成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第22話:見えない障害

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 廊下の窓から冷たい光が差し込んでいた。チャイムが鳴り終わっても、教室の前扉は何度も小さく開いては閉じる。

 遅れて入ってきた男子が、鞄を抱えたまま立ち尽くす。

 担任の声が、黒板にチョークを当てたまま飛んだ。

「三上。……またか。席」

「……すんません」

「すんませんじゃない。提出物もだ。プリント、今日までって言ったよな」

 三上ユウトは鞄の口を開け、手を突っ込む。紙が擦れる音がして、ノートの角が出たり引っ込んだりする。机の上に出たのは、折れたクリアファイルと、くしゃっとしたレシート。

「……あれ」

 教室の空気が一段冷える。

「探すな。授業始める」

「……」

 三上は何か言いかけて飲み込んだ。椅子を引く音だけが大きく響く。

 後ろの席から小声が落ちる。

「絶対、やってないだけ」

 別の声が笑う。

「怠けてるだけでしょ」

 三上は反応しない。反応しないふりをして、指先で机の端をなぞっていた。爪の先が白くなる。

 放課後、進路指導室の前の廊下は静かだった。扉の横の掲示板には、最小限の告知だけが貼られている。「就職準備講座(試行) 担任推薦制」。文字は淡々としていて、熱はない。

 相沢陸が、扉の前で名簿のクリップを直していた。静に言われて、面談調整の記録を付け始めたばかりだ。

「今日、来る人います?」

「今のところ、担任経由の確認は二人。……でも、どっちも保留」

 陸は名簿を覗き込みながら、声を落とす。

「教頭の……あれ、効いてますよね。『候補理由提出』って。担任、面倒がる」

「面倒がるし、責任も背負いたくない」

 静は机の上の書類を揃え、クリアファイルに入れた。封筒の類は見当たらない。鍵監査の話が出てから、部屋の空気が落ち着かない。

 扉が叩かれた。控えめな音。

「……失礼します」

 三上ユウトが立っていた。制服の胸元が少し乱れている。鞄は持っているのに、持ち方が頼りない。

 陸が目を丸くした。

「三上、ここ来るの初めてじゃん」

 三上は陸を見て、すぐ視線を床に落とした。

「……担任に、行けって」

 静は椅子を引いた。

「座れ。名前と学年、言える?」

「二年、三上ユウトです」

「遅刻、忘れ物、提出漏れ。担任からはそれしか聞いてない」

 三上の喉が動く。言い訳を探しているのか、言い訳を捨てようとしているのか、どちらにも見えた。

「……すみません」

 静はペンを置いた。

「謝るのは後でいい。現実の話をする。三上、お前のそれは、就職でも進学でも致命傷になる」

 三上は顔を上げた。目が一瞬だけ強くなる。

「……分かってます」

「分かってるのに直らない。だから、周りは『怠け』って結論にする。そういう世界だ」

 陸が口を挟みかけて、静の横顔を見て黙った。

 静は三上の鞄を見た。

「今日、プリント出せなかったな。鞄の中、見せろ」

 三上が固まる。

「……え」

「嫌ならいい。その代わり、今後も『やってない』で処理される」

 三上は唇を噛み、鞄を机の上に置いた。チャックを開ける手が遅い。中身が一気に崩れた。教科書、ノート、空のペットボトル、充電ケーブル、レジ袋。紙の束が何種類も混ざっている。

