成績表に書けない才能

深渡 ケイ

文字の大きさ
16 / 27

第16話:親の夢を背負う子

しおりを挟む
 第3進路室のドアは半分だけ開いていた。

 相沢陸が廊下を覗き、誰もいないのを確かめてから、指で軽く二回ノックする。

「桐生先生。来た」

 桐生静は顔を上げずに、机の上の書類を揃えた。戸田ユウキの契約書コピー、店長の評価文書、年末調整の控え。紙の角を揃える手つきが妙に落ち着いている。

「入れて」

 陸の後ろに、女子が立っていた。肩までの黒髪。制服のスカートのプリーツがきっちりしているのに、指先だけが落ち着かない。鞄の持ち手を何度も握り直している。

 静が椅子を指さす。

「佐倉ヒナ。座って」

 ヒナは椅子に腰を下ろしたが、背中が椅子に触れない。顎だけ少し上がっている。

 陸はドアの近くで立ったまま、廊下に耳を澄ませる。

 静が視線を上げた。

「担任から回ってきた。『医大志望で志望理由書の添削を』って」

 ヒナの目が一瞬だけ鋭くなる。

「……親が、そう言ってます」

「あなたは?」

 ヒナは答えない。口を開きかけて、閉じる。唇の端が白くなる。

 静は急かさない代わりに、机の端にペンを置いた。

「佐倉。ここは第3進路室。進路の正解は出さない。出せるのは、今の条件と、取れる手。どっちがいい?」

「……条件」

「よし。今、成績は?」

 ヒナは鞄からファイルを出し、内申のコピーを差し出した。指先が紙を押さえる力が強い。

 静はざっと見る。

「理数は上。国語は普通。英語は波がある。欠席は少ない。模試の判定は——」

「見なくていいです」

 ヒナが言った。声が少しだけ上ずる。

 静は手を止めた。

「見ないと現実が動かない。医大は、学費も、偏差値も、面接も、全部重い」

 ヒナの肩が小さく揺れる。笑ったように見えて、笑っていない。

「だから、親が全部やってくれてます。塾も、家庭教師も。私の予定も」

「あなたの予定、ね」

 静は紙を戻し、別の紙を引き寄せた。白紙のメモ。

「親は医者?」

「父が開業してます。母も医師です」

 陸が小さく息を吸った。静は気づいてもそのままにする。

「家は医者一家。あなたが医者になるのが自然。そういう空気?」

 ヒナは頷いた。頷き方が硬い。

「兄がいます。兄は……逃げました」

「逃げた?」

「医者にならないって言って、家を出た。今どこにいるか、あまり——」

 言いかけて、ヒナは視線を落とした。机の木目を見ている。

 静はメモに短く書く。「兄:離脱」

「で、あなたは?」

 ヒナの手が鞄の中を探った。出てきたのは小さなスケッチブックだった。表紙が角で擦れて白くなっている。

 ヒナはそれを机に置くが、開かない。

「……絵」

 言葉が転がるみたいに出た。

「描きたい」

 陸が思わず一歩だけ前に出る。静が視線で制す。

 静はスケッチブックに触れない。

「描きたい。どのくらい?」

 ヒナは喉を鳴らした。

「授業中も。ノートの端とか。家だと、見つかるから……夜」

「見つかると?」

「捨てられます」

 陸の眉が動いた。静は何も言わず、ペンを持ち直す。

「捨てられたの、何回」

「数えたくない」

 静は頷くだけで、メモに「作品破棄:複数」と書いた。

「佐倉。医者になる道と、絵の道。どっちか一つにしろ、って言われたら?」

 ヒナは即答しない。机の上のスケッチブックを両手で押さえ、爪が表紙に食い込む。

「……医者って言うと思います」

「思う、ね。言いたいのは?」

 ヒナの目が上がった。涙は出ていない。出さないようにしている目だ。

「絵が描きたい」

 短い。けど、言い切った。

 静はそれを受け止める代わりに、現実の棚を開けるみたいに言った。

「絵で食うのは厳しい。才能だけじゃ無理。時間と、お金と、環境が要る。医大も同じくらい厳しいけど、仕組みが違う」

 ヒナは眉をひそめる。

「じゃあ、どっちも無理って言うんですか」

「無理って言わない。増やす。選択肢を」

 静はスケッチブックを指で軽く示した。

「まず、それ。見せて」

 ヒナは一瞬だけ身を引いた。

「……評価されるの、嫌です」

「評価しない。進路に使うために見る」

「進路に?」

「絵は『好き』だけだと負ける。『何ができるか』に変える」

 ヒナは唇を噛んだまま、スケッチブックを開いた。

 ページの中は、人物の横顔、手、教室の窓、廊下の光。線が細いのに迷いが少ない。何枚かはボールペンで、何枚かは色鉛筆で塗りがある。端に小さく日付が書いてある。

 静はページをめくらせてもらう。指先は紙に触れないように慎重だ。

「観察。速写。構図。——これ、学校の廊下だな」

 ヒナが小さく頷く。

「見回りの時間に描いた」

 陸がドアの方を見た。静も一瞬だけ視線を動かす。廊下の気配はない。

 静はページの端の日付を読んだ。

「毎日描いてる?」

「描ける日は。描けない日は、頭の中で」

「頭の中で描くのは、手は上手くならない」

 ヒナの目が尖る。

「分かってます」

「分かってるなら、手を動かす時間を確保する。今の生活は?」

 ヒナは一拍置いて答えた。

「学校。塾。家庭教師。自習。模試。……それで、寝る」

「絵の時間は?」

「ないです」

 静はメモに線を引き、時間割みたいに区切った。

「医大のための時間で埋まってる。親が管理してる?」

「スマホも制限されてます。SNSとか禁止。美大のサイト見たの、バレました」

「どうなった」

「父が怒って。『兄と同じになる気か』って」

 ヒナの指がスケッチブックの角を撫でる。擦れた部分を確かめるみたいに。

 静はそこで、言い方を変えた。

「佐倉。あなたが今やってるのは、親の夢を叶えるための訓練だ。あなたの夢を守る訓練じゃない」

 ヒナが顔を上げる。

「じゃあ、どうすればいいんですか。家出ろって?」

「今すぐ家出は現実的じゃない。未成年だし、学費も生活も必要」

 陸が小さく頷いた。静は続ける。

「まずは、家の中で戦わない方法を作る。正面衝突すると、絵が消される」

 ヒナの喉が動く。

「……じゃあ、隠すしか」

「隠すだけだと増えない。増やすのは、第三者と、実績と、期限」

「第三者?」

 静は机の引き出しから、学校の進路資料のファイルを出した。美術系の専門学校、デザイン系の短大、総合大学の芸術学部、通信講座。ページの端に付箋がいくつも貼ってある。

「ここ。美術の先生。あと外部の講評会。コンクール。学校名が付くものは、親にとって『数字』になりやすい」

 ヒナが眉を寄せる。

「親は、絵なんて——」

「『絵』だと潰される。『実績』だと話が変わることがある」

