成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第12話:進路室が燃える

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 桐生静が職員室へ戻ると、空気が乾いていた。コピー機の駆動音だけが妙に大きい。

 自分の机に置いたクリアファイルを開き、荒木ダイの停学処分案と復帰条件の文面をもう一度なぞる。輪ゴムで束ねた相談票の控えが、隣で小さく沈んでいる。

「桐生先生」

 声をかけてきたのは学年主任の大友だった。目は笑っていない。机の上に一枚の紙を置く。

「教頭から。回覧」

 静は紙を受け取り、ざっと目を走らせた。

 第3進路室 運営費見直し。印刷費・外部資料購入費・面談用備品…削減。次月より。理由:成果の可視化が困難。

 静の指先が紙の端を折りかけて、戻った。

「……面談用備品って、何を想定してるんですか」

 大友は肩をすくめた。

「お茶とか、紙とか、ファイルとか。あとは外部の資料。ああいうの、買ってたろ」

「買ってました。求人票の業界別の冊子。奨学金の案内。通信制の資料。全部、無料じゃないです」

「教頭は“成果が見えない”って言ってた」

 静は紙を机に置き、椅子に深く座らずに立ったまま言った。

「成果、って何ですか。進学実績の数字ですか」

「そういうことだろうな」

 大友は声を落とした。

「今、第三が火種扱いだ。壁画の件も、荒木の件も。目立つなってことだよ」

 静は笑わない。

「目立たないで救えるなら、そうします」

「救えてるのか?」

 大友の言葉が刺さっても、静は反射で返さない。静の視線が、停学案の書類へ落ちる。

「救えるのは全員じゃない。だから、枠を作ってます」

 大友はため息を吐いた。

「枠な。管理、監視、記録。教頭が好きそうな言葉だ」

「好きそうな言葉で、通すんです」

 静が言い切ると、大友はその強さを測るように見た。

「……桐生先生、今日中に荒木の件、決着つけるんだろ」

「はい。工藤にも署名させます。家庭ネタ禁止。挑発禁止。違反したら同じ条件で処分対象」

「そこまで書けるのか」

「書きます。書かないと、次が出ます」

 大友は言い返しかけて、やめた。

「教頭、呼ぶか?」

「呼びます。書面で」

 静は紙をファイルに挟み、立ち上がる。職員室の入口の方で、何人かの教師がちらりと静を見た。すぐに視線を外す。

 背中に薄い圧が貼りつく。見られている。噂が走っている。第3進路室は火種。そういう形にされている。

 静が歩き出すと、横から声がした。

「先生」

 相沢陸が、職員室の外の廊下に立っていた。両手に紙の束。相談票の控えだ。顔はいつもより硬い。

「これ、言われた通り。今日の分、まとめた」

「ありがとう。置いといて」

 陸は静の手元の紙を見て、眉を寄せた。

「……予算、削られんの?」

 静は隠さない。紙を陸にも見える角度にした。

「削られる。来月から」

 陸は一歩近づき、声を落とす。

「じゃあ、あの…求人の冊子とか、もう買えない?」

「買う方法はある」

 陸の目が上がる。

「あるの?」

「学校の予算じゃない方法。図書館に寄贈依頼。企業の広報に送付依頼。ハローワークの無料配布。あとは、印刷は減らして、閲覧だけにする」

 陸は唇を噛んだ。悔しさが出そうで、飲み込んだ。

「なんでそんなことすんだよ。今、必要じゃん」

