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第14話:不登校の天才リスナー
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第三進路室の蛍光灯が、少しだけ唸っていた。
桐生静は机の端に、保護者面談の案内文の下書きを置いた。深谷チカの名前。職場体験申請の文言。校外活動、学校行事扱い、引率の有無――黒川教頭が突っ込みそうな穴を先回りで塞ぐための言葉が並ぶ。
ドアがノックもなく開いて、相沢陸が顔だけ出した。
「桐生せんせ。今日、チカ……来ないっすよね」
「来ない。来るなら連絡がある」
「教頭、廊下で言ってましたよ。『外部連携は数字が出るのか』って」
静は視線を上げないまま、赤ペンを置いた。
「出させる。出ないなら、出る形に変える」
陸は机の上の案内文を覗き込んで、口を尖らせた。
「この文章、めっちゃ硬いっすね」
「硬くしないと通らない」
「通らないとどうなるんすか」
静は紙を揃え、クリアファイルに入れた。
「チカの見学も体験も、学校の外出扱いにできない。つまり、欠席が増える」
陸は目をそらした。自分の出席日数のことを思い出した顔だった。
静のスマホが机の上で震えた。通知音は切ってある。画面だけが光る。
LINEの名前は「佐伯マナブ」。アイコンは真っ黒な丸。
静は指で開いた。
『先生、今って話せます?』
静は短く打った。
『今、第三。電話は無理なら文で』
すぐ返ってきた。
『文でいいです』
『学校来いって言うなら切ります』
静は一拍置いてから送った。
『来いは言わない。来ない前提で話す』
既読がつくのが早い。画面の向こうで、指が止まっていない。
『じゃあ聞く』
『俺、終わってます?』
陸が「え」と小さく声を漏らした。静が画面を見たまま、手で黙れの合図をする。
静は返信を急がない。机の上の案内文を一度見て、またスマホに戻す。
『終わってない。ただ、選べる道が減ってるだけ』
『それを増やす話する?』
既読。沈黙。三点リーダーが出たり消えたりした。
『増やせるんですか』
『学校行ってないのに』
静は椅子にもたれず、肘を机につけた。
『増やせる。ただし条件がある』
『1つ。今の状況を隠さない』
『2つ。できることを数字にする』
陸がたまらず口を挟む。
「数字っすか……」
静はスマホを見たまま、小さく頷いた。陸には聞こえる程度で。
「黒川の世界では、数字が通貨」
陸は眉をひそめた。
「教頭、いるんですか。ここにも」
静は答えない。画面の向こうに戻る。
佐伯から返ってきた。
『数字にするって何』
『俺、勉強できない』
静は即答しなかった。代わりに、質問を返す。
『勉強以外で、毎日やってることは?』
既読がついて、少し間が空く。
『音』
『ずっと聴いてる』
『人の声』
静は画面を見つめた。文字が短いのに、妙に輪郭がある。
『配信?』
『ラジオ?』
『なんでも』
佐伯の返信は途切れない。
『配信もラジオも』
『声が変だとすぐ分かる』
『嘘ついてるとか、無理してるとか』
『コメント欄の空気が崩れる前に分かる』
陸が机の端に手をついて、身を乗り出した。
「それ、すげぇ……」
静は陸を見ずに言う。
「声出すな」
陸は口を手で塞いだ。
静はスマホに打つ。
『それ、いつから?』
『小学校』
『家で親がケンカすると』
『声の感じでどっちが先に折れるか分かった』
『だから先に弟連れて部屋行った』
静の親指が止まった。机の上の硬い案内文が、急に紙の音を立てた気がした。
静は短く送る。
『弟いるんだな』
『いる』
『中1』
『俺が学校行ってないのも、家の空気が悪くなる』
『だから余計行けない』
『行けって言われるのも無理』
静は画面を見ながら、低く息を吐いた。
『行けは言わない』
『ただ、家にいるままでもできる選択肢はある』
『聞く?』
既読。返信が来るまでに、静は机の引き出しを開けて、メモ帳を出した。陸が興味津々で覗こうとする。
静は指で押し返す。
「覗くな」
陸は肩をすくめて、椅子に座り直した。
佐伯から来た。
『聞く』
静はメモ帳に「佐伯マナブ」と書き、次に「聴く」「空気」「声」と並べた。
『まず現実』
『高校の出席と単位は必要』
『でも、今すぐ戻れないなら、戻るための手順を作る』
『同時に、家でできる実績を作る』
佐伯はすぐ返す。
『実績って何』
静は言葉を選びながら打つ。
『例えば』
『配信者の切り抜き編集のチェック』
『音声のノイズ取り』
『台本の読み合わせ』
『コメント欄のモデレーション』
『「聴ける」やつは、裏方で食える』
陸が目を丸くした。
「そんな仕事あるんすか」
静は小声で返す。
「ある。薄給も多いけど、入口にはなる」
スマホに戻る。
佐伯の返信。
『でも俺、外出れない』
『人と会えない』
『面接とか無理』
静はメモ帳に「対面×」と書き、横に「在宅」「短時間」「段階」と書いた。
『いきなり面接はしない』
『まず、匿名でできる小さい仕事を探す』
『クラウドソーシングとか、音声の文字起こしとか』
『ただし未成年は条件がある。保護者同意が必要な場合もある』
既読がつく。
『親、無理』
『父は「学校行け」だけ』
『母は「甘え」って言う』
静は画面に「無理」の文字が並ぶのを見て、あえて言葉を短くした。
『親が無理なら、学校を使う』
『学校の活動として動かせば、手続きが通ることがある』
『そのために、俺がいる』
陸が「それ……」と呟きかけて、静の視線で黙った。
佐伯から。
『学校って、俺のこと切り捨てる側じゃないの』
静は少しだけ笑った。口元だけが動く。
『切る人もいる』
『残す人もいる』
『俺は残す側でいたい』
『でも条件がある』
『嘘はつくな』
『「できない」を増やすな』
既読。数秒後。
『できない増やすって何』
静は打つ。
『「行けない」だけならまだいい』
『そこに「会えない」「話せない」「何もできない」って重ねると、道が消える』
『会えないなら文でいい』
『外出れないなら家でできる』
『ゼロにしない』
佐伯の返信は短い。
『分かった』
静はすぐ続けた。
『今日、声で話せる?』
『電話じゃなくて、ボイスメッセージ』
『30秒でいい』
既読がつくのが遅かった。静は待つ間、案内文のファイルを閉じて、机の端に置いた。黒川の顔が浮かぶ。「数字」。その言葉だけが耳に残る。
陸が小声で言う。
「先生、今の子……来てない子っすよね」
「そう」
「なんでLINE知ってんすか」
「向こうが知ってた」
「こわ」
静は陸を見た。
「怖がるな。助けを出せる場所を探してるだけだ」
陸は唇を噛んで、頷いた。
スマホが震える。佐伯からボイスメッセージが届いた。
静は再生しない。まず文字が来る。
『声、嫌いです』
『でも送ります』
静はイヤホンを取り出し、片耳だけにつけた。
再生。
低い声。途切れがちで、息を吸う音がやけに近い。言葉は少ない。
『……佐伯です。』
『今……家。』
『先生が……変なこと言わないなら……』
『……少しだけ、話せる。』
静は再生を止めた。机のメモ帳に「声:低、息近、緊張」と書く。評価ではなく、観察として。
陸がじっと見ている。
「今の、何すか」
「声」
「……変?」
「変じゃない。情報が多い」
静はスマホに打つ。
『受け取った』
『次、質問する』
『今、家で一番しんどいのは「何が起きること」?』
既読。すぐ返る。
『怒鳴り声』
『俺が学校の話されると』
『父の声が変わる』
静は椅子から立ち上がって、窓のブラインドを少しだけ上げた。校庭の声が遠い。
『分かった』
『じゃあ次の一歩は、「学校の話を家でしない時間」を作る』
『その代わり、俺とだけ進路の話をする』
『保護者には、俺から連絡する。いきなり面談じゃない。紙から』
陸が目を見開いた。
「保護者に? 怒られません?」
「怒られる」
「じゃあ……」
「怒られたら、怒られた分だけ手順を整える」
静は机の案内文のファイルを指で叩いた。
「今やってるのと同じ」
佐伯から、間を置いて返信。
『先生、親に連絡したら終わる』
静は短く返した。
『勝手にはしない』
『先に「学校として必要な確認」って形を作る』
『お前の同意がいる』
『同意できる?』
既読がついたまま、しばらく返事がない。
静は机の引き出しから、学校の「欠席が続く生徒への連絡文書」テンプレを出して、上に白紙を重ねた。テンプレの文言は冷たい。「指導」「改善」「登校」。そのまま送れば、佐伯は切れる。
白紙に、静は別の言葉を書き始める。「相談窓口」「段階的な復帰」「校内支援」「本人の意向」。
陸がそっと聞く。
「先生、教頭にバレたら……」
「バレる」
「止められたら」
静はペンを止めずに言う。
「止められない形にする。学校の規程と、外の制度で囲む」
陸は喉を鳴らして頷いた。
スマホが震える。佐伯。
『同意する』
『でも条件』
静はすぐ返す。
『言え』
『家に電話しないで』
『紙だけ』
静は即答した。
『了解。電話はしない。まず文書』
『次、会えるタイミングを作る』
『学校じゃなくていい。駅前の公共施設でもいい』
『15分でいい』
既読。返信が来る。
『外は無理』
『でも、夜なら少しだけ玄関出れる』
静はメモ帳に「夜」「玄関」と書いた。
『夜に教師は動けない』
『代わりに、昼間にできることを増やす』
『明日、ボイスで「得意な音」を教えて』
『人の声、環境音、音楽、どれが一番分かる?』
既読。
『人の声』
『特に、間』
静は指を止めた。「間」とメモする。
陸がぽつりと言う。
「間……って、すごいっすね」
静はメモ帳を閉じた。
「才能は派手じゃない。だから拾われない」
静はスマホを置いて立ち上がる。ファイルを抱えた。
「陸。職員室行くぞ」
「え、今から?」
「今のうちに、連絡文書の出し方を確認する。担任の判子もいる」
陸が立ち上がり、慌てて鞄を掴む。
「教頭、いるっすよ」
「いるならちょうどいい」
静はドアノブに手をかけて、振り返った。
机の上のスマホ画面には、佐伯から最後の一文が残っている。
『先生、俺のこと、数字にできますか』
静は画面を見ずに言った。
「数字にするのは、守るためだ」
そしてドアを開けた。廊下の空気が、少しだけ冷たかった。職員室の方から、誰かの早足の靴音が近づいてくる。
職員室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
プリントの擦れる音、キーボードの連打、誰かの咳。そこに混じって、ひそひそ声が刺さる。