 陸が思わず言った。

「うわ……迷宮」

「触るな、陸。本人にやらせる」

 静は三上の手元を指さした。

「プリント類、どこに入れてる」

「……ここ、です。……たぶん」

「『たぶん』が終わりを作る。今、今日のプリントを探せ」

 三上は紙をめくる。めくって、戻して、まためくる。途中で別のプリントが出て、目が泳ぐ。そこから動きが止まる。

「……これ、いつのだ」

「いつのでもいいから今は探せ」

 三上は頷いて動くが、同じ場所を何度も開ける。さっき見た束に戻って、また戻る。焦りだけが増えていく。

 陸が小さく言った。

「……探し方、分かってない感じ」

 三上は聞こえたのか、肩が跳ねた。

「うるせ……」

 言い終わらない。声が途中で切れた。怒りを出すと負けると知っているような切り方だった。

 静は机の端に置いてあったタイマーを取って、押した。

「三分。三分で見つからなかったら、今日のは『出せない』で確定。現実はそれ。いいな」

「……はい」

 三上は必死に手を動かす。紙が擦れる音が早い。なのに進まない。手が同じ束に戻っていく。

 タイマーが鳴る直前、三上の手が止まった。見つけた、ではない。諦めた、の止まり方だった。

 ピピピ、と乾いた音。

 三上はその場で息を吐いた。笑うでも泣くでもない、空気だけが抜ける音。

「……無理っす」

 静はタイマーを止めた。

「無理、で終わるならここに来る意味がない。質問を変える。三上、お前、家でもこうか」

 三上は頷いた。目が静から逃げない。逃げる余裕がない。

「鍵とか、スマホとか……どこ置いたか分かんなくなる。……毎日」

「遅刻は?」

「……家出る直前に、教科書足りないって気づいて。探して。見つからなくて。……で、遅れる」

 陸が眉をひそめた。

「それ、気合いとかじゃなくない?」

 三上が陸を見た。少しだけ救われた顔をしそうになって、すぐ引っ込めた。

 静は淡々と続ける。

「授業中は?」

「板書……間に合わない。書こうとしたら次行ってる。で、もういいやってなる」

「テストは」

「白紙、増える。……見直しとか、できない。どこ見たか分かんなくなる」

 静はペン先で机を一度だけ叩いた。

「怠けてるって言われてる?」

 三上の目が揺れた。声は出さない。頷きだけ。

「家は」

「……父親、キレます。『甘えんな』って」

 陸が口を開きかけたが、静が視線だけで止めた。

 静は椅子にもたれず、前に体重をかけた。

「三上。可能性の話をする。お前、発達の特性があるかもしれない。診断があるかは別。今のまま『怠け』で処理されるより、手を打てる」

 三上の指が、鞄の縁を掴んだ。力が入って、プラスチックがきしむ。

「……それ、俺が……おかしいってことですか」

 静は首を振らない。肯定もしない。

「『おかしい』じゃなくて、『困り方に癖がある』ってこと。癖なら、対策がある。対策があるなら、進路の選択肢が増える」

「……でも、言ったら……」

 三上の声が小さくなる。

「……就職、落とされるとか」

 陸が言った。

「言わなきゃいいんじゃないの」

 静が即座に切った。

「それも選択肢だ。ただし、隠したまま現場で詰むと、もっときつい」

 三上が顔をしかめる。静の言い方は優しくない。だが、逃げ道は塞いでいない。

 静は手を伸ばし、机の上に白紙を一枚置いた。

「今日からできること。まず、鞄の中を区切る。プリントは全部ここ、って決める。クリアファイル一枚。色は派手なやつ。迷ったらそこ」

 三上は白紙を見た。何かを言い返そうとして、出てきたのは別の言葉だった。

「……そんなので、変わります?」

「変わらないなら、次をやる。変わるなら、時間が稼げる。時間が稼げたら、次の手が打てる」

 陸が名簿をちらっと見て言う。

「次の手って……病院とか?」

 静は頷いた。

「学校の中には限界がある。医療につなぐ、相談機関につなぐ。親の同意が必要になる場合もある。そこは揉める」

 三上の眉が寄る。

「……父親、絶対やだって言う」

 静は机の引き出しから、連絡用の紙を一枚出した。学校の書式の、味気ない紙。

「だから順番を間違えない。いきなり『検査』じゃない。まず、困りごとを具体化して、家庭と担任に『対策の相談』として出す」

「担任……俺のこと、嫌いっす」

「嫌いかどうかはどうでもいい。担任は学校のルールで動く。動かす材料を出す」

 陸がぼそっと言う。

「材料って、数字みたいに」

 静は目を細めた。

「そう。ここは数字の学校だ。教頭がそう言ってる」

 廊下の向こうで、職員室の電話が鳴った。誰かの足音が早足で過ぎる。静は扉の鍵穴を一瞬見てから、視線を戻した。

「黒川教頭は『成果を出せ』と言う。成果ってのは、進学実績と就職内定と欠席減。……お前の困りごとは、放っておくと全部に響く」

 三上は唾を飲み込んだ。

「……じゃあ俺、どうしたら」

 静は白紙の上に、短い言葉を書いた。大きく、三つ。

「持ち物」「提出」「時間」

「今日は持ち物だけ。明日、提出。明後日、時間。三つを一気に直すな。無理だから」

 三上が、初めて静の手元をじっと見た。字は綺麗ではない。だが迷いがない。

 静は続ける。

「今、鞄の中を全部出す。陸、机の横に段ボール持ってこい」

