成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第14話:不登校の天才リスナー

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 第三進路室の蛍光灯が、少しだけ唸っていた。

 桐生静は机の端に、保護者面談の案内文の下書きを置いた。深谷チカの名前。職場体験申請の文言。校外活動、学校行事扱い、引率の有無――黒川教頭が突っ込みそうな穴を先回りで塞ぐための言葉が並ぶ。

 ドアがノックもなく開いて、相沢陸が顔だけ出した。

「桐生せんせ。今日、チカ……来ないっすよね」

「来ない。来るなら連絡がある」

「教頭、廊下で言ってましたよ。『外部連携は数字が出るのか』って」

 静は視線を上げないまま、赤ペンを置いた。

「出させる。出ないなら、出る形に変える」

 陸は机の上の案内文を覗き込んで、口を尖らせた。

「この文章、めっちゃ硬いっすね」

「硬くしないと通らない」

「通らないとどうなるんすか」

 静は紙を揃え、クリアファイルに入れた。

「チカの見学も体験も、学校の外出扱いにできない。つまり、欠席が増える」

 陸は目をそらした。自分の出席日数のことを思い出した顔だった。

 静のスマホが机の上で震えた。通知音は切ってある。画面だけが光る。

 LINEの名前は「佐伯マナブ」。アイコンは真っ黒な丸。

 静は指で開いた。

『先生、今って話せます?』

 静は短く打った。

『今、第三。電話は無理なら文で』

 すぐ返ってきた。

『文でいいです』

『学校来いって言うなら切ります』

 静は一拍置いてから送った。

『来いは言わない。来ない前提で話す』

 既読がつくのが早い。画面の向こうで、指が止まっていない。

『じゃあ聞く』

『俺、終わってます?』

 陸が「え」と小さく声を漏らした。静が画面を見たまま、手で黙れの合図をする。

 静は返信を急がない。机の上の案内文を一度見て、またスマホに戻す。

『終わってない。ただ、選べる道が減ってるだけ』

『それを増やす話する?』

 既読。沈黙。三点リーダーが出たり消えたりした。

『増やせるんですか』

『学校行ってないのに』

 静は椅子にもたれず、肘を机につけた。

『増やせる。ただし条件がある』

『1つ。今の状況を隠さない』

『2つ。できることを数字にする』

 陸がたまらず口を挟む。

「数字っすか……」

 静はスマホを見たまま、小さく頷いた。陸には聞こえる程度で。

「黒川の世界では、数字が通貨」

 陸は眉をひそめた。

「教頭、いるんですか。ここにも」

 静は答えない。画面の向こうに戻る。

 佐伯から返ってきた。

『数字にするって何』

『俺、勉強できない』

 静は即答しなかった。代わりに、質問を返す。

『勉強以外で、毎日やってることは?』

 既読がついて、少し間が空く。

『音』

『ずっと聴いてる』

『人の声』

 静は画面を見つめた。文字が短いのに、妙に輪郭がある。

『配信?』

『ラジオ?』

『なんでも』

 佐伯の返信は途切れない。

『配信もラジオも』

『声が変だとすぐ分かる』

『嘘ついてるとか、無理してるとか』

『コメント欄の空気が崩れる前に分かる』

 陸が机の端に手をついて、身を乗り出した。

「それ、すげぇ……」

 静は陸を見ずに言う。

「声出すな」

 陸は口を手で塞いだ。

 静はスマホに打つ。

『それ、いつから?』

『小学校』

『家で親がケンカすると』

『声の感じでどっちが先に折れるか分かった』

『だから先に弟連れて部屋行った』

 静の親指が止まった。机の上の硬い案内文が、急に紙の音を立てた気がした。

 静は短く送る。

『弟いるんだな』

『いる』

『中1』

『俺が学校行ってないのも、家の空気が悪くなる』

『だから余計行けない』

『行けって言われるのも無理』

 静は画面を見ながら、低く息を吐いた。

『行けは言わない』

『ただ、家にいるままでもできる選択肢はある』

『聞く?』

 既読。返信が来るまでに、静は机の引き出しを開けて、メモ帳を出した。陸が興味津々で覗こうとする。

 静は指で押し返す。

「覗くな」

 陸は肩をすくめて、椅子に座り直した。

 佐伯から来た。

『聞く』

 静はメモ帳に「佐伯マナブ」と書き、次に「聴く」「空気」「声」と並べた。

『まず現実』

『高校の出席と単位は必要』