「……また第三が外行事だって」
「教頭の機嫌、最悪だぞ」
相沢陸は肩をすくめたまま、桐生静の半歩後ろにつく。
「先生、ここ苦手っす。胃が…」
「口閉じて、目だけ動かせ」
静はファイルを胸に抱え、一直線に学年主任の机へ向かった。途中、教頭席の方から視線が飛んでくる。静は見返さない。見返すと、絡みが増える。
学年主任の佐々木が顔を上げた。
「桐生。今、忙しい」
「三分ください。文書の出し方だけ確認したい」
「また外?」
「職場体験の申請。深谷の」
佐々木の眉が一瞬だけ上がる。
「深谷か……あの子、欠席どうなってる」
「ギリギリ。だから学校活動に乗せる必要がある」
佐々木はため息をつき、机の上の判子を指で転がした。
「教頭が嫌がるぞ」
「嫌がるのは分かってます」
静はファイルから一枚出し、佐々木の前に滑らせた。文言は硬い。必要事項は埋まっている。
佐々木が目を走らせる。
「……ちゃんと穴塞いでるな」
「塞がないと落ちます」
「で、担任は?」
静は視線を斜めにずらした。担任席の方で、深谷の担任が紙の山に埋もれている。顔を上げる気配がない。
静が近づく前に、背後から声が飛んだ。
「桐生先生」
若い英語教師が、書類を抱えたまま立っている。眉間が硬い。
「佐伯の件、また何かやってるんですか」
陸が「うわ」と小さく漏らす。
静は立ち止まった。
「“また”って言い方やめてください」
「だって、あの子、来ないじゃないですか。連絡も返ってこないし。保護者も……」
英語教師は言葉を切って、周囲を気にするように声を落とした。
「この時期に、不登校を甘やかすの、学校としてどうなんですか。教頭、数字見てますよ」
静は紙を一枚、指で叩いた。
「数字なら、今から作る」
「無理です。出席も単位も——」
「無理を前提に話すなら、あなたは担任を降りた方がいい」
英語教師の頬が引きつった。
「そんな言い方…!」
静は一歩詰める。声は上げない。
「担任の仕事は『来させる』だけじゃない。来れない生徒を、来れる形に分解することも含む」
英語教師は唇を噛んだ。言い返したいのに、言葉が出ない顔だった。
そこへ、佐々木が低く割って入る。
「桐生。今は職員室でやるな」
「すみません。必要な判子だけもらいます」
英語教師が静を睨んだまま言う。
「佐伯のこと、どうするんですか。結局、学校来ないまま卒業なんて——」
静はその視線を受け止めた。
「卒業させるために、今動いてる」
「動くって、LINEですか」
「LINEも手段」
英語教師は鼻で笑った。
「……気持ちよくなってません? 相談乗って、『自分だけが分かってる』って」
陸の肩が跳ねた。静の横顔を盗み見る。
静は、すぐに返さなかった。
英語教師の声の最後尾。息の乱れ。言葉の先にある焦り。そこを拾ってから、短く言う。
「あなた、怖いんですね」
英語教師が固まる。
「は?」
静は言い直さない。代わりに、机の端に視線を落とし、続ける。
「『来ない』が続くと、担任は責められる。教頭も学年も。あなたも」
英語教師の指が、抱えた書類を強く掴んだ。
「……責められるのは、私だけじゃない」
「だから今、あなたの不安を減らす話をする」
静はファイルを開き、別の紙を一枚出した。佐伯用の連絡文書の下書き。テンプレではない。
英語教師の目が、紙に落ちる。
「これ……何ですか」
「保護者宛て。電話しない。まず文書」
「内容は?」
「『登校を迫る』じゃない。『段階的な支援』の提案」
英語教師は眉を寄せる。
「そんなの、通るんですか」
「通す」
「教頭が——」
「教頭が見るのは、形式と責任の所在。そこは押さえる」
静は紙の一行を指でなぞった。
「担任名義で出す。第三進路室が支援窓口。返信先は第三。あなたは“窓口”から外す」
英語教師が顔を上げた。
「……私を外す?」
「潰れそうだから」
英語教師は口を開けて、閉じた。喉が上下する。
「私、潰れそうに見えます?」
静は答えを言葉にしない。代わりに、英語教師の手元を見た。書類の角が折れかけている。指先が白い。
静が言う。
「その書類、落としそうですよ」
英語教師ははっとして抱え直した。息を吐く音が、ほんの少し長くなる。
陸が小声で囁く。
「先生、今ので……落ち着いた」
静は陸を見ないまま返す。
「人は、言われてないことに怒る。言われたくないことに怯える。そこを避けるだけだ」
英語教師が、静の紙をもう一度見た。
「……でも、佐伯は何ができるんですか」
「“聞く”」
英語教師が首を傾げる。
「聞く?」
静は短く頷く。
「相手が落ち着く聞き方ができる。声の間で分かるタイプ」
「そんなの、仕事になるんですか」
静は即答しない。机の上にある学校用の求人冊子を指で叩く。
「なる。ただし、今すぐじゃない。段階が要る」
「段階?」
「在宅でできる小さな実績。学校の支援記録。出席の代替。全部、積み上げる」
英語教師が言う。
「そんな面倒なこと、他の子にも——」
静が遮る。
「他の子の話は今しない。佐伯の話だけする」
英語教師は目を逸らした。悔しそうに。
「……私、あの子に何言っても、刺さらないんです」
静はそこで、少しだけ声を柔らかくした。
「刺そうとするからです」
英語教師が睨み返す。
「じゃあ、どうすれば」
静は紙の余白に、短い文を二つ書いた。ペン先が迷わない。
「『今日は何が一番しんどい?』」
「『返事は明日でいい』」
そして紙を英語教師に差し出す。
「これだけ送ってください。説教なし。評価なし」
英語教師は受け取らない。指が躊躇している。
静は手を引かずに言う。
「あなたが送らないなら、第三から送る。でも担任が一度でも『待つ』を見せた方が、佐伯は動く」
英語教師の指が、ようやく紙を挟んだ。
「……返ってこなかったら」
「返ってこない前提で次を用意する」
英語教師の喉が鳴る。
「桐生先生、なんでそんなに……」
静は言葉を切った。職員室の奥、教頭席の方で椅子が鳴った気がした。視線がまた刺さる。
静は英語教師にだけ聞こえる声で言う。
「時間がない。年度末までに、学校は結果を欲しがる」
英語教師の顔が硬くなる。
「……教頭、言ってましたよね。内定だの進学だの」
「そう」
「不登校の子に、そんなの無理じゃ——」
静は首を振る。
「無理だと決めるのは、学校の仕事じゃない。無理の中で、残る道を探すのが仕事」
英語教師は何か言いかけて、飲み込んだ。代わりに、紙を折らずに胸に抱えた。
佐々木が判子を押し、申請書を静に返した。
「職場体験、ここまで。あとは教頭だぞ」
「分かってます」
静が受け取ると、佐々木が目だけで教頭席を示す。
「今、機嫌悪い。行くなら覚悟しろ」
陸がごくりと唾を飲む。
「先生、今行くんすか」
静はファイルを閉じた。
「今行かないと、明日には理由が増える」
英語教師が小さく言った。
「……佐伯に、送ってみます」
静は歩き出しながら、振り返らずに返す。
「返事が来たら、第三に転送してください。あなた一人で抱えるな」
陸が静の後ろを追いかける。
「先生。佐伯って、ほんとに“聞く”のが才能なんすか」
静は教頭席へ向かう通路で足を止めた。
「才能かどうかは、使い道で決まる」
「使い道……」
「人を落ち着かせられるのは、武器だ。間違えると、自分が削れる」
陸の目が揺れる。
「削れるって……」
静は一度だけ陸を見る。
「だから、学校が盾になる。今のうちは」
その先に、教頭席がある。背中だけでも圧が分かる距離。
静はファイルを持ち直した。
スマホが震える。佐伯からの通知ではない。深谷チカの担任から、短いメッセージ。
『職場体験申請、教頭に通すなら、理由を一行で。強いのを』
静は画面を閉じ、陸に言った。
「一行、作るぞ」
「え、何を」
「教頭に刺さる言葉」
静は歩きながら、メモ帳を開いた。ペン先が走る。
第三進路室のドアの前で、静は立ち止まった。中に戻るのではない。教頭席へ向かうために、息を整えるために。
「陸」
「はい」
「佐伯の“聞く力”を、言葉にする。学校用の言葉に」
陸が頷く。
「……数字にするんすね」
静はメモ帳に、短く書いた。
『相談対応/対人調整/傾聴/クレーム一次受け』
そして、教頭席の方へ顔を上げた。
「行く」
陸が小さく言う。
「怒鳴られたら、俺、死ぬっす」
静はドアノブに手をかけたまま、淡々と言った。
「死なない。怒鳴られたら、要点だけ拾う。あとは捨てる」
静が扉を開ける音が、職員室のざわめきを切った。
教頭席の周りだけ、空気が硬い。
黒川恒一は書類に目を落としたまま、指先で机を二度叩いた。呼び鈴みたいな音だった。
桐生静はファイルを差し出す。相沢陸はその後ろで背筋を伸ばしすぎて、首が固まっている。
黒川が顔を上げた。
「第三進路室。外部連携の申請か」
「職場体験です。深谷チカ」
黒川は受け取らない。視線だけが紙をなぞる。
「欠席が多い生徒だな」
「はい」
「欠席が多い生徒に、校外活動の許可を出す意味は?」
静は一行メモを思い出すように、間を置かず言った。
「出席の代替になり、就職の実績に繋がります」
黒川の口角が動いた。笑いではない。
「就職の実績?」
「見学で終わらせません。職場体験に落とします」
黒川は指で申請書の端を弾いた。
「君の“落とす”は、いつも言葉が先に立つ。数字が出たのか」
静は淡々と返す。
「出す途中です」
「途中は成果ではない。年度末までに内定三、進学二。言ったな」
背後で陸が息を飲む音がした。
黒川は静の目を見たまま続ける。
「君のやり方は、回り道だ。欠席者に外へ出る機会を与える前に、まず登校させろ」
静は頷かない。首も振らない。
「登校を目的にしません」
黒川の眉がわずかに上がる。
「何だと」
静は一歩も引かず、声の大きさも変えない。
「登校は手段です。目的は卒業後に生活が回ることです」
黒川の視線が鋭くなる。
「生活が回る? 君は学校の教員だ。学校の責務は在籍生徒を登校させ、学習させ、進路を決めることだ」
「進路を決めるために、今の手段を増やします」
黒川は机の上のペンを取って、カチ、と鳴らした。
「増やす? 欠席を正当化する道を増やすのか」
静は言葉を切らずに返す。
「正当化じゃない。現実対応です。出席が戻るまでの空白を埋める」
黒川が低い声で言う。
「空白は埋まらない。出席日数は数字で残る」
静は頷いた。
「だから、埋められるところから埋める。学校活動としての記録、支援記録、職場側の評価」
黒川は鼻で息を吐いた。
「評価? そんなもの、入試にも求人にも——」
「求人には効きます」
静が即答する。
