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第9話:嘘つき優等生
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陸がファイルを抱えて廊下に出た背中を、静は扉のガラス越しに見送った。
「落とすなよ」
小さく言うと、陸は振り返らずに手だけ上げた。階段のほうから、朝のチャイム前のざわめきが押し寄せてくる。
静が机の上を整える。写真、時間記録、数値メモ。黒川が嫌うのは「気持ち」だ。なら「数字」で殴るしかない。
ノックが二回。控えめで、きっちりした間隔。
「どうぞ」
扉が開いて、制服の襟元まで完璧に整えた女子が入ってきた。髪も、鞄の持ち方も、姿勢も。教室に貼られる模範写真みたいな生徒だった。
「失礼します。西園ユナです」
「西園。三年一組だな。……進路室、初めてか」
「はい。あの、ここ……第三、ですよね」
「そう。進路の相談なら座れ」
ユナは椅子に腰を下ろす。膝の上に手を置く。指先が揃っている。静はその指の爪の際に、薄い赤みを見つけた。
「担任は佐伯か」
「はい」
「佐伯に言えなかった話?」
ユナの視線が机の角に落ちた。返事までの間が、妙に長い。
「……言える話です。たぶん」
「たぶん、が付くなら言えない側だな」
ユナの唇が一度だけ結ばれて、ほどけた。
「私、成績は……大丈夫です。模試も、今のところ」
「知ってる。学年上位。推薦も視野。だからここに来た理由が気になる」
ユナは鞄から手帳を出した。薄い。中身は付箋だらけで、色が規則正しく並んでいる。
「私、予定は守れます。提出も、遅れたことないです」
「うん」
「でも、最近……」
言いかけた瞬間、ユナの肩が小さく跳ねた。息が、浅くなる。喉の奥で空気が引っかかるみたいな音がした。
静は立ち上がらず、声の高さだけ落とした。
「西園。今、息が速い。口じゃなく鼻で吸えるか」
ユナは首を横に振った。指が手帳の端を強く掴む。紙がくしゃっと歪んだ。
「無理、です……っ」
静は机の引き出しから紙コップを出し、何も入れずにそっと机の端に置いた。
「それに向けて、ゆっくり吐け。吸おうとするな。吐く」
ユナはコップを見て、戸惑いながら口を近づけた。息がコップの内側に当たって、かすれた音がした。二回、三回。肩の上下が少しずつ小さくなる。
静は時計を見るふりをして、急かさない。廊下の足音が遠ざかるのを待つ。
「……すみません」
「謝るな。体の反応だ」
ユナが額の汗を袖で拭った。袖口の内側がすでに少し湿っている。
「教室で、なった?」
「いえ。トイレで……一回。保健室は……行ってません」
「行けばいい。だが、行けない理由がある」
ユナは笑おうとした。口角だけが動いて、目が動かない。
「……優等生が保健室って、噂になりますから」
「噂が怖い?」
「怖いです。崩れたって思われるのが」
静は椅子に腰を下ろし直した。
「崩れるのは、もう始まってる。噂か、倒れるか。どっちがマシだ」
ユナの喉が小さく鳴った。手帳のページが一枚、勝手にめくれる。そこに「推薦 面接練習」「英検」「委員会」「模試復習」とびっしり書かれていた。
「家のことも、あります」
「家?」
「母が……私の成績を、親戚に送ってるんです。写真に撮って。『うちの子は大丈夫』って」
静は眉を動かさない。言葉だけ切る。
「やめてって言ったか」
「言いました。でも、『誇りなんだから』って」
ユナの指先がまた揃う。今度は揃え直す動作が早すぎて、落ち着かなかった。
「父は単身赴任で……帰ってきません。母は、私が落ちたら……」
「落ちたら?」
ユナはその先を飲み込んだ。唇が白くなる。
静は机の上の紙を一枚だけ引き寄せた。真っ白なコピー用紙だ。
「西園。現実の話する。今のまま全部守ると、どこかで体が止まる。止まったら、成績も推薦も、まとめて落ちる可能性が上がる」
ユナの目が、静の手元に吸い寄せられる。
「じゃあ、どうすれば……」
「選ぶ。削る。隠す。交渉する。手段はある」
「……隠す?」
「過呼吸のことを、全員に言う必要はない。だが、必要な人には言う。担任か、保健室か、どっちかは味方にする」
「担任に言ったら……『甘えるな』って言われそうで」
「佐伯は数字が好きだ。『甘え』って言うより『管理しろ』って言うタイプ」
ユナの肩が少し落ちる。まだ緊張は残っているが、息は戻っている。
「管理……」
静は白紙の中央に線を一本引いた。
「左に『やること』右に『やめること』。今日から決める」
ユナは首を振った。
「やめられません。委員会も、塾も、英検も……全部、必要で」
「必要かどうかは、誰が決めた」
「……私です」
「嘘」
ユナの瞳が揺れた。静は淡々と言う。
「母親の顔が浮かんだだろ」
ユナは視線を逸らした。逸らした先が扉の方だった。廊下に誰かが立っているわけでもないのに、音を気にするような目だった。
「……私、期待されてるんです。弟も、まだ小さくて。家の空気、私が崩したら」
「崩すのは、もう始まってる」
静は線の右側に、短く書いた。
「保健室」
ユナが目を丸くする。
「やめることに、保健室?」
「今週一回、保健室行け。『体調管理』でいい。理由は『呼吸が乱れることがある』まで。診断名はいらない」
「でも、記録に……」
「保健室の記録は成績表に載らない。推薦の調査書にも基本書かれない。ただし、欠席が増えれば載る」
ユナの指がコップに触れた。さっきの空っぽのコップ。
「欠席、したくないです」
「欠席しないための保健室だ」
ユナは小さく頷いた。頷き方が、許可をもらうみたいだった。
静は左側に書く。
「睡眠 6時間」
ユナが反射で言う。
「無理です。今、4時間です」
「だから倒れる。6時間取れないなら、どれか捨てる」
「捨てたら、落ちます」
「落ちない捨て方がある。例えば英検、今回じゃなく次回。委員会は副委員長に仕事を渡す。塾は回数を減らして自習にする」
ユナの眉が寄った。
「そんなの……先生、わかってない。塾、減らしたら不安で……」
「不安は消えない。だが金と時間は増える。不安をゼロにする方法はない」
ユナは唇を噛んだ。噛み方が、怒りに近い。
「……私だけ、弱いみたいじゃないですか」
静はユナの手帳を指差した。
「その手帳、弱い人が作るか?」
ユナは一瞬、言葉を失った。手帳を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「……でも、完璧に見せないと」
「誰に」
「みんなに。先生にも」
「俺に完璧を見せる必要はない。ここは第三だ。崩れてる奴が来る」
ユナの肩がわずかに震えた。笑いにも泣きにもならない息が漏れる。
「……第三って、落ちこぼれが来る場所って、聞いてました」
「学校の呼び方だ。黒川教頭はそういう枠が好きだ。数字で分けられるからな」
ユナが顔を上げた。
「教頭……」
「教頭は『実績』が欲しい。お前が倒れたら実績が消える。だから、倒れない方法を作る。これは俺の仕事でもある」
静は白紙をユナの方へ滑らせた。
「今日、ここで決める。まず一個だけ。今週、何を減らす」
ユナは紙を見つめ、指先で線をなぞった。沈黙が長い。廊下の向こうで、誰かが「教頭来るぞ」と囁く声がした気がした。静は耳を動かさない。
ユナが、やっと言う。
「……英検の単語、毎日一時間やってました。……三十分にします」
「よし。浮いた三十分は?」
「……寝ます」
「寝ろ。次。保健室はいつ行く」
「……今日、昼休み」
「佐伯には俺から話す。『体調管理で保健室を使う』って。詳細は言わない」
ユナが強く首を振る。
「やめてください。担任に知られたら……『推薦に響く』って、もっと詰められる」
「推薦に響くのは倒れることだ。詰められたら、詰め返す材料を作る」
静は机の端にあったメモ帳を取り、短く書く。
「睡眠時間/過呼吸回数/保健室利用」
「記録……」
「数字にすると、佐伯は納得しやすい。黒川もな」
ユナはその言葉に、背筋を固めた。
「教頭に、知られますか」
「知られる可能性はある。だから、見せ方を選ぶ。『メンタルが弱い』じゃなく『体調の自己管理ができている』にする」
ユナは目を伏せた。まつ毛が震えて、落ち着かない呼吸が一度だけ戻りかける。静はすぐに言う。
「今、また速くなりそうだ。吐け」
ユナは頷き、コップに向けて息を吐いた。今度はさっきより早く整う。
