成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第11話:怒りの使い方

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 第3進路室のドアが乱暴に開いた。

「……うわ」

 相沢陸が反射で椅子を引く。入ってきた男子は、肩で息をしていた。制服の胸元がずれて、指の関節が赤い。

 桐生静は立ち上がらない。机の上のファイルを閉じ、ペンを置いた。

「荒木。座れ」

「別に相談とかじゃねえし」

「なら帰れ。……帰って停学寸前のままにするか?」

 荒木ダイは一歩進んで、椅子を蹴るように引いた。座らない。机の端に拳を置き、爪が白くなる。

「俺が悪いってことになってる」

「なってるじゃない。何があった」

「廊下で、肩ぶつけられて。『チッ』って舌打ちされた。……で、言っただけだよ。『謝れ』って」

「言っただけ?」

 荒木の喉が動いた。目が一瞬、陸の方へ飛ぶ。

 陸が手を上げる。「俺、いない方がいい?」

「いる」静が即答した。「記録係。荒木も、今日の話は後で担任に渡す」

 荒木が顔をしかめる。「は? 佐伯に?」

「佐伯は火を消したい。黒川は火を消したい。消し方が雑だと、お前が燃える」

「……教頭、関係ねーだろ」

 静は机の引き出しから、白紙のメモ用紙を一枚出して、荒木の前に置いた。

「停学寸前。ここから先は学校の“数字”の話になる。暴力は一発で処理が早い。学校は早い処理が好き」

 荒木はメモ用紙を睨んだ。「俺、殴ってねえし」

「殴ってないなら、何をした」

「……胸ぐら掴んだ」

「それは?」

「……壁に押した」

 静は頷いた。「押した相手は?」

「三組の、工藤」

「工藤が何を言った」

 荒木が唇を噛む。しばらく黙って、吐き捨てた。

「『お前、また短気? 親父みたい』って」

 陸が息を呑んだ。荒木が睨む。「見るなよ」

 陸は目を逸らす代わりに、ノートを開いた。「……書く。ごめん」

 静は荒木から視線を外さない。

「親父、何があった」

「……飲んで暴れる。警察来たことある。近所にも、学校にも……知ってるやつ、いる」

「工藤は知ってた」

「だから言ったんだろ」

 荒木は机の端を叩いた。パチン、と乾いた音がして、陸の肩が跳ねる。

 静は声のトーンを変えない。「荒木。ここで机叩くのはいい。廊下で人を押すのはダメ。区別しろ」

「そんなの、わかってる」

「わかってて止まらないなら、仕組みが要る。気合いじゃ止まらない」

 荒木が鼻で笑った。「仕組み? 俺に首輪でもつけんの」

「首輪は学校がつける。停学っていう首輪だ。お前が先に自分でつけるなら、選べる」

 荒木の目が細くなる。「何それ」

 静はメモ用紙の上にペン先を置いた。

「怒りが出た瞬間にやる行動を三つ、決める。順番も決める。決めた順番以外はやらない」

「そんなので止まるかよ」

「止まらなかったら停学。止まったら、今日の件の“次”ができる。どっちが現実的?」

 荒木は舌打ちしかけて、止めた。自分で止めたことに気づいて、悔しそうに眉を寄せる。

 静はその一瞬を逃さず言った。「今、止めた。できるじゃん」

「……たまたま」

「たまたまでも一回は一回」

 荒木は椅子にどさっと座った。背もたれにもたれず、前のめりに肘をつく。

「三つって、何」

「お前ができるやつ。学校でできるやつ。あと、証拠が残るやつ」

「証拠?」

「黒川は“言った言わない”が嫌い。紙が好き。記録が好き」

 陸が小さく頷いた。「……この前のレンの、制作記録みたいな」

 荒木が陸を見る。「レン? あの動画の?」

「今はその話じゃない」静が切った。「荒木。まず一つ目。怒りが上がったら、口じゃなくて足を動かす。場所を変える」

「逃げるってこと?」

「逃げじゃない。事故回避。廊下で爆発したら、お前が損する」

 荒木は唇を尖らせた。「……ムカつく」

「ムカついていい。二つ目。三十秒だけ、手を使う。手を出すんじゃなくて、手を“忙しく”する」

「何それ」

 静は机の上にある輪ゴムを一本、荒木の前に置いた。

「これを親指と人差し指で引っ張って戻す。痛い手前で。三十回」

「ダサ」

「ダサくていい。殴って停学よりマシ」

 荒木は輪ゴムを指でつまんで、試しに引っ張った。小さくパチン、と指に当たる。

「……地味に効く」

「三つ目。記録。誰が何を言ったか、何が引き金だったか、時間と場所。スマホでも紙でもいい」

 荒木が眉をひそめる。「チクるの?」

「チクりじゃない。お前を守る材料。次に同じことが起きたとき、“こいつは挑発してくる”って学校に示せる」

「学校が信じるかよ」

「信じなくても、材料がないとゼロ。ゼロは弱い」

 荒木は輪ゴムを指で引っ張りながら、視線を落とした。

「……工藤、あいつ、俺がキレるの待ってた」