「……そんな、うまく」

「うまくいかないこともある。だから、複数」

 静はペンでメモに二本線を引いた。

「医大一本で行くなら、医大の条件を満たす必要がある。今の成績なら可能性はある。でも、あなたが折れる可能性もある」

 ヒナの肩が固まる。

「折れるって……」

 静は言い切らない。代わりに、机の上のスケッチブックを指で軽く叩いた。

「これが捨てられるたびに、あなたの手は止まる。止まった時間は戻らない」

 ヒナの視線が揺れた。怒りとも、悔しさともつかない。

 陸が小声で言った。

「捨てられたら、写真撮っとけば……」

 ヒナが陸を見る。静も陸を見る。

 静が短く言う。

「スマホ制限」

 陸が口を閉じる。

 静はヒナに向き直った。

「だから、学校で守る。保管場所も考える。ここに置くのは、リスクもあるけど」

 ヒナの目が動いた。

「先生、見られてるって噂、あります」

 陸が小さく頷く。

「教頭、最近……第3の前、通る回数増えた」

 静はファイルを閉じた。

「知ってる。だから裏導線で動く。保健室前も監視が強い。ここも安全じゃない」

 ヒナが硬い声で言った。

「じゃあ、無理じゃないですか」

「無理にしない。場所を変える」

 静は立ち上がって、窓際の棚を開けた。学校の古い画用紙や、行事の余りの封筒が詰まっている。その奥に、鍵付きの薄いケースがある。

 静は鍵を見せるだけで、開けない。

「ここは、私しか開けない。入れるかどうかは、あなたが決める」

 ヒナは椅子の上で指を握ったり開いたりする。

「入れたら、先生が……」

「勝手に見ない。必要なときだけ、一緒に開く。条件はそれでいい?」

 ヒナは小さく頷いた。

 静は椅子に戻り、ペンを置いた。

「次。親にどう言うか。『医者やめます』は言わない」

 ヒナが顔をしかめる。

「言わないんですか」

「今言うと、絵が消える。医者の勉強も、あなたが本当に嫌なら続かない。だから、段階」

 静はメモに短く書く。

「今週:美術教員面談」
「来週:校内コンクール出品」
「模試:維持」

 ヒナが覗き込む。

「模試、維持って……結局、医者の勉強もやれって」

「やる。『やれる』を見せる。親の言い分を削る材料になる」

 ヒナの口が開く。

「ずるい」

「現実はずるくないと勝てない」

 静の声は淡々としている。慰める調子ではない。

 ヒナは目を逸らしたまま言った。

「……私、医者になりたくないって言ったら、家、終わります」

「終わらない。終わるのは、今の関係が変わるだけ」

 ヒナが静を見た。

 静は続ける。

「変わるのは怖い。だから、変え方を選ぶ。急に壊すんじゃなくて、少しずつ形を変える」

 陸がドアの外を見て、囁いた。

「先生、廊下……足音」

 静は瞬時にファイルを閉じ、ヒナのスケッチブックを白い封筒に入れた。封筒の表には「進路資料」とだけ書く。

 静がヒナに封筒を渡す。

「今日、持って帰る?」

 ヒナの指が迷う。

「……帰ったら、見つかる」

「なら置く。ここに」

 ヒナは封筒を静に戻した。

 静は立ち上がり、棚の奥の鍵付きケースに封筒を滑り込ませた。鍵をかける音が小さく響く。

 ドアの外で誰かが立ち止まった気配がする。ノックはない。ただ、沈黙が重い。

 陸が息を止める。

 静は机に戻り、何事もなかったようにヒナの内申コピーを表に出した。

「——志望理由書の話に戻る。医者志望として書くなら、今のうちに『自分の言葉』にしないと面接で詰む」

 ヒナが喉を鳴らした。

「自分の言葉……」

「『親が医者だから』は禁句。あなたが何を見て、何を嫌で、何を選ぶか。そこが薄いと落ちる」

 ヒナの目が揺れる。静はそこを逃さず、でも追い詰めない。

「今日は一つだけ。医者になって、何をしたいことになってる?」

 ヒナは小さく笑った。乾いた音。

「……地域医療に貢献、とか」

「それ、誰の言葉」

 ヒナは答えない。廊下の気配が少し遠ざかった。

 静はペンを置いた。

「次の面談までに、二つ書いてくる。医者として『やりたいこと』を三行。絵で『やりたいこと』を三行。どっちが本物か、比べる」

 ヒナが眉を寄せる。

「比べたら、バレます」

「紙はここに置く。家に持ち帰らない。ここで書く」

 陸が小さく言った。

「放課後、ここ……見回りあるから、時間ずらした方が」

 静が頷く。

「昼休み。保健室の一時間枠の前後は避ける。裏階段で来い。陸、案内できる?」

 陸が一瞬だけ戸惑ってから、頷いた。

「……できます。教頭の巡回、だいたいパターン……」

「声小さく」

 静が遮る。陸は口をつぐむ。

 ヒナが立ち上がった。椅子が小さく鳴る。

「先生。私、もし……絵の方に行きたいって決めたら、親と戦うことになりますよね」

 静は鍵のついたケースを見たまま答えた。

「戦う日が来る。避けられない」

 ヒナの指が制服の袖口を握る。

「怖いです」

 静はヒナを見た。

「怖いままでいい。怖いなら、準備する。準備は裏切らないことが多い」

 ヒナは頷いた。頷き方が、さっきより少しだけ柔らかい。

 ドアの外でまた足音が近づく。今度は二人分。低い声が混じる。

 陸がドアノブに手をかけ、静を見る。

 静が短く言う。

「先に出るな。時間をずらす。ヒナ、五分待ってから裏階段」

 ヒナが頷く。

 静は机の上の内申コピーを揃え、あえて見える位置に置いた。医大志望の資料も一枚、上に重ねる。

 足音がドアの前で止まる。

 静は椅子に深く座り直し、ペンを取った。

「さて。志望理由書、書くか。『地域医療』の中身、あなたの言葉で」

 ヒナは息を吸い、吐いて、椅子に座り直した。封筒のない机の上で、指先だけがまだ震えている。

 ドアの向こうで、誰かが静かに咳払いをした。


「……地域医療って、何を書けばいいんですか」

 佐倉ヒナはノートを開いたまま、ペンを持てずにいた。机の上で指が空回りする。

 桐生静は、医大のパンフレットを一枚だけ机の端に置いた。見せつけるでもなく、隠すでもなく。

「書けないなら書かない。面接で詰むだけ」

「詰むの、分かってます」

「分かってるのに、言葉が出ない」

 ヒナが小さく頷く。喉仏が上下した。

 静は椅子の背にもたれず、前に体重を置いた。

「医者になりたい理由、ひとつもない?」

「ないわけじゃ……」

「あるなら言える」

 ヒナはペン先を紙に当てて、すぐ離した。

「父が、診察室で……患者さんに『先生がいないと困る』って言われてるの、見たことあります」

「それで?」

「すごいって……思いました」