「え、ここで?」

「ここで。家でやれないなら、学校でやる」

 陸が慌てて立ち上がり、部屋の隅の空き箱を引っ張ってきた。静は三上に言う。

「捨てるかどうかは今決めない。『今必要』『後で見る』『ゴミ』の三つに分ける」

 三上は戸惑いながらも、教科書を一冊ずつ出し始めた。手が止まるたび、静が短く促す。

「迷うな。後で見るに入れろ」

「……これ、プリント……」

「後で見る」

「……充電器」

「今必要か」

「……今じゃない」

「後で見る」

 陸が箱を押さえながら、小さく笑った。

「なんか、できてる。三上」

「……うるさい」

 三上の口はそう言いながら、手は止まらなかった。

 しばらくして、床に散っていた紙の山が薄くなった。三上の鞄の底が見える。三上はそれを見て、少しだけ目を見開いた。

「……底、あった」

 静はクリアファイルを一つ取り出した。派手な黄色。どこかの展示会でもらったものだ。

「これ、やる。プリントは全部ここ。授業中も、提出物も。担任に『ここに入れてます』って言えるようにする」

 三上は恐る恐る受け取った。指先が黄色に触れて、少しだけ力が抜ける。

「……これ、目立つ」

「目立つ方がいい。見えないよりマシだ」

 静が時計を見た。次の面談の時間が迫っている。名簿の上に、陸が書いた小さなメモがある。「高瀬ミナ 講座候補」。

 静は三上に紙を差し出した。

「明日、朝一でここに来い。五分でいい。鞄の中、写真撮って記録する。変化が出たら、それが担任への材料になる」

 三上が紙を受け取る。

「……俺、毎日来ていいんすか」

「進路室は逃げ場じゃない。作業場だ。来るなら、やることを持って来い」

 三上は小さく頷いた。立ち上がり、鞄を持つ。さっきより軽く見える。

 扉に手をかけて、振り返る。

「……先生。俺、就職、できるんすか」

 静は即答しなかった。代わりに、机の上の黄色いファイルを指さす。

「今日のこれが続くなら、できる可能性は上がる。続かないなら、別の道も考える。現実は厳しい。だから道を増やす」

 三上は一度だけ、深く息を吸って出した。

「……明日、来ます」

 扉が閉まると、陸が名簿を握りしめたまま言った。

「今の、担任にどう言うんですか。『怠けじゃないかも』って」

「言い方を間違えたら燃える。教頭にも飛ぶ」

 静は名簿の「高瀬ミナ」の行に目を落とした。

「だから、次の講座の『候補理由』を先に作る。学校が飲める言葉で。……陸、今日の記録、まとめろ。三上の『困りごと』は具体的に」

「具体的に……」

 陸はペンを取った。紙に向かう手が、さっきより少しだけ真剣だ。

 廊下の奥で、また足音が近づいてくる。静は扉の方を見た。次の面談が、もう来る。試行一回の講座に向けて、時間が削れていく。

 静は椅子を引き直し、机の上を整えた。

「次、入っていいぞ」

 扉の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。


 扉が開ききる前に、制服の袖が見えた。

 高瀬ミナが、顔を半分だけ出して中を窺う。目が陸に当たって、すぐ逸れる。

「……静先生、今、いい?」

「入れ。座れ」

「……陸、いるんだ」

 陸は椅子から少し身を引いた。

「俺、記録係。邪魔なら出るけど」

 ミナは返事をしない。代わりに、鞄の紐を握る手に力が入った。

 静が言う。

「今日は講座の話じゃない。三上の件、見てたな」

 ミナの視線が床に落ちた。

「……見てない」

「見てた顔だ」

 ミナは口を尖らせたまま黙る。沈黙のまま、椅子に座る。背もたれに寄りかからない。

 静は机の上の黄色いクリアファイルを指で弾いた。軽い音。

「三上、怠けって言われてる」

 ミナが小さく笑う。

「だって、いつもそうじゃん。忘れて、遅れて、出さなくて。……怒られて、またやって」

「お前はどう思う」

「……自業自得」

 言い切った瞬間、ミナの喉が動いた。言葉が戻っていくみたいに。

 陸が様子を見て、そっと口を挟む。

「ミナさ、三上のこと嫌い?」

「別に」

「じゃあ、なんでそんな言い方すんの」

 ミナが机の角を見た。

「……そう言わないと、私の番が来るから」

 静のペン先が止まる。

「お前も『怠け』って言われる側か」

 ミナは頷かなかった。けど、否定もしない。

「……私、忘れるの、嫌い。忘れたくないのに、忘れる。で、怒られる。怒られるの、もっと嫌い」

 静は椅子の背を鳴らさずに立ち上がり、扉を少しだけ開けた。廊下の気配を確認して、静かに閉める。

「今はこの部屋の中だけの話にする。外には出さない。……ただし、進路の手続きを進めるなら、いつかは誰かに言う必要が出る」

 ミナが眉を寄せる。

「……教頭?」

「教頭に直で言う必要はない。でも、学校は数字と報告を求める。黒川は特に」

 陸が小さく舌打ちした。

「また『結果報告必須』のやつ」

 静は陸を見ずに言った。

「黙れ。余計な火種を増やすな」

 ミナが陸を見て、すぐ静に戻す。

「……じゃあ、言わない方がいいじゃん」

「言わないで済むなら、それも現実的だ。ただ、言わない場合の代償もある」

 静は机に戻り、白紙を一枚出した。さっき三上に書いた「持ち物」「提出」「時間」の紙とは別だ。