 静は陸を見て、短く言った。

「必要だから。削るんだよ」

「意味わかんねー」

「わかる必要はない。使える手を増やすだけ」

 陸は紙束を抱え直した。

「……第3が、成果ないって言われてんの?」

 静は廊下の向こう、教頭室の方向を見た。そこにいるのは黒川だ。直接見えなくても、線が通っている。

「数字にならないものは、成果に見えない」

「じゃあ、数字にすりゃいいじゃん」

 陸の言い方は乱暴だが、芯は真っ直ぐだった。

 静は頷いた。

「する。今から」

 陸が目を丸くする。

「どうやって」

「面談件数、相談票提出数、復帰条件の遵守率、校内トラブルの再発率。最低限、出せる数字は出す」

 陸は一瞬言葉を失って、すぐに吐き出した。

「それって、監視じゃん」

 静は否定しない。

「監視に見える形でしか、枠が残らないなら、やる。生徒を守るために学校の言葉を借りる」

 陸は顔をしかめたまま、でも視線は逸らさない。

「……守れてんの?」

 静は荒木の書類を指先で叩いた。

「守る“可能性”を残す。停学一週間で終わらせる。退学にしない。そのための条件だ」

 陸は小さく息を吸った。

「荒木、戻ってこれるかな」

「戻るかどうかは本人の選択。でも、戻れる道は残す」

 陸は頷きかけて、止まった。

「工藤は?」

「工藤にも枠をかける。挑発を“ノリ”で済ませない」

 陸の肩が少し落ちる。怒りの行き場がない顔だ。

「先生さ、黒川に勝てんの?」

 静は立ち止まり、陸の紙束を受け取った。重さを確かめるように。

「勝つとか負けるとかじゃない。残せるものを残す」

「それ、逃げじゃん」

 陸の言葉は鋭い。静は返さず、紙束をファイルに挟む音だけが廊下に響いた。

「陸」

「なに」

「記録、続ける。嫌なら降りていい」

 陸は唇を引き結び、首を横に振った。

「降りねーよ。……ムカつくけど」

 静はそのまま歩き出す。陸も半歩遅れてついてくる。

「先生、どこ行くの」

「教頭室。予算削減の理由を聞く。……じゃなくて、条件を出す」

「条件?」

「第3進路室を残す代わりに、数字で出す。成果の定義をこちらから提案する」

 陸が小さく笑いそうになって、すぐに真顔に戻った。

「それ、喧嘩じゃん」

「喧嘩にならないように、書面でやる」

 静は立ち止まって、陸にファイルを一度預けた。

「これ、進路室に持って戻って。相談票の控え、棚に入れて。鍵は閉める」

「先生は?」

「教頭室に行く。戻るまで、誰も入れない」

 陸はファイルを抱え、眉を寄せた。

「また燃えるぞ、第3」

 静は教頭室の扉を見据えたまま、低く言った。

「燃えるなら、火元を特定する」

 陸は一瞬動けずにいたが、静の背中が進んだのを見て、踵を返した。

 廊下の先で、教頭室の前を通る教師が一人、静を避けるように脇へ寄った。静はその隙間をまっすぐ通り、扉の前で止まる。

 ノックの音が、校舎の硬い壁に乾いて返った。


「入れ」

 黒川の声は扉越しでも乾いていた。静が入ると、教頭室は書類の匂いが濃い。机の上には、さっきの回覧と同じタイトルのファイルが開かれている。

 黒川は椅子に深く座ったまま、目だけを上げた。

「桐生先生。ちょうどいい。第3進路室の運営費、来月から縮小する」

 静は頷き、ファイルを机の端に置いた。

「承知しました。縮小の範囲、確認したいです」

「確認してどうする」

「代替案を出します。学校の予算を使わない方法も含めて」

