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第17話:推薦が欲しい先生
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第3進路室のドアが、ノックもなく開いた。
「桐生先生」
担任の声だけが先に入ってくる。続いて、肩に力の入った男が顔を出した。学年主任代理の札が胸で揺れている。
陸が机の端で止めていたシャーペンを、そっと机の下に滑らせた。静は視線を上げただけで、椅子を勧めない。
「どうぞ。立ち話でいいですか」
「……座る」
担任は勝手にパイプ椅子を引き、座った。膝の上に、クリアファイルを置く。中身は推薦資料のテンプレートが透けて見えた。
「単刀直入に言う。推薦枠、取ってくれ」
静はペンを置いた。
「誰の?」
「佐倉」
陸の指が、机の縁を一度だけ叩いた。静はそれを見ないふりをして、担任の顔だけを見る。
「医大の推薦?」
「そうじゃない。医大は無理だ。あの偏差値で通る枠なんてない」
担任はファイルを開き、紙を一枚ずらした。大学名がいくつか並び、横に「校内推薦 若干名」と赤で囲まれている。
「看護か。医療系の専門でもいい。とにかく“進路実績”になるところだ。うちのクラス、今のところ一般で戦えるのが二人しかいない」
静が黙っていると、担任は言葉を足した。
「教頭に言われてる。『内定三、進学二』。数字が出ないクラスは、指導が甘いって」
「それで、佐倉を推薦枠に入れたい」
「佐倉の家は金がある。私立でも行ける。親も医療なら納得する。進路室が“それっぽい資料”を作ってくれれば、話は早い」
静の眉がわずかに動いた。
「“それっぽい”」
担任は一瞬だけ目をそらし、すぐ戻した。
「現実の言い方だ。推薦ってのは、文章と面接の筋道だろ。桐生先生は得意だと聞いてる」
「得意なのは、本人の言葉を拾って筋道にすることです」
「だから頼んでる」
静は椅子の背にもたれず、前に少しだけ身を乗り出した。
「担任として、佐倉さんに何を見てるんですか」
担任は即答できなかった。紙を指で撫で、角を揃える。
「……家柄。医者の家。医療の道に繋がる。説得しやすい」
「本人は?」
「本人は……やる気はある。医者になりたいって言ってる」
静は短く息を吐いた。笑いでもため息でもない、音だけ。
「それ、本人の言葉でした?」
担任の頬が固くなる。
「何が言いたい」
「推薦は、枠を埋めるためのゴミ箱じゃない」
陸が顔を上げた。静の声は低いのに、机の上の空気が張った。
担任は声を荒げない代わりに、目だけを強くした。
「桐生先生、綺麗事言ってる場合じゃない。今、校内の空気わかってるだろ。外部連携も止められて、監査だの何だの、教頭が言い出してる」
「知ってます」
「だったら、数字を作れ。生徒のためにも学校のためにも必要だ」
静は担任のファイルの上に視線を落とした。推薦先の一覧。空白の志望理由欄。書き込む場所だけが、やけに広い。
「“学校のため”が先に出る時点で、順番が逆です」
「順番の話をしてるんじゃない。手段だ」
担任は指で机を叩いた。軽い音が二回。
「佐倉を、推薦で固めろ。医療系に入れれば、親も納得する。学校も助かる。本人も医療に残れる。全員得だ」
静は首を傾げた。
「全員、って誰ですか」
担任が言い返す前に、静は続けた。
「佐倉さんの“得”は、どこに書いてあります?」
「……医療だろ」
「医療のどこですか。看護? 検査? リハビリ? それとも医大浪人回避の逃げ道?」
担任の口が一瞬開き、閉じた。静は畳みかけない。沈黙を置く。担任が自分の言葉を探す時間だけ、わざと渡す。
陸が、その沈黙に耐えられずに小さく言った。
「……佐倉、最近、保健室にも行ってないっすよ。顔、死んでるけど」
担任が陸を睨む。
「お前は黙ってろ」
静が陸に視線を向ける。陸は口をつぐみ、椅子の脚を引っ込めた。
静は担任に戻る。
「推薦を取りに行くなら、条件があります」
担任の眉が動く。
「条件?」
「佐倉さん本人の同意。形式じゃなく。あと、推薦先を“医療系ならどこでも”で決めない。本人の軸を作る」
担任は鼻で笑う。
「軸? 今さら? 受験まで時間ないぞ」
「だから今やる。遅いなら、遅いなりに現実的に」
静は引き出しを開けない。鍵付きケースにも触れない。ただ、机の上のメモ帳に一行だけ書いた。短い文字列。
担任が身を乗り出す。
「何だ、それ」
「面談の枠。今日の放課後、佐倉さん、ここに呼びます。担任も同席」
担任が即座に首を振る。
「同席? 余計なこと言われたら――」
「余計かどうかは、本人が決めます」
担任の喉が鳴った。静の机の上にある「第3進路室」の札が、やけに目立つ。
担任は声を落とした。
「桐生先生、教頭がこの部屋を見てるの、知ってるだろ。今も、誰かが廊下で――」
言い終わる前に、ドアの外で足音が止まった気配がした。陸が反射的に背筋を伸ばす。静は視線を動かさない。
足音は、数秒で遠ざかった。
担任が舌打ちを飲み込む。
「……そういうことだ。こっちは首がかかってる」
静はペンを指先で転がし、止めた。
「首がかかってるのは、生徒も同じです。佐倉さんは、家で条件を突きつけられてる」
担任の目が細くなる。
「何の話だ」
「担任なら、本人から聞いてください」
担任はファイルを閉じ、強く押さえた。
「桐生先生。私は推薦枠を取りに来た。面談の綺麗な話を聞きに来たんじゃない」
静は淡々と言った。
「推薦枠は、取りに行きます。ただし“埋めるため”じゃない。本人が立てる場所を作るためです」
「理想論だ」
「現実論です。本人の軸がない推薦は、面接で崩れます。落ちます。落ちたら、教頭に“数字を落とした”って言われるのはあなたです」
担任の唇が薄くなる。否定したいのに、否定できない顔だった。
「……じゃあ、どうする」
静はメモ帳を担任に見える位置にずらす。
「今日、本人の言葉を取る。明日、推薦先を三つに絞る。偏差値じゃなく、入試形態と学費と通学。親の同意が取れる線で」
担任がメモを覗き込む。
「学費……」
「私立でも、奨学金の種類があります。給付は狭い。貸与は返す。家が裕福でも、親が出さないなら意味がない。そこも含めて、条件を確認します」
担任が苦い顔をした。
「そんなことまで……」
「進路って、そういうことです」
静は続ける。
「それと。推薦書は、担任が書く。私が書くのは“補助資料”だけです。あなたのクラスの生徒です」
担任の肩がわずかに揺れた。怒りなのか、安堵なのか、どちらとも取れない。
「……わかった。面談、同席する」
静は頷いた。
「あと一つ」
「まだあるのか」
「教頭に、“推薦枠を取りに行ってる”って報告するなら、言い方を選んでください。『第3が勝手にやってる』じゃなく、『学年として動いてる』にする」
担任が鼻を鳴らす。
「私に教頭と喧嘩しろって?」
「喧嘩じゃない。責任を分ける。あなた一人で抱えたら潰れます。私一人で抱えたら切られます。学校の論理に乗せるなら、学年の仕事にする」
担任は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る。
「……桐生先生、怖いな」
静は目を逸らさない。
「怖がってる暇がないだけです」
担任がドアに手をかけ、振り返った。
「放課後、佐倉を連れてくる。逃げたら?」
「逃げたら、追わない。代わりの道を考える」
担任の顔が歪む。
「それが甘いって言われるんだ」
「甘いかどうかは、結果で決まります。落ちたら私も責任取ります」
担任は何か言いかけて、飲み込んだ。ドアが閉まる。
残った空気が、少し遅れて動き出す。
陸が小声で言った。
「……推薦、欲しいの、先生の方じゃん」
静は机のメモ帳を指で押さえたまま、廊下の方を見た。
「推薦が欲しい先生は、毎年いる」
「助けんの?」
「助けるんじゃない。使う」
陸が眉をひそめる。
「使うって……」
「担任が本気で動けば、親にも届く。教頭の圧も、学年の仕事にできる。佐倉さんが一人で殴られなくて済む」
静は立ち上がり、鍵束に手を伸ばす。金属が小さく鳴った。
「陸。廊下、頼む。放課後まで、見張り役」
陸が一瞬、嫌そうに口を尖らせたが、椅子から立った。