「あなたがすごいと思ったのは、父の仕事? 父の立場?」

 ヒナの眉が動く。

「……どっちも」

 静は頷いた。

「どっちもなら、言葉にすると薄くなる。『すごい』は志望理由にならない」

 ヒナが息を吐く。吐く息が短い。

「じゃあ、私、医大無理ってことですか」

「無理じゃない。条件を満たせば受けられる。でも、今のままだと危ない」

「危ない……」

 静は机の上の内申コピーを指でトントンと叩いた。

「成績は上じゃない。落ちてもない。中途半端。医大だと『中途半端』は落ちる側に入る」

 ヒナの肩が小さく震えた。声が硬くなる。

「じゃあ、絵は? 絵なら中途半端でもいいんですか」

「絵は、もっと残酷」

 ヒナが顔を上げる。

 静は淡々と言葉を置く。

「上手い人は山ほどいる。学費もかかる。就職も保証されない。『好き』だけで行くと、生活が先に折れる」

「……どっちも、折れる」

 ヒナが絞り出すように言った。

 静は否定しない。

「折れないために、折れる場所を選ぶ」

 ヒナが睨むように見る。

「先生、言い方が……」

「現実は優しくない。あなたの親も優しくない」

 ヒナの口角がわずかに引きつった。笑いではない。

「……優しくないです。結果しか見ない。模試の判定、壁に貼られます」

「貼られる?」

「『次は上げろ』って。上がらなかったら、夕飯の空気が変わる」

 静はペンを置いた。机の上で転がらないように指で止める。

「家の中が模試の会場になってる」

 ヒナが小さく頷く。

 ドアの外、廊下の遠くでスリッパの音が止まり、また動いた。陸がドアの隙間を見て、静に目だけで合図する。巡回が近い。

 静は声量を落とす。

「佐倉。『どっちも叶わない』って怖さ、今がピークだ」

「まだ受験まで一年あるのに?」

「一年は短い。親の期待が強いほど短い」

 ヒナは唇を噛んだ。唇が白くなる。

「私、医者になれなかったら、家にいられないです」

「いられない、は誰が言った」

「父が。『医者にならないなら、この家の子じゃない』って」

 陸がドアの前で固まる。静はヒナから視線を逸らさない。

「言われたの、いつ」

「中三のとき。兄が出たあと」

 静は短く息を吸った。吐かずに飲み込む。

「佐倉。家から追い出される可能性はゼロじゃない。だから準備する」

 ヒナの目が揺れる。

「準備って……どうやって」

 静は机の引き出しから、学校の奨学金と就学支援の資料を一枚だけ出した。分厚い束ではなく、必要最低限の紙。

「こういう制度がある。学費の道は一つじゃない。親が出さなくても行ける学校もある。ただし、条件がある。成績、出席、手続き、期限」

 ヒナが紙を見て、すぐ目を逸らした。

「私、そんなの使ったら……親がもっと怒る」

「怒る。だから、今すぐ使う話じゃない。『逃げ道がある』って知るために見る」

 ヒナは紙の端を指でなぞった。触れるだけで、すぐ離す。

「逃げ道……」

 静は続けた。

「それと、もう一つ。医大と美大の二択にしない」

 ヒナが眉を寄せる。

「でも、親は二択です」

「親の二択は、親が勝つための二択。あなたの二択を作る」

 静はメモ用紙に線を引いた。三つの枠。

「医大」
「医療系の別ルート」
「絵を職に繋げるルート」

 ヒナが覗き込む。

「医療系の別ルートって……看護とか?」

「それもある。臨床検査、放射線、薬、リハビリ。医者じゃなくても医療はできる。学費も、偏差値も、現実が違う」

 ヒナの目が少しだけ開く。

「でも、それ、父が……」

「嫌がる可能性が高い。だから『医者以外』をいきなり出さない。順番」

「順番?」

「まず医大に向けて動いてる姿を見せる。その上で、医療系の別ルートを『滑り止め』として並べる。親が嫌いでも、滑り止めは否定しづらい」

 ヒナが呟く。

「滑り止め……」

「あなたにとっては滑り止めじゃないかもしれない。けど、言い方で通ることがある」

 ヒナの口が少し開く。

「ずるい」

「さっきも言った。勝つためのずるさ」

 廊下の足音がまた近づき、ドアの前で一瞬止まった。誰かがドアの小窓を覗く気配。静は医大パンフレットを少し手前に寄せ、机の上を「王道の進路面談」に見せた。

 数秒後、足音は通り過ぎた。

 陸が息を吐き、肩を落とす。

 ヒナはその一連を見て、声を落とした。

「先生まで、隠れてる」

 静が小さく頷く。

「外部連携も止められかけてる。監査がどうとか、言葉だけで人は黙る」

 陸が唇を結ぶ。ヒナは静を見たまま、ペンを握り直した。

「……先生。私、どっちも中途半端なんです。勉強も、絵も」

「中途半端、って誰が決めた」

「模試の判定も、コンクールも出してないし」

「出してないのに決めるな」

 静はスケッチブックが入った鍵付きケースをちらりと見た。

「絵は、出すところを作る。校内の美術展、コンクール、デザイン系のコンペ。出したら、結果が出る。良くても悪くても、材料になる」

 ヒナが小さく首を振る。

「落ちたら、終わりです」

「落ちたら、落ちたデータが手に入る。何が足りないかが分かる」

「親は『才能ない』って言います」

「言わせるために出すんじゃない。あなたが自分を殴る材料を減らすために出す」

 ヒナの目が瞬きの回数を増やす。泣く前の目だが、泣かない。

 静は声を柔らかくはしない。代わりに、具体を積む。

「勉強は、医大一本の勉強を続けると潰れる。だから配分を決める。週に何時間、絵の時間を確保するか。親にバレない形で」

 ヒナが食い気味に言った。

「無理です。家、全部見られてる」

 陸が口を挟む。

「放課後、学校で……」

 静が陸を見る。陸は言い切る。

「図書室とか、美術室とか。先生が鍵……」

 静が頷いた。

「学校でやる。家で戦わない。学校なら『課題』って言える」

 ヒナが苦く笑う。

「課題、出てないのに」

「出すようにする。美術の先生に話す。私が行く」

 ヒナの肩が少しだけ下がる。

「……でも、私、医大の勉強もしないと」

「する。削らない。『医大を目指してる』事実は盾になる」

 ヒナがペン先を紙に当てた。今度は離さない。

「医者として、やりたいこと……三行」

 静が頷く。

「嘘でもいい。最初は」

 ヒナが静を睨む。

「嘘、書いたら、私が嫌いになります」

「嫌いにならない嘘にしろ。『父の夢』じゃなくて、『あなたが見た場面』を書く」

 ヒナはしばらく黙った。紙の上に、震える字で一行目を書き始める。

「……『困っている人が、安心する顔』」

 書き終えて、ヒナは自分の字を見て固まった。

「これ、私の言葉ですか」

「今ここで出たなら、あなたの言葉だ」