 黒川は鼻で笑った。

「情熱は結構。ただ、こちらが見たいのは“成果”だ」

 静は椅子に座らない。立ったまま、ファイルの留め具を外す。

「成果の定義を合わせましょう。進学実績だけですか」

「本校の評価は、進学実績と就職内定だ。数字だ」

「第三の生徒は、そこに乗りにくい」

「乗せるのが仕事だろう」

 短い言葉が、机の上で跳ねる。静は言い返さず、紙を一枚抜いた。

「今学期、第3進路室で面談した回数です。延べ二百三十四。欠席ゼロで来たのは七十二。相談票提出は五十八」

 黒川の視線が紙に落ちる。だが顔は動かない。

「面談回数が成果か」

「成果の前段です。やらないと次に行けない」

「前段はいくらでも作れる。進路決定は?」

 静は別の紙を出す。

「内定はまだ。就職解禁前です。進学は……出願できるラインに乗ったのが二名」

 黒川の眉がわずかに動く。

「二名?」

「第三の生徒の母数は十二。二名は、昨年度だとゼロでした」

 黒川は紙を指で押さえた。

「ゼロが二になった。だから何だ。学校全体の数字では誤差だ」

 静は頷く。そこは否定できない。

「誤差です。だから、別の指標も出します」

 静は次の紙を開いた。そこにはチェック欄と日付が並んでいる。

「欠席日数の推移。面談開始から、無断欠席が減った生徒が四名。遅刻が減ったのが三名。保護者面談に来た家庭が五件。前年度は二件」

 黒川はペンを取って、紙の端を軽く叩いた。

「“減った”“増えた”。曖昧だな。何日から何日に減った」

 静はすぐ答える。

「無断欠席。山下は月四回がゼロ。西田は週二が月一。遅刻は、相沢……」

 言いかけて、静は止めた。陸の名前をここで出すと、黒川の“管理”の対象が増える。静は紙を差し替えた。

「別の生徒で。高瀬は遅刻が月十回から二回」

 黒川は目を細める。

「今、何か隠したな」

 静は目を逸らさない。

「生徒の個人情報は、必要な範囲でしか出しません」

「必要だろう。成果を示すと言ったのは君だ」

「示します。必要な範囲で」

 黒川は椅子の背にもたれた。

「桐生先生。君の言う“具体的な一歩”は、数字になりにくい。だから予算を削る。簡単な話だ」

 静はファイルから、別の束を出した。相談票のコピー。輪ゴムでまとめてある。

「相談票です。相談内容と、次の行動が書いてあります。『ハローワークに行く』『職業訓練校の見学予約』『奨学金の申請書を取り寄せ』。これが、口約束じゃなくて書面で残ってる」

 黒川は輪ゴムを見て、口元だけが歪む。

「紙が増えただけに見える」

「紙がないと、動けない生徒がいます」

 黒川は淡々と言った。

「動けないなら、動ける生徒にリソースを回す。学校はそういう場所だ」

 静の指が輪ゴムを一度だけ強く押した。伸びたゴムが、戻る。

「動ける生徒は、放っておいても動きます」

「放っておいても動くなら、なおさら第三に予算はいらないな」

 静は息を吐く。反論の言葉は喉まで来るが、飲み込む。黒川の土俵で殴り返しても、予算は戻らない。

 静は机の上の紙を整えた。角を揃える仕草だけが、静の時間を作る。

「では、数字の形を変えます」

 黒川が眉を上げる。

「形?」

「“進路決定”までの工程を、学校の評価項目にします。第三の生徒は、いきなり内定や合格に飛べない。工程を踏んだ回数と、踏めた割合を出す。見学、応募書類、模試申込、保護者同席。全部、記録できます」