黒川の目が細くなる。
「君が保証するのか」
「保証はしません。可能性を上げるだけです」
黒川は一拍、黙った。職員室のざわめきが、その沈黙に吸い込まれる。
黒川は申請書をようやく手に取り、ページをめくった。
「深谷の担任は何と言っている」
「担任も必要性は理解しています。判子もあります」
黒川は判子の印影を見て、ふっと息を吐く。
「では、なぜ君が持ってくる」
「第三の案件です。欠席が絡むので」
黒川が紙を机に置いた。
「欠席が絡む案件が多すぎる。君の部屋は“落ちこぼれ専門”だったな。今は“欠席者の避難所”か」
静は目を逸らさない。
「避難所で終わらせません。出口を作ります」
黒川が、静の背後の陸に視線を投げた。
「相沢。君はどう思う」
陸の喉が動く。返事が出てこない。静が口を挟まないのが、余計に怖い。
陸はようやく言った。
「……登校、できるならした方がいいっす」
黒川が頷く。
「正しい。君の方が現実を見ている」
陸の顔が強張る。静は陸を見ないまま言う。
「陸、続き」
陸は唇を噛んで、言い直した。
「でも……できない日もあるっす。できない日に、ゼロにしない方が……」
黒川の口元が僅かに歪む。
「感情論だな」
静が入る。
「感情じゃなくて、継続の設計です」
黒川は静に戻す。
「設計と言うなら、佐伯マナブをどうする。君、あの不登校の件に手を出しているそうだな」
陸が肩を跳ねさせた。
静は表情を崩さない。
「相談が来ています。対応しています」
黒川は机の上に、別の紙を置いた。出席簿のコピー。欠席の列が続く。
「出席がこの状態で、何の“対応”だ。登校させろ」
静はその紙を見ない。
「登校をゴールにしたら、彼は動きません」
黒川が声を強めた。
「動かせ。教師だろう」
静は低く返す。
「動かすんじゃなく、動ける形にする」
黒川が椅子にもたれ、腕を組む。
「言い換えだ。結果は同じだろう。学校に来なければ単位は出ない。卒業できない。卒業できなければ進路実績にもならない。君の“第三”は、学校に何を返す」
静はそこで、一拍置いた。職員室のどこかでコピー機が止まり、静かな「ピー」という音がした。
静は言う。
「返すのは“内定”です」
黒川の目が揺れる。揺れたのは一瞬で、すぐに固くなる。
「不登校に内定?」
「段階は必要です。まず在宅の実績。次に短時間の外出。次に面談。手順を作ります」
黒川が吐き捨てるように言う。
「甘い。世の中はそんなに優しくない」
静は頷く。
「優しくない。だから手順がいる」
黒川は机を指で叩く。さっきより強い。
「君の手順は遅い。期限がある。年度末だ。数字が要る」
静はファイルの中から、メモを一枚抜いた。さっき陸と作った一行が書いてある。
「佐伯は“傾聴”で対人調整ができます。相談対応、一次受け、クレーム初動。向き不向きがありますが、適性はあります」
黒川がその紙を受け取り、目を走らせる。
「……言葉は作れる。誰でもな」
静は即座に返す。
「誰でもじゃない。相手の声を聞いて、落ち着かせる。これは訓練しても差が出ます」
黒川は紙を机に戻した。
「落ち着かせる? 学校でやれ。教室で。登校して」
静は言い切る。
「教室は今、彼の戦場です。そこに放り込んでも折れるだけです」
黒川の声が低くなる。
「折れる? 折れたら終わりか」
静は首を振る。
「折れても終わりじゃない。でも、折らない方がいい。折らなければ道が増える」
黒川は静を見つめ、しばらく黙った。職員室の視線が集まっているのが分かる。誰も口を挟まない。
黒川が言った。
「桐生。君の方針は分かった。だが、学校の方針は変わらない。登校が基本だ」
「分かってます」
「なら、妥協案だ」
黒川は指を一本立てた。
「職場体験は許可する。ただし条件を付ける」
陸が目を見開く。
静は即答しない。条件の罠を待つ。
黒川が続ける。
「深谷は、体験前に最低三日、登校させろ。佐伯も同じだ。今週中に一度、学校に顔を出させる。できなければ、第三の外部連携は一旦停止。監査を入れる」
陸の顔色が変わった。
「監査……」
静の指先がファイルの角を押した。紙が少しだけ軋む。
静は黒川に言う。
「三日は無理です」
黒川が即座に返す。
「無理と言うなら、許可は出ない」
静は視線を落とし、申請書の項目を指でなぞった。ここで噛みつけば、全部止まる。深谷も佐伯も。
静は顔を上げる。
「三日じゃなく、一日。保健室登校でもいい。時間は一時間。そこで“学校活動”の記録を作る」
黒川が眉をひそめる。
「抜け道だな」
「道です。抜けるための」
黒川は静を見て、笑わないまま言う。
「一日で何が変わる」
静は短く返す。
「『できた』が一つ増えます」
黒川が言う。
「数字は?」
静は答えを用意していた。
「出席扱いは無理でも、支援記録が残る。職場体験は学校行事として処理できる可能性が上がる。欠席のリスクを減らせます」
黒川はしばらく黙り、ペンを持ち直した。
「……保健室登校、一時間。深谷は体験前にそれを一回。佐伯も今週中に一回。これが最低ラインだ」
静は頷いた。
「やります」
黒川がペン先で申請書に印を付ける。
「できなければ、止める。君の部屋ごと」
静は頭を下げない。受け取るだけだ。
「止められないように、結果を出します」
黒川は目を細めた。
「結果だ。情ではない」
静は背を向ける。
「情で動いてません」
職員室を離れる足音が、やけに大きく聞こえた。陸が追いすがる。
「先生……一日って……」
「一日でいいって言ったのは、こっちの首を絞めないためだ」
「でも佐伯、学校無理って……」
静は第三進路室の廊下で立ち止まり、スマホを取り出した。画面には佐伯とのトークが開いたままだ。
静は文字を打つ。短く、逃げ道を残して。
『今週中に一回だけ、学校の敷地に入る必要が出た』
『教室じゃない。保健室で一時間』
『できる方法、二つ考える。どっちがマシ?』
送信。
既読が付くまでの間、静は陸に言った。
「黒川は“登校”しか見ない。だから、登校を“形”にして通す」
陸が眉を寄せる。
「形……ズルっすか」
静は歩き出す。
「ズルじゃない。生き残り方」
スマホが震えた。既読。そのあと、すぐに返信。
『保健室なら』
『でも、誰にも会いたくない』
静は足を止め、画面を見つめた。
誰にも会いたくない。学校は誰かに会う場所だ。
静は打つ。
『会わない導線を作る』
『裏門→保健室直行。時間も人が少ない時間にする』
『その代わり、約束がある』
送信したところで、第三進路室のドアが見えた。中には、深谷チカ用の案内文が机の上で待っている。
静はドアノブに手をかけた。
返信が来る前に、陸が小さく言う。
「先生、約束って何すか」
静はドアを開けながら言った。
「“聞く力”を、誰かのためだけじゃなく、自分のためにも使うって約束だ」
スマホが震える。佐伯からの返事が、画面の端に覗いた。
静はまだ開かない。まず部屋に入る。次に、導線の図を描く。
現実は厳しい。だから道を増やす。増やした道に、条件がぶら下がっている。そこから先は、本人と一緒に結ぶしかない。
第三進路室の時計は、いつもより音が大きい気がした。
桐生静は机の上に、導線を書いた紙を広げている。裏門、渡り廊下、保健室、第三進路室。人の少ない時間帯に丸がついている。
相沢陸が、その紙を指でなぞった。
「これ、スパイ映画っすね」
「黙って覚えろ」
「覚えたところで、誰が案内するんすか」
静はペン先で裏門を叩いた。
「私が行く」
陸が目を丸くする。
「先生が裏門に立ってたら、目立つじゃないっすか」
「目立たない時間を選ぶ」
「それでも誰か見ますって」
静はファイルを閉じた。
「見られてもいい。会わせないのが目的だ」
ドアの外、廊下がやけに静かだ。授業中の時間帯。静はスマホを机に置き、画面を開いたままにしている。
佐伯マナブとのトーク。
『会わない導線を作る』
『その代わり、約束がある』
相手の返信がまだ来ていない。
陸が小さく言う。
「来るんすかね……」
「来るなら、来る」
静はそう言って、椅子を一脚、入口に近い位置へ動かした。普通のパイプ椅子。背もたれが少しぐらつく。
陸が笑いかけて、すぐ黙る。
「……その椅子、特別っすか」
「特別にする」
静は椅子の足を軽く押し、ガタつきを直す。床に擦れる音が短く響いた。
スマホが震えた。
『約束って何』
静はすぐ打つ。
『来たら、帰る時間もお前が決める』
『「もう無理」を言う練習をする』
『言えたら、今日は成功』
既読がついて、少し間が空く。
『分かった』
『明日、いけるかも』
『人少ない時間で』
静は陸に目線だけで合図した。
「明日。二限の途中。裏門」
陸が唾を飲む。
「二限の途中って、なんでそんな中途半端」
「人の流れが切れる」
「……先生、ほんとにそういうの詳しいっすね」
静は答えない。詳しい理由を言えば、余計なものまで混じる。必要なのは、実行だけだ。
翌日。
二限のチャイムが鳴って、廊下が一度だけざわめき、すぐ静まった。
静は職員室に寄らず、第三進路室の鍵だけをポケットに入れて外へ出た。裏門へ向かう渡り廊下は冷える。風が制服の袖を叩く。
裏門の横、植え込みの影。
静はそこに立った。腕時計を見る。予定の時刻まで、あと二分。
陸が少し離れたところで待っている。隠れているつもりでも、背が高くて目立つ。
静が小声で言う。
「陸、もっと離れろ」
「え、でも…」
「離れろ」
陸は渋々、曲がり角の向こうへ引っ込んだ。
静は門の外の歩道を見た。人は少ない。通学路から外れているせいだ。
一台、自転車がゆっくり近づいてきて、少し手前で止まった。
降りたのは男子。フードを深くかぶっている。顔は見えない。肩が上がりっぱなしで、息を止めているように見えた。
静は門を開けない。まず、声をかける。
「佐伯」
男子がぴくりと動く。
「……先生?」
声は小さい。風に負けそうな音だった。
静は頷く。
「そう。入れるか」
男子は門の隙間を見た。そこから見える校内の景色を、目で触るみたいにゆっくりなぞる。
「……人、いない?」
「今はいない」
「ほんと」
「嘘つかない」
男子の手が門の取っ手に伸びて、止まる。指先が白い。
静は言う。
「迷っていい。今日はここで帰ってもいい」
男子は息を吸って、吐いた。
「……それ、ずるい」
「ずるくない。選べるだけ」
「選べるって言われると……」
静は門を少しだけ開けた。音がしないように。金具がかすかに鳴る。
「入るなら、今」
男子は自転車を押して、門の内側へ一歩入った。靴底が砂利を踏む音がした。
