。
「水道光熱、いくら」
「電気八千ぐらい。夏は一万いく。ガスは五千。水道は……忘れた」
「忘れたのに、電気は言える」
サラの眉が動いた。
「電気止まると困るから。弟、暑がりだし」
静はそのまま書く。
「止まると困るものは、覚えてる。サラ、金の優先順位つけてるな」
「……当たり前じゃん」
「当たり前ができない大人もいる」
サラが静を見る。言い返す言葉を探して、見つからない顔をした。
陸が小声で言った。
「それ、すげーことじゃね」
サラは肩をすくめたが、さっきより力が入っていない。
「すげーとか、言われても。学校の点数にならないし」
静は椅子を指差した。
「座れ。家計簿の形にする。学校の点数じゃなく、進路の材料にする」
「進路って、就職? 私、バイトもしてるし」
「何のバイト」
「スーパー。レジと品出し。週三」
「シフト、どうやって組んでる」
「店長が入れてくる。私、弟のことあるから、無理な日は前もって言う」
「前もって、って何日前」
「一週間前。急だと迷惑かかるし」
静はその「一週間前」を丸で囲んだ。
「段取りができる。家計が読める。時間の穴を埋められる。サラ、提出物ゼロでも、社会で必要なことはやってる」
サラの喉が動いた。何か言いそうで、言わない。
陸が机の端を指で叩いた。
「でもさ、学校は提出物とかテストとかでしか見ないじゃん」
静は陸を見た。
「だから“見える形”に変える。黒川は数字しか信じない。なら数字を出す」
サラが笑った。
「教頭、家計簿見て納得すんの?」
「納得させるのは“教頭の心”じゃない。“制度の穴”だ。欠席が多いなら、生活困難の事情を担任と共有して、支援につなぐ。提出物は、量を減らして期限をずらす交渉をする。進路は、家計管理が活きる職種を探す」
サラの笑いが消える。
「支援って……何それ。お金くれるの?」
「学校は金を出せない。ただ、繋げる窓口はある。市の相談、生活の手続き、母親の就労のこと、弟の学童のこと。やるのは簡単じゃないし、すぐ助かる保証もない」
サラの目が細くなる。
「じゃあ、意味ない」
「意味はある。でも“今夜の五百円”は、支援じゃ埋まらない日もある」
静は言い切ってから、紙をサラの方へ滑らせた。
「その日を減らすために、手を増やす。サラが一人で抱えない形にする」
サラは紙を見た。そこに並ぶ数字を指でなぞる。
「……私、これ、誰に見せんの」
「まず、担任。佐伯は数字が好きだ。数字で話せば動く」
陸が眉をひそめる。
「佐伯、動くかな……」
静は答えず、サラに言った。
「次に、家。母親と話せるか」
サラの口が固く閉じる。しばらくして、吐き出すように言った。
「話しても、怒るだけ。『学校行け』って。行ってるし」
「怒るのは、余裕がないからだ」
「余裕なんか、ないよ」
静は頷く代わりに、別の紙を出した。
「じゃあ、手紙にする。短く。責めない。数字だけ」
サラが顔をしかめる。
「手紙とか、気持ち悪」
「気持ち悪くても、残る。口喧嘩は消える」
陸が小さくうなずいた。前日、本郷に渡した一行手紙のことを思い出したように。
静はペンを渡す。
「書けるか。『今月の家計』と『学校の提出物の現実』。お願いは一つだけ」
サラはペンを受け取ったが、すぐには書かない。
「お願いって、何」
「弟の預け先を一つ増やす。週一でもいい。学童か、親戚か、地域の見守りか。サラが学校で“二十分快適に”座れる日を作る」
「二十分って、しょぼ」
「しょぼい積み重ねが、赤点を回避する。本郷も今、毎日二十分やってる」
「誰」
「別の生徒。欠席常習。だけど、やり始めた」
サラはペン先を紙に落とし、かすれた文字で書き出した。
「……『今月、食費二万』……」
静はその横で、別の紙に「提出物リスト」を簡単に書いた。
「数学、未提出三つ。国語、読書感想文。保健、レポート。全部は無理だ。国語は二百字に縮める交渉する。保健は形式だけ整えて最低点を狙う。数学は……」
サラが顔を上げる。