「待ってたね」

「なんでそんなことすんだよ」

 静は一拍置いて言う。「お前がキレると得するから」

 荒木が顔を上げる。「得?」

「お前が悪者になって、相手は被害者になる。周りは面倒が減る。教頭は処理が早い。担任はクラスが静かになる」

 陸が口を挟む。「でもそれ、荒木だけ損じゃん」

「だからここにいる」静が言った。「損しないやり方を作る」

 荒木は鼻で息を吐いた。「……俺、どうせ“そういうやつ”って思われてるし」

 静は即座に返す。「思われてるなら、利用しろ。“そういうやつ”が、手を出さずに去ったら、相手の台本が崩れる」

 荒木が黙った。輪ゴムを引っ張る指が止まる。

「……でも、言われっぱなしは無理」

「言い返すのはいい。条件がある」

「条件?」

 静はペンでメモ用紙に線を引き、二列に分けた。

「言っていい言葉と、言ったら終わる言葉。お前が選べ」

 荒木が眉を寄せる。「選ぶって……」

「お前の口だろ。学校は“言葉の暴力”も処理する。停学の理由は増やさない」

 荒木は椅子をぎしっと鳴らし、前のめりになった。

「……じゃあ。『やめろ』は?」

「いい」

「『関係ねーだろ』」

「いい」

「『その話すんな』」

「いい。短い方がいい」

 荒木が少しだけ息を整える。陸がノートに書きながら呟く。

「短く言って、離れる……」

 荒木が陸を見た。「お前、なんでそんな真面目に書いてんの」

 陸はペンを止めずに言った。「……俺も、キレそうになる時あるから」

 荒木が一瞬、笑いそうになって、すぐ顔を戻した。「お前が?」

「ある」

「……へえ」

 静は二人の間にメモ用紙を滑らせる。

「荒木。今日の件、佐伯に話す。黒川が同席するかもしれない。そこで“反省してます”って言うだけだと、次がない。お前は“次の事故を減らす手順”を持ってるって見せる」

 荒木が反発するように言う。「反省とか、言いたくねえ」

「言わなくていい。その代わり、やることを言え。『次はこうする』って」

 荒木はメモ用紙を見た。輪ゴムを指に巻きつけ、外し、またつまむ。

「……工藤、謝らせたい」

「謝らせるのは難しい」静は切った。「学校は謝罪を“両成敗”にする。お前が先に折れた形にされる」

 荒木の目が鋭くなる。「じゃあ、どうすんだよ」

「謝らせるんじゃない。近づかない。近づけない。動線を変える。席。班。廊下の通り道。先生の目がある場所を通る」

「そんなの、俺が避けるみたいじゃん」

「避けるんだよ。勝ちたいなら」

 荒木が言葉を飲み込む。悔しさが頬に残っているのに、目は静から離れない。

「……勝ちって、何」

 静は静かに言った。

「停学にならない。内申が死なない。バイトが飛ばない。家で余計な火種が増えない。卒業に近づく。それが勝ち」

 荒木の喉が鳴った。「バイト……」

「あるの?」

「コンビニ。停学とかになったら、シフト減らされる。店長、そういうの嫌う」

 静は頷く。「じゃあ余計に、学校で爆発するのは損だ」

 陸が顔を上げる。「荒木、今度、工藤がまた言ってきたら……この三つ、やる?」

 荒木は輪ゴムを見つめたまま、短く言った。「……やる。……やるけど」

「けど?」

 荒木が顔を上げる。「俺だけ我慢して終わりは嫌だ」

 静はメモ用紙の端に、もう一行書いた。「四つ目。第三者を入れる」

「誰」

「その場で先生を呼ぶ。名前を出して。『桐生先生呼びます』でもいい。『佐伯先生呼びます』でもいい。相手が嫌がる方を選べ」

 荒木が少し笑った。「嫌がる方……」

「相手の台本を崩す。怒りは武器になる。使い方を間違えると、自分を撃つ」

 荒木は輪ゴムを握りしめた。握った手が震えているのに、開かない。

 静が椅子から立ち、ドアの方を見た。廊下の足音が近づいてくる。いつもの革靴の硬い音。

 陸も気づいて、背筋を伸ばす。

 静が荒木に言う。「今、来る。佐伯だ。準備しろ」

 荒木が唇を舐める。「……ここで?」

「逃げるなら今。逃げたら、向こうの処理が始まる。お前抜きで」

 荒木は一瞬だけ目を伏せ、輪ゴムを指にかけた。

「……逃げねえ」

 ドアがノックもなく開き、佐伯の顔が覗く。

「桐生先生。荒木、いるな。……ちょっといいか」

 静は一歩前に出て、荒木の視界を半分だけ隠した。

「いいですよ。ただし、ここで。記録も取ります」

 佐伯の眉が動く。「……教頭にも報告が必要になるぞ」

 静は頷いた。「必要ならします。荒木が“次にどうするか”を持ってる。その形で」

 荒木が椅子から立った。輪ゴムを外し、メモ用紙を握る。

「……俺、次は、こうします」

 その声はまだ硬い。でも、言葉が短い。逃げ道のない廊下に向けて、足が止まっていなかった。


「……俺、次は、こうします」

 荒木ダイの手の中で、メモ用紙がくしゃりと鳴った。

 佐伯担任は室内を見回し、相沢陸のノートに目を止めた。