「……はいはい。俺、監視される側なのに」
静はドアに手をかける前に、陸を見た。
「見張りは、敵を見つけるためじゃない。味方の時間を作るため」
陸は何も言わず、廊下へ出た。
静は鍵付きケースの前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込む手を止めた。開けない。今日は、まだ。
代わりに、机の上の電話の受話器を取る。内線番号を押す指が迷わない。
呼び出し音が一度、二度。
放課後の面談に、誰が口を挟みに来るか――その影を、静は先に掴みにいく。
内線は三度目で繋がった。
「はい、教頭室」
静は名乗る前に言った。
「桐生です。放課後、第3で佐倉ヒナの面談を入れます。担任同席。進路の整理です」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「……桐生先生」
黒川の声に切り替わる。取り次いだのか、最初から聞いていたのか。静は受話器を握り直した。
「面談は許可制でしたか」
「許可制にする方向です」
「方向じゃなくて、今日どうするかです」
黒川は間を置いて、淡々と言った。
「担任から報告は受けています。推薦枠の件ですね」
静の視線が、机の上のメモに落ちる。「面談」「三校」「学費」と書いた文字が、急に軽く見えた。
「推薦枠を埋める話なら、私は乗りません」
「埋める、という言い方は語弊がある」
「数字が欲しいんでしょう」
黒川は否定しなかった。
「学校は企業です。成果がすべて。あなたも分かっているはずです」
静は声を低くした。
「成果の定義を、あなたが決めるんですか」
「決めるのは、社会です。保護者です。教育委員会です。監査です」
監査。その単語だけで、空気が硬くなる。静は受話器を耳から少し離し、深呼吸を一つ挟んで戻した。
「佐倉さんは医大志望です。推薦で看護に押し込めば、本人の足場が崩れます」
「崩れるほどの足場があるのですか」
黒川の声は穏やかだった。穏やかだから、刺さった。
「医大は現実的ではない。担任の判断は妥当です」
静は短く言い切った。
「なら、医大を下ろすのは本人の口からです。学校の都合で下ろさない」
「理想論ですね」
「現実論です。本人が納得しない進路は、途中で折れます。退学や留年になれば、数字はもっと汚れます」
黒川が鼻で笑う気配がした。
「あなたはいつも、最悪の想定だけは上手い」
静は受話器越しに、笑わなかった。
「最悪を避けるのが仕事です」
黒川は声の温度を変えないまま告げた。
「放課後の面談、私も立ち会います」
静の背中がわずかに硬くなる。
「教頭が?」
「担任だけでは不安でしょう。あなたの“第3”は、最近、余計な動きをしすぎる」
余計。静は言い返すより先に、確認を取った。
「立ち会いの目的は」
「学校としての方針の共有です。推薦枠は貴重です。無駄にできない」
「生徒を無駄にする気はありません」
「なら話が早い。担任の案で進める。桐生先生は書類作成に協力する。それだけです」
静は受話器を持ったまま立ち上がった。窓の外、校庭で部活の声が遠い。現実は、いつも普通の顔をしている。
「協力しません」
黒川の声が一瞬止まる。
「拒否ですか」
「はい。推薦“枠”を取るための作文は書きません。本人の進路のための資料なら作ります」
黒川は短く笑った。
「あなたの正義感は分かりました。では、担任に任せます」
「担任が書けるなら、それでいいでしょう」
「担任は忙しい。学年を回している」
静は受話器を握る手に力が入るのを感じた。
「忙しいから、生徒を簡単に動かすんですか」
黒川の声が少しだけ低くなった。
「桐生先生。あなたは立場を理解していない。外部連携は停止中。あなたの“資料化”も、勝手に外へ出せない。もし動くなら、学校の管理下で」
静は答えた。
「管理下で、本人の意思が消えるなら意味がない」
「意味があるかどうかを、あなたが決めるのは危険です」
黒川は淡々と畳みかける。
「監査が入れば、あなたの部屋の管理体制も見られる。鍵付きケース? 良いですね。中身を説明できますか。保護者の同意は? 校内規定は?」
静の喉の奥が乾いた。鍵付きケースの中の紙の重さが、触れてもいないのに手に乗る。
「……個人情報の管理はしています」
「そう言うなら、なおさら。学校として統一した手続きを踏みましょう」
黒川は受話器越しに、決定事項のように言った。
「放課後、担任案で進めます。桐生先生は同席。余計な方向へ誘導しないでください」
静は返した。
「誘導してるのは、どっちですか」
黒川は答えず、事務的に締めた。
「では、失礼します」
ツー、という音が耳に残った。
静は受話器を置かなかった。切れた音を聞きながら、しばらく動けない。机の上のメモ帳を指でなぞり、紙が少しだけずれた。
ドアがノックされる。
「桐生先生」
担任の声。さっきより軽い。勝ちが見えている声だ。
「入って」
担任はドアを開け、片手をポケットに突っ込んだまま入ってきた。目が笑っていない。
「教頭、話ついた。放課後、立ち会うって」
静は頷いた。
「聞きました」
担任は口角を上げた。
「ほらな。理想論は通らない」
静は椅子に座り直し、担任を見上げた。
「理想論じゃない。あなたが“楽な形”を選んでるだけです」
担任の眉が跳ねる。
「楽? こっちは背負ってんだよ。クラスも、実績も」
「佐倉さんは背負わされてる」
担任は肩をすくめた。
「背負える家だろ。医者の家。金もある。一般家庭と違う」
静の声が少しだけ硬くなる。
「金がある家でも、親が出さないなら同じです」
「出すよ。医療なら。そこがポイントだ」
担任はクリアファイルを机に置いた。推薦先の一覧が、紙の光沢で白く反射する。
「これ。教頭も同意。医療系で固める。桐生先生、文章得意だろ。志望理由、書けるよな?」
静はファイルを開かなかった。
「書きません」
担任の笑いが消えた。
「……は?」
「私は、本人の言葉がない文章は書かない」
担任が机を指で叩く。
「本人の言葉? そんなもん、引き出せばいいだろ。面談で上手く誘導して」
静は目を細めた。
「誘導?」
「言い方の問題だ。要は、医療に行きたいって言わせればいい」
静は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が短く響く。
「それ、推薦じゃない。口裏合わせです」
担任が鼻で笑う。
「綺麗だなあ。さすが第3。落ちこぼれの味方」
静はその言葉を受け流さず、真正面から返した。
「味方のふりして、学校の盾にするよりマシです」
担任の顔が赤くなる。
「盾? 誰が?」
「佐倉さん。あなたのクラスの“数字”の盾」
担任は一歩近づいた。
「桐生先生。分かってないのはあなただ。教頭がついた時点で決まりなんだよ。逆らってどうする。潰されたいのか」
静は一歩も引かない。
「潰されるかどうかより、潰すのが誰かを覚えておきます」
担任は唇を噛み、ファイルを乱暴に閉じた。
「じゃあどうするんだよ。放課後、教頭の前で“書きません”って言うのか」
静は首を振った。
「言いません」
担任が勝ち誇ったように息を吐く。
「ほら。結局――」
「書類の代わりに、選択肢を出します」
静は机のメモを指で叩いた。
「推薦一本じゃない。一般の医療系、専門、看護だけじゃなく検査やリハ。奨学金の種類と返済。通学距離。親の条件。全部並べて、本人に選ばせる」
担任が吐き捨てる。
「時間の無駄だ。教頭は“数字”しか見ない」
「だから、数字に繋げる」
担任が眉をひそめる。
「何だよ、それ」
静は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「推薦を取るなら、“落ちない形”にする。本人が面接で崩れない形に」
担任は鼻で笑った。
「結局、推薦に乗るんじゃないか」
静は即答しなかった。沈黙で線を引く。
「推薦に“乗る”んじゃない。推薦を“使う”。本人が立つために」
担任は肩を落とし、呆れたように笑った。
「言葉遊びだな。ほんと、理想家だ」
静は担任の目を見たまま、淡々と言った。
「あなたは推薦が欲しい。私は、本人の逃げ道が欲しい。それだけです」