「数学、無理。欠席してるし」
「無理でも、赤点は避ける。明日から二十分。ここで。時間記録つける」
「また数字」
「数字は武器だ。サラはもう持ってる。使い方を変えるだけ」
サラは手紙を書き終えて、紙を机に置いた。字は荒いが、要点だけが並んでいる。
『食費2万 電気8千 ガス5千 今週弟発熱で夜見てた 学校提出物遅れてる 弟の預け先相談したい』
最後の一行が、少しだけ小さかった。
静はその一行を指で押さえた。
「これでいい。明日、担任と話す。サラも来る」
サラが即座に首を振る。
「無理。大人同士でやって」
「本人がいないと、“怠け”で片付けられる。佐伯はそういう処理をする」
陸が口を挟む。
「サラ、俺も同席する。変なこと言わせない」
サラが陸を見た。じっと。視線の圧に陸が少し背筋を伸ばす。
「……なんでそこまで」
陸は目を逸らし、机の上の報告書の束を見た。
「第3が火種って言われてんだよ。火種でも、燃え方、選べるだろ」
静が短く言う。
「明日、黒川に報告書を出す。その前に、担任と一回交渉する。サラの事情も数字も、今なら間に合う」
サラは唇を噛んだ。噛んだ跡が白くなる。
「……私が行ったら、迷惑じゃない?」
「迷惑かどうかは学校が決める。でも、サラの人生は学校が決めるもんじゃない」
静は立ち上がり、壁の時計を見た。
「今日、あと十五分ある。数学のプリント、一枚だけやる。できるところだけでいい」
サラが目を細める。
「……できなかったら」
「できない箇所が“交渉材料”になる。ここまで理解してる、ここから先が詰まってる、って言える」
陸がプリントを探して棚を漁り、静に差し出した。
「これ、基礎のやつ。解説付き」
サラはプリントを受け取り、椅子に座った。机に肘をついて、鉛筆を転がす。
静はサラの前に、時間記録の紙を置いた。
「開始、今。十五分。終わったら、今日の家の予定も書け」
サラが小さく言った。
「……弟、迎え行かなきゃ」
「それも書け。迎えは何時、どこ。移動に何分。数字にする」
サラは鉛筆を握り直し、プリントの一行目に線を引いた。
廊下の向こうで、誰かが「教頭が職員室に戻った」と囁く声がした。紙の山が、急に重く見える。
静は報告書の束に目を落とし、サラの鉛筆の音を聞きながら、次に佐伯へ持っていく言葉を頭の中で削った。明日の前に、今日の十五分を落とさないために。
サラの鉛筆が止まった。
プリントの余白に、小さく「19:10 弟迎え」と書いてある。数字の書き方だけが妙に揃っていた。
静が時計を見る。
「十五分。ここまででいい」
サラはプリントを裏返して、鞄に突っ込もうとした。
「持って帰る。家でやる」
「家でやるは、やらないと同義になりやすい」
サラの手が止まる。
「……うるさい」
陸が椅子から半分だけ立ち上がった。
「サラ、怒ってるとこ悪いけど、帰り急ぐなら、これだけ。今日の予定、書いて」
静が時間記録の紙を指で押さえた。
「迎え、何時」
「……七時十分」
「場所」
「学童。弟、熱下がったら学童行ける」
「行けない日は」
サラは一瞬だけ目を泳がせた。
「……近所の人。五百円」
静が昨日書いた「五百円」をもう一度丸で囲んだ。
「毎日じゃないな。週に何回」
「……二回とか。月末は無理」
「月末って、何が来る」
サラが舌で唇を湿らせる。
「家賃。電気。スマホ。あと、給食費の封筒」
陸が小さく息を吸った。
「給食費って……弟の?」
「そう。学校から催促くると、弟が泣くから」
「泣く?」
「先生が言うんだよ。『まだです』って。みんなの前で」
静のペン先が紙に触れたまま止まった。インクが少し滲む。
「サラが払ってるのか」
「……私が出す。母に言うと、キレる」
「母親の給料日、分かるか」
「だいたい。十五日と月末。入るときと入らないときある」
静は黙って、机の端のクリアファイルを開けた。中から、レシートの束が出てくる。サラがさっき「袋に入れてる」と言ったものと同じような、角の丸まった紙。
