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第23話:推薦の面接
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第3進路室のドアが、控えめに二回叩かれた。
「開いてる」
桐生静が言うと、隙間から顔だけ覗く。七瀬アオだった。制服の袖口を握りしめている。
「……失礼します」
入ってきたのに、椅子の前で止まる。座るかどうか迷って、結局立ったまま、机の端を見つめた。
静はプリントの山を横にずらして、空いたスペースに白紙を一枚置いた。
「座って。立ったままだと、面接も立ったままになるぞ」
アオの肩が小さく跳ねる。ゆっくり椅子に腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。指先が白い。
隣の机では、相沢陸がファイルに紙を挟み直していた。気配を消すようにしているが、ペン先だけは止まらない。
静が言った。
「推薦面接、いつ」
「……来週の、火曜」
「時間」
「九時半」
「場所」
「短大の……本館の、二階」
静は頷き、白紙に三つ丸を書いた。
「今の、言えたな」
アオは息を吸って、吐く。目だけが静の手元を追う。
「言えたのは、事実だからです」
「面接も事実を言う場所だよ」
「……でも、聞かれるじゃないですか。“あなたは何ができますか”って」
その言い方が、まるで罰ゲームの設問みたいだった。
陸が小さく顔を上げたが、口は挟まない。
静はペンを置いた。
「言葉が出ないんだろ」
アオの喉が動く。頷きが、遅れて来た。
「頭の中では……あるんです。言いたいこと。いっぱい。なのに、口が……」
静は机の端にあるタイマーを取り、電源を入れた。短い電子音。
「じゃあ、現実の話する。面接は待ってくれない。沈黙は“考えてます”じゃなくて、“答えられません”に処理される」
アオの手がきゅっと閉じる。
「分かってます」
「分かってるなら、対策する。根性論はやらない」
静は白紙をアオの前へ滑らせた。
「今日やるのは、喋る練習じゃない。喋れなくても点が落ちにくい形を作る」
アオが眉を寄せる。
「そんなの……あるんですか」
「ある。面接官も人間だ。情報があれば判断できる。ないと落とすしかない」
静は紙に大きく一行書いた。
「“一文だけ言えれば合格ライン”」
アオがその文字を見て、ほんの少し顔を上げた。
「一文……」
「長文は要らない。噛んでもいい。詰まってもいい。最初の一文だけ、刺す」
陸がペン先でメモを取りながら、小声で言う。
「刺すって、物騒」
静は陸を見ずに返す。
「推薦は戦争じゃないけど、席は有限だ」
その言い方に、アオの背中が硬くなる。静は続けた。
「七瀬。志望理由書、持ってきた?」
アオは鞄を開け、クリアファイルを出した。角が揃っている。折り目ひとつない。
静は受け取り、目を走らせる。丁寧な字。内容も悪くない。だが、どこか“正しい文章”で、本人の温度が見えない。
「これ、先生に添削された?」
「国語の……吉岡先生に」
静の指が、文末の言い回しで止まる。いかにも模範解答の匂い。
「吉岡は“無難”に寄せるからな」
アオが小さく首をすくめる。
「無難じゃ、だめですか」
「無難は落ちないための文章。推薦は、取るための面接」
アオの目が揺れる。静は紙を返し、別の紙を一枚出した。
「七瀬が“前に出られない”のは欠点じゃない。けど面接では欠点として処理される。だから、先にこちらから処理する」
アオが口を開きかけ、閉じる。
静は言葉を待たず、質問を投げた。
「短大で何を学びたい」
「……保育、です」
「なんで保育」
アオの唇が動く。音にならない。目が泳ぐ。静はタイマーを見た。十秒。十五秒。
陸が思わず助け舟を出しそうになって、静に目で止められる。
静は淡々と告げる。
「今の沈黙、面接だとマイナス。だから、沈黙の“型”を作る」
「型……」
「“すみません、整理します”って先に言う。沈黙の理由を言語化する。それだけで、相手は待てる」
アオはそのフレーズを口の中で転がすように、唇を動かした。
「……すみません、整理します」
声は小さいが、出た。
静は頷く。
「それ。次」
静は紙に二つ目の一行を書いた。
「“結論だけ先に言います”」
「……結論だけ、先に」
「面接官は結論を聞きたい。理由は後でいい。詰まるなら、結論→理由一個→具体例一個。以上」
アオの視線が紙に固定される。覚えるように。
静は尋ねた。
「保育、なんで」
アオは一度息を吸った。さっきより深い。
「……結論だけ、先に言います」
静は目を細める。促さない。
「……子どもが、安心できる場所を作りたいからです」
言い終えた瞬間、アオの肩が落ちた。自分で自分の声に驚いたみたいに、目を瞬いた。
静はすぐに追撃しない。紙に丸をつけるだけ。
「今の一文、合格ライン」
アオが、そっと笑いそうになって、でも堪えた。唇の端が震える。
陸が小さく言った。
「出たじゃん」
アオは陸の方を見て、慌てて視線を戻した。頬が少し赤い。
静が言う。
「理由一個。いける?」
アオは頷いた。頷きは小さいが、さっきより速い。
「……小学校のとき、保健室登校で。私、ずっと……人の声が怖くて」
静はペンを止めた。アオはしまったという顔をして、言葉を切る。
「言わなくていいですか……そういうの」
静は首を横に振る。
「言っていい。ただし、面接で“重さ”を見せるときは、必ず“今できてること”とセット」
アオは唾を飲んだ。
「今……できてること」
「例えば。欠席は?」
「……今年は、ゼロです」
「遅刻は」
「二回。電車が止まって」
「提出物は」
アオは少し考えてから、静を見る。
「……出してます。全部。遅れても、次の日には」
静は頷き、紙に短く書く。
「欠席0/提出率高」
陸が顔を上げた。
「そういうの、数字にして言うんだ」
静は頷く。
「“頑張ってます”は誰でも言える。数字は嘘つかない。学校も数字が好きだしな」
その言い方に、部屋の空気が少しだけ冷えた。
廊下の向こうで、職員室の電話が鳴り続けている。誰かが早足で通り過ぎ、紙が擦れる音がした。
静の机の端には、鍵監査の紙がまだ置かれている。赤い付箋が貼られたまま。
陸がその付箋を見て、目を逸らした。
静はアオに視線を戻す。
「七瀬。面接で言うのはこうだ。“昔は苦手があった。今は欠席ゼロで通えている。提出も守れている。だから現場での継続ができる”」
アオはゆっくり頷いた。
「……継続」
「そう。保育は派手な才能より、毎日来る力が要る」
アオの指が、膝の上で開いたり閉じたりする。
「でも……私、前に出るのは……」
静は遮らない。代わりに問いを変えた。
「前に出ないと、保育士になれないと思ってる?」
アオは答えに詰まった。静は机から小さなメモ帳を取り、アオに差し出した。
「現場は、前に出る人も必要だし、後ろで見てる人も必要。七瀬は“見てる”側の強みがある」
アオが目を伏せたまま、ぽつりと言う。
「……それ、面接官に伝わりますか」
静は即答しない。数秒、沈黙を置く。沈黙の使い方を、静自身が示すみたいに。
「伝わる形にする。観察の具体例、出せる?」
アオはメモ帳を受け取り、指先で表紙を撫でた。
「……中学のとき、部活の後輩が……笑ってるのに手が震えてて。帰りに、声かけたら……家で、色々あって」
言いながら、アオの声が細くなる。静は頷くだけで、話を奪わない。
「それで」
「……先生に、つなげました。私ができるの、それくらいしか」
静が言う。
「それができるやつが少ない。面接で言える」
アオが顔を上げた。目が少し潤んでいるが、瞬きで押し戻す。
「……泣いたら、落ちますか」
静は首を横に振る。
「泣いたら落ちるんじゃない。泣いて何も言えなくなると落ちる」
アオは小さく息を吐いた。
「……じゃあ、泣きそうになったら」
静は紙に三つ目の一行を書く。
「“一度、水をいただいてもいいですか”」
陸が笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻った。
「それ、言っていいんだ」
「言っていい。許可を取ればいい。勝手に黙るな」
アオがその一文を、声に出して練習する。
「……一度、水を、いただいてもいいですか」
静はタイマーを止めた。
「よし。ここまでで、七瀬の“逃げ道”は三つ作った。整理します、結論から、水をください」
アオはメモ帳に、その三つを丁寧に書き写し始めた。字が揺れない。線がまっすぐだ。
静は机の端の書類に目をやり、すぐ戻す。赤い付箋が、視界の隅でずっと主張している。