担任はファイルを抱えてドアに向かった。
「放課後。教頭の前で、余計なこと言うなよ」
静は返す。
「余計かどうかは、本人が決めます」
担任がドアノブを捻った瞬間、廊下から陸の声が飛び込んできた。
「桐生先生! 佐倉、来た。あと……男の人も」
静の胸の奥が、一段沈む。担任が振り返り、目を細めた。
「父親か」
静は机の鍵束を掴む。金属が掌で鳴った。
「放課後じゃなくなりましたね」
担任が小さく笑う。
「現実は、こっちの都合なんて待たない」
静はドアへ向かいながら、短く言った。
「だから、今やる」
廊下に出ると、空気が一段冷えていた。
陸が壁際に立ち、視線だけで「こっち」と示す。その先に、男子が一人、猫背で立っている。制服の袖口が擦れて白くなっていた。
その横に担任。さらに少し離れて、教頭室の事務員が立っている。呼び出しの伝言役だ。
男子が静に気づき、反射で頭を下げた。
「……小森です」
「小森シン、だよな」
静が名前を確認すると、彼は小さく頷いた。頷き方が、謝っているみたいだった。
担任が口を挟む。
「桐生先生、この件は急ぎだ。教頭も待ってる。小森、行くぞ」
小森は「はい」と言いかけて、言葉の出る前に足が動いた。静が一歩、前に出る。
「待って。ここで話す」
担任が眉をひそめた。
「廊下で? 何のために」
「小森本人の確認」
担任は嘲るように笑った。
「確認? もう本人は了承してる。なあ、小森」
突然振られて、小森は目を泳がせた。陸が少しだけ顔をしかめる。
「……えっと。はい。たぶん」
「たぶんじゃない。『はい』だ」
担任の声が強くなる。小森の肩がすくんだ。
静は小森の目線の高さに合わせるように、少しだけ腰を落とした。
「小森。何の話を“はい”って言った?」
小森は口を開けたまま止まり、喉仏が上下した。
「……推薦、って」
「どこの?」
「えっと……先生が……言ってた、やつ」
担任が苛立って言う。
「工学部だ。指定校。学費もそこまでじゃない。就職も強い」
静は担任を見ずに小森へ。
「工学部、興味ある?」
小森は一拍置いてから、頷いた。頷いたけれど、目は静の後ろの担任を見ていた。
「……あります。たぶん」
静が短く言う。
「“たぶん”が続くな」
小森は笑おうとして失敗した。
「すみません。俺、よく分かってなくて」
担任が吐き捨てる。
「分かってなくてもいい。枠があるなら取る。それが現実だ」
静が顔を上げた。
「現実って言葉、便利ですね」
担任が肩をすくめる。
「便利だから使う。教頭も同じだ。数字を作れって言ってる」
その瞬間、事務員が小さく咳払いをして、視線を逸らした。聞いていないふりをしているだけで、聞いている。
陸が小森の横に一歩寄った。
「小森。お前さ、部活、何やってたっけ」
小森は陸を見て、少しだけ表情がほどけた。
「……工具、触るやつ。ロボット研究会。去年、途中で辞めた」
「辞めた理由は」
陸の問いが鋭くなりすぎて、静が手で制した。
「陸、今はいい」
陸は口を閉じたが、目は小森から離さない。
静は小森に言った。
「推薦ってのは、学校が“この生徒は大丈夫です”って保証する形だ。だから、本人の覚悟と理由が要る。小森、今、言える?」
小森は唇を噛んだ。廊下の窓から入る風で、彼の前髪が揺れる。
「……えっと。就職、強いって……」
「それは担任の理由だ」
担任が声を荒げる。
「何が悪い! 就職は現実だろ!」
静は小森から目を離さない。
「小森、自分の言葉で。何がしたい。何が嫌だ」
小森の指が制服の裾を掴んだ。爪が白くなる。
「……嫌、なのは……」
担任が被せる。
「嫌とか言うな。推薦はチャンスだ」
小森の声が小さくなる。
「……すみません」
静が即座に言った。
「謝らなくていい」
担任が鼻で笑う。
「ほら。甘い」
静は担任の方を向いた。
「甘いのは、本人が何も言わなくても進路が決まると思ってるあなたです」
担任の顔が歪む。
「桐生先生、邪魔するな。小森は成績が足りてる。評定もある。推薦が取れる。取らない理由がない」
静は淡々と返す。
「取る理由が“先生の実績”なら、取らない理由になります」
担任が一歩近づく。
「言いがかりだ」
静も一歩、詰める。
「小森の生活、知ってますか」
担任が一瞬だけ言葉に詰まった。
「……生活?」
静は小森に戻る。
「小森。家、今どうなってる」
小森は肩をすくめた。笑って誤魔化そうとする癖が、口元にだけ出る。
「普通っす。べつに」
陸が堪えきれず、低い声で言う。
「普通のやつ、昼飯パン一個で済ませねえよ」
小森が陸を睨むでもなく、目を伏せた。廊下の床の一点を見つめる。
担任が苛立って言う。
「それと推薦に何の関係がある」
静が答える。
「学費。通学。仕送り。奨学金。途中で折れたら、推薦先も小森も傷が残る」
担任が鼻で笑う。
「だから推薦なんだろ。一般より楽だ」
静は即答した。
「楽じゃない。逃げ道が減る」
小森が顔を上げた。静の言葉が、初めて自分に向いた気がしたのだろう。目が揺れている。
静は続ける。
「推薦で入ったら、辞めにくい。辞めたら“推薦で入ったのに”って言われる。小森は、それに耐えられる?」
小森は口を開けて、閉じた。喉が動く。
「……たぶん」
担任が苛立ちを隠さず言う。
「またたぶんか。はっきりしろ。お前、いつもそうだぞ。周りに合わせて、後で文句言う」
小森の肩が跳ねた。文句を言った覚えがあるのかないのか、どちらにしても刺さった顔だった。
静が担任を止める。
「責めるな。合わせて生きてきたんだろ。小森は」
担任が吐き捨てる。
「そうやって甘やかすから、いつまでも決められないんだ」
静は小森に短く言った。
「決めなくていいとは言わない。決める材料を増やす」
担任が腕を組む。
「材料? 時間がないんだよ。指定校は今週中に候補を出す。教頭からも言われてる。枠を落とすなって」
その言葉に、小森の目がまた担任の方へ流れた。流れるというより、吸い寄せられる。空気に。
静は小森の目線の先に、わざと割り込むように手を上げた。
「小森。今、ここで一個だけ決めろ」
小森が息を呑む。
「……はい」
「教頭室に行く前に、第3で五分だけ話す。いいな」
担任がすぐ反対する。
「五分も無駄だ」
静は担任に視線を向けずに言う。
「無駄かどうかは、落ちたあとに分かる」
担任が舌打ちしかけて、事務員の存在に気づいて飲み込んだ。代わりに笑った。
「勝手にしろ。ただし、教頭の前で同じこと言ってみろ。お前の部屋、閉められるぞ」
静は頷いた。
「閉められないように、今ここで整える」
小森が小さく言った。
「……俺、行きます。第3、で」
担任が眉を上げる。
「お前、そんな風に言えるじゃないか」
褒めているようで、逃げ道を塞ぐ声だった。小森はそれに気づかないふりをして、静の方に一歩寄った。
陸がさっと前に出て、廊下の角を見た。巡回の足音が近づいていないか確かめる仕草。
静は小森の背中を押すでも引くでもなく、横に並んで歩き出す。
「小森。推薦を取るかどうかは、今日決めなくていい」
小森が驚いた顔をする。
「……え。でも、先生が……」
「担任の都合と、締切は別。締切は現実。でも、現実には手順がある。候補を出すのと、志望を固めるのは違う」
小森が小さく頷いた。
「……はい」
「“はい”の前に、一回息しろ」
小森は息を吸って、吐いた。たったそれだけで、背中の丸さが少しだけ戻った。
第3進路室のドアが見える。静が鍵に手をかけた瞬間、廊下の奥から別の足音が増える。
陸が小声で言った。
「来る。教頭室の人、あと二人」
担任が笑った。
「ほらな。もう舞台は整ってる」
静は鍵を回し、ドアを開けた。小森が中へ入る。その背中に、担任の声が追いかける。
「小森。空気読めよ。せっかくの推薦だ」
小森の足が一瞬止まり、また動いた。静はドアを半分だけ閉める。完全には閉めない。外の気配を遮断できないと分かっているからだ。
「座って」
小森が椅子に腰掛ける。膝が小刻みに揺れている。
静は机の上のメモ帳を裏返し、白紙の面を出した。
「まず、確認。小森は今、“誰のため”に推薦を取ろうとしてる」
小森は口を開け、言葉を探した。
ドアの向こうで、ノックが一度。
「桐生先生。教頭がお呼びです」
静は返事をせず、小森の目だけを見る。