 黒川は即答しない。ペン先で机を軽く叩く。

「工程を踏んで、落ちたら?」

「落ちます。落ちる前提で、次の工程を用意します」

「それが“成果”か?」

 静は視線を落とさない。

「成果じゃないなら、第三は消えます。消えたら、工程ごと消えます。落ちる確率が上がります」

 黒川は静を見たまま、声を低くした。

「君は、学校の数字を下げる生徒を抱え込んでいる。第三が火種と言われるのは、そういうことだ」

「火種は、生徒じゃない」

 黒川の目が動く。

 静はそこで言葉を選ぶ。直接言えば、敵を作るだけだ。

「火が出る前に、水道を引くのが仕事です。水道は、記録と枠です」

 黒川は短く笑った。

「言い方だけは上手い」

 静はファイルを閉じた。

「予算は削られても構いません。代替はします。ただ、削減の条件をください」

「条件?」

「第三の運営を続ける条件。数字で出すなら、何を出せばいいか。教頭が“これなら残す”と言える基準を」

 黒川は少しだけ沈黙した。窓の外で運動部の掛け声が遠い。

「基準は簡単だ」

 黒川が指を一本立てる。

「年度末までに、第三から就職内定を三件。進学合格を二件。合計五件。できなければ、第三は解体。担当も替える」

 静の喉が鳴った。五件。十二人のうち半分近い。

「現実的ではありません」

 黒川は目を細める。

「現実的にしろ。君の口癖だろう」

 静は返せない。言葉が自分に刺さって抜けない。

 黒川は続けた。

「それと、今起きている件。荒木と工藤の処分。今日中に決着。復帰条件も含めて、私の印を押せる形で持ってこい」

 静は頷いた。

「持ってきます」

 黒川は椅子から身を乗り出した。

「桐生先生。君は“数字にならない価値”を守りたいんだろう。なら、数字に変えろ。変えられないなら、守れない」

 静はドアノブに手をかけた。開ける前に、一度だけ振り返る。

「数字に変えるために、現場の余白が要ります。余白が削られたら、数字も出ません」

 黒川は答えない。答えないことが答えだった。

 静が廊下に出ると、冷たい蛍光灯の光が目に刺さった。職員室の方から、足音が近づいてくる。

「先生!」

 陸だった。息が少し上がっている。ファイルを抱えたまま、小声で言う。

「進路室、さっきから誰か覗いてた。生徒じゃない。先生っぽい」

 静の目が細くなる。

「誰」

「分かんない。でも、鍵ガチャって。二回」

 静は歩き出した。陸が並ぶ。

「先生、教頭なんて言ってた」

 静は前だけ見て言う。

「年度末までに、五件」

 陸が足を止める。

「五件って……無理だろ」

 静は止まらない。

「無理かどうかは、今決めない。まず、荒木の復帰条件を通す。次に、工程の数字を作る」

「工程の数字?」

「今日から、記録の書式を変える。見学、応募、提出、同席。全部、日付で残す。誰がやったか、誰が見たかも」

 陸は追いかけながら、顔を歪めた。

「ますます監視じゃん」

 静は扉の前で立ち止まり、鍵を取り出す。

「監視に見える形でしか残せないなら、残す方を選ぶ」

 鍵が回り、進路室の扉が開く。中は薄暗い。机の上に、誰かが触った跡のようにプリントがずれていた。

 静は一枚、プリントを拾い上げる。端に、教頭印のための決裁欄がある書式だった。いつの間にか、進路室の棚に差し込まれている。

 陸が喉を鳴らす。

「……来てるじゃん、もう」

 静はその紙をファイルに挟み、机の上の相談票の束を見た。

「陸。今日中に、工藤を呼ぶ」

「え、今?」

「今。署名させる。逃がしたら、噂が先に走る」

 静は椅子に座らず、電話機の受話器を取った。番号を押す指が止まらない。

 呼び出し音の向こうで、校内放送のチャイムが鳴った。次の授業が始まる合図だ。

