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第10話:バズりたい子の現実
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第3進路室のドアが、指一本分だけ開いた。
「……入るぞ」
声は低く、喉の奥で擦れたみたいだった。木下レンは制服のまま、肩からバッグをずり落とし、目の下に濃い影を抱えて立っている。髪は寝癖か、手で何度もかき上げた跡か、前髪が妙に割れていた。
桐生静は顔を上げる。机の端には、ユナの記録用紙を挟んだクリアファイル。陸がさっき、そっと棚に戻したばかりだ。
「座れ。寝るなよ」
「寝ねぇって……」
レンは椅子に落ちた。背もたれに寄りかかる前に、スマホを握り直している。手が、休む場所を探しているみたいに動く。
相沢陸が、壁際のプリンタ横でペンを持ったままレンを見る。
「木下、ここ来るの珍しくね」
「うるせ。……お前、ここでバイトでもしてんのか」
「してねーよ。手伝い」
レンの視線が静に戻る。
「俺、進路とか、無理なんで。相談じゃねぇし」
「じゃあ何だ」
「停学とか、そっちの話」
静の眉が動いた。レンはスマホの画面を上に向けたまま、誰にも見せない角度で持っている。
「教頭、なんか言ってたろ。『情報拡散に注意』って」
陸が小さく息を飲む。今朝、報告書を教頭室に持っていった時の空気が、まだ指先に残っていた。
静は椅子から身を乗り出さない。声だけを少し低くする。
「お前、何を上げた」
レンは笑うような音を出した。笑ってない。
「上げてねぇよ。上げる前に止めた」
「止めた理由は」
「……誰かがチクった」
陸が口を挟む。
「お前さ、また校内で撮ってたの?」
「撮ってねぇって言ってんだろ」
レンは陸を睨むが、目が開ききらない。瞬きを多くして、焦点が合う前に逸れる。
静が机の上のメモ帳を指で二回叩いた。
「レン。結論から言う。校内で撮影して投稿したら、お前は詰む。学校の規定もあるし、今年から厳しい。教頭が特に」
レンの口角がわずかに上がる。
「ほら。やっぱ停学じゃん」
「今は、まだ。『上げてない』ならな」
「じゃあ何で呼ばれたんだよ」
「呼ばれたのは、誰に」
レンは一瞬黙った。スマホの画面を見下ろし、親指で何かを消すみたいに擦る。
「……担任。『進路室行け』って。『お前、最近、授業中寝すぎ』って」
陸が小さく「それはそう」と呟きかけ、静の視線で飲み込んだ。
静はレンの顔を見たまま言う。
「徹夜してるな」
「してねぇ」
「目が言ってる」
レンは鼻で笑って、笑いが途中で途切れた。
「編集、終わんねぇんだよ。一本出すのに、切って、繋いで、字幕入れて、音合わせて……。出したら出したで数字見て、次のネタ考えて」
静は頷くだけで止めない。続きを待つ。
レンは言葉の勢いを失って、椅子の背に頭を預けた。
「……でも、学校はさ、テストの点しか見ねぇじゃん」
「学校は数字が好きだ」
静の返答が即答すぎて、レンが目を開ける。
「マジで言うんだ」
「教頭は特に。『学校は企業』が口癖だ。実績を積めないやつは、切り捨てる」
陸がレンの顔色を見て、少しだけ身を縮めた。レンは笑いかけて、笑い切れずに唇を噛む。
「じゃあ、俺も切られる側だろ。赤点だし」
「切られる前に、道を増やす。ここはそれをやる場所だ」
レンは目を細めた。
「道って、何。俺、動画しかねぇし」
「『しか』って言うな。動画は武器になる。ただし、武器は持ち方を間違えると自分に刺さる」
レンが机の端を指で叩く。リズムが早い。
「バズれば勝ちだろ。金も入るし。就職とかより早い」
静は否定しない。代わりに質問を落とす。
「今、登録者何人」
「……二千ちょい」
「収益は」
レンの指が止まった。
「……月、三千とか。波ある」
「三千円で徹夜して授業寝て、赤点増やして、停学のリスク背負ってる」
レンが睨む。
「じゃあ、どうしろってんだよ。『やめろ』って言いたいんだろ」
「やめろは言わない。現実の選択肢を増やすって言った」
静はメモ帳を引き寄せ、ペンを取る。しかし書かない。レンの目の前で、ペン先を置いたまま言葉を選ぶ。
「お前、何系の動画だ」
「……切り抜きっぽいやつ。街の変な看板とか、学校帰りの……」
「校内は」
「だから撮ってねぇって」
静は頷く。
「顔出しは」
「してねぇ」
「声は」
「……入ってる」
静が一拍置く。
「お前の声、特徴ある。クラスで真似されるだろ」
レンの目が揺れる。陸が思い当たったようにレンを見る。
「……木下の『マジで?』、真似されてるの見たことある」
「うるせぇ」
レンは吐き捨てたが、声が弱い。
静が言う。
「『バズりたい』のは分かった。じゃあ聞く。何でバズりたい」
レンはすぐ答えない。スマホの画面を暗くして、指紋のついたガラスに自分の顔を映すみたいに見ている。
「……家、金ねぇし」
陸のペン先が止まる。
レンは続けた。
「父親いない。母ちゃん、夜勤。俺が稼げたら、楽になるし。あと……」
「あと」
レンは口を開けて、閉じた。喉仏が上下する。
「……クラスで、俺の話、誰も聞かねぇ」
静はそこで「寂しい」とは言わない。レンが言葉に詰まったまま、視線を机の傷に落としているのを見て、静はペンを置いた。
「再生数のコメント欄は、聞いてくれるか」
レンが顔を上げる。
「……聞いてくれるっていうか。反応ある」
「良い反応だけか」
レンの口が歪む。
「……悪いのもある。『キモ』とか。『声きしょい』とか」
陸が「うわ」と小さく漏らす。
静は淡々と言う。
「そこに、学校の名前が紐づいたらどうなる」
レンが黙る。
「特定される。お前だけじゃない。クラスも、学校も巻き込む。黒川はそれを一番嫌う。『火種』って言葉、好きだからな」
レンは肩をすくめるふりをしたが、指先が震えていた。
「じゃあ、俺、詰みじゃん。今さら」
「今さらじゃない。まだ上げてないんだろ」
レンは小さく頷いた。
静は机の引き出しから、学校の進路資料ではない、白い紙を一枚出した。どこにでもあるコピー用紙だ。
「レン。今日、二つだけ決める」
「なに」
「一つ。撮影と編集のルールを作る。学校に迷惑がかからない範囲でやる」
レンが鼻で笑う。
「そんなルールでバズるわけねぇ」
「バズるかどうかは知らない。だが、続けるためのルールだ」
静は紙をレンの前に置く。
「二つ。お前の『数字』を作る。学校が好きなやつだ。内申に直結しなくても、進路に使える数字」
レンが眉を寄せる。
「数字って、成績だろ」
「違う。制作本数、投稿頻度、視聴維持率、編集時間、使用ソフト、著作権への配慮、撮影許可の取り方。全部、実務の数字だ」
陸が思わず前に出る。
「それ、ポートフォリオみたいなやつ?」
静は陸にだけ頷く。
「そう。今のままじゃ『遊び』で終わる。『仕事』に寄せる」
レンが紙を見つめる。そこに何も書かれていないのが、逆に怖いみたいだった。
「……そんなの、学校、認めねぇだろ」
「学校は認めなくても、外は見る。専門、職業訓練、映像系のバイト、制作会社のアシスタント。現実的に行ける道はある。ただし、高卒資格と最低限の出席は要る」
レンが顔をしかめる。
「出席、ムリ。眠い」
静は言い切る。
「ムリでもやる。徹夜をやめろじゃない。徹夜の回数を減らす。編集の工程を切る」
レンは反発するように身を乗り出す。
「切ったらクオリティ落ちる」
「落ちても出す。完璧を目指して出せないより、七割で出して次に回す方が伸びることもある」
レンの口が開いたまま止まる。言い返したいのに、どこかでそれを知っている顔だった。
陸が小声で言う。
「木下、お前、いつも『もうちょい詰める』って言って翌日死んでるもんな」
「黙れ」
レンは言ったが、声に棘がない。
静が続ける。
「あと、学校の中で撮るな。制服で撮るな。場所が分かるものは映すな。音もだ。校歌が入っただけで特定される」
レンが目を見開く。
「……校歌とか、入んの?」
「昼休みの放送。体育館。文化祭の練習。全部入る」
陸が頷く。
「うち、放送室の音、廊下まで聞こえる」
レンは舌打ちして、スマホを握りしめた。
「じゃあ、ネタなくなる」
「ネタは外にある。学校の外で撮れ。許可を取れる場所で撮れ。店なら店主に一言。看板なら私有地に入るな」
レンが笑った。
「真面目かよ」
「真面目にやるなら、続く」
静の声は変わらない。だが、その「続く」が、レンの胸のどこかに引っかかったみたいに、レンは目を逸らした。
ドアの外、廊下の足音が止まり、誰かの声が遠くで聞こえる。「教頭が——」と、単語だけが抜け落ちてくる。
陸が反射的にドアを見た。
静はそれに気づいても、顔色を変えない。
「レン。担任から何か言われたか」
レンは肩を落とす。
「『次、居眠りしたら保護者呼ぶ』って。あと、『スマホ没収』とか」
「没収は、学校の規定上、勝手にはできない。ただ、揉めると負けるのはお前だ」
レンが唇を噛む。
「……母ちゃん呼ばれたら終わる。スマホ見られたら」
静が短く言う。
「見られる前提で守れ」
「無理」
「無理なら、守れる形に変える」
静は引き出しから、小さな封筒を出した。茶封筒。名前欄は空白。
「ここに、アカウント名と、投稿予定の内容だけ書け。パスワードは書くな。学校に預けるんじゃない。『相談の記録』として私が持つ」
レンが眉を寄せる。
「何それ。監視?」
「保険。『学校で撮ってない』『許可を取ってる』『制服を使ってない』、そういうルールを守ってる証拠になる。何かあった時に、お前の言い分が空気で消されないようにする」
レンは封筒を見て、指先でそっと触れた。触れただけで引っ込める。
「……証拠って、そんなの、誰が信じるんだよ」
「信じさせる材料を積む。それが現実」
陸がぽつりと言う。
「教頭、材料ないと切るもんな」
レンが陸を見る。
「教頭、そんな怖いの」
陸は言葉を選ぶ。
「怖いっていうか……『学校のため』って顔で、普通に切る」
静がレンに視線を戻す。
「だから、今のうちに『学校に迷惑をかけない形でやってる』を作る。そうすれば、止められにくい。堂々とじゃない。生き残る形だ」