「……先生」
「何だ」
「私、嘘つきです。平気なふりして。『大丈夫』って言って。……それで、みんな安心して」
「安心させるための嘘は、コストが高い。払える範囲にしろ」
ユナは紙を握りしめた。指の赤みが濃くなる。
「払えなかったら?」
「払えなくなる前に、分割にする。ここに来い。朝でも昼でも」
「……朝は、委員会の準備が」
「じゃあ昼。五分でもいい」
ユナは小さく頷いた。さっきの「たぶん」と同じ調子で。
静は立ち上がり、扉のほうへ視線を向けた。廊下の気配が近づいている。革靴の音が、一定のリズムで。
黒川の歩き方に似ていた。
静は声を落とす。
「西園。今から教室戻れるか」
ユナは紙を畳んで手帳に挟んだ。息を一度整えてから立ち上がる。
「はい。戻ります」
「廊下で誰かに会っても、説明はいらない。『進路相談』で十分」
ユナは扉に手をかけ、振り返った。
「先生、これ……続けたら、私は……」
静は答えを断定しない。ただ、選べる道だけを増やす。
「続け方を変えれば、倒れる確率は下がる。ゼロにはならない。だから記録して、削って、味方を作る」
ユナは短く息を吐いた。さっきのコップに吐く呼吸と同じ速さで。
「……わかりました」
扉が閉まる直前、廊下から低い声が聞こえた。
「第三は、今日中に報告を――」
黒川の声だった。言葉の続きは扉に遮られたが、圧だけが部屋に残る。
静は机の上の白紙をもう一枚取り出し、ユナの名前を書いた。次に、陸が持っていった報告書の控えを視界の端で確かめる。
ノックがまた鳴る。今度は乱暴で、間が短い。
静は息を吐き、椅子を少しだけ前に引いた。
「どうぞ」
「どうぞ」
静が言い終える前に、扉が押し開けられた。
黒川教頭が入ってくる。スーツの襟を直しながら、部屋の中を一瞥した。机の上の白紙、コップ、写真束の端。視線が短く走るだけで、片づけの甘さを指摘される気がした。
「桐生先生」
「おはようございます」
黒川は椅子に座らない。立ったまま、窓の外の校庭を見るふりをして言った。
「第三進路室は、落ちこぼれの受け皿だ。そういう位置づけで設置している。分かっていますね」
静は机の上のファイルを揃えた。音を立てない。
「分かってます。だから来た子は受けます」
黒川が振り向いた。
「“来た子”?」
「今、三年一組の西園が来ました」
黒川の眉がわずかに動く。名前の重さが、そのまま眉に乗る。
「西園ユナ? 学年順位の上の生徒ですよ。あなたの部屋に来る必要はない」
「必要があったんでしょう」
「必要なら一進路室で足ります。あなたのところは——」
「落ちこぼれの場所、ですか」
静が言葉を先回りすると、黒川は一瞬だけ口を閉じた。すぐに、整った声で続ける。
「そうです。限られた資源の配分です。上位層は上位層で、大学実績につながる指導がある。第三が触ると、余計な不安を与える」
「余計かどうかは、本人が決めます」
黒川は机の端の空の紙コップに視線を落とした。
「……保健室ごっこでも始めたんですか」
静はコップを手に取って、裏返した。何も出ない。
「過呼吸の対処です。五分で戻しました」
黒川が鼻で息をした。
「過呼吸。そんなもの、受験期には誰でもある」
「誰でもあるなら、誰でも対処を教えたほうがいい」
黒川の目が細くなる。
「桐生先生。あなたはいつも、線引きを壊す」
「線引き、崩れてるのはそっちです。上位の子が倒れたら実績が消える。第三で早めに止めたほうが、学校に得です」
黒川の口元がわずかに歪む。笑いではない。
「学校に得、ね。あなたが口にすると皮肉に聞こえる」
「皮肉じゃない。現実です」
黒川は静の机の上の束を指で叩いた。写真の角が揺れる。
「壁画の件。提出は?」
「陸が今、持って行ってます」
黒川の視線が扉へ向く。
「相沢ですか。あなたの“助手”」
「雑務を手伝ってもらってます」
「第三が火種になっている、と私は言いましたね」
「火種は、放置すると燃えます。消したいなら、水を用意する」
黒川は机の束を見下ろし、指先で一枚をずらした。静がすぐに戻す。
「形式変更は、もう伝えたはずです。写真の添付は不要。結論だけを書け、と」
「結論だけだと、また『根拠がない』って言われます」
「誰に」
「あなたに」
黒川は瞬きを一つした。静はその隙を逃さない。
「根拠が嫌なら、数字だけ出します。時間記録、材料費、復旧範囲。これなら文句ないでしょう」
黒川は口を開きかけて、閉じた。代わりに言う。
「あなたは、いつも正面から殴りに来る」
「殴ってない。扉を増やしてるだけです」
黒川が一歩、静の机に近づく。声を落とす。
「西園の件。担任に余計なことを言うな。佐伯は今、推薦枠の調整で神経を尖らせている」
「佐伯には、体調管理で保健室を使う程度で伝えます」
「それも余計だ」
静は目を逸らさない。
「黙って倒れたら、もっと余計です」
黒川の顎がわずかに上がった。
「あなたは、優等生まで“第三の案件”にする気ですか」
「第三の案件じゃない。“学校の案件”です」
黒川が、初めて椅子に座った。座る音が重い。
「言い方を変えましょう。あなたの部屋は、数字にならない努力を救う場所だ。そう自分で言っていた」
「言いました」
「西園は数字の塊です。偏差値、内申、模試。数字になっている」
静は指で机を二回叩いた。
「数字になってるのは、結果だけです。裏のコストは出てない。睡眠四時間、息が止まりかける。そこが崩れたら、数字も崩れる」
黒川は静を見つめたまま、何も言わない。静は続けた。
「落ちこぼれか優等生か、ってラベルで分けるから歪む。倒れる前に手を打つか、倒れてから欠席日数を数えるか。どっちがあなたの好きな“数字”ですか」
黒川の目が、ほんの少しだけ泳いだ。だがすぐ戻り、硬く言った。
「あなたは、私を悪者にしたいのか」
「悪者にする気はない。あなたは学校を守る。俺は生徒を守る。重なるところだけ拾う」
黒川は息を吐き、背もたれに体重を預けた。
「桐生先生。あなたのその言い方は、いつか孤立しますよ」
「孤立しても、仕事はします」
黒川は立ち上がり、扉へ向かう。取っ手に手をかけて、振り返った。
「今日中に、壁画の報告は決着させる。第三が余計な波を立てないように」
「波が立ってるのは、現場です。見ないようにしても、消えません」
黒川は返さず、扉を閉めた。
閉まった瞬間、静の肩の力が少しだけ抜けた。だが椅子に座らない。すぐに机の上の白紙を取り、先ほど書いた「西園ユナ」の下に短く追記する。
「昼 保健室」
次に、別の名前も書く。
「竹内サラ 朝5分」
扉の外が騒がしい。早足の足音が近づいて、止まる。
ノック。今度は小さく、遠慮がち。
静は顔を上げた。
「どうぞ」
扉が開きかけたところで、廊下の向こうから別の声が飛んだ。
「相沢! 教頭室、今すぐ!」
静の目が扉の隙間に向く。入ってきた影は、制服の袖を握りしめて立ち尽くしていた。
静は声を落とす。
「……陸じゃないな。誰だ」
影が一歩だけ中に入る。かすれた声。
「先生。提出、間に合わなくて……」
静は椅子を引き、相手の顔が見える位置まで身を乗り出した。
「名前」
「竹内、サラです」
静は頷き、机の上の紙を指で押さえた。
「朝五分の約束、守ったな。座れ。まず、今日の時間を数字にしよう」
廊下の端で、陸は壁に背をつけたまま立っていた。
教頭室の扉は閉まっている。中から聞こえる声は抑えられていて、言葉までは届かない。けれど、間の取り方だけで分かる。黒川の声だ。
陸はファイルの角を握り直した。紙が擦れる音が、妙に大きい。
「相沢」
扉が開き、黒川が顔を出した。
「入って」
陸は喉を鳴らしてから、教頭室に足を踏み入れた。部屋の空気が重い。机の上に、陸が持ってきた報告書のファイルが置かれている。表紙の角が、きっちり揃っていない。
黒川は椅子に座り、ファイルを指先でトントンと叩いた。
「桐生先生が作ったのか」
「俺も手伝いました」
「“手伝った”」
黒川はページをめくる。写真、時間、材料費。数字が並ぶ。
「余計なものが多い。形式を変えると言ったはずだ」
陸は口を開いたが、すぐ閉じた。静の顔が浮かんだ。結論だけだと、また根拠を求められる。だから全部入れた。
黒川が目を上げる。
「あなたは、第三に何を求められている」
「……雑用です」
「雑用が、学校の火種になっている」
陸の指が机の縁を掴む。
「火種って、壁画のことですか」