「七瀬。面接練習、明日も来い。昼休み、十分でいい」
アオがペンを止める。
「……十分快いですか」
「十分で変える。長いと疲れて、また出なくなる」
アオは頷いた。頷きながら、鞄の中を探り、折れないようにファイルを戻す。
ドアの外で、誰かが低い声で話している。
「……進路室の封筒の扱い、教頭が気にしてる。鍵、ちゃんと……」
陸の肩がぴくりと動いた。静は聞こえないふりをして、アオに言う。
「最後。面接官が一番聞くやつ。答えを作る」
アオが身構える。
「“うちで学ぶ理由は”」
アオの唇が、また止まりかける。静はすぐに言った。
「結論から」
アオは目を閉じて、短く頷く。
「……結論だけ、先に言います」
静が見守る。
「実習先が多いからです。現場で……自分が続けられるか、確かめたいです」
言い切ったあと、アオはゆっくり目を開けた。静と目が合う。逃げない。
静は紙に丸をつけた。
「今の、いい。綺麗じゃないけど、現実的だ」
アオは小さく笑って、すぐ真顔に戻る。
「……現実的、って、褒め言葉ですか」
静は椅子にもたれかけ、短く答える。
「推薦は特に。夢だけだと落ちる。続ける理由があるやつが残る」
アオはメモ帳を閉じ、胸に抱えた。
「明日……来ます。十分快」
「十分でいい」
アオが立ち上がり、頭を下げる。
「……ありがとうございました」
ドアに手をかけたところで、静が呼び止めた。
「七瀬。面接当日、もし固まったら最初の一文だけ言え。あとは、こっちが何とかする。推薦書も、必要なら書き直す」
アオは振り返り、ほんの少し迷ってから言った。
「……先生、怒られませんか」
静の視線が、机の赤い付箋に一瞬だけ落ちる。
「怒られるかどうかは、あとで考える。今は席を取りに行く」
アオは唇を結び、もう一度だけ頷いた。ドアが静かに閉まる。
残された部屋で、陸が息を吐いた。
「……出たな、言葉」
静はプリントの山を揃え直しながら言う。
「出た。だから次は、潰されないように形にする」
陸が机の端の付箋を指でつつく。
「これ、今日中?」
静はタイマーを取り直し、また電源を入れた。
「今日中。黒川の耳に入る前に、こっちで筋を通す」
廊下のざわめきが近づき、職員室の扉が開く音がした。
静は立ち上がり、封筒の入った引き出しに鍵をかける。その金属音が、いつもより大きく響いた。
翌日の昼休み、第3進路室のドアが開く音は、昨日より少しだけ大きかった。
七瀬アオが顔を出す。
「……来ました」
「入れ。十分だ」
桐生静は机の上のタイマーを指で叩く。陸が横でノートを開き、ペンを構えた。
「記録、いる?」
「いる。今日から“再現”だから」
アオが椅子に座る。膝が揃っている。鞄は椅子の横にきっちり置いた。
静は部屋の隅のパイプ椅子を一つ、机から少し離して置いた。
「そこ、面接官席」
「……え」
「面接官は、こっち。七瀬は、あっち」
静はアオの椅子の位置を、ほんの十センチだけ後ろへ引いた。足が床を擦る。
「距離、これくらい。視線が逃げやすい」
アオが一度、息を飲む。
陸が小声で言う。
「こんなだけで、怖い?」
アオは返事の代わりに、指先でスカートの折り目をなぞった。
静が言う。
「面接は演技じゃない。再現だ。昨日言えたなら、同じ条件を作れば言える」
アオが顔を上げる。
「同じ条件……」
「時間、場所、姿勢、質問。全部決める。迷う要素を減らす」
静はタイマーをセットした。
「七分。最初の二分は入室から。立って」
アオが立つ。椅子が少し鳴る。
「ドアノック」
アオの手が止まる。
静が短く言う。
「ノックは二回。声は“失礼します”だけ。余計な言葉、要らない」
アオは頷き、ドアに向き直って、コンコン、と叩いた。
「失礼します」
「どうぞ」
静は面接官席に座った。背筋を伸ばし、目線を上げる。机の上には何も置かない。圧だけが残る。
アオが入ってきて、立ち止まる。視線が床に落ちそうになる。
静が言う。
「椅子、見ろ。床じゃない」
アオの目が椅子の背に移る。小さく礼をして座った。
静はタイマーを見た。二分に足りない。
「今の、合格。次」
アオの喉が動く。
静が質問する。
「本学を志望した理由を述べてください」
アオの口が開きかけて、止まる。
静はすぐに言う。
「型」
アオが息を吸い直す。
「……結論だけ、先に言います」
陸のペンが走る音が、やけに大きい。
「実習先が多いからです。現場で、自分が続けられるか、確かめたいです」
静は顔色を変えない。面接官の顔のまま、淡々と追い打ちする。
「続けられる、とは?」
アオの指が膝の上で絡む。静が視線を外さない。
アオが言う。
「……すみません、整理します」
静は頷くだけ。
アオは目を閉じて、一拍置いた。
「昔、学校に行けない時期があって。……でも今は、欠席ゼロで通えています。提出も……遅れても次の日には出してます。だから、実習も、休まず行けると思います」
言い終えた瞬間、アオの肩が少し落ちた。逃げるように目を下げる。
静が言う。
「目、上」
アオが上げる。静と目が合う。反射みたいに逸れそうになって、踏みとどまった。
静はそこで、面接官の顔をやめた。
「今の、いい。数字が入った。欠席ゼロ、提出。面接官は“安心材料”が欲しい」
アオが唇を噛む。
「でも……“行けない時期”って言ったら、落ちませんか」
静は首を横に振らない。頷きもしない。
「言い方次第。隠すなら、別の材料が要る。七瀬は隠すと詰まる。詰まった沈黙の方が落ちる」
アオの指先が、メモ帳の角を折りそうになる。
静が手を伸ばして、そっとメモ帳を押さえた。
「折るな。面接でも紙は折るな。心も折るな、って言わない。現実の話だ。折れた紙は目立つ」
アオが小さく頷く。
陸が挟む。
「今の、静先生っぽい」
静が陸を一瞥する。
「黙って書け」
陸が口を閉じる。
静はアオに向き直る。
「次。再現の核。エピソード」
アオが身構える。
「エピソードって……」
「“観察して繋いだ”やつ。昨日言った。今日、面接用に短くする」
静は紙に三つの枠を書いた。
「状況/自分の行動/結果」
「作文みたい……」
「作文は落ちる。これは報告書。面接官は報告書が好き」
アオが苦笑いしそうになって、飲み込む。
静が言う。
「状況。いつ、どこで、誰が、何を」
アオは目を上に向ける。
「……中二の、冬。部活の後輩が……いつも通り笑ってたけど、手が震えてました」
「自分の行動」
「帰りに……“大丈夫?”って聞いた。そしたら……家のこと、言って。私は……顧問に、伝えました」
「結果」
アオの声が少し小さくなる。
「……顧問が、スクールカウンセラーに繋いで……後輩、部活に戻れました」
静は頷いて、枠の中に短く書き込む。
「いい。ここに数字を足す」
アオが眉を寄せる。
「数字……?」
「回数。期間。具体の言葉。例えば“何回声をかけた”」
アオが思い出すように指を数える。
「……最初の一回だけじゃなくて、次の日も。三日くらい、帰りに……」
「三日。いい。あと“戻れました”は曖昧。いつ戻った」
「……一週間くらいで」
静がペンを止める。
「じゃあ言える。“三日声をかけて、一週間後に復帰”」
アオがその文を口の中で反芻する。
「……三日、声をかけて、一週間後に……」
陸が言った。
「急にそれっぽくなる」
静が言う。
「それっぽい、じゃない。再現性が上がる。面接官は“この子は現場で報告できる”って思う」
アオがメモ帳に書く。字が少し速い。
静はタイマーを見た。残り三分。
「次。質問変える。面接官は意地悪じゃないけど、予定調和も嫌う」
アオが顔を上げた。
静が面接官の顔に戻る。
「あなたの短所は何ですか」
アオの目が揺れる。昨日の空気が戻りかける。
静が言う。
「短所は“困る点”と“対策”のセット。七瀬は“前に出られない”だろ」
アオが頷く。
「……はい」
静が言う。
「困る点、言え」
アオが息を吸う。
「……集団の前で、言葉が出ない。伝えるのが遅れて……迷惑をかける」
静が言う。
「対策」
アオは一拍置いて、言った。
「……結論を先に言う。詰まったら“整理します”って言う。必要なら……水を、いただく」
言ったあと、自分で驚いたように目を瞬く。
静は頷いた。
「今の、面接官は安心する。短所があるやつは落とすんじゃない。短所を放置してるやつを落とす」
アオの肩が、ほんの少しだけ緩む。
廊下から、職員室の声が漏れた。
「鍵、今日も確認入るって。教頭がさ……」
「第3の引き出し、封筒、どこに置いてるんだって」
陸のペンが止まる。静は表情を変えず、タイマーを止めた。
「七分終了」
アオが立ち上がりかけて、足元がもつれる。慌てて姿勢を戻す。
静が言う。
「転ぶな。面接で転ぶと心も持っていかれる」