レンが息を吐いた。長い。
「……やり方、汚くね」
「綺麗にやって守れるなら、最初から守れてる」
静は紙を指で押さえる。
「まず、今日。お前の一日の時間割を全部書く。寝てる時間も。編集してる時間も。嘘つくな。嘘つくと対策が死ぬ」
レンは渋い顔でペンを取った。字は乱れているが、迷いはない。
「……寝てる時間、ねぇよ」
「そこから作る」
陸が椅子を引いて、レンの斜め後ろに座る。
「俺、時間のとこ一緒に整理していい?」
「お前、何でそんなに乗り気なんだよ」
「見てみたい。動画作るの、どうやってんのか」
レンが一瞬、口元を緩めた。すぐに隠すように咳払いする。
静はその小さな変化を追わず、紙の端に線を一本引いた。
「レン。今日はここまででいい。次、スマホの中身じゃなくて、作業工程を見せろ。画面録画でいい。素材は見なくていい」
レンが顔を上げる。
「見ないの?」
「見たら、私が余計な責任を背負う。お前も背負う。必要なのは、やり方だ」
レンは少しだけ頷いた。
廊下で、また足音が近づく。ドアの前で止まる気配。ノックはない。でも、空気が一段冷える。
陸がレンの紙を覗き込みながら、小声で言う。
「……今日、教頭、動いてる」
レンが顔を強張らせる。
静はドアの方を見ずに言った。
「動いてるなら、こっちも動く。レン、放課後、残れるか」
「バイト……は、してねぇ。編集ある」
「編集はここでやれ。電源ある。Wi-Fiはない。だから、素材のダウンロードは家で済ませてこい」
レンが目を丸くする。
「ここで編集していいの?」
「条件付きだ。音はイヤホン。画面は覗かれても困らない内容にする。校内撮影はなし。守れるなら」
レンは一瞬迷ってから、短く言った。
「……分かった」
静はメモ帳に小さく時間を書き込む。
「じゃあ放課後。今日中に、最低限のルールを紙にする。担任と教頭に『管理できてる』って形を見せるためだ」
レンがペンを握り直す。
「……バズるためじゃなくて、生き残るためのルールか」
「両方だ」
レンは紙に目を落としたまま、低く笑った。
「現実、厳しいな」
静は淡々と返す。
「だから道を増やす」
ドアの向こうで、誰かが咳払いをした。次の瞬間、足音が遠ざかる。
陸が息を止めていたのを、やっと吐いた。
レンはその音を聞き、ペンを走らせる速度を少し上げた。放課後までに形にしなければ、誰かの「決着」が先に来る。そういう空気だけが、部屋の隅に残っていた。
放課後の第3進路室は、蛍光灯の白さだけがやけに浮いていた。
レンはノートPCを開き、イヤホンを片耳だけに差して、タイムラインを切っては戻し、切っては戻している。マウスを握る手が速い。目は半分しか開いていないのに、指は迷わない。
静は机の端で、レンが書いた「ルール」を読んでいた。制服で撮らない。校内で撮らない。許可を取る。位置情報は切る。放送の音が入ったら捨てる。投稿前に一晩置く。
「一晩置く、は守れるか」
「……無理」
「じゃあ『三十分置く』にしろ。勢いで上げると、勢いで消す羽目になる」
レンが舌打ちし、紙の上の「一晩」を二重線で消して「30分」と書き直す。
陸はドアの近くでプリントを束ねていた。廊下の気配を気にして、手元が落ち着かない。
「……人、増えてる。噂、回ってる」
「回すやつはいる」
静がそう言った瞬間、ドアがノックもなく開いた。
佐伯が顔を出す。担任の顔は笑っていない。手には出席簿のようなファイル。
「桐生先生、今いいですか」
静が立ち上がる前に、佐伯はレンを見た。
「木下。お前、何やってる」
レンはイヤホンを外さず、目だけを上げた。
「編集」
「授業中に寝て、放課後に遊びか。いい身分だな」
レンの指が止まる。PCの画面にはタイムラインが開いたまま、音もなく止まっている。
静が間に入る。
「佐伯先生、今は——」
「桐生先生」
佐伯は静を見ずに言った。
「くだらない。動画? 配信? そんなもので将来が決まると思ってるなら、学校にいる意味がない」
レンが椅子を蹴って立った。椅子の脚が床を擦る音が、部屋に刺さる。
「くだらなくねぇよ」
「くだらない。お前の成績見ろ。赤点だらけで、何がクリエイターだ」
「うるせぇ!」
陸が反射的に一歩前に出かけ、止まる。静が手のひらを下げて、陸を制した。
静は佐伯に言う。
「本人の現実は、成績だけじゃない。今は続け方のルールを——」
「ルール? 校内で撮って炎上したらどうするんです」
「校内では撮らないルールにしてる」
「守るんですか? 木下が?」
佐伯の言い方は、レンの名前を「信用できない」と言い換えていた。
レンが机を叩いた。
「守るって言ってんだろ!」
静がレンを見る。目だけで「座れ」と言う。レンは一度息を吸い、椅子を引き直して座った。座り方は乱暴だったが、座った。
佐伯はその様子を見て、さらに眉を寄せる。
「見ての通りです。約束なんて、その場しのぎ。親御さんも呼びます」
レンが顔を上げた。
「呼ぶな」
「呼ぶ。君の生活態度は学校の問題だ」
静が言葉を挟む。
「呼ぶなら、こちらで段取りを——」
「段取りを整える前に、教頭からも言われてます」
佐伯の声が少し落ちる。
「『今日中に火種を消せ』と。『第三が火種になる』と」
陸の指がプリントの角を潰す。静は眉一つ動かさない。
「火種って言葉、便利ですね」
佐伯が静を睨む。
「皮肉を言ってる場合じゃない。木下のスマホ、学校に持ち込み禁止にしてもいい」
「規定上——」
「規定は変えられます。形式変更、と言われているのを知らないんですか」
静が一拍置く。佐伯の口から「形式変更」が出た瞬間、レンの顔が「なにそれ」と動いた。
静はレンに言う。
「お前は黙って聞け。今、学校の空気の話だ」
レンは唇を噛んで黙った。
佐伯は続ける。
「明日、保護者面談。木下の母親に来てもらう。これで終わりにします。動画もスマホも、切らせる」
「切って終わるなら、最初から誰も苦労しない」
静は淡々と返した。
「それでも、学校は結果を出さないと。進学実績を落とすわけにはいきません」
佐伯が言い終えた瞬間、廊下の向こうで誰かが笑った。生徒の声だ。覗き見の気配。
静はドアを少し閉めた。完全には閉めない。閉めると「隠してる」と言われる。開けると「見世物」になる。中途半端な角度にして、静は佐伯に言う。
「面談は私も同席します。木下のルールと、制作の記録を持って」
佐伯が鼻で笑う。
「記録? 動画の? そんなもの、進路に関係ない」
「関係ないなら、害もない。害がないなら、切る理由も弱くなる」
佐伯の目が細くなった。
「……理屈だな」
「現実です」
佐伯はしばらく静を見た。負けを認める顔ではない。だが、時間がない顔だった。
「明日、十六時。遅れるな」
そう言い捨てて、佐伯は去った。廊下の足音が遠ざかる。
レンはしばらく動かなかった。静が何も言わずにいると、レンが低く吐く。
「……終わった」
「まだ終わってない」
「母ちゃん来たら、絶対スマホ取られる。あいつ、取る。前も取った」
静は椅子に座り直す。
「前は、何で取られた」
レンが目を泳がせる。
「……夜、寝ないから」
「今回は、面談で取られる可能性が高い。だから、取られた後の手を用意する」
レンが笑った。乾いた音。
「取られた後に何ができんだよ。俺、スマホないと何もできねぇ」
静が言う。
「PCはある」
「スマホないと撮れない」
「撮影用は中古でいい。通信は家のWi-Fi。ないなら、撮って編集して、投稿は学校外のフリーWi-Fiで。危ない場所は避ける。現実は面倒だ」
レンが睨む。
「そんなの、ダサい」
「ダサくても続けるか、カッコつけて止めるか。選べ」
レンは言い返せず、机の端を指で叩いた。さっきより速い。
陸が小さく言う。
「木下、面談で暴れんなよ。暴れたら、教頭の『決着』が来る」
レンが陸を見る。
「お前、教頭の犬かよ」
「犬じゃねぇ。……見たんだよ。報告書出したとき。目、笑ってなかった」
静が陸の方を見た。陸は視線を逸らし、プリントを置く。
レンは椅子から立ち上がり、部屋の中を二歩だけ歩いた。狭い部屋で二歩は、すぐ壁に当たる。レンは壁に拳を当てそうになり、途中で止めた。拳が空中で震えて、ほどける。
「……クソ」
静はその拳を見たまま言う。
「暴れるなら、物を壊すな。壊した瞬間、話が終わる。弁償と処分で、進路の時間が消える」
レンが振り向く。
「じゃあ、どうしろって」
静は一枚の紙をレンに渡した。さっきのルールとは別の、空白の紙だ。
「面談用の台詞を書け。短く。三つだけ」
「台詞?」
「母親に言う台詞。担任に言う台詞。教頭が出てきた時に言う台詞」
レンが紙を見た。白さが怖いのは、さっきと同じだった。
「……そんなの、言えるわけねぇ」
「言えないなら、読む。読むのが無理なら、紙を出す。出すのも無理なら、私が読む。ただし、勝手に代弁はしない。お前が書け」
レンは歯を食いしばり、ペンを握った。握り方が強すぎて、指が白い。
「……母ちゃん、絶対『勉強しろ』しか言わねぇ」
「だから先に言う」
静は短く言った。
「『勉強もやる。だから全部は取り上げないで』。その代わり、条件を出す」
レンが顔を上げる。
「条件?」
「出席。睡眠。投稿ルール。数字の記録。守れなかったら、取り上げられても文句を言えない条件」
レンは口を開けて閉じた。飲み込んだ。
陸が小さく言う。
「……条件、ある方がマシだよな。いきなり取り上げより」
レンは陸を睨み、すぐ視線を落とした。紙にペン先を置く。
そのとき、廊下でスマホの着信音が鳴った。誰かが慌てて止める音。続いて、教員の声が低く響く。
「……木下の保護者、今、来てるって」
レンの背中が固まった。
陸が顔を上げ、静を見る。
静は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、さっきより小さい。
「早いな」
レンが声を絞り出す。
「……来たの?」
静はドアの方へ歩きながら言った。
「逃げるな。逃げたら、向こうの正義が勝つ。ここで準備した『紙』が、ただの紙になる」
レンは椅子の背を掴んだ。指が食い込む。次の瞬間、椅子を持ち上げるように力が入った。