「壁画だけではない。第三が“例外”を増やすほど、他が歪む」
陸は息を吸って、言った。
「例外が、必要なやつもいます」
黒川の眉がわずかに上がる。
「あなたが言うのか。相沢」
陸は黙った。言い返す言葉が、喉の奥でつかえて出ない。
黒川はファイルを閉じた。
「報告書は受理する。ただし、次から形式を守れ。桐生先生にも伝えなさい」
「……はい」
「もう一つ」
黒川の声が低くなる。
「第三に出入りする生徒の情報が、妙に広がる。噂が立てば、学校全体に影響する。あなたも口を慎め」
陸の背中に汗がにじむ。
「誰も、言ってません」
「言っていなくても、見られている。第三は見られる場所だ」
黒川は立ち上がり、扉を開けた。
「戻りなさい」
陸は頭を下げて出た。廊下の空気が、少しだけ軽い。けれど足は重いままだった。
第三進路室の前まで来ると、扉の向こうから声が聞こえた。静の声と、女の子の声。短い応酬。
「今日、何を削る」
「……英検、三十分にします」
「寝ろ」
陸は足を止めた。
優等生の声だ。柔らかいのに、どこか擦れている。
扉が開いて、西園ユナが出てきた。制服の襟は相変わらず綺麗だ。髪も乱れていない。けれど、目だけが落ち着いていない。廊下の端、掲示板、階段、誰かの影を探すみたいに動く。
陸と目が合った瞬間、ユナは反射で笑った。
「相沢くん。おはよう」
「……おはよう」
ユナは笑いを保ったまま、声を小さくした。
「ここ、誰にも言わないでね」
「言わない」
「うん。ありがと」
そう言って、ユナは足早に去ろうとする。だが二歩目で、ほんのわずかに膝が揺れた。陸は思わず声をかけた。
「西園、平気?」
ユナは止まらない。振り返りもしないまま、肩だけで答えた。
「平気だよ」
その「平気」が、第三の扉の前で一度だけ途切れた。息が、引っかかる音。
ユナは廊下の窓際に寄り、カーテンの影に半身を隠す。胸元を押さえ、口を開けないまま息を吐こうとしている。
陸は近づきかけて、止まった。噂。見られている。黒川の言葉が刺さる。
静が扉の隙間から顔を出した。
「西園」
ユナは首を横に振った。大丈夫、という合図。けれど指先が震えている。
静は廊下に出て、距離を詰めすぎない位置で立った。
「吐け。吸うな」
ユナは唇を結び、頷いた。肩が上下する。制服のリボンが微かに揺れる。
陸は壁に手をついた。自分の息まで浅くなる。
「……優等生も、こんなんなるのかよ」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
静が陸を一瞥した。
「優等生だから、なる」
「え」
「倒れたら終わるって思ってる。落ちこぼれは“落ちても元から”って言われる。優等生は“落ちたら裏切り”になる」
陸は唇を噛んだ。自分がいつも言われてきた言葉が、別の形で刺さる。
ユナの呼吸が少し落ち着く。だが、顔色はまだ白い。
ユナは静にだけ聞こえる声で言った。
「……家、帰りたくない」
静は頷きも首振りもしない。ただ現実の選択肢を並べる口調で言う。
「今日は帰るしかない。だが、帰り方は選べる。寄り道して落ち着いてから帰る。保健室に寄って記録を残す。担任に“体調管理”だけ通す。全部、今日できる」
ユナは目を閉じ、短く息を吐いた。
「母が、今日、模試の結果見る日で……」
「結果を見せる時間を、ずらせ」
ユナが目を開ける。
「ずらす?」
「夕飯の後にする。風呂の後にする。理由は何でもいい。“今は頭が痛い”でいい。嘘だと思うなら、“今は呼吸が乱れる”でもいい」
ユナの喉が動く。言い返したいのに、言葉が出ない顔だった。
「……怒られます」
「怒られる確率は高い。だが、怒られても倒れない確率も上げられる」
ユナは笑いそうになって、やめた。
「先生、ほんと、夢ない」
「夢は守るために現実がいる」
ユナは視線を落とし、制服の袖口を掴んだ。
「私、怖いんです。落ちるのが。怒られるのが。……息が止まるのが」
静は声をさらに低くした。
「怖いなら、記録しろ。怖さが来た時間、場所、前に何があったか。次に同じ条件が来たとき、先に手を打てる」
ユナは小さく頷いた。頷き方が、やっと自分の意思になった。
廊下の向こうから、教師の声が飛ぶ。
「西園! 次の時間、委員会の掲示物どこ!」
ユナの肩がびくりと跳ねた。反射で「はい!」と返しそうになって、喉で止まる。
陸がその場で固まる。静は言った。
「返事する前に、一回吐け」
ユナは唇を結び、息を吐く。間を作ってから、声を出した。
「……今、持って行きます」
言い終えた瞬間、ユナは静を見た。助けを求めるというより、許可を確認する目だった。
静は短く言う。
「行け。昼、保健室。五分でいい」
ユナは頷き、走らずに歩き出した。背筋はまっすぐだ。けれど歩幅が小さい。
陸はユナの背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「俺、ずっと思ってた。優等生って、楽してるって」
静は扉に手をかけたまま、陸を見た。
「楽してる奴もいる。地獄で保ってる奴もいる。見分けるのが仕事だ」
「……俺らは?」
「お前は、地獄を知ってる側だ。だから、見える」
陸は笑えなかった。喉が詰まる。
「でも教頭、第三は見られてるって。俺、さっき釘刺されました」
「刺されるのは想定内だ」
「想定内でやってんの、怖くないんすか」
静は扉を開け、陸に先に入れと顎で示した。
「怖い。だから、証拠を残す。数字と記録と、味方」
部屋に入ると、机の端に置きっぱなしの空の紙コップが見えた。さっきユナが息を吐いたやつだ。
その横に、静が書いた紙がある。「西園ユナ 昼 保健室」。
陸はその文字を見つめた。
「……俺も、記録ってやつ、つけたほうがいい?」
静は椅子に座らず、机の引き出しから新しいメモ帳を出して投げた。陸が慌てて受け取る。
「今日から。『いつ逃げたくなったか』でもいい。逃げたくなるのは、弱さじゃない。条件だ」
陸はメモ帳を開いた。白いページが眩しい。
その瞬間、第三の扉がまたノックされた。今度は遠慮のない連打。
静が目線だけで陸に「黙れ」と合図し、扉に向かう。
「どうぞ」
扉が開く。担任の佐伯が顔を出した。眉間にしわを寄せ、手にプリントの束を持っている。
「桐生先生。西園のことで、ちょっと」
陸の胸が一段、沈んだ。ユナの「誰にも言わないでね」が、耳の奥で鳴り続ける。
静は表情を変えずに言った。
「入ってください。数字で話します」
佐伯は入ってくるなり、プリントの束を机に置いた。
「西園のことで、どういうつもりですか」
静は椅子を勧めない。佐伯も座らない。立ったままの距離が、そのまま圧になる。
「どういうつもり、とは」
「第三に来させる必要がない。あの子は今、推薦のラインに乗ってる。余計なことを言われて崩れたら——」
「崩れかけてました」
静が短く切る。佐伯の眉が動く。
「何が根拠です」
静は机の端のメモを引き寄せ、裏返したまま置いた。見せない。
「本人の体調です。詳細は本人の許可が要る」
佐伯が一瞬、言葉を失う。次に出た声は低い。
「許可? 君は担任を外す気か」
「外さない。使う。だから、必要な範囲で共有する」
佐伯は唇を薄くした。
「必要な範囲、ね。第三はいつもそう言って、勝手に動く」
静は視線を外さずに言った。
「勝手に動いたら、教頭に潰されます。俺もそれは困る」
佐伯が鼻で笑った。
「黒川の顔色も見てるのか」
「見ないと生徒が潰れる。あなたも同じでしょう」
佐伯の肩が少しだけ上がった。怒鳴りはしない。だが、机の縁を叩く指が速い。
「で。西園に何を吹き込んだ」
静は淡々と言った。
「保健室を使う。睡眠を増やす。英検の勉強時間を減らす」
「減らす? 今、英検落とせば推薦の印象に——」
「落ちても死なない計画を作ってます」
佐伯が顔をしかめる。
「そんな言い方、あるか」
「ある。本人が『落ちたら終わり』で息が止まりかけてる。終わりじゃないって、手順で示す」
佐伯はプリントの束を持ち上げた。
「推薦の手順は厳密だ。内申、欠席、検定、活動実績。数字だ。君の“手順”は現実を知らない」
静は机の引き出しから別の紙を出した。白紙に、ペンで二つの丸を書く。
「これが今のあなたの世界。『合格』と『失敗』だけ」
佐伯が睨む。
「……何が言いたい」
静は丸の外側に、もう一つ小さな丸を描いた。
「『撤退』。ここを作る。失敗する前に引く。引いても戻れる場所を作る」
