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第16話:親の夢を背負う子
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第3進路室のドアは半分だけ開いていた。
相沢陸が廊下を覗き、誰もいないのを確かめてから、指で軽く二回ノックする。
「桐生先生。来た」
桐生静は顔を上げずに、机の上の書類を揃えた。戸田ユウキの契約書コピー、店長の評価文書、年末調整の控え。紙の角を揃える手つきが妙に落ち着いている。
「入れて」
陸の後ろに、女子が立っていた。肩までの黒髪。制服のスカートのプリーツがきっちりしているのに、指先だけが落ち着かない。鞄の持ち手を何度も握り直している。
静が椅子を指さす。
「佐倉ヒナ。座って」
ヒナは椅子に腰を下ろしたが、背中が椅子に触れない。顎だけ少し上がっている。
陸はドアの近くで立ったまま、廊下に耳を澄ませる。
静が視線を上げた。
「担任から回ってきた。『医大志望で志望理由書の添削を』って」
ヒナの目が一瞬だけ鋭くなる。
「……親が、そう言ってます」
「あなたは?」
ヒナは答えない。口を開きかけて、閉じる。唇の端が白くなる。
静は急かさない代わりに、机の端にペンを置いた。
「佐倉。ここは第3進路室。進路の正解は出さない。出せるのは、今の条件と、取れる手。どっちがいい?」
「……条件」
「よし。今、成績は?」
ヒナは鞄からファイルを出し、内申のコピーを差し出した。指先が紙を押さえる力が強い。
静はざっと見る。
「理数は上。国語は普通。英語は波がある。欠席は少ない。模試の判定は——」
「見なくていいです」
ヒナが言った。声が少しだけ上ずる。
静は手を止めた。
「見ないと現実が動かない。医大は、学費も、偏差値も、面接も、全部重い」
ヒナの肩が小さく揺れる。笑ったように見えて、笑っていない。
「だから、親が全部やってくれてます。塾も、家庭教師も。私の予定も」
「あなたの予定、ね」
静は紙を戻し、別の紙を引き寄せた。白紙のメモ。
「親は医者?」
「父が開業してます。母も医師です」
陸が小さく息を吸った。静は気づいてもそのままにする。
「家は医者一家。あなたが医者になるのが自然。そういう空気?」
ヒナは頷いた。頷き方が硬い。
「兄がいます。兄は……逃げました」
「逃げた?」
「医者にならないって言って、家を出た。今どこにいるか、あまり——」
言いかけて、ヒナは視線を落とした。机の木目を見ている。
静はメモに短く書く。「兄:離脱」
「で、あなたは?」
ヒナの手が鞄の中を探った。出てきたのは小さなスケッチブックだった。表紙が角で擦れて白くなっている。
ヒナはそれを机に置くが、開かない。
「……絵」
言葉が転がるみたいに出た。
「描きたい」
陸が思わず一歩だけ前に出る。静が視線で制す。
静はスケッチブックに触れない。
「描きたい。どのくらい?」
ヒナは喉を鳴らした。
「授業中も。ノートの端とか。家だと、見つかるから……夜」
「見つかると?」
「捨てられます」
陸の眉が動いた。静は何も言わず、ペンを持ち直す。
「捨てられたの、何回」
「数えたくない」
静は頷くだけで、メモに「作品破棄:複数」と書いた。
「佐倉。医者になる道と、絵の道。どっちか一つにしろ、って言われたら?」
ヒナは即答しない。机の上のスケッチブックを両手で押さえ、爪が表紙に食い込む。
「……医者って言うと思います」
「思う、ね。言いたいのは?」
ヒナの目が上がった。涙は出ていない。出さないようにしている目だ。
「絵が描きたい」
短い。けど、言い切った。
静はそれを受け止める代わりに、現実の棚を開けるみたいに言った。
「絵で食うのは厳しい。才能だけじゃ無理。時間と、お金と、環境が要る。医大も同じくらい厳しいけど、仕組みが違う」
ヒナは眉をひそめる。
「じゃあ、どっちも無理って言うんですか」
「無理って言わない。増やす。選択肢を」
静はスケッチブックを指で軽く示した。
「まず、それ。見せて」
ヒナは一瞬だけ身を引いた。
「……評価されるの、嫌です」
「評価しない。進路に使うために見る」
「進路に?」
「絵は『好き』だけだと負ける。『何ができるか』に変える」
ヒナは唇を噛んだまま、スケッチブックを開いた。
ページの中は、人物の横顔、手、教室の窓、廊下の光。線が細いのに迷いが少ない。何枚かはボールペンで、何枚かは色鉛筆で塗りがある。端に小さく日付が書いてある。
静はページをめくらせてもらう。指先は紙に触れないように慎重だ。
「観察。速写。構図。——これ、学校の廊下だな」
ヒナが小さく頷く。
「見回りの時間に描いた」
陸がドアの方を見た。静も一瞬だけ視線を動かす。廊下の気配はない。
静はページの端の日付を読んだ。
「毎日描いてる?」
「描ける日は。描けない日は、頭の中で」
「頭の中で描くのは、手は上手くならない」
ヒナの目が尖る。
「分かってます」
「分かってるなら、手を動かす時間を確保する。今の生活は?」
ヒナは一拍置いて答えた。
「学校。塾。家庭教師。自習。模試。……それで、寝る」
「絵の時間は?」
「ないです」
静はメモに線を引き、時間割みたいに区切った。
「医大のための時間で埋まってる。親が管理してる?」
「スマホも制限されてます。SNSとか禁止。美大のサイト見たの、バレました」
「どうなった」
「父が怒って。『兄と同じになる気か』って」
ヒナの指がスケッチブックの角を撫でる。擦れた部分を確かめるみたいに。
静はそこで、言い方を変えた。
「佐倉。あなたが今やってるのは、親の夢を叶えるための訓練だ。あなたの夢を守る訓練じゃない」
ヒナが顔を上げる。
「じゃあ、どうすればいいんですか。家出ろって?」
「今すぐ家出は現実的じゃない。未成年だし、学費も生活も必要」
陸が小さく頷いた。静は続ける。
「まずは、家の中で戦わない方法を作る。正面衝突すると、絵が消される」
ヒナの喉が動く。
「……じゃあ、隠すしか」
「隠すだけだと増えない。増やすのは、第三者と、実績と、期限」
「第三者?」
静は机の引き出しから、学校の進路資料のファイルを出した。美術系の専門学校、デザイン系の短大、総合大学の芸術学部、通信講座。ページの端に付箋がいくつも貼ってある。
「ここ。美術の先生。あと外部の講評会。コンクール。学校名が付くものは、親にとって『数字』になりやすい」
ヒナが眉を寄せる。
「親は、絵なんて——」
「『絵』だと潰される。『実績』だと話が変わることがある」
「……そんな、うまく」
「うまくいかないこともある。だから、複数」
静はペンでメモに二本線を引いた。
「医大一本で行くなら、医大の条件を満たす必要がある。今の成績なら可能性はある。でも、あなたが折れる可能性もある」
ヒナの肩が固まる。
「折れるって……」
静は言い切らない。代わりに、机の上のスケッチブックを指で軽く叩いた。
「これが捨てられるたびに、あなたの手は止まる。止まった時間は戻らない」
ヒナの視線が揺れた。怒りとも、悔しさともつかない。
陸が小声で言った。
「捨てられたら、写真撮っとけば……」
ヒナが陸を見る。静も陸を見る。
静が短く言う。
「スマホ制限」
陸が口を閉じる。
静はヒナに向き直った。
「だから、学校で守る。保管場所も考える。ここに置くのは、リスクもあるけど」
ヒナの目が動いた。
「先生、見られてるって噂、あります」
陸が小さく頷く。
「教頭、最近……第3の前、通る回数増えた」
静はファイルを閉じた。
「知ってる。だから裏導線で動く。保健室前も監視が強い。ここも安全じゃない」
ヒナが硬い声で言った。
「じゃあ、無理じゃないですか」
「無理にしない。場所を変える」
静は立ち上がって、窓際の棚を開けた。学校の古い画用紙や、行事の余りの封筒が詰まっている。その奥に、鍵付きの薄いケースがある。
静は鍵を見せるだけで、開けない。
「ここは、私しか開けない。入れるかどうかは、あなたが決める」
ヒナは椅子の上で指を握ったり開いたりする。
「入れたら、先生が……」
「勝手に見ない。必要なときだけ、一緒に開く。条件はそれでいい?」
ヒナは小さく頷いた。
静は椅子に戻り、ペンを置いた。
「次。親にどう言うか。『医者やめます』は言わない」
ヒナが顔をしかめる。
「言わないんですか」
「今言うと、絵が消える。医者の勉強も、あなたが本当に嫌なら続かない。だから、段階」
静はメモに短く書く。
「今週:美術教員面談」
「来週:校内コンクール出品」
「模試:維持」
ヒナが覗き込む。
「模試、維持って……結局、医者の勉強もやれって」
「やる。『やれる』を見せる。親の言い分を削る材料になる」
ヒナの口が開く。
「ずるい」
「現実はずるくないと勝てない」
静の声は淡々としている。慰める調子ではない。
ヒナは目を逸らしたまま言った。
「……私、医者になりたくないって言ったら、家、終わります」
「終わらない。終わるのは、今の関係が変わるだけ」
ヒナが静を見た。
静は続ける。
「変わるのは怖い。だから、変え方を選ぶ。急に壊すんじゃなくて、少しずつ形を変える」
陸がドアの外を見て、囁いた。
「先生、廊下……足音」
静は瞬時にファイルを閉じ、ヒナのスケッチブックを白い封筒に入れた。封筒の表には「進路資料」とだけ書く。
静がヒナに封筒を渡す。
「今日、持って帰る?」
ヒナの指が迷う。
「……帰ったら、見つかる」
「なら置く。ここに」
ヒナは封筒を静に戻した。
静は立ち上がり、棚の奥の鍵付きケースに封筒を滑り込ませた。鍵をかける音が小さく響く。
ドアの外で誰かが立ち止まった気配がする。ノックはない。ただ、沈黙が重い。
陸が息を止める。
静は机に戻り、何事もなかったようにヒナの内申コピーを表に出した。
「——志望理由書の話に戻る。医者志望として書くなら、今のうちに『自分の言葉』にしないと面接で詰む」
ヒナが喉を鳴らした。
「自分の言葉……」
「『親が医者だから』は禁句。あなたが何を見て、何を嫌で、何を選ぶか。そこが薄いと落ちる」
ヒナの目が揺れる。静はそこを逃さず、でも追い詰めない。
「今日は一つだけ。医者になって、何をしたいことになってる?」
ヒナは小さく笑った。乾いた音。
「……地域医療に貢献、とか」
「それ、誰の言葉」
ヒナは答えない。廊下の気配が少し遠ざかった。
静はペンを置いた。
「次の面談までに、二つ書いてくる。医者として『やりたいこと』を三行。絵で『やりたいこと』を三行。どっちが本物か、比べる」
ヒナが眉を寄せる。
「比べたら、バレます」
「紙はここに置く。家に持ち帰らない。ここで書く」
陸が小さく言った。
「放課後、ここ……見回りあるから、時間ずらした方が」
静が頷く。
「昼休み。保健室の一時間枠の前後は避ける。裏階段で来い。陸、案内できる?」
陸が一瞬だけ戸惑ってから、頷いた。
「……できます。教頭の巡回、だいたいパターン……」
「声小さく」
静が遮る。陸は口をつぐむ。
ヒナが立ち上がった。椅子が小さく鳴る。
「先生。私、もし……絵の方に行きたいって決めたら、親と戦うことになりますよね」
静は鍵のついたケースを見たまま答えた。
「戦う日が来る。避けられない」