陸が咄嗟に言った。
「木下、やめろ!」
レンの肩が跳ね、椅子が床に落ちる。ガン、と鈍い音。
静は振り返らずに言う。
「レン。紙を持って来い。口が暴れそうなら、紙を先に出せ」
レンは息を荒くしながら、書きかけの白紙を握り潰しそうになって、手を開いた。ペンを落とさずに持ち直す。
「……書く。今、書く」
静はドアを開けた。廊下の空気が流れ込む。遠くで、女性の声が怒りを抑えているのが聞こえた。
「うちの子が、何をやってるって?」
レンが紙に、震える字で一行目を書き始めた。
静は一歩、廊下へ出た。次に何が来るかを、先に受け止めるために。
母親の声は、廊下の空気を硬くした。
「うちの子が、何をやってるって?」
静は廊下に出たまま、ドアを半分だけ閉めた。中が見えすぎない角度。隠してると思われない角度。
「木下レンさんのお母さまですか。第3進路室の桐生です」
母親は小柄で、腕に大きなバッグを抱えていた。目が落ち着かない。怒っているのに、疲れも混ざっている。
「担任から聞きました。授業中寝て、放課後は動画? スマホ? 何考えてるんですか」
「今、本人もいます。入りますか」
「入ります。話、聞きます。……スマホ、持ってますよね?」
静の返事を待たず、母親はドアを押した。レンが椅子から立ち上がる。顔色が悪い。紙を握っている。
「母ちゃん……」
「レン。スマホ出しなさい」
レンの手がポケットに行きかけて、止まる。目だけが静を見る。
静はレンの前に立たず、横に立った。母親の正面にレンを一人で立たせない位置。
「お母さま。いきなり取り上げる前に、確認させてください。校内で撮影して投稿した事実は、今のところありません」
母親が眉を吊り上げる。
「今のところ? じゃあ、やるつもりだったってこと?」
レンが口を開く前に、静が言う。
「危ないところで止めました。止めたのは本人です」
「止めたから偉いって?」
母親の声が少し上ずる。
「偉いとは言いません。止めたことで、今、話ができます」
母親はレンへ手を伸ばした。
「話? そんなのいいからスマホ出しなさい。時間ないの。私、これから夜勤なんです」
レンの肩が跳ねる。握っていた紙がくしゃりと鳴った。
「……やだ」
「何?」
「やだって言ってんだろ!」
レンが机を叩いた。ペンが転がり落ちる。陸が思わず身を引く。
母親の目が細くなる。
「その態度。だからダメなの。スマホがあるから寝ない。寝ないから授業が終わる。終わるから進路がなくなる。分かってる?」
レンが息を吸う。吐けないまま、喉が鳴る。
静が短く言った。
「レン。紙」
レンは一瞬、紙を見た。握り直して、母親に突き出すように差し出した。
「……これ、読む」
母親が紙をひったくる。
「何よこれ」
レンの字は震えていたが、文は短い。
『勉強もやる。出席もする。だから全部は取り上げないで。条件つけていい』
母親の口が歪む。
「条件? 条件つけられる立場なの? あなたが?」
レンが一歩前に出た。
「つけていいって言ってんだろ! 守れなかったら取っていいって!」
「守れないに決まってるでしょ!」
母親の声に、廊下の気配が濃くなる。誰かが立ち止まっている。覗き見の沈黙。
静は母親に向けて言う。
「条件は、守れる形にするために作ります。守れない条件は、ただの処罰です」
母親が静を見る。
「先生、甘やかさないでください。うちの子、昔からそうなんです。楽な方に逃げる」
静は頷きもしない。否定もしない。
「逃げ道を塞ぐと、別の逃げ道を探します。もっと危ない逃げ道に」
母親が言い返す。
「危ない? 動画が危ないんじゃないですか。ネットなんて、変な人もいるし」
「危ないです。だから、管理します」
静が机の上のルール紙を指で押さえた。
「ここに、本人が書いたルールがあります。校内で撮らない。制服で撮らない。許可を取る。位置情報を切る。投稿前に時間を置く」
母親は紙を見て、鼻で笑う。
「書いたから何? 守れるの?」
レンが叫ぶ。
「守るって言ってんだろ!」
母親がレンを睨む。
「その言い方。あなた、誰に向かって言ってるの」
レンの拳が握られる。肩が上がる。椅子の背を掴みそうになる。
静の声が落ちる。
「レン。壊すな。壊したら終わりだ」
レンは歯を食いしばり、机の端を掴んで堪えた。指が白い。
母親は息を吐いて、バッグの中からスマホを取り出した。自分のものだ。画面を見て、眉を寄せる。
「……担任の先生から『教頭も関わる』って言われました。学校に迷惑かけたら、退学もあるって」
陸が小さく肩をすくめる。静の目が一瞬だけ細くなる。
「脅し文句に使われやすい言葉です。ですが、学校は本気です。だから、こちらも本気で『続け方』を作ります」
母親が腕を組む。
「続け方? 続ける前提なんですか?」
静ははっきり言った。
「禁止して終わるなら、今までに終わってます。お母さまは夜勤で見張れない。学校は四六時中見張れない。本人は、スマホがなくても何かでやります」
母親の目が揺れる。痛いところを突かれた顔だ。レンはその揺れを見て、言葉を飲み込んだ。
静は母親に椅子を勧める。
「座ってください。五分で終わらせます。お母さまの時間を奪う話はしません。必要なことだけ」
母親は渋々座った。レンは立ったまま。陸は椅子の背に手を置き、動けない。
静はレンのノートPCを指した。
「レン。チャンネルの分析画面、開け」
レンが目を見開く。
「……今?」
「今。お母さまの前でやる。『遊び』じゃなくて『作業』だと見せる」
母親がすぐ言う。
「見せなくていいです。そんなの。私はスマホを——」
静が遮らず、しかし止める。
「見せないと、話が進みません。お母さまは『再生数』だけを見て判断する。本人は『気合い』だけで突っ走る。どっちも危ない」
レンが小さく言う。
「再生数、見せたくねぇ」
「見せなくていい。見せるのは『継続と改善』だ」
レンが眉を寄せる。
「……何それ」
「数字の種類を変える。再生数じゃなく、投稿頻度。視聴維持率。離脱の場所。サムネのクリック率。コメントの比率。改善点」
母親が怪訝そうに言う。
「そんなの、分かるんですか?」
「本人が分かります。分かるようにします。できるなら、続ける条件になる」
レンは黙って、PCの画面を切り替えた。アナリティクスの画面が開く。陸が覗き込みそうになり、静の視線で止まる。
静はレンに言う。
「直近十本。タイトルを並べろ。投稿間隔も」
レンが歯を鳴らしそうな顔で、履歴を開く。画面に並ぶサムネ。文字の癖。色の癖。レンの手が、いつもの編集の速さとは違う。少し遅い。見られている速度だ。
母親が画面を見る。
「……こんなの、全部同じに見える」
レンが反射的に言い返しかける。
「違——」
静が先に言った。
「同じに見えるなら、改善点です。レン、サムネの文字、全部白だな。背景も暗い。目立たない」
レンがむっとする。
「俺の世界観」
「世界観は大事だ。でも、伝わらない世界観は存在しないのと同じだ」
母親が口を挟む。
「ほら。先生も言ってる。そんなの直して、勉強しなさい」
静は母親の方を見ない。
「勉強は最低限必要です。出席も必要です。ただ、今は『直せる場所』を見つけています」
レンが小さく言う。
「……視聴維持率、どこ見るんだよ」
静が指差す。
「そこ。グラフ。落ちてるところが、お前の弱点」
レンが画面を見て、眉が動いた。落ちているのは、冒頭の数秒。そこから持ち直し、また中盤で落ちる。
静はレンに聞く。
「冒頭で何してる」
「……挨拶」
「長いか?」
「……長い」
母親が呆れたように言う。
「そんなの、当たり前でしょ」
レンが母親を睨む。母親も睨み返す。
静が間に言葉を置く。
「当たり前でも、本人が自分で気づいて直すのが大事です。レン、挨拶を三秒に切れ。次の一本で試す」
レンが口を開ける。
「三秒って、無理だろ」
「無理なら五秒。決めろ。決めて守れ」
レンは唇を噛んで、指で画面を叩いた。
「……五秒」
静は続ける。
「中盤の落ち。何を入れてる」
レンは画面をスクロールしながら、小さく言う。
「……同じ絵が続く」
「じゃあ、そこでカットを変える。字幕の位置を変える。効果音を入れる。やれることはある」
母親が眉をひそめる。
「先生、そこまで……。そんなの、学校で教えることですか?」
静は母親の目を見た。
「学校は教えません。だから、ここでやります。教えないなら、知らないまま潰れます」
母親が黙る。レンがその沈黙に、少しだけ息を吐く。
静はレンのルール紙を取って、母親の前に置いた。
「お母さま。条件を提案します。スマホを『全部』取り上げない代わりに、これを守れなかったら取り上げる。守れたら、続ける」
母親が言う。
「守れるの? この子が?」
静はレンを見た。
「守れる形にする。例えば——」
静は言いかけて止めた。箇条書きにしないために、言葉を区切る。
「まず、夜。編集は二十三時まで。二十三時半には布団。守れなかったら、その日はスマホは預ける。翌朝返す」
レンが反発する。
「それじゃ間に合わねぇ」
「間に合わない編集をしてる。工程を切る。完璧より、継続」
母親が小さく言う。
「……翌朝返す、なら」
レンが母親を見る。母親はレンを見ない。バッグの取っ手を握り直している。
静は続けた。
「次、出席。遅刻と欠席が増えたら、続ける理由が消える。学校が動く。教頭が動く。そこは現実です」
母親が喉を鳴らした。
「教頭、というのは……」
「黒川教頭です。今、学校は『情報拡散』に敏感です。火種を嫌います。レンがやってることは、火種になりやすい。だから、火が出ない形でやる」
レンが低く言う。
「……火種、火種って。俺は爆弾かよ」
「爆弾になるか、道具になるかは、扱い方だ」
静はレンの画面に戻す。
「レン。次の一本、改善点を三つだけ決めろ。五秒挨拶。中盤カット変更。サムネの文字色変更。できるか」
レンが目を伏せる。
「……できる」
「やったら、記録する。再生数じゃなく、改善したかどうかを残す」
母親が言う。
「再生数が増えなかったら、意味ないでしょ」
静は即答しない。レンの顔を見る。レンがその言葉で、また拳を握りかけている。