静は門を閉める。カチ、と小さな音。
その音で男子の肩が跳ねた。
「……閉めた」
「外から見えにくいように」
「……」
静は歩き出す。
「ついて来い。しゃべらなくていい」
男子は半歩遅れてついてくる。自転車は押さない。門の内側に置いたまま、鍵もかけない。戻れるように。
渡り廊下に入る前、静が言う。
「今から会う大人は二人。私と、保健室の先生。嫌なら保健室は飛ばす」
男子は小さく首を振った。
「……保健室、いける」
「目を合わせなくていい」
「……」
廊下の角を曲がる。遠くで教室の声がする。男子が足を止めかける。
静は振り返らず言った。
「音、聞こえるな」
「……聞こえる」
「何の音が一番嫌だ」
男子は一瞬、考えるように黙ってから言った。
「笑い声」
静は少しだけ歩く速度を落とした。
「誰の」
「分かんない。全部」
「今のは?」
男子が耳を澄ます。
「……授業の、笑い。先生の」
静は頷く。
「それなら敵意じゃない」
男子の足が、ほんの少しだけ前に出た。
保健室の前。
静がノックする前に、扉が開いた。保健室の養護教諭が顔を出す。静と目が合うと、何も聞かずに頷いた。
「入って。カーテン閉めるね」
男子は靴を脱ぐのもぎこちない。椅子に座るとき、背中が壁に当たるまで下がった。
養護教諭が温かいお茶を紙コップで置いた。
「飲まなくていいよ。置いとくだけ」
男子は手を出さない。視線だけがコップに落ちる。
静が言う。
「一時間、ここでもいい」
男子は小さく首を振った。
「……第三、行く」
養護教諭が目を丸くして、静を見る。静は頷いた。
「じゃあ、第三へ。途中で無理なら戻る」
男子が立ち上がる。足がふらつく。けれど、戻らない。
第三進路室の前に来たとき、静はわざと鍵を探すふりをした。時間を作るために。
男子が扉を見つめたまま言う。
「……ここ、落ちこぼれの部屋って」
静は鍵を差し込みながら返す。
「そう呼ぶやつがいる」
「先生、怒んないの」
「呼び方で現実は変わらない。中身を変える」
カチャ、と鍵が回る。
静が扉を開けた。
第三進路室は静かだった。机、椅子、コピー用紙の匂い。壁の掲示は少ない。余計なものが目に入らないようにしてある。
陸がすでに来ていて、入口から一番遠い席で、教科書を開いたふりをしている。視線は上げない。息だけが緊張している。
静が言う。
「相沢はただの置物。気にするな」
陸が小声で抗議する。
「置物って……」
静が目だけで黙らせる。
男子は部屋の中に一歩入って、立ち止まった。足が床に張りついたみたいに動かない。
静は入口近くに置いた椅子を指さした。昨日、ガタつきを直した椅子。
「そこ」
男子は椅子を見て、静を見る。
「……座ったら、帰れなくなる?」
「帰れる。時間はお前が決める」
男子は喉を鳴らし、椅子へ近づいた。座る直前、手で背もたれを触って確かめる。ぐらつかない。
そして、腰を下ろした。
椅子がきしんだ。
その音に、男子の目が一瞬だけ閉じる。肩が上がって、下がる。息が出た。
静は机に座らず、少し離れた位置に立った。圧をかけない距離。
「佐伯マナブ。今日はここまで来た。それだけで一個、増えた」
男子は俯いたまま言う。
「……増えたって、何が」
「できたが一個」
「……そんなの、誰でも」
「誰でもじゃない。お前は昨日まで、門の内側に入ってない」
男子の指が膝の上で絡まる。
「……今、耳が痛い」
「どの音が痛い」
「時計」
静は時計を見た。針が進む音。確かに、この部屋の静けさだと強い。
静は時計の下へ行き、電池カバーに指をかけて止めた。針が止まり、音が消える。
陸が思わず言う。
「先生、それ……」
静が短く返す。
「後で戻す」
男子が少しだけ顔を上げた。
「……今、静か」
静は頷く。
「お前は音に敏感だ。だから“聞ける”」
男子はすぐ目を逸らす。
「……聞けるとか、いらない。俺、普通にできない」
静は机の上のメモ帳を開いた。文字は大きく書く。見せるためではなく、話を地面に落とすために。
「普通って何だ」
男子は答えない。代わりに、口の端が少しだけ動く。言いかけてやめる。
静は待つ。急かさない。沈黙が伸びる。
陸が耐えきれず、咳払いをしそうになって、飲み込んだ。
男子がぽつりと言う。
「……登校」
静は頷く。
「登校は、今週一回でいい。黒川との約束だ」
男子が顔を上げた。名前が出たことで、警戒が一段上がる。
「……教頭?」
「教頭は数字しか見ない。だから一回だけ見せる」
「……見せ物?」
静は首を振る。
「見せ物じゃない。通行証」
「通行証……」
静は椅子の横にしゃがんで、視線の高さを合わせない位置に留める。真正面に立つと、逃げ道が塞がる。
「今日ここに座れた。次は保健室で一時間、記録を残す。それで外の道が一つ開く」
男子は乾いた声で笑った。
「外の道って、仕事?」
「仕事も。支援も。学校の外に出る段取りも」
男子の指がほどける。
「……俺、何すればいい」
静は即答する。
「聞く仕事を試す」
陸が思わず顔を上げた。
「え、今ここで?」
静は陸に目で命じる。黙れ。
静は男子に言う。
「今、私の質問に答えろ。短く」
男子が頷く。
「お前が一番落ち着くのは、どんな声だ」
「……低い。怒ってない低い」
「怒ってない低い。具体的に」
男子は少し考える。
「……息が荒くない。言葉が短い」
静は頷く。
「じゃあ、逆。お前が一番しんどい声は」
「……早口。笑いながら怒るやつ」
静のペンが止まる。紙に書く音が短く響く。
「分かった。お前は声の種類を分けられる。普通のやつは、分けられない」
男子が小さく言う。
「……それ、役に立つ?」
「立つ。相談窓口、コールセンター、介護の見守り、接客のクレーム一次受け。向きはある」
男子の目が揺れる。
「クレーム……無理」
「無理ならやらない。選ぶ」
静は続ける。
「ただ、今すぐ就職じゃない。まず学校の中で試す。第三で」
陸が口を挟む。
「え、第三で何すんすか」
静が短く言う。
「相談の練習」
陸が固まる。
「誰の」
静は陸を見る。
「お前」
陸が椅子から半分立ち上がった。
「え、俺!? いや、俺別に……」
静は陸の言葉を切る。
「あるだろ。言いたいこと」
陸は口を開けて、閉じた。昨日の教頭席の圧、職員室の視線、自分の出席。全部が喉の奥で詰まっている顔だった。
静は陸に言う。
「佐伯は“答え”を出さない。聞くだけ。お前は話すだけ」
陸が佐伯を見る。佐伯は視線を合わせない。でも、逃げない。椅子に座ったまま、背もたれに頼らず、前に重心を置いている。
陸が小さく言う。
「……マジで、聞くだけ?」
静が頷く。
「評価しない。説教しない。途中で止めてもいい」
佐伯が、初めて自分から言った。
「……止めていいなら、できる」
静は立ち上がる。
「じゃあ、私が最初にルール言う」
静は指を二本立てる。
「一つ。陸は“どうすればいい”を求めない。今日は吐き出すだけ」
「二つ。佐伯は“分かったふり”をしない。分からなければ『もう一回』って言う」
陸が苦笑いをした。
「……先生、俺、吐き出すとか苦手っす」
静は即答する。
「苦手なら短く。三文でいい」
陸は椅子に座り直し、佐伯の方へ体を向けた。佐伯は真正面を見ない。少し斜め、陸の肩のあたりを見る。
静は一歩下がり、壁際に立った。見張り役ではなく、逃げ道を残す位置。
陸が息を吸う。
「……最近、教頭が怖いっす」
佐伯は頷かない。相槌もしない。ただ、陸の息のタイミングに合わせて、少しだけ呼吸を落とした。
陸が続ける。
「俺、成績も出席も微妙で。第三にいると、余計に……見られる感じする」
佐伯の視線が、陸の口元に落ちる。言葉の間に、わずかな空白が生まれる。
陸が言い直す。
「見られるっていうか……切られる感じ」
佐伯が小さく言った。
「……切られる、って思った瞬間は?」
陸が目を瞬かせた。
「え」
「今の。声、変わった」
陸は口を開けたまま止まって、それから笑いそうになって、笑えなかった。
「……分かんの?」
佐伯は肩をすくめる。
「……分かる」
陸の息が、少しだけ長く出た。
静はその様子を見ながら、机の端に置いた申請書ファイルに視線を落とした。深谷の職場体験。教頭の条件。今週中の一回。
佐伯がここに座った。これで「一回」に近づいた。けれど、まだ“記録”にはならない。次の一歩が要る。
静のスマホが震えた。画面には、保健室の養護教諭からの短い通知。
『教頭が保健室の出入り、気にしてる。時間、厳守で』
静は返信せず、ポケットにしまった。
陸の声が、少しずつ途切れなくなる。佐伯は言葉を挟まない。必要なところだけ、短く問い返す。
「それ、いつから」
「誰の前で」
「今、胸、苦しい?」
陸が「……なんで分かるんすか」と言ったとき、佐伯は視線を落としたまま答えた。
「息、浅い」
陸が笑った。今度はちゃんと笑えた。短く、すぐ消える笑い。
静は時計の止まった針を見た。時間は動いていないのに、時間だけが進んでいく。
静は静かに言った。
「佐伯。あと十分で切る」
佐伯が頷く。
陸が慌てて言う。
「え、もう?」
静は淡々と返す。
「約束。自分で終わりを決める練習だ」
佐伯の指が椅子の座面を掴む。さっきより強い。
陸が佐伯を見て言った。
「……今日、来てくれて、助かったっす」
佐伯は一瞬だけ顔を上げ、すぐ下げた。
「……別に」
「別に、でもいい」
静が言う。
「帰りの導線、確認する。裏門まで私が行く。陸は残れ」
陸が「え」と言いかけて、黙って頷いた。
佐伯が椅子から立つ。立ち上がる動作が、さっきより滑らかだ。けれど足先はまだ、出口の方向に向いている。
静が言う。
「今日の成功は、ここに座ったこと。あと一個、言う」
佐伯が止まる。
静は続ける。
「『もう無理』を、今言え」
佐伯の喉が動く。沈黙が一拍。
「……もう、無理」
声は小さい。でも言い切った。
静は頷く。
「よし。帰る」
ドアを開けると、廊下の遠くから足音が近づいてきた。誰かが急いでいる音。職員室方向。
静は佐伯の肩越しにその音を聞き分ける。硬い革靴。一定のテンポ。
黒川ではない。けれど、黒川の周りの誰かだ。
静は歩き出しながら、佐伯にだけ聞こえる声で言った。
「次は保健室。一時間。記録を残す。それが通行証になる」
佐伯は頷いた。
「……次も、先生が裏門?」
「裏門」
廊下の角を曲がる手前で、静は一度だけ振り返った。
第三進路室の扉の前に、さっきまで佐伯が座っていた椅子が残っている。誰も触っていないのに、そこだけ温度が違う気がした。
静は前を向いた。
足音が、さらに近づく。次の一歩に、条件がぶら下がっている。今度は“時間厳守”だ。