サラの鞄の口から、同じ色の紙が覗いていた。
静が目だけで示す。
「それ、今日も持ってるな」
サラが反射的に鞄の口を押さえる。
「見ないで」
「見ない。サラが見せると決めたら見る」
陸が視線を逸らしたまま言う。
「……俺、こういうの、適当に捨てるタイプだった」
サラが小さく笑って、すぐ消えた。
「捨てたら終わるから。支払い、忘れたら終わる」
静が椅子を引いた。
「座れ。五分でいい。サラの“終わる”を整理する」
サラは渋々座った。椅子がきしんだ。
静が机の上に白紙を置く。
「家の支払い、誰が何をやってる」
「母は……現金置いてく。たまに。私が振り込む」
「振り込み、どこで」
「コンビニ。バーコード。あと、郵便局」
「口座は」
「母の。キャッシュカードは……ない。暗証番号は知ってる」
陸が顔を上げる。
「え、暗証番号……」
サラが睨む。
「仕方ないじゃん。母いないんだもん」
静が紙に「振込:コンビニ/郵便局」と書いた。
「家計簿は」
「ノート。家にある。書く時間ないから、レシート貼って、金額だけ丸つける」
「丸つけるだけで、何が分かる」
サラは即答した。
「今週、残りいくらか。どれ削れるか」
静はそこで初めて、サラの手元を見た。爪の先が少し欠けている。指の腹に、紙で切ったような細い傷。
「削れるの、何」
「肉。お菓子。あと、私の昼」
陸が思わず言った。
「昼抜いてんの?」
「うるさい。別に。慣れてるし」
静が陸を手で制した。
「慣れてるは、危険のサインだ。サラ、昼抜くと、何が起きる」
サラは少し考えてから言った。
「眠い。イライラする。授業、頭入んない」
「それで欠席増える」
「……そう」
静が紙に線を引いた。
「サラが“生活を回してる”。母親の代わりに、だ」
サラの肩がわずかに跳ねた。
「代わりって言わないで」
「言う。役割が重いって意味だ」
サラは口を開けて、閉じた。言い返す言葉が喉で止まったまま、視線だけが机の上を彷徨う。
陸が小さく言う。
「サラ、すげーよ」
「すごくない。普通」
「普通なら、もっとみんな提出物出してる」
サラが陸を睨む。
「それ言うな」
静が割って入る。
「サラの普通は、学校の普通と違う。そのズレを埋めないと、学校はサラを“怠け”で処理する」
サラが鼻で笑う。
「処理、ね。ゴミみたい」
「ゴミじゃない。けど、学校は忙しい。黒川は特に、“火種”を切り捨てたい」
サラが静を見る。
「……私、火種なの」
「今のままだと、そう見える」
陸が拳を握った。
「見えるだけで切るの、最悪だろ」
静は淡々と言った。
「最悪でも、起きる。だから先に“説明できる形”にする」
サラが机の上の紙を指で叩いた。
「説明って、何を」
「サラが生活を回してる事実。支払いの種類。頻度。金額。時間。具体的に」
「言ったって、どうせ変わんない」
「変わる部分と変わらない部分がある。変わらないのは、母親が急に理想の親になること。変わるのは、学校の対応と、サラの負担の分け方」
サラが眉をひそめる。
「分け方?」
静がペンで紙の端に小さく「外に出す」と書いた。
「支払いを全部サラが抱えるのは危ない。少なくとも、弟の給食費と学童の手続きは、相談窓口に乗せる」
「窓口って、どこ」
「市の子育て支援。学校ならスクールソーシャルワーカー。うちの学校、週一で来てる」
サラが顔をしかめる。
「知らない」
「知らされてない生徒が多い。知らないまま倒れる」
陸が静を見た。
「それ、明日までに動けるんすか」
「動ける。今日、電話を一本入れる。明日の昼休みに面談枠を取る」
サラが慌てて言った。
「待って。勝手にやんないで。母にバレたら……」
静はサラの言葉を遮らず、最後まで聞いた。
「バレたら、何が起きる」
サラは唇を噛んでから、絞るように言った。
「怒鳴る。物投げる。『余計なことすんな』って」
陸が椅子の背を握りしめた。静は表情を変えないまま、机の上のレシートの束を見た。