「今ここで言えたら、教頭室でも言える」
小森の喉が鳴った。
「……先生のため、かも」
静は頷かなかった。否定もしなかった。ただペンを置き、短く言った。
「じゃあ次。“自分のため”は何だ」
ノックがもう一度、少し強くなる。廊下の空気が、ドアの隙間から押し込んでくる。
小森の指が、膝の上で拳になった。言葉が出る前に、静がドアの方へ視線を動かす。
「待ってもらう。三分」
静は立ち上がり、ドアを少し開けた。廊下の向こうに、黒川の側近のような進路担当が立っている。
「教頭は“数字”を急いでいます」
その声は、忠告というより通達だった。
静はドアの隙間を保ったまま答えた。
「数字は逃げません。人は逃げます」
相手が眉をひそめる。
「桐生先生……」
静はドアを閉めきらずに戻った。小森は息を止めたまま、静を見ている。
「小森。三分でいい。自分のための理由、ひとつ」
小森は小さく、しかし初めて“たぶん”を付けずに言った。
「……俺、家を出たい」
その言葉が落ちた瞬間、廊下の足音が、ドアの前で止まった。
「家を出たい」
小森の声は小さかったのに、机の上の空気が一度止まった。
静はペンを取らない。書き留めれば、言葉が逃げる気がした。
「理由は」
小森は喉を鳴らし、視線を落としたまま言った。
「……別に。普通です」
「普通なら、出たいって言わない」
小森の指が膝の上でほどけて、また握られる。
「……母ちゃん、夜いないこと多くて。親父は……酔うと、うるさい」
「手は出る?」
小森が首を振る。振り方が速い。否定というより、話を終わらせる動きだった。
「出ないっす。全然」
静は頷かない。
「出ないならいい、って話でもない。で、推薦は家を出る手段に見えた」
小森は小さく頷く。
「はい」
「工学部じゃなくても?」
「……どこでも、いいっす。家から離れられれば」
静はそこで初めてペンを置いた。机を挟んで、小森の逃げ道を一つずつ塞がずに、照らす。
「“どこでもいい”で入った先、想像したことある?」
小森は首を傾げる。
「……就職、できれば」
「就職の前に、四年ある。授業がある。課題がある。単位がある。ついていけなかったら?」
小森は口を開けて閉じた。
「……頑張ります」
「頑張るのは前提。問題は、頑張れない日が来たとき」
静はドアの方を見る。隙間の向こうに、人影が二つ。息を潜めている気配がある。
「他人の期待に乗る進路は、外側からは綺麗に見える。推薦で入学。親も先生も喜ぶ。で、つまずいた瞬間に言われる」
静は声を落とした。
「『推薦で入ったくせに』」
小森の肩がびくりと跳ねた。
静は続ける。
「言うのは、大学の先生かもしれない。クラスメイトかもしれない。家かもしれない。学校かもしれない」
ドアの外で、靴底が床を擦る音がした。静は反応しない。
「その言葉、逃げ場を消す。家を出たかっただけなのに、帰る場所もなくなる」
小森は唇を噛み、声を絞った。
「……じゃあ、どうしたら」
「選択肢を増やす」
静は机の端を指で軽く叩いた。
「推薦を使うなら、“家を出たい”をそのまま志望理由にはしない。面接で詰む。だけど、隠しても詰む」
小森が目を上げる。
「隠しても?」
「理由が空っぽになるから。空っぽのまま受け答えすると、面接官はすぐ分かる。で、担任が言う」
静は担任の声色を真似ない。ただ短く、刺さる言葉だけを置いた。
「『空気読め』」
小森の喉が鳴った。
静は言った。
「小森。今、空気読んでる?」
小森は頷きかけて、止まった。頷けば楽になる。けれど、その楽が首に回ることを、今は分かり始めている顔だった。
「……読んでます」
「誰の空気」
「先生たちの」
「その結果、どうなる」
小森は答えない。息だけが荒くなる。
静は椅子を少し引き、距離を作った。追い詰めないために。
「嫌だって言えるか」
小森が笑って誤魔化そうとする。
「……無理っす。言ったら、面倒になる」
「面倒になるのは、今だけ」
「今だけじゃない。ずっと、っす」
静は頷いた。否定しない。
「そうだな。言ったら、担任は怒る。教頭は嫌がる。推薦の枠も動く。面倒は増える」
小森が目を伏せる。
「……ほら」
「でも」
静はペンを持ち直し、白紙に丸を一つ描いた。たった一つ。
「言わない面倒は、四年続く。場合によっては十年続く」
小森が息を止める。
静は丸の横に、細い線を引いた。
「どっちがいい」
小森の指先が震えた。机の縁を掴む。
「……分かんない」
「分かんないなら、今できることは一つ」
静はドアの方を顎で示した。影がこちらを見ている。
「“嫌だ”の練習」
小森の目が大きくなる。
「今、ここで?」
「ここで。小声でいい。相手は俺でいい。言葉の形だけ作る」
小森は唾を飲み込む。喉が鳴る音がはっきり聞こえた。
「……嫌、だ」
かすれた声だった。静は頷かない。続けさせる。
「何が」
小森の眉が寄る。
「……勝手に決められるのが」
「誰に」
「先生に」
静は一拍置いた。
「もっと具体的に」
小森は拳を握りしめ、やっと視線を上げた。目の奥が濡れているのに、こぼれない。
「……推薦で、どこでもいいって言わされるの、嫌だ」
その瞬間、ドアがノックされた。今までより強い。
「桐生先生。教頭がお待ちです」
静は立ち上がり、ドアに近づいた。すぐ開けない。隙間越しに言う。
「今、本人確認中です。あと二分」
相手が苛立ちを隠さない声で返す。
「二分で終わりますか」
静は短く返した。
「終わらせます」
ドアを閉めきらずに戻ると、小森が息を浅くして座っていた。言ってしまったあとに来る怖さが、肩に乗っている。
静は机の上の白紙を小森の方へ向けた。丸と線だけの紙。
「今の言葉、忘れるな。あれが“自分のため”の芯になる」
小森が小さく首を振る。
「……でも、言ったら、終わります。推薦」
「終わらないようにする」
静は綺麗に言わない。
「ただし、守れる保証はない。担任は枠が欲しい。教頭は数字が欲しい。小森の“嫌だ”は、彼らには邪魔だ」
小森の顔が青くなる。
「……じゃあ」
「だから、武器を作る」
静はペン先で丸を指した。
「嫌だ、だけじゃ弱い。嫌だ、の代わりに“これならできる”を出す」
小森が聞き返す。
「……これなら」
「工学部が嫌なら、別の学部。私立が無理なら国公立か専門。家を出たいなら、寮のある学校。奨学金を使うなら、返済額の計算。推薦が嫌なら一般。どれも楽じゃない。でも、選べる」
小森の目が揺れる。
「……俺、そんなの、知らない」
「今、知る」
静は時計を見る。二分が削れていく。
「小森。教頭室で一回だけ言う。短く。噛んでもいい」
小森の唇が震える。
「……何を」
静は言った。
「『推薦で“どこでもいい”は嫌です』」
小森が目を見開く。
「無理っす。死ぬ」
「死なない。怒鳴られるだけだ」
小森が息を詰める。
静は続けた。
「怒鳴られたら、俺が止める。止めきれないかもしれない。でも、言葉が出た事実は残る」
小森が小さく言う。
「……残る、って」
「担任も教頭も、“本人が納得してる”って言えなくなる」
小森は膝の上で手を握り直した。さっきより強く。
ドアの向こうで、誰かが咳払いをした。黒川本人ではない。けれど、黒川の空気を運ぶ人間の咳だ。
静はドアを指差した。
「行く。小森、立てるか」
小森は立ち上がった。ふらつきそうになって、椅子の背を掴む。陸が横から手を出しかけて、止めた。小森が自分で立つのを待った。
小森が息を吸う。
「……俺、言えるかな」
静はドアノブに手をかけたまま、振り返る。
「言えないなら、今日の推薦は担任のものになる」
小森の目が揺れ、歯が噛み合う音がした。
静が続ける。
「言えたら、今日の推薦は小森のものになる。どっちがいい」
小森の喉が鳴る。
「……俺の」
「じゃあ、言う」
静がドアを開けると、廊下に担任と進路担当が並んでいた。担任の視線が小森を射抜く。
「終わったか。余計なこと吹き込んでないだろうな」
静が答える前に、小森が一歩前に出た。
唇が震えている。声が出る前に、担任が笑う。
「ほら、行くぞ。空気読んで――」
小森が、喉の奥から絞り出した。
「……嫌、です」
担任の笑いが止まった。
