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第15話:アルバイトの王様
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第3進路室のドアが、控えめに二回叩かれた。
「どうぞ」
戸田ユウキは入ってきても椅子に座らない。鞄の肩紐を握ったまま、視線だけが室内を泳いだ。
相沢陸がコピー用紙の束を抱えて、机の端で止まる。静の顔と、ユウキの顔を交互に見た。
「……呼ばれたんすけど」
ユウキの声は小さい。だが語尾だけ妙に突き放す。
静は名簿を閉じた。机の上のタイマーが、カチ、と音を立てる。保健室の出入りを「時間で管理する」と黒川が言ったときから、癖になった。
「座って。五分で終わる話じゃない」
「別に。俺、進路とか決めてないし」
「決めてないのに、ここに来た」
ユウキは肩をすくめて、椅子に落ちるように座った。
陸が小声で「飲み物、いる?」と言いかけて、静の視線で口を閉じる。
静はユウキのファイルを開いた。赤い数字が並ぶ。
「中間も期末も、学年最下位」
ユウキの指が膝の上で動いた。爪で皮膚をこする。
「はいはい。言われなくても知ってる」
「知ってるなら、次。アルバイト」
ユウキの顔が一瞬だけ上がる。
「……なんで、それ」
「担任から聞いた。夜、駅前のファミレス。週五」
「別に。金いるし」
「遅刻、増えた理由はそれ?」
「……」
静は黙ったまま、ユウキの沈黙を置いた。時計の秒針だけが進む。
ユウキが先に折れた。
「遅刻は……まあ。仕方ないっすよ。閉店作業、伸びるし」
「仕方ない、で学校は待ってくれない。欠課が積み上がると、卒業が危ない」
「脅し?」
「事務。現実」
ユウキは笑うでもなく、口角だけが歪んだ。
「卒業できなかったら、バイト増やすだけっす」
「増やすだけ、で社会が回るなら苦労はない」
静はファイルから、もう一枚の紙を出した。薄いコピー。店名の入ったメモのようなもの。
「これ、店長から学校に電話があった。『戸田くんは助かってます』って」
ユウキの目が細くなる。
「……店長、余計なこと」
「余計じゃない。学校にとっては珍しい情報」
陸が思わず口を挟む。
「え、電話してくる店長、すげえっすね」
ユウキが陸を睨む。
「別に。俺がいないと回んないだけ」
静は言葉を拾わない。代わりに聞く。
「具体的に、何をしてる」
「……」
「『回る』って、何が回る」
ユウキは視線を逸らし、机の角を見つめた。
「ホール。新人に教える。クレーム来たら、俺が出る」
「なんでお前が」
陸の声が出た。ユウキは面倒くさそうに息を吐く。
「店長が厨房で手離せないときあるし。社員、少ないし」
「高校生がクレーム対応?」
「別に。言われてること聞いて、謝って、代案出すだけ」
静のペンが止まる。
「代案。例えば」
ユウキは、言いながら思い出したのか、少しだけ語尾が滑らかになった。
「注文遅いって怒ってた客に、先にサラダ出して、ドリンク無料にして、厨房に優先で通して……最後、会計のときに『対応ありがとう』って言われた」
陸が「それ、普通にすご」と小さく漏らす。
ユウキはすぐに「別に」と返したが、その「別に」が弱い。
静は紙に何かを書き、ペン先を置いた。
「学校のテストは最下位。でも現場での評価は高い」
ユウキが肩をすくめる。
「現場って言っても、ファミレスっすよ。誰でもできる」
「誰でもできる仕事を、誰でも“続けられる”わけじゃない」
ユウキの目が動く。静の顔を見て、すぐ外す。
「……続けてるだけ」
「続けてる理由は金?」
「それ以外ある?」
「家」
ユウキの背中が、わずかに固まる。静は言い切らず、間を空けた。
「……母子家庭。母ちゃん、夜勤。弟二人。俺がいないと飯が遅くなる」
ユウキの声は、言い訳の形をしていない。淡々としていた。
陸が紙束を胸に抱え直す。何か言いたそうに口を開きかけ、閉じた。
静は頷くだけで、同情の言葉は置かない。
「じゃあ、バイトは簡単にやめられない」
「やめないっす」
「やめさせもしない。問題は、学校を落とすと、選択肢が減る」
ユウキが笑った。
「選択肢? 俺、大学とか無理だし。就職だって、どうせ高卒なんて」
「高卒でも就職はある。ただし、学校経由の求人は、欠課と遅刻が多いと弾かれる」
ユウキの笑いが止まる。
「……求人って、先生が持ってくるやつ?」
「そう。推薦も似たようなもの。学校が『この子を出します』って責任を持つ。責任を持てない状態だと、出せない」
ユウキが唇を噛む。噛んでから、吐き捨てるみたいに言う。
「じゃあ、詰みじゃん」
「詰ませないために呼んだ」
静は机の上のタイマーを指で止め、また押した。今度は、静の側のリズムで。
「戸田。お前の武器は、店でやってること。『聞く』『謝る』『通す』『教える』。これを、学校の言葉に変換する」
ユウキが眉を寄せる。
「学校の言葉?」
「評価の形にするってこと」
陸が首を傾げる。
「バイトって、内申に……」
「直接は載らない。でも進路資料には書ける。面接でも使える。推薦書にも入る」
ユウキが身を乗り出す。
「推薦書、俺でも?」
「条件付き。遅刻と欠課を止める。最低限」
ユウキがすぐに引く。
「無理。閉店、伸びるし」
「じゃあ、店と交渉する」
「は? 俺が?」
「お前が。店長に。『この曜日は早上がりが必要』って」
ユウキは鼻で笑った。
「そんなの言ったら、使えないって切られる」
「切られない言い方を考える。お前、クレーム対応できるんだろ」
ユウキの口が開いたまま止まる。反論が出ない。
静は続ける。
「それでも無理なら、週五を週四にする。収入が減る。家と相談」
ユウキの目が鋭くなる。
「それは無理。弟の習い事、もうやめさせた。これ以上は無理」
「なら、別の支援も見る。就学支援金、自治体の補助、母子家庭の手当。お前が知らないだけで、穴がある」
ユウキが顔をしかめる。
「そういうの、恥ずい」
「恥ずいで腹は減る」
静の声は平らだった。ユウキが目を伏せる。
陸が、机の端で指先を握ったり開いたりする。静の言い方が刺さったのか、自分に言われたみたいに視線を落とす。
静は少しだけ声を落とした。
「戸田。学校は優しくない。黒川は数字しか見ない。遅刻の回数、欠課の時間、卒業できるか。そこだけで切る」
ユウキが顔を上げる。
「教頭……あいつ、朝の門で見てる人?」
「見てる。最近は特に。保健室の出入りも」
陸が小さく「監視みたい」と呟く。
静は否定しない。
「だから、こちらも数字を作る。バイトの評価を証拠にする。遅刻を減らす計画を紙にする。面談記録を残す」
ユウキが乾いた声で言う。
「先生、俺のこと、商品みたいに扱う」
静はユウキを見たまま、首も傾けない。
「学校は企業だって言う人がいる。なら、売り物を磨くしかない。お前の中身は、そのままじゃ伝わらない」
ユウキの指が止まる。机の上の紙を見た。
「……俺、勉強できないっすよ」
「勉強で勝てとは言ってない。最低限の赤点を避ける。卒業を守る。そこから先は、現場の強さで勝つ」
ユウキが息を吐く。長く、ゆっくり。
「……現場の強さって、言われても」
静はメモをユウキの前に滑らせた。そこには短い項目と空欄がある。
「次までの宿題。店長に、評価を書いてもらう。できれば具体例付き」
ユウキが目を丸くする。
「そんなの、頼めない」
「頼み方をここで練習する」