『でも、今すぐ戻れないなら、戻るための手順を作る』

『同時に、家でできる実績を作る』

 佐伯はすぐ返す。

『実績って何』

 静は言葉を選びながら打つ。

『例えば』

『配信者の切り抜き編集のチェック』

『音声のノイズ取り』

『台本の読み合わせ』

『コメント欄のモデレーション』

『「聴ける」やつは、裏方で食える』

 陸が目を丸くした。

「そんな仕事あるんすか」

 静は小声で返す。

「ある。薄給も多いけど、入口にはなる」

 スマホに戻る。

 佐伯の返信。

『でも俺、外出れない』

『人と会えない』

『面接とか無理』

 静はメモ帳に「対面×」と書き、横に「在宅」「短時間」「段階」と書いた。

『いきなり面接はしない』

『まず、匿名でできる小さい仕事を探す』

『クラウドソーシングとか、音声の文字起こしとか』

『ただし未成年は条件がある。保護者同意が必要な場合もある』

 既読がつく。

『親、無理』

『父は「学校行け」だけ』

『母は「甘え」って言う』

 静は画面に「無理」の文字が並ぶのを見て、あえて言葉を短くした。

『親が無理なら、学校を使う』

『学校の活動として動かせば、手続きが通ることがある』

『そのために、俺がいる』

 陸が「それ……」と呟きかけて、静の視線で黙った。

 佐伯から。

『学校って、俺のこと切り捨てる側じゃないの』

 静は少しだけ笑った。口元だけが動く。

『切る人もいる』

『残す人もいる』

『俺は残す側でいたい』

『でも条件がある』

『嘘はつくな』

『「できない」を増やすな』

 既読。数秒後。

『できない増やすって何』

 静は打つ。

『「行けない」だけならまだいい』

『そこに「会えない」「話せない」「何もできない」って重ねると、道が消える』

『会えないなら文でいい』

『外出れないなら家でできる』

『ゼロにしない』

 佐伯の返信は短い。

『分かった』

 静はすぐ続けた。

『今日、声で話せる?』

『電話じゃなくて、ボイスメッセージ』

『30秒でいい』

 既読がつくのが遅かった。静は待つ間、案内文のファイルを閉じて、机の端に置いた。黒川の顔が浮かぶ。「数字」。その言葉だけが耳に残る。

 陸が小声で言う。

「先生、今の子……来てない子っすよね」

「そう」

「なんでLINE知ってんすか」

「向こうが知ってた」

「こわ」

 静は陸を見た。

「怖がるな。助けを出せる場所を探してるだけだ」

 陸は唇を噛んで、頷いた。

 スマホが震える。佐伯からボイスメッセージが届いた。

 静は再生しない。まず文字が来る。

『声、嫌いです』

『でも送ります』

 静はイヤホンを取り出し、片耳だけにつけた。

 再生。

 低い声。途切れがちで、息を吸う音がやけに近い。言葉は少ない。

『……佐伯です。』

『今……家。』

『先生が……変なこと言わないなら……』

『……少しだけ、話せる。』

 静は再生を止めた。机のメモ帳に「声:低、息近、緊張」と書く。評価ではなく、観察として。

 陸がじっと見ている。

「今の、何すか」

「声」

「……変?」

「変じゃない。情報が多い」

 静はスマホに打つ。

『受け取った』

『次、質問する』

『今、家で一番しんどいのは「何が起きること」?』

 既読。すぐ返る。

『怒鳴り声』

『俺が学校の話されると』

『父の声が変わる』

 静は椅子から立ち上がって、窓のブラインドを少しだけ上げた。校庭の声が遠い。

『分かった』

『じゃあ次の一歩は、「学校の話を家でしない時間」を作る』

『その代わり、俺とだけ進路の話をする』

『保護者には、俺から連絡する。いきなり面談じゃない。紙から』

 陸が目を見開いた。

「保護者に? 怒られません?」

「怒られる」

「じゃあ……」

「怒られたら、怒られた分だけ手順を整える」

 静は机の案内文のファイルを指で叩いた。

「今やってるのと同じ」

 佐伯から、間を置いて返信。

『先生、親に連絡したら終わる』

 静は短く返した。

『勝手にはしない』

『先に「学校として必要な確認」って形を作る』

『お前の同意がいる』

『同意できる?』

 既読がついたまま、しばらく返事がない。

 静は机の引き出しから、学校の「欠席が続く生徒への連絡文書」テンプレを出して、上に白紙を重ねた。テンプレの文言は冷たい。「指導」「改善」「登校」。そのまま送れば、佐伯は切れる。