アオが小さく「はい」と言う。
静は机の引き出しを開け、透明のクリアケースを取り出した。中には付箋だらけのカードが入っている。
「これ、持ってけ」
アオが受け取ろうとして手を引っ込める。
「……私が持ってて、いいんですか」
「コピーだ。原本はここ。なくしたら困るのは、七瀬だからな」
アオは両手で受け取った。ケースの角を丁寧に揃える。
「今日の宿題。声に出して、三回。家でやれないなら、昼休みここでやれ」
アオが頷く。
「家だと……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
静が追わない。
「できる場所でやれ。できない理由の説明は、面接官じゃなくて俺にだけでいい」
アオの目が、少しだけ潤む。けど、瞬きで留めた。
「……明日も、来ます」
「来い。次は“想定外”を増やす。質問を崩す」
陸がノートを閉じながら言う。
「想定外って、どんな」
静が引き出しの鍵を指で弾く。小さな金属音。
「“推薦以外の道は?”って聞く。現実を突っ込まれる」
アオの背筋が固まる。
静は立ち上がり、ドアの方を見た。廊下の気配が近い。
「七瀬、先に戻れ。俺は職員室行く」
アオがクリアケースを胸に抱え、深く頭を下げた。
「……失礼します」
ドアが閉まる。
残った陸が、静の机の赤い付箋を見たまま言う。
「また鍵のやつ?」
静はジャケットを掴み、袖を通しながら答えた。
「封筒の扱い、突かれる。黒川は“数字にならない動き”が嫌いだ。面接練習もな」
陸が眉をひそめる。
「じゃあ、やめろって言われる?」
静はドアノブに手をかけた。
「言われたら、別の形にするだけ。道は増やす」
廊下の向こうで、呼び声がした。
「桐生先生、ちょっと。教頭から伝言」
静は一度だけ息を吐き、振り返らずに歩き出した。
職員室の前まで来たところで、七瀬アオの足が止まった。
戻るだけだ。教室に。昼休みはまだ少し残っている。
そう思っても、廊下の白い光がやけに刺さる。遠くの笑い声が、耳の奥で反響する。
「……っ」
喉が詰まった。胸のあたりが、ぎゅっと縮む。
視界の端で、誰かが早足で通り過ぎた。名札が揺れる。スリッパの音が連打みたいに続く。
アオは壁に手をついた。冷たい。
頭の中に、別の廊下が重なる。
中学の廊下。体育館の方から響く笛。教室のドアの前。背中に刺さる視線。
「入れよ」「またかよ」「先生呼ぶ?」
笑い声。手のひらの汗。ノブに触れない。
——動け。
誰かの声がそう言った気がして、アオは肩をすくめた。
「七瀬?」
背後から声がした。
振り返ると、相沢陸がいた。第3進路室のノートを抱えたまま、走ってきたらしく息が少し上がっている。
「教室、行かないの?」
アオは口を開けたが、音が出なかった。代わりに、クリアケースを抱き直す。指先が震えて、プラスチックが小さく鳴った。
陸の視線がそこに落ちる。
「……それ、落とすぞ」
アオは首を振る。落としたくない。落としたら、全部崩れる気がした。
陸が一歩近づいて、でも触らない距離で止まった。
「息、してる?」
アオはやっと、浅く息を吸った。吸った瞬間、胸が痛くて咳き込みそうになる。
陸が慌てて言う。
「え、ちょ、咳はやめろ。咳は目立つ」
アオの口元がかすかに動いた。笑うでもなく、泣くでもなく。
「……目立つの、無理」
「分かる。俺も無理」
陸は自分の耳を掻いた。言い方が雑で、でも妙にまっすぐだった。
アオは壁から手を離せないまま、視線を落とす。
「……中学のとき、面接で……真っ白になって」
陸が眉を寄せる。
「何の面接」
「高校の……推薦。第一志望。入って、座って……“自己PRを”って言われて……」
アオの喉が鳴った。言葉が途切れる。廊下がまた遠のく。
「……何も、出なくて。先生が隣で笑って……“次の質問に”って。帰りに、母が……」
そこまで言って、アオは唇を噛んだ。噛む力が強すぎて、痛みで現実に引き戻される。
陸は「へえ」とも「そうなんだ」とも言わない。代わりに、床を見て、スリッパの先で線をなぞった。
「母さん、何て」
アオは首を振った。言いたくない。
陸がすぐ言い直す。
「言わなくていい。今のは、聞かなかったことにする」
アオの肩が少しだけ落ちた。助かったのに、悔しい。
廊下の向こうから、職員室のドアが開く音。男の低い声が混じる。
「……第3の面接練習、昼休みにやってるだろ。あれ、校内の統制が——」
別の声がかぶさる。
「教頭が嫌がるのは分かるけどさ、推薦は——」
アオの指が硬直した。耳が勝手に拾う。拾ってしまう。
陸が顔をしかめて、アオの前に半歩出た。視線を遮るように。
「聞くな。今は」
アオがかすれた声を出す。
「……嫌がられる」
「嫌がられるだろ。そりゃ」
陸はあっさり言った。慰めるでも、怒るでもない。
アオが目を上げる。
「……じゃあ、やめた方が」
陸が首を振る。
「やめたら、もっと嫌なやつに決まるじゃん。黙って落ちるとか」
言い方が乱暴で、アオの胸に引っかかった。
「落ちるって……」
陸が一瞬、言い過ぎた顔をして、咳払いをした。
「いや、落ちるって決めつけてるわけじゃない。……でも、何もしないと、あの時と同じになる」
アオの手がクリアケースの角をぎゅっと握る。角が掌に食い込む。
陸がそれを見て、言った。
「それ、痛いだろ。力抜け」
アオは力を抜けない。抜いた瞬間、崩れそうだった。
陸はポケットを探り、くしゃっとしたティッシュを一枚出した。新品じゃない。端が折れている。
「これ」
「……え」
「手、そこ。角が刺さるなら、挟め」
アオは一瞬ためらって、ティッシュを受け取った。ケースの角に挟む。白い紙がクッションになる。
陸が言う。
「ほら。現実的」
アオは息を吐いた。少しだけ、深く。
「……私、面接官の目が、怖い」
陸は頷いた。
「分かる。目って、数字みたいだもんな。見られてると、点つけられてる感じ」
アオは小さく頷く。言葉が、やっと胸に届く。
陸は廊下の窓を指さした。
「じゃあさ、目が怖いなら、見る場所決めろ。桐生先生が言ってたろ。椅子見ろって」
アオは視線を窓に動かす。外はグラウンド。昼の光。人が小さく動いている。
陸が続ける。
「面接官の目じゃなくて、眉間の上とか。鼻の辺りとか。俺それで乗り切ってる」
アオが首を傾げる。
「……陸くん、面接、受けたことあるの」
「生徒会の立候補。落ちたけど」
「……落ちたんだ」
「落ちた。真っ白になった」
陸は自分で言って、少しだけ笑った。笑いが下手で、すぐ真顔に戻る。
アオの喉が、かすかに鳴った。笑いそうになって、止めた。
陸が言う。
「真っ白になったとき、俺、何したと思う」
アオは首を振る。
「“すみません、整理します”って言った。そしたら、相手が勝手に待ってくれた」
アオは目を見開いた。
「……本当に?」
「本当。で、整理できなかった」
「……」
「でも、黙り続けるよりマシだった。黙ると、終わる。終わったって顔される」
アオの背中に、冷たい汗が浮く。あの時の面接官の顔が、確かに“終わった”だった。
陸が言う。
「七瀬は昨日、言えた。今日も言えた。再現できるってことだろ」
アオは唇を開く。声が出るか確認するみたいに。
「……再現」
「そう。演技じゃないやつ」
アオが頷いた。その瞬間、また職員室から声が漏れる。
「鍵の監査、今日も入る。封筒の管理、進路室は——」
アオの肩が強張る。
陸が舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
「……うるせえな」
アオが小さく言う。
「先生、怒られてる」
陸は即答しない。廊下の先を見て、静の背中を探すみたいに目を細めた。
「怒られてるだろうな。いつも」
アオが息を詰める。
陸が続けた。
「でも、怒られたからって、先生が止まるわけない。あの人、止まるときは……多分、勝ち目がないときだけ」
アオが陸を見る。
「勝ち目……」
「勝ち目作ってんだろ。七瀬の」
陸はそう言ってから、少し照れたように視線を逸らした。
アオの胸の奥で、固まっていたものが少しだけほどける。代わりに、痛みが残る。痛いのに、動ける痛み。
アオは壁から手を離した。足元がふらつく。陸が反射で手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……大丈夫?」
アオは頷いた。
「うん。……教室、戻る」
陸が言う。
「一緒に戻る。途中で止まったら、またティッシュ挟めばいい」
アオはティッシュの角を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
歩き出したところで、アオがぽつりと言う。