守れなければ、また道が減る。守れば、まだ増やせる。
桐生静は机の端に、保護者面談の案内文の下書きを置いた。深谷チカの名前。職場体験申請の文言。校外活動、学校行事扱い、引率の有無――黒川教頭が突っ込みそうな穴を先回りで塞ぐための言葉が並ぶ。
ドアがノックもなく開いて、相沢陸が顔だけ出した。
「桐生せんせ。今日、チカ……来ないっすよね」
「来ない。来るなら連絡がある」
「教頭、廊下で言ってましたよ。『外部連携は数字が出るのか』って」
静は視線を上げないまま、赤ペンを置いた。
「出させる。出ないなら、出る形に変える」
陸は机の上の案内文を覗き込んで、口を尖らせた。
「この文章、めっちゃ硬いっすね」
「硬くしないと通らない」
「通らないとどうなるんすか」
静は紙を揃え、クリアファイルに入れた。
「チカの見学も体験も、学校の外出扱いにできない。つまり、欠席が増える」
陸は目をそらした。自分の出席日数のことを思い出した顔だった。
静のスマホが机の上で震えた。通知音は切ってある。画面だけが光る。
LINEの名前は「佐伯マナブ」。アイコンは真っ黒な丸。
静は指で開いた。
『先生、今って話せます?』
静は短く打った。
『今、第三。電話は無理なら文で』
すぐ返ってきた。
『文でいいです』
『学校来いって言うなら切ります』
静は一拍置いてから送った。
『来いは言わない。来ない前提で話す』
既読がつくのが早い。画面の向こうで、指が止まっていない。
『じゃあ聞く』
『俺、終わってます?』
陸が「え」と小さく声を漏らした。静が画面を見たまま、手で黙れの合図をする。
静は返信を急がない。机の上の案内文を一度見て、またスマホに戻す。
『終わってない。ただ、選べる道が減ってるだけ』
『それを増やす話する?』
既読。沈黙。三点リーダーが出たり消えたりした。
『増やせるんですか』
『学校行ってないのに』
静は椅子にもたれず、肘を机につけた。
『増やせる。ただし条件がある』
『1つ。今の状況を隠さない』
『2つ。できることを数字にする』
陸がたまらず口を挟む。
「数字っすか……」
静はスマホを見たまま、小さく頷いた。陸には聞こえる程度で。
「黒川の世界では、数字が通貨」
陸は眉をひそめた。
「教頭、いるんですか。ここにも」
静は答えない。画面の向こうに戻る。
佐伯から返ってきた。
『数字にするって何』
『俺、勉強できない』
静は即答しなかった。代わりに、質問を返す。
『勉強以外で、毎日やってることは?』
既読がついて、少し間が空く。
『音』
『ずっと聴いてる』
『人の声』
静は画面を見つめた。文字が短いのに、妙に輪郭がある。
『配信?』
『ラジオ?』
『なんでも』
佐伯の返信は途切れない。
『配信もラジオも』
『声が変だとすぐ分かる』
『嘘ついてるとか、無理してるとか』
『コメント欄の空気が崩れる前に分かる』
陸が机の端に手をついて、身を乗り出した。
「それ、すげぇ……」
静は陸を見ずに言う。
「声出すな」
陸は口を手で塞いだ。
静はスマホに打つ。
『それ、いつから?』
『小学校』
『家で親がケンカすると』
『声の感じでどっちが先に折れるか分かった』
『だから先に弟連れて部屋行った』
静の親指が止まった。机の上の硬い案内文が、急に紙の音を立てた気がした。
静は短く送る。
『弟いるんだな』
『いる』
『中1』
『俺が学校行ってないのも、家の空気が悪くなる』
『だから余計行けない』
『行けって言われるのも無理』
静は画面を見ながら、低く息を吐いた。
『行けは言わない』
『ただ、家にいるままでもできる選択肢はある』
『聞く?』
既読。返信が来るまでに、静は机の引き出しを開けて、メモ帳を出した。陸が興味津々で覗こうとする。
静は指で押し返す。
「覗くな」
陸は肩をすくめて、椅子に座り直した。
佐伯から来た。
『聞く』
静はメモ帳に「佐伯マナブ」と書き、次に「聴く」「空気」「声」と並べた。
『まず現実』
『高校の出席と単位は必要』
『でも、今すぐ戻れないなら、戻るための手順を作る』
『同時に、家でできる実績を作る』
佐伯はすぐ返す。
『実績って何』
静は言葉を選びながら打つ。
『例えば』
『配信者の切り抜き編集のチェック』
『音声のノイズ取り』
『台本の読み合わせ』
『コメント欄のモデレーション』
『「聴ける」やつは、裏方で食える』
陸が目を丸くした。
「そんな仕事あるんすか」
静は小声で返す。
「ある。薄給も多いけど、入口にはなる」
スマホに戻る。
佐伯の返信。
『でも俺、外出れない』
『人と会えない』
『面接とか無理』
静はメモ帳に「対面×」と書き、横に「在宅」「短時間」「段階」と書いた。
『いきなり面接はしない』
『まず、匿名でできる小さい仕事を探す』
『クラウドソーシングとか、音声の文字起こしとか』
『ただし未成年は条件がある。保護者同意が必要な場合もある』
既読がつく。
『親、無理』
『父は「学校行け」だけ』
『母は「甘え」って言う』
静は画面に「無理」の文字が並ぶのを見て、あえて言葉を短くした。
『親が無理なら、学校を使う』
『学校の活動として動かせば、手続きが通ることがある』
『そのために、俺がいる』
陸が「それ……」と呟きかけて、静の視線で黙った。
佐伯から。
『学校って、俺のこと切り捨てる側じゃないの』
静は少しだけ笑った。口元だけが動く。
『切る人もいる』
『残す人もいる』
『俺は残す側でいたい』
『でも条件がある』
『嘘はつくな』
『「できない」を増やすな』
既読。数秒後。
『できない増やすって何』
静は打つ。
『「行けない」だけならまだいい』
『そこに「会えない」「話せない」「何もできない」って重ねると、道が消える』
『会えないなら文でいい』
『外出れないなら家でできる』
『ゼロにしない』
佐伯の返信は短い。
『分かった』
静はすぐ続けた。
『今日、声で話せる?』
『電話じゃなくて、ボイスメッセージ』
『30秒でいい』
既読がつくのが遅かった。静は待つ間、案内文のファイルを閉じて、机の端に置いた。黒川の顔が浮かぶ。「数字」。その言葉だけが耳に残る。
陸が小声で言う。
「先生、今の子……来てない子っすよね」
「そう」
「なんでLINE知ってんすか」
「向こうが知ってた」
「こわ」
静は陸を見た。
「怖がるな。助けを出せる場所を探してるだけだ」
陸は唇を噛んで、頷いた。
スマホが震える。佐伯からボイスメッセージが届いた。
静は再生しない。まず文字が来る。
『声、嫌いです』
『でも送ります』
静はイヤホンを取り出し、片耳だけにつけた。
再生。
低い声。途切れがちで、息を吸う音がやけに近い。言葉は少ない。
『……佐伯です。』
『今……家。』
『先生が……変なこと言わないなら……』
『……少しだけ、話せる。』
静は再生を止めた。机のメモ帳に「声:低、息近、緊張」と書く。評価ではなく、観察として。
陸がじっと見ている。
「今の、何すか」
「声」
「……変?」
「変じゃない。情報が多い」
静はスマホに打つ。
『受け取った』
『次、質問する』
『今、家で一番しんどいのは「何が起きること」?』
既読。すぐ返る。
『怒鳴り声』
『俺が学校の話されると』
『父の声が変わる』
静は椅子から立ち上がって、窓のブラインドを少しだけ上げた。校庭の声が遠い。
『分かった』
『じゃあ次の一歩は、「学校の話を家でしない時間」を作る』
『その代わり、俺とだけ進路の話をする』
『保護者には、俺から連絡する。いきなり面談じゃない。紙から』
陸が目を見開いた。
「保護者に? 怒られません?」
「怒られる」
「じゃあ……」
「怒られたら、怒られた分だけ手順を整える」
静は机の案内文のファイルを指で叩いた。
「今やってるのと同じ」
佐伯から、間を置いて返信。
『先生、親に連絡したら終わる』
静は短く返した。
『勝手にはしない』
『先に「学校として必要な確認」って形を作る』
『お前の同意がいる』
『同意できる?』
既読がついたまま、しばらく返事がない。
静は机の引き出しから、学校の「欠席が続く生徒への連絡文書」テンプレを出して、上に白紙を重ねた。テンプレの文言は冷たい。「指導」「改善」「登校」。そのまま送れば、佐伯は切れる。
白紙に、静は別の言葉を書き始める。「相談窓口」「段階的な復帰」「校内支援」「本人の意向」。
陸がそっと聞く。
「先生、教頭にバレたら……」
「バレる」
「止められたら」
静はペンを止めずに言う。
「止められない形にする。学校の規程と、外の制度で囲む」
陸は喉を鳴らして頷いた。
スマホが震える。佐伯。
『同意する』
『でも条件』
静はすぐ返す。
『言え』
『家に電話しないで』
『紙だけ』
静は即答した。
『了解。電話はしない。まず文書』
『次、会えるタイミングを作る』
『学校じゃなくていい。駅前の公共施設でもいい』
『15分でいい』
既読。返信が来る。
『外は無理』
『でも、夜なら少しだけ玄関出れる』
静はメモ帳に「夜」「玄関」と書いた。
『夜に教師は動けない』
『代わりに、昼間にできることを増やす』
『明日、ボイスで「得意な音」を教えて』
『人の声、環境音、音楽、どれが一番分かる?』
既読。
『人の声』
『特に、間』
静は指を止めた。「間」とメモする。
陸がぽつりと言う。
「間……って、すごいっすね」
静はメモ帳を閉じた。
「才能は派手じゃない。だから拾われない」
静はスマホを置いて立ち上がる。ファイルを抱えた。
「陸。職員室行くぞ」
「え、今から?」
「今のうちに、連絡文書の出し方を確認する。担任の判子もいる」
陸が立ち上がり、慌てて鞄を掴む。
「教頭、いるっすよ」
「いるならちょうどいい」
静はドアノブに手をかけて、振り返った。
机の上のスマホ画面には、佐伯から最後の一文が残っている。
『先生、俺のこと、数字にできますか』
静は画面を見ずに言った。
「数字にするのは、守るためだ」
そしてドアを開けた。廊下の空気が、少しだけ冷たかった。職員室の方から、誰かの早足の靴音が近づいてくる。
職員室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
プリントの擦れる音、キーボードの連打、誰かの咳。そこに混じって、ひそひそ声が刺さる。
「……また第三が外行事だって」
「教頭の機嫌、最悪だぞ」
相沢陸は肩をすくめたまま、桐生静の半歩後ろにつく。
「先生、ここ苦手っす。胃が…」
「口閉じて、目だけ動かせ」