 白紙に、静は別の言葉を書き始める。「相談窓口」「段階的な復帰」「校内支援」「本人の意向」。

 陸がそっと聞く。

「先生、教頭にバレたら……」

「バレる」

「止められたら」

 静はペンを止めずに言う。

「止められない形にする。学校の規程と、外の制度で囲む」

 陸は喉を鳴らして頷いた。

 スマホが震える。佐伯。

『同意する』

『でも条件』

 静はすぐ返す。

『言え』

『家に電話しないで』

『紙だけ』

 静は即答した。

『了解。電話はしない。まず文書』

『次、会えるタイミングを作る』

『学校じゃなくていい。駅前の公共施設でもいい』

『15分でいい』

 既読。返信が来る。

『外は無理』

『でも、夜なら少しだけ玄関出れる』

 静はメモ帳に「夜」「玄関」と書いた。

『夜に教師は動けない』

『代わりに、昼間にできることを増やす』

『明日、ボイスで「得意な音」を教えて』

『人の声、環境音、音楽、どれが一番分かる?』

 既読。

『人の声』

『特に、間』

 静は指を止めた。「間」とメモする。

 陸がぽつりと言う。

「間……って、すごいっすね」

 静はメモ帳を閉じた。

「才能は派手じゃない。だから拾われない」

 静はスマホを置いて立ち上がる。ファイルを抱えた。

「陸。職員室行くぞ」

「え、今から?」

「今のうちに、連絡文書の出し方を確認する。担任の判子もいる」

 陸が立ち上がり、慌てて鞄を掴む。

「教頭、いるっすよ」

「いるならちょうどいい」

 静はドアノブに手をかけて、振り返った。

 机の上のスマホ画面には、佐伯から最後の一文が残っている。

『先生、俺のこと、数字にできますか』

 静は画面を見ずに言った。

「数字にするのは、守るためだ」

 そしてドアを開けた。廊下の空気が、少しだけ冷たかった。職員室の方から、誰かの早足の靴音が近づいてくる。


 職員室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。

 プリントの擦れる音、キーボードの連打、誰かの咳。そこに混じって、ひそひそ声が刺さる。

「……また第三が外行事だって」
「教頭の機嫌、最悪だぞ」

 相沢陸は肩をすくめたまま、桐生静の半歩後ろにつく。

「先生、ここ苦手っす。胃が…」

「口閉じて、目だけ動かせ」

 静はファイルを胸に抱え、一直線に学年主任の机へ向かった。途中、教頭席の方から視線が飛んでくる。静は見返さない。見返すと、絡みが増える。

 学年主任の佐々木が顔を上げた。

「桐生。今、忙しい」

「三分ください。文書の出し方だけ確認したい」

「また外?」

「職場体験の申請。深谷の」

 佐々木の眉が一瞬だけ上がる。

「深谷か……あの子、欠席どうなってる」

「ギリギリ。だから学校活動に乗せる必要がある」

 佐々木はため息をつき、机の上の判子を指で転がした。

「教頭が嫌がるぞ」

「嫌がるのは分かってます」

 静はファイルから一枚出し、佐々木の前に滑らせた。文言は硬い。必要事項は埋まっている。

 佐々木が目を走らせる。

「……ちゃんと穴塞いでるな」

「塞がないと落ちます」

「で、担任は?」

 静は視線を斜めにずらした。担任席の方で、深谷の担任が紙の山に埋もれている。顔を上げる気配がない。

 静が近づく前に、背後から声が飛んだ。

「桐生先生」

 若い英語教師が、書類を抱えたまま立っている。眉間が硬い。

「佐伯の件、また何かやってるんですか」

 陸が「うわ」と小さく漏らす。

 静は立ち止まった。

「“また”って言い方やめてください」

「だって、あの子、来ないじゃないですか。連絡も返ってこないし。保護者も……」

 英語教師は言葉を切って、周囲を気にするように声を落とした。

「この時期に、不登校を甘やかすの、学校としてどうなんですか。教頭、数字見てますよ」

 静は紙を一枚、指で叩いた。

「数字なら、今から作る」

「無理です。出席も単位も——」

「無理を前提に話すなら、あなたは担任を降りた方がいい」

 英語教師の頬が引きつった。

「そんな言い方…!」

 静は一歩詰める。声は上げない。

「担任の仕事は『来させる』だけじゃない。来れない生徒を、来れる形に分解することも含む」

 英語教師は唇を噛んだ。言い返したいのに、言葉が出ない顔だった。

 そこへ、佐々木が低く割って入る。

「桐生。今は職員室でやるな」

「すみません。必要な判子だけもらいます」

 英語教師が静を睨んだまま言う。

「佐伯のこと、どうするんですか。結局、学校来ないまま卒業なんて——」

 静はその視線を受け止めた。

「卒業させるために、今動いてる」

「動くって、LINEですか」

「LINEも手段」

 英語教師は鼻で笑った。

「……気持ちよくなってません? 相談乗って、『自分だけが分かってる』って」

 陸の肩が跳ねた。静の横顔を盗み見る。

 静は、すぐに返さなかった。

 英語教師の声の最後尾。息の乱れ。言葉の先にある焦り。そこを拾ってから、短く言う。

「あなた、怖いんですね」

 英語教師が固まる。

「は?」

 静は言い直さない。代わりに、机の端に視線を落とし、続ける。

「『来ない』が続くと、担任は責められる。教頭も学年も。あなたも」

 英語教師の指が、抱えた書類を強く掴んだ。

「……責められるのは、私だけじゃない」

「だから今、あなたの不安を減らす話をする」

 静はファイルを開き、別の紙を一枚出した。佐伯用の連絡文書の下書き。テンプレではない。

 英語教師の目が、紙に落ちる。

「これ……何ですか」

「保護者宛て。電話しない。まず文書」

「内容は?」

「『登校を迫る』じゃない。『段階的な支援』の提案」

 英語教師は眉を寄せる。

「そんなの、通るんですか」

「通す」

「教頭が——」

「教頭が見るのは、形式と責任の所在。そこは押さえる」