廊下の奥、教頭室のドアが開く音がした。誰かがこちらを見ている気配が、背中に刺さる。静は小森の隣に立ち、歩き出した。次に開くのは、第3のドアじゃない。教頭室のドアだ。
「桐生先生」
担任の声だけが先に入ってくる。続いて、肩に力の入った男が顔を出した。学年主任代理の札が胸で揺れている。
陸が机の端で止めていたシャーペンを、そっと机の下に滑らせた。静は視線を上げただけで、椅子を勧めない。
「どうぞ。立ち話でいいですか」
「……座る」
担任は勝手にパイプ椅子を引き、座った。膝の上に、クリアファイルを置く。中身は推薦資料のテンプレートが透けて見えた。
「単刀直入に言う。推薦枠、取ってくれ」
静はペンを置いた。
「誰の?」
「佐倉」
陸の指が、机の縁を一度だけ叩いた。静はそれを見ないふりをして、担任の顔だけを見る。
「医大の推薦?」
「そうじゃない。医大は無理だ。あの偏差値で通る枠なんてない」
担任はファイルを開き、紙を一枚ずらした。大学名がいくつか並び、横に「校内推薦 若干名」と赤で囲まれている。
「看護か。医療系の専門でもいい。とにかく“進路実績”になるところだ。うちのクラス、今のところ一般で戦えるのが二人しかいない」
静が黙っていると、担任は言葉を足した。
「教頭に言われてる。『内定三、進学二』。数字が出ないクラスは、指導が甘いって」
「それで、佐倉を推薦枠に入れたい」
「佐倉の家は金がある。私立でも行ける。親も医療なら納得する。進路室が“それっぽい資料”を作ってくれれば、話は早い」
静の眉がわずかに動いた。
「“それっぽい”」
担任は一瞬だけ目をそらし、すぐ戻した。
「現実の言い方だ。推薦ってのは、文章と面接の筋道だろ。桐生先生は得意だと聞いてる」
「得意なのは、本人の言葉を拾って筋道にすることです」
「だから頼んでる」
静は椅子の背にもたれず、前に少しだけ身を乗り出した。
「担任として、佐倉さんに何を見てるんですか」
担任は即答できなかった。紙を指で撫で、角を揃える。
「……家柄。医者の家。医療の道に繋がる。説得しやすい」
「本人は?」
「本人は……やる気はある。医者になりたいって言ってる」
静は短く息を吐いた。笑いでもため息でもない、音だけ。
「それ、本人の言葉でした?」
担任の頬が固くなる。
「何が言いたい」
「推薦は、枠を埋めるためのゴミ箱じゃない」
陸が顔を上げた。静の声は低いのに、机の上の空気が張った。
担任は声を荒げない代わりに、目だけを強くした。
「桐生先生、綺麗事言ってる場合じゃない。今、校内の空気わかってるだろ。外部連携も止められて、監査だの何だの、教頭が言い出してる」
「知ってます」
「だったら、数字を作れ。生徒のためにも学校のためにも必要だ」
静は担任のファイルの上に視線を落とした。推薦先の一覧。空白の志望理由欄。書き込む場所だけが、やけに広い。
「“学校のため”が先に出る時点で、順番が逆です」
「順番の話をしてるんじゃない。手段だ」
担任は指で机を叩いた。軽い音が二回。
「佐倉を、推薦で固めろ。医療系に入れれば、親も納得する。学校も助かる。本人も医療に残れる。全員得だ」
静は首を傾げた。
「全員、って誰ですか」
担任が言い返す前に、静は続けた。
「佐倉さんの“得”は、どこに書いてあります?」
「……医療だろ」
「医療のどこですか。看護? 検査? リハビリ? それとも医大浪人回避の逃げ道?」
担任の口が一瞬開き、閉じた。静は畳みかけない。沈黙を置く。担任が自分の言葉を探す時間だけ、わざと渡す。
陸が、その沈黙に耐えられずに小さく言った。
「……佐倉、最近、保健室にも行ってないっすよ。顔、死んでるけど」
担任が陸を睨む。
「お前は黙ってろ」
静が陸に視線を向ける。陸は口をつぐみ、椅子の脚を引っ込めた。
静は担任に戻る。
「推薦を取りに行くなら、条件があります」
担任の眉が動く。
「条件?」
「佐倉さん本人の同意。形式じゃなく。あと、推薦先を“医療系ならどこでも”で決めない。本人の軸を作る」
担任は鼻で笑う。
「軸? 今さら? 受験まで時間ないぞ」
「だから今やる。遅いなら、遅いなりに現実的に」
静は引き出しを開けない。鍵付きケースにも触れない。ただ、机の上のメモ帳に一行だけ書いた。短い文字列。
担任が身を乗り出す。
「何だ、それ」
「面談の枠。今日の放課後、佐倉さん、ここに呼びます。担任も同席」
担任が即座に首を振る。
「同席? 余計なこと言われたら――」
「余計かどうかは、本人が決めます」
担任の喉が鳴った。静の机の上にある「第3進路室」の札が、やけに目立つ。
担任は声を落とした。
「桐生先生、教頭がこの部屋を見てるの、知ってるだろ。今も、誰かが廊下で――」
言い終わる前に、ドアの外で足音が止まった気配がした。陸が反射的に背筋を伸ばす。静は視線を動かさない。
足音は、数秒で遠ざかった。
担任が舌打ちを飲み込む。
「……そういうことだ。こっちは首がかかってる」
静はペンを指先で転がし、止めた。
「首がかかってるのは、生徒も同じです。佐倉さんは、家で条件を突きつけられてる」
担任の目が細くなる。
「何の話だ」
「担任なら、本人から聞いてください」
担任はファイルを閉じ、強く押さえた。
「桐生先生。私は推薦枠を取りに来た。面談の綺麗な話を聞きに来たんじゃない」
静は淡々と言った。
「推薦枠は、取りに行きます。ただし“埋めるため”じゃない。本人が立てる場所を作るためです」
「理想論だ」
「現実論です。本人の軸がない推薦は、面接で崩れます。落ちます。落ちたら、教頭に“数字を落とした”って言われるのはあなたです」
担任の唇が薄くなる。否定したいのに、否定できない顔だった。
「……じゃあ、どうする」
静はメモ帳を担任に見える位置にずらす。
「今日、本人の言葉を取る。明日、推薦先を三つに絞る。偏差値じゃなく、入試形態と学費と通学。親の同意が取れる線で」
担任がメモを覗き込む。
「学費……」
「私立でも、奨学金の種類があります。給付は狭い。貸与は返す。家が裕福でも、親が出さないなら意味がない。そこも含めて、条件を確認します」
担任が苦い顔をした。
「そんなことまで……」
「進路って、そういうことです」
静は続ける。
「それと。推薦書は、担任が書く。私が書くのは“補助資料”だけです。あなたのクラスの生徒です」
担任の肩がわずかに揺れた。怒りなのか、安堵なのか、どちらとも取れない。
「……わかった。面談、同席する」
静は頷いた。
「あと一つ」
「まだあるのか」
「教頭に、“推薦枠を取りに行ってる”って報告するなら、言い方を選んでください。『第3が勝手にやってる』じゃなく、『学年として動いてる』にする」
担任が鼻を鳴らす。
「私に教頭と喧嘩しろって?」
「喧嘩じゃない。責任を分ける。あなた一人で抱えたら潰れます。私一人で抱えたら切られます。学校の論理に乗せるなら、学年の仕事にする」
担任は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る。
「……桐生先生、怖いな」
静は目を逸らさない。
「怖がってる暇がないだけです」
担任がドアに手をかけ、振り返った。
「放課後、佐倉を連れてくる。逃げたら?」
「逃げたら、追わない。代わりの道を考える」
担任の顔が歪む。
「それが甘いって言われるんだ」
「甘いかどうかは、結果で決まります。落ちたら私も責任取ります」
担任は何か言いかけて、飲み込んだ。ドアが閉まる。
残った空気が、少し遅れて動き出す。
陸が小声で言った。
「……推薦、欲しいの、先生の方じゃん」
静は机のメモ帳を指で押さえたまま、廊下の方を見た。
「推薦が欲しい先生は、毎年いる」
「助けんの?」
「助けるんじゃない。使う」
陸が眉をひそめる。
「使うって……」
「担任が本気で動けば、親にも届く。教頭の圧も、学年の仕事にできる。佐倉さんが一人で殴られなくて済む」
静は立ち上がり、鍵束に手を伸ばす。金属が小さく鳴った。
「陸。廊下、頼む。放課後まで、見張り役」
陸が一瞬、嫌そうに口を尖らせたが、椅子から立った。
「……はいはい。俺、監視される側なのに」
静はドアに手をかける前に、陸を見た。
「見張りは、敵を見つけるためじゃない。味方の時間を作るため」
陸は何も言わず、廊下へ出た。