 ヒナが二行目に迷う。ペン先が空中で止まる。

 陸が小さく言う。

「……書けてるじゃん」

 ヒナが陸を見る。すぐ視線を戻す。

「でも、これで医大行けるわけじゃない」

 静が即答する。

「行けないかもしれない。だから、別ルートも並べる」

 ヒナの指が紙を押さえる。

「並べたら、逃げだって言われる」

「逃げじゃない。保険。保険は臆病者の道具じゃない。生活者の道具だ」

 ヒナが小さく息を吐いた。吐いた息が少し長い。

 静は机の端の資料を指で揃えた。

「次の一歩。明日昼休み、美術の先生と三人で会う。校内展の出品枠、確保する。コンクールも選ぶ」

 ヒナが顔を上げる。

「……親にバレたら」

「バレても、学校の活動だ。止めるなら、親は学校に文句を言うことになる。そこは、私が受ける」

 陸が静を見た。静は目を逸らさない。

 廊下の向こうで、また足音が増えた。今度は複数。誰かが誰かに小声で指示している。巡回が戻ってきたらしい。

 静が立ち上がり、ヒナのノートを閉じさせないまま言った。

「続きは明日。今日はこの一行、ここに置いていける?」

 ヒナはノートを抱えかけて、止まった。ゆっくり机に戻す。

「……置きます。家に持って帰ったら、たぶん、破かれる」

 静がノートを受け取り、鍵付きケースとは別の、普通のファイルに挟んだ。表紙には「志望理由書(医)」とだけ書く。

「これなら誰が見ても医大だ」

 ヒナが小さく笑った。今度は少しだけ、人の笑い方だった。

 ドアの外で足音が止まる。

 陸が小声で言う。

「来る」

 静が頷き、ヒナに目で合図した。

「裏階段。五分後。今日は陸が先に出て、様子見る」

 ヒナが立ち上がる。椅子が鳴る音がやけに大きい。

「先生」

「何」

 ヒナは言いかけて、飲み込んだ。代わりに、短く頭を下げた。

 静は返事をしない。頷くだけ。

 陸がドアに手をかける。静が医大パンフレットを開き、ページをめくる音をわざと立てた。

 ドアの向こうで、誰かがノックをする前の沈黙が伸びる。

 その沈黙の中で、ヒナは自分の鞄の中を探り、小さな消しゴムを取り出して机の端に置いた。

「これ……明日、使います」

 静がそれを見て、短く言った。

「明日、来い」

 陸がドアを少し開けた。廊下の空気が流れ込む。

 次の足音が、今度は第3進路室の前で止まった。


 ドアが開いた。

 相沢陸は一歩だけ廊下に出て、すぐ戻った。顔が引きつっている。

「……担任。あと、教頭の秘書みたいな事務の人」

 桐生静は医大パンフレットを閉じ、机の上を一瞬で整えた。ヒナのスケッチブックは棚の奥、鍵付きケースの中。ノートは「志望理由書(医)」のファイルに挟んである。

「陸、裏」

 陸は頷いて、ヒナの方を見た。

 ヒナは椅子から立ち上がりかけて、動けない。足だけが迷っている。

 静が低い声で言う。

「今、出ない。座れ。普通の面談の顔をしろ」

 ヒナは唇を噛んだまま、椅子に座り直した。

 ノックが二回。

 静が「どうぞ」と言う前に、担任の鈴木が顔を覗かせ、その後ろに事務職員が立った。事務職員は名札を胸に、静の机の上を一瞥する。

「桐生先生、今いい?」

「今、医大志望の面談中」

 静はあえて言った。事務職員の視線がパンフレットに落ちる。

 鈴木がヒナに笑いかける。

「佐倉、頑張ってるか?」

 ヒナは喉を鳴らして頷いた。

 事務職員が静に紙を一枚差し出した。

「教頭先生から。『外部とのやり取り、事前申請を徹底』。今週、監査関連の確認が入るので」

 静は受け取り、目を通すふりをした。紙の端に黒川の印鑑が押してある。

「分かりました」

 鈴木が咳払いをして、声を落とす。

「……佐倉の保護者から連絡があって。今日、放課後に来るって」

 静は顔色を変えない。

「承知してます」

「桐生先生が担当で、って指定」

 鈴木が言いにくそうに付け足す。

「なんか……機嫌、悪いらしい」

 静は小さく頷いた。

 事務職員がもう一度机の上を見てから、ドアを閉めた。足音が遠ざかる。

 静は息を吐かずに、ヒナに向き直る。

「来る。父?」

 ヒナが小さく頷いた。

「たぶん、父だけ。母は病院」

 静は時計を見た。

「放課後までに、言うことを決める。あなたは黙る練習をする」

 ヒナが目を見開く。

「黙る?」

「余計な一言で燃える。あなたが燃えたら、家で潰される」

 ヒナの手が膝の上で握られる。

「でも……私が言わないと」

「言うのは私。あなたは事実だけ言う。『描いてる』じゃない。『学校の活動として出品する』」

 ヒナの口が動く。

「嘘みたい」

「言い方」

 静は机のメモを引き寄せ、ペンで短く書く。

「①医大志望は継続」
「②成績維持+弱点補強」
「③美術はストレス管理と観察力の訓練」
「④校内活動として出品」
「⑤期限:夏までに結果で判断」

 ヒナが覗き込む。

「夏まで……」

「親が納得しやすい期限。無期限は怒る」

 ヒナは黙って頷いた。頷き方が、さっきより重い。

 陸が小声で言う。

「……俺、外で見張ってる」

 静が頷く。

「頼む。教頭の巡回、来たらノック二回」

 陸はドアを出た。静は鍵付きケースに視線をやり、戻した。

「佐倉、最後に確認。親に言われたら、こう返す」

 静が言い、ヒナが繰り返す。

「『医大は諦めてません』」

「医大は諦めてません」

「『学校の活動として、美術の出品をします』」

「学校の活動として、美術の出品をします」

 ヒナの声が少し震える。静は止めない。

「『成績が落ちたら、すぐやめます』」

 ヒナが口を開き、閉じた。

「……それ、言いたくない」

「言いたくないことを言うのが交渉」

 ヒナの目が揺れる。

「やめたくない」

「やめないために言う。約束の形を作るだけだ」

 ヒナは歯を食いしばって言った。

「成績が落ちたら、すぐやめます」

 静が頷く。

「よし。放課後まで、普通に過ごせ。家に連絡は?」

 ヒナが首を振る。

「父はもう、来るって決めてる」

 静は椅子から立ち上がった。

「じゃあ、私が先に保護者室を押さえる。ここじゃ目立つ」

 ヒナが立ち上がりかける。

「先生……」

「大丈夫、とは言わない。準備した。あとは来た球を打つ」

 静は扉を開け、廊下を見た。陸が柱の陰で頷く。遠くで黒川の声がした気がして、静はすぐ扉を閉めた。

 ***

 放課後。

 保護者対応用の小さな応接室。テーブルの上に湯呑みが二つ。静は自分の手元に資料を揃えた。医大志望の学習計画、模試の推移、校内美術展の募集要項。美術展の紙は一番下に隠すように置く。