「物が飛ぶ家で、サラが金を管理してる。リスクが高い」
サラが低く言う。
「だから、黙ってればいいじゃん。私がやるから」
「サラが倒れたら、弟が困る」
サラの目が一瞬揺れた。
静はそこを追わず、別の紙を差し出した。
「手順を決める。母親にバレないように動く部分と、バレてもいいように整える部分を分ける」
「……そんなの、できるの」
「できる範囲で。例えば、学校への説明は“家庭事情で提出が遅れている”まで。具体の金額は、サラが許可した分だけ。支援窓口には、母親の同意が必要なものもある。そこは急がない」
サラが小さく息を吐いた。
「同意とか、無理」
「無理なら別ルート。弟の学校の相談、児童の方から入る場合もある。サラの安全が最優先」
サラが顔を上げた。
「安全って、何。私、殴られてないし」
静は少しだけ声を落とした。
「殴られてなくても、物が飛ぶ家は安全じゃない。危険が“いつ来るか分からない”のが一番削る」
サラの指が、紙の端をぎゅっと掴んだ。破れそうで、破れない。
陸が小さく言う。
「……サラ、ここで話したこと、外に漏れないから」
静が頷く。
「必要な人に、必要な分だけ。これは約束する」
サラはしばらく黙っていた。廊下の足音が遠ざかり、職員室の方で電話の呼び出し音が鳴った気がした。
静の机の上の報告書の束が視界の端に入る。明日。黒川。決着。形式変更。
サラがぽつりと言った。
「私、家計簿のノート、持ってきたら……何かになる?」
「なる。進路の材料にも、学校との交渉にもなる。ただし、見せ方を選ぶ」
「見せ方?」
「コピーして、必要なページだけ。個人情報は隠す。金額の推移と支払い種類だけ抜く」
陸が頷く。
「数字だけ出す、ってやつだ」
サラが陸を見て、少しだけ口元を緩めた。
「……あんた、さっきからうるさい」
「うるさいのが仕事になりつつある」
静が立ち上がった。
「サラ。明日、昼休み。ここに来い。家計簿ノート、持ってこれるなら持ってくる。無理なら、レシートの袋だけでもいい」
サラが鞄の口を押さえたまま言う。
「明日、弟の迎え早い日」
「じゃあ朝。五分でいい」
「朝も……」
静が遮らずに待つ。サラは言い淀んで、結局、頷いた。
「……五分なら」
静は机の電話に手を伸ばした。受話器を持ち上げる前に、サラを見た。
「今から一本、外に電話する。名前は出さない。いいな」
サラは少しだけ間を置いて、顎を引いた。
「……うん。でも、絶対、母に直接電話しないで」
「しない。勝手な正義はやらない」
陸が報告書の束を抱え直した。紙がずしりと鳴る。
扉の外で、また誰かが小声で言う。「明日、教頭が第三の報告書を見るって」
静は受話器を耳に当て、ダイヤルを押した。サラはその手元を見つめたまま、鞄の中のレシートを指で確かめるように押さえていた。
受話器の向こうで呼び出し音が二回鳴って、切れた。
静はもう一度かけ直さない。机の上のメモに「明日昼 SSW」とだけ書く。
サラが立ち上がった。
「……帰る。弟迎え」
「行け。遅れるな」
サラは鞄を肩にかけたまま、扉に手をかける前に振り返った。
「先生さ、さっき進路とか言ってたけど。私、夢とか言ってる場合じゃないから」
笑った。声だけ。目は笑っていない。
陸が口を開きかけて、閉じた。
静はペンを置いた。
「夢は要らない」
サラの眉が動く。
「え」
「要るのは選択肢。夢は叶うかどうか分からない。選択肢は増やせる」
サラが扉から離れて、机に一歩戻った。
「選択肢って、何。就職? 高卒で働けって?」
「高卒で働くも選択肢。進学も選択肢。専門も、職訓も。サラの家計管理は、どこでも使える」
サラが鼻で笑った。
「家計簿なんて、ただの貧乏スキルじゃん」
静は首を振らない。否定もしない。
「貧乏スキルって言い方、嫌いじゃない。現実に役立ってるからな。ただ、それで終わらせるか、武器にするかは別だ」
サラが腕を組んだ。
「武器って、どうやって」