「記録?」

「はい。言った言わないで揉めるの、得しないんで」桐生静が言う。

「得しないって……」佐伯の口元が引きつる。「荒木、停学寸前だぞ。反省の言葉は」

 荒木が反射で言い返しかけて、喉の奥で止めた。輪ゴムを親指で引いて戻す。パチン、と小さく鳴る。

 静がそれを見て、視線だけで促す。

 荒木は短く言った。「……反省してます」

 佐伯が眉を上げる。「言えたじゃないか」

「言えたってだけです」静が被せた。「中身はこれから。荒木、手順言え」

 荒木はメモ用紙を見て、息を吐いた。

「……ムカってきたら、場所変えます。手、こうやって……三十回。で、記録する。あと、先生呼ぶ」

 佐伯は腕を組んだ。「それで止まるのか?」

「止めるための“順番”です」静は言った。「順番がないと、荒木は先に手が出る。学校が一番嫌うやつです」

「学校が嫌う、ね」

 佐伯の目が一瞬、窓の外に向いた。職員室の方角。黒川教頭の机がある場所を思い出したような目だった。

「教頭に、こう報告するのか」佐伯が低く言う。「“第三がまた独自ルールで火種を抱えた”って」

 静は笑わない。「火種は廊下にもうある。抱えたんじゃなくて、消し方を変えただけです」

 佐伯は荒木を見た。「荒木。工藤に手を出した。それだけでアウトなんだ。分かるな」

 荒木の顎が固くなる。輪ゴムが切れそうなほど引っ張られ、戻る。パチン。パチン。

「分かってる」荒木は言った。「……でも、あいつが」

「言い訳をするな」

「言い訳じゃねえ」

 声が上がりかける。陸がペン先を浮かせ、静の横顔を見る。

 静が机を軽く叩いた。乾いた音一つ。

「佐伯先生。工藤が何を言ったか、聞いてます?」

 佐伯は一瞬黙った。「……“家庭のこと”だろ」

「家庭のこと、じゃない」静は言った。「“弱いところを狙った挑発”です。荒木の問題は暴力。工藤の問題は挑発。別々に処理しないと、また起きます」

 佐伯が眉をひそめる。「挑発って言っても、証拠が——」

「あります」陸が反射で言って、すぐ口を閉じた。

 佐伯が陸を見る。「相沢?」

 陸はノートを差し出した。「……今、荒木が言った内容、全部書いてます。工藤が言った言葉も」

 荒木が陸を睨みかけて、止める。輪ゴムを外して、握り直す。

 静が淡々と言う。「証拠が弱いなら、弱いなりの現実的な手を打つ。席替え、動線、見回り。あと、工藤には“言葉の線引き”をこちらから渡す」

 佐伯が首を傾げる。「こちらから?」

「“家庭のことを出すな”って、学校として言う。荒木のためじゃない。クラス全体のためです」

 佐伯の口元が少し緩む。でもすぐ戻った。

「荒木のことはどうする。被害者面してくるぞ、工藤は。親も出るかもしれない」

 静は頷く。「出るなら出る。荒木の親にも話が必要です」

 荒木の肩が跳ねた。

「……母ちゃん、関係ねえ」

「関係ある」静は切った。「停学になったら、家が一番ダメージ食らう。バイトも飛ぶ。お前の生活も飛ぶ」

 荒木は唇を噛む。視線が床に落ちる。

 佐伯が小さく息を吐いた。「荒木。お前、なんで工藤に噛みついた」

「……言っただろ」

「“親父みたい”って言われたから、か?」

 荒木の拳が握られる。机の角に当たりそうになって、止まる。輪ゴムを掴んで引く。パチン。

 静が言葉を足した。「それだけじゃないだろ」

 荒木は顔を上げた。目が濡れているわけじゃない。けど、黒目が妙に光っている。

「……工藤、後ろにいた一年の女の子に言ってた。『お前の兄、少年院だろ』って。笑ってた」

 陸が息を止めた。

 佐伯の眉が寄る。「それを、お前が止めたのか」

 荒木はすぐに頷かない。喉の奥で何かが詰まって、言葉が出ない。代わりに、輪ゴムを引く回数が増える。

 静はその手を見て言った。「弱い方に行ったんだな」

 荒木が顔を背ける。「……別に」

「別に、じゃない」静は言う。「お前は、見過ごせなかった。それは才能だ。……でも、暴力で守ると、お前がいなくなる。守りたい相手だけ残って、次は誰も止められない」

 佐伯が眉を上げる。「才能?」

 静は佐伯に視線を移す。「“誰かが傷つく前に反応できる”ってことです。早い。気づくのが早い。だから先に爆発する」

 荒木が苛立ったように言う。「才能とか、いらねえよ。得しねえし」

「得させる」静は即答した。「ただし形を変える。拳じゃなくて、手続きを使う」

 佐伯が口を挟む。「手続きって、具体的にどうする」

 静は机の引き出しから、学校の相談票を一枚出した。白い紙。印刷された枠。

「“いじめ・からかい相談”の簡易票。これ、第三でも受け付ける。書いて、佐伯先生に回す。匿名じゃない。名前出す。荒木が」

 荒木が顔をしかめる。「俺が? 俺が書いたら、余計目つけられるだろ」

「目はもうついてる」静は言った。「今さら“いい子”には戻れない。だったら、“止める手段を持ってるやつ”になる」