ヒナの指が制服の袖口を握る。
「怖いです」
静はヒナを見た。
「怖いままでいい。怖いなら、準備する。準備は裏切らないことが多い」
ヒナは頷いた。頷き方が、さっきより少しだけ柔らかい。
ドアの外でまた足音が近づく。今度は二人分。低い声が混じる。
陸がドアノブに手をかけ、静を見る。
静が短く言う。
「先に出るな。時間をずらす。ヒナ、五分待ってから裏階段」
ヒナが頷く。
静は机の上の内申コピーを揃え、あえて見える位置に置いた。医大志望の資料も一枚、上に重ねる。
足音がドアの前で止まる。
静は椅子に深く座り直し、ペンを取った。
「さて。志望理由書、書くか。『地域医療』の中身、あなたの言葉で」
ヒナは息を吸い、吐いて、椅子に座り直した。封筒のない机の上で、指先だけがまだ震えている。
ドアの向こうで、誰かが静かに咳払いをした。
「……地域医療って、何を書けばいいんですか」
佐倉ヒナはノートを開いたまま、ペンを持てずにいた。机の上で指が空回りする。
桐生静は、医大のパンフレットを一枚だけ机の端に置いた。見せつけるでもなく、隠すでもなく。
「書けないなら書かない。面接で詰むだけ」
「詰むの、分かってます」
「分かってるのに、言葉が出ない」
ヒナが小さく頷く。喉仏が上下した。
静は椅子の背にもたれず、前に体重を置いた。
「医者になりたい理由、ひとつもない?」
「ないわけじゃ……」
「あるなら言える」
ヒナはペン先を紙に当てて、すぐ離した。
「父が、診察室で……患者さんに『先生がいないと困る』って言われてるの、見たことあります」
「それで?」
「すごいって……思いました」
「あなたがすごいと思ったのは、父の仕事? 父の立場?」
ヒナの眉が動く。
「……どっちも」
静は頷いた。
「どっちもなら、言葉にすると薄くなる。『すごい』は志望理由にならない」
ヒナが息を吐く。吐く息が短い。
「じゃあ、私、医大無理ってことですか」
「無理じゃない。条件を満たせば受けられる。でも、今のままだと危ない」
「危ない……」
静は机の上の内申コピーを指でトントンと叩いた。
「成績は上じゃない。落ちてもない。中途半端。医大だと『中途半端』は落ちる側に入る」
ヒナの肩が小さく震えた。声が硬くなる。
「じゃあ、絵は? 絵なら中途半端でもいいんですか」
「絵は、もっと残酷」
ヒナが顔を上げる。
静は淡々と言葉を置く。
「上手い人は山ほどいる。学費もかかる。就職も保証されない。『好き』だけで行くと、生活が先に折れる」
「……どっちも、折れる」
ヒナが絞り出すように言った。
静は否定しない。
「折れないために、折れる場所を選ぶ」
ヒナが睨むように見る。
「先生、言い方が……」
「現実は優しくない。あなたの親も優しくない」
ヒナの口角がわずかに引きつった。笑いではない。
「……優しくないです。結果しか見ない。模試の判定、壁に貼られます」
「貼られる?」
「『次は上げろ』って。上がらなかったら、夕飯の空気が変わる」
静はペンを置いた。机の上で転がらないように指で止める。
「家の中が模試の会場になってる」
ヒナが小さく頷く。
ドアの外、廊下の遠くでスリッパの音が止まり、また動いた。陸がドアの隙間を見て、静に目だけで合図する。巡回が近い。
静は声量を落とす。
「佐倉。『どっちも叶わない』って怖さ、今がピークだ」
「まだ受験まで一年あるのに?」
「一年は短い。親の期待が強いほど短い」
ヒナは唇を噛んだ。唇が白くなる。
「私、医者になれなかったら、家にいられないです」
「いられない、は誰が言った」
「父が。『医者にならないなら、この家の子じゃない』って」
陸がドアの前で固まる。静はヒナから視線を逸らさない。
「言われたの、いつ」
「中三のとき。兄が出たあと」
静は短く息を吸った。吐かずに飲み込む。
「佐倉。家から追い出される可能性はゼロじゃない。だから準備する」
ヒナの目が揺れる。
「準備って……どうやって」
静は机の引き出しから、学校の奨学金と就学支援の資料を一枚だけ出した。分厚い束ではなく、必要最低限の紙。
「こういう制度がある。学費の道は一つじゃない。親が出さなくても行ける学校もある。ただし、条件がある。成績、出席、手続き、期限」
ヒナが紙を見て、すぐ目を逸らした。
「私、そんなの使ったら……親がもっと怒る」
「怒る。だから、今すぐ使う話じゃない。『逃げ道がある』って知るために見る」
ヒナは紙の端を指でなぞった。触れるだけで、すぐ離す。
「逃げ道……」
静は続けた。
「それと、もう一つ。医大と美大の二択にしない」
ヒナが眉を寄せる。
「でも、親は二択です」
「親の二択は、親が勝つための二択。あなたの二択を作る」
静はメモ用紙に線を引いた。三つの枠。
「医大」
「医療系の別ルート」
「絵を職に繋げるルート」
ヒナが覗き込む。
「医療系の別ルートって……看護とか?」
「それもある。臨床検査、放射線、薬、リハビリ。医者じゃなくても医療はできる。学費も、偏差値も、現実が違う」
ヒナの目が少しだけ開く。
「でも、それ、父が……」
「嫌がる可能性が高い。だから『医者以外』をいきなり出さない。順番」
「順番?」
「まず医大に向けて動いてる姿を見せる。その上で、医療系の別ルートを『滑り止め』として並べる。親が嫌いでも、滑り止めは否定しづらい」
ヒナが呟く。
「滑り止め……」
「あなたにとっては滑り止めじゃないかもしれない。けど、言い方で通ることがある」
ヒナの口が少し開く。
「ずるい」
「さっきも言った。勝つためのずるさ」
廊下の足音がまた近づき、ドアの前で一瞬止まった。誰かがドアの小窓を覗く気配。静は医大パンフレットを少し手前に寄せ、机の上を「王道の進路面談」に見せた。
数秒後、足音は通り過ぎた。
陸が息を吐き、肩を落とす。
ヒナはその一連を見て、声を落とした。
「先生まで、隠れてる」
静が小さく頷く。
「外部連携も止められかけてる。監査がどうとか、言葉だけで人は黙る」
陸が唇を結ぶ。ヒナは静を見たまま、ペンを握り直した。
「……先生。私、どっちも中途半端なんです。勉強も、絵も」
「中途半端、って誰が決めた」
「模試の判定も、コンクールも出してないし」
「出してないのに決めるな」
静はスケッチブックが入った鍵付きケースをちらりと見た。
「絵は、出すところを作る。校内の美術展、コンクール、デザイン系のコンペ。出したら、結果が出る。良くても悪くても、材料になる」
ヒナが小さく首を振る。
「落ちたら、終わりです」
「落ちたら、落ちたデータが手に入る。何が足りないかが分かる」
「親は『才能ない』って言います」
「言わせるために出すんじゃない。あなたが自分を殴る材料を減らすために出す」
ヒナの目が瞬きの回数を増やす。泣く前の目だが、泣かない。
静は声を柔らかくはしない。代わりに、具体を積む。
「勉強は、医大一本の勉強を続けると潰れる。だから配分を決める。週に何時間、絵の時間を確保するか。親にバレない形で」
ヒナが食い気味に言った。
「無理です。家、全部見られてる」
陸が口を挟む。
「放課後、学校で……」
静が陸を見る。陸は言い切る。
「図書室とか、美術室とか。先生が鍵……」
静が頷いた。
「学校でやる。家で戦わない。学校なら『課題』って言える」
ヒナが苦く笑う。
「課題、出てないのに」
「出すようにする。美術の先生に話す。私が行く」
ヒナの肩が少しだけ下がる。
「……でも、私、医大の勉強もしないと」
「する。削らない。『医大を目指してる』事実は盾になる」
ヒナがペン先を紙に当てた。今度は離さない。
「医者として、やりたいこと……三行」
静が頷く。
「嘘でもいい。最初は」
ヒナが静を睨む。
「嘘、書いたら、私が嫌いになります」
「嫌いにならない嘘にしろ。『父の夢』じゃなくて、『あなたが見た場面』を書く」
ヒナはしばらく黙った。紙の上に、震える字で一行目を書き始める。
「……『困っている人が、安心する顔』」
書き終えて、ヒナは自分の字を見て固まった。
「これ、私の言葉ですか」
「今ここで出たなら、あなたの言葉だ」
ヒナが二行目に迷う。ペン先が空中で止まる。
陸が小さく言う。
「……書けてるじゃん」
ヒナが陸を見る。すぐ視線を戻す。
「でも、これで医大行けるわけじゃない」
静が即答する。
「行けないかもしれない。だから、別ルートも並べる」
ヒナの指が紙を押さえる。
「並べたら、逃げだって言われる」
「逃げじゃない。保険。保険は臆病者の道具じゃない。生活者の道具だ」
ヒナが小さく息を吐いた。吐いた息が少し長い。
静は机の端の資料を指で揃えた。
「次の一歩。明日昼休み、美術の先生と三人で会う。校内展の出品枠、確保する。コンクールも選ぶ」
ヒナが顔を上げる。
「……親にバレたら」
「バレても、学校の活動だ。止めるなら、親は学校に文句を言うことになる。そこは、私が受ける」
陸が静を見た。静は目を逸らさない。
廊下の向こうで、また足音が増えた。今度は複数。誰かが誰かに小声で指示している。巡回が戻ってきたらしい。
静が立ち上がり、ヒナのノートを閉じさせないまま言った。
「続きは明日。今日はこの一行、ここに置いていける?」
ヒナはノートを抱えかけて、止まった。ゆっくり机に戻す。
「……置きます。家に持って帰ったら、たぶん、破かれる」
静がノートを受け取り、鍵付きケースとは別の、普通のファイルに挟んだ。表紙には「志望理由書(医)」とだけ書く。
「これなら誰が見ても医大だ」
ヒナが小さく笑った。今度は少しだけ、人の笑い方だった。
ドアの外で足音が止まる。
陸が小声で言う。
「来る」
静が頷き、ヒナに目で合図した。
「裏階段。五分後。今日は陸が先に出て、様子見る」
ヒナが立ち上がる。椅子が鳴る音がやけに大きい。
「先生」
「何」
ヒナは言いかけて、飲み込んだ。代わりに、短く頭を下げた。
静は返事をしない。頷くだけ。
陸がドアに手をかける。静が医大パンフレットを開き、ページをめくる音をわざと立てた。
ドアの向こうで、誰かがノックをする前の沈黙が伸びる。
その沈黙の中で、ヒナは自分の鞄の中を探り、小さな消しゴムを取り出して机の端に置いた。
「これ……明日、使います」
静がそれを見て、短く言った。
「明日、来い」
陸がドアを少し開けた。廊下の空気が流れ込む。
次の足音が、今度は第3進路室の前で止まった。
ドアが開いた。
相沢陸は一歩だけ廊下に出て、すぐ戻った。顔が引きつっている。
「……担任。あと、教頭の秘書みたいな事務の人」
桐生静は医大パンフレットを閉じ、机の上を一瞬で整えた。ヒナのスケッチブックは棚の奥、鍵付きケースの中。ノートは「志望理由書(医)」のファイルに挟んである。
「陸、裏」
陸は頷いて、ヒナの方を見た。
ヒナは椅子から立ち上がりかけて、動けない。足だけが迷っている。
静が低い声で言う。
「今、出ない。座れ。普通の面談の顔をしろ」
ヒナは唇を噛んだまま、椅子に座り直した。
ノックが二回。
静が「どうぞ」と言う前に、担任の鈴木が顔を覗かせ、その後ろに事務職員が立った。事務職員は名札を胸に、静の机の上を一瞥する。
「桐生先生、今いい?」
「今、医大志望の面談中」
静はあえて言った。事務職員の視線がパンフレットに落ちる。