静が机の引き出しから、薄いパンフレットを二つ出した。端が折れている。
「一つは、商業系の専門。簿記。経理。医療事務。資格は就職に直結しやすい」
サラがパンフレットに目を落とす。
「資格って、金かかるでしょ」
「かかる。学費も交通費も。奨学金を使う手がある。ただし借金だ。返す前提で選ぶ」
陸が顔をしかめる。
「借金って言い方、重いっすね」
「重いから言う。軽く扱うと後で潰れる」
サラがパンフレットを指で弾いた。
「返せる保証ないじゃん」
「保証はない。だから、返しやすい条件を探す。給付型があるか、授業料免除があるか、通える距離か、働きながらか」
サラが小さく言った。
「そんなの、調べる時間ない」
「調べるのはこっちがやる。サラは“条件”を出す」
「条件?」
静は紙に線を引いた。
「家に入れる金はいくら必要」
サラが即答した。
「最低、三万。できれば五万」
「月に」
「うん」
「じゃあ、在学中に月三万稼ぐ必要がある。バイト継続。通学時間は片道何分まで」
「……四十分。弟の迎えあるし」
「夜は何時まで家を空けられる」
「八時半。弟寝かせる」
静が淡々と書く。数字が並ぶ。
サラがその紙を見て、さっきより声が低くなる。
「……こうやって書くと、無理じゃん」
「無理に見えるのは、条件が見えたからだ。見えないまま突っ込む方が無理だ」
陸が紙を覗き込んだ。
「これ、パズルみたいだな」
静が二つ目のパンフレットを出す。
「もう一つは公共職業訓練。条件次第で授業料が抑えられる。年齢や状況で使える制度が変わる。高校卒業後になる場合が多い」
サラが首を傾げた。
「訓練って、ハロワのやつ?」
「そう。すぐ就職するだけじゃなくて、技能をつけてから就職する道もある」
サラが笑った。
「それ、夢じゃん。余裕ある人の」
静は笑わない。
「余裕がない人ほど、遠回りの方が安定する場合がある。すぐの月五万のために、ずっと不安定なバイトを続けるのか。半年~一年かけて、月十五万~二十万の土台を作るのか」
サラの笑いが止まる。
「……半年も一年も、家が持たない」
「なら、持たせる手を探す。母親の収入の波、弟の預け先、支払いの整理。サラ一人で全部は無理だ。だから外に出す」
サラは視線を落として、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「外に出すって、結局、大人に頼るってことじゃん」
「そうだ。頼るのも技術だ。サラは今、頼らずに回してる。それは尊いけど、続けると壊れる」
陸が小さく言う。
「壊れたら、マジで終わる」
サラが陸を睨む。
「終わるとか言うな」
陸は一瞬言い返しそうになって、飲み込んだ。
「……ごめん。でも、俺、サラがいなくなるの、嫌だ」
サラの目が少しだけ揺れて、すぐに逸れた。
静が机の端を指で叩いた。
「サラ。進路の話は、夢の話じゃない。卒業後の“月いくら”“何時まで働ける”“弟をどうする”の設計だ。そこに学校を使う」
サラが顔を上げる。
「学校、使えるの?」
「使わせる。黒川は“成果”が欲しい。なら、サラの成果を形にして出す。家計簿、時間記録、バイトのシフト、支払いのリスト。全部、数字だ」
サラが鼻で笑った。
「教頭に見せるの?」
「見せない。教頭には“欠席と提出遅れの合理的理由”と“改善計画”だけ。細かい生活は守る」
陸が言う。
「守れるんすか」
「守るために、紙を作る」
静は引き出しから、また白紙を一枚出した。上に大きく「学校用」と書く。
「学校用は、こう。『家事・育児負担により学習時間が確保困難。支援窓口と連携し、提出物は優先順位をつけて段階的に提出。数学は毎日二十分の補習で赤点回避』」
サラがその文字を見て、口を尖らせた。
「……なんか、私がダメな人みたい」
「学校の言葉はそうなる。だから、別紙で“サラの強み”を書く」
静はもう一枚に「本人用」と書いた。
「『支払い管理』『予算設計』『優先順位づけ』『期限管理』『対人調整(店長とシフト交渉)』。これは就職でも進学でも使う」