佐伯の目がその小さな丸に止まる。だがすぐに言う。
「撤退なんて、優等生に教える言葉じゃない」
「優等生こそ撤退を知らない。撤退できないから倒れる」
静は紙を佐伯に突き出さず、机の上に置いたままにした。押し付けない距離。
「あなたに頼みたいのは一つ。西園が昼休みに保健室へ行く。委員会の呼び出しを一回止めてください」
佐伯が即答する。
「無理だ。委員会は今、文化祭の資料まとめで——」
「じゃあ代わりを立てる。副委員長、誰です」
佐伯が口をつぐむ。名が出せない沈黙。
静が続ける。
「副委員長が機能してないなら、それも問題だ。西園一人に背負わせるのは指導の欠陥になる」
佐伯の頬が引きつった。
「言い方がきついな」
「現実がきつい」
廊下のチャイムが鳴り、遠くで教頭の声が響いた気がした。「推薦枠の進捗——」という単語だけが耳に刺さる。
佐伯は息を吐き、プリントの束を胸に抱えた。
「……分かった。昼休みは一回、委員会の用事を外す。だが、保健室に行ったことは記録に残る」
「残していい。欠席にならない」
「欠席が増えたら——」
「増やさないための保健室です」
佐伯は扉へ向かいながら、振り返る。
「西園のこと、俺に全部隠すな。担任は責任を取る立場だ」
静は頷いた。
「本人が許せる範囲で、共有します。俺が勝手に暴露はしません」
佐伯が去ると、部屋の空気が少し軽くなった。
陸がようやく息を吐いた。
「……こわ。担任って、あんな感じなんすね」
「佐伯は正しい部分もある。数字は現実だ」
静は机の紙を片づけ、陸のメモ帳に目をやった。
「書いたか」
陸は首を振った。
「まだ白いっす」
「白いなら、今日の一行。『教頭室で胃が縮んだ』」
陸が渋い顔をして、ペンを取った。書き始めたところで、扉が控えめにノックされる。
静が言う。
「どうぞ」
ユナが顔を出した。昼休みの終わりが近い時間なのに、息が少し乱れている。手には保健室の小さなカード。角が湿っている。
「先生……行ってきました」
静はカードを見て、頷いた。
「よし。座れ。五分で終わらせる」
ユナが椅子に座る。陸が気まずそうに立ち上がろうとすると、静が顎で止めた。
「陸はいていい。話を聞いて困る内容は言わない」
ユナは一瞬ためらい、頷いた。視線が床に落ちる。
静は紙を一枚出し、上にこう書いた。
「失敗しても死なない計画」
ユナが顔を上げる。
「……死なない、って」
「言葉が嫌なら変える。『詰んでも戻れる計画』」
ユナは小さく息を吐いた。笑いでも泣きでもない。
「私、詰んでるんですか」
「詰みかけ。だから今作る」
静はペン先で紙を叩く。
「まず、成績は才能の一部だ。全部じゃない」
ユナの眉が寄る。
「でも、私の価値って、成績しか……」
静は否定しない。代わりに、具体を置く。
「今日、保健室に行けた。委員会の呼び出しに即答しなかった。息を整えてから返事した。これ、才能だ。自己管理。切り替え」
ユナはカードの角を指で擦った。
「……そんなの、当たり前です」
「当たり前にできない人間が、今この部屋に何人いると思う」
陸が小さく咳払いした。
「……俺、できない側っす」
ユナが一瞬だけ陸を見る。視線がぶつかって、すぐ逸れる。
静は紙に線を引いた。三列。
左に「最悪」、真ん中に「現実」、右に「次の一手」。
「西園。まず最悪を言え。口に出せ。頭の中で膨らむと止まらない」
ユナの喉が動く。
「……英検、落ちる」
「次」
「模試、下がる」
「次」
「推薦、外れる」
静はそこで止めない。
「次」
ユナの指がカードを握り潰しそうになる。
「母が……怒る」
「怒る、で済むか」
ユナの口が開きかけて、閉じる。息が浅くなる。静が言う。
「吐け」
ユナは頷き、短く息を吐いてから、絞り出した。
「……家の空気が、壊れる。私のせいって言われる」
静はペンを置かない。
「現実。英検が落ちたら、どうなる」
ユナは目を閉じて考える。声が少しだけ落ち着く。
「……次の回、受け直せます」
「費用」
「……七千円くらい」
静がすぐに言う。
「家計に響くなら、校内の補助はない。だが、回数を減らして一回で受かる確率を上げる手もある。今の勉強法は?」
ユナが答える。
「単語一時間、長文三十分、リスニング二十分……」
「削る」
ユナが反射で言う。
「削ったら落ちます」
「削っても落ちないように変える。単語は量じゃなく回転。長文は毎日じゃなく隔日で精読。リスニングは通学中に置き換え。時間を増やすんじゃない。配置を変える」
ユナの目が、紙の線を追う。静の言葉が、手順になって入っていく。
「……配置」
静は右の列に書く。
「通学中:リスニング/夜:単語20分×2/長文:隔日」
「これ、やれば……」
「受かる保証はない。だが倒れる確率は下がる」
ユナが唇を噛む。
「推薦、外れたら?」
静は即答しない。代わりに、紙の真ん中に別の文字を書く。
「一般」
さらに書く。
「公募推薦/指定校以外」
ユナの目が揺れる。
「一般は……怖いです。全部、点数で」
「今も点数で生きてる」
ユナが言い返す。
「でも、推薦なら……“落ちても”って言われない」
静は右の列に、もう一つ書いた。
「併願」
ユナが小さく首を振る。
「併願って、親が嫌がります。“逃げ”って」
静は頷く。
「嫌がる確率は高い。だから交渉材料を作る。数字で」
ユナが静を見る。
「また数字」
「お前の家は数字で動く。なら数字を使う」
静は紙の端に書く。
「睡眠6時間→過呼吸回数減→欠席ゼロ→内申維持」
ユナはその矢印を見て、少しだけ肩を落とした。
「……母に言っても、信じない」
「信じさせるんじゃない。先に実績を作る。二週間、記録。過呼吸が起きた時間、睡眠、食事。減ったら、その紙を見せる」
ユナがカードを机に置いた。
「……二週間、耐えればいいんですか」
「耐えるじゃない。試す。合わなきゃ変える」
陸がぽつりと言った。
「西園って、めっちゃちゃんとしてるのに……」
ユナの肩が跳ねる。反射で背筋が伸びる。完璧の鎧が戻りかける。
静が陸を見た。
「言い方」
陸が慌てて手を振る。
「ごめん。バカにしてない。ほんとに……地獄なんだなって」
ユナは目を伏せたまま、声だけ出した。
「……地獄って言わないで。私、まだ頑張れるから」
静はそこで「無理するな」とは言わない。代わりに、紙をユナの前に押し出す。
「頑張るなら、頑張り方を決めろ。今日の“死なない計画”、お前が書く」
ユナがペンを取る。手が少し震える。だが書き始める。
「……英検、単語は通学中。夜は二十分を二回。長文は隔日」
静が頷く。
「睡眠は」
「六時間……無理なら、五時間半」
「いい。現実的に」
ユナは書き足す。
「過呼吸が来たら、トイレか保健室で吐く。記録する」
静が言う。
「母への交渉は?」
ユナのペンが止まる。
「……言うタイミング、夕飯の後。『今は頭が痛い』でずらす」
「嘘が嫌なら?」
ユナが小さく言う。
「……『呼吸が乱れる』」
静はそれ以上踏み込まない。ユナが自分で選んだ言葉を、紙に残させる。
チャイムが鳴った。昼休みの終わり。
ユナが紙を手帳に挟もうとして、手が止まった。
「先生。これ、持って帰ったら……母に見られます」
「見られたくないなら、ここに置け。コピーして渡す手もある。どっちがいい」
ユナは迷って、紙を静に差し出した。
「……ここに置きます。私の手帳、母、勝手に見るから」
静は受け取って、引き出しに入れた。
「次は明日。昼、五分」
ユナが立ち上がる。扉へ向かい、振り返った。
「先生。もし、私が……落ちたら」
静は言い切らない。ただ、次の一手だけを置く。
「落ちたら、別の道を出す。今は、そのための材料を集めろ」
ユナは頷き、教室へ戻っていった。
扉が閉まると、陸が静の引き出しを見た。
「……あの紙、ほんとに役に立つんすか」
「役に立つかは、続けたら分かる」
静は机の上のファイルを手に取った。壁画の報告書の控えだ。角が少しだけずれている。
廊下の遠くで、黒川の声がまた響く。
「今日中に——」
静はその声を無視せず、飲み込んでから言った。
「陸。教頭室、また呼ばれるかもしれない。呼ばれたら、言うことは一つ」
「……何を」
「『第三は火種じゃない。消火班だ』って」
陸は苦い顔をして、でも頷いた。
「言えるかな」
「言えなくてもいい。記録だけは残せ」
静は陸のメモ帳を指で叩いた。
「次、誰が来るか分からない。扉が鳴ったら、今日はもう逃げない」