鈴木がヒナに笑いかける。
「佐倉、頑張ってるか?」
ヒナは喉を鳴らして頷いた。
事務職員が静に紙を一枚差し出した。
「教頭先生から。『外部とのやり取り、事前申請を徹底』。今週、監査関連の確認が入るので」
静は受け取り、目を通すふりをした。紙の端に黒川の印鑑が押してある。
「分かりました」
鈴木が咳払いをして、声を落とす。
「……佐倉の保護者から連絡があって。今日、放課後に来るって」
静は顔色を変えない。
「承知してます」
「桐生先生が担当で、って指定」
鈴木が言いにくそうに付け足す。
「なんか……機嫌、悪いらしい」
静は小さく頷いた。
事務職員がもう一度机の上を見てから、ドアを閉めた。足音が遠ざかる。
静は息を吐かずに、ヒナに向き直る。
「来る。父?」
ヒナが小さく頷いた。
「たぶん、父だけ。母は病院」
静は時計を見た。
「放課後までに、言うことを決める。あなたは黙る練習をする」
ヒナが目を見開く。
「黙る?」
「余計な一言で燃える。あなたが燃えたら、家で潰される」
ヒナの手が膝の上で握られる。
「でも……私が言わないと」
「言うのは私。あなたは事実だけ言う。『描いてる』じゃない。『学校の活動として出品する』」
ヒナの口が動く。
「嘘みたい」
「言い方」
静は机のメモを引き寄せ、ペンで短く書く。
「①医大志望は継続」
「②成績維持+弱点補強」
「③美術はストレス管理と観察力の訓練」
「④校内活動として出品」
「⑤期限:夏までに結果で判断」
ヒナが覗き込む。
「夏まで……」
「親が納得しやすい期限。無期限は怒る」
ヒナは黙って頷いた。頷き方が、さっきより重い。
陸が小声で言う。
「……俺、外で見張ってる」
静が頷く。
「頼む。教頭の巡回、来たらノック二回」
陸はドアを出た。静は鍵付きケースに視線をやり、戻した。
「佐倉、最後に確認。親に言われたら、こう返す」
静が言い、ヒナが繰り返す。
「『医大は諦めてません』」
「医大は諦めてません」
「『学校の活動として、美術の出品をします』」
「学校の活動として、美術の出品をします」
ヒナの声が少し震える。静は止めない。
「『成績が落ちたら、すぐやめます』」
ヒナが口を開き、閉じた。
「……それ、言いたくない」
「言いたくないことを言うのが交渉」
ヒナの目が揺れる。
「やめたくない」
「やめないために言う。約束の形を作るだけだ」
ヒナは歯を食いしばって言った。
「成績が落ちたら、すぐやめます」
静が頷く。
「よし。放課後まで、普通に過ごせ。家に連絡は?」
ヒナが首を振る。
「父はもう、来るって決めてる」
静は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私が先に保護者室を押さえる。ここじゃ目立つ」
ヒナが立ち上がりかける。
「先生……」
「大丈夫、とは言わない。準備した。あとは来た球を打つ」
静は扉を開け、廊下を見た。陸が柱の陰で頷く。遠くで黒川の声がした気がして、静はすぐ扉を閉めた。
***
放課後。
保護者対応用の小さな応接室。テーブルの上に湯呑みが二つ。静は自分の手元に資料を揃えた。医大志望の学習計画、模試の推移、校内美術展の募集要項。美術展の紙は一番下に隠すように置く。
ドアが開く音が硬い。
佐倉の父は背筋を伸ばし、白衣ではないのに白衣の匂いがするような歩き方で入ってきた。ネクタイがきっちりしている。座る前に、静の名札を見た。
「桐生先生」
「佐倉さん。本日はお時間いただきありがとうございます」
静が頭を下げる。父は軽く頷いただけで椅子に座った。ヒナは父の斜め後ろに立ち、座らない。
父が湯呑みに手を伸ばさず言う。
「単刀直入に。うちの娘が、余計なことを考えていると聞きました」
静は湯呑みを動かさない。
「医大志望は継続しています。模試の結果も——」
「結果がすべてです」
父の声が被さる。静の言葉を切る速さ。
「判定は?」
静は紙を一枚だけ前に出した。
「直近はBとCの間です。理数は伸びています。英語が——」
父が紙を見て鼻で息を吐いた。
「中途半端だ」
ヒナの指が制服の裾を握る。静はヒナを見ない。父だけを見る。
「中途半端だから、計画を立てています。夏までに——」
「夏?」
父の眉が動く。
「受験は冬だ。夏に何を判断する」
静は間を置いた。
「夏までに、志望理由書と基礎学力の安定を作る必要があります。本人が折れない形で」
父が目を細める。
「折れない? 甘い。医者は折れてはいけない仕事だ」
「折れない人間はいません。折れたときに戻れる環境があるかどうかです」
父の口角が下がった。
「環境は用意している。塾も家庭教師も、最高のものを」
静は頷いた。
「その環境で伸びています。ですが、本人の息が続くかは別です」
父の視線がヒナに飛ぶ。
「ヒナ。何か言え」
ヒナの喉が動いた。だが声が出ない。静が先に言う。
「佐倉さん。本人は勉強を続ける意思があります。その上で——」
父が机を指で叩いた。乾いた音。
「その上で、何だ」
静は資料の束を一枚めくり、美術展の募集要項を上に出した。隠すのをやめる。
「校内の美術展に、作品を出します。学校活動として」
父の目が一瞬で冷える。
「は?」
静は言葉を重ねない。父が理解する時間を与える。
理解した瞬間、父の声が跳ねた。
「ふざけるな」
湯呑みが震えた。父の指がテーブルを掴む。
「医大を目指す子が、絵? 遊びだ」
静は首を振らない。肯定もしない。
「遊びではありません。本人の観察力と集中力は、美術で伸びています。医療にも——」
「必要ない」
父が言い切る。
「必要なのは点数だ。偏差値だ。合格だ。学校はそれを教える場所だろう」
静は静かに返す。
「学校は、進路を作る場所です。合格だけが進路ではない」
父の眉が吊り上がる。
「うちの娘の進路は医大だ。合格以外は失敗だ」
ヒナが小さく息を吸う音がした。静はそこで、プランの核心を出す。
「だから、医大志望は変えません。成績が落ちたら、美術は止めます。期限は夏まで。結果が出なければ、こちらから撤退します」
父が静を睨む。
「撤退? あなたが決めることじゃない」
「決めるのは本人とご家庭です。私は学校として、本人の学習計画と、心身の維持策を提案します」
父が笑った。短く、刺す笑い。
「心身の維持策? 絵を描かせるのが維持策だと?」
静は目を逸らさない。
「はい。本人が潰れたら、医大は遠のきます」
父が立ち上がった。椅子が床を擦る。
「潰れる? 潰れるようなら医者になれない。兄みたいになる」
ヒナの肩が跳ねた。静がすぐ言う。
「兄の話を、本人の前で出さないでください」
父が静を見た。目に火が入る。
「教師が家庭に口を出すな」
静は一歩も引かない。
「家庭が学校に、全てを従えと言うなら、口を出します。学校は企業じゃありません」
言い終えた瞬間、静の脳裏に黒川の声がよぎる。「学校は企業。成果がすべて」。応接室の空気が薄くなる。
父が低い声で言った。
「……あなた、教頭に逆らってる先生だろ」
静は瞬きだけで返した。
「噂は早いですね」
「噂じゃない。うちには情報が入る」
父はヒナを見ずに言った。
「ヒナを、変なところに連れて行くな。外部? コンテスト? そんなものに関わらせるな」
静は即答する。
「外部連携は、学校として今止まっています。ですから、校内活動だけです」
父の目が細くなる。
「止まってる? それでいい。余計なものは要らない」
静は湯呑みを指で押さえた。震えを止めるためではなく、机の上の空気を整えるみたいに。
「校内だけでも、本人の息は続きます。結果が出れば、志望理由にもなります」
父が吐き捨てる。
「志望理由? 医者になりたい理由なんて、医者の家に生まれた、それで十分だ」
ヒナの手が、背中の方で握られた。爪が食い込む音がしそうな握り方。
静は、ヒナに視線を投げる。短く。合図だけ。
ヒナの喉が動いた。声が出た。
「……医大、諦めてません」
父が振り向く。
「当たり前だ」
ヒナは次の言葉を探し、静のメモを思い出すように口を開いた。
「学校の活動として……美術の出品をします」
父の顔が歪む。
「誰に吹き込まれた」
ヒナが言葉を失いかける。静が割って入る。
「私です」
父が静に詰め寄った。
「あなたが? あなたが、うちの娘を医者から遠ざけるのか」
静は椅子から立たない。視線だけ上げる。
「遠ざけません。むしろ、近づけるための管理です」
「管理?」
父の声が大きくなる。応接室の外の廊下が静かになる気配がした。誰かが耳を澄ませている。
「教師が、うちの娘を管理? 笑わせるな。娘は私が管理する」
ヒナの肩が内側に縮む。静はそこで、もう一枚だけカードを出した。
「医大が難しい場合の、医療系の別ルートも、並行して情報を集めます。滑り止めとして」
父の顔色が変わった。怒りが、形を変える。冷たくなる。
「……医者以外を考える時点で、負けだ」
静は言う。
「負けを避けるために、負け方を選びます」
父が机の上の紙を指で弾いた。募集要項がずれて床に落ちる。
「そんなもの、必要ない。今すぐやめさせろ」
ヒナが小さく言った。
「成績が落ちたら、やめます」
父が一瞬止まった。止まったのは、ヒナが口にしたからだ。だが次の瞬間、父は笑った。
「落ちるに決まってる。絵なんかやったら落ちる。なら今やめろ」
静が言う。
「落ちるかどうかは、データで見ます。次の模試まで——」
「データ?」
父が声を荒げる。
「娘の人生を、あなたの実験にするな!」
応接室のドアの向こうで、足音が走った。誰かが様子を見に来たのか、遠くで「大丈夫ですか」と小さな声がした。
静は声を落とした。落とすことで、逆に刃を立てる。
「佐倉さん。ここで怒鳴っても、点数は上がりません」
父の目が見開かれる。
「……何だと」
静は続ける。
「怒鳴るなら、家でどうぞ。学校では、本人が前に進む話をします」
父の拳がテーブルに落ちた。湯呑みが倒れ、茶が広がった。
ヒナがびくりとし、足が一歩引ける。
父は濡れたテーブルも見ずに言った。
「もういい。学校には任せない。担任を変えろ。進路担当も変えろ。教頭に直接話す」
静の胸の奥が固くなる。黒川の影が輪郭を持って迫る。
静は湯呑みを起こし、紙ナプキンで茶を拭いた。動作が遅い。父の怒りに飲まれない速度。
「どうぞ。教頭に話してください」
父がドアへ向かう。ヒナが父を追いかけようとして、止まった。足が床に縫い付けられたみたいに。
父が振り返り、ヒナに言う。
「来い」
ヒナは静を見た。目が「助けて」とは言っていない。ただ、次の呼吸の仕方を探している。
静が短く言った。
「今日は帰れ。家で何かあったら、明日ここに来い。必ず」
ヒナは唇を噛み、頷いた。
父がドアを開ける。
「——それから」
父が静に言い捨てる。
「あなたのところ、監査が入るって本当か。余計なことをしてる先生は、すぐ消える。娘を巻き込むな」
ドアが閉まった。
応接室に残ったのは、茶の匂いと、濡れた紙と、ヒナの浅い呼吸だけだった。
ヒナは椅子に座らず、立ったまま震える指で自分の鞄の持ち手を握った。
「……終わりました」
静は「終わった」とは言わない。机の上の濡れた資料を一枚ずつ乾いた場所に移し、落ちた募集要項を拾った。
「終わってない。次が来た」