静はファイルを胸に抱え、一直線に学年主任の机へ向かった。途中、教頭席の方から視線が飛んでくる。静は見返さない。見返すと、絡みが増える。
学年主任の佐々木が顔を上げた。
「桐生。今、忙しい」
「三分ください。文書の出し方だけ確認したい」
「また外?」
「職場体験の申請。深谷の」
佐々木の眉が一瞬だけ上がる。
「深谷か……あの子、欠席どうなってる」
「ギリギリ。だから学校活動に乗せる必要がある」
佐々木はため息をつき、机の上の判子を指で転がした。
「教頭が嫌がるぞ」
「嫌がるのは分かってます」
静はファイルから一枚出し、佐々木の前に滑らせた。文言は硬い。必要事項は埋まっている。
佐々木が目を走らせる。
「……ちゃんと穴塞いでるな」
「塞がないと落ちます」
「で、担任は?」
静は視線を斜めにずらした。担任席の方で、深谷の担任が紙の山に埋もれている。顔を上げる気配がない。
静が近づく前に、背後から声が飛んだ。
「桐生先生」
若い英語教師が、書類を抱えたまま立っている。眉間が硬い。
「佐伯の件、また何かやってるんですか」
陸が「うわ」と小さく漏らす。
静は立ち止まった。
「“また”って言い方やめてください」
「だって、あの子、来ないじゃないですか。連絡も返ってこないし。保護者も……」
英語教師は言葉を切って、周囲を気にするように声を落とした。
「この時期に、不登校を甘やかすの、学校としてどうなんですか。教頭、数字見てますよ」
静は紙を一枚、指で叩いた。
「数字なら、今から作る」
「無理です。出席も単位も——」
「無理を前提に話すなら、あなたは担任を降りた方がいい」
英語教師の頬が引きつった。
「そんな言い方…!」
静は一歩詰める。声は上げない。
「担任の仕事は『来させる』だけじゃない。来れない生徒を、来れる形に分解することも含む」
英語教師は唇を噛んだ。言い返したいのに、言葉が出ない顔だった。
そこへ、佐々木が低く割って入る。
「桐生。今は職員室でやるな」
「すみません。必要な判子だけもらいます」
英語教師が静を睨んだまま言う。
「佐伯のこと、どうするんですか。結局、学校来ないまま卒業なんて——」
静はその視線を受け止めた。
「卒業させるために、今動いてる」
「動くって、LINEですか」
「LINEも手段」
英語教師は鼻で笑った。
「……気持ちよくなってません? 相談乗って、『自分だけが分かってる』って」
陸の肩が跳ねた。静の横顔を盗み見る。
静は、すぐに返さなかった。
英語教師の声の最後尾。息の乱れ。言葉の先にある焦り。そこを拾ってから、短く言う。
「あなた、怖いんですね」
英語教師が固まる。
「は?」
静は言い直さない。代わりに、机の端に視線を落とし、続ける。
「『来ない』が続くと、担任は責められる。教頭も学年も。あなたも」
英語教師の指が、抱えた書類を強く掴んだ。
「……責められるのは、私だけじゃない」
「だから今、あなたの不安を減らす話をする」
静はファイルを開き、別の紙を一枚出した。佐伯用の連絡文書の下書き。テンプレではない。
英語教師の目が、紙に落ちる。
「これ……何ですか」
「保護者宛て。電話しない。まず文書」
「内容は?」
「『登校を迫る』じゃない。『段階的な支援』の提案」
英語教師は眉を寄せる。
「そんなの、通るんですか」
「通す」
「教頭が——」
「教頭が見るのは、形式と責任の所在。そこは押さえる」
静は紙の一行を指でなぞった。
「担任名義で出す。第三進路室が支援窓口。返信先は第三。あなたは“窓口”から外す」
英語教師が顔を上げた。
「……私を外す?」
「潰れそうだから」
英語教師は口を開けて、閉じた。喉が上下する。
「私、潰れそうに見えます?」
静は答えを言葉にしない。代わりに、英語教師の手元を見た。書類の角が折れかけている。指先が白い。
静が言う。
「その書類、落としそうですよ」
英語教師ははっとして抱え直した。息を吐く音が、ほんの少し長くなる。
陸が小声で囁く。
「先生、今ので……落ち着いた」
静は陸を見ないまま返す。
「人は、言われてないことに怒る。言われたくないことに怯える。そこを避けるだけだ」
英語教師が、静の紙をもう一度見た。
「……でも、佐伯は何ができるんですか」
「“聞く”」
英語教師が首を傾げる。
「聞く?」
静は短く頷く。
「相手が落ち着く聞き方ができる。声の間で分かるタイプ」
「そんなの、仕事になるんですか」
静は即答しない。机の上にある学校用の求人冊子を指で叩く。
「なる。ただし、今すぐじゃない。段階が要る」
「段階?」
「在宅でできる小さな実績。学校の支援記録。出席の代替。全部、積み上げる」
英語教師が言う。
「そんな面倒なこと、他の子にも——」
静が遮る。
「他の子の話は今しない。佐伯の話だけする」
英語教師は目を逸らした。悔しそうに。
「……私、あの子に何言っても、刺さらないんです」
静はそこで、少しだけ声を柔らかくした。
「刺そうとするからです」
英語教師が睨み返す。
「じゃあ、どうすれば」
静は紙の余白に、短い文を二つ書いた。ペン先が迷わない。
「『今日は何が一番しんどい?』」
「『返事は明日でいい』」
そして紙を英語教師に差し出す。
「これだけ送ってください。説教なし。評価なし」
英語教師は受け取らない。指が躊躇している。
静は手を引かずに言う。
「あなたが送らないなら、第三から送る。でも担任が一度でも『待つ』を見せた方が、佐伯は動く」
英語教師の指が、ようやく紙を挟んだ。
「……返ってこなかったら」
「返ってこない前提で次を用意する」
英語教師の喉が鳴る。
「桐生先生、なんでそんなに……」
静は言葉を切った。職員室の奥、教頭席の方で椅子が鳴った気がした。視線がまた刺さる。
静は英語教師にだけ聞こえる声で言う。
「時間がない。年度末までに、学校は結果を欲しがる」
英語教師の顔が硬くなる。
「……教頭、言ってましたよね。内定だの進学だの」
「そう」
「不登校の子に、そんなの無理じゃ——」
静は首を振る。
「無理だと決めるのは、学校の仕事じゃない。無理の中で、残る道を探すのが仕事」
英語教師は何か言いかけて、飲み込んだ。代わりに、紙を折らずに胸に抱えた。
佐々木が判子を押し、申請書を静に返した。
「職場体験、ここまで。あとは教頭だぞ」
「分かってます」
静が受け取ると、佐々木が目だけで教頭席を示す。
「今、機嫌悪い。行くなら覚悟しろ」
陸がごくりと唾を飲む。
「先生、今行くんすか」
静はファイルを閉じた。
「今行かないと、明日には理由が増える」
英語教師が小さく言った。
「……佐伯に、送ってみます」
静は歩き出しながら、振り返らずに返す。
「返事が来たら、第三に転送してください。あなた一人で抱えるな」
陸が静の後ろを追いかける。
「先生。佐伯って、ほんとに“聞く”のが才能なんすか」
静は教頭席へ向かう通路で足を止めた。
「才能かどうかは、使い道で決まる」
「使い道……」
「人を落ち着かせられるのは、武器だ。間違えると、自分が削れる」
陸の目が揺れる。
「削れるって……」
静は一度だけ陸を見る。
「だから、学校が盾になる。今のうちは」
その先に、教頭席がある。背中だけでも圧が分かる距離。
静はファイルを持ち直した。
スマホが震える。佐伯からの通知ではない。深谷チカの担任から、短いメッセージ。
『職場体験申請、教頭に通すなら、理由を一行で。強いのを』
静は画面を閉じ、陸に言った。
「一行、作るぞ」
「え、何を」
「教頭に刺さる言葉」
静は歩きながら、メモ帳を開いた。ペン先が走る。
第三進路室のドアの前で、静は立ち止まった。中に戻るのではない。教頭席へ向かうために、息を整えるために。
「陸」
「はい」
「佐伯の“聞く力”を、言葉にする。学校用の言葉に」
陸が頷く。
「……数字にするんすね」
静はメモ帳に、短く書いた。
『相談対応/対人調整/傾聴/クレーム一次受け』
そして、教頭席の方へ顔を上げた。
「行く」
陸が小さく言う。
「怒鳴られたら、俺、死ぬっす」
静はドアノブに手をかけたまま、淡々と言った。
「死なない。怒鳴られたら、要点だけ拾う。あとは捨てる」
静が扉を開ける音が、職員室のざわめきを切った。
教頭席の周りだけ、空気が硬い。
黒川恒一は書類に目を落としたまま、指先で机を二度叩いた。呼び鈴みたいな音だった。
桐生静はファイルを差し出す。相沢陸はその後ろで背筋を伸ばしすぎて、首が固まっている。
黒川が顔を上げた。
「第三進路室。外部連携の申請か」
「職場体験です。深谷チカ」
黒川は受け取らない。視線だけが紙をなぞる。
「欠席が多い生徒だな」
「はい」
「欠席が多い生徒に、校外活動の許可を出す意味は?」
静は一行メモを思い出すように、間を置かず言った。
「出席の代替になり、就職の実績に繋がります」
黒川の口角が動いた。笑いではない。
「就職の実績?」
「見学で終わらせません。職場体験に落とします」
黒川は指で申請書の端を弾いた。
「君の“落とす”は、いつも言葉が先に立つ。数字が出たのか」
静は淡々と返す。
「出す途中です」
「途中は成果ではない。年度末までに内定三、進学二。言ったな」
背後で陸が息を飲む音がした。
黒川は静の目を見たまま続ける。
「君のやり方は、回り道だ。欠席者に外へ出る機会を与える前に、まず登校させろ」
静は頷かない。首も振らない。
「登校を目的にしません」
黒川の眉がわずかに上がる。
「何だと」
静は一歩も引かず、声の大きさも変えない。
「登校は手段です。目的は卒業後に生活が回ることです」
黒川の視線が鋭くなる。
「生活が回る? 君は学校の教員だ。学校の責務は在籍生徒を登校させ、学習させ、進路を決めることだ」
「進路を決めるために、今の手段を増やします」
黒川は机の上のペンを取って、カチ、と鳴らした。
「増やす? 欠席を正当化する道を増やすのか」
静は言葉を切らずに返す。
「正当化じゃない。現実対応です。出席が戻るまでの空白を埋める」
黒川が低い声で言う。
「空白は埋まらない。出席日数は数字で残る」
静は頷いた。
「だから、埋められるところから埋める。学校活動としての記録、支援記録、職場側の評価」
黒川は鼻で息を吐いた。
「評価? そんなもの、入試にも求人にも——」
「求人には効きます」
静が即答する。
黒川の目が細くなる。
「君が保証するのか」
「保証はしません。可能性を上げるだけです」
黒川は一拍、黙った。職員室のざわめきが、その沈黙に吸い込まれる。
黒川は申請書をようやく手に取り、ページをめくった。