 ドアが開く音が硬い。

 佐倉の父は背筋を伸ばし、白衣ではないのに白衣の匂いがするような歩き方で入ってきた。ネクタイがきっちりしている。座る前に、静の名札を見た。

「桐生先生」

「佐倉さん。本日はお時間いただきありがとうございます」

 静が頭を下げる。父は軽く頷いただけで椅子に座った。ヒナは父の斜め後ろに立ち、座らない。

 父が湯呑みに手を伸ばさず言う。

「単刀直入に。うちの娘が、余計なことを考えていると聞きました」

 静は湯呑みを動かさない。

「医大志望は継続しています。模試の結果も——」

「結果がすべてです」

 父の声が被さる。静の言葉を切る速さ。

「判定は?」

 静は紙を一枚だけ前に出した。

「直近はBとCの間です。理数は伸びています。英語が——」

 父が紙を見て鼻で息を吐いた。

「中途半端だ」

 ヒナの指が制服の裾を握る。静はヒナを見ない。父だけを見る。

「中途半端だから、計画を立てています。夏までに——」

「夏?」

 父の眉が動く。

「受験は冬だ。夏に何を判断する」

 静は間を置いた。

「夏までに、志望理由書と基礎学力の安定を作る必要があります。本人が折れない形で」

 父が目を細める。

「折れない? 甘い。医者は折れてはいけない仕事だ」

「折れない人間はいません。折れたときに戻れる環境があるかどうかです」

 父の口角が下がった。

「環境は用意している。塾も家庭教師も、最高のものを」

 静は頷いた。

「その環境で伸びています。ですが、本人の息が続くかは別です」

 父の視線がヒナに飛ぶ。

「ヒナ。何か言え」

 ヒナの喉が動いた。だが声が出ない。静が先に言う。

「佐倉さん。本人は勉強を続ける意思があります。その上で——」

 父が机を指で叩いた。乾いた音。

「その上で、何だ」

 静は資料の束を一枚めくり、美術展の募集要項を上に出した。隠すのをやめる。

「校内の美術展に、作品を出します。学校活動として」

 父の目が一瞬で冷える。

「は?」

 静は言葉を重ねない。父が理解する時間を与える。

 理解した瞬間、父の声が跳ねた。

「ふざけるな」

 湯呑みが震えた。父の指がテーブルを掴む。

「医大を目指す子が、絵? 遊びだ」

 静は首を振らない。肯定もしない。

「遊びではありません。本人の観察力と集中力は、美術で伸びています。医療にも——」

「必要ない」

 父が言い切る。

「必要なのは点数だ。偏差値だ。合格だ。学校はそれを教える場所だろう」

 静は静かに返す。

「学校は、進路を作る場所です。合格だけが進路ではない」

 父の眉が吊り上がる。

「うちの娘の進路は医大だ。合格以外は失敗だ」

 ヒナが小さく息を吸う音がした。静はそこで、プランの核心を出す。

「だから、医大志望は変えません。成績が落ちたら、美術は止めます。期限は夏まで。結果が出なければ、こちらから撤退します」

 父が静を睨む。

「撤退? あなたが決めることじゃない」

「決めるのは本人とご家庭です。私は学校として、本人の学習計画と、心身の維持策を提案します」

 父が笑った。短く、刺す笑い。

「心身の維持策? 絵を描かせるのが維持策だと?」

 静は目を逸らさない。

「はい。本人が潰れたら、医大は遠のきます」

 父が立ち上がった。椅子が床を擦る。

「潰れる? 潰れるようなら医者になれない。兄みたいになる」

 ヒナの肩が跳ねた。静がすぐ言う。

「兄の話を、本人の前で出さないでください」

 父が静を見た。目に火が入る。

「教師が家庭に口を出すな」

 静は一歩も引かない。

「家庭が学校に、全てを従えと言うなら、口を出します。学校は企業じゃありません」

 言い終えた瞬間、静の脳裏に黒川の声がよぎる。「学校は企業。成果がすべて」。応接室の空気が薄くなる。

 父が低い声で言った。

「……あなた、教頭に逆らってる先生だろ」

 静は瞬きだけで返した。

「噂は早いですね」

「噂じゃない。うちには情報が入る」

 父はヒナを見ずに言った。

「ヒナを、変なところに連れて行くな。外部? コンテスト? そんなものに関わらせるな」

 静は即答する。

「外部連携は、学校として今止まっています。ですから、校内活動だけです」

 父の目が細くなる。

「止まってる? それでいい。余計なものは要らない」

 静は湯呑みを指で押さえた。震えを止めるためではなく、机の上の空気を整えるみたいに。

「校内だけでも、本人の息は続きます。結果が出れば、志望理由にもなります」

 父が吐き捨てる。

「志望理由? 医者になりたい理由なんて、医者の家に生まれた、それで十分だ」

 ヒナの手が、背中の方で握られた。爪が食い込む音がしそうな握り方。

 静は、ヒナに視線を投げる。短く。合図だけ。

 ヒナの喉が動いた。声が出た。

「……医大、諦めてません」

 父が振り向く。

「当たり前だ」

 ヒナは次の言葉を探し、静のメモを思い出すように口を開いた。

「学校の活動として……美術の出品をします」

 父の顔が歪む。

「誰に吹き込まれた」

 ヒナが言葉を失いかける。静が割って入る。

「私です」

 父が静に詰め寄った。

「あなたが? あなたが、うちの娘を医者から遠ざけるのか」

 静は椅子から立たない。視線だけ上げる。