陸が小さく笑った。
「面接みたいっすね」
ユウキが陸を睨むが、強くない。
静は椅子に深く座り直す。
「それと、学校の方。遅刻を週一まで落とす。無理なら理由を紙で出す。口で言うと流される」
ユウキが紙を指で押さえた。
「……週一って、きつい」
「きついのは知ってる。だから、店と交渉。家とも交渉。交渉できないなら、選択肢は減る」
ユウキが唇を動かす。何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、ぼそっと言う。
「……俺、店ではさ。『戸田くんいると安心』って言われる」
「それを持ってくる」
静の言葉は短い。
ユウキは紙を鞄に入れようとして、手が止まった。
「先生。これ、取れなかったら」
静は即答しない。机の端に置かれたタイマーを見た。秒針が、淡々と回る。
「そのときは、別の道を探す。職業訓練校もある。通信制もある。就職も、学校経由だけじゃない。けど」
静はユウキに視線を戻す。
「今ここで動かないと、黒川に『外部連携は止める』って言われる。お前だけじゃない。第3の全員が巻き込まれる」
ユウキが眉を寄せた。
「……俺のせいで?」
「せいにされる。そういう仕組み」
陸が、喉の奥で小さく息を呑んだ。
ユウキは鞄の口を閉め、立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がする。
「……わかった。店長に言う。今日、シフト入ってるし」
「言い方は?」
静が問うと、ユウキは一瞬詰まった。
「……『すみません、学校の都合で』」
「違う」
静がペンを持ち直す。
「『卒業のために必要です。店に迷惑をかけない形で調整したい。具体的に、この曜日だけ閉店前に上がれませんか』。主語は自分。責任も自分」
ユウキは口の中で繰り返すように、ゆっくり頷いた。
陸が小声で言う。
「戸田、がんばれ。……てか、店長、絶対書いてくれるって」
「うるせ」
ユウキは言いながら、少しだけ口元が緩んだ。
ドアに手をかけたところで、静が呼び止める。
「戸田。次、いつ来れる」
ユウキが振り返る。
「……昼休みなら」
「昼休みは混む。放課後、十分でいい。保健室の前、通るな。今、見られてる」
ユウキが目を細める。
「……先生も、そういうの気にするんだ」
「気にする。生徒の人生が、その程度で動く」
ユウキは何も言わず、ドアを開けた。
廊下の足音が遠ざかる。
陸が静の机の前に紙束を置いた。
「……ああいう奴、学校にいると損っすね」
静は紙束を揃えながら、窓の外を見た。裏門の方角。人影はない。
「損してる、で終わらせない」
陸が頷きかけて、ふと眉をひそめる。
「でも、教頭。数字しか見ないなら……戸田のバイトの話、通るんすか」
静はファイルを閉じた。
「通る形にする。店長の文書。出勤記録。役割。具体例。面接で再現できる言葉」
「……先生、ほんとに戦ってる」
静は椅子から立ち上がり、壁の掲示板に新しいメモを貼った。そこには太い字で「戸田:店長評価/遅刻調整/支援制度確認」とだけ書いた。
廊下の向こうから、誰かの靴音が近づく。職員室へ向かう固い足取り。静は耳だけでそれを測り、陸に目配せした。
「陸。次、佐伯」
陸の肩が跳ねる。
「……今日、来るんすか」
「来させる。保健室一時間。時間厳守。見られてる」
陸は唇を引き結び、紙束を抱え直した。
静はドアノブに手をかけ、いったん止まった。
廊下の靴音が、少しだけ遅くなった気がした。見られているのは、生徒だけじゃない。
静は扉を開ける。冷えた空気が頬に当たった。
「行くよ」
陸が小さく返事をして、後ろをついてきた。
保健室前の廊下は、消毒薬の匂いが薄く残っていた。
桐生静は壁際に立ち、腕時計を見た。針がぴたりと合う。黒川が「一時間」と言った、そのままの数字。
相沢陸が廊下の端で、何度もスマホを伏せたり起こしたりしている。
「来ないっすかね、佐伯」
「来る。来させる」
静はそう言って、保健室のドアを軽くノックした。
「失礼します」
中から養護教諭の声が返る。
「桐生先生。今、空いてますよ。佐伯くんは……まだ」
静は短く礼を言い、ドアを閉めた。
そのとき、階段を駆け上がる足音がした。息を切らした戸田ユウキが、制服の上着を片腕に引っ掛けて現れる。
「先生!」
静が振り向く。
「どうした」
ユウキは声を落として、廊下を見回した。保健室の前。人の目が気になる場所だと気づいて、舌打ちを飲み込む。
「……店長。書いてくれるって」
「早い」
「でも、さ。『これ、学校に出すなら正式なやつにする』って言って」
「正式。いいね」
ユウキが眉を寄せる。
「で、なんか……雇用契約書、見たかって」
静は頷いた。
「見たことある?」
「ない。てか、そんなの、書いたっけ俺」
陸が思わず口を挟む。
「え、契約書なしで働いてんの?」
「普通じゃね? 面接して、採用って言われて、シフト入って……」
静が言葉を切る。
「普通じゃない。多いけど、普通じゃない」
ユウキがムッとする。
「でも給料出てるし」
「給料明細、見せて」
ユウキはポケットを探り、ぐしゃっと折れた紙を出した。静が受け取る。
静の視線が数字を追う。控除欄。交通費。深夜。所得税。
「……これ、何?」
ユウキが指で控除を叩く。
「知らね。勝手に引かれてる」
静は紙を返さず、ユウキを見た。
「勝手に、じゃない。引かれる理由がある。知らないまま働くと、損する」
ユウキが鼻で笑う。
「損って言っても、数百円っしょ」
「数百円が積み上がる。あと、税金は数百円で終わらないことがある」
陸が不安そうに聞く。
「え、税金って……高校生でも?」
静が陸に視線だけ返す。
「働けば、かかるものはかかる。年末調整とか、確定申告とか」
ユウキが固まった。
「……かくてい、なに」
静は息をつかない。
「確定申告。自分で税金の計算をして、申告する手続き」
ユウキが笑おうとして失敗した顔になる。
「え、俺、そんなの無理。学校のテストも無理なのに」
「だから学校が意味ない、って?」
ユウキが肩を強くすくめる。
「意味ないっすよ。英語とか古文とか。バイトで使わねえし」
静は給料明細の控除欄を指でなぞった。
「じゃあこの数字、誰が守ってくれる」
ユウキが黙る。
「店長?」
「……店長は、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしてても、店の都合は店の都合。お前の生活はお前の責任」
ユウキの喉が動いた。言い返したいのに言葉が出ない。
陸がユウキの顔を覗くようにして言う。
「戸田、給料明細、今まで捨ててた?」
「……机の引き出しに突っ込んでる」
「残しとけ。絶対」
ユウキが陸を睨む。
「お前に言われたくねえ」
「言う。俺、こういうのだけは怖い」
静が二人の間に声を落とす。
「戸田。年末調整、店でやってくれてるならいい。やってないなら、お前が動く。扶養から外れるかどうかも関わる。母親の税金にも影響する」
「……扶養って、なんすか」
静は一瞬だけ目を閉じるように瞬きをした。
「親の税金の計算に関係する仕組み。お前の稼ぎが増えると、親の負担が増える場合がある」
ユウキの表情が変わった。軽口が消える。
「それ、母ちゃんに……迷惑?」
「可能性はある。だから確認する」
ユウキが早口になる。
「俺、家計助けてるのに? 稼いだら罰ゲームみたいじゃん」
「罰ゲームじゃない。ルール。知らないと、後でまとめて来る」