 静は受話器を耳に当てたまま、陸に言った。

「記録、用意して。今日の分から書式を変える」

 陸が頷くより先に、電話の向こうで誰かが出た。静は名乗り、短く用件を告げる。

「工藤、今すぐ第3進路室。逃げたら条件を変える。……そう伝えてください」


 受話器を戻す音が、狭い進路室に硬く響いた。

 静は机の上の書類を二列に分けた。左に荒木の処分案と復帰条件。右に工藤用の誓約書。決裁欄が空白のまま、白く口を開けている。

 陸は入口の内側に立ったまま、廊下を気にしている。扉のガラス越しに人影が通るたび、肩が小さく跳ねた。

「覗かれてたの、誰だと思う」

「分かんねーよ。先生っぽいってだけ。スーツじゃなかった」

 静はペンを一本、机の中央に置いた。

「覗くのは、今日だけじゃない。これからもある」

「当たり前みたいに言うなよ」

「当たり前にしておくと、対策が打てる」

 陸は机の端を指で叩いた。音がすぐ止む。

「……工藤、来るかな」

「来させる。呼び出しを無視したら、それも記録だ」

「記録、記録ってさ」

 陸は言いかけて、口を閉じた。静はそこに手を伸ばさない。黙って、相談票の控えをファイルに差し込む。

 沈黙が長くなり、陸のほうが先に耐えきれなくなった。

「先生」

「何」

 陸は視線を落としたまま言った。

「俺らって、結局、数字に負けるの?」

 静の手が止まった。紙の角が指に当たり、少しだけ折れた。静は折れ目を戻そうとして、やめた。

「……負ける時もある」

 陸が顔を上げる。目が荒い。

「あるんだ」

「ある」

 静は椅子に座った。椅子の脚が床を擦る音がして、狭さが際立つ。

「ここは学校だ。評価は数字で回る。教頭だけじゃない。県も、保護者も、世間も」

 陸が笑った。笑いというより息が漏れた。

「じゃあ、何やっても無駄じゃん」

 静はすぐに否定しない。否定すれば、その瞬間だけ楽になるのを知っている。

「無駄にしない方法を探す。だから記録を取る」

 陸は机の上の誓約書を見た。

「記録取ったら勝てんの?」

「勝てるとは言わない」

「じゃあ、何のためだよ」

 静はペンを指で転がした。先端が光る。

「負け方を選ぶため」

 陸の眉が寄る。

「負け方?」

「退学で負けるのか。停学一週間で負けるのか。内定ゼロで負けるのか。応募して落ちて次に繋げて負けるのか。……負けにも段階がある」

 陸は唇を噛んだ。反論が出ない代わりに、呼吸が少し早くなる。

「それ、慰めじゃん」

 静はペンを握り直す。

「慰めなら、言葉で終わる。これは手順だ」

 静は誓約書の欄を指差した。

「工藤に署名させる。家庭ネタ禁止。挑発禁止。違反したら同じ条件で処分対象。これが通れば、荒木が戻る場所が残る」

 陸は視線を逸らした。

「……荒木だけじゃねーし」

 静は頷く。

「そう。荒木だけじゃない。陸もだ」

 陸の肩がわずかに揺れた。

「俺は関係ねーだろ」

「関係ある。ここに出入りしてる時点で、もう見られてる」

 陸は扉のガラスを見る。廊下の向こうに、誰かの影が一瞬よぎって消えた。

「……マジでさ。俺、別に悪いことしてねーのに」

「悪いことしてない人が巻き込まれるのが現実」

 静は言い切ってから、少しだけ声を落とした。

「だから、巻き込まれ方を選べるようにする」

 陸が机に手をついた。

「選べるって言うけどさ、先生。教頭が“五件”とか言ってたろ。無理だよ。第三の奴ら、今から五人も……」

 静は陸を見た。目を逸らさないが、答えは出てこない。

「……簡単じゃない」

「簡単じゃないって、できないってこと?」

 静の喉が動く。言葉が出る前に、廊下で足音が止まった。扉が、外から軽く叩かれる。