「ミナ。最近、何を落とした」

「……え」

「具体的に」

 ミナは一瞬、笑って誤魔化そうとして、失敗した。

「……体育館シューズ。二回。あと、イヤホン。あと……提出プリント。出したと思ってた」

「遅刻は」

「……電車、一本、二本。ホームでぼーっとしてたって言われた」

 静は頷き、紙に短く書く。

「落とす」「出したつもり」「ぼーっと」

 ミナが言った。

「私、頭悪いだけだよ。だから……」

 言い切れない。唇が震えるのを噛んで止める。

 静はその噛み方を見て、言葉を選ぶように息を吸った。

「頭が悪い、で片付けると楽だよな。理由が一個で済む」

 ミナが顔を上げる。目が硬い。

「……だって、そうでしょ。努力できない。続かない。気合いがない」

「気合いがある奴でも、できないことはある」

「それ、慰め?」

「慰めじゃない。現実の分類だ」

 静はペンを置いた。

「ミナ。『やる気がない』って言われるのは、本人にとっても周りにとっても説明が簡単だ。だけど簡単な説明は、対策を奪う」

 ミナは黙って聞く。指が鞄の紐をこすり続けている。

 静は続けた。

「お前が今言ったのは、全部『意思』じゃなくて『仕組み』の話に聞こえる。記憶の出し入れ、注意の切り替え、段取り。そこに癖があると、努力の方向がズレる」

 ミナが鼻で笑った。

「癖って……私、変ってこと?」

「変かどうかは知らない。困ってるなら、困り方に名前がつくかもしれない。名前がつけば、道具が選べる」

 陸が小さく頷く。

「道具って、チェックリストとか」

「それも。時間の見える化、持ち物の固定、提出のルール化。あと、場合によっては医療も」

 ミナの肩がわずかに強張る。

「……病院、行ったら終わりじゃん。『障害』ってことになる」

 静は否定しなかった。

「『終わり』になる家庭もある。だから、そこは急がない」

 ミナが食い気味に言う。

「じゃあ、行かない」

「行かない、も選べる。代わりに、今のまま学校の評価で殴られ続ける」

 ミナの瞳が揺れる。殴られる、という言葉が刺さったのが分かる。けど、反論する言葉が出ない。

 静は声を落とした。

「ミナ。自分で自分を殴るな」

 ミナが固まる。

「……殴ってない」

 静は机の上の紙を指で押さえた。

「『頭悪い』『気合いない』って言葉は、自分に向けた殴り方だ。周りが言う前に自分で言って、先に痛みを取ろうとする」

 ミナの口が開きかけて閉じる。喉が鳴る。

 陸が、言い方を探しながら言う。

「ミナ、さ……自分で言うと、他人に言われても平気になるって思ってんじゃない?」

 ミナが睨むように陸を見る。

「……何それ。ムカつく」

「ムカつくなら、図星だろ」

「……うるさい」

 静が二人の間に声を入れる。

「陸、煽るな。ミナ、怒っていい。怒る相手を間違えるな」

 ミナは椅子の座面をきゅっと握った。しばらくして、絞り出すように言う。

「……私、ほんとは、ちゃんとしたい」

 その一言で、部屋が静かになる。陸のペン先が止まった。

 静は頷くだけで、すぐ次に進めた。

「じゃあ、ちゃんとするための手を増やす。『根性』じゃなくて、『仕組み』で」

 ミナが目を擦りそうになって、手を止めた。擦ったら負けだとでも思ったみたいに。

 静は紙を裏返して、新しく線を引く。

「明日から。まず一個。スマホのアラーム、二つ使え」

「二つ?」

「一つは『準備開始』。もう一つは『出発』。間に何も挟むな。出発アラームが鳴ったら、途中でも靴を履け」

 ミナが眉を上げる。

「途中でも?」

「途中でも。中途半端が怖いなら、永遠に出られない」

 ミナは小さく息を吐く。笑いとも溜息ともつかない。

「……雑」

「雑でいい。雑で動けるなら勝ちだ」

 陸が記録用紙に書きながら言う。

「それ、三上にも使えそう」

「使える。特性が近いならな」

 ミナが俯いたまま言う。

「……私、みんなみたいにできない。だから、就職とか、無理だと思ってた」

 静は即答しない。代わりに、机の端に置いてある講座の案内を指先でずらした。最小限の告知。担任推薦制。試行一回。

「就職準備講座、ミナを一人目にした。理由、分かるか」

 ミナが顔を上げる。

「……私、問題児だから?」

「問題児は、学校が隠す。推薦しない。だから逆だ。お前は、現場での『詰み方』が想像できる」

 ミナの眉が寄る。

「詰み方って……」

「遅刻一回で信用が落ちる。提出漏れ一回で怒鳴られる。『分かってるのにできない』が続くと、自分が壊れる」

 ミナの指が、鞄の紐を離した。手の置き場がなくて膝の上に落ちる。

 静は言葉を少しだけ柔らかくした。

「壊れる前に、壊れ方の癖を知る。知ったら、守り方が選べる。就職するか、進学するか、その前に」

 ミナが小さく頷く。

「……守り方」

 静は頷いた。

「守り方。『頑張り方』じゃない」

 陸が顔を上げる。

「でも、教頭に『成果』出せって言われてるんですよね。講座、一回だけだし」

 静の目が細くなる。言い返す言葉を飲み込む代わりに、机の引き出しを開け、封筒が入っていない空間を一瞬見て閉めた。鍵監査。個人保管禁止。移管。まだ終わっていない火種。