 陸が小さく言う。「……学校って、紙が強いんだな」

 佐伯が苦笑する。「教頭が特に、な」

 その一言で、空気が硬くなる。静が紙を荒木の前に置いた。

「荒木。怒りが出たら、まず移動。輪ゴム。記録。先生呼ぶ。で、ここに書く。守りたい相手がいるなら、守り方を増やす」

 荒木は紙を見つめた。ペンを取らない。指先が震える。

「……俺が書いたら、チクったって言われる」

「言われる」静は認めた。「言われても、停学よりマシ。あと、もう一つ」

「何」

 静は椅子の背から、ビニールの名札ケースを外した。中に入っているのは、校内の“見回り当番”の札。壁画の件で使った、古い備品だ。

「昼休み、廊下の見回り当番。先生と一緒に回る。お前は“守る側”に立つ。勝手にやるな。必ず大人を連れてやる」

 荒木が目を見開く。「俺が? そんなの許されるのかよ」

「許される形にする」静が言う。「佐伯先生が許可を出せば、“活動”になる。黒川が嫌がるのは、勝手な火種。管理された火種は、まだ許容する」

 佐伯が渋い顔をした。「教頭に説明がいるな……」

 静が頷く。「説明は私がする。荒木、お前は今日、工藤に近づかない。代わりに、ここに書く。今、ここで」

 荒木はペンを握った。握りが強すぎて、指が白い。

「……一年の子、名前知らねえ」

「特徴だけでいい」静が言う。「“後で確認”って書け」

 荒木は紙に一行目を書き始めた。字は乱れている。けど、止まらない。

 佐伯がそれを見ながら、低く言った。「荒木。これで全部終わりじゃない。工藤の方も呼ぶ。向こうの言い分も聞く」

 荒木のペンが止まる。紙の上にインクが滲む。

「……また、あいつ、うまいこと言う」

「言わせる」静が言った。「うまいこと言う口に、線を引くのが大人の仕事だ。お前は殴るな。殴った瞬間、お前の負けが確定する」

 荒木は歯を食いしばり、もう一行書いた。

 陸が小さく息を吐く。ノートの角が汗で少し波打っていた。

 廊下の向こうで、別の先生の声がした。「教頭、今お時間——」

 その言葉だけで、佐伯の肩がこわばる。

 静は紙を指で押さえ、荒木に言った。「書き終えたら、佐伯先生に渡す。そのあと、工藤を呼ぶ前に一回、深呼吸。輪ゴム、ポケットに入れとけ」

 荒木は紙を握りしめたまま頷いた。

「……分かった。殴んねえ」

「殴らないだけじゃ足りない」静が言う。「守るなら、残れ。学校に。卒業まで」

 荒木のペン先が最後の枠を埋める。

 佐伯が紙を受け取ろうとして、ためらった。「……桐生先生。これ、教頭に見せるのか」

 静は紙の端を揃えながら答えた。「見せる。先にこちらから出す。向こうに“今日中に決着”の材料を渡す。ただし、決着の形はこっちで作る」

 佐伯が短く頷いた。「……工藤、呼んでくる」

 ドアが閉まる。

 静は荒木に輪ゴムを差し出した。「一本、予備」

 荒木は受け取って、ポケットにねじ込んだ。

 陸が小声で言う。「荒木、さっきの一年の子……守りたかったんだな」

 荒木は陸を見ないまま、椅子の脚を床に揃えた。

「……守るとか、言うな。ダサい」

 静が机の上の紙を整え、次の相談票を取り出す音を立てた。

「ダサくても、使えるなら武器だ。……来るぞ」

 廊下で、もう一度ノックが鳴った。今度はさっきより硬い。佐伯の声に混じって、低く落ち着いた男の声がした。

「入るぞ。時間がない」

 黒川教頭の声だった。


 ドアが開くと同時に、空気が一段冷えた。

 黒川教頭は入ってくるなり、椅子に座らない。部屋の狭さを測るように視線を走らせ、机の上の相談票に目を落とした。

「これか」

 佐伯担任が一歩引く。「はい。荒木が——」

「荒木」黒川が名前だけで切った。「顔を上げろ」

 荒木ダイは顎を上げた。目は逸らさない。けれど足元は揃えたまま、動かない。

 黒川は相談票を指で弾いた。「手順? 輪ゴム? 見回り? ……桐生先生、また“第三流”ですか」

 静は椅子から立たない。「学校の処理を早くするための材料です」

「早い処理なら一つだ」黒川は淡々と言った。「停学。場合によっては退学勧告」

 陸の背中が硬くなる。ペンを握ったまま、指先が冷える。

 荒木が笑った。乾いた音。

「退学? マジで言ってんの」

 黒川は表情を変えない。「言っている」

「俺、殴ってねえけど」

「胸ぐらを掴み、壁に押した。十分だ。次はどうするつもりだ」

 荒木は肩をすくめた。「どうもしねえ。辞めろって言うなら辞めるわ」

 佐伯が慌てた。「荒木、そういう言い方は——」

 黒川は佐伯を手で制した。「いい。本人の意思は重要だ」

 静が言った。「教頭。荒木は“辞める”と言うことで、話を終わらせようとしてます」

 荒木が静を睨む。「終わらせたいに決まってんだろ。めんどくせえ」

 黒川が静に向き直る。「桐生先生。あなたの所に来る生徒は、いつも“めんどくさい”を増やす」