ヒナが顔を上げる。
「次……?」
静は募集要項の角を揃え、ヒナに見せた。
「校内展の締切は来週。あなたの家がどうであれ、締切は待たない」
ヒナの喉が動く。
「でも、父が……」
静は応接室のドアを見た。外の廊下に人の気配が増えている。噂が広がる速度。
「父は教頭に行く。教頭は数字の話をする。あなたは作品を作る。三つ同時だ」
ヒナが笑いそうになって、笑えない顔になる。
「無理です」
静は立ち上がり、ヒナの鞄の持ち手に視線を落とした。
「無理なら、無理の中でやる。今日、家に帰ってスケッチブックは探される。だから、ここに置いたのは正解だ」
ヒナの目が潤む。落ちない。
静はドアを開け、廊下を確認した。遠くに陸が立っている。二回、軽くノックする仕草で合図してくる。巡回が近い。
静がヒナに言った。
「第3に戻る。裏。陸がつける」
ヒナが一歩踏み出す。足がまだ重い。
静は歩き出しながら、ポケットの中でスマホを握り直した。黒川に先手を打つための連絡先を思い浮かべる。担任ではない。教頭でもない。校長でもない。
校内の、美術の教師。
静が小さく呟く。
「締切までに、味方を増やす」
ヒナはその言葉を聞き取ったのか、聞き取れなかったのか分からない顔で、静の背中についていった。
第3進路室に戻る途中、裏階段の踊り場で相沢陸が足を止めた。
「……さっきの、聞こえた」
桐生静は廊下の角を確認し、顎で先を促した。
「今は喋るな。動く」
ヒナは二段上の段差で立ち尽くし、手すりを握っていた。指の跡が白い。
静が振り返る。
「佐倉。家、帰れる?」
ヒナは頷いた。頷いたが、足が動いていない。
陸が小声で言う。
「送る? 途中まで」
ヒナが首を振る。
「……大丈夫。たぶん」
静は「たぶん」を拾わない。代わりに、鍵付きケースの鍵をポケットの中で確かめた。
第3進路室のドアを開ける。室内はいつも通りの古い匂い。机の角に置かれた消しゴムが、昼のまま残っている。
静が椅子を引いた。
「座れ。帰る前に、決めることがある」
ヒナは椅子に腰を下ろした。背中はまだ椅子に触れない。
陸はドアの内側に立ち、廊下の気配を探る。耳だけが働いている。
静が言った。
「父親は教頭に行く。明日、担任経由で圧が来る。『余計なことをするな』って」
ヒナの肩が跳ねた。
「……私のせいで、先生が」
「私のせいだ。引き受けた」
静は机の上に、校内美術展の募集要項を広げた。濡れて少し波打っている。
「締切、来週。出すなら、今週末にラフ、来週頭に清書。部屋はここじゃなく、美術室を使う。鍵は美術の先生が持ってる」
ヒナの目が紙に落ちる。
「……父が、家で探す」
「探す。だから、家で描かない」
ヒナの指が膝の上で動く。
「でも、学校も……見られてる」
陸が低く言う。
「教頭、最近マジで回ってる。第3の前、わざと通る」
静が頷く。
「だから美術室。第3に絵の匂いを残さない」
ヒナが小さく笑った。笑いとため息の間。
「匂いって……」
静は続けた。
「あと、家でのルール。今日から変える」
ヒナが顔を上げる。
「変えられません」
「変える。小さく」
静はペンを取り、白紙に二つだけ書いた。
「①帰宅後、父の前で勉強をする時間を固定」
「②絵の話はしない」
ヒナが眉を寄せる。
「絵の話、しないで……どうやって出品するんですか」
「学校の話として、最後に言う。『提出した』って事後報告」
ヒナの目が鋭くなる。
「怒られます」
「怒られる。けど、事前に止められるよりはマシだ」
ヒナは口を開きかけて、閉じた。
陸が言った。
「……怒られるの、怖いよな」
ヒナは陸を見ない。見ないまま、静に言う。
「私、今日……父の前で、何も言えませんでした」
静は淡々と返す。
「言わなくてよかった。今日は火力が強すぎた。あなたが言ったら燃料になった」
ヒナの手が、机の端に置かれた消しゴムに触れた。指先が少しだけ落ち着く。
「……でも、いつか言わないと」
「言う日を決める」
静が言った。
ヒナが顔を上げる。
「決める?」
「決めないと、流される。家のルールに」
静は紙に三つ目を書き足した。
「③言う日:校内展の提出後」
ヒナが息を呑む。
「提出したあとに……言うんですか」
「提出したら、もう作品は学校にある。捨てられない。壊されない」
ヒナの喉が動く。
「……ずるい」
「守るためのずるさ」
静は椅子から立ち、鍵付きケースを開けた。封筒を取り出し、ヒナの前に置く。封筒の中のスケッチブックは見せない。
「これ、ここに置く。あなたが『私の人生』って言うまで、ここで守る」
ヒナが封筒を見つめた。手を伸ばしそうで伸ばさない。
陸がドアの外に目を向け、囁く。
「足音、遠い。今なら帰れる」
静が頷いた。
「帰れ。家に着いたら、明日の昼休みのことだけ考えろ」
ヒナは立ち上がった。鞄を肩にかける。足が一歩出たところで止まる。
「先生」
「何」
ヒナは言葉を探し、唇が震えた。だが、声は出さないまま頭を下げた。
静は頷くだけ。
陸が先に出て、廊下を確認する。ヒナが後に続く。静は最後にドアを閉め、鍵をかけた。
***
その夜。
佐倉家の玄関で、ヒナは靴を揃える手を止めた。リビングからテレビの音がしていない。代わりに、紙をめくる音がする。父の気配だ。
「遅い」
声が飛んできた。リビングの入口に父が立っていた。昼の怒りが、冷たい形のまま残っている。
ヒナは鞄を抱えたまま、廊下で止まる。
「学校、面談が……」
「桐生先生と?」
父の声が低い。
「担任から聞いた。君は、あの先生に余計なことを吹き込まれている」
ヒナの喉が動いた。静の言葉が頭の中で並ぶ。「事実だけ」。そう言い聞かせる。
「医大は、諦めてない」
「当然だ」
父が言い、すぐ続けた。
「だから、絵はやめろ」
ヒナの指が鞄の持ち手に食い込む。鞄の革が鳴った。
「……学校の活動として」
「言い訳するな」
父が一歩近づく。
「君は、兄と同じ道を——」
ヒナの口が勝手に開いた。声が出た。自分でも驚くほど、はっきり。
「兄の話、しないで」
父が止まった。
「何?」
ヒナは息を吸った。吸った息が胸に刺さる。吐くときに声が震えそうで、歯を噛んだ。
「私は、兄じゃない」
父の眉が寄る。
「なら、医者になれ」
ヒナは鞄を床に置いた。置いた音が小さく響く。逃げ道を自分で塞ぐみたいに。
「医者の勉強、する」
父が頷きかける。
「だが——」
ヒナが続けた。
「絵も、やめない」
父の目が細くなる。
「……何を言っている」
ヒナは言葉を選ぶ時間が欲しくて、唇を噛んだ。だが選ぶほど、言えなくなる。だから短くする。
「私の時間は、私が決める」
父の顔が硬くなる。
「君の時間は、家の投資だ。塾代、家庭教師代——」
「分かってる」
ヒナが遮った。遮ったのは初めてだ。
父が一瞬、言葉を失う。次の瞬間、声が上がる。
「分かってるなら従え!」
ヒナの肩が跳ねた。けれど足は引けなかった。床に置いた鞄が、そこにある。
「従ってる」
ヒナは言った。声がかすれる。
「ちゃんとやってる。模試も。塾も」
父が吐き捨てる。
「結果が出ていない」
ヒナの喉が詰まる。中途半端、という言葉が頭を殴る。だが、静の机の上の一行を思い出す。「困っている人が、安心する顔」。
ヒナは目を伏せずに言った。
「結果、出す」
父が鼻で笑う。
「口だけで?」
「夏までに」
父の眉が動く。
「夏?」
「夏までに、成績落ちたら、絵はやめる」
父が目を見開く。条件が出たことに、少しだけ反応が変わる。怒りの形が、計算に寄る。
「誰に言わされた」
ヒナは一拍置いた。静の顔が浮かぶ。だが、今ここで「先生が」と言ったら、父の矛先が学校に向く。向いたら、学校で描けなくなる。
ヒナは言った。
「私が決めた」
父の目が疑う。
「そんな賢い取引が、君にできるか」
ヒナの口の中が苦くなる。だが、言うべき言葉が残っている。言わないと、また元に戻る。
ヒナは胸の奥から引っ張り出すように言った。
「……私の人生だから」
言った瞬間、廊下の空気が変わった。父の顔が、怒りより先に驚きで固まる。
次に来たのは、怒りだった。
「誰の金で生きてると思ってる」
ヒナの指が震えた。けれど、声は出た。
「だから、勉強するって言ってる」
父が一歩踏み出す。
「絵は遊びだ」
「遊びじゃない」
「遊びだ。医者になれない人間が、絵で食えるわけがない」
ヒナの喉が鳴った。静の言葉が刺さる。「絵はもっと残酷」。それでも、言う。
「食えるかは、分からない」
父が嗤う。
「ほら見ろ」
「でも、描く」
ヒナの声が小さくなる。小さくなるのに、引かない。
父が息を吐いた。短く、荒く。
「……ヒナ。君は、私に恥をかかせる気か」
ヒナの胸がきゅっと縮む。「家の子じゃない」と言われる未来が見える。足が震える。だが、鞄は床にある。
ヒナは言った。
「恥をかかせたいんじゃない」
父が睨む。
「なら」
「私が、私を恥にしたくない」
言い終わって、ヒナの喉が痛くなった。涙は落ちない。落としたら負ける気がした。
父はしばらく黙っていた。黙ったまま、ヒナの鞄を見た。鞄の中を探るような目だった。
ヒナは一歩前に出て、鞄を持ち上げた。抱える。
「見ないで」
父の眉が跳ねる。
「何だ、その態度は」
「作品、学校に置いてある」
ヒナが言った。事後報告。静が作った盾。
父の顔が歪む。
「勝手に!」
「勝手にじゃない。学校の活動」
父は口を開き、閉じた。学校に文句を言うことの面倒さが、一瞬だけ顔に出る。だがすぐ怒りが戻る。
「明日、教頭に電話する。桐生先生は外す」
ヒナの背中が冷たくなる。静の顔が浮かぶ。だが、静は「引き受けた」と言った。
ヒナは小さく頷いた。
「……して」
父が目を細める。
「何?」
ヒナは言葉を絞る。
「電話してもいい。でも、私の話は、私がする」
父が嘲るように笑う。
「君が?」
「うん」
ヒナは言った。短い肯定が、自分の喉から出たことに驚く。
父は顔を近づけ、低い声で言った。
「じゃあ言え。今ここで。医者になると」
ヒナは息を吸う。吐く。
「医者を目指す」
父の目がわずかに緩む。
ヒナは続けた。
「でも、私の人生は、私が決める」
父の顔がまた固まる。
次の言葉は、父の怒鳴りではなかった。冷たい断言だった。
「なら、覚悟しろ。支援は減らす。塾も家庭教師も、結果が出なければ切る」
ヒナの胸が沈む。怖い。現実が形になる。だが、静が見せた支援制度の紙が頭の隅に残っている。逃げ道があることを知っただけで、足が踏ん張れる。
ヒナは小さく言った。
「……分かった」
父が背を向ける。
「夕飯は要らない。自分で何とかしろ」
リビングのドアが閉まった。
廊下に残されたヒナは、しばらく動けなかった。手の中の鞄が重い。胃が空っぽなのに、何も入らない気がする。
それでも、ヒナは階段を上がった。
自室の机に向かう。ノートを開く。医大の勉強。今日、静に言われた通り、固定する時間。
ページの端に、小さく線を引く。絵の線ではない。勉強の区切りの線。
そこへ、スマホの通知が一つ光った。制限のかかった画面に、短い件名だけが表示される。
「学校:保護者連絡」
ヒナの指が止まる。
下の階で、父の電話の声が聞こえた。相手の名前は聞こえない。だが、「教頭」という単語だけが、廊下に落ちてきた。
ヒナはスマホを伏せ、ノートの一行目に書いた。