静が言った。
「増えない可能性はあります。現実です。けど、改善していれば、外に出す材料になります。面接で話せる。ポートフォリオになる。『ただのバズ待ち』じゃなくなる」
母親が小さく息を吐く。
「……面接?」
「映像の専門、職業訓練、制作のアシスタント。全部、継続と改善が見られます。再生数は運もある。改善は本人の力です」
レンがぽつりと言う。
「……運だけじゃねぇし」
「運だけじゃない。だから、運以外の部分を増やす」
静は机の上の封筒を母親の前に置いた。中身はまだ空だ。
「ここに、アカウント名と、改善記録の紙を入れて、私が預かります。家で捨てられない場所に置く。お母さまがスマホを一時的に預かる日が来ても、本人の積み上げが消えないように」
母親が封筒を見て、眉を寄せる。
「……先生が預かるんですか。そんな、責任——」
「責任は取りません。預かるだけです。消えないようにするだけ」
レンが封筒を見て、ようやく椅子に座った。座り方が、さっきより静かだ。
母親はしばらく黙っていた。バッグの中の鍵を探すみたいに手を動かし、見つからず、やめる。
「……じゃあ」
母親がやっと言う。
「スマホは、夜だけ私が預かります。二十三時半。守れなかったら、翌日も。……それでいいですか」
レンが顔を上げた。目の奥が揺れるが、声は尖らせないようにしている。
「……二十三時まで、編集していい?」
「いい。寝るなら」
「……寝る」
母親がレンを見る。初めてちゃんと見る。レンは視線を逸らさずにいる。長くは持たないが、逃げない。
静は小さく頷いた。
「明日、担任との面談があります。そこでは、同じことを言う。短く。守れる条件として」
母親が言う。
「教頭が出てきたら?」
静が答える。
「出てくる可能性はあります。そのときは、数字を出します。再生数じゃない数字。継続と改善の数字です」
レンが小さく笑った。
「……俺の動画、学校の面談で分析されるとか、意味わかんねぇ」
静は言った。
「意味は作る。作れなかったら、切られる」
陸がドアの方を見た。廊下の影が動く。誰かが通り過ぎ、足音が止まり、また動く。見張りのような間だ。
静は封筒をレンに渡した。
「アカウント名、今書け。明日までに逃げるな」
レンは封筒を握った。さっきの拳とは違う握り方で。
母親が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。
「……先生。夜勤、行かなきゃ。レン、帰るよ」
レンはPCを閉じた。閉じる手が名残惜しそうに遅い。だが閉じた。
静が最後に言う。
「レン。明日、面談の前に五分だけここに来い。改善点、紙にして持っていく」
レンは小さく頷いた。
「……分かった」
母親とレンが廊下へ出る。レンは一度だけ振り返り、陸と目が合う。陸は何も言えず、ただ頷いた。
静はドアを閉めきらず、少し開けたまま、封筒の予備を引き出しから出した。
明日、同じ「決着」の空気が来る。違う形にするなら、今夜の二十三時半からだ。
翌朝の第3進路室は、まだ暖房が追いついていなかった。
静が鍵を回す音に、廊下の空気が一緒に入ってくる。机の上には封筒が二つ。昨日レンに渡した予備と、ユナの記録ファイル。どちらも、ここに置くことでしか守れないものだった。
「おはよ」
相沢陸が先に来ていた。手には昨日のプリント束。目の下の影が薄くならない。
「早いな」
「噂、消えない。……第3、今日も見られてる」
陸は廊下をちらりと見た。誰もいないのに、誰かがいるみたいな視線だけが残る。
静が机に鞄を置いた瞬間、レンが来た。制服の襟が少し乱れている。息は切れていない。走ってはいない。でも、顔が硬い。
「五分って言っただろ」
「……来た」
レンは座らず立ったまま、スマホを握っている。昨日の「取り上げ」が夜だけで済んだのか、その握り方が妙に慎重だった。
静は椅子を引いた。
「座れ。で、改善点の紙は」
レンはポケットから折り畳んだメモを出した。くしゃくしゃではない。折り目がきっちりある。
「これ」
静が受け取る。短い字で三つ。
『挨拶5秒/中盤カット変える/サムネ白文字やめる』
「よし」
レンが小さく息を吐いた。
陸が言う。
「ちゃんと寝た?」
レンは目を逸らした。
「……二十三時半、スマホ取られた。寝た」
「取られた、って言い方」
静が言うと、レンは肩をすくめた。
「預けた。……寝た」
静は封筒を指で押した。
「アカウント名書いたか」
「書いた」
レンは封筒を差し出す。静が受け取って中を確認しようとすると、レンが慌てて止めた。
「パスは書いてねぇぞ」
「書くなって言った。確認だけだ」
静は封筒を閉じ、引き出しに入れた。
「今日は面談だ。時間、覚えてるな」
「十六時」
レンの声が低い。腹の底で固めているみたいだった。
陸がドアの方を見た。遠くで教員の声がして、すぐ消える。聞き耳を立ててる気配が、また近づいては離れる。
静がレンに言う。
「面談の前にもう一つ。お前のチャンネル、今、危ない動画が一本ある」
レンが眉を寄せる。
「危ないのは上げてねぇ」
「上げてる中にもある。昨日はそこまで見なかった」
レンの喉が鳴る。
「……何だよ」
静は言葉を選ばない。
「特定されるやつ」
レンが反射的に言い返す。
「してねぇって!」
「場所が分かる。音が入ってる。制服じゃなくても、学校帰りの道だ。看板と店の並びで追える」
レンの顔から血が引く。次に、怒りが戻る。
「それ、俺のバズったやつだし」
「再生数は」
レンが言うのを躊躇って、吐き捨てる。
「……五万」
陸が目を丸くする。
「え、五万? すげ」
レンは陸を睨んで黙らせる。
静は続けた。
「コメント欄、見たか」
「見てる」
「『どこ?』って聞かれてるだろ」
レンの指がスマホの端を強く押す。
「……聞かれてる」
「答えたか」
「答えてねぇ」
静は一拍置く。
「DMは」
レンが黙る。
静はその沈黙を崩さない。レンが自分から言うのを待つ。
レンは歯を食いしばり、やっと言った。
「……来てる。『会おう』とか。『制服可愛い』とか。俺、男だっつーの」
陸が顔をしかめる。
「キモ……」
レンが笑おうとして失敗する。
「……キモい。でも、ブロックした。何人か」
静が言う。
「ブロックは正しい。だが、動画が残ってる限り、次が来る。学校に繋がったら、お前だけじゃ済まない」
レンが反発する。
「じゃあ消せって? 五万だぞ。あれで伸びたのに」
「消せ」
静の声は短い。命令に近い。レンの目が見開く。
「何でだよ!」
静は机に置いたメモを指先で叩いた。
「稼ぐって言ったな。稼ぐには責任がいる。責任は、誰かが危険を背負うってことじゃない」
レンが息を荒くする。
「俺が背負ってんだよ!」
「背負えてない。背負うのは、事故が起きた後だ。今は、避けるだけ」
レンは椅子を蹴りそうになって、足を止めた。昨日と同じところで止まる。止まった自分に腹が立つみたいに、拳を握り直す。
「……消したら、終わる」
「終わらない。別のやり方で伸ばす。昨日決めた改善で」
レンが唇を噛み、スマホの画面を開いた。親指が震える。陸が覗き込もうとして、静の視線で引っ込めた。
レンは小さく言う。
「……先生、これ、俺の武器だぞ」
「武器は、持ち主を守るために使え。人を巻き込むなら、武器じゃなくて凶器だ」
レンの目が揺れた。画面の中の自分のサムネが並ぶ。五万の動画の横に、小さな炎のアイコンみたいな通知が点いている。
レンが呟く。
「……コメント、まだ増えてる」
「増えるほど、危険も増える」
「……金も」
「金は、責任の対価だ。責任を果たせないなら、受け取る資格がない」
レンが静を睨む。睨み返されない。静はただ待つ。決めるのはレンだ。
ドアの外で足音が止まり、誰かの声がした。
「……今日中に、ね」
誰の声かは分からない。けれど「今日中に」という言葉だけで、黒川の顔が浮かぶ空気だった。
レンの親指が止まった。
「……消したら、母ちゃん喜ぶだろうな」
「母親のためじゃない」
静は言い切る。
「お前のためだ。お前が続けるための選択だ」
レンは目を閉じた。短く一回。開くとき、何かを切り替えるみたいに眉が下がっていた。
「……削除、どこ」
「管理画面。動画の右の点」
レンは操作する。指が迷う。途中で止まる。
「……戻せる?」
「一定期間は戻せることもある。でも、戻す前提で消すな。戻すなら、最初から消すな」
レンが息を吐く。長い。画面に「削除しますか?」の確認が出る。
レンが言った。
「……稼ぐって、こんなめんどいのかよ」
静は頷く。
「めんどい。だから、稼げる人は少ない」
レンの親指が、画面の「削除」を押した。
一瞬、何も起きない。次の瞬間、一覧からそのサムネが消えた。
レンはスマホを見つめたまま動かない。肩が上下する。陸が声をかけようとして、やめる。
静が言った。
「今のは、逃げじゃない。責任だ」
レンが小さく笑った。笑いというより、喉が鳴った。
「……バズ、消えた」
「また作れる。今度は、潰れない形で」
レンはスマホをロックし、ポケットに入れた。入れる動きが丁寧だった。昨日までの乱暴さが、少しだけ薄い。
陸がぽつりと言う。
「木下、今の、かっこよかったぞ」
レンが陸を睨む。
「うるせぇ。……別に」
でも、その声はさっきより尖っていない。
静が時計を見る。
「もう行け。授業だ。寝るなよ」
レンがドアに向かい、足を止めた。
「……面談、教頭出てきたらさ」
「出てきたら、条件と記録で殴る。言葉でな」
レンが鼻で笑う。
「殴るとか言うなよ、教師が」
「比喩だ。行け」
レンが出ていく。廊下に出た瞬間、誰かの視線を感じたのか、レンは背筋を伸ばして歩いた。
ドアが閉まりきる前に、陸が静に言った。
「……一本消したってこと、担任に言う?」
「言う。先に言う。隠すと、火種になる」
静は引き出しから封筒をもう一つ取り出し、レンの削除した動画のタイトルを書き留めた。
消した事実も、積み上げの一つだ。消せる人間だと示す材料だ。
廊下の時計が、秒針を刻む。十六時まで、時間はあるようで、ない。
「……入るぞ」