ノックが、また鳴った。今度は、ためらいのない一回きり。
静が顔を上げる。
「どうぞ」
「落とすなよ」
小さく言うと、陸は振り返らずに手だけ上げた。階段のほうから、朝のチャイム前のざわめきが押し寄せてくる。
静が机の上を整える。写真、時間記録、数値メモ。黒川が嫌うのは「気持ち」だ。なら「数字」で殴るしかない。
ノックが二回。控えめで、きっちりした間隔。
「どうぞ」
扉が開いて、制服の襟元まで完璧に整えた女子が入ってきた。髪も、鞄の持ち方も、姿勢も。教室に貼られる模範写真みたいな生徒だった。
「失礼します。西園ユナです」
「西園。三年一組だな。……進路室、初めてか」
「はい。あの、ここ……第三、ですよね」
「そう。進路の相談なら座れ」
ユナは椅子に腰を下ろす。膝の上に手を置く。指先が揃っている。静はその指の爪の際に、薄い赤みを見つけた。
「担任は佐伯か」
「はい」
「佐伯に言えなかった話?」
ユナの視線が机の角に落ちた。返事までの間が、妙に長い。
「……言える話です。たぶん」
「たぶん、が付くなら言えない側だな」
ユナの唇が一度だけ結ばれて、ほどけた。
「私、成績は……大丈夫です。模試も、今のところ」
「知ってる。学年上位。推薦も視野。だからここに来た理由が気になる」
ユナは鞄から手帳を出した。薄い。中身は付箋だらけで、色が規則正しく並んでいる。
「私、予定は守れます。提出も、遅れたことないです」
「うん」
「でも、最近……」
言いかけた瞬間、ユナの肩が小さく跳ねた。息が、浅くなる。喉の奥で空気が引っかかるみたいな音がした。
静は立ち上がらず、声の高さだけ落とした。
「西園。今、息が速い。口じゃなく鼻で吸えるか」
ユナは首を横に振った。指が手帳の端を強く掴む。紙がくしゃっと歪んだ。
「無理、です……っ」
静は机の引き出しから紙コップを出し、何も入れずにそっと机の端に置いた。
「それに向けて、ゆっくり吐け。吸おうとするな。吐く」
ユナはコップを見て、戸惑いながら口を近づけた。息がコップの内側に当たって、かすれた音がした。二回、三回。肩の上下が少しずつ小さくなる。
静は時計を見るふりをして、急かさない。廊下の足音が遠ざかるのを待つ。
「……すみません」
「謝るな。体の反応だ」
ユナが額の汗を袖で拭った。袖口の内側がすでに少し湿っている。
「教室で、なった?」
「いえ。トイレで……一回。保健室は……行ってません」
「行けばいい。だが、行けない理由がある」
ユナは笑おうとした。口角だけが動いて、目が動かない。
「……優等生が保健室って、噂になりますから」
「噂が怖い?」
「怖いです。崩れたって思われるのが」
静は椅子に腰を下ろし直した。
「崩れるのは、もう始まってる。噂か、倒れるか。どっちがマシだ」
ユナの喉が小さく鳴った。手帳のページが一枚、勝手にめくれる。そこに「推薦 面接練習」「英検」「委員会」「模試復習」とびっしり書かれていた。
「家のことも、あります」
「家?」
「母が……私の成績を、親戚に送ってるんです。写真に撮って。『うちの子は大丈夫』って」
静は眉を動かさない。言葉だけ切る。
「やめてって言ったか」
「言いました。でも、『誇りなんだから』って」
ユナの指先がまた揃う。今度は揃え直す動作が早すぎて、落ち着かなかった。
「父は単身赴任で……帰ってきません。母は、私が落ちたら……」
「落ちたら?」
ユナはその先を飲み込んだ。唇が白くなる。
静は机の上の紙を一枚だけ引き寄せた。真っ白なコピー用紙だ。
「西園。現実の話する。今のまま全部守ると、どこかで体が止まる。止まったら、成績も推薦も、まとめて落ちる可能性が上がる」
ユナの目が、静の手元に吸い寄せられる。
「じゃあ、どうすれば……」
「選ぶ。削る。隠す。交渉する。手段はある」
「……隠す?」
「過呼吸のことを、全員に言う必要はない。だが、必要な人には言う。担任か、保健室か、どっちかは味方にする」
「担任に言ったら……『甘えるな』って言われそうで」
「佐伯は数字が好きだ。『甘え』って言うより『管理しろ』って言うタイプ」
ユナの肩が少し落ちる。まだ緊張は残っているが、息は戻っている。
「管理……」
静は白紙の中央に線を一本引いた。
「左に『やること』右に『やめること』。今日から決める」
ユナは首を振った。
「やめられません。委員会も、塾も、英検も……全部、必要で」
「必要かどうかは、誰が決めた」
「……私です」
「嘘」
ユナの瞳が揺れた。静は淡々と言う。
「母親の顔が浮かんだだろ」
ユナは視線を逸らした。逸らした先が扉の方だった。廊下に誰かが立っているわけでもないのに、音を気にするような目だった。
「……私、期待されてるんです。弟も、まだ小さくて。家の空気、私が崩したら」
「崩すのは、もう始まってる」
静は線の右側に、短く書いた。
「保健室」
ユナが目を丸くする。
「やめることに、保健室?」
「今週一回、保健室行け。『体調管理』でいい。理由は『呼吸が乱れることがある』まで。診断名はいらない」
「でも、記録に……」
「保健室の記録は成績表に載らない。推薦の調査書にも基本書かれない。ただし、欠席が増えれば載る」
ユナの指がコップに触れた。さっきの空っぽのコップ。
「欠席、したくないです」
「欠席しないための保健室だ」
ユナは小さく頷いた。頷き方が、許可をもらうみたいだった。
静は左側に書く。
「睡眠 6時間」
ユナが反射で言う。
「無理です。今、4時間です」
「だから倒れる。6時間取れないなら、どれか捨てる」
「捨てたら、落ちます」
「落ちない捨て方がある。例えば英検、今回じゃなく次回。委員会は副委員長に仕事を渡す。塾は回数を減らして自習にする」
ユナの眉が寄った。
「そんなの……先生、わかってない。塾、減らしたら不安で……」
「不安は消えない。だが金と時間は増える。不安をゼロにする方法はない」
ユナは唇を噛んだ。噛み方が、怒りに近い。
「……私だけ、弱いみたいじゃないですか」
静はユナの手帳を指差した。
「その手帳、弱い人が作るか?」
ユナは一瞬、言葉を失った。手帳を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「……でも、完璧に見せないと」
「誰に」
「みんなに。先生にも」
「俺に完璧を見せる必要はない。ここは第三だ。崩れてる奴が来る」
ユナの肩がわずかに震えた。笑いにも泣きにもならない息が漏れる。
「……第三って、落ちこぼれが来る場所って、聞いてました」
「学校の呼び方だ。黒川教頭はそういう枠が好きだ。数字で分けられるからな」
ユナが顔を上げた。
「教頭……」
「教頭は『実績』が欲しい。お前が倒れたら実績が消える。だから、倒れない方法を作る。これは俺の仕事でもある」
静は白紙をユナの方へ滑らせた。
「今日、ここで決める。まず一個だけ。今週、何を減らす」
ユナは紙を見つめ、指先で線をなぞった。沈黙が長い。廊下の向こうで、誰かが「教頭来るぞ」と囁く声がした気がした。静は耳を動かさない。
ユナが、やっと言う。
「……英検の単語、毎日一時間やってました。……三十分にします」
「よし。浮いた三十分は?」
「……寝ます」
「寝ろ。次。保健室はいつ行く」
「……今日、昼休み」
「佐伯には俺から話す。『体調管理で保健室を使う』って。詳細は言わない」
ユナが強く首を振る。
「やめてください。担任に知られたら……『推薦に響く』って、もっと詰められる」
「推薦に響くのは倒れることだ。詰められたら、詰め返す材料を作る」
静は机の端にあったメモ帳を取り、短く書く。
「睡眠時間/過呼吸回数/保健室利用」
「記録……」
「数字にすると、佐伯は納得しやすい。黒川もな」
ユナはその言葉に、背筋を固めた。
「教頭に、知られますか」
「知られる可能性はある。だから、見せ方を選ぶ。『メンタルが弱い』じゃなく『体調の自己管理ができている』にする」
ユナは目を伏せた。まつ毛が震えて、落ち着かない呼吸が一度だけ戻りかける。静はすぐに言う。
「今、また速くなりそうだ。吐け」
ユナは頷き、コップに向けて息を吐いた。今度はさっきより早く整う。
「……先生」
「何だ」
「私、嘘つきです。平気なふりして。『大丈夫』って言って。……それで、みんな安心して」
「安心させるための嘘は、コストが高い。払える範囲にしろ」