静は鍵付きケースの前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込む手を止めた。開けない。今日は、まだ。
代わりに、机の上の電話の受話器を取る。内線番号を押す指が迷わない。
呼び出し音が一度、二度。
放課後の面談に、誰が口を挟みに来るか――その影を、静は先に掴みにいく。
内線は三度目で繋がった。
「はい、教頭室」
静は名乗る前に言った。
「桐生です。放課後、第3で佐倉ヒナの面談を入れます。担任同席。進路の整理です」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「……桐生先生」
黒川の声に切り替わる。取り次いだのか、最初から聞いていたのか。静は受話器を握り直した。
「面談は許可制でしたか」
「許可制にする方向です」
「方向じゃなくて、今日どうするかです」
黒川は間を置いて、淡々と言った。
「担任から報告は受けています。推薦枠の件ですね」
静の視線が、机の上のメモに落ちる。「面談」「三校」「学費」と書いた文字が、急に軽く見えた。
「推薦枠を埋める話なら、私は乗りません」
「埋める、という言い方は語弊がある」
「数字が欲しいんでしょう」
黒川は否定しなかった。
「学校は企業です。成果がすべて。あなたも分かっているはずです」
静は声を低くした。
「成果の定義を、あなたが決めるんですか」
「決めるのは、社会です。保護者です。教育委員会です。監査です」
監査。その単語だけで、空気が硬くなる。静は受話器を耳から少し離し、深呼吸を一つ挟んで戻した。
「佐倉さんは医大志望です。推薦で看護に押し込めば、本人の足場が崩れます」
「崩れるほどの足場があるのですか」
黒川の声は穏やかだった。穏やかだから、刺さった。
「医大は現実的ではない。担任の判断は妥当です」
静は短く言い切った。
「なら、医大を下ろすのは本人の口からです。学校の都合で下ろさない」
「理想論ですね」
「現実論です。本人が納得しない進路は、途中で折れます。退学や留年になれば、数字はもっと汚れます」
黒川が鼻で笑う気配がした。
「あなたはいつも、最悪の想定だけは上手い」
静は受話器越しに、笑わなかった。
「最悪を避けるのが仕事です」
黒川は声の温度を変えないまま告げた。
「放課後の面談、私も立ち会います」
静の背中がわずかに硬くなる。
「教頭が?」
「担任だけでは不安でしょう。あなたの“第3”は、最近、余計な動きをしすぎる」
余計。静は言い返すより先に、確認を取った。
「立ち会いの目的は」
「学校としての方針の共有です。推薦枠は貴重です。無駄にできない」
「生徒を無駄にする気はありません」
「なら話が早い。担任の案で進める。桐生先生は書類作成に協力する。それだけです」
静は受話器を持ったまま立ち上がった。窓の外、校庭で部活の声が遠い。現実は、いつも普通の顔をしている。
「協力しません」
黒川の声が一瞬止まる。
「拒否ですか」
「はい。推薦“枠”を取るための作文は書きません。本人の進路のための資料なら作ります」
黒川は短く笑った。
「あなたの正義感は分かりました。では、担任に任せます」
「担任が書けるなら、それでいいでしょう」
「担任は忙しい。学年を回している」
静は受話器を握る手に力が入るのを感じた。
「忙しいから、生徒を簡単に動かすんですか」
黒川の声が少しだけ低くなった。
「桐生先生。あなたは立場を理解していない。外部連携は停止中。あなたの“資料化”も、勝手に外へ出せない。もし動くなら、学校の管理下で」
静は答えた。
「管理下で、本人の意思が消えるなら意味がない」
「意味があるかどうかを、あなたが決めるのは危険です」
黒川は淡々と畳みかける。
「監査が入れば、あなたの部屋の管理体制も見られる。鍵付きケース? 良いですね。中身を説明できますか。保護者の同意は? 校内規定は?」
静の喉の奥が乾いた。鍵付きケースの中の紙の重さが、触れてもいないのに手に乗る。
「……個人情報の管理はしています」
「そう言うなら、なおさら。学校として統一した手続きを踏みましょう」
黒川は受話器越しに、決定事項のように言った。
「放課後、担任案で進めます。桐生先生は同席。余計な方向へ誘導しないでください」
静は返した。
「誘導してるのは、どっちですか」
黒川は答えず、事務的に締めた。
「では、失礼します」
ツー、という音が耳に残った。
静は受話器を置かなかった。切れた音を聞きながら、しばらく動けない。机の上のメモ帳を指でなぞり、紙が少しだけずれた。
ドアがノックされる。
「桐生先生」
担任の声。さっきより軽い。勝ちが見えている声だ。
「入って」
担任はドアを開け、片手をポケットに突っ込んだまま入ってきた。目が笑っていない。
「教頭、話ついた。放課後、立ち会うって」
静は頷いた。
「聞きました」
担任は口角を上げた。
「ほらな。理想論は通らない」
静は椅子に座り直し、担任を見上げた。
「理想論じゃない。あなたが“楽な形”を選んでるだけです」
担任の眉が跳ねる。
「楽? こっちは背負ってんだよ。クラスも、実績も」
「佐倉さんは背負わされてる」
担任は肩をすくめた。
「背負える家だろ。医者の家。金もある。一般家庭と違う」
静の声が少しだけ硬くなる。
「金がある家でも、親が出さないなら同じです」
「出すよ。医療なら。そこがポイントだ」
担任はクリアファイルを机に置いた。推薦先の一覧が、紙の光沢で白く反射する。
「これ。教頭も同意。医療系で固める。桐生先生、文章得意だろ。志望理由、書けるよな?」
静はファイルを開かなかった。
「書きません」
担任の笑いが消えた。
「……は?」
「私は、本人の言葉がない文章は書かない」
担任が机を指で叩く。
「本人の言葉? そんなもん、引き出せばいいだろ。面談で上手く誘導して」
静は目を細めた。
「誘導?」
「言い方の問題だ。要は、医療に行きたいって言わせればいい」
静は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が短く響く。
「それ、推薦じゃない。口裏合わせです」
担任が鼻で笑う。
「綺麗だなあ。さすが第3。落ちこぼれの味方」
静はその言葉を受け流さず、真正面から返した。
「味方のふりして、学校の盾にするよりマシです」
担任の顔が赤くなる。
「盾? 誰が?」
「佐倉さん。あなたのクラスの“数字”の盾」
担任は一歩近づいた。
「桐生先生。分かってないのはあなただ。教頭がついた時点で決まりなんだよ。逆らってどうする。潰されたいのか」
静は一歩も引かない。
「潰されるかどうかより、潰すのが誰かを覚えておきます」
担任は唇を噛み、ファイルを乱暴に閉じた。
「じゃあどうするんだよ。放課後、教頭の前で“書きません”って言うのか」
静は首を振った。
「言いません」
担任が勝ち誇ったように息を吐く。
「ほら。結局――」
「書類の代わりに、選択肢を出します」
静は机のメモを指で叩いた。
「推薦一本じゃない。一般の医療系、専門、看護だけじゃなく検査やリハ。奨学金の種類と返済。通学距離。親の条件。全部並べて、本人に選ばせる」
担任が吐き捨てる。
「時間の無駄だ。教頭は“数字”しか見ない」
「だから、数字に繋げる」
担任が眉をひそめる。
「何だよ、それ」
静は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「推薦を取るなら、“落ちない形”にする。本人が面接で崩れない形に」
担任は鼻で笑った。
「結局、推薦に乗るんじゃないか」
静は即答しなかった。沈黙で線を引く。
「推薦に“乗る”んじゃない。推薦を“使う”。本人が立つために」
担任は肩を落とし、呆れたように笑った。
「言葉遊びだな。ほんと、理想家だ」
静は担任の目を見たまま、淡々と言った。
「あなたは推薦が欲しい。私は、本人の逃げ道が欲しい。それだけです」
担任はファイルを抱えてドアに向かった。
「放課後。教頭の前で、余計なこと言うなよ」
静は返す。
「余計かどうかは、本人が決めます」
担任がドアノブを捻った瞬間、廊下から陸の声が飛び込んできた。