ユウキが明細を取り返そうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……じゃあ、どうすりゃいいんすか」
静は明細をユウキに返した。
「まず、雇用契約書。あるならコピー。ないなら、店長に『作ってください』と言う。あと、年末調整の書類、出したか確認。扶養の話は、母親と相談」
ユウキが顔をしかめる。
「母ちゃん、そういうの苦手だし。疲れてるし」
「だからお前が聞く。わからなければ、ここに持ってくる。税務署に電話するのも手だ」
陸が目を丸くする。
「税務署に電話って、できるんすか」
「できる。向こうは仕事。聞けば答える。恥じゃない」
ユウキは唇を噛む。しばらくして、ぼそっと言った。
「……学校って、そういうの教えねえじゃん」
静はすぐに返さない。廊下の向こうで、誰かが職員室へ向かう足音が響く。硬い靴音が、ここまで届く。
静は足音が遠ざかるのを待ってから言った。
「教える時間はある。でも、教頭は『進学実績』を優先する。生活の授業は点になりにくいから、削られる」
ユウキが目を細めた。
「やっぱ意味ないじゃん。学校」
「学校が意味ないんじゃない。学校の使い方が、今のお前に合ってない」
ユウキが鼻で笑う。
「言い換え」
「現実の言い換えは、道を増やす」
静はユウキの明細を指でトントン叩いた。
「『学校は意味ない』って言い切るのは簡単。じゃあ、契約と税と労務のルールの中で、お前はどう自分を守る」
ユウキが視線を落とす。
「……守り方、知らない」
「今、知った。次は、使う」
陸がユウキにスマホを差し出す。
「戸田、店長に聞くこと、メモする? 俺打つ」
「いらね」
「いらないなら、口で言える?」
ユウキが黙る。
静が淡々と言う。
「メモ。『雇用契約書の有無』『年末調整の書類』『交通費の扱い』『深夜手当の計算』。この四つ」
ユウキが渋々頷く。
「……わかった。今日、聞く」
「聞いたら、明日ここ」
「明日、俺、放課後シフト」
「昼休み。五分でいい」
ユウキが口を開く。
「昼休み、混むって言ってたじゃん」
「混む。だから五分。ここで待たない。裏から入る」
陸が「また裏門導線っすか」と小声で言って、すぐ口を閉じた。
静は陸を見た。
「陸、時計」
陸が腕時計を見る。
「……あと三分で、佐伯の一時間、開始時間っす」
静の視線が保健室のドアに向く。
ユウキが、その視線を追って言った。
「……不登校のやつ?」
「そう」
「俺、ああいうの、無理。甘えに見える」
陸がピクッと反応するが、言い返さない。代わりに静が言う。
「甘えかどうかはどうでもいい。来られるかどうかが現実。来られないなら、別の道を作るだけ」
ユウキが吐き捨てる。
「先生、なんでも道って言う」
「道がないと、落ちるから」
静の声は変わらない。だが言葉の端が硬い。
保健室のドアが開いた。養護教諭が顔を出す。
「桐生先生。佐伯くん……来ました。今、入れます」
静は腕時計を見た。秒針が、開始の位置に来る。
「行く」
陸が頷き、保健室へ向かう。
ユウキが一歩引いた。だが、その場を離れない。
「戸田」
静が呼ぶと、ユウキが顔を上げる。
「学校が意味ないなら、なおさら、ここを使え。意味を作る場所にする」
ユウキは何も言わず、明細を握りしめた。紙の端が、指の汗で少し湿る。
静が保健室のドアに手をかける直前、廊下の向こうでまた硬い靴音が止まった気配がした。誰かがこちらを見ている距離。
静は振り返らないまま、ドアを開けた。
「時間、守るよ」
陸が小さく「はい」と返し、静の背中に続いた。
ユウキは廊下に残り、靴音の方角を一度だけ見たあと、上着を肩に引っ掛け直して、駅前の方へ歩き出した。明日の昼休み、五分を作るために。
昼休みの第3進路室は、ドアの外がざわついていた。廊下を通る足音、購買の袋の擦れる音、遠くの笑い声。
机の上のタイマーが、静かに残り時間を刻んでいる。
戸田ユウキは椅子に浅く腰掛け、膝の上のクリアファイルをぎゅっと押さえていた。
「五分って言っただろ」
桐生静が言うと、ユウキはファイルを差し出した。
「持ってきた。契約書のコピー。あと、年末調整? それの紙も」
「よし」
静は受け取り、目を走らせる。雇用形態、時給、深夜割増、締日と支払日。署名欄。店の印。
「ここ、署名してる。つまり契約は結んでる」
ユウキが鼻で息を吐く。
「覚えてねえ。言われたから書いただけ」
「それでいい。覚えてなくても、紙は残る」
静は別の紙を確認し、ペンで丸をつけた。
「年末調整も出してる。扶養の欄、ここは母親が該当。今の収入なら、ぎりぎりライン。シフト増やすなら、先に相談」
ユウキが顔をしかめる。
「ラインって、どこ」
「今は細かい数字は覚えなくていい。増やす前に確認する癖をつける」
「癖ね」
ユウキは椅子の背にもたれた。だが目は静の手元を追っている。
静は紙をファイルに戻し、別の白紙を引き寄せた。ペン先で短い線を引く。
「戸田のバイト、ただの『飲食』じゃない。分解する」
ユウキが眉を寄せる。
「分解?」
「接客。段取り。クレーム対応。教育」
静は四つの言葉を縦に書いた。
「接客。何ができる」
「注文取る。料理運ぶ。レジ」
「お客の顔見て、何を先にするか決める?」
「……混んでたら、水先。子どもいる席は早めに取り皿」
「段取り。何を回してる」
ユウキは一瞬黙ってから、早口になる。
「ピーク前にテーブルセット。新人をドリンクに固定。厨房に声かけて、出る順番確認。呼び鈴鳴りっぱなしの席は、先に声だけかける」
陸が机の端で、思わず「それ、指揮官」と呟いた。
ユウキが「うるせ」と返すが、否定の勢いがない。
静は書きながら頷く。
「クレーム対応。昨日も言った。『聞く』『謝る』『代案』『再発防止』。これ、面接で強い」
ユウキが口を尖らせる。
「面接って、結局、口がうまい奴が勝つじゃん」
「うまさじゃない。具体例がある奴が勝つ」
静はペンを置き、ユウキを見る。
「『怒鳴られました。怖かったです』じゃ落ちる。『遅延の原因を確認し、先出しと代替提案をして、最後に謝意を得た』は残る」
ユウキは視線を逸らしたまま、指を動かす。
「……言い方、めんどい」
「めんどいをやったやつが、昇給する」
その言葉に、ユウキの視線が戻る。
「昇給?」
静は頷く。
「時給。今いくら」
「千百。深夜は……ちょい上」
「千百を、千二百、千三百にする道はある。店内の評価だけじゃなく、資格と役割で」
ユウキが身を乗り出す。
「資格って、バイトでも?」
「取れる。食品衛生責任者。防火管理者。店の規模によっては必要になる」
ユウキの眉が跳ねる。
「なにそれ。俺でも取れんの」
「講習。試験じゃないやつもある。受講料はかかる。自治体や団体で安いところもある」
陸が首を傾げる。
「それって、高校生でも受けられるんすか」
「条件はある。年齢や立場。店が出す場合もある。だから、店長に交渉」
ユウキが小さく笑った。
「また交渉」
「お前、交渉得意だろ。クレーム対応してるんだから」
ユウキは「得意じゃねえ」と言いながら、指先が落ち着いていく。
静は紙に矢印を引いた。
「ルートを作る。まず、店内で『トレーナー』役を正式にもらう。新人教育の担当。次に、衛生か防火の資格を取る。店長に『時給に反映されるか』を確認する」
ユウキが眉を寄せる。
「反映されなかったら?」
「店を変える選択肢が増える。資格は持ち運べる」