ユナは紙を握りしめた。指の赤みが濃くなる。
「払えなかったら?」
「払えなくなる前に、分割にする。ここに来い。朝でも昼でも」
「……朝は、委員会の準備が」
「じゃあ昼。五分でもいい」
ユナは小さく頷いた。さっきの「たぶん」と同じ調子で。
静は立ち上がり、扉のほうへ視線を向けた。廊下の気配が近づいている。革靴の音が、一定のリズムで。
黒川の歩き方に似ていた。
静は声を落とす。
「西園。今から教室戻れるか」
ユナは紙を畳んで手帳に挟んだ。息を一度整えてから立ち上がる。
「はい。戻ります」
「廊下で誰かに会っても、説明はいらない。『進路相談』で十分」
ユナは扉に手をかけ、振り返った。
「先生、これ……続けたら、私は……」
静は答えを断定しない。ただ、選べる道だけを増やす。
「続け方を変えれば、倒れる確率は下がる。ゼロにはならない。だから記録して、削って、味方を作る」
ユナは短く息を吐いた。さっきのコップに吐く呼吸と同じ速さで。
「……わかりました」
扉が閉まる直前、廊下から低い声が聞こえた。
「第三は、今日中に報告を――」
黒川の声だった。言葉の続きは扉に遮られたが、圧だけが部屋に残る。
静は机の上の白紙をもう一枚取り出し、ユナの名前を書いた。次に、陸が持っていった報告書の控えを視界の端で確かめる。
ノックがまた鳴る。今度は乱暴で、間が短い。
静は息を吐き、椅子を少しだけ前に引いた。
「どうぞ」
「どうぞ」
静が言い終える前に、扉が押し開けられた。
黒川教頭が入ってくる。スーツの襟を直しながら、部屋の中を一瞥した。机の上の白紙、コップ、写真束の端。視線が短く走るだけで、片づけの甘さを指摘される気がした。
「桐生先生」
「おはようございます」
黒川は椅子に座らない。立ったまま、窓の外の校庭を見るふりをして言った。
「第三進路室は、落ちこぼれの受け皿だ。そういう位置づけで設置している。分かっていますね」
静は机の上のファイルを揃えた。音を立てない。
「分かってます。だから来た子は受けます」
黒川が振り向いた。
「“来た子”?」
「今、三年一組の西園が来ました」
黒川の眉がわずかに動く。名前の重さが、そのまま眉に乗る。
「西園ユナ? 学年順位の上の生徒ですよ。あなたの部屋に来る必要はない」
「必要があったんでしょう」
「必要なら一進路室で足ります。あなたのところは——」
「落ちこぼれの場所、ですか」
静が言葉を先回りすると、黒川は一瞬だけ口を閉じた。すぐに、整った声で続ける。
「そうです。限られた資源の配分です。上位層は上位層で、大学実績につながる指導がある。第三が触ると、余計な不安を与える」
「余計かどうかは、本人が決めます」
黒川は机の端の空の紙コップに視線を落とした。
「……保健室ごっこでも始めたんですか」
静はコップを手に取って、裏返した。何も出ない。
「過呼吸の対処です。五分で戻しました」
黒川が鼻で息をした。
「過呼吸。そんなもの、受験期には誰でもある」
「誰でもあるなら、誰でも対処を教えたほうがいい」
黒川の目が細くなる。
「桐生先生。あなたはいつも、線引きを壊す」
「線引き、崩れてるのはそっちです。上位の子が倒れたら実績が消える。第三で早めに止めたほうが、学校に得です」
黒川の口元がわずかに歪む。笑いではない。
「学校に得、ね。あなたが口にすると皮肉に聞こえる」
「皮肉じゃない。現実です」
黒川は静の机の上の束を指で叩いた。写真の角が揺れる。
「壁画の件。提出は?」
「陸が今、持って行ってます」
黒川の視線が扉へ向く。
「相沢ですか。あなたの“助手”」
「雑務を手伝ってもらってます」
「第三が火種になっている、と私は言いましたね」
「火種は、放置すると燃えます。消したいなら、水を用意する」
黒川は机の束を見下ろし、指先で一枚をずらした。静がすぐに戻す。
「形式変更は、もう伝えたはずです。写真の添付は不要。結論だけを書け、と」
「結論だけだと、また『根拠がない』って言われます」
「誰に」
「あなたに」
黒川は瞬きを一つした。静はその隙を逃さない。
「根拠が嫌なら、数字だけ出します。時間記録、材料費、復旧範囲。これなら文句ないでしょう」
黒川は口を開きかけて、閉じた。代わりに言う。
「あなたは、いつも正面から殴りに来る」
「殴ってない。扉を増やしてるだけです」
黒川が一歩、静の机に近づく。声を落とす。
「西園の件。担任に余計なことを言うな。佐伯は今、推薦枠の調整で神経を尖らせている」
「佐伯には、体調管理で保健室を使う程度で伝えます」
「それも余計だ」
静は目を逸らさない。
「黙って倒れたら、もっと余計です」
黒川の顎がわずかに上がった。
「あなたは、優等生まで“第三の案件”にする気ですか」
「第三の案件じゃない。“学校の案件”です」
黒川が、初めて椅子に座った。座る音が重い。
「言い方を変えましょう。あなたの部屋は、数字にならない努力を救う場所だ。そう自分で言っていた」
「言いました」
「西園は数字の塊です。偏差値、内申、模試。数字になっている」
静は指で机を二回叩いた。
「数字になってるのは、結果だけです。裏のコストは出てない。睡眠四時間、息が止まりかける。そこが崩れたら、数字も崩れる」
黒川は静を見つめたまま、何も言わない。静は続けた。
「落ちこぼれか優等生か、ってラベルで分けるから歪む。倒れる前に手を打つか、倒れてから欠席日数を数えるか。どっちがあなたの好きな“数字”ですか」
黒川の目が、ほんの少しだけ泳いだ。だがすぐ戻り、硬く言った。
「あなたは、私を悪者にしたいのか」
「悪者にする気はない。あなたは学校を守る。俺は生徒を守る。重なるところだけ拾う」
黒川は息を吐き、背もたれに体重を預けた。
「桐生先生。あなたのその言い方は、いつか孤立しますよ」
「孤立しても、仕事はします」
黒川は立ち上がり、扉へ向かう。取っ手に手をかけて、振り返った。
「今日中に、壁画の報告は決着させる。第三が余計な波を立てないように」
「波が立ってるのは、現場です。見ないようにしても、消えません」
黒川は返さず、扉を閉めた。
閉まった瞬間、静の肩の力が少しだけ抜けた。だが椅子に座らない。すぐに机の上の白紙を取り、先ほど書いた「西園ユナ」の下に短く追記する。
「昼 保健室」
次に、別の名前も書く。
「竹内サラ 朝5分」
扉の外が騒がしい。早足の足音が近づいて、止まる。
ノック。今度は小さく、遠慮がち。
静は顔を上げた。
「どうぞ」
扉が開きかけたところで、廊下の向こうから別の声が飛んだ。
「相沢! 教頭室、今すぐ!」
静の目が扉の隙間に向く。入ってきた影は、制服の袖を握りしめて立ち尽くしていた。
静は声を落とす。
「……陸じゃないな。誰だ」
影が一歩だけ中に入る。かすれた声。
「先生。提出、間に合わなくて……」
静は椅子を引き、相手の顔が見える位置まで身を乗り出した。
「名前」
「竹内、サラです」
静は頷き、机の上の紙を指で押さえた。
「朝五分の約束、守ったな。座れ。まず、今日の時間を数字にしよう」
廊下の端で、陸は壁に背をつけたまま立っていた。
教頭室の扉は閉まっている。中から聞こえる声は抑えられていて、言葉までは届かない。けれど、間の取り方だけで分かる。黒川の声だ。
陸はファイルの角を握り直した。紙が擦れる音が、妙に大きい。
「相沢」
扉が開き、黒川が顔を出した。
「入って」
陸は喉を鳴らしてから、教頭室に足を踏み入れた。部屋の空気が重い。机の上に、陸が持ってきた報告書のファイルが置かれている。表紙の角が、きっちり揃っていない。
黒川は椅子に座り、ファイルを指先でトントンと叩いた。
「桐生先生が作ったのか」
「俺も手伝いました」
「“手伝った”」
黒川はページをめくる。写真、時間、材料費。数字が並ぶ。
「余計なものが多い。形式を変えると言ったはずだ」
陸は口を開いたが、すぐ閉じた。静の顔が浮かんだ。結論だけだと、また根拠を求められる。だから全部入れた。
黒川が目を上げる。
「あなたは、第三に何を求められている」
「……雑用です」
「雑用が、学校の火種になっている」
陸の指が机の縁を掴む。
「火種って、壁画のことですか」
「壁画だけではない。第三が“例外”を増やすほど、他が歪む」
陸は息を吸って、言った。
「例外が、必要なやつもいます」
黒川の眉がわずかに上がる。
「あなたが言うのか。相沢」
陸は黙った。言い返す言葉が、喉の奥でつかえて出ない。