 静は紙の一行を指でなぞった。

「担任名義で出す。第三進路室が支援窓口。返信先は第三。あなたは“窓口”から外す」

 英語教師が顔を上げた。

「……私を外す?」

「潰れそうだから」

 英語教師は口を開けて、閉じた。喉が上下する。

「私、潰れそうに見えます?」

 静は答えを言葉にしない。代わりに、英語教師の手元を見た。書類の角が折れかけている。指先が白い。

 静が言う。

「その書類、落としそうですよ」

 英語教師ははっとして抱え直した。息を吐く音が、ほんの少し長くなる。

 陸が小声で囁く。

「先生、今ので……落ち着いた」

 静は陸を見ないまま返す。

「人は、言われてないことに怒る。言われたくないことに怯える。そこを避けるだけだ」

 英語教師が、静の紙をもう一度見た。

「……でも、佐伯は何ができるんですか」

「“聞く”」

 英語教師が首を傾げる。

「聞く?」

 静は短く頷く。

「相手が落ち着く聞き方ができる。声の間で分かるタイプ」

「そんなの、仕事になるんですか」

 静は即答しない。机の上にある学校用の求人冊子を指で叩く。

「なる。ただし、今すぐじゃない。段階が要る」

「段階?」

「在宅でできる小さな実績。学校の支援記録。出席の代替。全部、積み上げる」

 英語教師が言う。

「そんな面倒なこと、他の子にも——」

 静が遮る。

「他の子の話は今しない。佐伯の話だけする」

 英語教師は目を逸らした。悔しそうに。

「……私、あの子に何言っても、刺さらないんです」

 静はそこで、少しだけ声を柔らかくした。

「刺そうとするからです」

 英語教師が睨み返す。

「じゃあ、どうすれば」

 静は紙の余白に、短い文を二つ書いた。ペン先が迷わない。

「『今日は何が一番しんどい?』」
「『返事は明日でいい』」

 そして紙を英語教師に差し出す。

「これだけ送ってください。説教なし。評価なし」

 英語教師は受け取らない。指が躊躇している。

 静は手を引かずに言う。

「あなたが送らないなら、第三から送る。でも担任が一度でも『待つ』を見せた方が、佐伯は動く」

 英語教師の指が、ようやく紙を挟んだ。

「……返ってこなかったら」

「返ってこない前提で次を用意する」

 英語教師の喉が鳴る。

「桐生先生、なんでそんなに……」

 静は言葉を切った。職員室の奥、教頭席の方で椅子が鳴った気がした。視線がまた刺さる。

 静は英語教師にだけ聞こえる声で言う。

「時間がない。年度末までに、学校は結果を欲しがる」

 英語教師の顔が硬くなる。

「……教頭、言ってましたよね。内定だの進学だの」

「そう」

「不登校の子に、そんなの無理じゃ——」

 静は首を振る。

「無理だと決めるのは、学校の仕事じゃない。無理の中で、残る道を探すのが仕事」

 英語教師は何か言いかけて、飲み込んだ。代わりに、紙を折らずに胸に抱えた。

 佐々木が判子を押し、申請書を静に返した。

「職場体験、ここまで。あとは教頭だぞ」

「分かってます」

 静が受け取ると、佐々木が目だけで教頭席を示す。

「今、機嫌悪い。行くなら覚悟しろ」

 陸がごくりと唾を飲む。

「先生、今行くんすか」

 静はファイルを閉じた。

「今行かないと、明日には理由が増える」

 英語教師が小さく言った。

「……佐伯に、送ってみます」

 静は歩き出しながら、振り返らずに返す。

「返事が来たら、第三に転送してください。あなた一人で抱えるな」

 陸が静の後ろを追いかける。

「先生。佐伯って、ほんとに“聞く”のが才能なんすか」

 静は教頭席へ向かう通路で足を止めた。

「才能かどうかは、使い道で決まる」

「使い道……」

「人を落ち着かせられるのは、武器だ。間違えると、自分が削れる」

 陸の目が揺れる。

「削れるって……」

 静は一度だけ陸を見る。

「だから、学校が盾になる。今のうちは」

 その先に、教頭席がある。背中だけでも圧が分かる距離。

 静はファイルを持ち直した。

 スマホが震える。佐伯からの通知ではない。深谷チカの担任から、短いメッセージ。

『職場体験申請、教頭に通すなら、理由を一行で。強いのを』

 静は画面を閉じ、陸に言った。

「一行、作るぞ」

「え、何を」

「教頭に刺さる言葉」

 静は歩きながら、メモ帳を開いた。ペン先が走る。

 第三進路室のドアの前で、静は立ち止まった。中に戻るのではない。教頭席へ向かうために、息を整えるために。

「陸」

「はい」

「佐伯の“聞く力”を、言葉にする。学校用の言葉に」

 陸が頷く。

「……数字にするんすね」

 静はメモ帳に、短く書いた。

『相談対応/対人調整/傾聴/クレーム一次受け』

 そして、教頭席の方へ顔を上げた。

「行く」

 陸が小さく言う。

「怒鳴られたら、俺、死ぬっす」

 静はドアノブに手をかけたまま、淡々と言った。

「死なない。怒鳴られたら、要点だけ拾う。あとは捨てる」

 静が扉を開ける音が、職員室のざわめきを切った。


 教頭席の周りだけ、空気が硬い。

 黒川恒一は書類に目を落としたまま、指先で机を二度叩いた。呼び鈴みたいな音だった。

 桐生静はファイルを差し出す。相沢陸はその後ろで背筋を伸ばしすぎて、首が固まっている。

 黒川が顔を上げた。

「第三進路室。外部連携の申請か」

「職場体験です。深谷チカ」

 黒川は受け取らない。視線だけが紙をなぞる。

「欠席が多い生徒だな」

「はい」

「欠席が多い生徒に、校外活動の許可を出す意味は?」

 静は一行メモを思い出すように、間を置かず言った。

「出席の代替になり、就職の実績に繋がります」

 黒川の口角が動いた。笑いではない。

「就職の実績?」

「見学で終わらせません。職場体験に落とします」

 黒川は指で申請書の端を弾いた。

「君の“落とす”は、いつも言葉が先に立つ。数字が出たのか」

 静は淡々と返す。