ユウキの口が少し開く。
「……店、変えるとか、考えたことない」
「今は考えなくていい。逃げ道があるって知るだけで、交渉の顔が変わる」
陸が小声で「強い」と言った。
ユウキが陸を睨む。
「お前、さっきから何なん」
陸は肩をすくめる。
「いや、俺、バイト落ちまくってるから。尊敬する」
「尊敬とか、いらね」
「でも、戸田がやってるの、俺できない」
ユウキは返さない。けれど、背もたれから少しだけ前に戻った。
静は紙の端に、もう一つ書く。
「接客の資格で言うと、サービス接遇検定。これは試験。難しい。けど、合格すれば履歴書に書ける」
ユウキが顔をしかめる。
「検定とか、勉強じゃん」
「勉強だ。だから、取るなら段階。いきなり上は狙わない。三級から。テキストは薄い」
ユウキが「薄い」に反応する。
「薄いなら……まあ」
静はすぐ釘を刺す。
「薄いだけで簡単じゃない。提出物も遅刻も止める。卒業が前提」
ユウキが舌打ちしかけて止めた。
「卒業、卒業って」
「卒業できないと、このルートが途切れる。高卒求人も専門学校も、応募の条件が消える」
ユウキが黙る。
外の廊下が一瞬静かになり、次の授業のチャイムが近づく気配がした。
静はタイマーを見る。残り一分。
「戸田。次、やること二つ」
ユウキが身構える。
「二つなら聞く」
「一つ。店長に『トレーナー役を正式に』って頼む。言い方は、昨日の型で」
ユウキが頷く。
「二つ目」
「この紙、持って帰って、家で母親に見せる。『収入増やす前に相談する』って言う」
ユウキの眉が寄る。
「それ、言いづらい」
「言いづらいまま増やすと、もっと言いづらいことが起きる」
ユウキはファイルを抱え直した。
陸が時計を見る。
「やば、あとで教頭の見回り来る時間……」
静の視線が一瞬だけドアへ向く。廊下の向こうの気配を測るように。
「戸田、裏口で出る。人の流れに混ざらない」
ユウキが立ち上がる。
「俺、なんか悪いことしてるみたいじゃん」
「悪いことじゃない。余計な燃料を渡さないだけ」
ユウキは口を開きかけ、閉じた。代わりに短く言う。
「……わかった」
ドアを開ける前に、静が呼び止めた。
「戸田」
ユウキが振り向く。
静は机の紙を指で叩いた。四つの言葉が並ぶ。
「接客、段取り、クレーム、教育。これ、お前の成績表だ。学校のじゃない。社会の」
ユウキは一瞬、目を細めた。笑うでもなく、反発するでもなく。
「……それ、面接で言っていい?」
「言え。言えるように、次は例を三つ持ってこい」
ユウキは「三つかよ」と小さく言いながら、ドアを開けた。
廊下の空気が流れ込む。人の声が戻る。
ユウキが出ていく背中を見送りながら、陸がぽつりと言った。
「先生、ああいうの、教頭に見せたら評価されるんすかね」
静は机の紙をそっと裏返した。表に出せる言葉と、出せない導線を分けるように。
「見せる形にする。見せた瞬間に潰されるなら、順番を変える」
チャイムが鳴った。
静は立ち上がり、次の予定のメモを手に取る。そこには「深谷:職場体験前/保健室一回」「佐伯:今週一時間」と並んでいた。
「陸、次。深谷の保健室、今日中に一回通す」
陸が息を飲み、頷いた。
静はドアノブに手をかける。廊下の向こうに、硬い靴音が混じり始めていた。
放課後、駅前の文具店は制服の群れで狭かった。
戸田ユウキは入口の自動ドアをくぐると、すぐに棚の間へ身体を滑り込ませた。購買袋を揺らす連中に肩をぶつけられ、「すみません」と言いながらも、目は落ち着かない。
「ノート、どれだよ……」
独り言が漏れる。いつもなら、こんな場所は素通りだ。
スマホが震えた。相沢陸からのメッセージが一件。
『買うならA5の方が持ち歩きやすいっす。バイトの制服ポケット入る』
ユウキは「は?」と小さく返して、画面を閉じた。だが棚の前で立ち止まる。A5。B5。リング。綴じ。
「……ポケットとか、入んねえし」
そう言いながら、手がA5の棚へ伸びる。
背後で、同じ学校の男子が笑いながら通った。
「戸田じゃん。珍し。勉強すんの?」
「彼女できたんじゃね?」
ユウキは振り向きもしない。耳だけが熱くなる。視線を棚に固定したまま、ノートを一冊抜き取って、戻す。
「……うるせ」
小さすぎて、誰にも届かない。
ペン売り場の横に、安いメモ帳が積まれていた。ユウキはそっちに逃げそうになって、指先が止まる。
静の声が頭の奥で鳴った。
――薄いだけで簡単じゃない。例を三つ。
例。具体例。面接。
ユウキは息を吐いて、もう一度ノート棚へ戻った。今度は白い無地の表紙を選ぶ。余計なキャラクターも、励ましの言葉もない。
「これでいいか……」
ノートを胸に抱えたまま、ペン売り場へ行く。ボールペンの前で立ち尽くす。
「黒……青……」
店内のBGMが、やけに軽い。
ユウキは黒を一本掴み、値札を見る。安い。なのに、指が躊躇う。
「……ノートとか、金の無駄だろ」
言い切ってみても、ノートは手から落ちない。
レジへ向かう途中、ガラス越しに駅前のファミレスの看板が見えた。今日もシフトがある。いつも通りなら、制服に着替えて、笑って、謝って、回す。それだけだ。
でも、いつも通りに回すだけじゃ、守れないものがある。
控除欄の数字。扶養。年末調整。
「……知らねえと、負けるってことか」
呟いて、ユウキはレジに並んだ。
前の客が会計でもたつく。店員が丁寧にポイントカードを確認している。ユウキの足が小刻みに動く。急げ、と自分に言う。遅れたら、今日も閉店作業が伸びる。
順番が来た。
「ノートとペン、お願いします」
声が意外と普通に出た。店員がバーコードを通す。
「三百六十円になります」
ユウキは小銭を出した。指が硬い。受け取ったレシートを見て、ふと笑いそうになる。
三百六十円。バイトの時給の三分の一もない。
なのに、今まで一回も買わなかった。
袋を受け取って店を出ると、冷たい風が頬を打った。駅のホームへ向かう人の流れに混じる前に、ユウキはベンチの端に腰を下ろす。
袋からノートを取り出し、表紙を撫でる。新品の紙の匂い。
スマホがまた震えた。今度は桐生静からだった。短い。
『例3つ。明日昼休み。裏。遅れるな』
ユウキは画面を見たまま、しばらく動かなかった。指が、返信欄を開いて閉じてを繰り返す。
『わかった』
それだけ打って送る。送信音が小さく鳴る。
ユウキはノートを開いた。最初のページが真っ白で、やけに眩しい。
ペン先を当てて、止まる。
「……何書けばいいんだよ」
声に出してから、静の「分解する」という言葉を思い出す。
ユウキは書いた。
接客
段取り
クレーム
教育
四つの言葉が並んだだけで、ページが少しだけ重くなる。
次に、クレームの下に短く書く。
・遅延→先出し→代案→謝意
書き終えて、息を吐いた。胸の奥が、少しだけ静かになる。
背後で、同じ学校の女子が二人、駅へ向かいながら囁くのが聞こえた。
「最近、教頭が保健室の前うろうろしてない?」
「進路室の先生、目つけられてるって」
ユウキは聞こえないふりをした。ノートを閉じ、袋に戻す。
立ち上がり、ファミレスの方へ歩き出す。途中でスマホを取り出し、店長の連絡先を開いた。
通話ボタンの上で指が止まる。
「トレーナー役、正式に……時給に反映……」
口の中で練習して、もう一度、ノートを取り出したくなる衝動を抑える。
ここは道の途中だ。立ち止まると遅れる。
ユウキは通話ボタンを押した。コール音が耳に入る。