『夏までに、結果を出す』
ペン先が震えて、字が少し歪んだ。
それでも、書き直さなかった。
相沢陸が廊下を覗き、誰もいないのを確かめてから、指で軽く二回ノックする。
「桐生先生。来た」
桐生静は顔を上げずに、机の上の書類を揃えた。戸田ユウキの契約書コピー、店長の評価文書、年末調整の控え。紙の角を揃える手つきが妙に落ち着いている。
「入れて」
陸の後ろに、女子が立っていた。肩までの黒髪。制服のスカートのプリーツがきっちりしているのに、指先だけが落ち着かない。鞄の持ち手を何度も握り直している。
静が椅子を指さす。
「佐倉ヒナ。座って」
ヒナは椅子に腰を下ろしたが、背中が椅子に触れない。顎だけ少し上がっている。
陸はドアの近くで立ったまま、廊下に耳を澄ませる。
静が視線を上げた。
「担任から回ってきた。『医大志望で志望理由書の添削を』って」
ヒナの目が一瞬だけ鋭くなる。
「……親が、そう言ってます」
「あなたは?」
ヒナは答えない。口を開きかけて、閉じる。唇の端が白くなる。
静は急かさない代わりに、机の端にペンを置いた。
「佐倉。ここは第3進路室。進路の正解は出さない。出せるのは、今の条件と、取れる手。どっちがいい?」
「……条件」
「よし。今、成績は?」
ヒナは鞄からファイルを出し、内申のコピーを差し出した。指先が紙を押さえる力が強い。
静はざっと見る。
「理数は上。国語は普通。英語は波がある。欠席は少ない。模試の判定は——」
「見なくていいです」
ヒナが言った。声が少しだけ上ずる。
静は手を止めた。
「見ないと現実が動かない。医大は、学費も、偏差値も、面接も、全部重い」
ヒナの肩が小さく揺れる。笑ったように見えて、笑っていない。
「だから、親が全部やってくれてます。塾も、家庭教師も。私の予定も」
「あなたの予定、ね」
静は紙を戻し、別の紙を引き寄せた。白紙のメモ。
「親は医者?」
「父が開業してます。母も医師です」
陸が小さく息を吸った。静は気づいてもそのままにする。
「家は医者一家。あなたが医者になるのが自然。そういう空気?」
ヒナは頷いた。頷き方が硬い。
「兄がいます。兄は……逃げました」
「逃げた?」
「医者にならないって言って、家を出た。今どこにいるか、あまり——」
言いかけて、ヒナは視線を落とした。机の木目を見ている。
静はメモに短く書く。「兄:離脱」
「で、あなたは?」
ヒナの手が鞄の中を探った。出てきたのは小さなスケッチブックだった。表紙が角で擦れて白くなっている。
ヒナはそれを机に置くが、開かない。
「……絵」
言葉が転がるみたいに出た。
「描きたい」
陸が思わず一歩だけ前に出る。静が視線で制す。
静はスケッチブックに触れない。
「描きたい。どのくらい?」
ヒナは喉を鳴らした。
「授業中も。ノートの端とか。家だと、見つかるから……夜」
「見つかると?」
「捨てられます」
陸の眉が動いた。静は何も言わず、ペンを持ち直す。
「捨てられたの、何回」
「数えたくない」
静は頷くだけで、メモに「作品破棄:複数」と書いた。
「佐倉。医者になる道と、絵の道。どっちか一つにしろ、って言われたら?」
ヒナは即答しない。机の上のスケッチブックを両手で押さえ、爪が表紙に食い込む。
「……医者って言うと思います」
「思う、ね。言いたいのは?」
ヒナの目が上がった。涙は出ていない。出さないようにしている目だ。
「絵が描きたい」
短い。けど、言い切った。
静はそれを受け止める代わりに、現実の棚を開けるみたいに言った。
「絵で食うのは厳しい。才能だけじゃ無理。時間と、お金と、環境が要る。医大も同じくらい厳しいけど、仕組みが違う」
ヒナは眉をひそめる。
「じゃあ、どっちも無理って言うんですか」
「無理って言わない。増やす。選択肢を」
静はスケッチブックを指で軽く示した。
「まず、それ。見せて」
ヒナは一瞬だけ身を引いた。
「……評価されるの、嫌です」
「評価しない。進路に使うために見る」
「進路に?」
「絵は『好き』だけだと負ける。『何ができるか』に変える」
ヒナは唇を噛んだまま、スケッチブックを開いた。
ページの中は、人物の横顔、手、教室の窓、廊下の光。線が細いのに迷いが少ない。何枚かはボールペンで、何枚かは色鉛筆で塗りがある。端に小さく日付が書いてある。
静はページをめくらせてもらう。指先は紙に触れないように慎重だ。
「観察。速写。構図。——これ、学校の廊下だな」
ヒナが小さく頷く。
「見回りの時間に描いた」
陸がドアの方を見た。静も一瞬だけ視線を動かす。廊下の気配はない。
静はページの端の日付を読んだ。
「毎日描いてる?」
「描ける日は。描けない日は、頭の中で」
「頭の中で描くのは、手は上手くならない」
ヒナの目が尖る。
「分かってます」
「分かってるなら、手を動かす時間を確保する。今の生活は?」
ヒナは一拍置いて答えた。
「学校。塾。家庭教師。自習。模試。……それで、寝る」
「絵の時間は?」
「ないです」
静はメモに線を引き、時間割みたいに区切った。
「医大のための時間で埋まってる。親が管理してる?」
「スマホも制限されてます。SNSとか禁止。美大のサイト見たの、バレました」
「どうなった」
「父が怒って。『兄と同じになる気か』って」
ヒナの指がスケッチブックの角を撫でる。擦れた部分を確かめるみたいに。
静はそこで、言い方を変えた。
「佐倉。あなたが今やってるのは、親の夢を叶えるための訓練だ。あなたの夢を守る訓練じゃない」
ヒナが顔を上げる。
「じゃあ、どうすればいいんですか。家出ろって?」
「今すぐ家出は現実的じゃない。未成年だし、学費も生活も必要」
陸が小さく頷いた。静は続ける。
「まずは、家の中で戦わない方法を作る。正面衝突すると、絵が消される」
ヒナの喉が動く。
「……じゃあ、隠すしか」
「隠すだけだと増えない。増やすのは、第三者と、実績と、期限」
「第三者?」
静は机の引き出しから、学校の進路資料のファイルを出した。美術系の専門学校、デザイン系の短大、総合大学の芸術学部、通信講座。ページの端に付箋がいくつも貼ってある。
「ここ。美術の先生。あと外部の講評会。コンクール。学校名が付くものは、親にとって『数字』になりやすい」
ヒナが眉を寄せる。
「親は、絵なんて——」
「『絵』だと潰される。『実績』だと話が変わることがある」
「……そんな、うまく」
「うまくいかないこともある。だから、複数」
静はペンでメモに二本線を引いた。
「医大一本で行くなら、医大の条件を満たす必要がある。今の成績なら可能性はある。でも、あなたが折れる可能性もある」
ヒナの肩が固まる。
「折れるって……」
静は言い切らない。代わりに、机の上のスケッチブックを指で軽く叩いた。
「これが捨てられるたびに、あなたの手は止まる。止まった時間は戻らない」
ヒナの視線が揺れた。怒りとも、悔しさともつかない。
陸が小声で言った。
「捨てられたら、写真撮っとけば……」
ヒナが陸を見る。静も陸を見る。
静が短く言う。
「スマホ制限」
陸が口を閉じる。
静はヒナに向き直った。
「だから、学校で守る。保管場所も考える。ここに置くのは、リスクもあるけど」
ヒナの目が動いた。
「先生、見られてるって噂、あります」
陸が小さく頷く。
「教頭、最近……第3の前、通る回数増えた」
静はファイルを閉じた。
「知ってる。だから裏導線で動く。保健室前も監視が強い。ここも安全じゃない」
ヒナが硬い声で言った。
「じゃあ、無理じゃないですか」
「無理にしない。場所を変える」
静は立ち上がって、窓際の棚を開けた。学校の古い画用紙や、行事の余りの封筒が詰まっている。その奥に、鍵付きの薄いケースがある。
静は鍵を見せるだけで、開けない。
「ここは、私しか開けない。入れるかどうかは、あなたが決める」
ヒナは椅子の上で指を握ったり開いたりする。
「入れたら、先生が……」
「勝手に見ない。必要なときだけ、一緒に開く。条件はそれでいい?」
ヒナは小さく頷いた。
静は椅子に戻り、ペンを置いた。
「次。親にどう言うか。『医者やめます』は言わない」
ヒナが顔をしかめる。
「言わないんですか」
「今言うと、絵が消える。医者の勉強も、あなたが本当に嫌なら続かない。だから、段階」
静はメモに短く書く。
「今週:美術教員面談」
「来週:校内コンクール出品」
「模試:維持」
ヒナが覗き込む。
「模試、維持って……結局、医者の勉強もやれって」
「やる。『やれる』を見せる。親の言い分を削る材料になる」
ヒナの口が開く。
「ずるい」
「現実はずるくないと勝てない」
静の声は淡々としている。慰める調子ではない。
ヒナは目を逸らしたまま言った。
「……私、医者になりたくないって言ったら、家、終わります」
「終わらない。終わるのは、今の関係が変わるだけ」
ヒナが静を見た。
静は続ける。
「変わるのは怖い。だから、変え方を選ぶ。急に壊すんじゃなくて、少しずつ形を変える」
陸がドアの外を見て、囁いた。
「先生、廊下……足音」
静は瞬時にファイルを閉じ、ヒナのスケッチブックを白い封筒に入れた。封筒の表には「進路資料」とだけ書く。
静がヒナに封筒を渡す。
「今日、持って帰る?」
ヒナの指が迷う。
「……帰ったら、見つかる」
「なら置く。ここに」
ヒナは封筒を静に戻した。
静は立ち上がり、棚の奥の鍵付きケースに封筒を滑り込ませた。鍵をかける音が小さく響く。
ドアの外で誰かが立ち止まった気配がする。ノックはない。ただ、沈黙が重い。
陸が息を止める。
静は机に戻り、何事もなかったようにヒナの内申コピーを表に出した。
「——志望理由書の話に戻る。医者志望として書くなら、今のうちに『自分の言葉』にしないと面接で詰む」
ヒナが喉を鳴らした。
「自分の言葉……」
「『親が医者だから』は禁句。あなたが何を見て、何を嫌で、何を選ぶか。そこが薄いと落ちる」
ヒナの目が揺れる。静はそこを逃さず、でも追い詰めない。
「今日は一つだけ。医者になって、何をしたいことになってる?」
ヒナは小さく笑った。乾いた音。
「……地域医療に貢献、とか」
「それ、誰の言葉」
ヒナは答えない。廊下の気配が少し遠ざかった。
静はペンを置いた。
「次の面談までに、二つ書いてくる。医者として『やりたいこと』を三行。絵で『やりたいこと』を三行。どっちが本物か、比べる」
ヒナが眉を寄せる。
「比べたら、バレます」
「紙はここに置く。家に持ち帰らない。ここで書く」
陸が小さく言った。
「放課後、ここ……見回りあるから、時間ずらした方が」
静が頷く。
「昼休み。保健室の一時間枠の前後は避ける。裏階段で来い。陸、案内できる?」
陸が一瞬だけ戸惑ってから、頷いた。
「……できます。教頭の巡回、だいたいパターン……」
「声小さく」
静が遮る。陸は口をつぐむ。
ヒナが立ち上がった。椅子が小さく鳴る。
「先生。私、もし……絵の方に行きたいって決めたら、親と戦うことになりますよね」
静は鍵のついたケースを見たまま答えた。
「戦う日が来る。避けられない」
ヒナの指が制服の袖口を握る。
「怖いです」
静はヒナを見た。
「怖いままでいい。怖いなら、準備する。準備は裏切らないことが多い」
ヒナは頷いた。頷き方が、さっきより少しだけ柔らかい。