「陸くん」
「何」
「……さっきの、“母さん、何て”って。聞かなかったことにするって」
陸が足を止める。
「うん」
アオは前を見たまま言った。
「……ありがとう」
陸は返事を探して、喉を鳴らした。
「別に。俺、そういうの、得意じゃないし」
「得意じゃないのに、言ってくれた」
陸が耳を赤くして、歩き出す。
「……次の練習、いつだっけ」
アオも歩きながら答える。
「明日。昼休み。……“推薦以外の道は”って聞かれるやつ」
陸が嫌そうな顔をした。
「うわ。きつ」
アオは小さく頷く。
「きつい」
「じゃあ、先に答え作っとけ。俺も一緒に考える。……多分、変な答えになるけど」
「変でも、いい。沈黙より」
アオがそう言うと、陸が一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに頷いた。
教室の方からチャイム前のざわめきが近づく。
二人が角を曲がる直前、廊下の向こうで職員室のドアが勢いよく開いた。
「桐生先生、ちょっと!」
声が飛ぶ。静の名前が、硬い空気を連れてくる。
アオの足が一瞬止まりかけたが、陸が肘で軽く促した。
「行け」
アオは頷き、クリアケースを胸に抱え直す。角には、くしゃっとしたティッシュが挟まったままだった。
火曜日の朝は、空気が薄いみたいだった。
七瀬アオは駅のホームで、スマホの画面を何度も見た。時刻表。乗る電車。乗り換え。指が冷えて、スクロールがうまくいかない。
「……九時半」
口に出すと、少しだけ現実になる。
改札を抜け、短大の正門が見えた。掲示板に「推薦入試 面接」と紙が貼ってある。矢印の先が本館。
アオは一度立ち止まり、鞄の持ち手を持ち直した。角に挟んだティッシュは、もう新しいものに替えてある。白がまぶしい。
玄関の床が光っていて、足音が響く。受付の前に、同じような制服の子が数人。小声で笑っている。
「緊張するよね」
「やばい、喋れるかな」
その言葉が、アオの胸に刺さる。喉がきゅっと狭くなる。
廊下の壁に「控室」の札。
アオは入って、空いている椅子に座った。背中を丸めないように、膝を揃える。ノートを開くふりをして、指先を動かす。
「整理します」
「結論だけ先に言います」
「水をいただいてもいいですか」
声に出すのは怖くて、唇だけ動かした。
隣の席の女子がちらりと見てきて、すぐ前を向いた。アオはノートの端を見つめた。
ポケットが震えた。スマホ。
『着いたか。呼吸。最初の一文だけ。終わったら連絡しろ。—桐生』
短い文。句点が少ない。いつもの感じ。
アオは画面を閉じる前に、もう一度だけ読み直した。
次に通知が一つ。
『ティッシュ忘れんなよ。—陸』
アオは親指で「了解」を打って、送信した。送信音がやけに大きく感じて、慌てて音量を確認する。
控室のドアが開いて、係員が顔を出した。
「七瀬アオさん、どうぞ」
心臓が跳ねた。椅子の脚が床を擦る音がして、周りの視線が一瞬集まる。
アオは頭を下げることも忘れそうになって、慌てて小さく会釈した。
廊下を歩く。係員の背中。曲がり角。階段。二階。
「こちらです」
面接室の前に、番号札。椅子が一つ。待機用。
「おかけになってお待ちください。準備ができましたらお呼びします」
アオは座った。背筋を伸ばす。膝に手を置く。手のひらが湿っている。
ドアの向こうから、かすかに声が聞こえる。誰かの面接が続いている。
「……本学で学びたい理由は……」
その断片だけで、胃が縮む。
アオは鞄の中を探り、ティッシュを一枚取り出した。ケースの角に挟み直す。することがあると、少しだけ持つ。
ドアが開いた。
「次の方、どうぞ」
アオの名前は呼ばれなかった。前の子が出てきて、目が赤い。小走りで去っていく。
アオは喉を鳴らした。
次に、またドアが開く。
「七瀬アオさん」
立つ。足の裏が床に貼りついたみたいに重い。歩き出すと、逆に軽すぎて、浮く。
ドアの前で止まる。ノックを二回。
コンコン。
「失礼します」
「どうぞ」
中に入る。長机の向こうに面接官が二人。名札が見えない距離。片方が眼鏡。片方が淡い色のネクタイ。
アオは椅子の前で止まり、深く頭を下げた。
「七瀬アオです。本日はよろしくお願いいたします」
声が揺れた気がして、すぐ喉が熱くなる。
「どうぞ、おかけください」
座る。椅子の脚が鳴る。鳴らさないようにしたのに鳴った。
眼鏡の面接官が、紙をめくる音をさせた。
「では、志望理由をお願いします」
アオの胸がきゅっと縮んだ。言葉が喉の手前で固まる。目の前が白っぽくなる。
——まただ。
中学のドア。ノブ。笑い声。
耳が遠くなる。
アオは指先を、ティッシュの挟んだ角にそっと押し当てた。柔らかさが返ってくる。
息。吸う。吐く。
「……結論だけ、先に言います」
声が出た。出た瞬間、次の言葉が怖くなる。
「実習先が多いからです。現場で、自分が続けられるか、確かめたいです」
眼鏡の面接官が頷いた。ネクタイの方がペンを動かす。
「続けられるか、というのは」
来た。昨日の練習の言葉。
アオの口が止まりかける。止まる前に言う。
「すみません、整理します」
一拍。二拍。面接官は待った。待ってくれたことが、逆に怖い。
アオは唇を開き直す。
「昔、学校に行けない時期がありました。でも今は欠席ゼロで通えています。提出も、遅れても次の日には出しています。だから、実習でも継続して行動できると思います」
言い切ると、喉の奥が痛い。けど、終わってない。
ネクタイの面接官が、少し身を乗り出した。
「欠席ゼロは立派ですね。では、保育の仕事に必要だと思う力は何ですか」
アオの頭の中で、言葉が散らばる。拾う順番が分からない。
「……」
沈黙が落ちる。秒針の音が聞こえそうだった。
アオは椅子の座面に、足の指を押しつけた。床の感触を確かめる。
「……一度、水をいただいてもいいですか」
ネクタイの面接官が驚いたように瞬いて、すぐ頷いた。
「どうぞ」
紙コップの水が差し出される。アオは両手で受け取って、一口だけ飲んだ。飲みすぎると咳きそうだった。
「ありがとうございます」
コップを置くと、手の震えが少しだけ収まった。
「必要な力は……観察だと思います」
言葉が出た。続ける。
「相手が言葉にできない状態でも、表情とか、手の動きとかで、いつもと違うのが分かる。……それを、放置しない」
眼鏡の面接官がペンを止めた。
「具体的な経験はありますか」
アオの胸がまた縮む。けど、枠がある。状況/自分の行動/結果。
「中学二年の冬、部活の後輩が……笑っているのに手が震えていました。三日、帰りに声をかけて、顧問に繋ぎました。……一週間後に、部活に復帰しました」
言い切った瞬間、面接官が同時に頷いた。ペンが動く音がする。
アオの背中に汗が流れる。冷たい。
眼鏡の面接官が次の紙をめくった。
「最後に。もし本学が不合格だった場合、どうしますか」
言葉が刺さった。頭の中が真っ白になりかける。
不合格。落ちる。母の顔。あの帰り道。
アオの視線が机の端に落ちる。木目。線。そこをなぞるようにして、息を吸う。
静が言っていた。「現実を突っ込まれる」。
陸が言っていた。「沈黙よりマシ」。
アオは顔を上げた。面接官の目じゃなくて、眉間のあたりを見る。
「結論だけ、先に言います」
声が少し震えた。でも止まらない。
「就職も含めて、保育に関わる道を探します。アルバイトで現場を経験しながら、次の受験も考えます」
ネクタイの面接官が眉を上げた。
「就職、というと」
アオの喉が鳴る。ここで詰まると、全部崩れる。
「保育補助や、学童の補助員などです。……続けられる環境を選んで、資格が必要なら取り直します」
言った。最後まで言った。
眼鏡の面接官が、少しだけ口元を緩めた。
「分かりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
アオは立ち上がり、頭を下げた。椅子の音がまた鳴った。鳴ったけど、倒れなかった。
ドアの前で、もう一度。
「失礼します」
廊下に出た瞬間、足が震えた。膝が笑う。壁に手をつきそうになって、やめた。ついたら戻れない気がした。
階段を降りる。玄関を出る。冷たい風が頬に当たる。
門を出たところで、スマホが震えた。通知じゃない。電話。
画面には「学校」と出ている。
アオは一瞬、指が固まった。心臓がまた跳ねる。
出るか、出ないか。
ポケットの中で、もう一度震えた。
今度はメッセージ。
『鍵監査でバタついてる。終わったら短くでいい、結果はまだでも状況だけ送れ。—桐生』
その文の「バタついてる」が、今日の学校の空気を連れてくる。
アオは通話の画面を見つめたまま、深く息を吐いた。