サラが小さく言った。
「……そんなの、当たり前」
「当たり前を言語化できるやつが少ない」
扉の向こうで、廊下を歩く靴音が近づいて、遠ざかった。「第三、明日どうするんだってさ」という声が混じる。
サラが肩をすくめて、また笑った。今度は少しだけ、照れ隠しみたいな速さで。
「先生、めんどくさい」
「めんどくさいのが仕事」
陸が手を挙げるみたいに言った。
「俺も、めんどくさい側に回っていい?」
静が陸を見る。
「明日、報告書提出が終わったらな。今はホチキスの続き」
陸が「うぇー」と小さく言いながらも、束を抱えた。
サラが扉に手をかける。
「……明日、朝五分ね。家計簿、持ってこれたら持ってくる」
「持ってこれないなら、写真でもいい。スマホで必要なページだけ撮れ」
サラが頷きかけて、ふと止まった。
「……それ、母に見られたら終わる」
「撮るなら、学校で。今は無理するな」
サラは短く「わかった」と言って、廊下に出た。
静は扉が閉まる音を聞いてから、机の上の「学校用」と「本人用」を重ねた。上に報告書の束を置く。
明日、黒川に見せるのは、この山の一部だ。
静は受話器に手を伸ばし、今度は番号を確かめてから押した。明日の五分を、選択肢に変えるために。
翌朝。第3進路室の扉が、控えめに二回ノックされた。
静が顔を上げると、サラが立っていた。髪は昨日より整っているが、目の下が薄く影になっている。手にはノートではなく、折りたたんだチラシみたいな紙が一枚。
「五分、って言ったから。五分だけ」
「入れ」
サラは椅子に座らず、机の端に立ったまま紙を差し出した。
「これ。昨日、家で探した。母が置いてたやつ」
静が受け取ると、封筒の控えだった。電気料金の支払い票。サラの指が、金額欄の横をトントン叩く。
「ここ、払ったか払ってないかで、家の空気変わる」
「払うのは誰だ」
サラは答えず、視線だけを落とした。
静は控えを机に置き、昨日の「本人用」の紙をサラの前に滑らせた。
「今日は、現実ルートを三つ出す。サラが選ぶための」
サラが眉をひそめる。
「また増やすの」
「増やす。減らすのは、黒川がやる」
その名前でサラの口が少し歪んだ。
「……教頭、ほんと嫌いなんだ」
「嫌いでいい。味方にしなくていい。避ければいい」
静はパンフレットの束から三枚だけ抜き、机に並べた。
「一つ。奨学金」
サラが身を乗り出す。
「借金のやつ?」
「借金のやつ。だから条件を見る。給付型もある。成績だけじゃない枠もあるが、狭い。現実は“借りる”が多い」
サラの顔が曇る。
「返せない」
「返せないなら借りない。返す見込みを作れる道とセットで考える」
静は二枚目を指した。
「二つ。夜間」
「夜間って、高校?」
「夜間の専門もある。昼は働いて、夜学ぶ。体力は削れる。けど、収入を途切れさせない」
サラが小さく笑った。
「体力、もうない」
「今のままは、体力が削られるだけで増えない。夜間は削れるけど、増える可能性がある」
サラは黙った。反論が出ない代わりに、指がスカートの端を握りしめる。
静は三枚目を指した。
「三つ。職業訓練。公的なやつだ」
サラが首を傾げた。
「高校出たあと?」
「基本はそう。ただ、サラの状況次第で、利用の順番や支援の組み合わせが変わる。生活の相談とセットで動かす」
「金、かかる?」
「授業料が抑えられるコースが多い。教材費はかかることがある。通う交通費もかかる。ゼロじゃない」
サラが息を吐く。
「結局、金じゃん」
「金だ。だから金の話を避けない」
静は机の上に電卓を置いた。
「サラ。月に家に入れる最低三万、って言ったな」
「……うん」
「夜間で学ぶなら、昼の収入は確保できる。職業訓練なら、期間中の生活をどう繋ぐかが課題になる。奨学金なら、卒業後の収入で返済が課題になる」
サラが目を細める。
「全部、課題しかない」
「課題が見えたら、手が打てる」