ドアの外でまた足音が近づく。今度は二人分。低い声が混じる。
陸がドアノブに手をかけ、静を見る。
静が短く言う。
「先に出るな。時間をずらす。ヒナ、五分待ってから裏階段」
ヒナが頷く。
静は机の上の内申コピーを揃え、あえて見える位置に置いた。医大志望の資料も一枚、上に重ねる。
足音がドアの前で止まる。
静は椅子に深く座り直し、ペンを取った。
「さて。志望理由書、書くか。『地域医療』の中身、あなたの言葉で」
ヒナは息を吸い、吐いて、椅子に座り直した。封筒のない机の上で、指先だけがまだ震えている。
ドアの向こうで、誰かが静かに咳払いをした。
「……地域医療って、何を書けばいいんですか」
佐倉ヒナはノートを開いたまま、ペンを持てずにいた。机の上で指が空回りする。
桐生静は、医大のパンフレットを一枚だけ机の端に置いた。見せつけるでもなく、隠すでもなく。
「書けないなら書かない。面接で詰むだけ」
「詰むの、分かってます」
「分かってるのに、言葉が出ない」
ヒナが小さく頷く。喉仏が上下した。
静は椅子の背にもたれず、前に体重を置いた。
「医者になりたい理由、ひとつもない?」
「ないわけじゃ……」
「あるなら言える」
ヒナはペン先を紙に当てて、すぐ離した。
「父が、診察室で……患者さんに『先生がいないと困る』って言われてるの、見たことあります」
「それで?」
「すごいって……思いました」
「あなたがすごいと思ったのは、父の仕事? 父の立場?」
ヒナの眉が動く。
「……どっちも」
静は頷いた。
「どっちもなら、言葉にすると薄くなる。『すごい』は志望理由にならない」
ヒナが息を吐く。吐く息が短い。
「じゃあ、私、医大無理ってことですか」
「無理じゃない。条件を満たせば受けられる。でも、今のままだと危ない」
「危ない……」
静は机の上の内申コピーを指でトントンと叩いた。
「成績は上じゃない。落ちてもない。中途半端。医大だと『中途半端』は落ちる側に入る」
ヒナの肩が小さく震えた。声が硬くなる。
「じゃあ、絵は? 絵なら中途半端でもいいんですか」
「絵は、もっと残酷」
ヒナが顔を上げる。
静は淡々と言葉を置く。
「上手い人は山ほどいる。学費もかかる。就職も保証されない。『好き』だけで行くと、生活が先に折れる」
「……どっちも、折れる」
ヒナが絞り出すように言った。
静は否定しない。
「折れないために、折れる場所を選ぶ」
ヒナが睨むように見る。
「先生、言い方が……」
「現実は優しくない。あなたの親も優しくない」
ヒナの口角がわずかに引きつった。笑いではない。
「……優しくないです。結果しか見ない。模試の判定、壁に貼られます」
「貼られる?」
「『次は上げろ』って。上がらなかったら、夕飯の空気が変わる」
静はペンを置いた。机の上で転がらないように指で止める。
「家の中が模試の会場になってる」
ヒナが小さく頷く。
ドアの外、廊下の遠くでスリッパの音が止まり、また動いた。陸がドアの隙間を見て、静に目だけで合図する。巡回が近い。
静は声量を落とす。
「佐倉。『どっちも叶わない』って怖さ、今がピークだ」
「まだ受験まで一年あるのに?」
「一年は短い。親の期待が強いほど短い」
ヒナは唇を噛んだ。唇が白くなる。
「私、医者になれなかったら、家にいられないです」
「いられない、は誰が言った」
「父が。『医者にならないなら、この家の子じゃない』って」
陸がドアの前で固まる。静はヒナから視線を逸らさない。
「言われたの、いつ」
「中三のとき。兄が出たあと」
静は短く息を吸った。吐かずに飲み込む。
「佐倉。家から追い出される可能性はゼロじゃない。だから準備する」
ヒナの目が揺れる。
「準備って……どうやって」
静は机の引き出しから、学校の奨学金と就学支援の資料を一枚だけ出した。分厚い束ではなく、必要最低限の紙。
「こういう制度がある。学費の道は一つじゃない。親が出さなくても行ける学校もある。ただし、条件がある。成績、出席、手続き、期限」
ヒナが紙を見て、すぐ目を逸らした。
「私、そんなの使ったら……親がもっと怒る」
「怒る。だから、今すぐ使う話じゃない。『逃げ道がある』って知るために見る」
ヒナは紙の端を指でなぞった。触れるだけで、すぐ離す。
「逃げ道……」
静は続けた。
「それと、もう一つ。医大と美大の二択にしない」
ヒナが眉を寄せる。
「でも、親は二択です」
「親の二択は、親が勝つための二択。あなたの二択を作る」
静はメモ用紙に線を引いた。三つの枠。
「医大」
「医療系の別ルート」
「絵を職に繋げるルート」
ヒナが覗き込む。
「医療系の別ルートって……看護とか?」
「それもある。臨床検査、放射線、薬、リハビリ。医者じゃなくても医療はできる。学費も、偏差値も、現実が違う」
ヒナの目が少しだけ開く。
「でも、それ、父が……」
「嫌がる可能性が高い。だから『医者以外』をいきなり出さない。順番」
「順番?」
「まず医大に向けて動いてる姿を見せる。その上で、医療系の別ルートを『滑り止め』として並べる。親が嫌いでも、滑り止めは否定しづらい」
ヒナが呟く。
「滑り止め……」
「あなたにとっては滑り止めじゃないかもしれない。けど、言い方で通ることがある」
ヒナの口が少し開く。
「ずるい」
「さっきも言った。勝つためのずるさ」
廊下の足音がまた近づき、ドアの前で一瞬止まった。誰かがドアの小窓を覗く気配。静は医大パンフレットを少し手前に寄せ、机の上を「王道の進路面談」に見せた。
数秒後、足音は通り過ぎた。
陸が息を吐き、肩を落とす。
ヒナはその一連を見て、声を落とした。
「先生まで、隠れてる」
静が小さく頷く。
「外部連携も止められかけてる。監査がどうとか、言葉だけで人は黙る」
陸が唇を結ぶ。ヒナは静を見たまま、ペンを握り直した。
「……先生。私、どっちも中途半端なんです。勉強も、絵も」
「中途半端、って誰が決めた」
「模試の判定も、コンクールも出してないし」
「出してないのに決めるな」
静はスケッチブックが入った鍵付きケースをちらりと見た。
「絵は、出すところを作る。校内の美術展、コンクール、デザイン系のコンペ。出したら、結果が出る。良くても悪くても、材料になる」
ヒナが小さく首を振る。
「落ちたら、終わりです」
「落ちたら、落ちたデータが手に入る。何が足りないかが分かる」
「親は『才能ない』って言います」
「言わせるために出すんじゃない。あなたが自分を殴る材料を減らすために出す」
ヒナの目が瞬きの回数を増やす。泣く前の目だが、泣かない。
静は声を柔らかくはしない。代わりに、具体を積む。
「勉強は、医大一本の勉強を続けると潰れる。だから配分を決める。週に何時間、絵の時間を確保するか。親にバレない形で」
ヒナが食い気味に言った。
「無理です。家、全部見られてる」
陸が口を挟む。
「放課後、学校で……」
静が陸を見る。陸は言い切る。
「図書室とか、美術室とか。先生が鍵……」
静が頷いた。
「学校でやる。家で戦わない。学校なら『課題』って言える」
ヒナが苦く笑う。
「課題、出てないのに」
「出すようにする。美術の先生に話す。私が行く」
ヒナの肩が少しだけ下がる。
「……でも、私、医大の勉強もしないと」
「する。削らない。『医大を目指してる』事実は盾になる」
ヒナがペン先を紙に当てた。今度は離さない。
「医者として、やりたいこと……三行」
静が頷く。
「嘘でもいい。最初は」
ヒナが静を睨む。
「嘘、書いたら、私が嫌いになります」
「嫌いにならない嘘にしろ。『父の夢』じゃなくて、『あなたが見た場面』を書く」
ヒナはしばらく黙った。紙の上に、震える字で一行目を書き始める。
「……『困っている人が、安心する顔』」
書き終えて、ヒナは自分の字を見て固まった。
「これ、私の言葉ですか」
「今ここで出たなら、あなたの言葉だ」
ヒナが二行目に迷う。ペン先が空中で止まる。
陸が小さく言う。
「……書けてるじゃん」
ヒナが陸を見る。すぐ視線を戻す。
「でも、これで医大行けるわけじゃない」
静が即答する。
「行けないかもしれない。だから、別ルートも並べる」
ヒナの指が紙を押さえる。
「並べたら、逃げだって言われる」
「逃げじゃない。保険。保険は臆病者の道具じゃない。生活者の道具だ」
ヒナが小さく息を吐いた。吐いた息が少し長い。
静は机の端の資料を指で揃えた。
「次の一歩。明日昼休み、美術の先生と三人で会う。校内展の出品枠、確保する。コンクールも選ぶ」
ヒナが顔を上げる。
「……親にバレたら」
「バレても、学校の活動だ。止めるなら、親は学校に文句を言うことになる。そこは、私が受ける」
陸が静を見た。静は目を逸らさない。
廊下の向こうで、また足音が増えた。今度は複数。誰かが誰かに小声で指示している。巡回が戻ってきたらしい。
静が立ち上がり、ヒナのノートを閉じさせないまま言った。
「続きは明日。今日はこの一行、ここに置いていける?」
ヒナはノートを抱えかけて、止まった。ゆっくり机に戻す。
「……置きます。家に持って帰ったら、たぶん、破かれる」
静がノートを受け取り、鍵付きケースとは別の、普通のファイルに挟んだ。表紙には「志望理由書(医)」とだけ書く。
「これなら誰が見ても医大だ」
ヒナが小さく笑った。今度は少しだけ、人の笑い方だった。
ドアの外で足音が止まる。
陸が小声で言う。
「来る」
静が頷き、ヒナに目で合図した。
「裏階段。五分後。今日は陸が先に出て、様子見る」
ヒナが立ち上がる。椅子が鳴る音がやけに大きい。
「先生」
「何」
ヒナは言いかけて、飲み込んだ。代わりに、短く頭を下げた。
静は返事をしない。頷くだけ。
陸がドアに手をかける。静が医大パンフレットを開き、ページをめくる音をわざと立てた。
ドアの向こうで、誰かがノックをする前の沈黙が伸びる。
その沈黙の中で、ヒナは自分の鞄の中を探り、小さな消しゴムを取り出して机の端に置いた。
「これ……明日、使います」
静がそれを見て、短く言った。
「明日、来い」
陸がドアを少し開けた。廊下の空気が流れ込む。
次の足音が、今度は第3進路室の前で止まった。
ドアが開いた。
相沢陸は一歩だけ廊下に出て、すぐ戻った。顔が引きつっている。
「……担任。あと、教頭の秘書みたいな事務の人」
桐生静は医大パンフレットを閉じ、机の上を一瞬で整えた。ヒナのスケッチブックは棚の奥、鍵付きケースの中。ノートは「志望理由書(医)」のファイルに挟んである。
「陸、裏」
陸は頷いて、ヒナの方を見た。
ヒナは椅子から立ち上がりかけて、動けない。足だけが迷っている。
静が低い声で言う。
「今、出ない。座れ。普通の面談の顔をしろ」
ヒナは唇を噛んだまま、椅子に座り直した。
ノックが二回。
静が「どうぞ」と言う前に、担任の鈴木が顔を覗かせ、その後ろに事務職員が立った。事務職員は名札を胸に、静の机の上を一瞥する。
「桐生先生、今いい?」
「今、医大志望の面談中」
静はあえて言った。事務職員の視線がパンフレットに落ちる。
鈴木がヒナに笑いかける。
「佐倉、頑張ってるか?」
ヒナは喉を鳴らして頷いた。
事務職員が静に紙を一枚差し出した。
「教頭先生から。『外部とのやり取り、事前申請を徹底』。今週、監査関連の確認が入るので」