「出す途中です」

「途中は成果ではない。年度末までに内定三、進学二。言ったな」

 背後で陸が息を飲む音がした。

 黒川は静の目を見たまま続ける。

「君のやり方は、回り道だ。欠席者に外へ出る機会を与える前に、まず登校させろ」

 静は頷かない。首も振らない。

「登校を目的にしません」

 黒川の眉がわずかに上がる。

「何だと」

 静は一歩も引かず、声の大きさも変えない。

「登校は手段です。目的は卒業後に生活が回ることです」

 黒川の視線が鋭くなる。

「生活が回る? 君は学校の教員だ。学校の責務は在籍生徒を登校させ、学習させ、進路を決めることだ」

「進路を決めるために、今の手段を増やします」

 黒川は机の上のペンを取って、カチ、と鳴らした。

「増やす? 欠席を正当化する道を増やすのか」

 静は言葉を切らずに返す。

「正当化じゃない。現実対応です。出席が戻るまでの空白を埋める」

 黒川が低い声で言う。

「空白は埋まらない。出席日数は数字で残る」

 静は頷いた。

「だから、埋められるところから埋める。学校活動としての記録、支援記録、職場側の評価」

 黒川は鼻で息を吐いた。

「評価? そんなもの、入試にも求人にも——」

「求人には効きます」

 静が即答する。

 黒川の目が細くなる。

「君が保証するのか」

「保証はしません。可能性を上げるだけです」

 黒川は一拍、黙った。職員室のざわめきが、その沈黙に吸い込まれる。

 黒川は申請書をようやく手に取り、ページをめくった。

「深谷の担任は何と言っている」

「担任も必要性は理解しています。判子もあります」

 黒川は判子の印影を見て、ふっと息を吐く。

「では、なぜ君が持ってくる」

「第三の案件です。欠席が絡むので」

 黒川が紙を机に置いた。

「欠席が絡む案件が多すぎる。君の部屋は“落ちこぼれ専門”だったな。今は“欠席者の避難所”か」

 静は目を逸らさない。

「避難所で終わらせません。出口を作ります」

 黒川が、静の背後の陸に視線を投げた。

「相沢。君はどう思う」

 陸の喉が動く。返事が出てこない。静が口を挟まないのが、余計に怖い。

 陸はようやく言った。

「……登校、できるならした方がいいっす」

 黒川が頷く。

「正しい。君の方が現実を見ている」

 陸の顔が強張る。静は陸を見ないまま言う。

「陸、続き」

 陸は唇を噛んで、言い直した。

「でも……できない日もあるっす。できない日に、ゼロにしない方が……」

 黒川の口元が僅かに歪む。

「感情論だな」

 静が入る。

「感情じゃなくて、継続の設計です」

 黒川は静に戻す。

「設計と言うなら、佐伯マナブをどうする。君、あの不登校の件に手を出しているそうだな」

 陸が肩を跳ねさせた。

 静は表情を崩さない。

「相談が来ています。対応しています」

 黒川は机の上に、別の紙を置いた。出席簿のコピー。欠席の列が続く。

「出席がこの状態で、何の“対応”だ。登校させろ」

 静はその紙を見ない。

「登校をゴールにしたら、彼は動きません」

 黒川が声を強めた。

「動かせ。教師だろう」

 静は低く返す。

「動かすんじゃなく、動ける形にする」

 黒川が椅子にもたれ、腕を組む。

「言い換えだ。結果は同じだろう。学校に来なければ単位は出ない。卒業できない。卒業できなければ進路実績にもならない。君の“第三”は、学校に何を返す」

 静はそこで、一拍置いた。職員室のどこかでコピー機が止まり、静かな「ピー」という音がした。

 静は言う。

「返すのは“内定”です」

 黒川の目が揺れる。揺れたのは一瞬で、すぐに固くなる。

「不登校に内定?」

「段階は必要です。まず在宅の実績。次に短時間の外出。次に面談。手順を作ります」

 黒川が吐き捨てるように言う。

「甘い。世の中はそんなに優しくない」

 静は頷く。

「優しくない。だから手順がいる」

 黒川は机を指で叩く。さっきより強い。

「君の手順は遅い。期限がある。年度末だ。数字が要る」

 静はファイルの中から、メモを一枚抜いた。さっき陸と作った一行が書いてある。

「佐伯は“傾聴”で対人調整ができます。相談対応、一次受け、クレーム初動。向き不向きがありますが、適性はあります」

 黒川がその紙を受け取り、目を走らせる。

「……言葉は作れる。誰でもな」

 静は即座に返す。

「誰でもじゃない。相手の声を聞いて、落ち着かせる。これは訓練しても差が出ます」

 黒川は紙を机に戻した。

「落ち着かせる? 学校でやれ。教室で。登校して」

 静は言い切る。

「教室は今、彼の戦場です。そこに放り込んでも折れるだけです」

 黒川の声が低くなる。

「折れる? 折れたら終わりか」

 静は首を振る。

「折れても終わりじゃない。でも、折らない方がいい。折らなければ道が増える」

 黒川は静を見つめ、しばらく黙った。職員室の視線が集まっているのが分かる。誰も口を挟まない。

 黒川が言った。

「桐生。君の方針は分かった。だが、学校の方針は変わらない。登校が基本だ」

「分かってます」

「なら、妥協案だ」

 黒川は指を一本立てた。

「職場体験は許可する。ただし条件を付ける」

 陸が目を見開く。

 静は即答しない。条件の罠を待つ。

 黒川が続ける。

「深谷は、体験前に最低三日、登校させろ。佐伯も同じだ。今週中に一度、学校に顔を出させる。できなければ、第三の外部連携は一旦停止。監査を入れる」

 陸の顔色が変わった。

「監査……」

 静の指先がファイルの角を押した。紙が少しだけ軋む。

 静は黒川に言う。

「三日は無理です」

 黒川が即座に返す。

「無理と言うなら、許可は出ない」

 静は視線を落とし、申請書の項目を指でなぞった。ここで噛みつけば、全部止まる。深谷も佐伯も。

 静は顔を上げる。