「成果は出す。数字にできる形で」

 静はミナに向き直る。

「ミナ。講座に出るなら、条件がある」

「……何」

「遅刻ゼロを約束しろ、とは言わない。現実的じゃない。代わりに、遅刻しそうになった時の連絡を、手順にする。電話の台詞も決める」

 ミナが驚いた顔をする。

「台詞まで?」

「台詞があると、焦っても言える。現場は焦る」

 陸が頷きながら言う。

「それ、俺も欲しい」

「お前は後でだ」

 ミナの口元が少しだけ緩む。すぐに戻るが、さっきより息がしやすそうだ。

 静は紙に短い文章を書いて、ミナに見せた。

「『おはようございます。高瀬です。体調ではなく、電車の遅れで到着が遅れます。到着予定は○時○分です。授業の指示をください』。これを読むだけ」

 ミナは紙を見つめた。何度か目でなぞって、呟く。

「……授業の指示をください」

「そう。謝り続けると、相手は怒り続ける。用件にする」

 ミナが紙をそっと受け取った。

「……静先生って、冷たいよね」

「冷たい方が守れることがある」

 ミナが小さく笑って、すぐ真顔に戻る。

「……私、変わるかな」

 静は首を傾けた。

「変わる、じゃない。やり方を変える。結果は後からついてくるかもしれないし、ついてこないかもしれない」

 ミナが唇を噛みそうになって、やめた。代わりに、短く言う。

「……やる」

 静は頷いた。

「じゃあ、講座の参加者一人目、確定。担任に理由を出す。陸、今日のミナの困りごと、箇条書きじゃなく文章で。黒川が読んでも突っ込めないように」

「……はい」

 陸がペンを走らせる。ミナはそれを見て、少しだけ背筋を伸ばした。

 扉の外で、誰かが立ち止まる気配がした。職員室の方から、低い声が漏れる。「進路室、鍵の件……」。すぐに遠ざかる。

 静は扉の方を見ずに言った。

「ミナ。明日、講座の事前面談をする。浅野工房に出す『候補理由』も一緒に作る。お前の言葉で」

 ミナが立ち上がる。紙を胸に押さえる。

「……分かった」

 扉に手をかけ、振り返る。

「静先生」

「何」

 ミナは一瞬だけ迷ってから言った。

「……『怠け』って言われたら、どう返せばいい」

 静は少し間を置いた。答えを飾らないための間だった。

「返さなくていい。やることをやれ。……ただ、心の中で言え。『これは意思の問題じゃない。手順の問題だ』って」

 ミナの喉が動く。頷いて、出ていく。

 扉が閉まると、陸が息を吐いた。

「今の、ミナ……泣かなかった」

「泣く暇を与えなかっただけだ」

「それでも、なんか……」

 静は名簿の次の空欄を指でなぞった。試行一回。参加者を増やすには、担任を動かす理由が要る。

「次は三上だ。担任に呼ぶ。……陸、放課後、三上が来たら鞄の写真、撮れ。本人の許可取って」

「了解」

 静は机の上の電話に目をやった。担任に連絡を入れるタイミングを測る。

 呼び出しのベルを押す前に、静は小さく息を整えた。数字の学校の言葉に翻訳する作業が始まる。


 翌朝、進路室の扉が開く前に、ノックが二回鳴った。

「……失礼します」

 三上ユウトが入ってくる。鞄を両手で抱えて、昨日より早い時間に来ているのに、息が上がっていた。

 陸が机の横でスマホを構える。

「写真、いい?」

 三上は頷いた。頷き方が硬い。

 鞄の中身は昨日より整っている。黄色いファイルが一番上に見える。だが、ファイルの端が折れていた。

 静が言う。

「昨日のルール、守ったな」

「……はい」

「じゃあ撮る」

 シャッター音が一回。

 静は三上の顔を見た。目の下に薄い影がある。

「寝てない?」

「……寝たっす」

 声が遅れて出る。嘘だと決めつけるには弱いが、余裕がない。

 静は椅子を示した。

「座れ。五分で終わらせる」

 三上が座った瞬間、スマホが震えた。三上のポケットから。彼は慌てて取り出して画面を見て、指が止まる。

 陸が覗き込まないように視線を外す。

 静が言う。

「出ろ」

「……父です」

「出ろ。ここで」

 三上は一瞬迷ってから、通話ボタンを押した。

「……はい」

 スピーカーにしなくても、声は漏れた。低くて、短い、刃物みたいな声。

『お前、また忘れたって?』

 三上の喉が鳴る。

「……いや、忘れてない。今日は、ちゃんと——」

『昨日の担任からの電話、何だ。提出物出せない? 遅刻? お前さ、いい加減にしろよ』

「……やってる、やってるんだって」

『やってる奴ができねえわけねえだろ。甘えだ。ゲームはできるんだろ?』

 三上の目が泳ぐ。反論が口の中で絡まって出てこない。

『病気とか言い出すなよ。病院だの特性だの、そういうのに逃げるな。お前は怠けてんだ』

 静が手を伸ばし、三上の机の上にメモ用紙を置いた。そこに短く書く。「用件」「時間」。