声は低く、喉の奥で擦れたみたいだった。木下レンは制服のまま、肩からバッグをずり落とし、目の下に濃い影を抱えて立っている。髪は寝癖か、手で何度もかき上げた跡か、前髪が妙に割れていた。
桐生静は顔を上げる。机の端には、ユナの記録用紙を挟んだクリアファイル。陸がさっき、そっと棚に戻したばかりだ。
「座れ。寝るなよ」
「寝ねぇって……」
レンは椅子に落ちた。背もたれに寄りかかる前に、スマホを握り直している。手が、休む場所を探しているみたいに動く。
相沢陸が、壁際のプリンタ横でペンを持ったままレンを見る。
「木下、ここ来るの珍しくね」
「うるせ。……お前、ここでバイトでもしてんのか」
「してねーよ。手伝い」
レンの視線が静に戻る。
「俺、進路とか、無理なんで。相談じゃねぇし」
「じゃあ何だ」
「停学とか、そっちの話」
静の眉が動いた。レンはスマホの画面を上に向けたまま、誰にも見せない角度で持っている。
「教頭、なんか言ってたろ。『情報拡散に注意』って」
陸が小さく息を飲む。今朝、報告書を教頭室に持っていった時の空気が、まだ指先に残っていた。
静は椅子から身を乗り出さない。声だけを少し低くする。
「お前、何を上げた」
レンは笑うような音を出した。笑ってない。
「上げてねぇよ。上げる前に止めた」
「止めた理由は」
「……誰かがチクった」
陸が口を挟む。
「お前さ、また校内で撮ってたの?」
「撮ってねぇって言ってんだろ」
レンは陸を睨むが、目が開ききらない。瞬きを多くして、焦点が合う前に逸れる。
静が机の上のメモ帳を指で二回叩いた。
「レン。結論から言う。校内で撮影して投稿したら、お前は詰む。学校の規定もあるし、今年から厳しい。教頭が特に」
レンの口角がわずかに上がる。
「ほら。やっぱ停学じゃん」
「今は、まだ。『上げてない』ならな」
「じゃあ何で呼ばれたんだよ」
「呼ばれたのは、誰に」
レンは一瞬黙った。スマホの画面を見下ろし、親指で何かを消すみたいに擦る。
「……担任。『進路室行け』って。『お前、最近、授業中寝すぎ』って」
陸が小さく「それはそう」と呟きかけ、静の視線で飲み込んだ。
静はレンの顔を見たまま言う。
「徹夜してるな」
「してねぇ」
「目が言ってる」
レンは鼻で笑って、笑いが途中で途切れた。
「編集、終わんねぇんだよ。一本出すのに、切って、繋いで、字幕入れて、音合わせて……。出したら出したで数字見て、次のネタ考えて」
静は頷くだけで止めない。続きを待つ。
レンは言葉の勢いを失って、椅子の背に頭を預けた。
「……でも、学校はさ、テストの点しか見ねぇじゃん」
「学校は数字が好きだ」
静の返答が即答すぎて、レンが目を開ける。
「マジで言うんだ」
「教頭は特に。『学校は企業』が口癖だ。実績を積めないやつは、切り捨てる」
陸がレンの顔色を見て、少しだけ身を縮めた。レンは笑いかけて、笑い切れずに唇を噛む。
「じゃあ、俺も切られる側だろ。赤点だし」
「切られる前に、道を増やす。ここはそれをやる場所だ」
レンは目を細めた。
「道って、何。俺、動画しかねぇし」
「『しか』って言うな。動画は武器になる。ただし、武器は持ち方を間違えると自分に刺さる」
レンが机の端を指で叩く。リズムが早い。
「バズれば勝ちだろ。金も入るし。就職とかより早い」
静は否定しない。代わりに質問を落とす。
「今、登録者何人」
「……二千ちょい」
「収益は」
レンの指が止まった。
「……月、三千とか。波ある」
「三千円で徹夜して授業寝て、赤点増やして、停学のリスク背負ってる」
レンが睨む。
「じゃあ、どうしろってんだよ。『やめろ』って言いたいんだろ」
「やめろは言わない。現実の選択肢を増やすって言った」
静はメモ帳を引き寄せ、ペンを取る。しかし書かない。レンの目の前で、ペン先を置いたまま言葉を選ぶ。
「お前、何系の動画だ」
「……切り抜きっぽいやつ。街の変な看板とか、学校帰りの……」
「校内は」
「だから撮ってねぇって」
静は頷く。
「顔出しは」
「してねぇ」
「声は」
「……入ってる」
静が一拍置く。
「お前の声、特徴ある。クラスで真似されるだろ」
レンの目が揺れる。陸が思い当たったようにレンを見る。
「……木下の『マジで?』、真似されてるの見たことある」
「うるせぇ」
レンは吐き捨てたが、声が弱い。
静が言う。
「『バズりたい』のは分かった。じゃあ聞く。何でバズりたい」
レンはすぐ答えない。スマホの画面を暗くして、指紋のついたガラスに自分の顔を映すみたいに見ている。
「……家、金ねぇし」
陸のペン先が止まる。
レンは続けた。
「父親いない。母ちゃん、夜勤。俺が稼げたら、楽になるし。あと……」
「あと」
レンは口を開けて、閉じた。喉仏が上下する。
「……クラスで、俺の話、誰も聞かねぇ」
静はそこで「寂しい」とは言わない。レンが言葉に詰まったまま、視線を机の傷に落としているのを見て、静はペンを置いた。
「再生数のコメント欄は、聞いてくれるか」
レンが顔を上げる。
「……聞いてくれるっていうか。反応ある」
「良い反応だけか」
レンの口が歪む。
「……悪いのもある。『キモ』とか。『声きしょい』とか」
陸が「うわ」と小さく漏らす。
静は淡々と言う。
「そこに、学校の名前が紐づいたらどうなる」
レンが黙る。
「特定される。お前だけじゃない。クラスも、学校も巻き込む。黒川はそれを一番嫌う。『火種』って言葉、好きだからな」
レンは肩をすくめるふりをしたが、指先が震えていた。
「じゃあ、俺、詰みじゃん。今さら」
「今さらじゃない。まだ上げてないんだろ」
レンは小さく頷いた。
静は机の引き出しから、学校の進路資料ではない、白い紙を一枚出した。どこにでもあるコピー用紙だ。
「レン。今日、二つだけ決める」
「なに」
「一つ。撮影と編集のルールを作る。学校に迷惑がかからない範囲でやる」
レンが鼻で笑う。
「そんなルールでバズるわけねぇ」
「バズるかどうかは知らない。だが、続けるためのルールだ」
静は紙をレンの前に置く。
「二つ。お前の『数字』を作る。学校が好きなやつだ。内申に直結しなくても、進路に使える数字」
レンが眉を寄せる。
「数字って、成績だろ」
「違う。制作本数、投稿頻度、視聴維持率、編集時間、使用ソフト、著作権への配慮、撮影許可の取り方。全部、実務の数字だ」
陸が思わず前に出る。
「それ、ポートフォリオみたいなやつ?」
静は陸にだけ頷く。
「そう。今のままじゃ『遊び』で終わる。『仕事』に寄せる」
レンが紙を見つめる。そこに何も書かれていないのが、逆に怖いみたいだった。
「……そんなの、学校、認めねぇだろ」
「学校は認めなくても、外は見る。専門、職業訓練、映像系のバイト、制作会社のアシスタント。現実的に行ける道はある。ただし、高卒資格と最低限の出席は要る」
レンが顔をしかめる。
「出席、ムリ。眠い」
静は言い切る。
「ムリでもやる。徹夜をやめろじゃない。徹夜の回数を減らす。編集の工程を切る」
レンは反発するように身を乗り出す。
「切ったらクオリティ落ちる」
「落ちても出す。完璧を目指して出せないより、七割で出して次に回す方が伸びることもある」
レンの口が開いたまま止まる。言い返したいのに、どこかでそれを知っている顔だった。
陸が小声で言う。
「木下、お前、いつも『もうちょい詰める』って言って翌日死んでるもんな」
「黙れ」
レンは言ったが、声に棘がない。
静が続ける。
「あと、学校の中で撮るな。制服で撮るな。場所が分かるものは映すな。音もだ。校歌が入っただけで特定される」
レンが目を見開く。
「……校歌とか、入んの?」
「昼休みの放送。体育館。文化祭の練習。全部入る」
陸が頷く。
「うち、放送室の音、廊下まで聞こえる」
レンは舌打ちして、スマホを握りしめた。
「じゃあ、ネタなくなる」
「ネタは外にある。学校の外で撮れ。許可を取れる場所で撮れ。店なら店主に一言。看板なら私有地に入るな」
レンが笑った。
「真面目かよ」
「真面目にやるなら、続く」
静の声は変わらない。だが、その「続く」が、レンの胸のどこかに引っかかったみたいに、レンは目を逸らした。
ドアの外、廊下の足音が止まり、誰かの声が遠くで聞こえる。「教頭が——」と、単語だけが抜け落ちてくる。
陸が反射的にドアを見た。
静はそれに気づいても、顔色を変えない。
「レン。担任から何か言われたか」
レンは肩を落とす。
「『次、居眠りしたら保護者呼ぶ』って。あと、『スマホ没収』とか」
「没収は、学校の規定上、勝手にはできない。ただ、揉めると負けるのはお前だ」
レンが唇を噛む。
「……母ちゃん呼ばれたら終わる。スマホ見られたら」
静が短く言う。
「見られる前提で守れ」
「無理」
「無理なら、守れる形に変える」
静は引き出しから、小さな封筒を出した。茶封筒。名前欄は空白。
「ここに、アカウント名と、投稿予定の内容だけ書け。パスワードは書くな。学校に預けるんじゃない。『相談の記録』として私が持つ」
レンが眉を寄せる。
「何それ。監視?」
「保険。『学校で撮ってない』『許可を取ってる』『制服を使ってない』、そういうルールを守ってる証拠になる。何かあった時に、お前の言い分が空気で消されないようにする」
レンは封筒を見て、指先でそっと触れた。触れただけで引っ込める。
「……証拠って、そんなの、誰が信じるんだよ」
「信じさせる材料を積む。それが現実」
陸がぽつりと言う。
「教頭、材料ないと切るもんな」
レンが陸を見る。
「教頭、そんな怖いの」
陸は言葉を選ぶ。
「怖いっていうか……『学校のため』って顔で、普通に切る」
静がレンに視線を戻す。
「だから、今のうちに『学校に迷惑をかけない形でやってる』を作る。そうすれば、止められにくい。堂々とじゃない。生き残る形だ」
レンが息を吐いた。長い。
「……やり方、汚くね」
「綺麗にやって守れるなら、最初から守れてる」
静は紙を指で押さえる。
「まず、今日。お前の一日の時間割を全部書く。寝てる時間も。編集してる時間も。嘘つくな。嘘つくと対策が死ぬ」
レンは渋い顔でペンを取った。字は乱れているが、迷いはない。