そして、指を滑らせた。
「……はい。七瀬です」
声はまだ揺れていた。でも、切れなかった。
「開いてる」
桐生静が言うと、隙間から顔だけ覗く。七瀬アオだった。制服の袖口を握りしめている。
「……失礼します」
入ってきたのに、椅子の前で止まる。座るかどうか迷って、結局立ったまま、机の端を見つめた。
静はプリントの山を横にずらして、空いたスペースに白紙を一枚置いた。
「座って。立ったままだと、面接も立ったままになるぞ」
アオの肩が小さく跳ねる。ゆっくり椅子に腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。指先が白い。
隣の机では、相沢陸がファイルに紙を挟み直していた。気配を消すようにしているが、ペン先だけは止まらない。
静が言った。
「推薦面接、いつ」
「……来週の、火曜」
「時間」
「九時半」
「場所」
「短大の……本館の、二階」
静は頷き、白紙に三つ丸を書いた。
「今の、言えたな」
アオは息を吸って、吐く。目だけが静の手元を追う。
「言えたのは、事実だからです」
「面接も事実を言う場所だよ」
「……でも、聞かれるじゃないですか。“あなたは何ができますか”って」
その言い方が、まるで罰ゲームの設問みたいだった。
陸が小さく顔を上げたが、口は挟まない。
静はペンを置いた。
「言葉が出ないんだろ」
アオの喉が動く。頷きが、遅れて来た。
「頭の中では……あるんです。言いたいこと。いっぱい。なのに、口が……」
静は机の端にあるタイマーを取り、電源を入れた。短い電子音。
「じゃあ、現実の話する。面接は待ってくれない。沈黙は“考えてます”じゃなくて、“答えられません”に処理される」
アオの手がきゅっと閉じる。
「分かってます」
「分かってるなら、対策する。根性論はやらない」
静は白紙をアオの前へ滑らせた。
「今日やるのは、喋る練習じゃない。喋れなくても点が落ちにくい形を作る」
アオが眉を寄せる。
「そんなの……あるんですか」
「ある。面接官も人間だ。情報があれば判断できる。ないと落とすしかない」
静は紙に大きく一行書いた。
「“一文だけ言えれば合格ライン”」
アオがその文字を見て、ほんの少し顔を上げた。
「一文……」
「長文は要らない。噛んでもいい。詰まってもいい。最初の一文だけ、刺す」
陸がペン先でメモを取りながら、小声で言う。
「刺すって、物騒」
静は陸を見ずに返す。
「推薦は戦争じゃないけど、席は有限だ」
その言い方に、アオの背中が硬くなる。静は続けた。
「七瀬。志望理由書、持ってきた?」
アオは鞄を開け、クリアファイルを出した。角が揃っている。折り目ひとつない。
静は受け取り、目を走らせる。丁寧な字。内容も悪くない。だが、どこか“正しい文章”で、本人の温度が見えない。
「これ、先生に添削された?」
「国語の……吉岡先生に」
静の指が、文末の言い回しで止まる。いかにも模範解答の匂い。
「吉岡は“無難”に寄せるからな」
アオが小さく首をすくめる。
「無難じゃ、だめですか」
「無難は落ちないための文章。推薦は、取るための面接」
アオの目が揺れる。静は紙を返し、別の紙を一枚出した。
「七瀬が“前に出られない”のは欠点じゃない。けど面接では欠点として処理される。だから、先にこちらから処理する」
アオが口を開きかけ、閉じる。
静は言葉を待たず、質問を投げた。
「短大で何を学びたい」
「……保育、です」
「なんで保育」
アオの唇が動く。音にならない。目が泳ぐ。静はタイマーを見た。十秒。十五秒。
陸が思わず助け舟を出しそうになって、静に目で止められる。
静は淡々と告げる。
「今の沈黙、面接だとマイナス。だから、沈黙の“型”を作る」
「型……」
「“すみません、整理します”って先に言う。沈黙の理由を言語化する。それだけで、相手は待てる」
アオはそのフレーズを口の中で転がすように、唇を動かした。
「……すみません、整理します」
声は小さいが、出た。
静は頷く。
「それ。次」
静は紙に二つ目の一行を書いた。
「“結論だけ先に言います”」
「……結論だけ、先に」
「面接官は結論を聞きたい。理由は後でいい。詰まるなら、結論→理由一個→具体例一個。以上」
アオの視線が紙に固定される。覚えるように。
静は尋ねた。
「保育、なんで」
アオは一度息を吸った。さっきより深い。
「……結論だけ、先に言います」
静は目を細める。促さない。
「……子どもが、安心できる場所を作りたいからです」
言い終えた瞬間、アオの肩が落ちた。自分で自分の声に驚いたみたいに、目を瞬いた。
静はすぐに追撃しない。紙に丸をつけるだけ。
「今の一文、合格ライン」
アオが、そっと笑いそうになって、でも堪えた。唇の端が震える。
陸が小さく言った。
「出たじゃん」
アオは陸の方を見て、慌てて視線を戻した。頬が少し赤い。
静が言う。
「理由一個。いける?」
アオは頷いた。頷きは小さいが、さっきより速い。
「……小学校のとき、保健室登校で。私、ずっと……人の声が怖くて」
静はペンを止めた。アオはしまったという顔をして、言葉を切る。
「言わなくていいですか……そういうの」
静は首を横に振る。
「言っていい。ただし、面接で“重さ”を見せるときは、必ず“今できてること”とセット」
アオは唾を飲んだ。
「今……できてること」
「例えば。欠席は?」
「……今年は、ゼロです」
「遅刻は」
「二回。電車が止まって」
「提出物は」
アオは少し考えてから、静を見る。
「……出してます。全部。遅れても、次の日には」
静は頷き、紙に短く書く。
「欠席0/提出率高」
陸が顔を上げた。
「そういうの、数字にして言うんだ」
静は頷く。
「“頑張ってます”は誰でも言える。数字は嘘つかない。学校も数字が好きだしな」
その言い方に、部屋の空気が少しだけ冷えた。
廊下の向こうで、職員室の電話が鳴り続けている。誰かが早足で通り過ぎ、紙が擦れる音がした。
静の机の端には、鍵監査の紙がまだ置かれている。赤い付箋が貼られたまま。
陸がその付箋を見て、目を逸らした。
静はアオに視線を戻す。
「七瀬。面接で言うのはこうだ。“昔は苦手があった。今は欠席ゼロで通えている。提出も守れている。だから現場での継続ができる”」
アオはゆっくり頷いた。
「……継続」
「そう。保育は派手な才能より、毎日来る力が要る」
アオの指が、膝の上で開いたり閉じたりする。
「でも……私、前に出るのは……」
静は遮らない。代わりに問いを変えた。
「前に出ないと、保育士になれないと思ってる?」
アオは答えに詰まった。静は机から小さなメモ帳を取り、アオに差し出した。
「現場は、前に出る人も必要だし、後ろで見てる人も必要。七瀬は“見てる”側の強みがある」
アオが目を伏せたまま、ぽつりと言う。
「……それ、面接官に伝わりますか」
静は即答しない。数秒、沈黙を置く。沈黙の使い方を、静自身が示すみたいに。
「伝わる形にする。観察の具体例、出せる?」
アオはメモ帳を受け取り、指先で表紙を撫でた。
「……中学のとき、部活の後輩が……笑ってるのに手が震えてて。帰りに、声かけたら……家で、色々あって」
言いながら、アオの声が細くなる。静は頷くだけで、話を奪わない。
「それで」
「……先生に、つなげました。私ができるの、それくらいしか」
静が言う。
「それができるやつが少ない。面接で言える」
アオが顔を上げた。目が少し潤んでいるが、瞬きで押し戻す。
「……泣いたら、落ちますか」
静は首を横に振る。
「泣いたら落ちるんじゃない。泣いて何も言えなくなると落ちる」
アオは小さく息を吐いた。
「……じゃあ、泣きそうになったら」
静は紙に三つ目の一行を書く。
「“一度、水をいただいてもいいですか”」
陸が笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻った。
「それ、言っていいんだ」
「言っていい。許可を取ればいい。勝手に黙るな」
アオがその一文を、声に出して練習する。
「……一度、水を、いただいてもいいですか」
静はタイマーを止めた。
「よし。ここまでで、七瀬の“逃げ道”は三つ作った。整理します、結論から、水をください」
アオはメモ帳に、その三つを丁寧に書き写し始めた。字が揺れない。線がまっすぐだ。
静は机の端の書類に目をやり、すぐ戻す。赤い付箋が、視界の隅でずっと主張している。
「七瀬。面接練習、明日も来い。昼休み、十分でいい」
アオがペンを止める。
「……十分快いですか」
「十分で変える。長いと疲れて、また出なくなる」
アオは頷いた。頷きながら、鞄の中を探り、折れないようにファイルを戻す。