 コン、コン。

 陸が反射で扉に向かったが、静が手のひらを上げて止めた。

「待って」

 もう一度、コン、コン。今度は少し強い。

「……誰」

 陸が小声で言う。

 静は立ち上がり、扉の前まで行く。ガラス越しに見えたのは工藤の顔だった。口元が歪んでいる。後ろに、同じクラスの男子が二人。見物の距離感だ。

 静は鍵を外さず、扉越しに言った。

「工藤。入るなら一人で」

 工藤が肩をすくめる。

「えー、怖いんだけど。第三って監獄みたいじゃん」

 後ろの男子が笑う。笑い声が廊下に散る。

 陸が歯を食いしばった。静は陸を見ずに言う。

「工藤。署名の話だ。サインしないなら、今日の件の条件が変わる」

 工藤が眉を上げた。

「条件? 何それ。俺、悪いことしてないし」

 静は扉の鍵に指をかけたまま、止める。

「悪いかどうかじゃない。やったことがあるかどうかだ。家庭の噂を出した。挑発した。そこは記録に残ってる」

 工藤が一瞬だけ黙る。すぐに笑って誤魔化す。

「記録ってさー、先生、どんだけ暇なの」

「暇じゃない。忙しいから、短くする。入る。サインする。終わり」

 静が鍵を外すと、工藤は一人で入ってきた。後ろの男子は扉の外に残り、ガラス越しに覗く。

 陸が扉を閉め、鍵をかけた。カチリという音に、工藤がわざとらしく肩をすくめる。

「ほら監獄」

 静は机の前の椅子を指差す。

「座って」

「立ってる方が楽」

「じゃあ立って。サインはする」

 工藤は机の上の誓約書を見て、鼻で笑った。

「家庭ネタ禁止? 挑発禁止? なにそれ。言論統制?」

 静は紙を指で押さえる。

「学校でのルールだ。守れないなら、守れないって書け」

「書けって何。拒否欄あんの?」

「ない。拒否なら署名しない。それも記録」

 工藤の視線が陸に飛ぶ。

「うわ、記録係いる。相沢、先生の犬?」

 陸が一歩出かけた。静が手で制した。

「陸。記録」

 陸の喉が鳴る。悔しさを飲んで、ノートを開いた。

 工藤が笑う。

「マジで犬じゃん」

 静が淡々と言った。

「犬でもいい。守るために動く方がマシだ」

 陸のペン先が止まった。静の言葉をそのまま書くか迷って、結局、書いた。

 工藤はその様子を見て、笑いが少し萎む。

「……で、これサインしたら何が変わるの」

「荒木の復帰条件に、あなたの条件も入る。あなたが守れば、荒木も戻りやすい」

「俺が守ったら、荒木が戻る? 意味わかんね」

 静は即答した。

「意味が分からなくても守れるルールにする。それが条件」

 工藤がペンを取る。だが先端を紙につけず、静を見上げた。

「先生さ。数字の話、さっき廊下でしてた?」

 静は動きを止めない。

「してた」

「俺ら、数字に負けるの?」

 同じ質問が、今度は別の口から飛んだ。工藤の声は軽いのに、目が探っている。

 陸が静を見る。静の指がペンから離れ、机の上に置かれた。

 静は言葉を探し、探して、見つからないまま口を開いた。

「……負ける可能性はある」

 工藤が口角を上げた。

「じゃあ、俺、サインしなくても同じじゃん」

 静は目を細める。

「同じじゃない。サインしないなら、あなたは“残る枠”から外れる。外れたら、次はあなたの番になる」

 工藤の笑いが止まった。ペン先が紙に触れる。

「脅し?」

「現実」

 静の声は低い。机の上の決裁欄が、白いまま待っている。

 工藤は乱暴に名前を書いた。ペンが紙を擦る音が耳につく。

「はいはい。書いた。これで満足?」

 静は紙を受け取り、輪ゴムで留めた。陸のノートを指で示す。

「今の発言も記録したな」

 陸が頷く。顔が強張っている。

 静は立ち上がり、工藤に言った。