「桐生先生! 佐倉、来た。あと……男の人も」
静の胸の奥が、一段沈む。担任が振り返り、目を細めた。
「父親か」
静は机の鍵束を掴む。金属が掌で鳴った。
「放課後じゃなくなりましたね」
担任が小さく笑う。
「現実は、こっちの都合なんて待たない」
静はドアへ向かいながら、短く言った。
「だから、今やる」
廊下に出ると、空気が一段冷えていた。
陸が壁際に立ち、視線だけで「こっち」と示す。その先に、男子が一人、猫背で立っている。制服の袖口が擦れて白くなっていた。
その横に担任。さらに少し離れて、教頭室の事務員が立っている。呼び出しの伝言役だ。
男子が静に気づき、反射で頭を下げた。
「……小森です」
「小森シン、だよな」
静が名前を確認すると、彼は小さく頷いた。頷き方が、謝っているみたいだった。
担任が口を挟む。
「桐生先生、この件は急ぎだ。教頭も待ってる。小森、行くぞ」
小森は「はい」と言いかけて、言葉の出る前に足が動いた。静が一歩、前に出る。
「待って。ここで話す」
担任が眉をひそめた。
「廊下で? 何のために」
「小森本人の確認」
担任は嘲るように笑った。
「確認? もう本人は了承してる。なあ、小森」
突然振られて、小森は目を泳がせた。陸が少しだけ顔をしかめる。
「……えっと。はい。たぶん」
「たぶんじゃない。『はい』だ」
担任の声が強くなる。小森の肩がすくんだ。
静は小森の目線の高さに合わせるように、少しだけ腰を落とした。
「小森。何の話を“はい”って言った?」
小森は口を開けたまま止まり、喉仏が上下した。
「……推薦、って」
「どこの?」
「えっと……先生が……言ってた、やつ」
担任が苛立って言う。
「工学部だ。指定校。学費もそこまでじゃない。就職も強い」
静は担任を見ずに小森へ。
「工学部、興味ある?」
小森は一拍置いてから、頷いた。頷いたけれど、目は静の後ろの担任を見ていた。
「……あります。たぶん」
静が短く言う。
「“たぶん”が続くな」
小森は笑おうとして失敗した。
「すみません。俺、よく分かってなくて」
担任が吐き捨てる。
「分かってなくてもいい。枠があるなら取る。それが現実だ」
静が顔を上げた。
「現実って言葉、便利ですね」
担任が肩をすくめる。
「便利だから使う。教頭も同じだ。数字を作れって言ってる」
その瞬間、事務員が小さく咳払いをして、視線を逸らした。聞いていないふりをしているだけで、聞いている。
陸が小森の横に一歩寄った。
「小森。お前さ、部活、何やってたっけ」
小森は陸を見て、少しだけ表情がほどけた。
「……工具、触るやつ。ロボット研究会。去年、途中で辞めた」
「辞めた理由は」
陸の問いが鋭くなりすぎて、静が手で制した。
「陸、今はいい」
陸は口を閉じたが、目は小森から離さない。
静は小森に言った。
「推薦ってのは、学校が“この生徒は大丈夫です”って保証する形だ。だから、本人の覚悟と理由が要る。小森、今、言える?」
小森は唇を噛んだ。廊下の窓から入る風で、彼の前髪が揺れる。
「……えっと。就職、強いって……」
「それは担任の理由だ」
担任が声を荒げる。
「何が悪い! 就職は現実だろ!」
静は小森から目を離さない。
「小森、自分の言葉で。何がしたい。何が嫌だ」
小森の指が制服の裾を掴んだ。爪が白くなる。
「……嫌、なのは……」
担任が被せる。
「嫌とか言うな。推薦はチャンスだ」
小森の声が小さくなる。
「……すみません」
静が即座に言った。
「謝らなくていい」
担任が鼻で笑う。
「ほら。甘い」
静は担任の方を向いた。
「甘いのは、本人が何も言わなくても進路が決まると思ってるあなたです」
担任の顔が歪む。
「桐生先生、邪魔するな。小森は成績が足りてる。評定もある。推薦が取れる。取らない理由がない」
静は淡々と返す。
「取る理由が“先生の実績”なら、取らない理由になります」
担任が一歩近づく。
「言いがかりだ」
静も一歩、詰める。
「小森の生活、知ってますか」
担任が一瞬だけ言葉に詰まった。
「……生活?」
静は小森に戻る。
「小森。家、今どうなってる」
小森は肩をすくめた。笑って誤魔化そうとする癖が、口元にだけ出る。
「普通っす。べつに」
陸が堪えきれず、低い声で言う。
「普通のやつ、昼飯パン一個で済ませねえよ」
小森が陸を睨むでもなく、目を伏せた。廊下の床の一点を見つめる。
担任が苛立って言う。
「それと推薦に何の関係がある」
静が答える。
「学費。通学。仕送り。奨学金。途中で折れたら、推薦先も小森も傷が残る」
担任が鼻で笑う。
「だから推薦なんだろ。一般より楽だ」
静は即答した。
「楽じゃない。逃げ道が減る」
小森が顔を上げた。静の言葉が、初めて自分に向いた気がしたのだろう。目が揺れている。
静は続ける。
「推薦で入ったら、辞めにくい。辞めたら“推薦で入ったのに”って言われる。小森は、それに耐えられる?」
小森は口を開けて、閉じた。喉が動く。
「……たぶん」
担任が苛立ちを隠さず言う。
「またたぶんか。はっきりしろ。お前、いつもそうだぞ。周りに合わせて、後で文句言う」
小森の肩が跳ねた。文句を言った覚えがあるのかないのか、どちらにしても刺さった顔だった。
静が担任を止める。
「責めるな。合わせて生きてきたんだろ。小森は」
担任が吐き捨てる。
「そうやって甘やかすから、いつまでも決められないんだ」
静は小森に短く言った。
「決めなくていいとは言わない。決める材料を増やす」
担任が腕を組む。
「材料? 時間がないんだよ。指定校は今週中に候補を出す。教頭からも言われてる。枠を落とすなって」
その言葉に、小森の目がまた担任の方へ流れた。流れるというより、吸い寄せられる。空気に。
静は小森の目線の先に、わざと割り込むように手を上げた。
「小森。今、ここで一個だけ決めろ」
小森が息を呑む。
「……はい」
「教頭室に行く前に、第3で五分だけ話す。いいな」
担任がすぐ反対する。
「五分も無駄だ」
静は担任に視線を向けずに言う。
「無駄かどうかは、落ちたあとに分かる」
担任が舌打ちしかけて、事務員の存在に気づいて飲み込んだ。代わりに笑った。
「勝手にしろ。ただし、教頭の前で同じこと言ってみろ。お前の部屋、閉められるぞ」
静は頷いた。
「閉められないように、今ここで整える」
小森が小さく言った。
「……俺、行きます。第3、で」
担任が眉を上げる。
「お前、そんな風に言えるじゃないか」
褒めているようで、逃げ道を塞ぐ声だった。小森はそれに気づかないふりをして、静の方に一歩寄った。
陸がさっと前に出て、廊下の角を見た。巡回の足音が近づいていないか確かめる仕草。
静は小森の背中を押すでも引くでもなく、横に並んで歩き出す。
「小森。推薦を取るかどうかは、今日決めなくていい」
小森が驚いた顔をする。
「……え。でも、先生が……」
「担任の都合と、締切は別。締切は現実。でも、現実には手順がある。候補を出すのと、志望を固めるのは違う」
小森が小さく頷いた。
「……はい」
「“はい”の前に、一回息しろ」
小森は息を吸って、吐いた。たったそれだけで、背中の丸さが少しだけ戻った。
第3進路室のドアが見える。静が鍵に手をかけた瞬間、廊下の奥から別の足音が増える。
陸が小声で言った。
「来る。教頭室の人、あと二人」
担任が笑った。
「ほらな。もう舞台は整ってる」
静は鍵を回し、ドアを開けた。小森が中へ入る。その背中に、担任の声が追いかける。
「小森。空気読めよ。せっかくの推薦だ」
小森の足が一瞬止まり、また動いた。静はドアを半分だけ閉める。完全には閉めない。外の気配を遮断できないと分かっているからだ。
「座って」
小森が椅子に腰掛ける。膝が小刻みに揺れている。
静は机の上のメモ帳を裏返し、白紙の面を出した。
「まず、確認。小森は今、“誰のため”に推薦を取ろうとしてる」
小森は口を開け、言葉を探した。
ドアの向こうで、ノックが一度。
「桐生先生。教頭がお呼びです」
静は返事をせず、小森の目だけを見る。
「今ここで言えたら、教頭室でも言える」
小森の喉が鳴った。
「……先生のため、かも」
静は頷かなかった。否定もしなかった。ただペンを置き、短く言った。
「じゃあ次。“自分のため”は何だ」