陸が扉を少しだけ開けて顔を出した。手に分厚いファイル。目が合うと、すぐ入ってきた。
「すいません、これ、報告書の最終……」
机の上の三枚を見て、口を閉じる。
静が顎で示す。
「そこに置け。サラの話、続ける」
陸はファイルをそっと置き、サラに小声で言った。
「おはよ」
「……おはよ」
その返事は、昨日より角が取れていた。
廊下の向こうで、誰かが言った。「教頭、もう来てるらしい」
陸の肩が一瞬固まる。静は動かない。
サラがその空気を感じ取ったみたいに、声を落とした。
「今日、やばい日?」
「やばい日だ。だから早めに話してる」
サラは紙の端を指でいじりながら言った。
「私さ、進路って、二択だと思ってた。就職か、無理して進学か」
「学校が見せるのはその二択が多い。実績にしやすいからな」
陸がぼそっと言う。
「数字にしやすい」
静が頷く。
「でも、道は他にもある。サラが“今の生活を崩さずに”って条件を持ってるなら、それに合う順番にする」
サラが静を見る。
「順番?」
「例えば、高卒で就職して家計を安定させてから、夜間で資格を取る。逆に、今のバイトを続けながら夜間で学んで、就職を一段上げる。職業訓練は、卒業後に使うカードとして準備しておく」
サラの目が、机の上の三枚を行き来する。
「……準備って、何すんの」
「情報を集める。条件を満たすか確認する。相談窓口の予約を取る。書類を揃える。サラの得意分野だ」
サラが自分の指を見た。爪の欠けた先。
「書類、嫌い」
「嫌いでも、やってる。支払い票、期限、管理。家計簿。全部書類だ」
サラが小さく鼻を鳴らした。
「……たしかに」
静は「本人用」の紙の端に、新しく二行だけ書いた。
『奨学金:借りる/返す』
『夜間:働く/学ぶ』
それから、三行目。
『職訓:学ぶ/就職に繋ぐ』
サラがその文字を見て、肩がふっと落ちた。力が抜けたみたいに。
「……なんかさ」
静は待つ。
サラは、笑いそうで笑わない顔のまま、息を吸って吐いた。
「やっと、息できる」
陸が目を丸くした。
「……息」
サラは視線を逸らし、早口で続けた。
「だって、私、ずっと“今月どうする”しか考えられなかった。来月とか、卒業後とか、考えると怖いだけだったし。考えたら負けみたいで」
静は頷かない。代わりに言う。
「考えないと、誰かに決められる。黒川みたいにな」
サラが短く笑った。
「最悪」
「最悪を避けるために、今日やることを決める」
静は机の上の報告書ファイルを指で叩いた。
「今から黒川に提出する。陸、持っていけるか」
陸が喉を鳴らした。
「行きます。……怖いけど」
静はサラを見る。
「サラは、今日の放課後、五分。家計簿ノート、持ってこれるなら持ってこい。無理なら、支払い票とレシートの写真。学校で撮る」
サラが頷く。
「放課後なら……弟、学童ある日」
「じゃあその間に、奨学金の種類だけ一緒に確認する。借りるかどうかは決めなくていい。知るだけ」
サラが小さく言った。
「知るだけなら、できる」
陸がファイルを抱え直し、扉に向かった。出る直前、振り返る。
「サラ、俺、戻ってきたらホチキスの続きするから。逃げんなよ」
「逃げないし」
サラはそう言って、でも足先は出口の方に向けたままだった。
静が扉の前の陸に言う。
「黒川が形式を変えるって話、出てる。余計な紙は渡すな。必要なものだけ」
陸が頷いて出ていく。廊下の空気が一段冷たくなる。
サラは小さく息を吐いて、もう一度だけ「本人用」の紙を見た。
静が言う。
「息ができたなら、次は一歩だ。五分でいい」
サラは鞄の肩紐を握り直した。
「……五分、守る。約束」
静は報告書の控えを手に取り、机の角を揃える。扉の外から、靴音が近づいてくる。教頭の靴音かどうかは分からない。
ただ、今日は確実に、誰かがこの部屋のやり方を測りに来る。静は紙を離さなかった。
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