ドアの外で、誰かが低い声で話している。
「……進路室の封筒の扱い、教頭が気にしてる。鍵、ちゃんと……」
陸の肩がぴくりと動いた。静は聞こえないふりをして、アオに言う。
「最後。面接官が一番聞くやつ。答えを作る」
アオが身構える。
「“うちで学ぶ理由は”」
アオの唇が、また止まりかける。静はすぐに言った。
「結論から」
アオは目を閉じて、短く頷く。
「……結論だけ、先に言います」
静が見守る。
「実習先が多いからです。現場で……自分が続けられるか、確かめたいです」
言い切ったあと、アオはゆっくり目を開けた。静と目が合う。逃げない。
静は紙に丸をつけた。
「今の、いい。綺麗じゃないけど、現実的だ」
アオは小さく笑って、すぐ真顔に戻る。
「……現実的、って、褒め言葉ですか」
静は椅子にもたれかけ、短く答える。
「推薦は特に。夢だけだと落ちる。続ける理由があるやつが残る」
アオはメモ帳を閉じ、胸に抱えた。
「明日……来ます。十分快」
「十分でいい」
アオが立ち上がり、頭を下げる。
「……ありがとうございました」
ドアに手をかけたところで、静が呼び止めた。
「七瀬。面接当日、もし固まったら最初の一文だけ言え。あとは、こっちが何とかする。推薦書も、必要なら書き直す」
アオは振り返り、ほんの少し迷ってから言った。
「……先生、怒られませんか」
静の視線が、机の赤い付箋に一瞬だけ落ちる。
「怒られるかどうかは、あとで考える。今は席を取りに行く」
アオは唇を結び、もう一度だけ頷いた。ドアが静かに閉まる。
残された部屋で、陸が息を吐いた。
「……出たな、言葉」
静はプリントの山を揃え直しながら言う。
「出た。だから次は、潰されないように形にする」
陸が机の端の付箋を指でつつく。
「これ、今日中?」
静はタイマーを取り直し、また電源を入れた。
「今日中。黒川の耳に入る前に、こっちで筋を通す」
廊下のざわめきが近づき、職員室の扉が開く音がした。
静は立ち上がり、封筒の入った引き出しに鍵をかける。その金属音が、いつもより大きく響いた。
翌日の昼休み、第3進路室のドアが開く音は、昨日より少しだけ大きかった。
七瀬アオが顔を出す。
「……来ました」
「入れ。十分だ」
桐生静は机の上のタイマーを指で叩く。陸が横でノートを開き、ペンを構えた。
「記録、いる?」
「いる。今日から“再現”だから」
アオが椅子に座る。膝が揃っている。鞄は椅子の横にきっちり置いた。
静は部屋の隅のパイプ椅子を一つ、机から少し離して置いた。
「そこ、面接官席」
「……え」
「面接官は、こっち。七瀬は、あっち」
静はアオの椅子の位置を、ほんの十センチだけ後ろへ引いた。足が床を擦る。
「距離、これくらい。視線が逃げやすい」
アオが一度、息を飲む。
陸が小声で言う。
「こんなだけで、怖い?」
アオは返事の代わりに、指先でスカートの折り目をなぞった。
静が言う。
「面接は演技じゃない。再現だ。昨日言えたなら、同じ条件を作れば言える」
アオが顔を上げる。
「同じ条件……」
「時間、場所、姿勢、質問。全部決める。迷う要素を減らす」
静はタイマーをセットした。
「七分。最初の二分は入室から。立って」
アオが立つ。椅子が少し鳴る。
「ドアノック」
アオの手が止まる。
静が短く言う。
「ノックは二回。声は“失礼します”だけ。余計な言葉、要らない」
アオは頷き、ドアに向き直って、コンコン、と叩いた。
「失礼します」
「どうぞ」
静は面接官席に座った。背筋を伸ばし、目線を上げる。机の上には何も置かない。圧だけが残る。
アオが入ってきて、立ち止まる。視線が床に落ちそうになる。
静が言う。
「椅子、見ろ。床じゃない」
アオの目が椅子の背に移る。小さく礼をして座った。
静はタイマーを見た。二分に足りない。
「今の、合格。次」
アオの喉が動く。
静が質問する。
「本学を志望した理由を述べてください」
アオの口が開きかけて、止まる。
静はすぐに言う。
「型」
アオが息を吸い直す。
「……結論だけ、先に言います」
陸のペンが走る音が、やけに大きい。
「実習先が多いからです。現場で、自分が続けられるか、確かめたいです」
静は顔色を変えない。面接官の顔のまま、淡々と追い打ちする。
「続けられる、とは?」
アオの指が膝の上で絡む。静が視線を外さない。
アオが言う。
「……すみません、整理します」
静は頷くだけ。
アオは目を閉じて、一拍置いた。
「昔、学校に行けない時期があって。……でも今は、欠席ゼロで通えています。提出も……遅れても次の日には出してます。だから、実習も、休まず行けると思います」
言い終えた瞬間、アオの肩が少し落ちた。逃げるように目を下げる。
静が言う。
「目、上」
アオが上げる。静と目が合う。反射みたいに逸れそうになって、踏みとどまった。
静はそこで、面接官の顔をやめた。
「今の、いい。数字が入った。欠席ゼロ、提出。面接官は“安心材料”が欲しい」
アオが唇を噛む。
「でも……“行けない時期”って言ったら、落ちませんか」
静は首を横に振らない。頷きもしない。
「言い方次第。隠すなら、別の材料が要る。七瀬は隠すと詰まる。詰まった沈黙の方が落ちる」
アオの指先が、メモ帳の角を折りそうになる。
静が手を伸ばして、そっとメモ帳を押さえた。
「折るな。面接でも紙は折るな。心も折るな、って言わない。現実の話だ。折れた紙は目立つ」
アオが小さく頷く。
陸が挟む。
「今の、静先生っぽい」
静が陸を一瞥する。
「黙って書け」
陸が口を閉じる。
静はアオに向き直る。
「次。再現の核。エピソード」
アオが身構える。
「エピソードって……」
「“観察して繋いだ”やつ。昨日言った。今日、面接用に短くする」
静は紙に三つの枠を書いた。
「状況/自分の行動/結果」
「作文みたい……」
「作文は落ちる。これは報告書。面接官は報告書が好き」
アオが苦笑いしそうになって、飲み込む。
静が言う。
「状況。いつ、どこで、誰が、何を」
アオは目を上に向ける。
「……中二の、冬。部活の後輩が……いつも通り笑ってたけど、手が震えてました」
「自分の行動」
「帰りに……“大丈夫?”って聞いた。そしたら……家のこと、言って。私は……顧問に、伝えました」
「結果」
アオの声が少し小さくなる。
「……顧問が、スクールカウンセラーに繋いで……後輩、部活に戻れました」
静は頷いて、枠の中に短く書き込む。
「いい。ここに数字を足す」
アオが眉を寄せる。
「数字……?」
「回数。期間。具体の言葉。例えば“何回声をかけた”」
アオが思い出すように指を数える。
「……最初の一回だけじゃなくて、次の日も。三日くらい、帰りに……」
「三日。いい。あと“戻れました”は曖昧。いつ戻った」
「……一週間くらいで」
静がペンを止める。
「じゃあ言える。“三日声をかけて、一週間後に復帰”」
アオがその文を口の中で反芻する。
「……三日、声をかけて、一週間後に……」
陸が言った。
「急にそれっぽくなる」
静が言う。
「それっぽい、じゃない。再現性が上がる。面接官は“この子は現場で報告できる”って思う」
アオがメモ帳に書く。字が少し速い。
静はタイマーを見た。残り三分。
「次。質問変える。面接官は意地悪じゃないけど、予定調和も嫌う」
アオが顔を上げた。
静が面接官の顔に戻る。
「あなたの短所は何ですか」
アオの目が揺れる。昨日の空気が戻りかける。
静が言う。
「短所は“困る点”と“対策”のセット。七瀬は“前に出られない”だろ」
アオが頷く。
「……はい」
静が言う。
「困る点、言え」
アオが息を吸う。
「……集団の前で、言葉が出ない。伝えるのが遅れて……迷惑をかける」
静が言う。
「対策」
アオは一拍置いて、言った。
「……結論を先に言う。詰まったら“整理します”って言う。必要なら……水を、いただく」
言ったあと、自分で驚いたように目を瞬く。
静は頷いた。
「今の、面接官は安心する。短所があるやつは落とすんじゃない。短所を放置してるやつを落とす」
アオの肩が、ほんの少しだけ緩む。
廊下から、職員室の声が漏れた。
「鍵、今日も確認入るって。教頭がさ……」
「第3の引き出し、封筒、どこに置いてるんだって」
陸のペンが止まる。静は表情を変えず、タイマーを止めた。
「七分終了」
アオが立ち上がりかけて、足元がもつれる。慌てて姿勢を戻す。
静が言う。
「転ぶな。面接で転ぶと心も持っていかれる」
アオが小さく「はい」と言う。
静は机の引き出しを開け、透明のクリアケースを取り出した。中には付箋だらけのカードが入っている。
「これ、持ってけ」
アオが受け取ろうとして手を引っ込める。