「遠ざけません。むしろ、近づけるための管理です」

「管理?」

 父の声が大きくなる。応接室の外の廊下が静かになる気配がした。誰かが耳を澄ませている。

「教師が、うちの娘を管理? 笑わせるな。娘は私が管理する」

 ヒナの肩が内側に縮む。静はそこで、もう一枚だけカードを出した。

「医大が難しい場合の、医療系の別ルートも、並行して情報を集めます。滑り止めとして」

 父の顔色が変わった。怒りが、形を変える。冷たくなる。

「……医者以外を考える時点で、負けだ」

 静は言う。

「負けを避けるために、負け方を選びます」

 父が机の上の紙を指で弾いた。募集要項がずれて床に落ちる。

「そんなもの、必要ない。今すぐやめさせろ」

 ヒナが小さく言った。

「成績が落ちたら、やめます」

 父が一瞬止まった。止まったのは、ヒナが口にしたからだ。だが次の瞬間、父は笑った。

「落ちるに決まってる。絵なんかやったら落ちる。なら今やめろ」

 静が言う。

「落ちるかどうかは、データで見ます。次の模試まで——」

「データ?」

 父が声を荒げる。

「娘の人生を、あなたの実験にするな!」

 応接室のドアの向こうで、足音が走った。誰かが様子を見に来たのか、遠くで「大丈夫ですか」と小さな声がした。

 静は声を落とした。落とすことで、逆に刃を立てる。

「佐倉さん。ここで怒鳴っても、点数は上がりません」

 父の目が見開かれる。

「……何だと」

 静は続ける。

「怒鳴るなら、家でどうぞ。学校では、本人が前に進む話をします」

 父の拳がテーブルに落ちた。湯呑みが倒れ、茶が広がった。

 ヒナがびくりとし、足が一歩引ける。

 父は濡れたテーブルも見ずに言った。

「もういい。学校には任せない。担任を変えろ。進路担当も変えろ。教頭に直接話す」

 静の胸の奥が固くなる。黒川の影が輪郭を持って迫る。

 静は湯呑みを起こし、紙ナプキンで茶を拭いた。動作が遅い。父の怒りに飲まれない速度。

「どうぞ。教頭に話してください」

 父がドアへ向かう。ヒナが父を追いかけようとして、止まった。足が床に縫い付けられたみたいに。

 父が振り返り、ヒナに言う。

「来い」

 ヒナは静を見た。目が「助けて」とは言っていない。ただ、次の呼吸の仕方を探している。

 静が短く言った。

「今日は帰れ。家で何かあったら、明日ここに来い。必ず」

 ヒナは唇を噛み、頷いた。

 父がドアを開ける。

「——それから」

 父が静に言い捨てる。

「あなたのところ、監査が入るって本当か。余計なことをしてる先生は、すぐ消える。娘を巻き込むな」

 ドアが閉まった。

 応接室に残ったのは、茶の匂いと、濡れた紙と、ヒナの浅い呼吸だけだった。

 ヒナは椅子に座らず、立ったまま震える指で自分の鞄の持ち手を握った。

「……終わりました」

 静は「終わった」とは言わない。机の上の濡れた資料を一枚ずつ乾いた場所に移し、落ちた募集要項を拾った。

「終わってない。次が来た」

 ヒナが顔を上げる。

「次……?」

 静は募集要項の角を揃え、ヒナに見せた。

「校内展の締切は来週。あなたの家がどうであれ、締切は待たない」

 ヒナの喉が動く。

「でも、父が……」

 静は応接室のドアを見た。外の廊下に人の気配が増えている。噂が広がる速度。

「父は教頭に行く。教頭は数字の話をする。あなたは作品を作る。三つ同時だ」

 ヒナが笑いそうになって、笑えない顔になる。

「無理です」

 静は立ち上がり、ヒナの鞄の持ち手に視線を落とした。

「無理なら、無理の中でやる。今日、家に帰ってスケッチブックは探される。だから、ここに置いたのは正解だ」

 ヒナの目が潤む。落ちない。

 静はドアを開け、廊下を確認した。遠くに陸が立っている。二回、軽くノックする仕草で合図してくる。巡回が近い。

 静がヒナに言った。

「第3に戻る。裏。陸がつける」

 ヒナが一歩踏み出す。足がまだ重い。

 静は歩き出しながら、ポケットの中でスマホを握り直した。黒川に先手を打つための連絡先を思い浮かべる。担任ではない。教頭でもない。校長でもない。

 校内の、美術の教師。

 静が小さく呟く。

「締切までに、味方を増やす」

 ヒナはその言葉を聞き取ったのか、聞き取れなかったのか分からない顔で、静の背中についていった。


 第3進路室に戻る途中、裏階段の踊り場で相沢陸が足を止めた。

「……さっきの、聞こえた」

 桐生静は廊下の角を確認し、顎で先を促した。

「今は喋るな。動く」

 ヒナは二段上の段差で立ち尽くし、手すりを握っていた。指の跡が白い。

 静が振り返る。

「佐倉。家、帰れる?」

 ヒナは頷いた。頷いたが、足が動いていない。

 陸が小声で言う。

「送る? 途中まで」

 ヒナが首を振る。

「……大丈夫。たぶん」

 静は「たぶん」を拾わない。代わりに、鍵付きケースの鍵をポケットの中で確かめた。

 第3進路室のドアを開ける。室内はいつも通りの古い匂い。机の角に置かれた消しゴムが、昼のまま残っている。

 静が椅子を引いた。

「座れ。帰る前に、決めることがある」

 ヒナは椅子に腰を下ろした。背中はまだ椅子に触れない。

 陸はドアの内側に立ち、廊下の気配を探る。耳だけが働いている。

 静が言った。