「深谷の担任は何と言っている」
「担任も必要性は理解しています。判子もあります」
黒川は判子の印影を見て、ふっと息を吐く。
「では、なぜ君が持ってくる」
「第三の案件です。欠席が絡むので」
黒川が紙を机に置いた。
「欠席が絡む案件が多すぎる。君の部屋は“落ちこぼれ専門”だったな。今は“欠席者の避難所”か」
静は目を逸らさない。
「避難所で終わらせません。出口を作ります」
黒川が、静の背後の陸に視線を投げた。
「相沢。君はどう思う」
陸の喉が動く。返事が出てこない。静が口を挟まないのが、余計に怖い。
陸はようやく言った。
「……登校、できるならした方がいいっす」
黒川が頷く。
「正しい。君の方が現実を見ている」
陸の顔が強張る。静は陸を見ないまま言う。
「陸、続き」
陸は唇を噛んで、言い直した。
「でも……できない日もあるっす。できない日に、ゼロにしない方が……」
黒川の口元が僅かに歪む。
「感情論だな」
静が入る。
「感情じゃなくて、継続の設計です」
黒川は静に戻す。
「設計と言うなら、佐伯マナブをどうする。君、あの不登校の件に手を出しているそうだな」
陸が肩を跳ねさせた。
静は表情を崩さない。
「相談が来ています。対応しています」
黒川は机の上に、別の紙を置いた。出席簿のコピー。欠席の列が続く。
「出席がこの状態で、何の“対応”だ。登校させろ」
静はその紙を見ない。
「登校をゴールにしたら、彼は動きません」
黒川が声を強めた。
「動かせ。教師だろう」
静は低く返す。
「動かすんじゃなく、動ける形にする」
黒川が椅子にもたれ、腕を組む。
「言い換えだ。結果は同じだろう。学校に来なければ単位は出ない。卒業できない。卒業できなければ進路実績にもならない。君の“第三”は、学校に何を返す」
静はそこで、一拍置いた。職員室のどこかでコピー機が止まり、静かな「ピー」という音がした。
静は言う。
「返すのは“内定”です」
黒川の目が揺れる。揺れたのは一瞬で、すぐに固くなる。
「不登校に内定?」
「段階は必要です。まず在宅の実績。次に短時間の外出。次に面談。手順を作ります」
黒川が吐き捨てるように言う。
「甘い。世の中はそんなに優しくない」
静は頷く。
「優しくない。だから手順がいる」
黒川は机を指で叩く。さっきより強い。
「君の手順は遅い。期限がある。年度末だ。数字が要る」
静はファイルの中から、メモを一枚抜いた。さっき陸と作った一行が書いてある。
「佐伯は“傾聴”で対人調整ができます。相談対応、一次受け、クレーム初動。向き不向きがありますが、適性はあります」
黒川がその紙を受け取り、目を走らせる。
「……言葉は作れる。誰でもな」
静は即座に返す。
「誰でもじゃない。相手の声を聞いて、落ち着かせる。これは訓練しても差が出ます」
黒川は紙を机に戻した。
「落ち着かせる? 学校でやれ。教室で。登校して」
静は言い切る。
「教室は今、彼の戦場です。そこに放り込んでも折れるだけです」
黒川の声が低くなる。
「折れる? 折れたら終わりか」
静は首を振る。
「折れても終わりじゃない。でも、折らない方がいい。折らなければ道が増える」
黒川は静を見つめ、しばらく黙った。職員室の視線が集まっているのが分かる。誰も口を挟まない。
黒川が言った。
「桐生。君の方針は分かった。だが、学校の方針は変わらない。登校が基本だ」
「分かってます」
「なら、妥協案だ」
黒川は指を一本立てた。
「職場体験は許可する。ただし条件を付ける」
陸が目を見開く。
静は即答しない。条件の罠を待つ。
黒川が続ける。
「深谷は、体験前に最低三日、登校させろ。佐伯も同じだ。今週中に一度、学校に顔を出させる。できなければ、第三の外部連携は一旦停止。監査を入れる」
陸の顔色が変わった。
「監査……」
静の指先がファイルの角を押した。紙が少しだけ軋む。
静は黒川に言う。
「三日は無理です」
黒川が即座に返す。
「無理と言うなら、許可は出ない」
静は視線を落とし、申請書の項目を指でなぞった。ここで噛みつけば、全部止まる。深谷も佐伯も。
静は顔を上げる。
「三日じゃなく、一日。保健室登校でもいい。時間は一時間。そこで“学校活動”の記録を作る」
黒川が眉をひそめる。
「抜け道だな」
「道です。抜けるための」
黒川は静を見て、笑わないまま言う。
「一日で何が変わる」
静は短く返す。
「『できた』が一つ増えます」
黒川が言う。
「数字は?」
静は答えを用意していた。
「出席扱いは無理でも、支援記録が残る。職場体験は学校行事として処理できる可能性が上がる。欠席のリスクを減らせます」
黒川はしばらく黙り、ペンを持ち直した。
「……保健室登校、一時間。深谷は体験前にそれを一回。佐伯も今週中に一回。これが最低ラインだ」
静は頷いた。
「やります」
黒川がペン先で申請書に印を付ける。
「できなければ、止める。君の部屋ごと」
静は頭を下げない。受け取るだけだ。
「止められないように、結果を出します」
黒川は目を細めた。
「結果だ。情ではない」
静は背を向ける。
「情で動いてません」
職員室を離れる足音が、やけに大きく聞こえた。陸が追いすがる。
「先生……一日って……」
「一日でいいって言ったのは、こっちの首を絞めないためだ」
「でも佐伯、学校無理って……」
静は第三進路室の廊下で立ち止まり、スマホを取り出した。画面には佐伯とのトークが開いたままだ。
静は文字を打つ。短く、逃げ道を残して。
『今週中に一回だけ、学校の敷地に入る必要が出た』
『教室じゃない。保健室で一時間』
『できる方法、二つ考える。どっちがマシ?』
送信。
既読が付くまでの間、静は陸に言った。
「黒川は“登校”しか見ない。だから、登校を“形”にして通す」
陸が眉を寄せる。
「形……ズルっすか」
静は歩き出す。
「ズルじゃない。生き残り方」
スマホが震えた。既読。そのあと、すぐに返信。
『保健室なら』
『でも、誰にも会いたくない』
静は足を止め、画面を見つめた。
誰にも会いたくない。学校は誰かに会う場所だ。
静は打つ。
『会わない導線を作る』
『裏門→保健室直行。時間も人が少ない時間にする』
『その代わり、約束がある』
送信したところで、第三進路室のドアが見えた。中には、深谷チカ用の案内文が机の上で待っている。
静はドアノブに手をかけた。
返信が来る前に、陸が小さく言う。
「先生、約束って何すか」
静はドアを開けながら言った。
「“聞く力”を、誰かのためだけじゃなく、自分のためにも使うって約束だ」
スマホが震える。佐伯からの返事が、画面の端に覗いた。
静はまだ開かない。まず部屋に入る。次に、導線の図を描く。
現実は厳しい。だから道を増やす。増やした道に、条件がぶら下がっている。そこから先は、本人と一緒に結ぶしかない。
第三進路室の時計は、いつもより音が大きい気がした。
桐生静は机の上に、導線を書いた紙を広げている。裏門、渡り廊下、保健室、第三進路室。人の少ない時間帯に丸がついている。
相沢陸が、その紙を指でなぞった。
「これ、スパイ映画っすね」
「黙って覚えろ」
「覚えたところで、誰が案内するんすか」
静はペン先で裏門を叩いた。
「私が行く」
陸が目を丸くする。
「先生が裏門に立ってたら、目立つじゃないっすか」
「目立たない時間を選ぶ」
「それでも誰か見ますって」
静はファイルを閉じた。
「見られてもいい。会わせないのが目的だ」
ドアの外、廊下がやけに静かだ。授業中の時間帯。静はスマホを机に置き、画面を開いたままにしている。
佐伯マナブとのトーク。
『会わない導線を作る』
『その代わり、約束がある』
相手の返信がまだ来ていない。
陸が小さく言う。
「来るんすかね……」
「来るなら、来る」
静はそう言って、椅子を一脚、入口に近い位置へ動かした。普通のパイプ椅子。背もたれが少しぐらつく。
陸が笑いかけて、すぐ黙る。
「……その椅子、特別っすか」
「特別にする」
静は椅子の足を軽く押し、ガタつきを直す。床に擦れる音が短く響いた。
スマホが震えた。
『約束って何』
静はすぐ打つ。
『来たら、帰る時間もお前が決める』
『「もう無理」を言う練習をする』
『言えたら、今日は成功』
既読がついて、少し間が空く。
『分かった』
『明日、いけるかも』
『人少ない時間で』
静は陸に目線だけで合図した。
「明日。二限の途中。裏門」
陸が唾を飲む。
「二限の途中って、なんでそんな中途半端」
「人の流れが切れる」
「……先生、ほんとにそういうの詳しいっすね」
静は答えない。詳しい理由を言えば、余計なものまで混じる。必要なのは、実行だけだ。
翌日。
二限のチャイムが鳴って、廊下が一度だけざわめき、すぐ静まった。
静は職員室に寄らず、第三進路室の鍵だけをポケットに入れて外へ出た。裏門へ向かう渡り廊下は冷える。風が制服の袖を叩く。
裏門の横、植え込みの影。
静はそこに立った。腕時計を見る。予定の時刻まで、あと二分。
陸が少し離れたところで待っている。隠れているつもりでも、背が高くて目立つ。
静が小声で言う。
「陸、もっと離れろ」
「え、でも…」
「離れろ」
陸は渋々、曲がり角の向こうへ引っ込んだ。
静は門の外の歩道を見た。人は少ない。通学路から外れているせいだ。
一台、自転車がゆっくり近づいてきて、少し手前で止まった。
降りたのは男子。フードを深くかぶっている。顔は見えない。肩が上がりっぱなしで、息を止めているように見えた。
静は門を開けない。まず、声をかける。
「佐伯」
男子がぴくりと動く。
「……先生?」
声は小さい。風に負けそうな音だった。
静は頷く。
「そう。入れるか」
男子は門の隙間を見た。そこから見える校内の景色を、目で触るみたいにゆっくりなぞる。
「……人、いない?」
「今はいない」
「ほんと」
「嘘つかない」
男子の手が門の取っ手に伸びて、止まる。指先が白い。
静は言う。
「迷っていい。今日はここで帰ってもいい」
男子は息を吸って、吐いた。
「……それ、ずるい」
「ずるくない。選べるだけ」
「選べるって言われると……」
静は門を少しだけ開けた。音がしないように。金具がかすかに鳴る。
「入るなら、今」
男子は自転車を押して、門の内側へ一歩入った。靴底が砂利を踏む音がした。
静は門を閉める。カチ、と小さな音。
その音で男子の肩が跳ねた。
「……閉めた」
「外から見えにくいように」
「……」
静は歩き出す。
「ついて来い。しゃべらなくていい」