静は受け取り、目を通すふりをした。紙の端に黒川の印鑑が押してある。
「分かりました」
鈴木が咳払いをして、声を落とす。
「……佐倉の保護者から連絡があって。今日、放課後に来るって」
静は顔色を変えない。
「承知してます」
「桐生先生が担当で、って指定」
鈴木が言いにくそうに付け足す。
「なんか……機嫌、悪いらしい」
静は小さく頷いた。
事務職員がもう一度机の上を見てから、ドアを閉めた。足音が遠ざかる。
静は息を吐かずに、ヒナに向き直る。
「来る。父?」
ヒナが小さく頷いた。
「たぶん、父だけ。母は病院」
静は時計を見た。
「放課後までに、言うことを決める。あなたは黙る練習をする」
ヒナが目を見開く。
「黙る?」
「余計な一言で燃える。あなたが燃えたら、家で潰される」
ヒナの手が膝の上で握られる。
「でも……私が言わないと」
「言うのは私。あなたは事実だけ言う。『描いてる』じゃない。『学校の活動として出品する』」
ヒナの口が動く。
「嘘みたい」
「言い方」
静は机のメモを引き寄せ、ペンで短く書く。
「①医大志望は継続」
「②成績維持+弱点補強」
「③美術はストレス管理と観察力の訓練」
「④校内活動として出品」
「⑤期限:夏までに結果で判断」
ヒナが覗き込む。
「夏まで……」
「親が納得しやすい期限。無期限は怒る」
ヒナは黙って頷いた。頷き方が、さっきより重い。
陸が小声で言う。
「……俺、外で見張ってる」
静が頷く。
「頼む。教頭の巡回、来たらノック二回」
陸はドアを出た。静は鍵付きケースに視線をやり、戻した。
「佐倉、最後に確認。親に言われたら、こう返す」
静が言い、ヒナが繰り返す。
「『医大は諦めてません』」
「医大は諦めてません」
「『学校の活動として、美術の出品をします』」
「学校の活動として、美術の出品をします」
ヒナの声が少し震える。静は止めない。
「『成績が落ちたら、すぐやめます』」
ヒナが口を開き、閉じた。
「……それ、言いたくない」
「言いたくないことを言うのが交渉」
ヒナの目が揺れる。
「やめたくない」
「やめないために言う。約束の形を作るだけだ」
ヒナは歯を食いしばって言った。
「成績が落ちたら、すぐやめます」
静が頷く。
「よし。放課後まで、普通に過ごせ。家に連絡は?」
ヒナが首を振る。
「父はもう、来るって決めてる」
静は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私が先に保護者室を押さえる。ここじゃ目立つ」
ヒナが立ち上がりかける。
「先生……」
「大丈夫、とは言わない。準備した。あとは来た球を打つ」
静は扉を開け、廊下を見た。陸が柱の陰で頷く。遠くで黒川の声がした気がして、静はすぐ扉を閉めた。
***
放課後。
保護者対応用の小さな応接室。テーブルの上に湯呑みが二つ。静は自分の手元に資料を揃えた。医大志望の学習計画、模試の推移、校内美術展の募集要項。美術展の紙は一番下に隠すように置く。
ドアが開く音が硬い。
佐倉の父は背筋を伸ばし、白衣ではないのに白衣の匂いがするような歩き方で入ってきた。ネクタイがきっちりしている。座る前に、静の名札を見た。
「桐生先生」
「佐倉さん。本日はお時間いただきありがとうございます」
静が頭を下げる。父は軽く頷いただけで椅子に座った。ヒナは父の斜め後ろに立ち、座らない。
父が湯呑みに手を伸ばさず言う。
「単刀直入に。うちの娘が、余計なことを考えていると聞きました」
静は湯呑みを動かさない。
「医大志望は継続しています。模試の結果も——」
「結果がすべてです」
父の声が被さる。静の言葉を切る速さ。
「判定は?」
静は紙を一枚だけ前に出した。
「直近はBとCの間です。理数は伸びています。英語が——」
父が紙を見て鼻で息を吐いた。
「中途半端だ」
ヒナの指が制服の裾を握る。静はヒナを見ない。父だけを見る。
「中途半端だから、計画を立てています。夏までに——」
「夏?」
父の眉が動く。
「受験は冬だ。夏に何を判断する」
静は間を置いた。
「夏までに、志望理由書と基礎学力の安定を作る必要があります。本人が折れない形で」
父が目を細める。
「折れない? 甘い。医者は折れてはいけない仕事だ」
「折れない人間はいません。折れたときに戻れる環境があるかどうかです」
父の口角が下がった。
「環境は用意している。塾も家庭教師も、最高のものを」
静は頷いた。
「その環境で伸びています。ですが、本人の息が続くかは別です」
父の視線がヒナに飛ぶ。
「ヒナ。何か言え」
ヒナの喉が動いた。だが声が出ない。静が先に言う。
「佐倉さん。本人は勉強を続ける意思があります。その上で——」
父が机を指で叩いた。乾いた音。
「その上で、何だ」
静は資料の束を一枚めくり、美術展の募集要項を上に出した。隠すのをやめる。
「校内の美術展に、作品を出します。学校活動として」
父の目が一瞬で冷える。
「は?」
静は言葉を重ねない。父が理解する時間を与える。
理解した瞬間、父の声が跳ねた。
「ふざけるな」
湯呑みが震えた。父の指がテーブルを掴む。
「医大を目指す子が、絵? 遊びだ」
静は首を振らない。肯定もしない。
「遊びではありません。本人の観察力と集中力は、美術で伸びています。医療にも——」
「必要ない」
父が言い切る。
「必要なのは点数だ。偏差値だ。合格だ。学校はそれを教える場所だろう」
静は静かに返す。
「学校は、進路を作る場所です。合格だけが進路ではない」
父の眉が吊り上がる。
「うちの娘の進路は医大だ。合格以外は失敗だ」
ヒナが小さく息を吸う音がした。静はそこで、プランの核心を出す。
「だから、医大志望は変えません。成績が落ちたら、美術は止めます。期限は夏まで。結果が出なければ、こちらから撤退します」
父が静を睨む。
「撤退? あなたが決めることじゃない」
「決めるのは本人とご家庭です。私は学校として、本人の学習計画と、心身の維持策を提案します」
父が笑った。短く、刺す笑い。
「心身の維持策? 絵を描かせるのが維持策だと?」
静は目を逸らさない。
「はい。本人が潰れたら、医大は遠のきます」
父が立ち上がった。椅子が床を擦る。
「潰れる? 潰れるようなら医者になれない。兄みたいになる」
ヒナの肩が跳ねた。静がすぐ言う。
「兄の話を、本人の前で出さないでください」
父が静を見た。目に火が入る。
「教師が家庭に口を出すな」
静は一歩も引かない。
「家庭が学校に、全てを従えと言うなら、口を出します。学校は企業じゃありません」
言い終えた瞬間、静の脳裏に黒川の声がよぎる。「学校は企業。成果がすべて」。応接室の空気が薄くなる。
父が低い声で言った。
「……あなた、教頭に逆らってる先生だろ」
静は瞬きだけで返した。
「噂は早いですね」
「噂じゃない。うちには情報が入る」
父はヒナを見ずに言った。
「ヒナを、変なところに連れて行くな。外部? コンテスト? そんなものに関わらせるな」
静は即答する。
「外部連携は、学校として今止まっています。ですから、校内活動だけです」
父の目が細くなる。
「止まってる? それでいい。余計なものは要らない」
静は湯呑みを指で押さえた。震えを止めるためではなく、机の上の空気を整えるみたいに。
「校内だけでも、本人の息は続きます。結果が出れば、志望理由にもなります」
父が吐き捨てる。
「志望理由? 医者になりたい理由なんて、医者の家に生まれた、それで十分だ」
ヒナの手が、背中の方で握られた。爪が食い込む音がしそうな握り方。
静は、ヒナに視線を投げる。短く。合図だけ。
ヒナの喉が動いた。声が出た。
「……医大、諦めてません」
父が振り向く。
「当たり前だ」
ヒナは次の言葉を探し、静のメモを思い出すように口を開いた。
「学校の活動として……美術の出品をします」
父の顔が歪む。
「誰に吹き込まれた」
ヒナが言葉を失いかける。静が割って入る。
「私です」
父が静に詰め寄った。
「あなたが? あなたが、うちの娘を医者から遠ざけるのか」
静は椅子から立たない。視線だけ上げる。
「遠ざけません。むしろ、近づけるための管理です」
「管理?」
父の声が大きくなる。応接室の外の廊下が静かになる気配がした。誰かが耳を澄ませている。
「教師が、うちの娘を管理? 笑わせるな。娘は私が管理する」
ヒナの肩が内側に縮む。静はそこで、もう一枚だけカードを出した。
「医大が難しい場合の、医療系の別ルートも、並行して情報を集めます。滑り止めとして」
父の顔色が変わった。怒りが、形を変える。冷たくなる。
「……医者以外を考える時点で、負けだ」
静は言う。
「負けを避けるために、負け方を選びます」
父が机の上の紙を指で弾いた。募集要項がずれて床に落ちる。
「そんなもの、必要ない。今すぐやめさせろ」
ヒナが小さく言った。
「成績が落ちたら、やめます」
父が一瞬止まった。止まったのは、ヒナが口にしたからだ。だが次の瞬間、父は笑った。
「落ちるに決まってる。絵なんかやったら落ちる。なら今やめろ」
静が言う。
「落ちるかどうかは、データで見ます。次の模試まで——」
「データ?」
父が声を荒げる。
「娘の人生を、あなたの実験にするな!」
応接室のドアの向こうで、足音が走った。誰かが様子を見に来たのか、遠くで「大丈夫ですか」と小さな声がした。
静は声を落とした。落とすことで、逆に刃を立てる。
「佐倉さん。ここで怒鳴っても、点数は上がりません」
父の目が見開かれる。
「……何だと」
静は続ける。
「怒鳴るなら、家でどうぞ。学校では、本人が前に進む話をします」
父の拳がテーブルに落ちた。湯呑みが倒れ、茶が広がった。
ヒナがびくりとし、足が一歩引ける。
父は濡れたテーブルも見ずに言った。
「もういい。学校には任せない。担任を変えろ。進路担当も変えろ。教頭に直接話す」
静の胸の奥が固くなる。黒川の影が輪郭を持って迫る。
静は湯呑みを起こし、紙ナプキンで茶を拭いた。動作が遅い。父の怒りに飲まれない速度。
「どうぞ。教頭に話してください」
父がドアへ向かう。ヒナが父を追いかけようとして、止まった。足が床に縫い付けられたみたいに。
父が振り返り、ヒナに言う。
「来い」
ヒナは静を見た。目が「助けて」とは言っていない。ただ、次の呼吸の仕方を探している。
静が短く言った。
「今日は帰れ。家で何かあったら、明日ここに来い。必ず」
ヒナは唇を噛み、頷いた。
父がドアを開ける。
「——それから」
父が静に言い捨てる。
「あなたのところ、監査が入るって本当か。余計なことをしてる先生は、すぐ消える。娘を巻き込むな」
ドアが閉まった。
応接室に残ったのは、茶の匂いと、濡れた紙と、ヒナの浅い呼吸だけだった。
ヒナは椅子に座らず、立ったまま震える指で自分の鞄の持ち手を握った。
「……終わりました」
静は「終わった」とは言わない。机の上の濡れた資料を一枚ずつ乾いた場所に移し、落ちた募集要項を拾った。
「終わってない。次が来た」
ヒナが顔を上げる。
「次……?」
静は募集要項の角を揃え、ヒナに見せた。
「校内展の締切は来週。あなたの家がどうであれ、締切は待たない」
ヒナの喉が動く。
「でも、父が……」