「父親は教頭に行く。明日、担任経由で圧が来る。『余計なことをするな』って」

 ヒナの肩が跳ねた。

「……私のせいで、先生が」

「私のせいだ。引き受けた」

 静は机の上に、校内美術展の募集要項を広げた。濡れて少し波打っている。

「締切、来週。出すなら、今週末にラフ、来週頭に清書。部屋はここじゃなく、美術室を使う。鍵は美術の先生が持ってる」

 ヒナの目が紙に落ちる。

「……父が、家で探す」

「探す。だから、家で描かない」

 ヒナの指が膝の上で動く。

「でも、学校も……見られてる」

 陸が低く言う。

「教頭、最近マジで回ってる。第3の前、わざと通る」

 静が頷く。

「だから美術室。第3に絵の匂いを残さない」

 ヒナが小さく笑った。笑いとため息の間。

「匂いって……」

 静は続けた。

「あと、家でのルール。今日から変える」

 ヒナが顔を上げる。

「変えられません」

「変える。小さく」

 静はペンを取り、白紙に二つだけ書いた。

「①帰宅後、父の前で勉強をする時間を固定」
「②絵の話はしない」

 ヒナが眉を寄せる。

「絵の話、しないで……どうやって出品するんですか」

「学校の話として、最後に言う。『提出した』って事後報告」

 ヒナの目が鋭くなる。

「怒られます」

「怒られる。けど、事前に止められるよりはマシだ」

 ヒナは口を開きかけて、閉じた。

 陸が言った。

「……怒られるの、怖いよな」

 ヒナは陸を見ない。見ないまま、静に言う。

「私、今日……父の前で、何も言えませんでした」

 静は淡々と返す。

「言わなくてよかった。今日は火力が強すぎた。あなたが言ったら燃料になった」

 ヒナの手が、机の端に置かれた消しゴムに触れた。指先が少しだけ落ち着く。

「……でも、いつか言わないと」

「言う日を決める」

 静が言った。

 ヒナが顔を上げる。

「決める?」

「決めないと、流される。家のルールに」

 静は紙に三つ目を書き足した。

「③言う日:校内展の提出後」

 ヒナが息を呑む。

「提出したあとに……言うんですか」

「提出したら、もう作品は学校にある。捨てられない。壊されない」

 ヒナの喉が動く。

「……ずるい」

「守るためのずるさ」

 静は椅子から立ち、鍵付きケースを開けた。封筒を取り出し、ヒナの前に置く。封筒の中のスケッチブックは見せない。

「これ、ここに置く。あなたが『私の人生』って言うまで、ここで守る」

 ヒナが封筒を見つめた。手を伸ばしそうで伸ばさない。

 陸がドアの外に目を向け、囁く。

「足音、遠い。今なら帰れる」

 静が頷いた。

「帰れ。家に着いたら、明日の昼休みのことだけ考えろ」

 ヒナは立ち上がった。鞄を肩にかける。足が一歩出たところで止まる。

「先生」

「何」

 ヒナは言葉を探し、唇が震えた。だが、声は出さないまま頭を下げた。

 静は頷くだけ。

 陸が先に出て、廊下を確認する。ヒナが後に続く。静は最後にドアを閉め、鍵をかけた。

 ***

 その夜。

 佐倉家の玄関で、ヒナは靴を揃える手を止めた。リビングからテレビの音がしていない。代わりに、紙をめくる音がする。父の気配だ。

「遅い」

 声が飛んできた。リビングの入口に父が立っていた。昼の怒りが、冷たい形のまま残っている。

 ヒナは鞄を抱えたまま、廊下で止まる。

「学校、面談が……」

「桐生先生と?」

 父の声が低い。

「担任から聞いた。君は、あの先生に余計なことを吹き込まれている」

 ヒナの喉が動いた。静の言葉が頭の中で並ぶ。「事実だけ」。そう言い聞かせる。

「医大は、諦めてない」

「当然だ」

 父が言い、すぐ続けた。

「だから、絵はやめろ」

 ヒナの指が鞄の持ち手に食い込む。鞄の革が鳴った。

「……学校の活動として」

「言い訳するな」

 父が一歩近づく。

「君は、兄と同じ道を——」

 ヒナの口が勝手に開いた。声が出た。自分でも驚くほど、はっきり。

「兄の話、しないで」

 父が止まった。

「何?」

 ヒナは息を吸った。吸った息が胸に刺さる。吐くときに声が震えそうで、歯を噛んだ。

「私は、兄じゃない」

 父の眉が寄る。

「なら、医者になれ」

 ヒナは鞄を床に置いた。置いた音が小さく響く。逃げ道を自分で塞ぐみたいに。

「医者の勉強、する」

 父が頷きかける。

「だが——」

 ヒナが続けた。

「絵も、やめない」

 父の目が細くなる。

「……何を言っている」

 ヒナは言葉を選ぶ時間が欲しくて、唇を噛んだ。だが選ぶほど、言えなくなる。だから短くする。

「私の時間は、私が決める」

 父の顔が硬くなる。

「君の時間は、家の投資だ。塾代、家庭教師代——」

「分かってる」

 ヒナが遮った。遮ったのは初めてだ。

 父が一瞬、言葉を失う。次の瞬間、声が上がる。

「分かってるなら従え!」

 ヒナの肩が跳ねた。けれど足は引けなかった。床に置いた鞄が、そこにある。

「従ってる」

 ヒナは言った。声がかすれる。

「ちゃんとやってる。模試も。塾も」

 父が吐き捨てる。

「結果が出ていない」

 ヒナの喉が詰まる。中途半端、という言葉が頭を殴る。だが、静の机の上の一行を思い出す。「困っている人が、安心する顔」。

 ヒナは目を伏せずに言った。

「結果、出す」