 三上はそれを見て、息を吸った。

「……今、学校。進路室。あとで話す」

『逃げるな。今日、帰ってきたら——』

 三上は通話を切った。切り方が乱暴で、画面が一瞬白く光った。

 沈黙。

 陸が口を開きかけて、閉じた。

 三上はスマホを握ったまま、指が震えているのをごまかすようにポケットに押し込んだ。押し込みきれず、また出して、押し込む。

 静が言う。

「父親、強いな」

 三上は笑うような音を出した。

「……強いっすよ。正しいっすよ。俺ができないのが悪い」

 静は否定しない。代わりに、机の端を指で軽く叩いた。

「父親が正しいかどうかは置いとく。現実として、家の協力は薄い。なら、学校の中でできることを増やすしかない」

 三上は顔を上げた。

「……学校も、同じっす。担任も」

 静は頷いた。

「担任、呼んでる。今ここに来る」

 三上の表情が固まる。

「……やだ」

「逃げるなら今だ。逃げたら、担任は『やっぱり怠け』で終わる」

 三上は椅子の脚を鳴らしそうになって堪えた。肩が上がり、呼吸が浅い。

 ノックが三回。返事を待たずに扉が開く。

 担任の吉岡が入ってきた。腕に教材を抱えたまま、目だけで部屋を見渡す。

「桐生先生、時間ないんで手短に」

 静は立たずに言う。

「三上の件。『怠け』で処理する前に、手を打つ。昨日、鞄の整理を一緒にした。今日は朝来て、維持できてる」

 吉岡が黄色いファイルを見る。鼻で短く笑った。

「ファイルで人生変わるなら苦労しませんよ」

 三上が小さく身じろぎする。言い返したいのに、声が出ない。

 静が言う。

「変わらないなら次をやる。三上、提出物が出せない理由が『やってない』じゃない可能性がある」

 吉岡の眉が上がる。

「またその話ですか。最近流行りなんですかね、特性とか。うちのクラス、みんな大変なんですよ。三上だけ特別扱いできない」

 静は言葉を切った。

「特別扱いじゃない。必要な手当てだ」

 吉岡が肩をすくめる。

「じゃあ聞きますけど。検査でもして診断でも出たら、学校として何するんです? 配慮? 評価? 進学? 就職? 責任、誰が取るんです」

 静の目が一瞬だけ細くなる。

「責任の話なら、学校はいつも逃げる」

 吉岡がピクリとした。

「言い方」

 静は引かなかった。

「黒川教頭が求めてるのは『欠席減』『遅刻減』『内定』だ。三上は今のままだと全部落ちる。だから手を打つ」

 吉岡が吐く息が荒くなる。

「教頭を出さないでくださいよ。あの人、数字しか見ない。うちのクラスの遅刻が増えたら、俺が詰められるんです」

 三上が小さく呟いた。

「……俺のせいで」

 静が即座に言う。

「今は黙れ。話が逸れる」

 三上の口が閉じる。飲み込む音だけがした。

 静は吉岡に紙を差し出した。昨日から作っている記録の抜粋だ。落とす、出したつもり、段取りが飛ぶ。具体例。朝の動き。

「三上の困りごと。『怠け』なら、こんな偏り方はしない」

 吉岡は紙を見て、すぐ戻した。

「偏り? 偏ってるのが怠けなんじゃないですか。嫌なことから逃げる。好きなことだけやる。典型です」

 静が言う。

「好きなことも落としてる。鍵、スマホ、提出物。嫌なものだけじゃない」

 吉岡は一瞬だけ言葉に詰まる。それでもすぐ立て直した。

「でも結局、出せてない。遅刻してる。評価は変わらない」

 静が言う。

「評価を変えろとは言ってない。手順を変える。例えば、提出の締切を『朝回収』から『昼休み回収』にする。回収箱を決める。連絡はテンプレで」

 吉岡が眉をひそめる。

「そんなの、他の生徒が不公平って言いますよ。『三上だけ』って」

 静は淡々と返す。

「不公平と言われたら、担任が説明する。『全員に使える仕組み』として。回収箱は全員分作ればいい」

 吉岡が笑う。

「回収箱? うちの教室に? 誰が管理するんです? 忙しいんですよ」

 静は視線を逸らさない。

「忙しいのは分かる。だから、三上に管理させる。提出物を入れる箱を置いて、毎時間の終わりに担任に渡す。責任を持たせる」

 三上が顔を上げる。

「……俺が?」

 吉岡が即座に言う。

「無理でしょ。自分の提出もできないのに」

 その言葉で、三上の首が縮む。肩が落ちる。目の焦点が机の一点に吸い込まれていく。

 静が言う。

「無理かどうかは試す。試さないなら、何も変わらない」

 吉岡が腕時計を見る。

「試す時間がない。受験も就職も迫ってる。今さら矯正してる余裕、ないです」

 静の声が少し低くなる。

「余裕がないから、今やる」

 吉岡はため息をつき、扉の方へ体を向けた。

「桐生先生、理想は分かります。でも現場は回らない。俺はクラスを回す。三上は……本人がやる気出すしかない」

「やる気じゃない」

 静が言うと、吉岡は振り返った。