「……寝てる時間、ねぇよ」
「そこから作る」
陸が椅子を引いて、レンの斜め後ろに座る。
「俺、時間のとこ一緒に整理していい?」
「お前、何でそんなに乗り気なんだよ」
「見てみたい。動画作るの、どうやってんのか」
レンが一瞬、口元を緩めた。すぐに隠すように咳払いする。
静はその小さな変化を追わず、紙の端に線を一本引いた。
「レン。今日はここまででいい。次、スマホの中身じゃなくて、作業工程を見せろ。画面録画でいい。素材は見なくていい」
レンが顔を上げる。
「見ないの?」
「見たら、私が余計な責任を背負う。お前も背負う。必要なのは、やり方だ」
レンは少しだけ頷いた。
廊下で、また足音が近づく。ドアの前で止まる気配。ノックはない。でも、空気が一段冷える。
陸がレンの紙を覗き込みながら、小声で言う。
「……今日、教頭、動いてる」
レンが顔を強張らせる。
静はドアの方を見ずに言った。
「動いてるなら、こっちも動く。レン、放課後、残れるか」
「バイト……は、してねぇ。編集ある」
「編集はここでやれ。電源ある。Wi-Fiはない。だから、素材のダウンロードは家で済ませてこい」
レンが目を丸くする。
「ここで編集していいの?」
「条件付きだ。音はイヤホン。画面は覗かれても困らない内容にする。校内撮影はなし。守れるなら」
レンは一瞬迷ってから、短く言った。
「……分かった」
静はメモ帳に小さく時間を書き込む。
「じゃあ放課後。今日中に、最低限のルールを紙にする。担任と教頭に『管理できてる』って形を見せるためだ」
レンがペンを握り直す。
「……バズるためじゃなくて、生き残るためのルールか」
「両方だ」
レンは紙に目を落としたまま、低く笑った。
「現実、厳しいな」
静は淡々と返す。
「だから道を増やす」
ドアの向こうで、誰かが咳払いをした。次の瞬間、足音が遠ざかる。
陸が息を止めていたのを、やっと吐いた。
レンはその音を聞き、ペンを走らせる速度を少し上げた。放課後までに形にしなければ、誰かの「決着」が先に来る。そういう空気だけが、部屋の隅に残っていた。
放課後の第3進路室は、蛍光灯の白さだけがやけに浮いていた。
レンはノートPCを開き、イヤホンを片耳だけに差して、タイムラインを切っては戻し、切っては戻している。マウスを握る手が速い。目は半分しか開いていないのに、指は迷わない。
静は机の端で、レンが書いた「ルール」を読んでいた。制服で撮らない。校内で撮らない。許可を取る。位置情報は切る。放送の音が入ったら捨てる。投稿前に一晩置く。
「一晩置く、は守れるか」
「……無理」
「じゃあ『三十分置く』にしろ。勢いで上げると、勢いで消す羽目になる」
レンが舌打ちし、紙の上の「一晩」を二重線で消して「30分」と書き直す。
陸はドアの近くでプリントを束ねていた。廊下の気配を気にして、手元が落ち着かない。
「……人、増えてる。噂、回ってる」
「回すやつはいる」
静がそう言った瞬間、ドアがノックもなく開いた。
佐伯が顔を出す。担任の顔は笑っていない。手には出席簿のようなファイル。
「桐生先生、今いいですか」
静が立ち上がる前に、佐伯はレンを見た。
「木下。お前、何やってる」
レンはイヤホンを外さず、目だけを上げた。
「編集」
「授業中に寝て、放課後に遊びか。いい身分だな」
レンの指が止まる。PCの画面にはタイムラインが開いたまま、音もなく止まっている。
静が間に入る。
「佐伯先生、今は——」
「桐生先生」
佐伯は静を見ずに言った。
「くだらない。動画? 配信? そんなもので将来が決まると思ってるなら、学校にいる意味がない」
レンが椅子を蹴って立った。椅子の脚が床を擦る音が、部屋に刺さる。
「くだらなくねぇよ」
「くだらない。お前の成績見ろ。赤点だらけで、何がクリエイターだ」
「うるせぇ!」
陸が反射的に一歩前に出かけ、止まる。静が手のひらを下げて、陸を制した。
静は佐伯に言う。
「本人の現実は、成績だけじゃない。今は続け方のルールを——」
「ルール? 校内で撮って炎上したらどうするんです」
「校内では撮らないルールにしてる」
「守るんですか? 木下が?」
佐伯の言い方は、レンの名前を「信用できない」と言い換えていた。
レンが机を叩いた。
「守るって言ってんだろ!」
静がレンを見る。目だけで「座れ」と言う。レンは一度息を吸い、椅子を引き直して座った。座り方は乱暴だったが、座った。
佐伯はその様子を見て、さらに眉を寄せる。
「見ての通りです。約束なんて、その場しのぎ。親御さんも呼びます」
レンが顔を上げた。
「呼ぶな」
「呼ぶ。君の生活態度は学校の問題だ」
静が言葉を挟む。
「呼ぶなら、こちらで段取りを——」
「段取りを整える前に、教頭からも言われてます」
佐伯の声が少し落ちる。
「『今日中に火種を消せ』と。『第三が火種になる』と」
陸の指がプリントの角を潰す。静は眉一つ動かさない。
「火種って言葉、便利ですね」
佐伯が静を睨む。
「皮肉を言ってる場合じゃない。木下のスマホ、学校に持ち込み禁止にしてもいい」
「規定上——」
「規定は変えられます。形式変更、と言われているのを知らないんですか」
静が一拍置く。佐伯の口から「形式変更」が出た瞬間、レンの顔が「なにそれ」と動いた。
静はレンに言う。
「お前は黙って聞け。今、学校の空気の話だ」
レンは唇を噛んで黙った。
佐伯は続ける。
「明日、保護者面談。木下の母親に来てもらう。これで終わりにします。動画もスマホも、切らせる」
「切って終わるなら、最初から誰も苦労しない」
静は淡々と返した。
「それでも、学校は結果を出さないと。進学実績を落とすわけにはいきません」
佐伯が言い終えた瞬間、廊下の向こうで誰かが笑った。生徒の声だ。覗き見の気配。
静はドアを少し閉めた。完全には閉めない。閉めると「隠してる」と言われる。開けると「見世物」になる。中途半端な角度にして、静は佐伯に言う。
「面談は私も同席します。木下のルールと、制作の記録を持って」
佐伯が鼻で笑う。
「記録? 動画の? そんなもの、進路に関係ない」
「関係ないなら、害もない。害がないなら、切る理由も弱くなる」
佐伯の目が細くなった。
「……理屈だな」
「現実です」
佐伯はしばらく静を見た。負けを認める顔ではない。だが、時間がない顔だった。
「明日、十六時。遅れるな」
そう言い捨てて、佐伯は去った。廊下の足音が遠ざかる。
レンはしばらく動かなかった。静が何も言わずにいると、レンが低く吐く。
「……終わった」
「まだ終わってない」
「母ちゃん来たら、絶対スマホ取られる。あいつ、取る。前も取った」
静は椅子に座り直す。
「前は、何で取られた」
レンが目を泳がせる。
「……夜、寝ないから」
「今回は、面談で取られる可能性が高い。だから、取られた後の手を用意する」
レンが笑った。乾いた音。
「取られた後に何ができんだよ。俺、スマホないと何もできねぇ」
静が言う。
「PCはある」
「スマホないと撮れない」
「撮影用は中古でいい。通信は家のWi-Fi。ないなら、撮って編集して、投稿は学校外のフリーWi-Fiで。危ない場所は避ける。現実は面倒だ」
レンが睨む。
「そんなの、ダサい」
「ダサくても続けるか、カッコつけて止めるか。選べ」
レンは言い返せず、机の端を指で叩いた。さっきより速い。
陸が小さく言う。
「木下、面談で暴れんなよ。暴れたら、教頭の『決着』が来る」
レンが陸を見る。
「お前、教頭の犬かよ」
「犬じゃねぇ。……見たんだよ。報告書出したとき。目、笑ってなかった」
静が陸の方を見た。陸は視線を逸らし、プリントを置く。
レンは椅子から立ち上がり、部屋の中を二歩だけ歩いた。狭い部屋で二歩は、すぐ壁に当たる。レンは壁に拳を当てそうになり、途中で止めた。拳が空中で震えて、ほどける。
「……クソ」
静はその拳を見たまま言う。
「暴れるなら、物を壊すな。壊した瞬間、話が終わる。弁償と処分で、進路の時間が消える」
レンが振り向く。
「じゃあ、どうしろって」
静は一枚の紙をレンに渡した。さっきのルールとは別の、空白の紙だ。
「面談用の台詞を書け。短く。三つだけ」
「台詞?」
「母親に言う台詞。担任に言う台詞。教頭が出てきた時に言う台詞」
レンが紙を見た。白さが怖いのは、さっきと同じだった。
「……そんなの、言えるわけねぇ」
「言えないなら、読む。読むのが無理なら、紙を出す。出すのも無理なら、私が読む。ただし、勝手に代弁はしない。お前が書け」
レンは歯を食いしばり、ペンを握った。握り方が強すぎて、指が白い。
「……母ちゃん、絶対『勉強しろ』しか言わねぇ」
「だから先に言う」
静は短く言った。
「『勉強もやる。だから全部は取り上げないで』。その代わり、条件を出す」
レンが顔を上げる。
「条件?」
「出席。睡眠。投稿ルール。数字の記録。守れなかったら、取り上げられても文句を言えない条件」
レンは口を開けて閉じた。飲み込んだ。
陸が小さく言う。
「……条件、ある方がマシだよな。いきなり取り上げより」
レンは陸を睨み、すぐ視線を落とした。紙にペン先を置く。
そのとき、廊下でスマホの着信音が鳴った。誰かが慌てて止める音。続いて、教員の声が低く響く。
「……木下の保護者、今、来てるって」
レンの背中が固まった。
陸が顔を上げ、静を見る。
静は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、さっきより小さい。
「早いな」
レンが声を絞り出す。
「……来たの?」
静はドアの方へ歩きながら言った。
「逃げるな。逃げたら、向こうの正義が勝つ。ここで準備した『紙』が、ただの紙になる」
レンは椅子の背を掴んだ。指が食い込む。次の瞬間、椅子を持ち上げるように力が入った。
陸が咄嗟に言った。
「木下、やめろ!」
レンの肩が跳ね、椅子が床に落ちる。ガン、と鈍い音。
静は振り返らずに言う。
「レン。紙を持って来い。口が暴れそうなら、紙を先に出せ」
レンは息を荒くしながら、書きかけの白紙を握り潰しそうになって、手を開いた。ペンを落とさずに持ち直す。