「めんどくさいのは現実です」静は言った。「数字だけで片づけると、後で大きくなります」

 黒川が鼻で息を吐く。「大きくなる前に切る。学校は企業だ。評判が落ちる。受験者が減る。現場が疲弊する」

 荒木が口を挟む。「企業って。俺、商品かよ」

「そうだ」黒川は即答した。「学校の看板の一部だ」

 陸の喉が鳴った。荒木がさらに笑う。

「じゃあ不良品なんだろ。返品してくれよ」

 佐伯が顔をしかめる。「荒木、やめろ」

 静は荒木の方を見た。「荒木。開き直るのは簡単だ。簡単な方に逃げると、あとで選択肢が減る」

「選択肢? 俺に何があんの。大学なんか無理だし」

 黒川が静に視線を戻す。「ほら。本人も理解している。退学勧告は現実的だ」

 静は首を振らない。代わりに、机の上の相談票を指で押さえた。

「教頭。退学勧告を出すなら、手続きの前に確認が要ります。今回の発端が“単なる暴力”か、“いじめに対する介入”か」

 黒川の眉がわずかに動く。「いじめ?」

 佐伯が言い淀む。「……工藤が、言葉で」

 黒川は遮った。「言葉は曖昧だ。証拠がない」

 陸が思わず言った。「あります。荒木が書いた」

 黒川の視線が陸に刺さる。「相沢。君は当事者か」

「……違います。でも、ここで書きました」

「ここで書いたものは、“ここで作れる”」

 陸の口が閉じる。反論が喉に引っかかって出ない。

 静が淡々と言う。「だからこそ、荒木本人の署名があります。時間も。場所も。第三者の記録も。ゼロより強い」

 黒川は相談票を持ち上げ、紙の軽さを確かめるように揺らした。

「強い、ね。……桐生先生。あなたはいつも“強い”と言う。だが、強さは結果だ。荒木は結果を出していない。問題だけ出している」

 荒木が吐き捨てる。「結果って何だよ。偏差値? 内申?」

「そうだ」黒川は言った。「そして卒業後の進路実績」

 荒木が机の端を叩きそうになり、手が止まる。ポケットの輪ゴムに触れたのが分かった。指が中で動く。

 静はそれを見て、目だけで頷いた。

 荒木は短く言った。「……俺、別に、進路とかどうでもいい」

 黒川が即座に返す。「ならなおさら退学勧告だ。学校にいる理由がない」

 荒木は少し間を置いて、笑ったまま言った。

「理由? あるよ」

「何だ」

 荒木は黒川を見る。笑っているのに、声は低い。

「俺がいねえと、やられるやついるから」

 陸が顔を上げた。そこにいたのは、いつも廊下で怒鳴っている荒木じゃなかった。言葉が短く、まっすぐだった。

 黒川は一拍遅れて言った。「自警団気取りか。危険だ」

「気取りじゃねえ」荒木が言う。「見て見ぬふりしてるやつの方が危険だろ」

 佐伯が咳払いした。「荒木、言い方——」

「言い方じゃねえよ」荒木が佐伯を見た。「先生だって見てんだろ。工藤、いつも人選んで言ってんの。弱いとこ。家庭とか。兄弟とか」

 陸の胸が詰まる。昨日、レンの動画の話をしていた時に聞いた「拡散」って言葉が、ここでは「噂」に変わって同じ形をしていた。

 黒川が静に言う。「だからと言って、暴力は免罪符にならない」

「免罪符にしません」静は即答した。「荒木にも言いました。殴った瞬間に負けが確定する、と」

 荒木が小さく言った。「殴ってねえし」

「次は殴るかもしれない」黒川が淡々と言う。「“かもしれない”を学校は抱えない」

 静が言う。「抱えないなら、条件をつける。管理する。見回り当番、教師同伴。席替え。動線変更。工藤への指導。荒木への怒りの手順。全部セットで」

 黒川は紙を机に戻した。「条件をつけても、爆発したら終わりだ」

「爆発させないための条件です」

 黒川が静を見下ろす。「あなたは爆発を“防ぐ”と言う。私は爆発を“無くす”と言う。無くすには、火種を取り除く」

 荒木が笑うのをやめた。「火種って、俺?」

「君も、工藤も、どちらもだ」黒川は言った。「しかし工藤は成績が上位だ。進学実績に寄与する」

 佐伯の肩がわずかに揺れた。言葉にできない沈黙が落ちる。

 荒木が口を開く。「ほらな」

 静が荒木に言う。「ほらな、で終わらせるな」

「終わるだろ。どうせ、上のやつが勝つ」

「勝たせない方法を作る」静は言った。「ただし、お前も支払う。条件を飲む。行動を変える。記録を続ける。面倒をやる」

 荒木が鼻で笑う。「面倒ね」

 黒川が言った。「桐生先生。あなたの提案は時間がかかる。私は今日中に決着を求められている」

 その“求められている”が誰からか、口にしなくても分かった。職員室の空気、校長の視線、教育委員会の数字。全部が黒川の背中に乗っている。

 静は一度だけ息を吸った。

「今日中の決着なら、形は二つです」静が言った。「退学勧告を出すか、停学にして条件付きで戻すか」

 黒川が頷く。「そうだ」

「停学にするなら、荒木が“守る衝動”を暴力にしない枠が要る。枠がない停学は、復帰後に同じことが起きます」