「じゃあ何ですか。病気ですか。免罪符ですか」

 三上が椅子から立ち上がりかけた。膝が机に当たって、鈍い音がした。

「……俺、免罪符とか……」

 言葉が続かない。喉が詰まって、息だけが漏れる。

 静が手を伸ばして、三上の袖を軽く押さえた。座らせる力ではない。立ち上がり切る前に、止まれる程度の圧。

 静は吉岡に言う。

「免罪符じゃない。対策のための情報だ。『できない』を放置して、『できないまま叩く』のが一番楽だから、皆そっちに流れる」

 吉岡の表情が硬くなる。

「桐生先生、そういう言い方すると、俺が悪者みたいだ」

 静は即答した。

「悪者じゃない。仕組みが悪い。……でも仕組みを動かすのは人だ」

 吉岡は一拍置いて、言い捨てるように言った。

「分かりました。じゃあ、三上が遅刻ゼロ、提出漏れゼロ、二週間続けたら考えます」

 三上の顔が白くなる。

 静が言う。

「二週間ゼロは現実的じゃない。達成できない条件を出すな」

 吉岡は肩をすくめた。

「じゃあ、何なら達成できるんです? 俺、基準が欲しいんですよ。教頭に報告する数字が」

 その言葉の後ろに、黒川の影が立つ。数字。報告。責任。

 静は短く言った。

「遅刻の連絡ができた回数。提出物の『提出できた率』。ゼロじゃなく率で見る。今週は五割でもいい。来週六割にする」

 吉岡が鼻で笑う。

「甘い」

 静は言い返す。

「甘くない。現実的だ」

 吉岡は扉に手をかけた。

「時間です。授業戻るんで。……三上、ちゃんとしろよ。周りに迷惑かけるな」

 三上は返事をしない。できない。口が動かない。

 扉が閉まった瞬間、部屋の空気が落ちた。

 陸が小さく言う。

「……やばい。今の、刺さった」

 三上は笑おうとした。口角が上がらない。代わりに、息が震える。

「……俺、無理っす」

 静が言う。

「何が」

「全部。……俺、なんでできないんだろ。やろうとしてんのに。……やろうって思うのに、気づいたら終わってて。……で、怒られて。……また、同じ」

 言葉が途切れて、手が額に当たる。髪を掴む。爪が頭皮に食い込む。

 陸が立ち上がる。

「おい、三上——」

 静が陸を手で制した。

「触るな。今、触ると崩れる」

 三上の呼吸が速くなる。椅子の背がきしむ。視線が定まらないまま、床を探すように揺れる。

「……病気とか、特性とか、分かんないっす。そんなの、言ったら負けじゃないっすか。父親にも、担任にも……」

 静は低い声で言った。

「負けじゃない。けど、勝ちにもならない。だから『武器』にする」

 三上が首を振る。

「武器って……俺、武器なんか」

 静は机の引き出しを開けかけて、止めた。封筒のない引き出し。守れないものがある感覚が、喉の奥に残る。

 それでも静は言う。

「武器は作る。今あるのは、困り方の癖だ。それを言語化して、手順に落とす。担任が嫌なら、担任を飛ばすルートもある」

 陸が息をのむ。

「飛ばすって……」

 静が言う。

「学年主任、養護、スクールカウンセラー。校内の順番を変える。家庭にいきなりぶつけない。……ただし、どれも時間がかかる」

 三上が顔を上げる。目が赤いのに、涙は落ちない。

「……時間、ないっす」

 静は頷く。

「ない。だから、今日から数字を作る。遅刻の連絡、テンプレで一本。提出は率。鞄は写真で記録。できた日を積む」

 三上の肩が少しだけ下がる。息が、ほんの少し長くなる。

 陸が静に目で尋ねる。どうする、と。

 静は名簿を引き寄せた。講座の「候補理由」提出。試行一回。学校が飲む言葉。黒川に刺さらない言葉。

「三上」

「……はい」

「今日、放課後また来い。お前の『崩れ方』を、崩れる前に止める手順を作る。家には今すぐ言わない。学校の中で数字を作ってからだ」

 三上が唇を噛み、頷いた。

「……分かりました」

 静は陸に言う。

「陸、吉岡にメール。『提出率の記録をこちらで取る』って。担任の仕事を増やさない形にする」

「……了解」

 陸がキーボードを叩き始める。静は机の上の電話を見た。次に動かすのは、校内の別ルートだ。

 そのとき、廊下から放送が入った。

『進路指導室、鍵の管理について。本日放課後、確認に伺います』

 静の指が一瞬止まる。

 三上が顔を上げた。

「……鍵?」

 静は淡々と立ち上がり、扉の鍵を確かめた。

「今日、面倒が増える。だから余計に、手順で守る」

 静は電話の受話器を取り、番号を押し始めた。呼び出し音が鳴る。

「学年主任、出てください。桐生です。……三上の件で、今すぐ相談したい」


 放課後の進路指導室は、蛍光灯の音がやけに大きかった。

 静は机の上に、学校の封筒ではない簡素なパンフレットを並べた。市の相談窓口、若者サポートステーション、発達相談の予約案内。どれも文字が多く、読むだけで疲れそうな紙だ。