「……書く。今、書く」
静はドアを開けた。廊下の空気が流れ込む。遠くで、女性の声が怒りを抑えているのが聞こえた。
「うちの子が、何をやってるって?」
レンが紙に、震える字で一行目を書き始めた。
静は一歩、廊下へ出た。次に何が来るかを、先に受け止めるために。
母親の声は、廊下の空気を硬くした。
「うちの子が、何をやってるって?」
静は廊下に出たまま、ドアを半分だけ閉めた。中が見えすぎない角度。隠してると思われない角度。
「木下レンさんのお母さまですか。第3進路室の桐生です」
母親は小柄で、腕に大きなバッグを抱えていた。目が落ち着かない。怒っているのに、疲れも混ざっている。
「担任から聞きました。授業中寝て、放課後は動画? スマホ? 何考えてるんですか」
「今、本人もいます。入りますか」
「入ります。話、聞きます。……スマホ、持ってますよね?」
静の返事を待たず、母親はドアを押した。レンが椅子から立ち上がる。顔色が悪い。紙を握っている。
「母ちゃん……」
「レン。スマホ出しなさい」
レンの手がポケットに行きかけて、止まる。目だけが静を見る。
静はレンの前に立たず、横に立った。母親の正面にレンを一人で立たせない位置。
「お母さま。いきなり取り上げる前に、確認させてください。校内で撮影して投稿した事実は、今のところありません」
母親が眉を吊り上げる。
「今のところ? じゃあ、やるつもりだったってこと?」
レンが口を開く前に、静が言う。
「危ないところで止めました。止めたのは本人です」
「止めたから偉いって?」
母親の声が少し上ずる。
「偉いとは言いません。止めたことで、今、話ができます」
母親はレンへ手を伸ばした。
「話? そんなのいいからスマホ出しなさい。時間ないの。私、これから夜勤なんです」
レンの肩が跳ねる。握っていた紙がくしゃりと鳴った。
「……やだ」
「何?」
「やだって言ってんだろ!」
レンが机を叩いた。ペンが転がり落ちる。陸が思わず身を引く。
母親の目が細くなる。
「その態度。だからダメなの。スマホがあるから寝ない。寝ないから授業が終わる。終わるから進路がなくなる。分かってる?」
レンが息を吸う。吐けないまま、喉が鳴る。
静が短く言った。
「レン。紙」
レンは一瞬、紙を見た。握り直して、母親に突き出すように差し出した。
「……これ、読む」
母親が紙をひったくる。
「何よこれ」
レンの字は震えていたが、文は短い。
『勉強もやる。出席もする。だから全部は取り上げないで。条件つけていい』
母親の口が歪む。
「条件? 条件つけられる立場なの? あなたが?」
レンが一歩前に出た。
「つけていいって言ってんだろ! 守れなかったら取っていいって!」
「守れないに決まってるでしょ!」
母親の声に、廊下の気配が濃くなる。誰かが立ち止まっている。覗き見の沈黙。
静は母親に向けて言う。
「条件は、守れる形にするために作ります。守れない条件は、ただの処罰です」
母親が静を見る。
「先生、甘やかさないでください。うちの子、昔からそうなんです。楽な方に逃げる」
静は頷きもしない。否定もしない。
「逃げ道を塞ぐと、別の逃げ道を探します。もっと危ない逃げ道に」
母親が言い返す。
「危ない? 動画が危ないんじゃないですか。ネットなんて、変な人もいるし」
「危ないです。だから、管理します」
静が机の上のルール紙を指で押さえた。
「ここに、本人が書いたルールがあります。校内で撮らない。制服で撮らない。許可を取る。位置情報を切る。投稿前に時間を置く」
母親は紙を見て、鼻で笑う。
「書いたから何? 守れるの?」
レンが叫ぶ。
「守るって言ってんだろ!」
母親がレンを睨む。
「その言い方。あなた、誰に向かって言ってるの」
レンの拳が握られる。肩が上がる。椅子の背を掴みそうになる。
静の声が落ちる。
「レン。壊すな。壊したら終わりだ」
レンは歯を食いしばり、机の端を掴んで堪えた。指が白い。
母親は息を吐いて、バッグの中からスマホを取り出した。自分のものだ。画面を見て、眉を寄せる。
「……担任の先生から『教頭も関わる』って言われました。学校に迷惑かけたら、退学もあるって」
陸が小さく肩をすくめる。静の目が一瞬だけ細くなる。
「脅し文句に使われやすい言葉です。ですが、学校は本気です。だから、こちらも本気で『続け方』を作ります」
母親が腕を組む。
「続け方? 続ける前提なんですか?」
静ははっきり言った。
「禁止して終わるなら、今までに終わってます。お母さまは夜勤で見張れない。学校は四六時中見張れない。本人は、スマホがなくても何かでやります」
母親の目が揺れる。痛いところを突かれた顔だ。レンはその揺れを見て、言葉を飲み込んだ。
静は母親に椅子を勧める。
「座ってください。五分で終わらせます。お母さまの時間を奪う話はしません。必要なことだけ」
母親は渋々座った。レンは立ったまま。陸は椅子の背に手を置き、動けない。
静はレンのノートPCを指した。
「レン。チャンネルの分析画面、開け」
レンが目を見開く。
「……今?」
「今。お母さまの前でやる。『遊び』じゃなくて『作業』だと見せる」
母親がすぐ言う。
「見せなくていいです。そんなの。私はスマホを——」
静が遮らず、しかし止める。
「見せないと、話が進みません。お母さまは『再生数』だけを見て判断する。本人は『気合い』だけで突っ走る。どっちも危ない」
レンが小さく言う。
「再生数、見せたくねぇ」
「見せなくていい。見せるのは『継続と改善』だ」
レンが眉を寄せる。
「……何それ」
「数字の種類を変える。再生数じゃなく、投稿頻度。視聴維持率。離脱の場所。サムネのクリック率。コメントの比率。改善点」
母親が怪訝そうに言う。
「そんなの、分かるんですか?」
「本人が分かります。分かるようにします。できるなら、続ける条件になる」
レンは黙って、PCの画面を切り替えた。アナリティクスの画面が開く。陸が覗き込みそうになり、静の視線で止まる。
静はレンに言う。
「直近十本。タイトルを並べろ。投稿間隔も」
レンが歯を鳴らしそうな顔で、履歴を開く。画面に並ぶサムネ。文字の癖。色の癖。レンの手が、いつもの編集の速さとは違う。少し遅い。見られている速度だ。
母親が画面を見る。
「……こんなの、全部同じに見える」
レンが反射的に言い返しかける。
「違——」
静が先に言った。
「同じに見えるなら、改善点です。レン、サムネの文字、全部白だな。背景も暗い。目立たない」
レンがむっとする。
「俺の世界観」
「世界観は大事だ。でも、伝わらない世界観は存在しないのと同じだ」
母親が口を挟む。
「ほら。先生も言ってる。そんなの直して、勉強しなさい」
静は母親の方を見ない。
「勉強は最低限必要です。出席も必要です。ただ、今は『直せる場所』を見つけています」
レンが小さく言う。
「……視聴維持率、どこ見るんだよ」
静が指差す。
「そこ。グラフ。落ちてるところが、お前の弱点」
レンが画面を見て、眉が動いた。落ちているのは、冒頭の数秒。そこから持ち直し、また中盤で落ちる。
静はレンに聞く。
「冒頭で何してる」
「……挨拶」
「長いか?」
「……長い」
母親が呆れたように言う。
「そんなの、当たり前でしょ」
レンが母親を睨む。母親も睨み返す。
静が間に言葉を置く。
「当たり前でも、本人が自分で気づいて直すのが大事です。レン、挨拶を三秒に切れ。次の一本で試す」
レンが口を開ける。
「三秒って、無理だろ」
「無理なら五秒。決めろ。決めて守れ」
レンは唇を噛んで、指で画面を叩いた。
「……五秒」
静は続ける。
「中盤の落ち。何を入れてる」
レンは画面をスクロールしながら、小さく言う。
「……同じ絵が続く」
「じゃあ、そこでカットを変える。字幕の位置を変える。効果音を入れる。やれることはある」
母親が眉をひそめる。
「先生、そこまで……。そんなの、学校で教えることですか?」
静は母親の目を見た。
「学校は教えません。だから、ここでやります。教えないなら、知らないまま潰れます」
母親が黙る。レンがその沈黙に、少しだけ息を吐く。
静はレンのルール紙を取って、母親の前に置いた。
「お母さま。条件を提案します。スマホを『全部』取り上げない代わりに、これを守れなかったら取り上げる。守れたら、続ける」
母親が言う。
「守れるの? この子が?」
静はレンを見た。
「守れる形にする。例えば——」
静は言いかけて止めた。箇条書きにしないために、言葉を区切る。
「まず、夜。編集は二十三時まで。二十三時半には布団。守れなかったら、その日はスマホは預ける。翌朝返す」
レンが反発する。
「それじゃ間に合わねぇ」
「間に合わない編集をしてる。工程を切る。完璧より、継続」
母親が小さく言う。
「……翌朝返す、なら」
レンが母親を見る。母親はレンを見ない。バッグの取っ手を握り直している。
静は続けた。
「次、出席。遅刻と欠席が増えたら、続ける理由が消える。学校が動く。教頭が動く。そこは現実です」
母親が喉を鳴らした。
「教頭、というのは……」
「黒川教頭です。今、学校は『情報拡散』に敏感です。火種を嫌います。レンがやってることは、火種になりやすい。だから、火が出ない形でやる」
レンが低く言う。
「……火種、火種って。俺は爆弾かよ」
「爆弾になるか、道具になるかは、扱い方だ」
静はレンの画面に戻す。
「レン。次の一本、改善点を三つだけ決めろ。五秒挨拶。中盤カット変更。サムネの文字色変更。できるか」
レンが目を伏せる。
「……できる」
「やったら、記録する。再生数じゃなく、改善したかどうかを残す」
母親が言う。
「再生数が増えなかったら、意味ないでしょ」
静は即答しない。レンの顔を見る。レンがその言葉で、また拳を握りかけている。
静が言った。
「増えない可能性はあります。現実です。けど、改善していれば、外に出す材料になります。面接で話せる。ポートフォリオになる。『ただのバズ待ち』じゃなくなる」
母親が小さく息を吐く。
「……面接?」
「映像の専門、職業訓練、制作のアシスタント。全部、継続と改善が見られます。再生数は運もある。改善は本人の力です」