 黒川は静の言葉の端を拾う。「守る衝動?」

 静は荒木を見た。「さっき言った一年の子。名前が分からない子。あの子のところに、先生を連れて行けるか?」

 荒木が一瞬だけ目を泳がせた。けれどすぐ、短く言った。

「……行ける」

「それが“守る”だ」静は言った。「拳じゃなくて、連れて行く。大人を連れて行く」

 黒川が言う。「その一年生は、存在するのか」

 陸が手を挙げかけて止めた。代わりに、荒木が言った。

「いるよ。……今、購買の前で、いつも一人の子。髪短い。リボン曲がってる」

 陸はその描写で、顔が固まった。見たことがある。いつも小さく肩をすぼめて、列の端にいる子。

 荒木が続けた。「あの子、工藤に言われて、笑ってた。笑うしかない感じで」

 陸の胸がきゅっと縮む。荒木が、そこまで見ていたのか。

 黒川は冷たく言った。「感情の話はいい。手続きだ。荒木、停学一週間。復帰条件を飲めるか」

 荒木が即答する。「飲めねえ」

 佐伯が声を上げる。「荒木!」

 荒木は佐伯を見て、笑った。「だってどうせ、戻っても俺だけ監視だろ。工藤は上位だから守られる。なら、俺は辞める方が早い」

 静が言った。「辞めたら、工藤はもっと楽になる」

 荒木の笑いが消える。

「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

 静は黒川を見る。「教頭。停学一週間は受けます。ただし“退学勧告”の文言は今ここで出さない。代わりに、復帰条件を書面化します。工藤側への指導も同じ書面に入れる」

 黒川が即座に返す。「工藤の指導を条件に入れる? 前例がない」

「前例を作る」静が言った。「作らないなら、荒木は辞める。辞めたら、学校は“問題児を切った”で終わる。……でも、廊下の問題は残る」

 黒川が沈黙する。指先で机を一度叩いた。軽い音。

「……桐生先生。あなたはいつも、学校の外側の話に逃げる」

「外側じゃない」静は言った。「廊下の話です。教室の話です。今日の話です」

 黒川が視線を荒木に戻す。「荒木。停学一週間。復帰条件。教師同伴の見回り。相談票の継続提出。これを飲め」

 荒木は口を開きかけて、閉じた。ポケットの輪ゴムを指で引く。パチン、と布越しに小さく鳴る。

 そして、陸の方を見た。

「相沢」

「……なに」

 荒木は目を逸らさず言った。「お前、あの一年の子、知ってんだろ」

 陸の喉が詰まる。「……見たことは」

「じゃあ、停学の間」荒木が続けた。「お前、見とけ。変なことあったら、桐生に言え」

 陸は言葉が出ない。荒木はいつも自分の怒りのために暴れてると思っていた。違った。誰かのところへ向かう怒りだった。

 静が短く言った。「陸。返事」

 陸は小さく頷く。「……分かった」

 荒木が黒川に視線を戻す。「飲む」

 佐伯が息を吐き切った。

 黒川は一枚の紙にペンを走らせる。「よろしい。停学処分。復帰条件は桐生先生が起案し、私が承認する。今日中だ」

 静は頷いた。「今日中に出します」

 黒川がドアに向かいながら言った。「“第三が火種”にならないように。あなたの書面一つで、学校全体が揺れる」

 ドアが閉まる。

 残った沈黙の中で、荒木が椅子に崩れるように座った。肩から力が抜け、さっきまでの笑いがどこにもない。

 陸がそっと言った。「……荒木、お前」

「言うな」荒木が遮った。「優しいとか、そういうの。言うと、またムカつく」

 静が机の上に新しい用紙を広げる。復帰条件書のフォーマット。黒川が好きな、枠だらけの紙。

「荒木。停学の間、家でも手順をやる。輪ゴム、なくすな。記録は毎日一行。バイト先にも連絡。欠勤理由、言い方は一緒に作る」

 荒木が顔をしかめる。「バイト……店長、めんどいの嫌う」

「だから先に言う」静は言った。「隠すと切られる」

 陸が小さく言う。「俺、購買の前……見とく」

 荒木はそれにだけ、短く頷いた。

 静はペン先を紙に落とした。

「じゃあ次。工藤を呼ぶ。……陸、ドア、少し開けとけ。逃げ道じゃない。空気の逃げ道」

 陸は立ち上がり、ドアを少しだけ開けた。廊下のざわめきが細く入ってくる。

 そのざわめきの向こうから、軽い足音が近づいてきた。躊躇いのない歩幅。

 工藤が来る音だった。


 工藤はノックもなく、開いたドアの隙間から顔を入れた。

「呼ばれたんですけど」

 声が軽い。制服の襟はきっちり。髪も整っている。荒木は椅子の背に体を預けたまま、目だけで工藤を追った。

 静が言った。「入って。座って」

 工藤は荒木を一瞥して、わざとらしく肩をすくめた。

「俺、被害者なんで。距離とってもらっていいですか」

「距離は取る」静は淡々と言った。「その代わり、口は正確に」

 佐伯が工藤の後ろに立ち、「座れ」と短く言う。工藤は椅子に腰を下ろした。足を組まない。手を膝に置く。模範解答みたいな姿勢。