「三日じゃなく、一日。保健室登校でもいい。時間は一時間。そこで“学校活動”の記録を作る」

 黒川が眉をひそめる。

「抜け道だな」

「道です。抜けるための」

 黒川は静を見て、笑わないまま言う。

「一日で何が変わる」

 静は短く返す。

「『できた』が一つ増えます」

 黒川が言う。

「数字は?」

 静は答えを用意していた。

「出席扱いは無理でも、支援記録が残る。職場体験は学校行事として処理できる可能性が上がる。欠席のリスクを減らせます」

 黒川はしばらく黙り、ペンを持ち直した。

「……保健室登校、一時間。深谷は体験前にそれを一回。佐伯も今週中に一回。これが最低ラインだ」

 静は頷いた。

「やります」

 黒川がペン先で申請書に印を付ける。

「できなければ、止める。君の部屋ごと」

 静は頭を下げない。受け取るだけだ。

「止められないように、結果を出します」

 黒川は目を細めた。

「結果だ。情ではない」

 静は背を向ける。

「情で動いてません」

 職員室を離れる足音が、やけに大きく聞こえた。陸が追いすがる。

「先生……一日って……」

「一日でいいって言ったのは、こっちの首を絞めないためだ」

「でも佐伯、学校無理って……」

 静は第三進路室の廊下で立ち止まり、スマホを取り出した。画面には佐伯とのトークが開いたままだ。

 静は文字を打つ。短く、逃げ道を残して。

『今週中に一回だけ、学校の敷地に入る必要が出た』

『教室じゃない。保健室で一時間』

『できる方法、二つ考える。どっちがマシ?』

 送信。

 既読が付くまでの間、静は陸に言った。

「黒川は“登校”しか見ない。だから、登校を“形”にして通す」

 陸が眉を寄せる。

「形……ズルっすか」

 静は歩き出す。

「ズルじゃない。生き残り方」

 スマホが震えた。既読。そのあと、すぐに返信。

『保健室なら』

『でも、誰にも会いたくない』

 静は足を止め、画面を見つめた。

 誰にも会いたくない。学校は誰かに会う場所だ。

 静は打つ。

『会わない導線を作る』

『裏門→保健室直行。時間も人が少ない時間にする』

『その代わり、約束がある』

 送信したところで、第三進路室のドアが見えた。中には、深谷チカ用の案内文が机の上で待っている。

 静はドアノブに手をかけた。

 返信が来る前に、陸が小さく言う。

「先生、約束って何すか」

 静はドアを開けながら言った。

「“聞く力”を、誰かのためだけじゃなく、自分のためにも使うって約束だ」

 スマホが震える。佐伯からの返事が、画面の端に覗いた。

 静はまだ開かない。まず部屋に入る。次に、導線の図を描く。

 現実は厳しい。だから道を増やす。増やした道に、条件がぶら下がっている。そこから先は、本人と一緒に結ぶしかない。


 第三進路室の時計は、いつもより音が大きい気がした。

 桐生静は机の上に、導線を書いた紙を広げている。裏門、渡り廊下、保健室、第三進路室。人の少ない時間帯に丸がついている。

 相沢陸が、その紙を指でなぞった。

「これ、スパイ映画っすね」

「黙って覚えろ」

「覚えたところで、誰が案内するんすか」

 静はペン先で裏門を叩いた。

「私が行く」

 陸が目を丸くする。

「先生が裏門に立ってたら、目立つじゃないっすか」

「目立たない時間を選ぶ」

「それでも誰か見ますって」

 静はファイルを閉じた。

「見られてもいい。会わせないのが目的だ」

 ドアの外、廊下がやけに静かだ。授業中の時間帯。静はスマホを机に置き、画面を開いたままにしている。

 佐伯マナブとのトーク。

『会わない導線を作る』
『その代わり、約束がある』

 相手の返信がまだ来ていない。

 陸が小さく言う。

「来るんすかね……」

「来るなら、来る」

 静はそう言って、椅子を一脚、入口に近い位置へ動かした。普通のパイプ椅子。背もたれが少しぐらつく。

 陸が笑いかけて、すぐ黙る。

「……その椅子、特別っすか」

「特別にする」

 静は椅子の足を軽く押し、ガタつきを直す。床に擦れる音が短く響いた。

 スマホが震えた。

『約束って何』

 静はすぐ打つ。

『来たら、帰る時間もお前が決める』
『「もう無理」を言う練習をする』
『言えたら、今日は成功』

 既読がついて、少し間が空く。

『分かった』
『明日、いけるかも』
『人少ない時間で』

 静は陸に目線だけで合図した。

「明日。二限の途中。裏門」

 陸が唾を飲む。

「二限の途中って、なんでそんな中途半端」

「人の流れが切れる」

「……先生、ほんとにそういうの詳しいっすね」

 静は答えない。詳しい理由を言えば、余計なものまで混じる。必要なのは、実行だけだ。

 翌日。

 二限のチャイムが鳴って、廊下が一度だけざわめき、すぐ静まった。

 静は職員室に寄らず、第三進路室の鍵だけをポケットに入れて外へ出た。裏門へ向かう渡り廊下は冷える。風が制服の袖を叩く。

 裏門の横、植え込みの影。

 静はそこに立った。腕時計を見る。予定の時刻まで、あと二分。

 陸が少し離れたところで待っている。隠れているつもりでも、背が高くて目立つ。

 静が小声で言う。

「陸、もっと離れろ」

「え、でも…」

「離れろ」

 陸は渋々、曲がり角の向こうへ引っ込んだ。

 静は門の外の歩道を見た。人は少ない。通学路から外れているせいだ。

 一台、自転車がゆっくり近づいてきて、少し手前で止まった。

 降りたのは男子。フードを深くかぶっている。顔は見えない。肩が上がりっぱなしで、息を止めているように見えた。

 静は門を開けない。まず、声をかける。

「佐伯」

 男子がぴくりと動く。

「……先生?」

 声は小さい。風に負けそうな音だった。

 静は頷く。

「そう。入れるか」

 男子は門の隙間を見た。そこから見える校内の景色を、目で触るみたいにゆっくりなぞる。

「……人、いない?」

「今はいない」

「ほんと」