ノックがもう一度、少し強くなる。廊下の空気が、ドアの隙間から押し込んでくる。
小森の指が、膝の上で拳になった。言葉が出る前に、静がドアの方へ視線を動かす。
「待ってもらう。三分」
静は立ち上がり、ドアを少し開けた。廊下の向こうに、黒川の側近のような進路担当が立っている。
「教頭は“数字”を急いでいます」
その声は、忠告というより通達だった。
静はドアの隙間を保ったまま答えた。
「数字は逃げません。人は逃げます」
相手が眉をひそめる。
「桐生先生……」
静はドアを閉めきらずに戻った。小森は息を止めたまま、静を見ている。
「小森。三分でいい。自分のための理由、ひとつ」
小森は小さく、しかし初めて“たぶん”を付けずに言った。
「……俺、家を出たい」
その言葉が落ちた瞬間、廊下の足音が、ドアの前で止まった。
「家を出たい」
小森の声は小さかったのに、机の上の空気が一度止まった。
静はペンを取らない。書き留めれば、言葉が逃げる気がした。
「理由は」
小森は喉を鳴らし、視線を落としたまま言った。
「……別に。普通です」
「普通なら、出たいって言わない」
小森の指が膝の上でほどけて、また握られる。
「……母ちゃん、夜いないこと多くて。親父は……酔うと、うるさい」
「手は出る?」
小森が首を振る。振り方が速い。否定というより、話を終わらせる動きだった。
「出ないっす。全然」
静は頷かない。
「出ないならいい、って話でもない。で、推薦は家を出る手段に見えた」
小森は小さく頷く。
「はい」
「工学部じゃなくても?」
「……どこでも、いいっす。家から離れられれば」
静はそこで初めてペンを置いた。机を挟んで、小森の逃げ道を一つずつ塞がずに、照らす。
「“どこでもいい”で入った先、想像したことある?」
小森は首を傾げる。
「……就職、できれば」
「就職の前に、四年ある。授業がある。課題がある。単位がある。ついていけなかったら?」
小森は口を開けて閉じた。
「……頑張ります」
「頑張るのは前提。問題は、頑張れない日が来たとき」
静はドアの方を見る。隙間の向こうに、人影が二つ。息を潜めている気配がある。
「他人の期待に乗る進路は、外側からは綺麗に見える。推薦で入学。親も先生も喜ぶ。で、つまずいた瞬間に言われる」
静は声を落とした。
「『推薦で入ったくせに』」
小森の肩がびくりと跳ねた。
静は続ける。
「言うのは、大学の先生かもしれない。クラスメイトかもしれない。家かもしれない。学校かもしれない」
ドアの外で、靴底が床を擦る音がした。静は反応しない。
「その言葉、逃げ場を消す。家を出たかっただけなのに、帰る場所もなくなる」
小森は唇を噛み、声を絞った。
「……じゃあ、どうしたら」
「選択肢を増やす」
静は机の端を指で軽く叩いた。
「推薦を使うなら、“家を出たい”をそのまま志望理由にはしない。面接で詰む。だけど、隠しても詰む」
小森が目を上げる。
「隠しても?」
「理由が空っぽになるから。空っぽのまま受け答えすると、面接官はすぐ分かる。で、担任が言う」
静は担任の声色を真似ない。ただ短く、刺さる言葉だけを置いた。
「『空気読め』」
小森の喉が鳴った。
静は言った。
「小森。今、空気読んでる?」
小森は頷きかけて、止まった。頷けば楽になる。けれど、その楽が首に回ることを、今は分かり始めている顔だった。
「……読んでます」
「誰の空気」
「先生たちの」
「その結果、どうなる」
小森は答えない。息だけが荒くなる。
静は椅子を少し引き、距離を作った。追い詰めないために。
「嫌だって言えるか」
小森が笑って誤魔化そうとする。
「……無理っす。言ったら、面倒になる」
「面倒になるのは、今だけ」
「今だけじゃない。ずっと、っす」
静は頷いた。否定しない。
「そうだな。言ったら、担任は怒る。教頭は嫌がる。推薦の枠も動く。面倒は増える」
小森が目を伏せる。
「……ほら」
「でも」
静はペンを持ち直し、白紙に丸を一つ描いた。たった一つ。
「言わない面倒は、四年続く。場合によっては十年続く」
小森が息を止める。
静は丸の横に、細い線を引いた。
「どっちがいい」
小森の指先が震えた。机の縁を掴む。
「……分かんない」
「分かんないなら、今できることは一つ」
静はドアの方を顎で示した。影がこちらを見ている。
「“嫌だ”の練習」
小森の目が大きくなる。
「今、ここで?」
「ここで。小声でいい。相手は俺でいい。言葉の形だけ作る」
小森は唾を飲み込む。喉が鳴る音がはっきり聞こえた。
「……嫌、だ」
かすれた声だった。静は頷かない。続けさせる。
「何が」
小森の眉が寄る。
「……勝手に決められるのが」
「誰に」
「先生に」
静は一拍置いた。
「もっと具体的に」
小森は拳を握りしめ、やっと視線を上げた。目の奥が濡れているのに、こぼれない。
「……推薦で、どこでもいいって言わされるの、嫌だ」
その瞬間、ドアがノックされた。今までより強い。
「桐生先生。教頭がお待ちです」
静は立ち上がり、ドアに近づいた。すぐ開けない。隙間越しに言う。
「今、本人確認中です。あと二分」
相手が苛立ちを隠さない声で返す。
「二分で終わりますか」
静は短く返した。
「終わらせます」
ドアを閉めきらずに戻ると、小森が息を浅くして座っていた。言ってしまったあとに来る怖さが、肩に乗っている。
静は机の上の白紙を小森の方へ向けた。丸と線だけの紙。
「今の言葉、忘れるな。あれが“自分のため”の芯になる」
小森が小さく首を振る。
「……でも、言ったら、終わります。推薦」
「終わらないようにする」
静は綺麗に言わない。
「ただし、守れる保証はない。担任は枠が欲しい。教頭は数字が欲しい。小森の“嫌だ”は、彼らには邪魔だ」
小森の顔が青くなる。
「……じゃあ」
「だから、武器を作る」
静はペン先で丸を指した。
「嫌だ、だけじゃ弱い。嫌だ、の代わりに“これならできる”を出す」
小森が聞き返す。
「……これなら」
「工学部が嫌なら、別の学部。私立が無理なら国公立か専門。家を出たいなら、寮のある学校。奨学金を使うなら、返済額の計算。推薦が嫌なら一般。どれも楽じゃない。でも、選べる」
小森の目が揺れる。
「……俺、そんなの、知らない」
「今、知る」
静は時計を見る。二分が削れていく。
「小森。教頭室で一回だけ言う。短く。噛んでもいい」
小森の唇が震える。
「……何を」
静は言った。
「『推薦で“どこでもいい”は嫌です』」
小森が目を見開く。
「無理っす。死ぬ」
「死なない。怒鳴られるだけだ」
小森が息を詰める。
静は続けた。
「怒鳴られたら、俺が止める。止めきれないかもしれない。でも、言葉が出た事実は残る」
小森が小さく言う。
「……残る、って」
「担任も教頭も、“本人が納得してる”って言えなくなる」
小森は膝の上で手を握り直した。さっきより強く。
ドアの向こうで、誰かが咳払いをした。黒川本人ではない。けれど、黒川の空気を運ぶ人間の咳だ。
静はドアを指差した。
「行く。小森、立てるか」
小森は立ち上がった。ふらつきそうになって、椅子の背を掴む。陸が横から手を出しかけて、止めた。小森が自分で立つのを待った。
小森が息を吸う。
「……俺、言えるかな」
静はドアノブに手をかけたまま、振り返る。
「言えないなら、今日の推薦は担任のものになる」
小森の目が揺れ、歯が噛み合う音がした。
静が続ける。
「言えたら、今日の推薦は小森のものになる。どっちがいい」
小森の喉が鳴る。
「……俺の」
「じゃあ、言う」
静がドアを開けると、廊下に担任と進路担当が並んでいた。担任の視線が小森を射抜く。
「終わったか。余計なこと吹き込んでないだろうな」
静が答える前に、小森が一歩前に出た。
唇が震えている。声が出る前に、担任が笑う。
「ほら、行くぞ。空気読んで――」
小森が、喉の奥から絞り出した。
「……嫌、です」
担任の笑いが止まった。
廊下の奥、教頭室のドアが開く音がした。誰かがこちらを見ている気配が、背中に刺さる。静は小森の隣に立ち、歩き出した。次に開くのは、第3のドアじゃない。教頭室のドアだ。
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