その音を聞きながら、もう片方の手で袋の中のノートを強く握った。明日の昼休み、五分で済ませるために。次の一歩を、遅れないために。
「どうぞ」
戸田ユウキは入ってきても椅子に座らない。鞄の肩紐を握ったまま、視線だけが室内を泳いだ。
相沢陸がコピー用紙の束を抱えて、机の端で止まる。静の顔と、ユウキの顔を交互に見た。
「……呼ばれたんすけど」
ユウキの声は小さい。だが語尾だけ妙に突き放す。
静は名簿を閉じた。机の上のタイマーが、カチ、と音を立てる。保健室の出入りを「時間で管理する」と黒川が言ったときから、癖になった。
「座って。五分で終わる話じゃない」
「別に。俺、進路とか決めてないし」
「決めてないのに、ここに来た」
ユウキは肩をすくめて、椅子に落ちるように座った。
陸が小声で「飲み物、いる?」と言いかけて、静の視線で口を閉じる。
静はユウキのファイルを開いた。赤い数字が並ぶ。
「中間も期末も、学年最下位」
ユウキの指が膝の上で動いた。爪で皮膚をこする。
「はいはい。言われなくても知ってる」
「知ってるなら、次。アルバイト」
ユウキの顔が一瞬だけ上がる。
「……なんで、それ」
「担任から聞いた。夜、駅前のファミレス。週五」
「別に。金いるし」
「遅刻、増えた理由はそれ?」
「……」
静は黙ったまま、ユウキの沈黙を置いた。時計の秒針だけが進む。
ユウキが先に折れた。
「遅刻は……まあ。仕方ないっすよ。閉店作業、伸びるし」
「仕方ない、で学校は待ってくれない。欠課が積み上がると、卒業が危ない」
「脅し?」
「事務。現実」
ユウキは笑うでもなく、口角だけが歪んだ。
「卒業できなかったら、バイト増やすだけっす」
「増やすだけ、で社会が回るなら苦労はない」
静はファイルから、もう一枚の紙を出した。薄いコピー。店名の入ったメモのようなもの。
「これ、店長から学校に電話があった。『戸田くんは助かってます』って」
ユウキの目が細くなる。
「……店長、余計なこと」
「余計じゃない。学校にとっては珍しい情報」
陸が思わず口を挟む。
「え、電話してくる店長、すげえっすね」
ユウキが陸を睨む。
「別に。俺がいないと回んないだけ」
静は言葉を拾わない。代わりに聞く。
「具体的に、何をしてる」
「……」
「『回る』って、何が回る」
ユウキは視線を逸らし、机の角を見つめた。
「ホール。新人に教える。クレーム来たら、俺が出る」
「なんでお前が」
陸の声が出た。ユウキは面倒くさそうに息を吐く。
「店長が厨房で手離せないときあるし。社員、少ないし」
「高校生がクレーム対応?」
「別に。言われてること聞いて、謝って、代案出すだけ」
静のペンが止まる。
「代案。例えば」
ユウキは、言いながら思い出したのか、少しだけ語尾が滑らかになった。
「注文遅いって怒ってた客に、先にサラダ出して、ドリンク無料にして、厨房に優先で通して……最後、会計のときに『対応ありがとう』って言われた」
陸が「それ、普通にすご」と小さく漏らす。
ユウキはすぐに「別に」と返したが、その「別に」が弱い。
静は紙に何かを書き、ペン先を置いた。
「学校のテストは最下位。でも現場での評価は高い」
ユウキが肩をすくめる。
「現場って言っても、ファミレスっすよ。誰でもできる」
「誰でもできる仕事を、誰でも“続けられる”わけじゃない」
ユウキの目が動く。静の顔を見て、すぐ外す。
「……続けてるだけ」
「続けてる理由は金?」
「それ以外ある?」
「家」
ユウキの背中が、わずかに固まる。静は言い切らず、間を空けた。
「……母子家庭。母ちゃん、夜勤。弟二人。俺がいないと飯が遅くなる」
ユウキの声は、言い訳の形をしていない。淡々としていた。
陸が紙束を胸に抱え直す。何か言いたそうに口を開きかけ、閉じた。
静は頷くだけで、同情の言葉は置かない。
「じゃあ、バイトは簡単にやめられない」
「やめないっす」
「やめさせもしない。問題は、学校を落とすと、選択肢が減る」
ユウキが笑った。
「選択肢? 俺、大学とか無理だし。就職だって、どうせ高卒なんて」
「高卒でも就職はある。ただし、学校経由の求人は、欠課と遅刻が多いと弾かれる」
ユウキの笑いが止まる。
「……求人って、先生が持ってくるやつ?」
「そう。推薦も似たようなもの。学校が『この子を出します』って責任を持つ。責任を持てない状態だと、出せない」
ユウキが唇を噛む。噛んでから、吐き捨てるみたいに言う。
「じゃあ、詰みじゃん」
「詰ませないために呼んだ」
静は机の上のタイマーを指で止め、また押した。今度は、静の側のリズムで。
「戸田。お前の武器は、店でやってること。『聞く』『謝る』『通す』『教える』。これを、学校の言葉に変換する」
ユウキが眉を寄せる。
「学校の言葉?」
「評価の形にするってこと」
陸が首を傾げる。
「バイトって、内申に……」
「直接は載らない。でも進路資料には書ける。面接でも使える。推薦書にも入る」
ユウキが身を乗り出す。
「推薦書、俺でも?」
「条件付き。遅刻と欠課を止める。最低限」
ユウキがすぐに引く。
「無理。閉店、伸びるし」
「じゃあ、店と交渉する」
「は? 俺が?」
「お前が。店長に。『この曜日は早上がりが必要』って」
ユウキは鼻で笑った。
「そんなの言ったら、使えないって切られる」
「切られない言い方を考える。お前、クレーム対応できるんだろ」
ユウキの口が開いたまま止まる。反論が出ない。
静は続ける。
「それでも無理なら、週五を週四にする。収入が減る。家と相談」
ユウキの目が鋭くなる。
「それは無理。弟の習い事、もうやめさせた。これ以上は無理」
「なら、別の支援も見る。就学支援金、自治体の補助、母子家庭の手当。お前が知らないだけで、穴がある」
ユウキが顔をしかめる。
「そういうの、恥ずい」
「恥ずいで腹は減る」
静の声は平らだった。ユウキが目を伏せる。
陸が、机の端で指先を握ったり開いたりする。静の言い方が刺さったのか、自分に言われたみたいに視線を落とす。
静は少しだけ声を落とした。
「戸田。学校は優しくない。黒川は数字しか見ない。遅刻の回数、欠課の時間、卒業できるか。そこだけで切る」
ユウキが顔を上げる。
「教頭……あいつ、朝の門で見てる人?」
「見てる。最近は特に。保健室の出入りも」
陸が小さく「監視みたい」と呟く。
静は否定しない。
「だから、こちらも数字を作る。バイトの評価を証拠にする。遅刻を減らす計画を紙にする。面談記録を残す」
ユウキが乾いた声で言う。
「先生、俺のこと、商品みたいに扱う」
静はユウキを見たまま、首も傾けない。
「学校は企業だって言う人がいる。なら、売り物を磨くしかない。お前の中身は、そのままじゃ伝わらない」
ユウキの指が止まる。机の上の紙を見た。
「……俺、勉強できないっすよ」
「勉強で勝てとは言ってない。最低限の赤点を避ける。卒業を守る。そこから先は、現場の強さで勝つ」
ユウキが息を吐く。長く、ゆっくり。
「……現場の強さって、言われても」
静はメモをユウキの前に滑らせた。そこには短い項目と空欄がある。
「次までの宿題。店長に、評価を書いてもらう。できれば具体例付き」
ユウキが目を丸くする。
「そんなの、頼めない」
「頼み方をここで練習する」
陸が小さく笑った。
「面接みたいっすね」
ユウキが陸を睨むが、強くない。
静は椅子に深く座り直す。
「それと、学校の方。遅刻を週一まで落とす。無理なら理由を紙で出す。口で言うと流される」
ユウキが紙を指で押さえた。