 静は机の上の用紙を一枚ずらした。停学処分の紙ではない。相談票の控え。

「工藤。何があった」

「廊下で急に掴まれて、壁に押されました。怖かったです」

「その前」

 工藤は瞬きを一つしてから言う。「前? 普通に歩いてただけです」

 荒木が鼻で笑い、すぐ口を閉じる。輪ゴムはもう引かない。代わりに、ポケットの中で握っているのが分かる。

 静が言った。「“親父みたい”って言った?」

 工藤の眉が少しだけ上がる。「……言ってません」

「“一年の子に兄が少年院だろって言った?”」

 工藤の口角がほんの少し動いた。「それ、誰が言ってるんですか」

 静は返した。「質問に答えろ」

 工藤は佐伯を見た。佐伯は視線を外さず、短く言う。「答えろ」

 工藤は小さく息を吐いた。「冗談です。みんな言うじゃないですか。軽いノリ」

 荒木が椅子の肘掛けを掴む。爪がきしむ音がした。

 静が荒木に目を向けずに言う。「荒木。手順」

 荒木は唇を噛んで、椅子を一センチ引いた。距離を取る。輪ゴムは引かない。

 工藤がそれを見て、薄く笑った。

「ほら。こういう人なんですよ。すぐキレる。学校の迷惑」

 静が工藤に言う。「迷惑の話はいい。言葉の線引きの話をする」

 工藤が肩をすくめる。「線引きって、何を? 言論統制?」

「家庭のことをネタにするのは禁止」静は言った。「兄弟、親、病気、経済。人が選べない領域は触るな」

 工藤が笑う。「そんなの、全部禁止じゃないですか」

「禁止だ」静は即答した。

 佐伯が口を挟む。「工藤、お前の言い方は危ない。やめろ」

 工藤は困った顔を作った。「先生、俺、勉強もしてますし。問題起こしてませんよ」

 静が言った。「問題起こしてる。見えにくい形で」

 工藤は静を見た。「証拠は?」

「今は“止める”のが目的だ」静は言う。「裁くのは後。止めないと、次は暴力が出る。出たら一番損するのは誰だ」

 工藤が即答する。「荒木でしょ」

「違う」静は言った。「クラス全体。学校全体。お前も巻き込まれる。親も出る。推薦も揺れる」

 工藤の目が一瞬だけ細くなる。推薦という単語に反応した。

 佐伯が工藤に言う。「今後、家庭のことは言うな。分かったな」

 工藤は口を尖らせた。「分かりましたよ。……でも、荒木が怖いのは事実です」

 静が頷いた。「怖かったなら、距離を取れ。挑発するな。困ったら先生を呼べ。これは荒木にも同じことを言ってる」

 工藤は荒木を見た。「先生を呼ぶって、チクるってこと?」

「報告だ」静が言った。「学校は報告で動く。チクりで動かない。言葉を変えろ」

 工藤は鼻で笑い、椅子を引いた。「もういいですか。俺、塾あるんで」

「待て」佐伯が言う。

 静が言った。「工藤。荒木は停学になる。復帰条件もある。お前の条件も書面に入れる。署名する」

 工藤が目を見開く。「俺も?」

「お前も」静は言った。「“言葉の線引きを守る”。違反したら指導記録に残す」

 工藤の顔から軽さが消える。「それ、内申に——」

 静が遮る。「内申は担任と校務が決める。私は決めない。……でも、記録は残る。黒川教頭が好きなやつが」

 工藤は唇を噛んだ。「……分かりました」

 佐伯が小さく頷く。「戻れ。今後は気をつけろ」

 工藤が立ち上がり、ドアのところで振り返った。

「荒木。俺に近づくなよ」

 荒木が笑った。「近づかねえよ。目も合わせねえ」

 工藤はそれを「勝った」とでも言いたげに頷き、廊下へ出ていった。

 ドアが閉まると、荒木は一気に息を吐いた。肩が落ちる。

 陸がノートを閉じかけて、静の顔を見た。静は紙を揃えて、佐伯に渡す。

「佐伯先生。工藤の署名、必ず。後で揉める」

「分かった」佐伯は受け取り、ドアに手をかけた。「教頭にも……」

「私から行きます」静が言った。

 佐伯が出ていくと、部屋の中は三人になった。

 荒木がぼそっと言う。「……結局、俺だけ停学」

「そうだ」静は認めた。「手を出したのはお前。学校はそこしか見ない」

 荒木が舌打ちしそうになって、止めた。輪ゴムを引かずに、指で丸めるだけにする。

「ムカつく」

「ムカついていい」静が言った。「ただし、使い方を変える」

 陸が小さく言う。「荒木、さっき……工藤に言い返さなかったな」

 荒木が陸を睨む。「言うなって」

「言わない」陸はすぐ引っ込めた。

 静は机の引き出しから、進路資料のファイルを出した。大学パンフじゃない。専門学校と求人票の束。端が少し擦れている。

「荒木。お前の“守る”は、ルールの中で磨ける」

 荒木が眉を寄せる。「また綺麗事」

「綺麗事じゃない」静はファイルを開き、指で三つの見出しを押さえた。「現実ルートだ」

 荒木が覗き込む。「……何これ」

「法務系。警備系。スポーツ指導系」

 陸が思わず言う。「え、法務って……弁護士とか?」

 静が首を振る。「いきなり弁護士じゃない。現場から入る。ルートはある」