黒川はファイルを閉じた。
「報告書は受理する。ただし、次から形式を守れ。桐生先生にも伝えなさい」
「……はい」
「もう一つ」
黒川の声が低くなる。
「第三に出入りする生徒の情報が、妙に広がる。噂が立てば、学校全体に影響する。あなたも口を慎め」
陸の背中に汗がにじむ。
「誰も、言ってません」
「言っていなくても、見られている。第三は見られる場所だ」
黒川は立ち上がり、扉を開けた。
「戻りなさい」
陸は頭を下げて出た。廊下の空気が、少しだけ軽い。けれど足は重いままだった。
第三進路室の前まで来ると、扉の向こうから声が聞こえた。静の声と、女の子の声。短い応酬。
「今日、何を削る」
「……英検、三十分にします」
「寝ろ」
陸は足を止めた。
優等生の声だ。柔らかいのに、どこか擦れている。
扉が開いて、西園ユナが出てきた。制服の襟は相変わらず綺麗だ。髪も乱れていない。けれど、目だけが落ち着いていない。廊下の端、掲示板、階段、誰かの影を探すみたいに動く。
陸と目が合った瞬間、ユナは反射で笑った。
「相沢くん。おはよう」
「……おはよう」
ユナは笑いを保ったまま、声を小さくした。
「ここ、誰にも言わないでね」
「言わない」
「うん。ありがと」
そう言って、ユナは足早に去ろうとする。だが二歩目で、ほんのわずかに膝が揺れた。陸は思わず声をかけた。
「西園、平気?」
ユナは止まらない。振り返りもしないまま、肩だけで答えた。
「平気だよ」
その「平気」が、第三の扉の前で一度だけ途切れた。息が、引っかかる音。
ユナは廊下の窓際に寄り、カーテンの影に半身を隠す。胸元を押さえ、口を開けないまま息を吐こうとしている。
陸は近づきかけて、止まった。噂。見られている。黒川の言葉が刺さる。
静が扉の隙間から顔を出した。
「西園」
ユナは首を横に振った。大丈夫、という合図。けれど指先が震えている。
静は廊下に出て、距離を詰めすぎない位置で立った。
「吐け。吸うな」
ユナは唇を結び、頷いた。肩が上下する。制服のリボンが微かに揺れる。
陸は壁に手をついた。自分の息まで浅くなる。
「……優等生も、こんなんなるのかよ」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
静が陸を一瞥した。
「優等生だから、なる」
「え」
「倒れたら終わるって思ってる。落ちこぼれは“落ちても元から”って言われる。優等生は“落ちたら裏切り”になる」
陸は唇を噛んだ。自分がいつも言われてきた言葉が、別の形で刺さる。
ユナの呼吸が少し落ち着く。だが、顔色はまだ白い。
ユナは静にだけ聞こえる声で言った。
「……家、帰りたくない」
静は頷きも首振りもしない。ただ現実の選択肢を並べる口調で言う。
「今日は帰るしかない。だが、帰り方は選べる。寄り道して落ち着いてから帰る。保健室に寄って記録を残す。担任に“体調管理”だけ通す。全部、今日できる」
ユナは目を閉じ、短く息を吐いた。
「母が、今日、模試の結果見る日で……」
「結果を見せる時間を、ずらせ」
ユナが目を開ける。
「ずらす?」
「夕飯の後にする。風呂の後にする。理由は何でもいい。“今は頭が痛い”でいい。嘘だと思うなら、“今は呼吸が乱れる”でもいい」
ユナの喉が動く。言い返したいのに、言葉が出ない顔だった。
「……怒られます」
「怒られる確率は高い。だが、怒られても倒れない確率も上げられる」
ユナは笑いそうになって、やめた。
「先生、ほんと、夢ない」
「夢は守るために現実がいる」
ユナは視線を落とし、制服の袖口を掴んだ。
「私、怖いんです。落ちるのが。怒られるのが。……息が止まるのが」
静は声をさらに低くした。
「怖いなら、記録しろ。怖さが来た時間、場所、前に何があったか。次に同じ条件が来たとき、先に手を打てる」
ユナは小さく頷いた。頷き方が、やっと自分の意思になった。
廊下の向こうから、教師の声が飛ぶ。
「西園! 次の時間、委員会の掲示物どこ!」
ユナの肩がびくりと跳ねた。反射で「はい!」と返しそうになって、喉で止まる。
陸がその場で固まる。静は言った。
「返事する前に、一回吐け」
ユナは唇を結び、息を吐く。間を作ってから、声を出した。
「……今、持って行きます」
言い終えた瞬間、ユナは静を見た。助けを求めるというより、許可を確認する目だった。
静は短く言う。
「行け。昼、保健室。五分でいい」
ユナは頷き、走らずに歩き出した。背筋はまっすぐだ。けれど歩幅が小さい。
陸はユナの背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「俺、ずっと思ってた。優等生って、楽してるって」
静は扉に手をかけたまま、陸を見た。
「楽してる奴もいる。地獄で保ってる奴もいる。見分けるのが仕事だ」
「……俺らは?」
「お前は、地獄を知ってる側だ。だから、見える」
陸は笑えなかった。喉が詰まる。
「でも教頭、第三は見られてるって。俺、さっき釘刺されました」
「刺されるのは想定内だ」
「想定内でやってんの、怖くないんすか」
静は扉を開け、陸に先に入れと顎で示した。
「怖い。だから、証拠を残す。数字と記録と、味方」
部屋に入ると、机の端に置きっぱなしの空の紙コップが見えた。さっきユナが息を吐いたやつだ。
その横に、静が書いた紙がある。「西園ユナ 昼 保健室」。
陸はその文字を見つめた。
「……俺も、記録ってやつ、つけたほうがいい?」
静は椅子に座らず、机の引き出しから新しいメモ帳を出して投げた。陸が慌てて受け取る。
「今日から。『いつ逃げたくなったか』でもいい。逃げたくなるのは、弱さじゃない。条件だ」
陸はメモ帳を開いた。白いページが眩しい。
その瞬間、第三の扉がまたノックされた。今度は遠慮のない連打。
静が目線だけで陸に「黙れ」と合図し、扉に向かう。
「どうぞ」
扉が開く。担任の佐伯が顔を出した。眉間にしわを寄せ、手にプリントの束を持っている。
「桐生先生。西園のことで、ちょっと」
陸の胸が一段、沈んだ。ユナの「誰にも言わないでね」が、耳の奥で鳴り続ける。
静は表情を変えずに言った。
「入ってください。数字で話します」
佐伯は入ってくるなり、プリントの束を机に置いた。
「西園のことで、どういうつもりですか」
静は椅子を勧めない。佐伯も座らない。立ったままの距離が、そのまま圧になる。
「どういうつもり、とは」
「第三に来させる必要がない。あの子は今、推薦のラインに乗ってる。余計なことを言われて崩れたら——」
「崩れかけてました」
静が短く切る。佐伯の眉が動く。
「何が根拠です」
静は机の端のメモを引き寄せ、裏返したまま置いた。見せない。
「本人の体調です。詳細は本人の許可が要る」
佐伯が一瞬、言葉を失う。次に出た声は低い。
「許可? 君は担任を外す気か」
「外さない。使う。だから、必要な範囲で共有する」
佐伯は唇を薄くした。
「必要な範囲、ね。第三はいつもそう言って、勝手に動く」
静は視線を外さずに言った。
「勝手に動いたら、教頭に潰されます。俺もそれは困る」
佐伯が鼻で笑った。
「黒川の顔色も見てるのか」
「見ないと生徒が潰れる。あなたも同じでしょう」
佐伯の肩が少しだけ上がった。怒鳴りはしない。だが、机の縁を叩く指が速い。
「で。西園に何を吹き込んだ」
静は淡々と言った。
「保健室を使う。睡眠を増やす。英検の勉強時間を減らす」
「減らす? 今、英検落とせば推薦の印象に——」
「落ちても死なない計画を作ってます」
佐伯が顔をしかめる。
「そんな言い方、あるか」
「ある。本人が『落ちたら終わり』で息が止まりかけてる。終わりじゃないって、手順で示す」
佐伯はプリントの束を持ち上げた。
「推薦の手順は厳密だ。内申、欠席、検定、活動実績。数字だ。君の“手順”は現実を知らない」
静は机の引き出しから別の紙を出した。白紙に、ペンで二つの丸を書く。
「これが今のあなたの世界。『合格』と『失敗』だけ」
佐伯が睨む。
「……何が言いたい」
静は丸の外側に、もう一つ小さな丸を描いた。
「『撤退』。ここを作る。失敗する前に引く。引いても戻れる場所を作る」
佐伯の目がその小さな丸に止まる。だがすぐに言う。
「撤退なんて、優等生に教える言葉じゃない」
「優等生こそ撤退を知らない。撤退できないから倒れる」
静は紙を佐伯に突き出さず、机の上に置いたままにした。押し付けない距離。