 父が鼻で笑う。

「口だけで?」

「夏までに」

 父の眉が動く。

「夏?」

「夏までに、成績落ちたら、絵はやめる」

 父が目を見開く。条件が出たことに、少しだけ反応が変わる。怒りの形が、計算に寄る。

「誰に言わされた」

 ヒナは一拍置いた。静の顔が浮かぶ。だが、今ここで「先生が」と言ったら、父の矛先が学校に向く。向いたら、学校で描けなくなる。

 ヒナは言った。

「私が決めた」

 父の目が疑う。

「そんな賢い取引が、君にできるか」

 ヒナの口の中が苦くなる。だが、言うべき言葉が残っている。言わないと、また元に戻る。

 ヒナは胸の奥から引っ張り出すように言った。

「……私の人生だから」

 言った瞬間、廊下の空気が変わった。父の顔が、怒りより先に驚きで固まる。

 次に来たのは、怒りだった。

「誰の金で生きてると思ってる」

 ヒナの指が震えた。けれど、声は出た。

「だから、勉強するって言ってる」

 父が一歩踏み出す。

「絵は遊びだ」

「遊びじゃない」

「遊びだ。医者になれない人間が、絵で食えるわけがない」

 ヒナの喉が鳴った。静の言葉が刺さる。「絵はもっと残酷」。それでも、言う。

「食えるかは、分からない」

 父が嗤う。

「ほら見ろ」

「でも、描く」

 ヒナの声が小さくなる。小さくなるのに、引かない。

 父が息を吐いた。短く、荒く。

「……ヒナ。君は、私に恥をかかせる気か」

 ヒナの胸がきゅっと縮む。「家の子じゃない」と言われる未来が見える。足が震える。だが、鞄は床にある。

 ヒナは言った。

「恥をかかせたいんじゃない」

 父が睨む。

「なら」

「私が、私を恥にしたくない」

 言い終わって、ヒナの喉が痛くなった。涙は落ちない。落としたら負ける気がした。

 父はしばらく黙っていた。黙ったまま、ヒナの鞄を見た。鞄の中を探るような目だった。

 ヒナは一歩前に出て、鞄を持ち上げた。抱える。

「見ないで」

 父の眉が跳ねる。

「何だ、その態度は」

「作品、学校に置いてある」

 ヒナが言った。事後報告。静が作った盾。

 父の顔が歪む。

「勝手に!」

「勝手にじゃない。学校の活動」

 父は口を開き、閉じた。学校に文句を言うことの面倒さが、一瞬だけ顔に出る。だがすぐ怒りが戻る。

「明日、教頭に電話する。桐生先生は外す」

 ヒナの背中が冷たくなる。静の顔が浮かぶ。だが、静は「引き受けた」と言った。

 ヒナは小さく頷いた。

「……して」

 父が目を細める。

「何?」

 ヒナは言葉を絞る。

「電話してもいい。でも、私の話は、私がする」

 父が嘲るように笑う。

「君が?」

「うん」

 ヒナは言った。短い肯定が、自分の喉から出たことに驚く。

 父は顔を近づけ、低い声で言った。

「じゃあ言え。今ここで。医者になると」

 ヒナは息を吸う。吐く。

「医者を目指す」

 父の目がわずかに緩む。

 ヒナは続けた。

「でも、私の人生は、私が決める」

 父の顔がまた固まる。

 次の言葉は、父の怒鳴りではなかった。冷たい断言だった。

「なら、覚悟しろ。支援は減らす。塾も家庭教師も、結果が出なければ切る」

 ヒナの胸が沈む。怖い。現実が形になる。だが、静が見せた支援制度の紙が頭の隅に残っている。逃げ道があることを知っただけで、足が踏ん張れる。

 ヒナは小さく言った。

「……分かった」

 父が背を向ける。

「夕飯は要らない。自分で何とかしろ」

 リビングのドアが閉まった。

 廊下に残されたヒナは、しばらく動けなかった。手の中の鞄が重い。胃が空っぽなのに、何も入らない気がする。

 それでも、ヒナは階段を上がった。

 自室の机に向かう。ノートを開く。医大の勉強。今日、静に言われた通り、固定する時間。

 ページの端に、小さく線を引く。絵の線ではない。勉強の区切りの線。

 そこへ、スマホの通知が一つ光った。制限のかかった画面に、短い件名だけが表示される。

「学校:保護者連絡」

 ヒナの指が止まる。

 下の階で、父の電話の声が聞こえた。相手の名前は聞こえない。だが、「教頭」という単語だけが、廊下に落ちてきた。

 ヒナはスマホを伏せ、ノートの一行目に書いた。

『夏までに、結果を出す』

 ペン先が震えて、字が少し歪んだ。

 それでも、書き直さなかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛

MisakiNonagase
恋愛
二十六歳のレンが働くオフィスビルには、清掃員として七十歳のカズコも従事している。カズコは愛嬌のある笑顔と真面目な仕事ぶりで誰からも好かれていた。ある日の仕事帰りにレンがよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコもいた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、ごく普通の装いだったがカズコの姿が輝いて見えた。それから少しづつ話すようになり、二人は年の差を越えて恋を育んでいくストーリーです。不倫は情事かもしれないが、この二人には情状という言葉がふさわしい。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...