「……週一って、きつい」
「きついのは知ってる。だから、店と交渉。家とも交渉。交渉できないなら、選択肢は減る」
ユウキが唇を動かす。何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、ぼそっと言う。
「……俺、店ではさ。『戸田くんいると安心』って言われる」
「それを持ってくる」
静の言葉は短い。
ユウキは紙を鞄に入れようとして、手が止まった。
「先生。これ、取れなかったら」
静は即答しない。机の端に置かれたタイマーを見た。秒針が、淡々と回る。
「そのときは、別の道を探す。職業訓練校もある。通信制もある。就職も、学校経由だけじゃない。けど」
静はユウキに視線を戻す。
「今ここで動かないと、黒川に『外部連携は止める』って言われる。お前だけじゃない。第3の全員が巻き込まれる」
ユウキが眉を寄せた。
「……俺のせいで?」
「せいにされる。そういう仕組み」
陸が、喉の奥で小さく息を呑んだ。
ユウキは鞄の口を閉め、立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がする。
「……わかった。店長に言う。今日、シフト入ってるし」
「言い方は?」
静が問うと、ユウキは一瞬詰まった。
「……『すみません、学校の都合で』」
「違う」
静がペンを持ち直す。
「『卒業のために必要です。店に迷惑をかけない形で調整したい。具体的に、この曜日だけ閉店前に上がれませんか』。主語は自分。責任も自分」
ユウキは口の中で繰り返すように、ゆっくり頷いた。
陸が小声で言う。
「戸田、がんばれ。……てか、店長、絶対書いてくれるって」
「うるせ」
ユウキは言いながら、少しだけ口元が緩んだ。
ドアに手をかけたところで、静が呼び止める。
「戸田。次、いつ来れる」
ユウキが振り返る。
「……昼休みなら」
「昼休みは混む。放課後、十分でいい。保健室の前、通るな。今、見られてる」
ユウキが目を細める。
「……先生も、そういうの気にするんだ」
「気にする。生徒の人生が、その程度で動く」
ユウキは何も言わず、ドアを開けた。
廊下の足音が遠ざかる。
陸が静の机の前に紙束を置いた。
「……ああいう奴、学校にいると損っすね」
静は紙束を揃えながら、窓の外を見た。裏門の方角。人影はない。
「損してる、で終わらせない」
陸が頷きかけて、ふと眉をひそめる。
「でも、教頭。数字しか見ないなら……戸田のバイトの話、通るんすか」
静はファイルを閉じた。
「通る形にする。店長の文書。出勤記録。役割。具体例。面接で再現できる言葉」
「……先生、ほんとに戦ってる」
静は椅子から立ち上がり、壁の掲示板に新しいメモを貼った。そこには太い字で「戸田:店長評価/遅刻調整/支援制度確認」とだけ書いた。
廊下の向こうから、誰かの靴音が近づく。職員室へ向かう固い足取り。静は耳だけでそれを測り、陸に目配せした。
「陸。次、佐伯」
陸の肩が跳ねる。
「……今日、来るんすか」
「来させる。保健室一時間。時間厳守。見られてる」
陸は唇を引き結び、紙束を抱え直した。
静はドアノブに手をかけ、いったん止まった。
廊下の靴音が、少しだけ遅くなった気がした。見られているのは、生徒だけじゃない。
静は扉を開ける。冷えた空気が頬に当たった。
「行くよ」
陸が小さく返事をして、後ろをついてきた。
保健室前の廊下は、消毒薬の匂いが薄く残っていた。
桐生静は壁際に立ち、腕時計を見た。針がぴたりと合う。黒川が「一時間」と言った、そのままの数字。
相沢陸が廊下の端で、何度もスマホを伏せたり起こしたりしている。
「来ないっすかね、佐伯」
「来る。来させる」
静はそう言って、保健室のドアを軽くノックした。
「失礼します」
中から養護教諭の声が返る。
「桐生先生。今、空いてますよ。佐伯くんは……まだ」
静は短く礼を言い、ドアを閉めた。
そのとき、階段を駆け上がる足音がした。息を切らした戸田ユウキが、制服の上着を片腕に引っ掛けて現れる。
「先生!」
静が振り向く。
「どうした」
ユウキは声を落として、廊下を見回した。保健室の前。人の目が気になる場所だと気づいて、舌打ちを飲み込む。
「……店長。書いてくれるって」
「早い」
「でも、さ。『これ、学校に出すなら正式なやつにする』って言って」
「正式。いいね」
ユウキが眉を寄せる。
「で、なんか……雇用契約書、見たかって」
静は頷いた。
「見たことある?」
「ない。てか、そんなの、書いたっけ俺」
陸が思わず口を挟む。
「え、契約書なしで働いてんの?」
「普通じゃね? 面接して、採用って言われて、シフト入って……」
静が言葉を切る。
「普通じゃない。多いけど、普通じゃない」
ユウキがムッとする。
「でも給料出てるし」
「給料明細、見せて」
ユウキはポケットを探り、ぐしゃっと折れた紙を出した。静が受け取る。
静の視線が数字を追う。控除欄。交通費。深夜。所得税。
「……これ、何?」
ユウキが指で控除を叩く。
「知らね。勝手に引かれてる」
静は紙を返さず、ユウキを見た。
「勝手に、じゃない。引かれる理由がある。知らないまま働くと、損する」
ユウキが鼻で笑う。
「損って言っても、数百円っしょ」
「数百円が積み上がる。あと、税金は数百円で終わらないことがある」
陸が不安そうに聞く。
「え、税金って……高校生でも?」
静が陸に視線だけ返す。
「働けば、かかるものはかかる。年末調整とか、確定申告とか」
ユウキが固まった。
「……かくてい、なに」
静は息をつかない。
「確定申告。自分で税金の計算をして、申告する手続き」
ユウキが笑おうとして失敗した顔になる。
「え、俺、そんなの無理。学校のテストも無理なのに」
「だから学校が意味ない、って?」
ユウキが肩を強くすくめる。
「意味ないっすよ。英語とか古文とか。バイトで使わねえし」
静は給料明細の控除欄を指でなぞった。
「じゃあこの数字、誰が守ってくれる」
ユウキが黙る。
「店長?」
「……店長は、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしてても、店の都合は店の都合。お前の生活はお前の責任」
ユウキの喉が動いた。言い返したいのに言葉が出ない。
陸がユウキの顔を覗くようにして言う。
「戸田、給料明細、今まで捨ててた?」
「……机の引き出しに突っ込んでる」
「残しとけ。絶対」
ユウキが陸を睨む。
「お前に言われたくねえ」
「言う。俺、こういうのだけは怖い」
静が二人の間に声を落とす。
「戸田。年末調整、店でやってくれてるならいい。やってないなら、お前が動く。扶養から外れるかどうかも関わる。母親の税金にも影響する」
「……扶養って、なんすか」
静は一瞬だけ目を閉じるように瞬きをした。
「親の税金の計算に関係する仕組み。お前の稼ぎが増えると、親の負担が増える場合がある」
ユウキの表情が変わった。軽口が消える。
「それ、母ちゃんに……迷惑?」
「可能性はある。だから確認する」
ユウキが早口になる。
「俺、家計助けてるのに? 稼いだら罰ゲームみたいじゃん」
「罰ゲームじゃない。ルール。知らないと、後でまとめて来る」
ユウキが明細を取り返そうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……じゃあ、どうすりゃいいんすか」
静は明細をユウキに返した。