「嘘つかない」

 男子の手が門の取っ手に伸びて、止まる。指先が白い。

 静は言う。

「迷っていい。今日はここで帰ってもいい」

 男子は息を吸って、吐いた。

「……それ、ずるい」

「ずるくない。選べるだけ」

「選べるって言われると……」

 静は門を少しだけ開けた。音がしないように。金具がかすかに鳴る。

「入るなら、今」

 男子は自転車を押して、門の内側へ一歩入った。靴底が砂利を踏む音がした。

 静は門を閉める。カチ、と小さな音。

 その音で男子の肩が跳ねた。

「……閉めた」

「外から見えにくいように」

「……」

 静は歩き出す。

「ついて来い。しゃべらなくていい」

 男子は半歩遅れてついてくる。自転車は押さない。門の内側に置いたまま、鍵もかけない。戻れるように。

 渡り廊下に入る前、静が言う。

「今から会う大人は二人。私と、保健室の先生。嫌なら保健室は飛ばす」

 男子は小さく首を振った。

「……保健室、いける」

「目を合わせなくていい」

「……」

 廊下の角を曲がる。遠くで教室の声がする。男子が足を止めかける。

 静は振り返らず言った。

「音、聞こえるな」

「……聞こえる」

「何の音が一番嫌だ」

 男子は一瞬、考えるように黙ってから言った。

「笑い声」

 静は少しだけ歩く速度を落とした。

「誰の」

「分かんない。全部」

「今のは?」

 男子が耳を澄ます。

「……授業の、笑い。先生の」

 静は頷く。

「それなら敵意じゃない」

 男子の足が、ほんの少しだけ前に出た。

 保健室の前。

 静がノックする前に、扉が開いた。保健室の養護教諭が顔を出す。静と目が合うと、何も聞かずに頷いた。

「入って。カーテン閉めるね」

 男子は靴を脱ぐのもぎこちない。椅子に座るとき、背中が壁に当たるまで下がった。

 養護教諭が温かいお茶を紙コップで置いた。

「飲まなくていいよ。置いとくだけ」

 男子は手を出さない。視線だけがコップに落ちる。

 静が言う。

「一時間、ここでもいい」

 男子は小さく首を振った。

「……第三、行く」

 養護教諭が目を丸くして、静を見る。静は頷いた。

「じゃあ、第三へ。途中で無理なら戻る」

 男子が立ち上がる。足がふらつく。けれど、戻らない。

 第三進路室の前に来たとき、静はわざと鍵を探すふりをした。時間を作るために。

 男子が扉を見つめたまま言う。

「……ここ、落ちこぼれの部屋って」

 静は鍵を差し込みながら返す。

「そう呼ぶやつがいる」

「先生、怒んないの」

「呼び方で現実は変わらない。中身を変える」

 カチャ、と鍵が回る。

 静が扉を開けた。

 第三進路室は静かだった。机、椅子、コピー用紙の匂い。壁の掲示は少ない。余計なものが目に入らないようにしてある。

 陸がすでに来ていて、入口から一番遠い席で、教科書を開いたふりをしている。視線は上げない。息だけが緊張している。

 静が言う。

「相沢はただの置物。気にするな」

 陸が小声で抗議する。

「置物って……」

 静が目だけで黙らせる。

 男子は部屋の中に一歩入って、立ち止まった。足が床に張りついたみたいに動かない。

 静は入口近くに置いた椅子を指さした。昨日、ガタつきを直した椅子。

「そこ」

 男子は椅子を見て、静を見る。

「……座ったら、帰れなくなる?」

「帰れる。時間はお前が決める」

 男子は喉を鳴らし、椅子へ近づいた。座る直前、手で背もたれを触って確かめる。ぐらつかない。

 そして、腰を下ろした。

 椅子がきしんだ。

 その音に、男子の目が一瞬だけ閉じる。肩が上がって、下がる。息が出た。

 静は机に座らず、少し離れた位置に立った。圧をかけない距離。

「佐伯マナブ。今日はここまで来た。それだけで一個、増えた」

 男子は俯いたまま言う。

「……増えたって、何が」

「できたが一個」

「……そんなの、誰でも」

「誰でもじゃない。お前は昨日まで、門の内側に入ってない」

 男子の指が膝の上で絡まる。

「……今、耳が痛い」

「どの音が痛い」

「時計」

 静は時計を見た。針が進む音。確かに、この部屋の静けさだと強い。

 静は時計の下へ行き、電池カバーに指をかけて止めた。針が止まり、音が消える。

 陸が思わず言う。

「先生、それ……」

 静が短く返す。

「後で戻す」

 男子が少しだけ顔を上げた。

「……今、静か」

 静は頷く。

「お前は音に敏感だ。だから“聞ける”」

 男子はすぐ目を逸らす。

「……聞けるとか、いらない。俺、普通にできない」

 静は机の上のメモ帳を開いた。文字は大きく書く。見せるためではなく、話を地面に落とすために。

「普通って何だ」

 男子は答えない。代わりに、口の端が少しだけ動く。言いかけてやめる。

 静は待つ。急かさない。沈黙が伸びる。

 陸が耐えきれず、咳払いをしそうになって、飲み込んだ。

 男子がぽつりと言う。

「……登校」

 静は頷く。

「登校は、今週一回でいい。黒川との約束だ」

 男子が顔を上げた。名前が出たことで、警戒が一段上がる。

「……教頭?」

「教頭は数字しか見ない。だから一回だけ見せる」

「……見せ物?」

 静は首を振る。

「見せ物じゃない。通行証」

「通行証……」

 静は椅子の横にしゃがんで、視線の高さを合わせない位置に留める。真正面に立つと、逃げ道が塞がる。

「今日ここに座れた。次は保健室で一時間、記録を残す。それで外の道が一つ開く」

 男子は乾いた声で笑った。

「外の道って、仕事?」

「仕事も。支援も。学校の外に出る段取りも」

 男子の指がほどける。

「……俺、何すればいい」

 静は即答する。

「聞く仕事を試す」

 陸が思わず顔を上げた。

「え、今ここで?」

 静は陸に目で命じる。黙れ。

 静は男子に言う。

「今、私の質問に答えろ。短く」

 男子が頷く。