静は応接室のドアを見た。外の廊下に人の気配が増えている。噂が広がる速度。
「父は教頭に行く。教頭は数字の話をする。あなたは作品を作る。三つ同時だ」
ヒナが笑いそうになって、笑えない顔になる。
「無理です」
静は立ち上がり、ヒナの鞄の持ち手に視線を落とした。
「無理なら、無理の中でやる。今日、家に帰ってスケッチブックは探される。だから、ここに置いたのは正解だ」
ヒナの目が潤む。落ちない。
静はドアを開け、廊下を確認した。遠くに陸が立っている。二回、軽くノックする仕草で合図してくる。巡回が近い。
静がヒナに言った。
「第3に戻る。裏。陸がつける」
ヒナが一歩踏み出す。足がまだ重い。
静は歩き出しながら、ポケットの中でスマホを握り直した。黒川に先手を打つための連絡先を思い浮かべる。担任ではない。教頭でもない。校長でもない。
校内の、美術の教師。
静が小さく呟く。
「締切までに、味方を増やす」
ヒナはその言葉を聞き取ったのか、聞き取れなかったのか分からない顔で、静の背中についていった。
第3進路室に戻る途中、裏階段の踊り場で相沢陸が足を止めた。
「……さっきの、聞こえた」
桐生静は廊下の角を確認し、顎で先を促した。
「今は喋るな。動く」
ヒナは二段上の段差で立ち尽くし、手すりを握っていた。指の跡が白い。
静が振り返る。
「佐倉。家、帰れる?」
ヒナは頷いた。頷いたが、足が動いていない。
陸が小声で言う。
「送る? 途中まで」
ヒナが首を振る。
「……大丈夫。たぶん」
静は「たぶん」を拾わない。代わりに、鍵付きケースの鍵をポケットの中で確かめた。
第3進路室のドアを開ける。室内はいつも通りの古い匂い。机の角に置かれた消しゴムが、昼のまま残っている。
静が椅子を引いた。
「座れ。帰る前に、決めることがある」
ヒナは椅子に腰を下ろした。背中はまだ椅子に触れない。
陸はドアの内側に立ち、廊下の気配を探る。耳だけが働いている。
静が言った。
「父親は教頭に行く。明日、担任経由で圧が来る。『余計なことをするな』って」
ヒナの肩が跳ねた。
「……私のせいで、先生が」
「私のせいだ。引き受けた」
静は机の上に、校内美術展の募集要項を広げた。濡れて少し波打っている。
「締切、来週。出すなら、今週末にラフ、来週頭に清書。部屋はここじゃなく、美術室を使う。鍵は美術の先生が持ってる」
ヒナの目が紙に落ちる。
「……父が、家で探す」
「探す。だから、家で描かない」
ヒナの指が膝の上で動く。
「でも、学校も……見られてる」
陸が低く言う。
「教頭、最近マジで回ってる。第3の前、わざと通る」
静が頷く。
「だから美術室。第3に絵の匂いを残さない」
ヒナが小さく笑った。笑いとため息の間。
「匂いって……」
静は続けた。
「あと、家でのルール。今日から変える」
ヒナが顔を上げる。
「変えられません」
「変える。小さく」
静はペンを取り、白紙に二つだけ書いた。
「①帰宅後、父の前で勉強をする時間を固定」
「②絵の話はしない」
ヒナが眉を寄せる。
「絵の話、しないで……どうやって出品するんですか」
「学校の話として、最後に言う。『提出した』って事後報告」
ヒナの目が鋭くなる。
「怒られます」
「怒られる。けど、事前に止められるよりはマシだ」
ヒナは口を開きかけて、閉じた。
陸が言った。
「……怒られるの、怖いよな」
ヒナは陸を見ない。見ないまま、静に言う。
「私、今日……父の前で、何も言えませんでした」
静は淡々と返す。
「言わなくてよかった。今日は火力が強すぎた。あなたが言ったら燃料になった」
ヒナの手が、机の端に置かれた消しゴムに触れた。指先が少しだけ落ち着く。
「……でも、いつか言わないと」
「言う日を決める」
静が言った。
ヒナが顔を上げる。
「決める?」
「決めないと、流される。家のルールに」
静は紙に三つ目を書き足した。
「③言う日:校内展の提出後」
ヒナが息を呑む。
「提出したあとに……言うんですか」
「提出したら、もう作品は学校にある。捨てられない。壊されない」
ヒナの喉が動く。
「……ずるい」
「守るためのずるさ」
静は椅子から立ち、鍵付きケースを開けた。封筒を取り出し、ヒナの前に置く。封筒の中のスケッチブックは見せない。
「これ、ここに置く。あなたが『私の人生』って言うまで、ここで守る」
ヒナが封筒を見つめた。手を伸ばしそうで伸ばさない。
陸がドアの外に目を向け、囁く。
「足音、遠い。今なら帰れる」
静が頷いた。
「帰れ。家に着いたら、明日の昼休みのことだけ考えろ」
ヒナは立ち上がった。鞄を肩にかける。足が一歩出たところで止まる。
「先生」
「何」
ヒナは言葉を探し、唇が震えた。だが、声は出さないまま頭を下げた。
静は頷くだけ。
陸が先に出て、廊下を確認する。ヒナが後に続く。静は最後にドアを閉め、鍵をかけた。
***
その夜。
佐倉家の玄関で、ヒナは靴を揃える手を止めた。リビングからテレビの音がしていない。代わりに、紙をめくる音がする。父の気配だ。
「遅い」
声が飛んできた。リビングの入口に父が立っていた。昼の怒りが、冷たい形のまま残っている。
ヒナは鞄を抱えたまま、廊下で止まる。
「学校、面談が……」
「桐生先生と?」
父の声が低い。
「担任から聞いた。君は、あの先生に余計なことを吹き込まれている」
ヒナの喉が動いた。静の言葉が頭の中で並ぶ。「事実だけ」。そう言い聞かせる。
「医大は、諦めてない」
「当然だ」
父が言い、すぐ続けた。
「だから、絵はやめろ」
ヒナの指が鞄の持ち手に食い込む。鞄の革が鳴った。
「……学校の活動として」
「言い訳するな」
父が一歩近づく。
「君は、兄と同じ道を——」
ヒナの口が勝手に開いた。声が出た。自分でも驚くほど、はっきり。
「兄の話、しないで」
父が止まった。
「何?」
ヒナは息を吸った。吸った息が胸に刺さる。吐くときに声が震えそうで、歯を噛んだ。
「私は、兄じゃない」
父の眉が寄る。
「なら、医者になれ」
ヒナは鞄を床に置いた。置いた音が小さく響く。逃げ道を自分で塞ぐみたいに。
「医者の勉強、する」
父が頷きかける。
「だが——」
ヒナが続けた。
「絵も、やめない」
父の目が細くなる。
「……何を言っている」
ヒナは言葉を選ぶ時間が欲しくて、唇を噛んだ。だが選ぶほど、言えなくなる。だから短くする。
「私の時間は、私が決める」
父の顔が硬くなる。
「君の時間は、家の投資だ。塾代、家庭教師代——」
「分かってる」
ヒナが遮った。遮ったのは初めてだ。
父が一瞬、言葉を失う。次の瞬間、声が上がる。
「分かってるなら従え!」
ヒナの肩が跳ねた。けれど足は引けなかった。床に置いた鞄が、そこにある。
「従ってる」
ヒナは言った。声がかすれる。
「ちゃんとやってる。模試も。塾も」
父が吐き捨てる。
「結果が出ていない」
ヒナの喉が詰まる。中途半端、という言葉が頭を殴る。だが、静の机の上の一行を思い出す。「困っている人が、安心する顔」。
ヒナは目を伏せずに言った。
「結果、出す」
父が鼻で笑う。
「口だけで?」
「夏までに」
父の眉が動く。
「夏?」
「夏までに、成績落ちたら、絵はやめる」
父が目を見開く。条件が出たことに、少しだけ反応が変わる。怒りの形が、計算に寄る。
「誰に言わされた」
ヒナは一拍置いた。静の顔が浮かぶ。だが、今ここで「先生が」と言ったら、父の矛先が学校に向く。向いたら、学校で描けなくなる。
ヒナは言った。
「私が決めた」
父の目が疑う。
「そんな賢い取引が、君にできるか」
ヒナの口の中が苦くなる。だが、言うべき言葉が残っている。言わないと、また元に戻る。
ヒナは胸の奥から引っ張り出すように言った。
「……私の人生だから」
言った瞬間、廊下の空気が変わった。父の顔が、怒りより先に驚きで固まる。
次に来たのは、怒りだった。
「誰の金で生きてると思ってる」
ヒナの指が震えた。けれど、声は出た。
「だから、勉強するって言ってる」
父が一歩踏み出す。
「絵は遊びだ」
「遊びじゃない」
「遊びだ。医者になれない人間が、絵で食えるわけがない」
ヒナの喉が鳴った。静の言葉が刺さる。「絵はもっと残酷」。それでも、言う。
「食えるかは、分からない」
父が嗤う。
「ほら見ろ」
「でも、描く」
ヒナの声が小さくなる。小さくなるのに、引かない。
父が息を吐いた。短く、荒く。
「……ヒナ。君は、私に恥をかかせる気か」
ヒナの胸がきゅっと縮む。「家の子じゃない」と言われる未来が見える。足が震える。だが、鞄は床にある。
ヒナは言った。
「恥をかかせたいんじゃない」
父が睨む。
「なら」
「私が、私を恥にしたくない」
言い終わって、ヒナの喉が痛くなった。涙は落ちない。落としたら負ける気がした。
父はしばらく黙っていた。黙ったまま、ヒナの鞄を見た。鞄の中を探るような目だった。
ヒナは一歩前に出て、鞄を持ち上げた。抱える。
「見ないで」
父の眉が跳ねる。
「何だ、その態度は」
「作品、学校に置いてある」
ヒナが言った。事後報告。静が作った盾。
父の顔が歪む。
「勝手に!」
「勝手にじゃない。学校の活動」
父は口を開き、閉じた。学校に文句を言うことの面倒さが、一瞬だけ顔に出る。だがすぐ怒りが戻る。
「明日、教頭に電話する。桐生先生は外す」
ヒナの背中が冷たくなる。静の顔が浮かぶ。だが、静は「引き受けた」と言った。
ヒナは小さく頷いた。
「……して」
父が目を細める。
「何?」
ヒナは言葉を絞る。
「電話してもいい。でも、私の話は、私がする」
父が嘲るように笑う。
「君が?」
「うん」
ヒナは言った。短い肯定が、自分の喉から出たことに驚く。
父は顔を近づけ、低い声で言った。
「じゃあ言え。今ここで。医者になると」
ヒナは息を吸う。吐く。
「医者を目指す」
父の目がわずかに緩む。
ヒナは続けた。
「でも、私の人生は、私が決める」
父の顔がまた固まる。
次の言葉は、父の怒鳴りではなかった。冷たい断言だった。
「なら、覚悟しろ。支援は減らす。塾も家庭教師も、結果が出なければ切る」
ヒナの胸が沈む。怖い。現実が形になる。だが、静が見せた支援制度の紙が頭の隅に残っている。逃げ道があることを知っただけで、足が踏ん張れる。
ヒナは小さく言った。
「……分かった」
父が背を向ける。
「夕飯は要らない。自分で何とかしろ」
リビングのドアが閉まった。
廊下に残されたヒナは、しばらく動けなかった。手の中の鞄が重い。胃が空っぽなのに、何も入らない気がする。
それでも、ヒナは階段を上がった。
自室の机に向かう。ノートを開く。医大の勉強。今日、静に言われた通り、固定する時間。
ページの端に、小さく線を引く。絵の線ではない。勉強の区切りの線。
そこへ、スマホの通知が一つ光った。制限のかかった画面に、短い件名だけが表示される。
「学校:保護者連絡」
ヒナの指が止まる。
下の階で、父の電話の声が聞こえた。相手の名前は聞こえない。だが、「教頭」という単語だけが、廊下に落ちてきた。
ヒナはスマホを伏せ、ノートの一行目に書いた。
『夏までに、結果を出す』
ペン先が震えて、字が少し歪んだ。
それでも、書き直さなかった。
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