レンがぽつりと言う。
「……運だけじゃねぇし」
「運だけじゃない。だから、運以外の部分を増やす」
静は机の上の封筒を母親の前に置いた。中身はまだ空だ。
「ここに、アカウント名と、改善記録の紙を入れて、私が預かります。家で捨てられない場所に置く。お母さまがスマホを一時的に預かる日が来ても、本人の積み上げが消えないように」
母親が封筒を見て、眉を寄せる。
「……先生が預かるんですか。そんな、責任——」
「責任は取りません。預かるだけです。消えないようにするだけ」
レンが封筒を見て、ようやく椅子に座った。座り方が、さっきより静かだ。
母親はしばらく黙っていた。バッグの中の鍵を探すみたいに手を動かし、見つからず、やめる。
「……じゃあ」
母親がやっと言う。
「スマホは、夜だけ私が預かります。二十三時半。守れなかったら、翌日も。……それでいいですか」
レンが顔を上げた。目の奥が揺れるが、声は尖らせないようにしている。
「……二十三時まで、編集していい?」
「いい。寝るなら」
「……寝る」
母親がレンを見る。初めてちゃんと見る。レンは視線を逸らさずにいる。長くは持たないが、逃げない。
静は小さく頷いた。
「明日、担任との面談があります。そこでは、同じことを言う。短く。守れる条件として」
母親が言う。
「教頭が出てきたら?」
静が答える。
「出てくる可能性はあります。そのときは、数字を出します。再生数じゃない数字。継続と改善の数字です」
レンが小さく笑った。
「……俺の動画、学校の面談で分析されるとか、意味わかんねぇ」
静は言った。
「意味は作る。作れなかったら、切られる」
陸がドアの方を見た。廊下の影が動く。誰かが通り過ぎ、足音が止まり、また動く。見張りのような間だ。
静は封筒をレンに渡した。
「アカウント名、今書け。明日までに逃げるな」
レンは封筒を握った。さっきの拳とは違う握り方で。
母親が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。
「……先生。夜勤、行かなきゃ。レン、帰るよ」
レンはPCを閉じた。閉じる手が名残惜しそうに遅い。だが閉じた。
静が最後に言う。
「レン。明日、面談の前に五分だけここに来い。改善点、紙にして持っていく」
レンは小さく頷いた。
「……分かった」
母親とレンが廊下へ出る。レンは一度だけ振り返り、陸と目が合う。陸は何も言えず、ただ頷いた。
静はドアを閉めきらず、少し開けたまま、封筒の予備を引き出しから出した。
明日、同じ「決着」の空気が来る。違う形にするなら、今夜の二十三時半からだ。
翌朝の第3進路室は、まだ暖房が追いついていなかった。
静が鍵を回す音に、廊下の空気が一緒に入ってくる。机の上には封筒が二つ。昨日レンに渡した予備と、ユナの記録ファイル。どちらも、ここに置くことでしか守れないものだった。
「おはよ」
相沢陸が先に来ていた。手には昨日のプリント束。目の下の影が薄くならない。
「早いな」
「噂、消えない。……第3、今日も見られてる」
陸は廊下をちらりと見た。誰もいないのに、誰かがいるみたいな視線だけが残る。
静が机に鞄を置いた瞬間、レンが来た。制服の襟が少し乱れている。息は切れていない。走ってはいない。でも、顔が硬い。
「五分って言っただろ」
「……来た」
レンは座らず立ったまま、スマホを握っている。昨日の「取り上げ」が夜だけで済んだのか、その握り方が妙に慎重だった。
静は椅子を引いた。
「座れ。で、改善点の紙は」
レンはポケットから折り畳んだメモを出した。くしゃくしゃではない。折り目がきっちりある。
「これ」
静が受け取る。短い字で三つ。
『挨拶5秒/中盤カット変える/サムネ白文字やめる』
「よし」
レンが小さく息を吐いた。
陸が言う。
「ちゃんと寝た?」
レンは目を逸らした。
「……二十三時半、スマホ取られた。寝た」
「取られた、って言い方」
静が言うと、レンは肩をすくめた。
「預けた。……寝た」
静は封筒を指で押した。
「アカウント名書いたか」
「書いた」
レンは封筒を差し出す。静が受け取って中を確認しようとすると、レンが慌てて止めた。
「パスは書いてねぇぞ」
「書くなって言った。確認だけだ」
静は封筒を閉じ、引き出しに入れた。
「今日は面談だ。時間、覚えてるな」
「十六時」
レンの声が低い。腹の底で固めているみたいだった。
陸がドアの方を見た。遠くで教員の声がして、すぐ消える。聞き耳を立ててる気配が、また近づいては離れる。
静がレンに言う。
「面談の前にもう一つ。お前のチャンネル、今、危ない動画が一本ある」
レンが眉を寄せる。
「危ないのは上げてねぇ」
「上げてる中にもある。昨日はそこまで見なかった」
レンの喉が鳴る。
「……何だよ」
静は言葉を選ばない。
「特定されるやつ」
レンが反射的に言い返す。
「してねぇって!」
「場所が分かる。音が入ってる。制服じゃなくても、学校帰りの道だ。看板と店の並びで追える」
レンの顔から血が引く。次に、怒りが戻る。
「それ、俺のバズったやつだし」
「再生数は」
レンが言うのを躊躇って、吐き捨てる。
「……五万」
陸が目を丸くする。
「え、五万? すげ」
レンは陸を睨んで黙らせる。
静は続けた。
「コメント欄、見たか」
「見てる」
「『どこ?』って聞かれてるだろ」
レンの指がスマホの端を強く押す。
「……聞かれてる」
「答えたか」
「答えてねぇ」
静は一拍置く。
「DMは」
レンが黙る。
静はその沈黙を崩さない。レンが自分から言うのを待つ。
レンは歯を食いしばり、やっと言った。
「……来てる。『会おう』とか。『制服可愛い』とか。俺、男だっつーの」
陸が顔をしかめる。
「キモ……」
レンが笑おうとして失敗する。
「……キモい。でも、ブロックした。何人か」
静が言う。
「ブロックは正しい。だが、動画が残ってる限り、次が来る。学校に繋がったら、お前だけじゃ済まない」
レンが反発する。
「じゃあ消せって? 五万だぞ。あれで伸びたのに」
「消せ」
静の声は短い。命令に近い。レンの目が見開く。
「何でだよ!」
静は机に置いたメモを指先で叩いた。
「稼ぐって言ったな。稼ぐには責任がいる。責任は、誰かが危険を背負うってことじゃない」
レンが息を荒くする。
「俺が背負ってんだよ!」
「背負えてない。背負うのは、事故が起きた後だ。今は、避けるだけ」
レンは椅子を蹴りそうになって、足を止めた。昨日と同じところで止まる。止まった自分に腹が立つみたいに、拳を握り直す。
「……消したら、終わる」
「終わらない。別のやり方で伸ばす。昨日決めた改善で」
レンが唇を噛み、スマホの画面を開いた。親指が震える。陸が覗き込もうとして、静の視線で引っ込めた。
レンは小さく言う。
「……先生、これ、俺の武器だぞ」
「武器は、持ち主を守るために使え。人を巻き込むなら、武器じゃなくて凶器だ」
レンの目が揺れた。画面の中の自分のサムネが並ぶ。五万の動画の横に、小さな炎のアイコンみたいな通知が点いている。
レンが呟く。
「……コメント、まだ増えてる」
「増えるほど、危険も増える」
「……金も」
「金は、責任の対価だ。責任を果たせないなら、受け取る資格がない」
レンが静を睨む。睨み返されない。静はただ待つ。決めるのはレンだ。
ドアの外で足音が止まり、誰かの声がした。
「……今日中に、ね」
誰の声かは分からない。けれど「今日中に」という言葉だけで、黒川の顔が浮かぶ空気だった。
レンの親指が止まった。
「……消したら、母ちゃん喜ぶだろうな」
「母親のためじゃない」
静は言い切る。
「お前のためだ。お前が続けるための選択だ」
レンは目を閉じた。短く一回。開くとき、何かを切り替えるみたいに眉が下がっていた。
「……削除、どこ」
「管理画面。動画の右の点」
レンは操作する。指が迷う。途中で止まる。
「……戻せる?」
「一定期間は戻せることもある。でも、戻す前提で消すな。戻すなら、最初から消すな」
レンが息を吐く。長い。画面に「削除しますか?」の確認が出る。
レンが言った。
「……稼ぐって、こんなめんどいのかよ」
静は頷く。
「めんどい。だから、稼げる人は少ない」
レンの親指が、画面の「削除」を押した。
一瞬、何も起きない。次の瞬間、一覧からそのサムネが消えた。
レンはスマホを見つめたまま動かない。肩が上下する。陸が声をかけようとして、やめる。
静が言った。
「今のは、逃げじゃない。責任だ」
レンが小さく笑った。笑いというより、喉が鳴った。
「……バズ、消えた」
「また作れる。今度は、潰れない形で」
レンはスマホをロックし、ポケットに入れた。入れる動きが丁寧だった。昨日までの乱暴さが、少しだけ薄い。
陸がぽつりと言う。
「木下、今の、かっこよかったぞ」
レンが陸を睨む。
「うるせぇ。……別に」
でも、その声はさっきより尖っていない。
静が時計を見る。
「もう行け。授業だ。寝るなよ」
レンがドアに向かい、足を止めた。
「……面談、教頭出てきたらさ」
「出てきたら、条件と記録で殴る。言葉でな」
レンが鼻で笑う。
「殴るとか言うなよ、教師が」
「比喩だ。行け」
レンが出ていく。廊下に出た瞬間、誰かの視線を感じたのか、レンは背筋を伸ばして歩いた。
ドアが閉まりきる前に、陸が静に言った。
「……一本消したってこと、担任に言う?」
「言う。先に言う。隠すと、火種になる」
静は引き出しから封筒をもう一つ取り出し、レンの削除した動画のタイトルを書き留めた。
消した事実も、積み上げの一つだ。消せる人間だと示す材料だ。
廊下の時計が、秒針を刻む。十六時まで、時間はあるようで、ない。
0
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支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
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