 荒木が鼻で笑う。「俺が法務? 無理だろ」

「無理にしない」静は言った。「条件があるだけ。まず、暴力を“仕事の技術”に変える。勝手に手を出すのは全部アウト。正当防衛も、学校の廊下ではほぼ通らない」

 荒木が黙る。

 静は一枚の資料を抜いて、机に置いた。文字が多い。

「警備。施設警備、イベント警備。求人は高卒からある。だけど、採用で見られるのは“短気かどうか”。前科じゃなくても、停学は印象が悪い」

 荒木が視線を落とす。「……やっぱ、俺詰んでんじゃん」

「詰んでない」静は言う。「詰むのは“何も変えない”場合。変えるなら、材料が要る。今日みたいな記録。復帰条件を守った実績」

 陸が言う。「実績……学校の数字じゃない実績か」

 静が頷く。「そう。成績表には書けないけど、面接で効く実績」

 荒木が資料を指でなぞる。「警備って、体力だろ」

「体力も」静が言う。「あと、我慢。あと、報告。報告書が書けないと上がれない」

 荒木が顔をしかめる。「報告書……」

「今日の相談票、練習だと思え」

 荒木が小さく笑った。「最悪の練習だな」

 静は次の資料を置いた。「法務系は、たとえば司法書士事務所の補助、行政書士の補助。高卒でいける求人は少ない。だから現実的には専門学校ルートが近い」

 荒木が眉を寄せる。「専門学校、金ねえ」

「奨学金がある」静は即答した。「ただし、借金だ。覚悟がいる。親とも話す。バイトも続ける前提で組む」

 荒木が口を開きかけて閉じる。現実の重さが、そのまま机に落ちたみたいに沈む。

 静は最後の資料を出した。スポーツ系のパンフレット。指導者コース。

「スポーツ指導。格闘技のジムとか、部活の外部指導の道もある。でも、ここも条件は同じ。“手を出すな”。手を出すのはリングの中だけ。ルールの中だけ」

 荒木がパンフを見て、少しだけ目が動いた。「……格闘技」

 陸が目を丸くする。「荒木、興味あるの?」

 荒木はすぐそっぽを向く。「別に。……昔、見てただけ」

 静が言った。「見るのとやるのは違う。やるなら、まず体験。で、指導者は“怒りの扱い”が仕事だ。怒りを煽っていい場面と、止める場面を分ける」

 荒木がぼそっと言う。「止める側、か」

「お前、さっき一年の子のところで止めたかった」静が言った。「止める側の適性がある。……でも、今のままじゃ“止める前に殴る側”になる」

 荒木が唇を噛む。

 陸が小さく言う。「荒木、守るの、向いてるのに……損してる」

 荒木が陸を睨みかけて、視線を落とした。「……うるせ」

 静は机の上に、もう一枚白紙を置いた。今度は相談票じゃない。簡単な表。

「停学一週間の訓練メニューを作る。現実的なやつだけ。朝起きる時間、バイト、家の手伝い、記録一行。あと、体験の予約」

 荒木が眉をひそめる。「訓練って言うなよ。部活かよ」

「部活みたいなもんだ」静は言った。「ただし、目的は“卒業”と“採用”だ」

 陸が言った。「体験って、どこ」

 静はスマホを取り出さない。紙の電話番号が書かれたメモを出す。

「市のスポーツセンターの護身術講座。警察がやってるやつじゃない。民間でもない。市の広報に載ってる。参加費安い。ルールが厳しい。怒鳴ったら退場」

 荒木が苦い顔をする。「怒鳴ったら退場……」

「いいだろ」静は言った。「退場になったら、お前の癖が数字で出る」

 荒木が笑うようで笑えない顔をした。

 静は続けた。「もう一つ。警備会社の説明会。高校生可のやつ。停学中は参加できない可能性があるから、復帰後すぐ。今は資料取り寄せ」

 荒木が紙を見つめる。「……俺、そんなとこ行けんの」

「行けるようにする」静は言った。「だから停学を“無駄にしない”」

 廊下の方から、遠くで電話の呼び出し音が鳴った。職員室のざわめきが一瞬膨らむ。黒川の「今日中」の圧が、壁越しに戻ってくる。

 静は立ち上がった。「私は教頭に書面を出しに行く。陸、荒木の記録の書き方、今のうちに整えろ。荒木、家に帰ったらまず母親に“停学”を言う。隠すな」

 荒木が顔をしかめる。「……母ちゃん、キレる」

「キレる」静は認めた。「でも、隠すともっとキレる。言い方、紙に書く。今」

 荒木がペンを取った。指がまだ強張っているのに、紙に向かう。

 陸がノートを開き直す。「……荒木、最初の一行、俺が一緒に考える」

 荒木が小さく頷いた。「……頼む」

 静がドアに手をかけ、振り返った。

「守る力は、ルールの中でしか信用されない。信用がつくと、仕事になる。仕事になると、居場所になる。……ここからだ」

 静が廊下へ出ると、冷たい空気と視線が刺さった。職員室の方へ歩く背中に、誰かのひそひそ声が絡みつく。

「また第三が……」

 静は足を止めない。

 第3進路室の中で、ペン先が紙を擦る音だけが続いた。


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