「まず、雇用契約書。あるならコピー。ないなら、店長に『作ってください』と言う。あと、年末調整の書類、出したか確認。扶養の話は、母親と相談」
ユウキが顔をしかめる。
「母ちゃん、そういうの苦手だし。疲れてるし」
「だからお前が聞く。わからなければ、ここに持ってくる。税務署に電話するのも手だ」
陸が目を丸くする。
「税務署に電話って、できるんすか」
「できる。向こうは仕事。聞けば答える。恥じゃない」
ユウキは唇を噛む。しばらくして、ぼそっと言った。
「……学校って、そういうの教えねえじゃん」
静はすぐに返さない。廊下の向こうで、誰かが職員室へ向かう足音が響く。硬い靴音が、ここまで届く。
静は足音が遠ざかるのを待ってから言った。
「教える時間はある。でも、教頭は『進学実績』を優先する。生活の授業は点になりにくいから、削られる」
ユウキが目を細めた。
「やっぱ意味ないじゃん。学校」
「学校が意味ないんじゃない。学校の使い方が、今のお前に合ってない」
ユウキが鼻で笑う。
「言い換え」
「現実の言い換えは、道を増やす」
静はユウキの明細を指でトントン叩いた。
「『学校は意味ない』って言い切るのは簡単。じゃあ、契約と税と労務のルールの中で、お前はどう自分を守る」
ユウキが視線を落とす。
「……守り方、知らない」
「今、知った。次は、使う」
陸がユウキにスマホを差し出す。
「戸田、店長に聞くこと、メモする? 俺打つ」
「いらね」
「いらないなら、口で言える?」
ユウキが黙る。
静が淡々と言う。
「メモ。『雇用契約書の有無』『年末調整の書類』『交通費の扱い』『深夜手当の計算』。この四つ」
ユウキが渋々頷く。
「……わかった。今日、聞く」
「聞いたら、明日ここ」
「明日、俺、放課後シフト」
「昼休み。五分でいい」
ユウキが口を開く。
「昼休み、混むって言ってたじゃん」
「混む。だから五分。ここで待たない。裏から入る」
陸が「また裏門導線っすか」と小声で言って、すぐ口を閉じた。
静は陸を見た。
「陸、時計」
陸が腕時計を見る。
「……あと三分で、佐伯の一時間、開始時間っす」
静の視線が保健室のドアに向く。
ユウキが、その視線を追って言った。
「……不登校のやつ?」
「そう」
「俺、ああいうの、無理。甘えに見える」
陸がピクッと反応するが、言い返さない。代わりに静が言う。
「甘えかどうかはどうでもいい。来られるかどうかが現実。来られないなら、別の道を作るだけ」
ユウキが吐き捨てる。
「先生、なんでも道って言う」
「道がないと、落ちるから」
静の声は変わらない。だが言葉の端が硬い。
保健室のドアが開いた。養護教諭が顔を出す。
「桐生先生。佐伯くん……来ました。今、入れます」
静は腕時計を見た。秒針が、開始の位置に来る。
「行く」
陸が頷き、保健室へ向かう。
ユウキが一歩引いた。だが、その場を離れない。
「戸田」
静が呼ぶと、ユウキが顔を上げる。
「学校が意味ないなら、なおさら、ここを使え。意味を作る場所にする」
ユウキは何も言わず、明細を握りしめた。紙の端が、指の汗で少し湿る。
静が保健室のドアに手をかける直前、廊下の向こうでまた硬い靴音が止まった気配がした。誰かがこちらを見ている距離。
静は振り返らないまま、ドアを開けた。
「時間、守るよ」
陸が小さく「はい」と返し、静の背中に続いた。
ユウキは廊下に残り、靴音の方角を一度だけ見たあと、上着を肩に引っ掛け直して、駅前の方へ歩き出した。明日の昼休み、五分を作るために。
昼休みの第3進路室は、ドアの外がざわついていた。廊下を通る足音、購買の袋の擦れる音、遠くの笑い声。
机の上のタイマーが、静かに残り時間を刻んでいる。
戸田ユウキは椅子に浅く腰掛け、膝の上のクリアファイルをぎゅっと押さえていた。
「五分って言っただろ」
桐生静が言うと、ユウキはファイルを差し出した。
「持ってきた。契約書のコピー。あと、年末調整? それの紙も」
「よし」
静は受け取り、目を走らせる。雇用形態、時給、深夜割増、締日と支払日。署名欄。店の印。
「ここ、署名してる。つまり契約は結んでる」
ユウキが鼻で息を吐く。
「覚えてねえ。言われたから書いただけ」
「それでいい。覚えてなくても、紙は残る」
静は別の紙を確認し、ペンで丸をつけた。
「年末調整も出してる。扶養の欄、ここは母親が該当。今の収入なら、ぎりぎりライン。シフト増やすなら、先に相談」
ユウキが顔をしかめる。
「ラインって、どこ」
「今は細かい数字は覚えなくていい。増やす前に確認する癖をつける」
「癖ね」
ユウキは椅子の背にもたれた。だが目は静の手元を追っている。
静は紙をファイルに戻し、別の白紙を引き寄せた。ペン先で短い線を引く。
「戸田のバイト、ただの『飲食』じゃない。分解する」
ユウキが眉を寄せる。
「分解?」
「接客。段取り。クレーム対応。教育」
静は四つの言葉を縦に書いた。
「接客。何ができる」
「注文取る。料理運ぶ。レジ」
「お客の顔見て、何を先にするか決める?」
「……混んでたら、水先。子どもいる席は早めに取り皿」
「段取り。何を回してる」
ユウキは一瞬黙ってから、早口になる。
「ピーク前にテーブルセット。新人をドリンクに固定。厨房に声かけて、出る順番確認。呼び鈴鳴りっぱなしの席は、先に声だけかける」
陸が机の端で、思わず「それ、指揮官」と呟いた。
ユウキが「うるせ」と返すが、否定の勢いがない。
静は書きながら頷く。
「クレーム対応。昨日も言った。『聞く』『謝る』『代案』『再発防止』。これ、面接で強い」
ユウキが口を尖らせる。
「面接って、結局、口がうまい奴が勝つじゃん」
「うまさじゃない。具体例がある奴が勝つ」
静はペンを置き、ユウキを見る。
「『怒鳴られました。怖かったです』じゃ落ちる。『遅延の原因を確認し、先出しと代替提案をして、最後に謝意を得た』は残る」
ユウキは視線を逸らしたまま、指を動かす。
「……言い方、めんどい」
「めんどいをやったやつが、昇給する」
その言葉に、ユウキの視線が戻る。
「昇給?」
静は頷く。
「時給。今いくら」
「千百。深夜は……ちょい上」
「千百を、千二百、千三百にする道はある。店内の評価だけじゃなく、資格と役割で」
ユウキが身を乗り出す。
「資格って、バイトでも?」
「取れる。食品衛生責任者。防火管理者。店の規模によっては必要になる」
ユウキの眉が跳ねる。
「なにそれ。俺でも取れんの」
「講習。試験じゃないやつもある。受講料はかかる。自治体や団体で安いところもある」
陸が首を傾げる。
「それって、高校生でも受けられるんすか」
「条件はある。年齢や立場。店が出す場合もある。だから、店長に交渉」
ユウキが小さく笑った。
「また交渉」
「お前、交渉得意だろ。クレーム対応してるんだから」
ユウキは「得意じゃねえ」と言いながら、指先が落ち着いていく。
静は紙に矢印を引いた。
「ルートを作る。まず、店内で『トレーナー』役を正式にもらう。新人教育の担当。次に、衛生か防火の資格を取る。店長に『時給に反映されるか』を確認する」
ユウキが眉を寄せる。
「反映されなかったら?」
「店を変える選択肢が増える。資格は持ち運べる」
ユウキの口が少し開く。
「……店、変えるとか、考えたことない」
「今は考えなくていい。逃げ道があるって知るだけで、交渉の顔が変わる」
陸が小声で「強い」と言った。
ユウキが陸を睨む。