「……私が持ってて、いいんですか」
「コピーだ。原本はここ。なくしたら困るのは、七瀬だからな」
アオは両手で受け取った。ケースの角を丁寧に揃える。
「今日の宿題。声に出して、三回。家でやれないなら、昼休みここでやれ」
アオが頷く。
「家だと……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
静が追わない。
「できる場所でやれ。できない理由の説明は、面接官じゃなくて俺にだけでいい」
アオの目が、少しだけ潤む。けど、瞬きで留めた。
「……明日も、来ます」
「来い。次は“想定外”を増やす。質問を崩す」
陸がノートを閉じながら言う。
「想定外って、どんな」
静が引き出しの鍵を指で弾く。小さな金属音。
「“推薦以外の道は?”って聞く。現実を突っ込まれる」
アオの背筋が固まる。
静は立ち上がり、ドアの方を見た。廊下の気配が近い。
「七瀬、先に戻れ。俺は職員室行く」
アオがクリアケースを胸に抱え、深く頭を下げた。
「……失礼します」
ドアが閉まる。
残った陸が、静の机の赤い付箋を見たまま言う。
「また鍵のやつ?」
静はジャケットを掴み、袖を通しながら答えた。
「封筒の扱い、突かれる。黒川は“数字にならない動き”が嫌いだ。面接練習もな」
陸が眉をひそめる。
「じゃあ、やめろって言われる?」
静はドアノブに手をかけた。
「言われたら、別の形にするだけ。道は増やす」
廊下の向こうで、呼び声がした。
「桐生先生、ちょっと。教頭から伝言」
静は一度だけ息を吐き、振り返らずに歩き出した。
職員室の前まで来たところで、七瀬アオの足が止まった。
戻るだけだ。教室に。昼休みはまだ少し残っている。
そう思っても、廊下の白い光がやけに刺さる。遠くの笑い声が、耳の奥で反響する。
「……っ」
喉が詰まった。胸のあたりが、ぎゅっと縮む。
視界の端で、誰かが早足で通り過ぎた。名札が揺れる。スリッパの音が連打みたいに続く。
アオは壁に手をついた。冷たい。
頭の中に、別の廊下が重なる。
中学の廊下。体育館の方から響く笛。教室のドアの前。背中に刺さる視線。
「入れよ」「またかよ」「先生呼ぶ?」
笑い声。手のひらの汗。ノブに触れない。
——動け。
誰かの声がそう言った気がして、アオは肩をすくめた。
「七瀬?」
背後から声がした。
振り返ると、相沢陸がいた。第3進路室のノートを抱えたまま、走ってきたらしく息が少し上がっている。
「教室、行かないの?」
アオは口を開けたが、音が出なかった。代わりに、クリアケースを抱き直す。指先が震えて、プラスチックが小さく鳴った。
陸の視線がそこに落ちる。
「……それ、落とすぞ」
アオは首を振る。落としたくない。落としたら、全部崩れる気がした。
陸が一歩近づいて、でも触らない距離で止まった。
「息、してる?」
アオはやっと、浅く息を吸った。吸った瞬間、胸が痛くて咳き込みそうになる。
陸が慌てて言う。
「え、ちょ、咳はやめろ。咳は目立つ」
アオの口元がかすかに動いた。笑うでもなく、泣くでもなく。
「……目立つの、無理」
「分かる。俺も無理」
陸は自分の耳を掻いた。言い方が雑で、でも妙にまっすぐだった。
アオは壁から手を離せないまま、視線を落とす。
「……中学のとき、面接で……真っ白になって」
陸が眉を寄せる。
「何の面接」
「高校の……推薦。第一志望。入って、座って……“自己PRを”って言われて……」
アオの喉が鳴った。言葉が途切れる。廊下がまた遠のく。
「……何も、出なくて。先生が隣で笑って……“次の質問に”って。帰りに、母が……」
そこまで言って、アオは唇を噛んだ。噛む力が強すぎて、痛みで現実に引き戻される。
陸は「へえ」とも「そうなんだ」とも言わない。代わりに、床を見て、スリッパの先で線をなぞった。
「母さん、何て」
アオは首を振った。言いたくない。
陸がすぐ言い直す。
「言わなくていい。今のは、聞かなかったことにする」
アオの肩が少しだけ落ちた。助かったのに、悔しい。
廊下の向こうから、職員室のドアが開く音。男の低い声が混じる。
「……第3の面接練習、昼休みにやってるだろ。あれ、校内の統制が——」
別の声がかぶさる。
「教頭が嫌がるのは分かるけどさ、推薦は——」
アオの指が硬直した。耳が勝手に拾う。拾ってしまう。
陸が顔をしかめて、アオの前に半歩出た。視線を遮るように。
「聞くな。今は」
アオがかすれた声を出す。
「……嫌がられる」
「嫌がられるだろ。そりゃ」
陸はあっさり言った。慰めるでも、怒るでもない。
アオが目を上げる。
「……じゃあ、やめた方が」
陸が首を振る。
「やめたら、もっと嫌なやつに決まるじゃん。黙って落ちるとか」
言い方が乱暴で、アオの胸に引っかかった。
「落ちるって……」
陸が一瞬、言い過ぎた顔をして、咳払いをした。
「いや、落ちるって決めつけてるわけじゃない。……でも、何もしないと、あの時と同じになる」
アオの手がクリアケースの角をぎゅっと握る。角が掌に食い込む。
陸がそれを見て、言った。
「それ、痛いだろ。力抜け」
アオは力を抜けない。抜いた瞬間、崩れそうだった。
陸はポケットを探り、くしゃっとしたティッシュを一枚出した。新品じゃない。端が折れている。
「これ」
「……え」
「手、そこ。角が刺さるなら、挟め」
アオは一瞬ためらって、ティッシュを受け取った。ケースの角に挟む。白い紙がクッションになる。
陸が言う。
「ほら。現実的」
アオは息を吐いた。少しだけ、深く。
「……私、面接官の目が、怖い」
陸は頷いた。
「分かる。目って、数字みたいだもんな。見られてると、点つけられてる感じ」
アオは小さく頷く。言葉が、やっと胸に届く。
陸は廊下の窓を指さした。
「じゃあさ、目が怖いなら、見る場所決めろ。桐生先生が言ってたろ。椅子見ろって」
アオは視線を窓に動かす。外はグラウンド。昼の光。人が小さく動いている。
陸が続ける。
「面接官の目じゃなくて、眉間の上とか。鼻の辺りとか。俺それで乗り切ってる」
アオが首を傾げる。
「……陸くん、面接、受けたことあるの」
「生徒会の立候補。落ちたけど」
「……落ちたんだ」
「落ちた。真っ白になった」
陸は自分で言って、少しだけ笑った。笑いが下手で、すぐ真顔に戻る。
アオの喉が、かすかに鳴った。笑いそうになって、止めた。
陸が言う。
「真っ白になったとき、俺、何したと思う」
アオは首を振る。
「“すみません、整理します”って言った。そしたら、相手が勝手に待ってくれた」
アオは目を見開いた。
「……本当に?」
「本当。で、整理できなかった」
「……」
「でも、黙り続けるよりマシだった。黙ると、終わる。終わったって顔される」
アオの背中に、冷たい汗が浮く。あの時の面接官の顔が、確かに“終わった”だった。
陸が言う。
「七瀬は昨日、言えた。今日も言えた。再現できるってことだろ」
アオは唇を開く。声が出るか確認するみたいに。
「……再現」
「そう。演技じゃないやつ」
アオが頷いた。その瞬間、また職員室から声が漏れる。
「鍵の監査、今日も入る。封筒の管理、進路室は——」
アオの肩が強張る。
陸が舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
「……うるせえな」
アオが小さく言う。
「先生、怒られてる」
陸は即答しない。廊下の先を見て、静の背中を探すみたいに目を細めた。
「怒られてるだろうな。いつも」
アオが息を詰める。
陸が続けた。
「でも、怒られたからって、先生が止まるわけない。あの人、止まるときは……多分、勝ち目がないときだけ」
アオが陸を見る。
「勝ち目……」
「勝ち目作ってんだろ。七瀬の」
陸はそう言ってから、少し照れたように視線を逸らした。
アオの胸の奥で、固まっていたものが少しだけほどける。代わりに、痛みが残る。痛いのに、動ける痛み。
アオは壁から手を離した。足元がふらつく。陸が反射で手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……大丈夫?」
アオは頷いた。
「うん。……教室、戻る」
陸が言う。
「一緒に戻る。途中で止まったら、またティッシュ挟めばいい」
アオはティッシュの角を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
歩き出したところで、アオがぽつりと言う。
「陸くん」
「何」
「……さっきの、“母さん、何て”って。聞かなかったことにするって」
陸が足を止める。
「うん」
アオは前を見たまま言った。
「……ありがとう」
陸は返事を探して、喉を鳴らした。