「あなたに頼みたいのは一つ。西園が昼休みに保健室へ行く。委員会の呼び出しを一回止めてください」
佐伯が即答する。
「無理だ。委員会は今、文化祭の資料まとめで——」
「じゃあ代わりを立てる。副委員長、誰です」
佐伯が口をつぐむ。名が出せない沈黙。
静が続ける。
「副委員長が機能してないなら、それも問題だ。西園一人に背負わせるのは指導の欠陥になる」
佐伯の頬が引きつった。
「言い方がきついな」
「現実がきつい」
廊下のチャイムが鳴り、遠くで教頭の声が響いた気がした。「推薦枠の進捗——」という単語だけが耳に刺さる。
佐伯は息を吐き、プリントの束を胸に抱えた。
「……分かった。昼休みは一回、委員会の用事を外す。だが、保健室に行ったことは記録に残る」
「残していい。欠席にならない」
「欠席が増えたら——」
「増やさないための保健室です」
佐伯は扉へ向かいながら、振り返る。
「西園のこと、俺に全部隠すな。担任は責任を取る立場だ」
静は頷いた。
「本人が許せる範囲で、共有します。俺が勝手に暴露はしません」
佐伯が去ると、部屋の空気が少し軽くなった。
陸がようやく息を吐いた。
「……こわ。担任って、あんな感じなんすね」
「佐伯は正しい部分もある。数字は現実だ」
静は机の紙を片づけ、陸のメモ帳に目をやった。
「書いたか」
陸は首を振った。
「まだ白いっす」
「白いなら、今日の一行。『教頭室で胃が縮んだ』」
陸が渋い顔をして、ペンを取った。書き始めたところで、扉が控えめにノックされる。
静が言う。
「どうぞ」
ユナが顔を出した。昼休みの終わりが近い時間なのに、息が少し乱れている。手には保健室の小さなカード。角が湿っている。
「先生……行ってきました」
静はカードを見て、頷いた。
「よし。座れ。五分で終わらせる」
ユナが椅子に座る。陸が気まずそうに立ち上がろうとすると、静が顎で止めた。
「陸はいていい。話を聞いて困る内容は言わない」
ユナは一瞬ためらい、頷いた。視線が床に落ちる。
静は紙を一枚出し、上にこう書いた。
「失敗しても死なない計画」
ユナが顔を上げる。
「……死なない、って」
「言葉が嫌なら変える。『詰んでも戻れる計画』」
ユナは小さく息を吐いた。笑いでも泣きでもない。
「私、詰んでるんですか」
「詰みかけ。だから今作る」
静はペン先で紙を叩く。
「まず、成績は才能の一部だ。全部じゃない」
ユナの眉が寄る。
「でも、私の価値って、成績しか……」
静は否定しない。代わりに、具体を置く。
「今日、保健室に行けた。委員会の呼び出しに即答しなかった。息を整えてから返事した。これ、才能だ。自己管理。切り替え」
ユナはカードの角を指で擦った。
「……そんなの、当たり前です」
「当たり前にできない人間が、今この部屋に何人いると思う」
陸が小さく咳払いした。
「……俺、できない側っす」
ユナが一瞬だけ陸を見る。視線がぶつかって、すぐ逸れる。
静は紙に線を引いた。三列。
左に「最悪」、真ん中に「現実」、右に「次の一手」。
「西園。まず最悪を言え。口に出せ。頭の中で膨らむと止まらない」
ユナの喉が動く。
「……英検、落ちる」
「次」
「模試、下がる」
「次」
「推薦、外れる」
静はそこで止めない。
「次」
ユナの指がカードを握り潰しそうになる。
「母が……怒る」
「怒る、で済むか」
ユナの口が開きかけて、閉じる。息が浅くなる。静が言う。
「吐け」
ユナは頷き、短く息を吐いてから、絞り出した。
「……家の空気が、壊れる。私のせいって言われる」
静はペンを置かない。
「現実。英検が落ちたら、どうなる」
ユナは目を閉じて考える。声が少しだけ落ち着く。
「……次の回、受け直せます」
「費用」
「……七千円くらい」
静がすぐに言う。
「家計に響くなら、校内の補助はない。だが、回数を減らして一回で受かる確率を上げる手もある。今の勉強法は?」
ユナが答える。
「単語一時間、長文三十分、リスニング二十分……」
「削る」
ユナが反射で言う。
「削ったら落ちます」
「削っても落ちないように変える。単語は量じゃなく回転。長文は毎日じゃなく隔日で精読。リスニングは通学中に置き換え。時間を増やすんじゃない。配置を変える」
ユナの目が、紙の線を追う。静の言葉が、手順になって入っていく。
「……配置」
静は右の列に書く。
「通学中:リスニング/夜:単語20分×2/長文:隔日」
「これ、やれば……」
「受かる保証はない。だが倒れる確率は下がる」
ユナが唇を噛む。
「推薦、外れたら?」
静は即答しない。代わりに、紙の真ん中に別の文字を書く。
「一般」
さらに書く。
「公募推薦/指定校以外」
ユナの目が揺れる。
「一般は……怖いです。全部、点数で」
「今も点数で生きてる」
ユナが言い返す。
「でも、推薦なら……“落ちても”って言われない」
静は右の列に、もう一つ書いた。
「併願」
ユナが小さく首を振る。
「併願って、親が嫌がります。“逃げ”って」
静は頷く。
「嫌がる確率は高い。だから交渉材料を作る。数字で」
ユナが静を見る。
「また数字」
「お前の家は数字で動く。なら数字を使う」
静は紙の端に書く。
「睡眠6時間→過呼吸回数減→欠席ゼロ→内申維持」
ユナはその矢印を見て、少しだけ肩を落とした。
「……母に言っても、信じない」
「信じさせるんじゃない。先に実績を作る。二週間、記録。過呼吸が起きた時間、睡眠、食事。減ったら、その紙を見せる」
ユナがカードを机に置いた。
「……二週間、耐えればいいんですか」
「耐えるじゃない。試す。合わなきゃ変える」
陸がぽつりと言った。
「西園って、めっちゃちゃんとしてるのに……」
ユナの肩が跳ねる。反射で背筋が伸びる。完璧の鎧が戻りかける。
静が陸を見た。
「言い方」
陸が慌てて手を振る。
「ごめん。バカにしてない。ほんとに……地獄なんだなって」
ユナは目を伏せたまま、声だけ出した。
「……地獄って言わないで。私、まだ頑張れるから」
静はそこで「無理するな」とは言わない。代わりに、紙をユナの前に押し出す。
「頑張るなら、頑張り方を決めろ。今日の“死なない計画”、お前が書く」
ユナがペンを取る。手が少し震える。だが書き始める。
「……英検、単語は通学中。夜は二十分を二回。長文は隔日」
静が頷く。
「睡眠は」
「六時間……無理なら、五時間半」
「いい。現実的に」
ユナは書き足す。
「過呼吸が来たら、トイレか保健室で吐く。記録する」
静が言う。
「母への交渉は?」
ユナのペンが止まる。
「……言うタイミング、夕飯の後。『今は頭が痛い』でずらす」
「嘘が嫌なら?」
ユナが小さく言う。
「……『呼吸が乱れる』」
静はそれ以上踏み込まない。ユナが自分で選んだ言葉を、紙に残させる。
チャイムが鳴った。昼休みの終わり。
ユナが紙を手帳に挟もうとして、手が止まった。
「先生。これ、持って帰ったら……母に見られます」
「見られたくないなら、ここに置け。コピーして渡す手もある。どっちがいい」
ユナは迷って、紙を静に差し出した。
「……ここに置きます。私の手帳、母、勝手に見るから」
静は受け取って、引き出しに入れた。
「次は明日。昼、五分」
ユナが立ち上がる。扉へ向かい、振り返った。
「先生。もし、私が……落ちたら」
静は言い切らない。ただ、次の一手だけを置く。
「落ちたら、別の道を出す。今は、そのための材料を集めろ」
ユナは頷き、教室へ戻っていった。
扉が閉まると、陸が静の引き出しを見た。
「……あの紙、ほんとに役に立つんすか」
「役に立つかは、続けたら分かる」
静は机の上のファイルを手に取った。壁画の報告書の控えだ。角が少しだけずれている。
廊下の遠くで、黒川の声がまた響く。
「今日中に——」
静はその声を無視せず、飲み込んでから言った。
「陸。教頭室、また呼ばれるかもしれない。呼ばれたら、言うことは一つ」
「……何を」
「『第三は火種じゃない。消火班だ』って」
陸は苦い顔をして、でも頷いた。
「言えるかな」
「言えなくてもいい。記録だけは残せ」
静は陸のメモ帳を指で叩いた。
「次、誰が来るか分からない。扉が鳴ったら、今日はもう逃げない」
ノックが、また鳴った。今度は、ためらいのない一回きり。
静が顔を上げる。
「どうぞ」
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