「お前、さっきから何なん」
陸は肩をすくめる。
「いや、俺、バイト落ちまくってるから。尊敬する」
「尊敬とか、いらね」
「でも、戸田がやってるの、俺できない」
ユウキは返さない。けれど、背もたれから少しだけ前に戻った。
静は紙の端に、もう一つ書く。
「接客の資格で言うと、サービス接遇検定。これは試験。難しい。けど、合格すれば履歴書に書ける」
ユウキが顔をしかめる。
「検定とか、勉強じゃん」
「勉強だ。だから、取るなら段階。いきなり上は狙わない。三級から。テキストは薄い」
ユウキが「薄い」に反応する。
「薄いなら……まあ」
静はすぐ釘を刺す。
「薄いだけで簡単じゃない。提出物も遅刻も止める。卒業が前提」
ユウキが舌打ちしかけて止めた。
「卒業、卒業って」
「卒業できないと、このルートが途切れる。高卒求人も専門学校も、応募の条件が消える」
ユウキが黙る。
外の廊下が一瞬静かになり、次の授業のチャイムが近づく気配がした。
静はタイマーを見る。残り一分。
「戸田。次、やること二つ」
ユウキが身構える。
「二つなら聞く」
「一つ。店長に『トレーナー役を正式に』って頼む。言い方は、昨日の型で」
ユウキが頷く。
「二つ目」
「この紙、持って帰って、家で母親に見せる。『収入増やす前に相談する』って言う」
ユウキの眉が寄る。
「それ、言いづらい」
「言いづらいまま増やすと、もっと言いづらいことが起きる」
ユウキはファイルを抱え直した。
陸が時計を見る。
「やば、あとで教頭の見回り来る時間……」
静の視線が一瞬だけドアへ向く。廊下の向こうの気配を測るように。
「戸田、裏口で出る。人の流れに混ざらない」
ユウキが立ち上がる。
「俺、なんか悪いことしてるみたいじゃん」
「悪いことじゃない。余計な燃料を渡さないだけ」
ユウキは口を開きかけ、閉じた。代わりに短く言う。
「……わかった」
ドアを開ける前に、静が呼び止めた。
「戸田」
ユウキが振り向く。
静は机の紙を指で叩いた。四つの言葉が並ぶ。
「接客、段取り、クレーム、教育。これ、お前の成績表だ。学校のじゃない。社会の」
ユウキは一瞬、目を細めた。笑うでもなく、反発するでもなく。
「……それ、面接で言っていい?」
「言え。言えるように、次は例を三つ持ってこい」
ユウキは「三つかよ」と小さく言いながら、ドアを開けた。
廊下の空気が流れ込む。人の声が戻る。
ユウキが出ていく背中を見送りながら、陸がぽつりと言った。
「先生、ああいうの、教頭に見せたら評価されるんすかね」
静は机の紙をそっと裏返した。表に出せる言葉と、出せない導線を分けるように。
「見せる形にする。見せた瞬間に潰されるなら、順番を変える」
チャイムが鳴った。
静は立ち上がり、次の予定のメモを手に取る。そこには「深谷:職場体験前/保健室一回」「佐伯:今週一時間」と並んでいた。
「陸、次。深谷の保健室、今日中に一回通す」
陸が息を飲み、頷いた。
静はドアノブに手をかける。廊下の向こうに、硬い靴音が混じり始めていた。
放課後、駅前の文具店は制服の群れで狭かった。
戸田ユウキは入口の自動ドアをくぐると、すぐに棚の間へ身体を滑り込ませた。購買袋を揺らす連中に肩をぶつけられ、「すみません」と言いながらも、目は落ち着かない。
「ノート、どれだよ……」
独り言が漏れる。いつもなら、こんな場所は素通りだ。
スマホが震えた。相沢陸からのメッセージが一件。
『買うならA5の方が持ち歩きやすいっす。バイトの制服ポケット入る』
ユウキは「は?」と小さく返して、画面を閉じた。だが棚の前で立ち止まる。A5。B5。リング。綴じ。
「……ポケットとか、入んねえし」
そう言いながら、手がA5の棚へ伸びる。
背後で、同じ学校の男子が笑いながら通った。
「戸田じゃん。珍し。勉強すんの?」
「彼女できたんじゃね?」
ユウキは振り向きもしない。耳だけが熱くなる。視線を棚に固定したまま、ノートを一冊抜き取って、戻す。
「……うるせ」
小さすぎて、誰にも届かない。
ペン売り場の横に、安いメモ帳が積まれていた。ユウキはそっちに逃げそうになって、指先が止まる。
静の声が頭の奥で鳴った。
――薄いだけで簡単じゃない。例を三つ。
例。具体例。面接。
ユウキは息を吐いて、もう一度ノート棚へ戻った。今度は白い無地の表紙を選ぶ。余計なキャラクターも、励ましの言葉もない。
「これでいいか……」
ノートを胸に抱えたまま、ペン売り場へ行く。ボールペンの前で立ち尽くす。
「黒……青……」
店内のBGMが、やけに軽い。
ユウキは黒を一本掴み、値札を見る。安い。なのに、指が躊躇う。
「……ノートとか、金の無駄だろ」
言い切ってみても、ノートは手から落ちない。
レジへ向かう途中、ガラス越しに駅前のファミレスの看板が見えた。今日もシフトがある。いつも通りなら、制服に着替えて、笑って、謝って、回す。それだけだ。
でも、いつも通りに回すだけじゃ、守れないものがある。
控除欄の数字。扶養。年末調整。
「……知らねえと、負けるってことか」
呟いて、ユウキはレジに並んだ。
前の客が会計でもたつく。店員が丁寧にポイントカードを確認している。ユウキの足が小刻みに動く。急げ、と自分に言う。遅れたら、今日も閉店作業が伸びる。
順番が来た。
「ノートとペン、お願いします」
声が意外と普通に出た。店員がバーコードを通す。
「三百六十円になります」
ユウキは小銭を出した。指が硬い。受け取ったレシートを見て、ふと笑いそうになる。
三百六十円。バイトの時給の三分の一もない。
なのに、今まで一回も買わなかった。
袋を受け取って店を出ると、冷たい風が頬を打った。駅のホームへ向かう人の流れに混じる前に、ユウキはベンチの端に腰を下ろす。
袋からノートを取り出し、表紙を撫でる。新品の紙の匂い。
スマホがまた震えた。今度は桐生静からだった。短い。
『例3つ。明日昼休み。裏。遅れるな』
ユウキは画面を見たまま、しばらく動かなかった。指が、返信欄を開いて閉じてを繰り返す。
『わかった』
それだけ打って送る。送信音が小さく鳴る。
ユウキはノートを開いた。最初のページが真っ白で、やけに眩しい。
ペン先を当てて、止まる。
「……何書けばいいんだよ」
声に出してから、静の「分解する」という言葉を思い出す。
ユウキは書いた。
接客
段取り
クレーム
教育
四つの言葉が並んだだけで、ページが少しだけ重くなる。
次に、クレームの下に短く書く。
・遅延→先出し→代案→謝意
書き終えて、息を吐いた。胸の奥が、少しだけ静かになる。
背後で、同じ学校の女子が二人、駅へ向かいながら囁くのが聞こえた。
「最近、教頭が保健室の前うろうろしてない?」
「進路室の先生、目つけられてるって」
ユウキは聞こえないふりをした。ノートを閉じ、袋に戻す。
立ち上がり、ファミレスの方へ歩き出す。途中でスマホを取り出し、店長の連絡先を開いた。
通話ボタンの上で指が止まる。
「トレーナー役、正式に……時給に反映……」
口の中で練習して、もう一度、ノートを取り出したくなる衝動を抑える。
ここは道の途中だ。立ち止まると遅れる。
ユウキは通話ボタンを押した。コール音が耳に入る。
その音を聞きながら、もう片方の手で袋の中のノートを強く握った。明日の昼休み、五分で済ませるために。次の一歩を、遅れないために。
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