男子は半歩遅れてついてくる。自転車は押さない。門の内側に置いたまま、鍵もかけない。戻れるように。
渡り廊下に入る前、静が言う。
「今から会う大人は二人。私と、保健室の先生。嫌なら保健室は飛ばす」
男子は小さく首を振った。
「……保健室、いける」
「目を合わせなくていい」
「……」
廊下の角を曲がる。遠くで教室の声がする。男子が足を止めかける。
静は振り返らず言った。
「音、聞こえるな」
「……聞こえる」
「何の音が一番嫌だ」
男子は一瞬、考えるように黙ってから言った。
「笑い声」
静は少しだけ歩く速度を落とした。
「誰の」
「分かんない。全部」
「今のは?」
男子が耳を澄ます。
「……授業の、笑い。先生の」
静は頷く。
「それなら敵意じゃない」
男子の足が、ほんの少しだけ前に出た。
保健室の前。
静がノックする前に、扉が開いた。保健室の養護教諭が顔を出す。静と目が合うと、何も聞かずに頷いた。
「入って。カーテン閉めるね」
男子は靴を脱ぐのもぎこちない。椅子に座るとき、背中が壁に当たるまで下がった。
養護教諭が温かいお茶を紙コップで置いた。
「飲まなくていいよ。置いとくだけ」
男子は手を出さない。視線だけがコップに落ちる。
静が言う。
「一時間、ここでもいい」
男子は小さく首を振った。
「……第三、行く」
養護教諭が目を丸くして、静を見る。静は頷いた。
「じゃあ、第三へ。途中で無理なら戻る」
男子が立ち上がる。足がふらつく。けれど、戻らない。
第三進路室の前に来たとき、静はわざと鍵を探すふりをした。時間を作るために。
男子が扉を見つめたまま言う。
「……ここ、落ちこぼれの部屋って」
静は鍵を差し込みながら返す。
「そう呼ぶやつがいる」
「先生、怒んないの」
「呼び方で現実は変わらない。中身を変える」
カチャ、と鍵が回る。
静が扉を開けた。
第三進路室は静かだった。机、椅子、コピー用紙の匂い。壁の掲示は少ない。余計なものが目に入らないようにしてある。
陸がすでに来ていて、入口から一番遠い席で、教科書を開いたふりをしている。視線は上げない。息だけが緊張している。
静が言う。
「相沢はただの置物。気にするな」
陸が小声で抗議する。
「置物って……」
静が目だけで黙らせる。
男子は部屋の中に一歩入って、立ち止まった。足が床に張りついたみたいに動かない。
静は入口近くに置いた椅子を指さした。昨日、ガタつきを直した椅子。
「そこ」
男子は椅子を見て、静を見る。
「……座ったら、帰れなくなる?」
「帰れる。時間はお前が決める」
男子は喉を鳴らし、椅子へ近づいた。座る直前、手で背もたれを触って確かめる。ぐらつかない。
そして、腰を下ろした。
椅子がきしんだ。
その音に、男子の目が一瞬だけ閉じる。肩が上がって、下がる。息が出た。
静は机に座らず、少し離れた位置に立った。圧をかけない距離。
「佐伯マナブ。今日はここまで来た。それだけで一個、増えた」
男子は俯いたまま言う。
「……増えたって、何が」
「できたが一個」
「……そんなの、誰でも」
「誰でもじゃない。お前は昨日まで、門の内側に入ってない」
男子の指が膝の上で絡まる。
「……今、耳が痛い」
「どの音が痛い」
「時計」
静は時計を見た。針が進む音。確かに、この部屋の静けさだと強い。
静は時計の下へ行き、電池カバーに指をかけて止めた。針が止まり、音が消える。
陸が思わず言う。
「先生、それ……」
静が短く返す。
「後で戻す」
男子が少しだけ顔を上げた。
「……今、静か」
静は頷く。
「お前は音に敏感だ。だから“聞ける”」
男子はすぐ目を逸らす。
「……聞けるとか、いらない。俺、普通にできない」
静は机の上のメモ帳を開いた。文字は大きく書く。見せるためではなく、話を地面に落とすために。
「普通って何だ」
男子は答えない。代わりに、口の端が少しだけ動く。言いかけてやめる。
静は待つ。急かさない。沈黙が伸びる。
陸が耐えきれず、咳払いをしそうになって、飲み込んだ。
男子がぽつりと言う。
「……登校」
静は頷く。
「登校は、今週一回でいい。黒川との約束だ」
男子が顔を上げた。名前が出たことで、警戒が一段上がる。
「……教頭?」
「教頭は数字しか見ない。だから一回だけ見せる」
「……見せ物?」
静は首を振る。
「見せ物じゃない。通行証」
「通行証……」
静は椅子の横にしゃがんで、視線の高さを合わせない位置に留める。真正面に立つと、逃げ道が塞がる。
「今日ここに座れた。次は保健室で一時間、記録を残す。それで外の道が一つ開く」
男子は乾いた声で笑った。
「外の道って、仕事?」
「仕事も。支援も。学校の外に出る段取りも」
男子の指がほどける。
「……俺、何すればいい」
静は即答する。
「聞く仕事を試す」
陸が思わず顔を上げた。
「え、今ここで?」
静は陸に目で命じる。黙れ。
静は男子に言う。
「今、私の質問に答えろ。短く」
男子が頷く。
「お前が一番落ち着くのは、どんな声だ」
「……低い。怒ってない低い」
「怒ってない低い。具体的に」
男子は少し考える。
「……息が荒くない。言葉が短い」
静は頷く。
「じゃあ、逆。お前が一番しんどい声は」
「……早口。笑いながら怒るやつ」
静のペンが止まる。紙に書く音が短く響く。
「分かった。お前は声の種類を分けられる。普通のやつは、分けられない」
男子が小さく言う。
「……それ、役に立つ?」
「立つ。相談窓口、コールセンター、介護の見守り、接客のクレーム一次受け。向きはある」
男子の目が揺れる。
「クレーム……無理」
「無理ならやらない。選ぶ」
静は続ける。
「ただ、今すぐ就職じゃない。まず学校の中で試す。第三で」
陸が口を挟む。
「え、第三で何すんすか」
静が短く言う。
「相談の練習」
陸が固まる。
「誰の」
静は陸を見る。
「お前」
陸が椅子から半分立ち上がった。
「え、俺!? いや、俺別に……」
静は陸の言葉を切る。
「あるだろ。言いたいこと」
陸は口を開けて、閉じた。昨日の教頭席の圧、職員室の視線、自分の出席。全部が喉の奥で詰まっている顔だった。
静は陸に言う。
「佐伯は“答え”を出さない。聞くだけ。お前は話すだけ」
陸が佐伯を見る。佐伯は視線を合わせない。でも、逃げない。椅子に座ったまま、背もたれに頼らず、前に重心を置いている。
陸が小さく言う。
「……マジで、聞くだけ?」
静が頷く。
「評価しない。説教しない。途中で止めてもいい」
佐伯が、初めて自分から言った。
「……止めていいなら、できる」
静は立ち上がる。
「じゃあ、私が最初にルール言う」
静は指を二本立てる。
「一つ。陸は“どうすればいい”を求めない。今日は吐き出すだけ」
「二つ。佐伯は“分かったふり”をしない。分からなければ『もう一回』って言う」
陸が苦笑いをした。
「……先生、俺、吐き出すとか苦手っす」
静は即答する。
「苦手なら短く。三文でいい」
陸は椅子に座り直し、佐伯の方へ体を向けた。佐伯は真正面を見ない。少し斜め、陸の肩のあたりを見る。
静は一歩下がり、壁際に立った。見張り役ではなく、逃げ道を残す位置。
陸が息を吸う。
「……最近、教頭が怖いっす」
佐伯は頷かない。相槌もしない。ただ、陸の息のタイミングに合わせて、少しだけ呼吸を落とした。
陸が続ける。
「俺、成績も出席も微妙で。第三にいると、余計に……見られる感じする」
佐伯の視線が、陸の口元に落ちる。言葉の間に、わずかな空白が生まれる。
陸が言い直す。
「見られるっていうか……切られる感じ」
佐伯が小さく言った。
「……切られる、って思った瞬間は?」
陸が目を瞬かせた。
「え」
「今の。声、変わった」
陸は口を開けたまま止まって、それから笑いそうになって、笑えなかった。
「……分かんの?」
佐伯は肩をすくめる。
「……分かる」
陸の息が、少しだけ長く出た。
静はその様子を見ながら、机の端に置いた申請書ファイルに視線を落とした。深谷の職場体験。教頭の条件。今週中の一回。
佐伯がここに座った。これで「一回」に近づいた。けれど、まだ“記録”にはならない。次の一歩が要る。
静のスマホが震えた。画面には、保健室の養護教諭からの短い通知。
『教頭が保健室の出入り、気にしてる。時間、厳守で』
静は返信せず、ポケットにしまった。
陸の声が、少しずつ途切れなくなる。佐伯は言葉を挟まない。必要なところだけ、短く問い返す。
「それ、いつから」
「誰の前で」
「今、胸、苦しい?」
陸が「……なんで分かるんすか」と言ったとき、佐伯は視線を落としたまま答えた。
「息、浅い」
陸が笑った。今度はちゃんと笑えた。短く、すぐ消える笑い。
静は時計の止まった針を見た。時間は動いていないのに、時間だけが進んでいく。
静は静かに言った。
「佐伯。あと十分で切る」
佐伯が頷く。
陸が慌てて言う。
「え、もう?」
静は淡々と返す。
「約束。自分で終わりを決める練習だ」
佐伯の指が椅子の座面を掴む。さっきより強い。
陸が佐伯を見て言った。
「……今日、来てくれて、助かったっす」
佐伯は一瞬だけ顔を上げ、すぐ下げた。
「……別に」
「別に、でもいい」
静が言う。
「帰りの導線、確認する。裏門まで私が行く。陸は残れ」
陸が「え」と言いかけて、黙って頷いた。
佐伯が椅子から立つ。立ち上がる動作が、さっきより滑らかだ。けれど足先はまだ、出口の方向に向いている。
静が言う。
「今日の成功は、ここに座ったこと。あと一個、言う」
佐伯が止まる。
静は続ける。
「『もう無理』を、今言え」
佐伯の喉が動く。沈黙が一拍。
「……もう、無理」
声は小さい。でも言い切った。
静は頷く。
「よし。帰る」
ドアを開けると、廊下の遠くから足音が近づいてきた。誰かが急いでいる音。職員室方向。
静は佐伯の肩越しにその音を聞き分ける。硬い革靴。一定のテンポ。
黒川ではない。けれど、黒川の周りの誰かだ。
静は歩き出しながら、佐伯にだけ聞こえる声で言った。
「次は保健室。一時間。記録を残す。それが通行証になる」
佐伯は頷いた。
「……次も、先生が裏門?」
「裏門」
廊下の角を曲がる手前で、静は一度だけ振り返った。
第三進路室の扉の前に、さっきまで佐伯が座っていた椅子が残っている。誰も触っていないのに、そこだけ温度が違う気がした。
静は前を向いた。
足音が、さらに近づく。次の一歩に、条件がぶら下がっている。今度は“時間厳守”だ。
守れなければ、また道が減る。守れば、まだ増やせる。
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