「お前が一番落ち着くのは、どんな声だ」

「……低い。怒ってない低い」

「怒ってない低い。具体的に」

 男子は少し考える。

「……息が荒くない。言葉が短い」

 静は頷く。

「じゃあ、逆。お前が一番しんどい声は」

「……早口。笑いながら怒るやつ」

 静のペンが止まる。紙に書く音が短く響く。

「分かった。お前は声の種類を分けられる。普通のやつは、分けられない」

 男子が小さく言う。

「……それ、役に立つ?」

「立つ。相談窓口、コールセンター、介護の見守り、接客のクレーム一次受け。向きはある」

 男子の目が揺れる。

「クレーム……無理」

「無理ならやらない。選ぶ」

 静は続ける。

「ただ、今すぐ就職じゃない。まず学校の中で試す。第三で」

 陸が口を挟む。

「え、第三で何すんすか」

 静が短く言う。

「相談の練習」

 陸が固まる。

「誰の」

 静は陸を見る。

「お前」

 陸が椅子から半分立ち上がった。

「え、俺!? いや、俺別に……」

 静は陸の言葉を切る。

「あるだろ。言いたいこと」

 陸は口を開けて、閉じた。昨日の教頭席の圧、職員室の視線、自分の出席。全部が喉の奥で詰まっている顔だった。

 静は陸に言う。

「佐伯は“答え”を出さない。聞くだけ。お前は話すだけ」

 陸が佐伯を見る。佐伯は視線を合わせない。でも、逃げない。椅子に座ったまま、背もたれに頼らず、前に重心を置いている。

 陸が小さく言う。

「……マジで、聞くだけ?」

 静が頷く。

「評価しない。説教しない。途中で止めてもいい」

 佐伯が、初めて自分から言った。

「……止めていいなら、できる」

 静は立ち上がる。

「じゃあ、私が最初にルール言う」

 静は指を二本立てる。

「一つ。陸は“どうすればいい”を求めない。今日は吐き出すだけ」
「二つ。佐伯は“分かったふり”をしない。分からなければ『もう一回』って言う」

 陸が苦笑いをした。

「……先生、俺、吐き出すとか苦手っす」

 静は即答する。

「苦手なら短く。三文でいい」

 陸は椅子に座り直し、佐伯の方へ体を向けた。佐伯は真正面を見ない。少し斜め、陸の肩のあたりを見る。

 静は一歩下がり、壁際に立った。見張り役ではなく、逃げ道を残す位置。

 陸が息を吸う。

「……最近、教頭が怖いっす」

 佐伯は頷かない。相槌もしない。ただ、陸の息のタイミングに合わせて、少しだけ呼吸を落とした。

 陸が続ける。

「俺、成績も出席も微妙で。第三にいると、余計に……見られる感じする」

 佐伯の視線が、陸の口元に落ちる。言葉の間に、わずかな空白が生まれる。

 陸が言い直す。

「見られるっていうか……切られる感じ」

 佐伯が小さく言った。

「……切られる、って思った瞬間は?」

 陸が目を瞬かせた。

「え」

「今の。声、変わった」

 陸は口を開けたまま止まって、それから笑いそうになって、笑えなかった。

「……分かんの?」

 佐伯は肩をすくめる。

「……分かる」

 陸の息が、少しだけ長く出た。

 静はその様子を見ながら、机の端に置いた申請書ファイルに視線を落とした。深谷の職場体験。教頭の条件。今週中の一回。

 佐伯がここに座った。これで「一回」に近づいた。けれど、まだ“記録”にはならない。次の一歩が要る。

 静のスマホが震えた。画面には、保健室の養護教諭からの短い通知。

『教頭が保健室の出入り、気にしてる。時間、厳守で』

 静は返信せず、ポケットにしまった。

 陸の声が、少しずつ途切れなくなる。佐伯は言葉を挟まない。必要なところだけ、短く問い返す。

「それ、いつから」
「誰の前で」
「今、胸、苦しい?」

 陸が「……なんで分かるんすか」と言ったとき、佐伯は視線を落としたまま答えた。

「息、浅い」

 陸が笑った。今度はちゃんと笑えた。短く、すぐ消える笑い。

 静は時計の止まった針を見た。時間は動いていないのに、時間だけが進んでいく。

 静は静かに言った。

「佐伯。あと十分で切る」

 佐伯が頷く。

 陸が慌てて言う。

「え、もう?」

 静は淡々と返す。

「約束。自分で終わりを決める練習だ」

 佐伯の指が椅子の座面を掴む。さっきより強い。

 陸が佐伯を見て言った。

「……今日、来てくれて、助かったっす」

 佐伯は一瞬だけ顔を上げ、すぐ下げた。

「……別に」

「別に、でもいい」

 静が言う。

「帰りの導線、確認する。裏門まで私が行く。陸は残れ」

 陸が「え」と言いかけて、黙って頷いた。

 佐伯が椅子から立つ。立ち上がる動作が、さっきより滑らかだ。けれど足先はまだ、出口の方向に向いている。

 静が言う。

「今日の成功は、ここに座ったこと。あと一個、言う」

 佐伯が止まる。

 静は続ける。

「『もう無理』を、今言え」

 佐伯の喉が動く。沈黙が一拍。

「……もう、無理」

 声は小さい。でも言い切った。

 静は頷く。

「よし。帰る」

 ドアを開けると、廊下の遠くから足音が近づいてきた。誰かが急いでいる音。職員室方向。

 静は佐伯の肩越しにその音を聞き分ける。硬い革靴。一定のテンポ。

 黒川ではない。けれど、黒川の周りの誰かだ。

 静は歩き出しながら、佐伯にだけ聞こえる声で言った。

「次は保健室。一時間。記録を残す。それが通行証になる」

 佐伯は頷いた。

「……次も、先生が裏門?」

「裏門」

 廊下の角を曲がる手前で、静は一度だけ振り返った。

 第三進路室の扉の前に、さっきまで佐伯が座っていた椅子が残っている。誰も触っていないのに、そこだけ温度が違う気がした。

 静は前を向いた。

 足音が、さらに近づく。次の一歩に、条件がぶら下がっている。今度は“時間厳守”だ。

 守れなければ、また道が減る。守れば、まだ増やせる。


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