 三上ユウトは椅子に座って、パンフレットを触らずに見ていた。黄色いクリアファイルだけ、膝の上に抱えている。

 陸は壁際で、記録用紙を整えている。目線は落としているが、耳は開いていた。

 静が言う。

「さっき学年主任と話した。今日中にできることと、できないことが分かった」

 三上が喉を鳴らす。

「……できないことの方が多いっすよね」

「多い。だから順番を決める」

 静はパンフレットを一つ、三上の前に滑らせた。

「まず、校内。養護教諭とスクールカウンセラーにつなぐ。診断は今すぐじゃない。困りごとの整理と、生活の手順の作り直し」

 三上は紙を見たまま言う。

「カウンセラーって、話すやつっすよね。俺、うまく喋れない」

「喋れないなら、紙でいい。陸が今日の記録を文章にしてる。お前はチェックするだけでいい」

 陸が小さく頷く。

「三上、俺、盛らない。嫌なら消す」

 三上は一瞬だけ陸を見る。礼も反発もない目で、でも視線は逸らさなかった。

 静は次の紙を出す。

「次、校外。市の発達相談。予約制で、最短でも一か月先」

 三上が顔を上げる。

「……一か月」

「現実だ。今日行って明日解決、はない」

 三上の指が黄色いファイルの角を折りかけて、やめた。

「じゃあ意味ないじゃん」

 静は即答した。

「意味はある。『お前が怠けかどうか』の議論を止める材料になる」

 三上が眉を寄せる。

「材料?」

「家と担任と、教頭の前で話が進む材料。困りごとが整理されて、対策が積み上がって、必要なら専門家の意見も入る。そうすると『気合い』だけの話から外れる」

 陸が小声で言う。

「教頭、材料好きだもんな……」

 静が陸を一瞥する。

「声に出すな」

 三上は苦笑いみたいに口を引いた。

「……でも父親、行かせないっす」

 静は頷いた。

「そこが一番硬い壁だ。未成年の受診は親の同意が必要な場合がある。窓口も、保護者同伴を前提にしてることが多い」

 三上の肩が落ちる。

「ほら。詰み」

 静はパンフレットを指で押さえた。

「詰みじゃない。ルートが変わる」

「どうやって」

「まず学校内で記録を作る。遅刻の連絡、提出率、忘れ物の頻度。『できた日』も『できなかった日』も残す」

 三上が言う。

「俺、記録とか、余計に無理」

 静は首を振らない。

「お前がやるのは一個だけ。毎日、写真一枚」

 陸がスマホを持ち上げる。

「鞄の中?」

「鞄の中と、提出ファイルの中身。朝か放課後。どっちか」

 三上はしばらく黙って、頷いた。

 静はさらに現実を積む。

「それでも父親が動かない場合、カウンセラーから家庭に連絡してもらう。『医者に行け』じゃない。『学校生活の困りごと相談』として」

 三上の目が細くなる。

「父親、キレますよ」

「キレる。キレたら、次の手だ。母親がいるなら、母親から。いないなら、親戚。いないなら、本人同意でできる範囲の支援機関へ」

 静は紙束の端を揃えた。

「ただし、どの手も時間がかかる。途中で折れる可能性もある。そこは約束できない」

 三上は机を見つめたまま、唇を動かした。

「……結局、俺が頑張るしかない」

 静は言い換えた。

「頑張り方を変えるしかない」

 三上が小さく笑う。

「言い方だけじゃないっすか」

「違う。根性は尽きる。手順は残る」

 静は机の上のメモ用紙を裏返し、短いチェック欄を三つだけ書いた。丸がつけられる程度の。

「今日、これだけ。『連絡できた』『提出箱に入れた』『写真撮った』。三つ全部じゃなくていい。ゼロにしない」

 三上がその紙を見て、目を細める。

「……ゼロにしない」

「ゼロが続くと、自己嫌悪で動けなくなる。そこは止める」

 三上は息を吸って、吐いた。さっきより長い。

 扉がノックされた。間髪入れずに開く。

 学年主任の井口が顔を出す。背広の袖をまくっている。忙しさがそのまま歩いてきたような人だった。

「桐生。時間、五分だけな」

 静が立ち上がる。

「三上もいる。話、ここで」

 井口は三上を見る。視線が値踏みではなく、確認のそれだった。

「三上。今朝、担任と揉めたって聞いた。……お前、学校来てる時点で偉い、とは言わん。けど、今ここに座ってるのは事実だ」

 三上が目を泳がせる。

「……偉くないっす」

 井口は短く頷く。

「偉いって言葉は、便利に逃げる時もあるからな。じゃあ現実。担任の吉岡は動かん。忙しい。黒川教頭も、配慮って言葉を嫌う」

 静が口を挟む。

「だから数字で出す。提出率と連絡率」

 井口が頷く。

「それなら通る可能性はある。『配慮』じゃなく『指導の工夫』として出せ」

 三上が小さく言う。

「……言葉遊び」

 井口が即答する。

「学校は言葉で動く。悔しいが、そうだ」

 静が三上に目を向ける。

「その言葉遊びで、お前の首が繋がるなら使う」

 井口は静の机の上のパンフレットを見る。

「外部相談、予約取るのか」

「取る。最短一か月。親の壁がある」

 井口が眉を寄せる。

「親が反対なら厳しいな」

 静は引かなかった。

「厳しい。でも、学校内の支援会議は組める。養護とカウンセラーと、必要なら生徒指導も。黒川には『欠席遅刻対策』で通す」

 井口が小さく笑う。

「お前、相変わらず危ない綱渡りだな」

 静の声は淡々としている。

「渡らないと落ちる生徒がいる」

 井口は三上に向き直った。

「三上。先生たちが動くには、お前の協力がいる。記録。嘘つかない。来れない日は来れないで連絡。できるか」

 三上の喉が鳴る。

「……できます、って言いたいけど」

 井口は遮らない。待つ。

 三上は拳を握ってから開いた。

「……やります。ゼロにしない、なら」

 井口が頷く。

「よし。桐生、俺から養護に話通す。カウンセラー枠も押さえる。……ただ、教頭に見つかったら面倒だ。『特別扱い』って言われる」

 静が言う。

「見つかる。だから先に『遅刻減プロジェクト』として報告する。個人名は最小限」

 井口が肩をすくめる。

「黒川、嗅ぎつけるぞ」

「嗅ぎつけても、数字が出てれば止めにくい」

 井口は時計を見て、扉に手をかけた。

「五分終わり。桐生、書類まとめとけ。後で俺のところに持って来い」

「了解」

 井口が出ていく。扉が閉まると、部屋の中が少しだけ軽くなる。

 三上はしばらく黙っていた。パンフレットを指先でなぞり、文字を追いかけているふりをする。目が追いついていない。

 静が言う。

「今ので、状況は劇的には変わらない」

 三上が小さく笑う。

「……知ってます」

「明日も遅刻するかもしれない。提出も落とすかもしれない。父親は怒る。担任は冷たいままかもしれない」

 三上の指が止まる。

 静は続ける。

「それでも、お前が『怠け』一本で処理されるのは止める。止めるために、手順と記録を作る」

 三上が顔を上げた。目が濡れているのに、落ちない。

「……先生、俺のこと、壊れてるって思ってないんすか」

 静は少しだけ間を置いた。言葉を選ぶというより、余計な嘘を削る間だった。

「壊れてるなら、ここに来ない。来れてる。来た。やった。……壊れてない」

 三上の肩が、ふっと落ちた。息が漏れる。笑いにも泣きにもならない音。

「……俺、壊れてなかった」

 陸が目線を上げる。声を出さずに、頷く。

 静は机の上のチェック紙を三上の前に置いた。

「今日、帰る前に丸を一個つけて帰れ。何でもいい。写真でも、連絡の練習でも」

 三上は紙を手に取った。ペンを握る手が少し震える。丸を一つ、ゆっくり書いた。

 静が言う。

「次。家にどう出るか、戦略を作る。いきなり『特性』は言わない。まず『遅刻を減らす手順を学校とやってる』から入る」

 三上が頷く。

「……父親、納得しないかも」

「納得しなくてもいい。殴られない距離を作る」

 陸が小さく息を呑む。

「距離って……」

 静は陸を見た。

「言葉の距離。時間の距離。場合によっては人の距離だ。……現実の話だ」

 廊下で足音が止まり、短くノックが鳴った。

「進路指導室、鍵の確認です」

 静の視線が扉に向く。鍵監査の担当だ。

 静は立ち上がり、三上に言う。

「今日はここまで。鞄の写真、忘れるな。家に帰る前に」

 三上が立ち上がる。黄色いファイルを抱え直す。

「……明日も、来ていいっすか」

「来い。ただし、やること持って来い」

 三上は短く頷き、陸に目を向けた。

「……写真、頼む」

 陸が即答する。

「任せろ。盛らない」

 三上が扉へ向かう。その背中が、朝より少しだけ真っ直ぐだった。

 静は扉の鍵を開け、監査担当を迎えるために一歩前へ出る。

「どうぞ。……鍵は、ここです」

 監査の目が部屋の中をなぞる。机。棚。引き出し。封筒のない空白。

 静はその視線を受け止めたまま、次にどこを守るかを考えていた。講座の試行日まで、もう時間がない。


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