「別に。俺、そういうの、得意じゃないし」
「得意じゃないのに、言ってくれた」
陸が耳を赤くして、歩き出す。
「……次の練習、いつだっけ」
アオも歩きながら答える。
「明日。昼休み。……“推薦以外の道は”って聞かれるやつ」
陸が嫌そうな顔をした。
「うわ。きつ」
アオは小さく頷く。
「きつい」
「じゃあ、先に答え作っとけ。俺も一緒に考える。……多分、変な答えになるけど」
「変でも、いい。沈黙より」
アオがそう言うと、陸が一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに頷いた。
教室の方からチャイム前のざわめきが近づく。
二人が角を曲がる直前、廊下の向こうで職員室のドアが勢いよく開いた。
「桐生先生、ちょっと!」
声が飛ぶ。静の名前が、硬い空気を連れてくる。
アオの足が一瞬止まりかけたが、陸が肘で軽く促した。
「行け」
アオは頷き、クリアケースを胸に抱え直す。角には、くしゃっとしたティッシュが挟まったままだった。
火曜日の朝は、空気が薄いみたいだった。
七瀬アオは駅のホームで、スマホの画面を何度も見た。時刻表。乗る電車。乗り換え。指が冷えて、スクロールがうまくいかない。
「……九時半」
口に出すと、少しだけ現実になる。
改札を抜け、短大の正門が見えた。掲示板に「推薦入試 面接」と紙が貼ってある。矢印の先が本館。
アオは一度立ち止まり、鞄の持ち手を持ち直した。角に挟んだティッシュは、もう新しいものに替えてある。白がまぶしい。
玄関の床が光っていて、足音が響く。受付の前に、同じような制服の子が数人。小声で笑っている。
「緊張するよね」
「やばい、喋れるかな」
その言葉が、アオの胸に刺さる。喉がきゅっと狭くなる。
廊下の壁に「控室」の札。
アオは入って、空いている椅子に座った。背中を丸めないように、膝を揃える。ノートを開くふりをして、指先を動かす。
「整理します」
「結論だけ先に言います」
「水をいただいてもいいですか」
声に出すのは怖くて、唇だけ動かした。
隣の席の女子がちらりと見てきて、すぐ前を向いた。アオはノートの端を見つめた。
ポケットが震えた。スマホ。
『着いたか。呼吸。最初の一文だけ。終わったら連絡しろ。—桐生』
短い文。句点が少ない。いつもの感じ。
アオは画面を閉じる前に、もう一度だけ読み直した。
次に通知が一つ。
『ティッシュ忘れんなよ。—陸』
アオは親指で「了解」を打って、送信した。送信音がやけに大きく感じて、慌てて音量を確認する。
控室のドアが開いて、係員が顔を出した。
「七瀬アオさん、どうぞ」
心臓が跳ねた。椅子の脚が床を擦る音がして、周りの視線が一瞬集まる。
アオは頭を下げることも忘れそうになって、慌てて小さく会釈した。
廊下を歩く。係員の背中。曲がり角。階段。二階。
「こちらです」
面接室の前に、番号札。椅子が一つ。待機用。
「おかけになってお待ちください。準備ができましたらお呼びします」
アオは座った。背筋を伸ばす。膝に手を置く。手のひらが湿っている。
ドアの向こうから、かすかに声が聞こえる。誰かの面接が続いている。
「……本学で学びたい理由は……」
その断片だけで、胃が縮む。
アオは鞄の中を探り、ティッシュを一枚取り出した。ケースの角に挟み直す。することがあると、少しだけ持つ。
ドアが開いた。
「次の方、どうぞ」
アオの名前は呼ばれなかった。前の子が出てきて、目が赤い。小走りで去っていく。
アオは喉を鳴らした。
次に、またドアが開く。
「七瀬アオさん」
立つ。足の裏が床に貼りついたみたいに重い。歩き出すと、逆に軽すぎて、浮く。
ドアの前で止まる。ノックを二回。
コンコン。
「失礼します」
「どうぞ」
中に入る。長机の向こうに面接官が二人。名札が見えない距離。片方が眼鏡。片方が淡い色のネクタイ。
アオは椅子の前で止まり、深く頭を下げた。
「七瀬アオです。本日はよろしくお願いいたします」
声が揺れた気がして、すぐ喉が熱くなる。
「どうぞ、おかけください」
座る。椅子の脚が鳴る。鳴らさないようにしたのに鳴った。
眼鏡の面接官が、紙をめくる音をさせた。
「では、志望理由をお願いします」
アオの胸がきゅっと縮んだ。言葉が喉の手前で固まる。目の前が白っぽくなる。
——まただ。
中学のドア。ノブ。笑い声。
耳が遠くなる。
アオは指先を、ティッシュの挟んだ角にそっと押し当てた。柔らかさが返ってくる。
息。吸う。吐く。
「……結論だけ、先に言います」
声が出た。出た瞬間、次の言葉が怖くなる。
「実習先が多いからです。現場で、自分が続けられるか、確かめたいです」
眼鏡の面接官が頷いた。ネクタイの方がペンを動かす。
「続けられるか、というのは」
来た。昨日の練習の言葉。
アオの口が止まりかける。止まる前に言う。
「すみません、整理します」
一拍。二拍。面接官は待った。待ってくれたことが、逆に怖い。
アオは唇を開き直す。
「昔、学校に行けない時期がありました。でも今は欠席ゼロで通えています。提出も、遅れても次の日には出しています。だから、実習でも継続して行動できると思います」
言い切ると、喉の奥が痛い。けど、終わってない。
ネクタイの面接官が、少し身を乗り出した。
「欠席ゼロは立派ですね。では、保育の仕事に必要だと思う力は何ですか」
アオの頭の中で、言葉が散らばる。拾う順番が分からない。
「……」
沈黙が落ちる。秒針の音が聞こえそうだった。
アオは椅子の座面に、足の指を押しつけた。床の感触を確かめる。
「……一度、水をいただいてもいいですか」
ネクタイの面接官が驚いたように瞬いて、すぐ頷いた。
「どうぞ」
紙コップの水が差し出される。アオは両手で受け取って、一口だけ飲んだ。飲みすぎると咳きそうだった。
「ありがとうございます」
コップを置くと、手の震えが少しだけ収まった。
「必要な力は……観察だと思います」
言葉が出た。続ける。
「相手が言葉にできない状態でも、表情とか、手の動きとかで、いつもと違うのが分かる。……それを、放置しない」
眼鏡の面接官がペンを止めた。
「具体的な経験はありますか」
アオの胸がまた縮む。けど、枠がある。状況/自分の行動/結果。
「中学二年の冬、部活の後輩が……笑っているのに手が震えていました。三日、帰りに声をかけて、顧問に繋ぎました。……一週間後に、部活に復帰しました」
言い切った瞬間、面接官が同時に頷いた。ペンが動く音がする。
アオの背中に汗が流れる。冷たい。
眼鏡の面接官が次の紙をめくった。
「最後に。もし本学が不合格だった場合、どうしますか」
言葉が刺さった。頭の中が真っ白になりかける。
不合格。落ちる。母の顔。あの帰り道。
アオの視線が机の端に落ちる。木目。線。そこをなぞるようにして、息を吸う。
静が言っていた。「現実を突っ込まれる」。
陸が言っていた。「沈黙よりマシ」。
アオは顔を上げた。面接官の目じゃなくて、眉間のあたりを見る。
「結論だけ、先に言います」
声が少し震えた。でも止まらない。
「就職も含めて、保育に関わる道を探します。アルバイトで現場を経験しながら、次の受験も考えます」
ネクタイの面接官が眉を上げた。
「就職、というと」
アオの喉が鳴る。ここで詰まると、全部崩れる。
「保育補助や、学童の補助員などです。……続けられる環境を選んで、資格が必要なら取り直します」
言った。最後まで言った。
眼鏡の面接官が、少しだけ口元を緩めた。
「分かりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
アオは立ち上がり、頭を下げた。椅子の音がまた鳴った。鳴ったけど、倒れなかった。
ドアの前で、もう一度。
「失礼します」
廊下に出た瞬間、足が震えた。膝が笑う。壁に手をつきそうになって、やめた。ついたら戻れない気がした。
階段を降りる。玄関を出る。冷たい風が頬に当たる。
門を出たところで、スマホが震えた。通知じゃない。電話。
画面には「学校」と出ている。
アオは一瞬、指が固まった。心臓がまた跳ねる。
出るか、出ないか。
ポケットの中で、もう一度震えた。
今度はメッセージ。
『鍵監査でバタついてる。終わったら短くでいい、結果はまだでも状況だけ送れ。—桐生』
その文の「バタついてる」が、今日の学校の空気を連れてくる。
アオは通話の画面を見つめたまま、深く息を吐いた。
そして、指を滑らせた。
「……はい。七瀬です」
声はまだ揺れていた。でも、切れなかった。
0
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