「廊下にいる連中、帰せ。見物はもう終わり」

 工藤は扉の鍵に手をかけ、振り返って笑った。

「先生、すげーね。数字に勝てないのに、まだやんの」

 静は答えなかった。答えられなかった。

 扉が開き、廊下の空気が流れ込む。外の男子が「おつ」と軽く言い、散っていく足音が遠ざかる。

 鍵をかけ直した陸が、静に小さく言った。

「先生……さっきの、答え」

 静は誓約書をファイルに挟んだ。決裁欄の白が、まだ埋まっていない。

「今は、出せない」

 陸が目を伏せる。

 静はファイルを抱え、教頭室の方向へ顎を向けた。

「でも、出しに行く。印をもらう。荒木を退学にしないために」

 陸が息を吸い、ノートを閉じた。

「……俺も行く」

 静は頷き、扉の鍵に手をかけた。外に出れば、また見られる。数字の圧が、廊下の先で待っている。

 静は一度だけ足を止めた。ファイルの重さを確かめるように抱え直し、扉を開けた。


 廊下に出ると、空気が一段冷たかった。授業中の校舎は静かなはずなのに、どこかざわついている。視線が、壁の角から刺さっては引っ込む。

 静はファイルを胸に抱えたまま歩く。陸が半歩後ろにつく。ノートを持つ手が白い。

 教頭室の前で、静は一度だけ息を整えた。ノックは二回。返事はすぐだった。

「どうぞ」

 黒川は机の上の書類から目を上げない。静が入ると、視線だけでファイルを促した。

 静は荒木の処分案と復帰条件、工藤の誓約書を順に置いた。決裁欄を上に揃える。

「工藤、署名しました」

 黒川が紙をめくる。指先が速い。読むというより、穴を探す動きだ。

「家庭ネタ禁止……挑発禁止……違反時は同条件で処分対象。ふむ」

 黒川はペンを取るが、すぐには印を押さない。

「桐生先生。これで荒木が落ち着く保証は?」

「保証はありません」

 静は即答した。黒川の眉がわずかに上がる。

「正直だな」

「正直じゃないと、後で燃えます」

 黒川はペン先で決裁欄を叩いた。

「停学一週間。復帰条件は、見回りは教師同伴、相談票提出、面談週一。……管理が増えるな」

「増えます。増やさないと、退学になります」

 黒川の目が細くなる。

「君は退学をやたら嫌がる」

「退学は学校の都合で決まることが多い。本人の人生の都合じゃない」

 黒川のペンが止まった。沈黙が落ちる。

 次に聞こえたのは、黒川が朱肉を開く音だった。印を押す。ぽん、と乾いた音。

「よろしい。今日中に決着だ。これで終わりにしろ」

 静は紙を引き寄せ、ファイルに戻した。

「終わりにはなりません」

 黒川が顔を上げる。

「何だ」

 静は一歩も下がらない。

「年度末まで五件。条件、受けました。ですが、学校の中だけで作れる数字じゃない」

 黒川は鼻で笑った。

「外に逃げるのか」

「逃げません。外に出ます」

 黒川の視線が、陸のノートに一瞬落ちた。

「相沢。記録係だったな」

 陸が喉を鳴らす。

「……はい」

 黒川は静に戻す。

「外に出て何をする。求人票でも拾ってくるのか」

「協力者を探します。地域企業。職業訓練校。福祉の窓口。キャリアコンサルタント」

 黒川が小さく笑った。

「聞こえはいい。だが、学校の看板を使う以上、勝手は許さん」

「許可を取ります。正式に」

 黒川は椅子にもたれた。

「許可を取るなら、成果の責任も取れ」

 静は頷く。

「取ります。だから、成果の定義をこちらから出します」

 黒川が顎で促す。

「言ってみろ」

 静は言葉を選びながら、短く並べた。

「内定・合格は当然出す。その前に、外部の“評価”を入れます。職場見学の受け入れ。短期の職業体験。企業の担当者からの所見。訓練校の適性評価。第三の生徒の強みが、学校の内側だけで潰されないように」

 黒川は静を見たまま、しばらく黙った。

「所見は数字か?」

「数字に変換できます。受け入れ件数、実施時間、継続率、次の行動への移行率」

 黒川の口元が動く。

「移行率、ね。好きだな」

 静は淡々と返した。

「好き嫌いじゃなく、生き残りです」

 黒川はペンを置いた。

「やるなら、学校のルールでやれ。外部に迷惑をかけるな。問題が起きたら君の責任だ」

「はい」

 黒川は静のファイルを見た。

「それと、第三の予算は予定通り削る」

 静は頷く。そこは変わらない。

「分かっています。だから、外部の協力が必要です」

 黒川は手を振った。

「行け。授業に穴を開けるなよ」

 静は一礼して出た。廊下に出た瞬間、陸が息を吐く。

「印、もらえたな」

「もらった」

「……で、外部って、マジで行くの?」

 静は歩きながら答える。

「行く」

「どこに」

「まずハローワーク。次に、去年断られた工務店。あと、商工会」

 陸が目を見開く。

「断られたとこ、また行くの?」

「行く。断られた理由を潰して、もう一回頼む」

 陸はついてきながら、口を尖らせた。

「プライドとかないの」

「プライドで五件は作れない」

 静は階段を下りる方向に曲がった。職員室とは逆だ。

 陸が足を止める。

「今、どこ行くつもり」

 静は立ち止まり、陸を振り返った。

「放課後、外に出る。今日はその段取りを作る。電話、アポ、書類。校外活動の申請も」

 陸が眉を寄せる。

「教頭、許可出すの?」

「出させる。出さないなら、数字が出ない理由が一つ増えるだけ」

 陸は苦そうに笑った。

「強ぇ……」

 静は笑わない。

「強くない。時間がないだけ」

 廊下の向こうから、教員の足音が近づく。担任の一人が静を見て、会釈だけして通り過ぎた。その視線に、探る色が混じる。

 陸が小さく言う。

「見られてるな」

「見られるなら、見せる」

 静は進路室の前で立ち止まり、鍵を回した。中に入ると、机の上に置きっぱなしの電話帳と、古い名刺入れが見える。

 静は名刺入れを開いた。角が擦れた名刺が何枚か残っている。地域企業の担当者、訓練校の広報、NPOの相談員。

 陸が覗き込む。

「それ、誰」

「去年、繋がりかけた人たち」

「かけた、って」

 静は名刺の一枚を引き抜き、裏のメモを指でなぞった。『受け入れ枠なし』『保険の手続き不明』『学校側の責任者明確に』。

 静は机に名刺を並べていく。

「条件が足りなかった。学校の中の都合だけで頼んだ。向こうの現実を知らなかった」

 陸が言った。

「じゃあ今回は?」

「向こうの現実に合わせる。保険、契約書、引率、連絡体制。全部、先に用意する」

 陸がノートを開く。

「記録する?」

「する。電話の日時、相手、要件、返答。断られた理由も」

 陸は少しだけ顔をしかめる。

「また断られたら?」

 静は名刺を一枚、陸の前に置いた。

「断られたら、次。断られた理由は、次の材料」

 陸は名刺を見つめた。紙一枚なのに、重そうに見えた。

 静は受話器を取った。ダイヤルに指をかけ、止める。窓の外を見る。校庭で走る生徒たちの列が、小さく揺れている。

「先生」

 陸が小さく呼ぶ。

「俺も、行っていい?」

 静は受話器を耳に当てる前に、陸を見た。

「授業は?」

「サボるとかじゃなくて。放課後。俺、電話とか、得意じゃないけど……」

 静は頷いた。

「放課後。記録係で来い。向こうの大人の前で、黙って座ってるだけでもいい」

 陸の喉が動く。

「黙ってるの、得意だし」

 静は受話器を耳に当てた。呼び出し音が鳴る。

 その音の合間に、廊下からまた足音が近づく。扉の前で一瞬止まり、去っていく。見張りの気配だけが残る。

 呼び出しが繋がった。

「もしもし、桐生です。城南高校の進路指導で――」

 静は名刺の文字を指で押さえた。学校の中で決められた“成果”を、外の現実で作り直す。その入口に、今、立っている。


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